究極のメニュー

 ある大きな会社の経営者がいた。この不況にも関わらず経営は順調、今年春にははれて念願であった東証1部上場企業への仲間入りを果たしたほどの実力を持ち、この業界では名前を知らない者はいないほどの大企業である。

 現在の経営者は3代目、現会長である親父の後をついで企業の発展に全ての情熱と努力を傾けて今日までやってきた。妻子はいるが、専ら仕事一筋できたため、家庭のことは完全に無関心である。それどころか、仕事に関する経済・経営のこと以外は無関心…何も知らない・できないと言ったほうが正しいだろう。

しかし、そんな仕事バカのこの経営者にも唯一の趣味と言うか楽しみがあった。それは、こと食べ物については拘りを持っており、いつでも「美味」なる食材や料理を求めて、様々なものを口にしてきた。物心ついたときからの楽しみで、舌は大変肥えており、するどい味覚の持ち主であった。

 大企業の経営者であるため、金には不自由しない。世界中から最高の腕を持つ料理人を招いたり、貴重な食材を手に入れたり、珍しい料理も情報を得てはすぐさま手に入れたものである。だが、特に最近どうもこの男が納得するような料理に出会えない。男の美味への欲求は日ごとに高まるばかりで、精神的にも荒れてくるほどのストレスとなってくるのである。

 「…そういうことで、私はおいしいものには目がなくて…ただおいしいだけじゃもうだめなんです、いろいろと食べ尽くしてきましたからなぁ」

男はある店で酒を飲みながら、知り合ったばかりの友人と会話をしていた。ある株主会議で、男が親しくしている友人から紹介された老人で、話してみるとなかなか気の合う人手、以後はプライベートでも飲み仲間として付き合っている。この友人もある企業の代表取締役で、男よりも10歳ほど年上で、胡麻塩頭と太い黒ぶちの遠近両用めがねが印象的な男である。

 「そうですか、なかなか食べ物についてはうるさいと見える。食べ尽くしたと言いましたが…」

 「ええ、和食なら会席料理・郷土料理・精進料理・琉球料理、洋食ならフランス・イタリア・ドイツ・スペイン、中華なら北京・嵌頓・上海・四川、…エスニックなんかも食べているし昆虫や爬虫類といった普段食べないような食材を使った料理も食べてますな。そうそう、中国に行ったときに万漢全席なんてのも食べました、ありゃあすごかったですぞ」

男は少々自慢下に、しかも興奮気味に言葉を並べた。

 「もちろん今挙げたのはほんの一部分。他にも何か情報を見つけてはありとあらゆるところへ出かけては食してます。日本でも中華料理・フランス料理の類を出す店は星の数ほどありますが、やはり現地でないと…雲泥の差ですよ。食は文化です、その土地土地の気候・風土が生み出したものですからね、そうじゃないと『本当の味』には出会えませんよ。」

 「ほほお、それはすごい!それならもうさぞご満足されたことでしょうな。」

友人の言葉に男は苦笑混じりに行った。

 「いやいや、人間の欲求とは尽きることはありません。特に最近、『美味』に対しての欲求がますます強くなりましてな。それと言うのも、どうもおいしいものに巡り合える機会がなくなっている。感動できるような料理に出会えなくてですな。」

 「それだけお食べになってもまだ…。でも、そんなにたいそうな物でなくても、ほらこの鯛の兜焼だっておいしいじゃないですか、よく脂が乗っててとろりとしてる」

と友人は満足げに一口放りこんだ。

 「ふむ…たしかに悪くはないですがね、心が震えるような感動するものが欲しいんですよ。名高い料理や物珍しい食材を口にしたときは、今まで出会ったことない味に満足していたんですがね…」

男は箸を置き、ジョッキの生ビールをぐいと飲んだ。

「告ぎ方がよくないなあ…泡が立ちすぎている…」

細かいことを言わなければ、たしかに酒も料理もうまいのである。でも、ただ「うまい」だけではもう満足できないくらい欲深くなっている自分がいた、もしかしたらもうこれは「美味への追求」ではなく単なる我侭なのではないだろうか…。

