第2話


 ヘルメスの工房にて謎の男と謎の巡り合いを果たしたヘルメスとシループだったが、どうしてかその謎の男の謎の提案によりヘルメスは男に食事を振る舞うことになっていた。

 曰く、「どうも何も思い出せん。腹が減っているから何も思い出せないかも知れない。何せ脳に糖が足りていない! 身体に栄養もだ! というわけで食事を一つご一緒させて貰っても宜しいか! 無論、礼は弾む。うむ、そうだな……この散らかった部屋の掃除でどうだ?」

 いくらか承服しかねる所も無いでもないが、この男のことについては聞きたいこともあるし、食事一つであの部屋の惨状が片付くなら安い買い物かもしれない。と判断したヘルメスは現状の混乱した問題をとりあえず保留して、シループと共に謎の男と卓を囲むこととなった。


「美味い……。うむ、記憶が無いというのも中々悪くないものだ……。全ての味が新鮮に思える。まあ本当に初めて食うモノの可能性も否定しきれんが」


 糖分がどうのこうのと言っていたので、ヘルメスはとりあえず食事としてシロップのたっぷりかかった三段重ねのパンケーキを用意した。男の食事など作ったことも無いので分量の多寡がさっぱり分からなかったのだが、笑みを浮かべて食べ進めているところを見るとこの男に取っては多すぎるということは無かったようだ。謎の男は丁寧にナイフとフォークでパンケーキを扇状に切り分けて器用に口へ運ぶ。

「さて、まず名前を伺っても宜しいか? 話をするに当たって、このままではオレも貴女方を何と呼べばいいか分からんからな」

 男はパンケーキを嗜みながら、丁寧なのかそうでないかよく分からないような口調で自己紹介を促した。

「ええ、まあそうね……。私の名前はヘルメス・カルメーン。魔技師……魔械マギアを造る仕事をしてるわ」

「わたしの名前はシループ・パルカスです! 職業は鍛冶屋! 大体食器とかハサミとか作ってますけど、剣とかもっと打ちたいです! それで、あなたは……」

 それを問われることは分かっていたようで、男は数秒ばかり宙を睨んで脳にパンケーキの糖を巡らせていたのだが、やがてふるふると首を振った。

「……ま、やはり思い出せんな。とはいえ、名前くらいは無ければな。なにせ識別に不便だ! 適当に決めておくか」

 それを聞いて、シループがはい! と挙手をした。男が許可すると嬉々として椅子から立ち上がる。

「それでは、魔械マギアから生まれたので、"マギタロー"なんかは如何でしょうか!」

「なるほど、悪くない。悪くは無いが――絶対に却下だ。死んでも断る」

 しょんぼりとシループは椅子に座り直し、いじけるようにパンケーキをナイフで切り刻み始めた。

 わずかに考えるような仕草すらせずシループの案を却下するこの男だったが、それから顎に手を当ててぶつぶつ独り言を呟き始めた。

「……ふむ、天才イディオフィア……少し冗長だな。略すか……イディオ。そうだな、イディオでいい。よし決定だ! とりあえずオレのことはイディオと呼んでくれ!」

 あなたのセンスもどうかと思う。と男の命名のセンスに難色を示す二人だったが、結局「まあ本人が良いならなんでもいいか」という結論に到り、了承の旨を伝えた。


「えーと……とりあえずあなた……イディオさんは結局どこからやってきてどうしてあの部屋にいたのかも分からないんですよね」

 シループがまず男に対して質問を投げかける。男のパンケーキが三枚に対して彼女のパンケーキは一枚。ナイフでパンケーキを小さなサイコロ状にバラバラにして、シロップの水溜りに浸しながら一個ずつちびちび食べていた。

「その通り、というか何かもうほとんど何も分からん。オレが最初にここに持ってきたものは並々ならぬ謎の自信だけだ。この自信の源流が何処なのか自分でもさっぱり分からんが……とにかくオレは天才だ。それは決まっている。そしてあと一つ……オレがあの部屋で派手に爆発した時に思い出したことがある」

