第5話 髪長姫のお茶会
朝から桐月達の姿がない。出掛けているようだ。
美耶子さんの姿も無い。朝食の用意をしてくれているが、昨夜の狂態を目にした後では、それを口にするのはどうにも躊躇われた。
買い置きの食材を使い、自分たちで簡単な朝食を済ませる。江間絵には車を呼んで空港に向かい、国に帰るよう促したが、あいまいな応えしか返さない。直ぐに帰国すべき事は頭では理解していても、やはり俺と同じで、屍織姫を見捨てて帰ることに葛藤があるのだろう。
城の中をぐるりと廻ってみても、誰もいないことを改めて確認するだけの結果に終わる。昨夜桐月が口にした通り、今日一日は姫との面会を邪魔する者はいないようだ。
ランタン型の電燈を手に地下へと潜って行く。昨日江間絵を抱えて登った時より、さらに足取りを重く感じる。ぐずぐずと先延ばしにしていたのは、姫と対面するのに気が引けたからだ。
嬲られ傷付けられた身体と、へし折られた指を目にするのも。
昨晩の狂宴の痕を、何一つ残さぬ淑やかな姿を目にするのも。
どちらを目にする事になるのも怖かった。
不死の話が真実であろうと無かろうと、俺の罪悪感は拭えない。どう取り繕ってみても、あの時俺は逃げ出したんだ。子供だから仕方が無い。決められているから已むを得ない。彼女自身が云うのだから、止める理由が見当たらない。
見苦しい。まったくもってみっともない。
解ってる。全部言い訳だ。
子供なりに出来る事もあるはずだ。ルールの中でも抜け道はあるはずだ。彼女自身が肯定しようが、こんな仕打ちは許されないはずだ。
意を決し、俺は目の前の重い扉を押し開けた。
「おうおう、きたか」
思いも掛けぬ軽い出迎えに、俺はすっかり拍子抜けしてしまった。
部屋の中央に置かれた椅子に、にこにこと笑みを浮かべた屍織姫が一人腰掛けていた。
優美なドレスを身に纏い、丁寧に梳られた銀髪は床中を流れ、複雑な螺旋模様を描いている。
手持ち無沙汰でその一房を弄っていた右手指が、折れたはずの中指を含め、どれもハープでも奏でるかのように繊細に動いているのを目にし、俺は整理しきれない複雑な思いを抱いた。
「その……大丈夫なんだな」
「なんじゃ、そのヒキガエルでも飲み込んだ様な顔は。わらわの身体の事はもう聞いておろう?」
はよう座れと、ソファを勧められる。幼なじみと並んで腰掛けるのを、嬉しそうに眺めている。
「そなたとは以前会ったな。覚えておる。ずいぶん大きくなったな」
そんな姫の様子は、盆暮れにしか会えない孫を愛おしむ祖母のようで。どうにも調子が狂ってしまう。
「探検ごっこのつもりじゃったのかのう。こんな所まで一人で迷い込んでしまって、びーびー泣いておった。あやすのに苦労したぞ」
そうだ。あの時の母と伯父との面会は、あまり愉快な内容ではなさそうだと、子供心にも勘付いていた。今になって思えば、姫の扱いについての糾弾だったのかもしれない。使用人は大勢いたが、子供のいない荒造伯父の住まいに子守り役がいるはずもなく。退屈しのぎに酒蔵を探検していた俺は、地下への階段を見つけ。心細くなったものの、途中で引き返すのも怖くて。隙間から漏れる光に導かれ、この部屋の扉を押し開けたんだった。
「それで、どうするのじゃ? そなたもこの城の主になることを望むか?」
――いや、違うだろう? どうして自分の扱いを措いた話になる?
「君を助けたい。約束したろ? 時間が掛かるかも知れないけど、必ずここから連れ出して見せる!」
穏やかに微笑を浮かべたまま、屍織姫は頷いてみせる。
「うん? そうか。主になるつもりか」
彼女は約束を覚えていないのか。噛み合わない会話に、軽い焦りと苛立ちを覚える。
「違う、そうじゃない! 君をこの場所から、この境遇から救い出したいんだ!」
「……何か勘違いをしておるようじゃが、わらわのは主はそなたらの一族ではない。織機は今まで何度も変わってきた、紬小屋の主人であるというだけじゃ」
頑是無い子供に言い聞かせるように、困惑を浮かべながらも姫は云う。
「主? じゃあ、一体誰が君をここに閉じ込めているんだ?」
「吾が主には、わらわも簡単には御目通りは叶わぬが……そう、これが吾が主からの賜りものじゃ」
左手の甲を向け、その薬指に嵌められた指輪を見せる。
銀製だろうか。蜘蛛がその8本の足を、姫の白く細い指に絡めている。
「それに、わらわはここから動けぬしの」
云って首をめぐらせる。視線を追って初めて、屍織姫の銀髪が絨毯の端を越え、床板の隙間に流れ落ちているのに気が付いた。一体、どこまで続いている!?
「わらわをどうにかしたければ、饗夜の言うように、まずは魔女を退ける事じゃな」
頑なな態度に溜め息が漏れる。状況は一歩も進んでいないどころか、彼女自身にその気が無い事を確認するに終わってしまった。
伯父の遺言も、桐月の仕切りも。もっと大きな決まりごとの枠の中の話でしかないって事か。遺言に従い、桐月や美耶子さんを退け、魔女に打ち勝って初めて姫を解放する資格を得る――少なくとも、彼女はそう認識しているようだ。
ふと、隣に座る幼なじみがやけに大人しいのに気が付いた。地下への階段を下り始めてから、一度も口を開いていない。
確かに陰惨な話だが、彼女が好きこのんで書き綴る、お伽噺の姫君が目の前にいる状態だ。なのに、いつものようにテンションを張り詰めて行く気配は無く、ソファに身を沈めたまま、ぽりぽりとチョコレート菓子をかじっている。なんだ、この緩みきったテンション?
「なんじゃ? それは?」
屍織姫の興味津々といった視線が、江間絵の手元口元に注がれる。
やや鼻白んだ様子で江間絵が箱ごと差出すと、姫は細くしなやかな指でその一本をつまみ出した。しげしげと眺めていたが、直ぐに両手で摘んだ棒状のチョコプレッシェルを、リスが餌を摂るように齧りだす。
うわぁ。イメージが。
…………いや、でもこれはこれで愛らしいというか。
「なんとまろやかな甘さか。これはクセになるのう」
幼なじみが直前まで見せていた食べ方を習い、次々とプレッシェルを平らげていた姫の動きが不意に止まる。
どうしたと問いかける間もなく、姫は口元を覆った手に咀嚼した菓子を吐き出した。
江間絵が慌ててバスコーナーにタオルを取りに走る。
「やはり口に合わんかったか。調子に乗りすぎたようじゃの」
「…………」
自嘲めいた口調で呟く姫の表情が、先ほどまでの無垢な幼女の物から一変し、疲れ切った老婆のように見えて。
掛けるべき言葉を見失った俺には、あいまいに微笑む事しか出来なかった。
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