 「…もしかしたら、もう私は本当にこの世のうまいものは食べ尽くしてしまったのかな…。それはそれで最高の幸せではあるが、ちと淋しいですなぁ…」

 「いやいや、そんなことはありませんよ」

友人はちょっといたずらっぽい、何かたくらんでいるような少年のような笑みを浮かべながら言った。

 「実はですね、私もおいしい物には目がない性質でしてね…、この間地元で非常にうまい食材を見つけたんですよ。おそらくあなたも口にしたことはないはずですよ」

それを聞いて男はハハハと笑った。

 「いや失礼、地元とは日本ですよね。先ほども言いましたように私は日本国内の有名な料理、その地方に伝わる珍しい料理なんかもすでに食べております。どんな物かは存じませんが、今更…」

今度は友人のほうがハハハと笑った。

 「いやいや、あなたが言っているのはある程度名が知れ渡っているものでしょう。『灯台下暗し』という言葉もあるように、案外と見落としている部分は多いと思います。私の今言ったものは、きっとあなたは絶対に食べたことないでしょうし、しかも感動すること間違いない、そんな美味なる料理ですよ。」

内心聞き流そうと思ったが、あまりにも自信ありげに、そして余裕たっぷりに言うものだから、ただでさえ食に興味がある男の感心は一層強くなった。

 「もしよろしければ、是非あなたにも食べていただきたい。ご馳走しますよ。」

 「ううん、あなたがそこまで言うのならば是非食べてみたいですな、『百聞は一見にしかず』とも言いますからな。で、それはなんと言う料理なんですか?」

 「それは言えませんな、私の実家にあるので是非お出でください。」

 「ははん、来てからのお楽しみと言うわけですな。もちろん行きますよ、うまいもののためならどこへでも行きますよ。」

 「そうですか、それじゃあ今度の休みの日なんかはどうですか、ご都合は?」

 「けっこうです、こちらとしても早く食べたいですからな。」

友人は何やら手帳の切れ端にペンを走らせ、男に手渡した。

 「簡単ではありますが、私の家の地図を書きました。私は実家で待っていますので、是非お出でください。」

男はその紙切れを受け取り、ちらとそれを見た。

 「ふむ、けっこう遠そうですな、山の中みたいだし…。」

 「田舎なんですよ、緑豊かで空気もうまいんですが、どうもね遠いのが難点でして…。あ、電車でお出でくださいね、山道は車が通れないので。」

 「ええ、せっかくのきれいな空気を排気ガスで汚すなんてことはしたくないですしな」

 それから2人は別れ、男は期待とちょっとした疑惑を抱きながら今度の日曜日を楽しみに待った。改めて地図を眺めてみると、最寄駅からけっこう遠そうである、ちょっと不安になった。

 「こりゃあ、朝早く出かけにゃならんな…。ま、仕方ないか」

男もけっこうな年齢である、あまり運動もせずに年がら年中机の上で書類を眺めているので、体力に自信があるわけでもない。しかし「今までに食べたことない物」・「美味」という言葉が、彼にやる気を与えているのである。

 当日、東の空が白み始めた頃に起きだして、朝一番の電車に乗る。電車に揺られること数時間、何度乗り返したかは分らないが、お昼を少し過ぎたあたりでやっとこさ最寄駅に到着した。普段は車手の移動が当たり前になっているので、ここまででもヘトヘトの状態であった。そうとうな田舎だとは聞いていたが、下車してあぜんとするくらい何もない。店どころか、駅長室の駅員を覗けば人っ子一人いない無人駅である。

 「こんなところに、そんな素晴らしいものがあるのだろうか…」

一瞬不安が過ぎる。

 「いやいや、こういう一見何もないようなところに、実は素晴らしい食べ物とはあるものだ」

と気を取り直し、地図を頼りに歩き始めた。歩いている途中、どんな物だろうといろいろな想像を巡らしていた。「この地方に伝わる古くからの郷土料理かな、それとも水がきれいそうだから川魚とかを食べさせて…。いやいや、山ばかりだからここにしかない山菜とかを食わせてくれるのかな…」