 その時ヘルメスは、半月の如く真っ二つに割ったパンケーキにフォークを突き刺して、垂れるシロップと格闘していたのだが、男の口にしたその言葉にぴくりと反応する。

「ああ、空間転移~とか発明~とか言ってたアレのことね。もしかして貴方も発明家……"魔技師"なの?」

 ヘルメスがわずかに気になっていたその問いに、男はパンケーキを切り進める手を止める。

「ううん、魔技師とやらは知らんが……あの散乱する歯車を見た時に思い出したことだ。確かにオレはそういう畑の人間だった気がする……まだよく思い出せんがな。しかしこの分だと完全に記憶を失ったという訳でも無さそうだな。直に思い出すこともあるだろう。それに……」

「知ってる言葉と知らない言葉があるのが気になるところだな。さっきから魔技師、魔械マギアなど言ってるがオレにはちっとも思い当たる節が無い。もしこれらがあんたらの世界で普通に通じる言葉だとすれば、?」

「……何それ。確かに、知って無きゃオカシイってレベルではあるけど流石に異世界から来たとかは荒唐無稽でしょ……。空間転移すら出来ないのに異空間転移なんて夢の又夢の話よ」

「異世界の旅人なんて、昔々のおとぎ話みたいですねー」

 それから、ヘルメスは簡単にこの世界の理について掻い摘んで説明し始めた。

 "時計の国"のこと。魔械マギアのこと。魔技師のこと――

 うんうん、と聞いていたイディオだったが、頭の中で一つひっかかることが思い浮かんだ。

「む……、そういえば空間転移は出来んのか。てっきりオレはヘルメスが造って爆散させたあの機械の残骸がと思っていたのだがな。まあ、そうなればオレはただの被害者な訳だが……」

「そんな訳無いじゃない。そんなのが造れたら分針層ミニットサイクルに行けるレベルだし……。出来る訳無い」

分針層ミニットサイクル?」

 また知らない単語が出てきたぞ、と言いたげに男は首を傾げる。

「さっき話した時計の国の"分針"、私達庶民じゃ手の届かない所にいる存在……"貴族"たちの住んでいる土地のことよ。あそこはここなんかとは世界が違う。私たち庶民が零からそこにには、それこそ人類史に貢献するような大功績が必要ということよ」

 すると、今までちまちまとパンケーキの残骸をつついていたシループが不意に口を挟んで来た。

「あ、分針層ミニットサイクルならここから見えるんじゃないですか? 今なら」

 シループがナイフを持った手で時計の方を指さした。文字が刻まれていないので分かりづらいものが、針は十二時二十分前後を指しているように見えた。

「あれ、そっか。そろそろ来てる時間ね。見て貰った方が早いか」

 そう言うとヘルメスは席を立って、カーテンを開けて窓から外の景色を男に見せる。

「ほら、あの空に浮かんでる巨大な大陸……あれが分針層ミニットサイクルよ」

 男は窓の外を覗き見る。そこには全体を赤茶色の煉瓦と木造で組まれた建造物が立ち並んでいた。どの建造物にも必ずと言っていいほど煙突が立ち並んでおり、ほぼ例外なく薄い灰色の煙が立ち上っている。その風景は一見すると、記憶を失ってなお彼の中にある"常識"にはまだ十分に当てはまる光景だったのだが、指し示された先にあるものは流石に彼の常識の埒外のものだった。そこには確かに何か巨大な横に長い陸のようなものが浮かんでいるのが見える。しかし、辺りは全体的に灰色の霧に覆われており、その詳細を見ることは出来ない。

「ううん……霧が濃くてよく見えんな。察するにこれは……煙か?」

 男はこの町の状況に近いものを一目先に目撃していた。即ち、爆発直後のあの部屋だ。濛々と機械から舞い上がった灰色の煙は、この街を覆う霧によく似ていた。

「察しが良いわね、その通りよ。これは……瘴霧ネブラという魔法の霧。万能と言ってもいい魔械マギアの数少ない欠点よ」

 それからヘルメスは、男につらつらと瘴霧ネブラについて簡単に解説を始めた。


 瘴霧ネブラ、それは薄い毒の煙。

 そもそも魔法という力を使うには魔力というエネルギーが必要であり、呪文や魔法陣は人間の生み出す魔力を引き出して魔法に変換する。

 しかし、魔械マギアはそれらとは勝手が違う。人間に代わった魔法代行機である魔械マギアは、人間から魔力を引き出すことは出来ない。では何を魔力源にするのか?

