第1話 古城の相続人達
4数時間半のフライトの後、車に揺られる事3時間。
ヒースの原野に立っている。
目の前にそびえる古城の主は既に亡い。
一ヶ月前に死んだ伯父の遺言に従い、俺は12年振りにこの地を訪れた。
5年前に病死した母は生前、伯父を毛嫌いしていた。4つの頃に俺を連れてこの城を訪れて以来、一切の連絡を取らずにいたようだ。
文筆家の父はその理由を知らないようだったが、俺が招待を受ける事に関しては特に反対しなかった。
遺産相続で城を貰えるんじゃねえの? という俺の軽口に、城主になれたら一部屋分けてくれ。羊でも飼って余生を過ごしたいと、原稿用紙から目を上げぬまま、冗談とも本気とも付かない口調で返した。城に篭ってみても、締め切りは待ってくれないと思う。
「キタねこれは。ナイト、出るよ妖精出そうだよ!」
同行者で幼なじみの
時差ボケと乗り物酔いで、寸前まで車中でタオルを顔に掛け、死人の様にぐったりしていたのが嘘のようだ。
父に師事するこの物書き志望の眼鏡のちび助は、確かに妖精譚が大好きで、常日頃感想を求められる習作も、妖精の王女だの白馬の騎士だのが登場する甘ったるい物ばかりだ。フェアリーテイルの本場を訪れ、興奮しない訳が無い。
同行を申し出たのはまったく物好きな事だと思うが、9600kmの道程は、こんな切欠がなければなかなか踏み出せない物だという事も理解できる。
もっとも、江間絵の事を笑う事は出来ない。俺自身、北アイルランドの片田舎まで足を運んだ理由は、ひどく子供じみた感傷的な物だからだ。
お伽噺めいた幼少の頃の記憶。
城に囚われた姫君との約束。
――いや……それが幻視だったという事の確認のため――か。
軽く頭を振って思考を現実に引き戻す。
「はしゃぐのも良いが、まだ部屋を用意して貰えるか分からないんだぞ?」
俺と母を名指しで呼びつける、そっけない文面と、2枚の片道航空券。伯父もしくはその代理人が母の死を知らずにいた故の手配で、本来江間絵が使用する事は想定されていない。咎められこそすれ、歓迎される事は無いように思う。
「無問題。女子を寒空の下放り出すほど、この国の騎士道精神は廃れてないよ!」
デジカメで景色を押さえる幼なじみには、危機感の欠片も見当たらない。
「もしそんな事になっても、ナイトはベッドを譲ってくれるよね?」
似合わぬしなを作って振り返る江間絵に苦笑してみせる。招かれざる客の扱いと騎士道精神の間には何の関連性もない。それに、俺の名前は騎士じゃない。
「ナイトゆーな。俺の名はタカフミだ」
貴史を音読みでキシ。故にナイト。物書き志望の厨二病患者らしい言葉遊びだが、呼ばれるこちらまで同類と思われるのは頂けない。痛い通り名を自称しないのは、自覚があるからに違いないのだが、そのネーミングセンスを他者にのみ発揮するというのは、ずいぶん身勝手なアン・シャーリー振りだ。
けたたましいクラクションの音に、ファインダーを覗きながらくるくると踊る江間絵を引き寄せる。
くたびれた黒塗りの車が一台、城から村へと続く道を遠ざかって行った。
「……痛いよ」
はしゃぎすぎての醜態を恥じてか、顔を赤らめた江間絵が呟く。
落ち着きを取り戻した幼なじみと共に城門へと辿り着くと、見送りなのか出迎えなのか。開かれたままの古めかしい門扉の前に立つ、喪服姿の女性が目に入った。
「あなたが貴史君と、
黒い面紗の奥から訝しげな視線が投げかけられる。
簡単に事情を説明すると、
「そう。構わないわ。同行者がいるのは、あなただけじゃないからね」
興味無さ気に軽く頷き、踵を返した。
どうやら幼なじみの滞在は認められたらしい。門を潜る俺たちに対し、背中越しに言葉を重ねる。
「扉は自分で閉めていらっしゃい。さっき出て行ったのが、最後の使用人だったから」
江間絵の顔に不安の影が過ぎる。
無駄に怖がらせる事もない。抱いた同じ感情を表に出さぬまま、俺は重い門扉を自らの手で閉ざした。
§
喪服の女性は母の妹の
母とは一回り以上歳が離れていたはずだから、まだ30手前か。
彼女に案内され城内を歩く。
豪奢なシャンデリアや、年代ものらしい甲冑に、江間絵が感嘆の声を漏らす。
趣味は悪くないが、有り余る金の使い道は、国が変わろうがどこも同じ様なものだなとも思ってしまう。
骨の髄まで庶民的な俺が気になったのは、踝まで沈み込みそうなふかふかの絨毯の方だった。
本当に靴脱がなくても良いのか?