男の想像は膨らむばかり。しかし、この渡された地図はそうとう簡略化されており、男の予想では1時間も歩けば着くとふんでいたのだが、駅前を離れ舗装されたアスファルト道路から山道に差し掛かってしばらく歩くのだが、一向に着く気配がない。それどころか、どんどん山奥に入っていくようだった。

 男の頭には、楽しい想像よりも不安が芽生え始めてきていた。もともと歩きなれていないので疲れはたまる一方、9月だというのに太陽の日差しは強く、体中からポタポタと汗が雫となって吹き出し、男のシャツやズボンに染み込んでいった。

 「本当にこの道でいいのか?」

何度も地図を見るが、一本道で途中に分かれ道もない。間違いはないのだが、いつまでたってもその友人の実家とやらは見えてこない。戻りたくとも今から引き返しても時間がかかるし、何のために来たのか分らない。たまに木々の間を吹きぬける風が何よりも気持ちよかった、それが唯一の助けになった。

 暑さで頭がボーっとする、膝や足の裏が痛い…、ここはどこなんだ…。吐く息も荒く、気力体力共に限界にきていた。日も沈み始め、徐々に西の空が沈み暗さが増していくと、だんだん怖くなってきた。…その時、ふいに小さな灯りと一筋の煙が目に入った。

 「あれか…?」

男がそれらを目指して近づいていくと、だんだんと確信に変わっていった。街がいない、あれは家だ、そしてあれが目指すべき家なんだ。ほっと安心し、徐々に近づいて行った。今時珍しい木造平屋建ての古い家、表札もかかっていない。普通なら「空家」だと思ってしまうところだが、ただひとつ窓の隙間から上る煙が、人がいるという何よりの証拠である。

 「こんにちは」

男が戸を少し開け、その隙間から頭を突き出して呼びかけると「はい」という聞き覚えのある変時が返ってきた。目の前に現れたのは、例の友人である。

 「遠路はるばるご苦労様でした、お疲れでしょう、どうぞご遠慮なくお入りください。」

 男が軽く会釈し、家に上がりこむと、友人は男の心中を察したように

 「例の料理ももちろん用意してあります。もうすぐできますので、どうぞ座って待っていてください。」

 そうそう、この料理のためにはるばるこんな田舎まで、しかも山道を何時間も歩いてきたのである。はげかかった畳に薄い座布団、粗末なちゃぶ台の前に座り、今か今かと待ちわびていた。先ほどまでの不安は一気に吹き飛び、今は料理のことで再び期待を膨らませていた。

 「お待ちどうさま」

友人が部屋に入るなり、パッと笑顔を浮かべながら首を上げた。

 「どうぞ、お召し上がりください」

男は面食らった…というよりも目を疑った。友人が盆に載せて差し出したのは、塩ものりもない握り飯とグラスに入った水だった。

 「これが…」

 「どうぞお食べください」

バカにされているのかとちょっと狐につままれたような気持ちで、手にとったおにぎりを一口食べてみた。口に含むと、なんとも言えない安堵感と幸福感があって、夢中になって食べた。中継ぎに飲んだ水も絶品である。夢中になってほおばる様子を友人はにこにこと眺めていた。握り飯と水を全て食べ終えてから

 「いや、素晴らしいですな。確かにあなたのおっしゃるように今までに味わったことのない握り飯と水だ、うまい、うまいですなぁ。この米と水はなんですか、是非教えていただきたいのですが…」

 「米は知人から送ってもらったもので、農薬や除草剤を一切使っておりません。刈り入れ後も機会は使わずに手作業でやっているらしいですよ。水は、この家の井戸から組みました。この山の地下水でしょうね。」