 それはに他ならない。

 魔械マギアの歯車は黄銅色の魔鉄鋼という金属から出来ており、歯車一つ一つが魔力を持つ。それを大量に噛み合わせて使うのだから、魔械マギアの魔力が切れる事は早々無い。

 しかしここで一つ問題が発生する。魔鉄鋼の魔力は鉱物由来の物で、純粋な魔力では無い。つまり、その魔力を。そこで魔法に成りそこなった魔力の行きつく先が瘴霧ネブラだった。

 瘴霧ネブラは分類としてはとても弱い毒魔法の一種ということになっており、魔械マギアが発明された当初はそう問題になっていなかったものと思われる。しかしその魔械マギアが引き起こした機械時代において、爆発的に生産された瘴霧ネブラは次第にローウェルの街を覆い、問題化していった――


「……って訳で、今ローウェルは瘴霧ネブラの対処に困ってるって訳よ。まあ、所詮弱い毒の魔法みたいなモンだから、最低限の防御魔法だけでも特に問題無く対処できるんだけどね」

 ヘルメスは窓越しに霧に煙るローウェルの空を見上げる。当然、濃い霧の層に阻まれて、空の青さを見る事はとても叶わない。

「私の魔技師としての目標は……この瘴霧ネブラを除去する為の魔械マギアを造ること。このローウェルに青空を取り戻すことが……私の夢」

「…………」

 初めて見たような気がするヘルメスの真面目な表情に、イディオは少し何を言おうか困ったように沈黙した。それはパンケーキを完食して食後の紅茶を楽しんでいた頃であった。

「……いい夢だな。まあ、あの部屋では皮肉にも煙を巻き上げていたようだが……是非叶えてくれ。オレも曇りよりは晴れが好きだからな」

 イディオと時を同じくしてパンケーキを完食し終えたシループだったが、「あ!」と思い出したかのように再び挙手をして発言権を求め始めた。イディオが許可する。

「それじゃあわたしの目標も聞いて下さい! わたしの目標は"聖剣"を造ることです!」

「……聖剣?」

「はい! 昔々のおとぎ話ですけど、ローウェルには聖剣伝説っていうのがあるんです! 何でも、その剣は雲を割り、大地を裂くとか! それになんかローウェルに聖剣は一本や二本どころじゃなくたくさんあるらしいので、それならわたしも聖剣の一本や二本くらい作れるかなー? って!」

 ヘルメスとうってかわって、全く変わらないテンションで語られたシループの夢に、違う意味で何を言おうか困るイディオ。紅茶をぐいっと飲み干して何を言ってやるべきか考える。しかし特に何も思い浮かばなかった。

「そ……そうか。まあ今時の鍛冶屋ならば聖剣の一本や二本くらいは作れんとな。頑張れ!」

「はいー」

 くぴくぴストローで紅茶を飲みながら、適当なイディオの返事に適当な返事を返すシループだったが、ここに到ってようやく糖分が脳に届いたのか、あることに気づいたようだった。

「あれ? 十二時二十分……?」

 脳内に稲妻が走ったような感覚を覚え、シループは兎の様に椅子から跳ね上がった。

「あー!! 時間! ヘルメスさん! お昼休憩終わってます! もう開店してますよ! 開店!」

「え!? あっ! やっば! 何か色々起き過ぎてすっかり忘れてた!!」

 二人がばたばた騒ぎ出す中、イディオは一人喧騒に取り残されていた。

「……何だ? 店を経営してたのか。何というか……意外な話だ」

 この二人で果たして経営が務まっているのか? という疑問が頭に浮かんだが、敢えて口にはすまいとイディオは口をつぐんだ。

「はい! もともとはわたしの家の鍛冶屋で、ヘルメスさんが居候してる形なんですよ! 