美耶子さんには、まだよちよち歩きの頃に遊んで貰った、おぼろげな記憶があるが、久方振りすぎてどう接すれば良いのかよく解らない。「叔母さん」というのも失礼な気がしたから――
「美耶子さんは、伯父さんの葬儀には出席したんですか?」
「兄さんの葬儀は執り行っていないわ。弁護士を通して法的な死を確定させている最中」
素っ気なくも、理解不能な返答が帰ってきた。
伯父である
「――遺体が確認されていないからね」
ちらりと。面紗越しの一瞥とともに、叔母は俺の疑念に返答をくれた。
「……なんだかミステリめいてきたね?」
楽しみなんだか不安なんだか、多分両方なんだろう。幼なじみは声を潜めて囁く。
通された応接室には、強いアルコールの匂いが漂っていた。
匂いの主は、革張りのソファーに身を沈め、磨き上げられたテーブルの上に泥靴を乗せていた。
「美耶子、そいつが最後の一人か?」
どろりと濁った視線が向けられる。
「遅かったじゃねえか。来ないなら来ないで良かったんだがな、俺は」
長く伸ばした髪に、無精髭。胸元を大きくはだけた、だらしないシャツの着こなし。世間的には美丈夫と称される容姿の青年だろうが、退廃と自堕落を体現する造形に俺は、強い嫌悪感を抱いた。
「テーブルから足を下ろしなさい。あなたの振る舞いのおかげで、今ここには一人の使用人もいないのよ!?」
「『あなたの』? 『私達の』の、間違いだろう?」
不快感を隠そうともしない美耶子さんの言葉に、酔漢は手にしたアイリッシュ・ウィスキーのボトルを煽り、くかかと馬鹿にしたように笑って見せた。
「それに、どうせ俺が新しい主になるんだ。使用人ぐらい、腐るほど掻き集めてやんよ」
美耶子さんの言葉を受けてではないだろうが、男はテーブルから足を下ろし、立ち上がる。
「お前が絹枝の息子か?」
結構上背がある。頭上から投げられる不躾な視線は俺を一瞥した後、俺の後ろで縮こまる江間絵にべったりと絡みつく。
「
幼馴染を視線から遮る形で一歩踏み出した俺の応えと問いに、男は馬鹿にしたような笑みを漏らした。
「
乱暴に閉められた扉の音に、江間絵がさらに身を竦める。
「下衆が……」
面紗越しでも解る強い視線と共に、美耶子さんが吐き捨てる。
呟くように続けた言葉は、「殺してやる」だったか、「死ねば良いのに」だったのか。
桐月に不快感を抱いた俺でさえ寒気を覚えるような。深い泥の様な悪意を込めたその言葉を、聞き取れなかったのは幸いだったのかもしれない。
§
白いクロスの敷かれた20人掛けのテーブルに、俺たち3人だけ着いている。
美耶子さんの振る舞いで、夕食を摂る事になった。
テーブルに並ぶのは、ソーダブレッドにブラックプディング。そして、懐かしくもこの場にそぐわない醤油の香りは――
「肉じゃが?」
「アイリッシュシチューよ」
醤油風味の。大真面目な表情で、そう付け足す美耶子さんだったが、使われている肉が羊である事以外、どう見ても肉じゃがだ。当主が日本人だったから、日本の調味料がストックされていたらしい。
「やっぱり、おばさんに似てるね」
「……そうか?」
面紗を外した美耶子さんを目にし、幼なじみが耳打ちする。
目鼻立ちは似ているのかもしれない。だが、実の兄を失ったからか。何かが抜け落ちたような空虚な表情と、そこに何かが嵌り込んでしまったかのような、時折見せる熱病めいた眼の光。俺にはそれが気に掛かって仕方ない。
夕食を用意して貰っておいてなんだが、美耶子さんはどこか上の空で、至極盛り上がりに欠ける食卓だった。江間絵は土地のフォークロアの類を聞き出せないかと水を向けていたが、残念ながら俺たちと入れ違いに城を出た執事が、その手の話に最も詳しい人物だったらしい。
数年ぶりに会った親族と、当たり障りの無い世間話を続けられるほど、俺たちは世知に恵まれていない。必然的に、俺たちがここに来る事になった手紙と、この場にいない不愉快なもう一人が話題の種になる。
「実のところ、呼び寄せられたのは私達3人だけじゃなかったの」
美耶子さんが煎れてくれた紅茶を飲みながら、耳を傾ける。織機の手紙を受け取った者は十数人はいたはずらしいのだが、父さんのように真面目に取り合わなかった者が半分、残りの半分はこの城に来たものの、全ての権利を放棄して既に帰ってしまったらしい。
「最初に来ていた、あの男がそう仕向けたのよ」
桐月・エドガー・饗夜。荒造伯父の兄の息子。俺にとっては従兄弟に当たる存在らしい。名前を聞くのも初めてだったが、それは幸いな事なのだろう。フィクサーを自称し、怪しい筋とも深い付き合いのある胡乱な男だという。実際、勘当された身のはずなのに、父親の死後他の兄弟を押しのけて家督を継ぎ、胡散臭い取り巻きを引き連れて、この城に乗り込んできたらしい。
「ただでさえ謎めいた話なのに、あんな厄介な男の仕切りで遺言がまともに執行されると思えて?」
長年勤めていた使用人ですら皆暇を取り逃げ出すくらいだ。何があったかは想像が付く。念の入ったことにただ追い払うのではなく、招待者にも使用人にも、城を去る者には少なくない金を握らせたのだそうだ。
「美耶子さんは何故残ったんです?」
それは赤裸々な殺意――
何気ない俺の問いに返された、叔母の強い視線に込められた物に、思わず身を竦ませる。
「あの子を置いて行ける訳ないじゃない」
呪詛の如く磨り潰された言葉に、総毛立つのを禁じ得ない。俺だけの思い過ごしではない証拠に、隣でカップを取り落とした江間絵が、慌ててハンカチでテーブルクロスを拭っていた。
「……あの子?」
叔母は恐縮する江間絵を座らせ、テーブルの片付けを始めた。その表情は空虚なそれに戻っている。
先ほどの強い感情が、桐月だけに向けられた物ではないように感じて。
その意味を問いただす勇気もないまま、俺はその作業の間中、ただ椅子の背に縫い付けられでもしたように動けずにいた。
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