 「はあ…」と男は不満だった。そんなものならば、とっくの昔に男だって口にしている食材である。

 「じゃ、じゃあ作り方に何か秘密があるんじゃないんですか?」

 「そうですね、水はこの井戸の水を使いました。後は御釜を使って焚き火で炊き上げました。炊き上がった後も注意深く蒸らして、よけいな水分がつかないようにしました。」

 「はあ…」それでも納得ができない、そんな作り方は男にとっては何の珍しさもない。

 「あなたは何か隠してますね、そのような材料や作り方なら私も以前食べたことがある。でもこれらの握り飯や水は、そのとき食べたときとは雲泥の佐だ。それだけでこんなにおいしいわけがない、きっと他に何かあるはずだ…」

男の問いかけに友人は黙ったまま満足げににこにこしている。その時、ガタンガタンという音が家の裏から聞こえた。男ははっとして部屋を飛び出し、家の裏手の窓をガラリと開けると、そこに小さく男が始めにたどり着いた駅が見えた。

 「なんだ、駅からけっこう近いじゃないですか。ひどいですね、あんな遠回りさせて…。私がどれだけつらい思をしたと思っているんですか」

男が憤慨すると

 「種あかししましょうか」

とにこにこ顔で話し始めた。

 「あなたは経営者の息子ですよね」

 「ああ」それが何の関係があるのだとちと無愛想な返事をした。

 「ならば、幼い頃から食べ物…、食べることそのものに困ったことは…」

 「ないですね」

 「そうでしょう、そうでしょう」

友人はハハハと笑いながら、なおも続けた。

 「私が生まれてからまもなく、日本は太平洋戦争に突入しました。父の安否もわからず、母や兄・姉と命からがら逃げ出してきたので、何一つ財産も持たずにきました。幼い頃の記憶ですが、はっきりと覚えています。」

 「ふむ」

 「いつもひもじい思いをしましてね、食べるものと言ったらイモだの高粱だの稗だの…米なんかは配給でやっと一人に茶碗一杯食べられるくらいだった。もちろん、何も食べずにいたときもありましたよ。」

男は彼が言わんとしていることが薄々分かり始めてきた。

 「戦争が終わってもすぐに豊になったわけではありませんからね。…でもね、いつも青臭いものばかりたべているとね、たまに配給される米で炊いたごはんだとか、粗末な粉で作った水団なんかもご馳走だった…。生まれて初めて干し柿を食べたとき、こんなに甘いものがこの世にあるのかと感動しましたよ、ごらんのとおりこんな田舎ですから砂糖なんてものもなかなか入ってきやしませんからね。」

 「…そうですな」

 「あなたは生まれたときから食べることに不自由するような環境ではなかったし、そこそこいい物もお食べになっていたのでしょう。時間がくれば、もしくはちょっと原がすけばすぐに食べるものが手に入る。だから、食べられて当たり前だし、『さらにうまいもの』と選ぶこともできた。どうですか、この炎天下の中で数時間とはいえさんざん山道を歩かされてひもじい思いをしたことなんて、もしかしたら生まれてからなかったんじゃないですか?」

 男は苦笑した。この飽食の時代、食べられて当たり前だし自分の好みに合わせて選ぶことができるようになっていることもしごく自然なことである。それ自体は何も悪くはない、日本が豊かな証拠である。だが、ある意味において「舌が肥える」というのは、味覚が鈍感になってしまったことなのかもしれない。新鮮だとか貴重だとか、そんなブランドばかりに目がいってしまい、本来なら食べることそのものに「喜び」が見出せていたはずなのに、近頃のグルメブームも手伝ってだんだんと思考をこらしたものばかりに目がいってしまうようになってしまっていた。

 「絶対的なおいしさなんて存在しないんですよ。だって、うますぎる料理はいつか必ずあきがきます。それよりも、食べる人の気持ちとか状況とか、その相手の気持ちになって作ってくれたものというのが、その人にとっての究極のメニューなんですよ。…ほんとに曲論的な例えですが、砂漠に放り投げられてしまったのなら、たとえ水道の水でもおいしく感じるものなのかもしれませんよ…」

 友人はハハハと笑った。

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