「そういえば昼休み中に倉庫から店頭に新しいランプの魔械マギアを並べるはずだったのよ! 急いで準備しなきゃ!」

「オイ待て。まさか……ヘルメスはアレを売ってるのか?」

 イディオの脳裏には魔械マギアとは名ばかりの歯車爆弾の姿が浮かぶ。

「違う! わ、私は発明に関してはちょっとアレだけど、既製品ならきちんと作れるのよ!」

 本当か? と訝しむが、本当にアレを売っていたならば経営どころの話ではないので本当なのだろう。

 奥の扉に走り去っていくシループと、先ほど通った廊下を戻っていくヘルメスを見ながら、このままでは暇になってしまうと踏んだイディオは、せっかくだからシループの方に付いて行って店内の商品を物色することに決めた。

 そしてイディオは会計側から店内を覗く。カウンターの奥には壁沿いの棚に様々な金物と小さな機械が丁寧に陳列されていた。先ほどシループが言っていたように、ほとんどが生活用品の金物だったが、確かに武器と呼べるような類のもの――剣や盾も少し見受けられた。右のスペースには炉や金床などの鍛冶屋の環境が形作られており、店内から商品の製作風景を眺められるようになっている。

 そして、店内には客と思しき女性が一人いた。緑の髪を紫に染めたような、毒草のような髪色をした女だ。街中だというのに身体に鎧を纏っており、腰には剣と短刀を指している。店内に数少ない剣を眺めていた。気になる女だな、とイディオは思った。

「あ……い、いらっしゃいませ! すみません! お待たせしてしまって!」

 シループがカウンターに頭をぶつけるかのような勢いで決死の謝罪を決行する。実際、僅かにぶつけている。その鈍痛をおくびにも出さないのだからシループは強い女だ。

 彼女の潔いお辞儀を受けた女の客は、柔和に微笑んでそれを許した。

「ああ、気にしないでくれ。私も今来たところだ」

「そ、そうでしたか! あ、剣をお探しですか? それとも何か他にお探しのものが……」



「ヘルメス・カルメーンの首を貰いに来た」



 瞬間、右手で抜き放たれた女の剣がシループの寸前で甲高い音を立てた。

 シループにその刃が直撃しなかったのは、シループが後ろ手に持っていた盾をイディオが直前で指し込んだからだ。

「へ……?」

「奥へ逃げろ!!」

 盾を女の顔に放り投げ、目隠しブラインドとして使う。

 イディオはカウンターに片手を置いて、飛び越える要領で盾ごと女の顔面に強烈な蹴りを試みた。しかし女はこれをあっさりと避け、盾だけが遠くに蹴り飛ばされる。そして女は剣を軽く振ってイディオに反撃した。

 イディオは着地の瞬間に床を蹴って後ろに飛びのく。そこは先ほど商品である剣の置いてあった棚の場所だ。女の方も本気では無かったようで、剣を躱されたことに対して特に驚いた様子はない。しかし、身のこなしから先程狙ったカウンターの女よりは警戒に値する存在と認識した。


 いきなり自分にためらいなく剣を振るってきた紫髪の女を見て、シループは先ほど部屋でヘルメスと交わした会話のことを思い出していた。


『――最近物騒だからね』


 シループも最近、新聞でその存在は知っていた。魔技師を狙った傷害事件が増えていると。

 "騎士"の姿で剣を振るい、魔技師を殺して魔械マギアを破壊し去っていく謎の存在。

 新聞ではその存在のことをこう表現していた。

 それは騎士の姿をして騎士に非ず、騎士道を大きく外れた流れの騎士。即ち"黒騎士"である――と。


「貴様は誰だ? どうも"ヘルメス・カルメーン"という顔には見えんが」

「おっと、そいつは当てが外れたな人斬り。残念ながらオレこそがヘルメス・カルメーンその人だ。女っぽい名前だとよく笑われて困る」

「貴様が真に誰で在ろうが関係無い。魔技師を庇い立てるならば誰も彼も殺すまでだ」


 二人の睨みあいの中、シループがささっと店内から奥の部屋へと姿を隠した。

 音も無いその動作を合図として、二人の死闘は始まった。


 まずイディオは傍らに商品として立ててあった剣を取り上げて鞘を抜き、抜き身の剣をブーメランのように投擲した。それは魔技師殺しの方に向かって回転しながら、柄も刃も一緒くたの円盤状になって襲いかかった。

――受けにくいだろ。

「小癪」

 しかしイディオの予想に反して、女は恐るべき動体視力であっさりと擲たれた剣の柄を左手で掴んで見せた。彼女が右手で握っている分と合わせて、逆に相手に武器を渡してしまった形となる。

