ノアの箱船

 遥か上空の雲の上、この世をお作りになった神様は今日も下界を映し出す泉のほとりで人間たちの様子を見ていました。ここ最近、とは言っても神様の「最近」は私たち人間にとっては何十年もの年月になってしまうのですが、神様にとっては100年も200年もたいした時間には感じないのです。最近の人間の様子を見て思わずため息ばかりついていました。

 「人間は、私が作った動物たちの中で最も賢く器用な動物になった。しかし、ここ最近の人間たちの様子には目に余るものがある…」

その時、おやつの時間なのでしょう、背中に大きな翼、白い衣、頭に輪をのせた天使がお茶とお菓子をもってやってきました。

 「どうしたんですか神様、浮かない顔をして?」

 「おお、ご苦労。ちょっとな…」

 「ははあ、下界の人間たちの様子を見ていたんですね。また何か悲しいことでもあったんですか?」

神様はお茶を一口すすってから

 「そうなんだよ、このところは特にひどい。大きな戦争を2度も体験しておきながらも、まだ世界のあちらこちらでは戦いが続いている。やっかいなのは、科学が進歩したおかげで核兵器とか毒ガスとかを使うようになった。戦いには使っていないが、核実験も頻繁に行われている…、これでは地質や大気ですらも安全とは言えない…」

 「でも脾肉なことですが、戦争のおかげで人間たちは科学や技術を発展させることができたんですからね。そのおかげで便利になっていることもたくさんありますよ。」

 神様は渋い顔をして頬杖をついて黙り込んだ。戦争と言う特殊な状態に限らず、人間たちの社会そのものが歪んでしまったような、そんな不安が頭から離れないのである。

 確かに科学技術は目覚しい発展を遂げ、今までできなかったことや想像すらもできなかったようなことが現実に起こるようになってきた。しかしそれは、数々の悪影響も齎したし、第一「何でもできること」が果たしていいことなのかと言うとそれもはなはだ疑問である。大量に吐き出される煙や廃水、大量に生産されてもすぐにゴミとして捨てられる、これらが自然を破壊し、生態系や自分たちの住む環境ですらも脅かされている。

 「それは…」天使に向かって神様は口を開いた

 「やはりお金のことばかりに目が行っていることが根底にあるのか…」

天使は少し上目遣いに考えてから

 「一概にそれだけとは思いませんが、大きな原因でしょうね。今の世の中、極端な話お金がなければ生きることはもちろん、過程や趣味や遊びや心の豊かさなんかも左右されますしね。悪いことに、経済状態もあまりよくないようで、霊界に来る死者に40~50歳の人間が多くなってきたんですよ。理由は会社の経営なんでつぶれたりクビになってしまって、それで自分の居場所みたいなものがなくなって自分から命を落としてしまうらしいのですよ…」

 「ふむ」

 「おそらく、その他に糧になるようなものがないんですよ。なんだか、この間聞いた話によりますと、ただ仕事だけして生活したり、同じ毎日の繰り返しに息苦しさを感じたらしく「癒し」とか「自分探し」とか「域外」なんかに拘る傾向にあるみたいで、けっこう流行っているらしいんですよ。なんだか淋しいですね…」

 「そうなのか…」

神様は最後の一口を飲み終え、再び沈黙に入った。泉の下に写る人間たちの営み。一人一人は存在しているのだが、多様化した価値観や思想を抱き、一見たくさんの人間がぎゅうぎゅうに押し固められているようだが、その一人一人の間に存在する壁は分厚くて固い。

 「心が…心が凝り固まってしまったと言うか貧しくなったと言うか、一点しか見えなくなってしまったように思える。だから…」

 「まあまあ…」神様の言葉を遮って天使が口を挟んだ

 「すみません、でも人間たちはそんなに悪い人ばかりが社会を動かしているわけではないですよ。ちゃんと平和とか幸せの追求に、前向きに取り組んでいる者だってちゃんといます。悪いことばかりに目がいっていると、見落としてしまいますよ。」

 「分ってる。ただな、その「平和」とか「幸せ」の追求の仕方が個々それぞれ違うのだから、うまくかみ合わずに不具合が生じているのではないか。悪い者が一握りなら良い者も一握りだ、そのどちらにも着かずにどちらへも流れていく宙ぶらりんな人間が多いのだ…。」

 再び静かな時間が訪れた。今回はいつもよりもずっと長く長く、そして目をつぶったまま額にしわを寄せて悩んでいる神様を微動兌にせず天使はじっと眺めていた。

 「よし」突然神様はスックと立ち上がる。

 「ノアの箱船を出そう」

天使は大きく目を開けて、早口に聞き返した。

 「え…箱船を出すんですか?!じゃあ、人間界に大洪水を起こして全てを流し尽くしてしまうのですか?!」

ノアの箱船とは、何千種類もの動物や植物を、そして人間も乗せて、大洪水を起こす。水は世界のあらゆる建築物はもちろんのこと、文化や歴史までも飲み込み流してしまう。生き残った動植物は、そこからまた何千年もかけて新たな文明を築き上げて、新しい世界を作り出すための方法である。

 「ほんの一握りの優秀な人間たちを乗せて、後はこの水甕の水お白色上皮下界に流し込めばいい。大量の水は雨となって地上に落ちる、その水が世界の終わりを導き、そして始まりを齎してくれる。」

 「で、でも…そこまでしなくても。第一もう人間たちは後戻りできません、また文明を生み出すのは無理です。」

 「もしそうなったら、そこまでだったんだよ。このままにしても自ら滅び行く運命なのかもしれない…」

 とその時、この話をずっと聞いていた真っ黒いコウモリがパタパタと飛んでました。このコウモリは悪魔の化身です。

 「いやいや、そんな神様が手をお下しになることはないですよ。人間たちはそんなに愚かではありません、ちゃんと自分たちの手でノアの箱船は用意してますよ。どんなことがあっても、必ず生き残りますよ。

 「ただね」コウモリは2人を見ながらニヤリと不気味な顔をして

 「その箱船に、神様が望むような人間が乗っているとは限りませんけどね。

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