「手練れめ」

――だが悪手だ。

 イディオは相手が獲物を掴んだ瞬間、先ほど抜いた鞘を剣の様に握って相手に接近した。先ほどの投擲は牽制のはずだったが、受けられた以上は活用を目指す。

――その一振りで来た以上、二刀使いでも無いんだろ? ならば両手の塞がった今はむしろチャンスだ。

「チッ」

 女も自分が剣をことに気づいたのか、掴んだばかりの剣をこちらに投げ捨て両手で剣を持ちなおそうと試みる。しかし少し遅すぎた。

 イディオは鞘を振るって放たれた剣を弾くと、その勢いのまま女の鼻頭に向かって鞘の切っ先を突きこんだ。とても回避できる速度では無い。女は咄嗟に首を廻して受けを試みた、しかし――。

 衝撃は、来ない。その代わりに右手首に掴まれるような感覚。

――しまった、まさか今の目的は私の目線を逸らすことか!?

 女は急いで体制を立て直そうとするも、やはり全てが後手すぎた。

 剣の峰にすでに足を掛けられて、体重を乗せられた結果――強引に地面を切りつけさせられた女の剣は、真ん中から音を立ててぽっきりと圧し折れた。

 作戦負けを悟って焦りの表情を浮かべる彼女の顔を見ながら、イディオもまた複雑な心境だった。

――先手を取れたのがデカかったとは言え、少し身体が

 女は折れた剣の柄を素早く離し、逆にイディオを間合いから逃がさぬように袖を握り返す。そして左手で腰に差してあった短刀を抜き、首を刈り取らんと振り抜いた。

――だね、オレの正体はクールなインドア派と思ってたのに……。

 イディオはそれを屈んで避けると、イディオもまた女の袖を強く握り返して女に背を向ける。女は短刀を交わされて僅かに前につんのめったところをイディオの背中に。そしてイディオは鞘から手を離し、そのまま両手で掴んだ腕を引いて背中に乗った女を前方へと放り捨てる。体重の軽い女の身体は、弧を描いて投げ飛ばされた。

「――思いの他、蛮族か?」

 イディオは誰にも聞こえないような小声で呟いた。

 イディオが女を叩き突けるポイントの先にあるのは、鉄すら溶かさんと轟々と炎魔法を吐き出し続ける炉の魔械マギア

 背中に熱気と死の危険を感じた女は、空中で思い切り身体をねじって回避を試みる。

 結果として、彼女は業火地獄に落ちることは免れた。しかし無理な体勢で落ちたため、受け身もままならずに床に叩きつけられる。この隙を見逃すイディオでは無い。無いのだが――。

――拙いな、決め手が無い。

 剣は先ほど鞘で弾いて遠くへ行った。鞘なら拾えるが鞘程度の打撃では決め手と言い難い。と、なれば先ほど折れて捨てられた女の剣くらいか――

 そう考えて、イディオは折れた剣の柄を素早く拾い上げる。

 


 激痛。


 イディオが剣を拾い上げた右手を見ると、そこには剣の柄があった。

――しまっ……。

 盗難防止? いや、こんなことに気を取られている場合では無い。剣の柄なぞより遥かに危険な存在がそこに――!


 一閃。


 女の抜き放った短刀の一撃が、今度こそイディオに直撃した。

 狙いはもちろん首。しかしイディオもそれだけは免れるべく、既に使い物にならなくなった右手を盾として差し出していた。

 その必然の結果として、もはやイディオの身体に右手首より先は


「がッ……!」

 稲妻の様に頭に駆け巡った塗り重なる激痛のシグナルに脳が沸騰する。

 しかしそれはイディオの持つ元来の高いプライドのせいだったろうか、もしかしたら本物のヘルメスが出てくるのを恐れたのかもしれない。彼は激痛に耐えながら必死に鋼の理性で抑え込み、飛び出しかけた悲鳴をどうにかこらえることに成功する。

 しかし、結果的にはそれが致命的な隙を生むこととなった。

「ようやく……隙を見せてくれたな」

 いつの間にやら女の手には抜き身の剣が握られていた。先ほど弾き飛ばしたものに違いない。こちらに迫りながら素早く空を斬り上げる剣。しかし彼女は外した訳では無い。それは一度剣先を上段に上げて、二の太刀にて振り下ろされる絶命必至の袈裟斬りの構え。


「死ね」




 女がその刃をイディオに届かせる瞬間――イディオの目の前で爆音と共に煙と歯車が爆裂した。

「こ……こっちよ! 早く来て!」

 見ると、ヘルメスがボールを投げたようなポーズで叫んでいた。奥の方にはシループも見える

「……でかした!」

「裏口から逃げるわ! 早く!」

 イディオもそれを受けて素早く逃走を開始する。女の様子を伺っている余裕は無い。

 裏口から駆け出すと、細い路地があった。人気は少なく逃げるには支障が無さそうだ。

 三人は全速力で掛けながら目的地を模索していた。

「あれは私の発明品の一つ、雷撃手榴弾よ! まともに直撃すれば気絶までは無くとも数分くらいは麻痺するはず!」

「ら……雷撃? なんか爆発してたように見えたのだが!?」

「それは……計算外!」

「いや……だがむしろ助かった!」

 イディオは「助かった」と強い口調で主張するも、右手から溢れ出る血と激痛から、体力――命が流れ出て行くのを感じ始めた。

 路上に落ちる大量の血を見て、シループは動揺を隠すことが出来ない。

「こ……これヤバいですよね!? ヘ、ヘルメスさん治癒の魔術とかできませんか!? 呪文とか……魔法陣とかで!」

「た、確かにガッコーでは習ったけど……! もう覚えてないわそんなの! 全部魔械マギアで出来るし! 覚えても将来役に立たないと思ってたしー! 治癒の神って誰だっけ!? イリオスとイタカ?」

「そ、それ炎と風ばくはつの神です! 絶対に唱えないで下さいね!」

 走りながら、ヘルメスは脳内の地図を模索する。考えられるのは治癒の魔械マギアがあるであろう施設――病院、街の警護を担当する騎士たちの騎士堂、あとは――同業者の魔技師たちか。

 いや、魔技師殺しの黒騎士に追われているのに魔技師たちのところに行くのはダメだ。血の道標がある以上、黒騎士の追跡は絶対に免れない。と、なれば病院も危うい。ならば――

「……これから騎士堂まで行くわ! それまで……何とか持ちこたえて!」

 わずかに視界がぼやけてきたイディオだったが、ヘルメスの言葉に希望を託して霧の中を踏破することを決意した。


 やがて、三人の影は霧の中に消えた。シループの家に"黒騎士"を残して――。





――何が起こった?


 黒騎士は、いきなり自分の身に起こった衝撃を正しく理解していなかった。

 どうやら何かの爆発物が自分の胴体に直撃したようだった。ダメージは防御魔法のかかった鎧によって殆どカットされているが、爆風によって店外へ押し戻されたようだ。

――くそ、早く体勢を立て直さなければ。あの男は手首を落としたぐらいで油断できん。

 この時点で既にイディオは家から脱しており、店内には存在しないのだが、そうとは知らない黒騎士は未だ煙の晴れない店内に向けて剣先を向ける。

 だが、黒騎士はまだ知らなかった。

――……?

 最初に気づいたのは違和感だった。

 人が居ない。昼下がりの街道だと言うのに、店内で爆発が起きて野次馬の一人も来ないとはどういうことだ?

 この時点で黒騎士は人払いの魔法が掛かっていることを推理した。しかし、その理由までは思い到らない。

 外にいるはずなのに、黒騎士は謎の閉塞感を覚える。まるで辺りの霧が濃くなって自分を閉じ込めているかのような印象。

 否、"ような"ではない。確実に辺りの霧が濃くなっている。

――こんな道端に大型の魔械マギア……? "車"が分針層ミニットサイクルより下に渡っているという話は聞いた事が無い……。

 以前、分針層ミニットサイクルで見た大量の瘴霧ネブラを吐きだす移動用魔械マギアを思い浮かべた黒騎士だったが――

 しかし、女はその予想は全く的外れであるということをすぐに思い知らされた。

 ガシャン、ガシャンという重厚な

 霧の中に浮かぶシルエット――それは人型の物であったからだ。

 女はそれをさして問題と思わない。

 彼女にとって――それが魔械マギアであるという、ただそれだけの理由で彼女の明確な破壊対象となってしまうのだから。

 剣先を煙る店内から霧の先へゆっくりと移す。

 その剣の先にいる人型の物体は、世間に黒騎士と揶揄された彼女よりもはるかに"黒騎士"らしいシルエットだった。


 何しろ――それは全身を黒色に染め上げた鎧を纏っていたのだから。

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