ハグルマギア
鳫金謳華
第一章 群衆、霧に集う
第1話
がうんがうんと大小織り交ざる歯車の駆動音が、油と配管に塗れた広い部屋を鈍く揺らす。ランプの硝子が汚れているのか、その部屋の中は灯りが付いていてなお薄暗かった。
その部屋の中の状況を表すならば、書物と鉄器の倉庫に嵐が直撃したとでも言うべきだろうか。床には紙片と鉄屑の絨毯が満遍なく敷かれており、足の踏み場はとても無い。煉瓦と木で出来た壁には、油汚れと煤汚れが幾層にも重なって、壁紙の如く黒色に塗り立てていた。小物が置き放題の棚や机の他に、幾らか歯車の塊のような機械も見受けられたが、全て半壊したような有様で、とても駆動するとは思えないものばかりだ。
そして、その惨状とも言える部屋の中で、唯一駆動している騒音と振動の発生源――それは、その部屋の中でも異質に大きな黒鉄の機械だった。
その機械の前には、人間が二人。どちらも二十代前後と言った容貌の女性だ。二人は身の丈よりも大きなその機械を見上げながら、感慨深そうな顔で並んでいた。
「ああ、ようやく完成したのね……」
「そうですね……随分長かったように思えます」
もう一人より一歩分前に出て巨大な機械を見上げている女性は、この部屋とは余りにも似つかわしくない穢れなき真っ白なローブに身を包んでいた。首から大きなゴーグルの様なものをぶら下げて、巨大な鉄塊――スパナの様なもので機械の出っ張りを小突いている。
彼女よりも一歩下がった位置に居る小柄な少女は対抗しているかのように薄着で、いくらか露出された肌が目立つような服装だった。だが、今の彼女に関して言うならば、そんな服装など問題にならない程の違和感を彼女は抱えていた。即ち――どうしてか今の彼女は、身の丈ほどもある大きな盾を構えていたということだ。
「うーん! 今日こそはついに私の悲願が達成される気がするわ! ……その盾何?」
いつの間にか盾にすっぽり隠れている彼女に気づいたローブの女性は、その盾の意味するところに気づいてやや顔を引きつらせた。
「え、だって……ヘルメスさんの発明が今まで爆発を免れたことなんて無かったので……二の轍は踏むまいと用意しました!」
「……自分で作ったの?」
「ええ、自信作です! さあ、わたしのことはお気になさらずスイッチを!」
快活に答える彼女に、ヘルメスと呼ばれた女性はがくりと肩を落として、スパナで叩く対象を機械から大きな盾の方にシフトした。
「いやいや、だ、大丈夫だって……今度こそ。うん、今までの問題点は全部解決してきたからさ。大丈夫だから……そんな爆発するなんて決めつけないで欲しいな! 今度こそ大丈夫だから、ここまで付き合ってくれたお礼にスイッチを降ろす権利はシループに譲ってあげる!」
カンカンと鉄琴の様な音を鳴らして抗議の旨を表すも、盾の彼女――シループは頑として盾を突き出し続けて引き下げない。
「い、嫌です遠慮します! 大体ヘルメスさんだってその服……防御魔法かかってますよね!? この部屋のホコリ弾いてますもん! 自分だけ助かろうったってそうはいきませんよ!」
防御魔法――そんなものがかかっていると指摘されたヘルメスのローブは、よく見ると仄かに白く発光しているように見えた。その光は拡散することなくローブの表面に留まっており、彼女の言う通り部屋に舞い散る煤や埃の類を弾いている。
シループの思わぬ切り替えしにヘルメスはギクリと身体を震わせた。その反応を見せただけで、もはや言い繕うなど手遅れなのは明らかなのだが、それでも彼女は素知らぬ風を装った。
「ち、違うわよ! こ、これは新品のローブの袖通しってだけなんだから! 勘違いしないでよね!! あー、防御魔法なんてかかってたんだー! 知らなかったなー、おっ得ー!」
半ばやけっぱちなヘルメスの言い放った苦しい嘘を聞き流しながら、シループはじりじり機械から後退する。
「わたし! ヘルメスさんの思想や人柄は信用してますけど! ヘルメスさんの発明に関しては欠片も信用してませんから! そこのところよろしくお願いしますね!」
「ひ、ひどい! 貴方なんて毎日火に炙られてるみたいなもんでしょ! いいじゃない、爆発の一回や二回!」
「わたしの鍛冶場から金具や歯車は飛び出してきません!」
一進一退の口論。両者一歩も引かず、唸り声でも聞こえてきそうな濃密な睨み合いが数十秒に渡って繰り広げられたが、やがて休戦を申し入れるかのようにシループが余談を切り出した。
「……でも、どうしたんです? そんな、まるで魔術師みたいな高そうなローブを買うなんて。ファッションに気を遣うって、ヘルメスさんの趣味とは思えませんけど」
「う……そ、そんなことシループに言われたくない……年中夏みたいなカッコしてる癖に……。まあ……これに関しては最近物騒だからね。それに、確かに高いと言えば高い買い物だったけど、今じゃ"魔術師時代"ほど高級品じゃないよ、これも。昔はローブに防御魔法一つかけるだけでもたっくさん手間暇かけたそうだけど、今じゃ織機を使うだけでこんな立派なのが出来ちゃうんだから便利だよねぇ」
そこでヘルメスは、はたと何か思いついたようで、流し目を送りつつシループに語り掛け始めた。
「いやあ、機械に魔法を代行させるなんて……やっぱり"
ヘルメスの語ったその言葉――それが今、この世界の根幹に根付く概念の一つであった。
元来、この世界には魔法というものが有り、それを人間が使役して文明を築いてきた。
魔法は生活に使われてきた。
魔法は娯楽に使われてきた。
魔法は治療に使われてきた。
魔法は産業に使われてきた。
魔法は工事に使われてきた。
魔法は戦争に使われてきた。
そして、その全ては個人の難解な魔法陣や呪文によって出力されてきたのだ。
しかし時代が移ろい、時は現代。人間に代わって魔法を使うものが現れる――それこそが"
この発明によって、世界から"魔術師"という存在は著しく減少し、"魔技師"――発明家の数が増大した。
そしてこの小さな工場の主、ヘルメス・カルメーンもまた、件の魔技師であった。
もっとも、彼女の目指すところは他の魔技師とは少々異なるものであったのだが――
「機械って素敵よねー。素晴らしいと思わない?」
「ええ、実に素晴らしいと思います。でも! ごまかされたりしませんよ! スイッチはヘルメスさんが自分で入れて下さいね! わたしはここで見守ってますから!」
目論みは見事に外れたようで、ヘルメスはチッと小さく舌打ちをして、やれやれと言った様子でとうとうレバー状のスイッチに手を掛けた。
「分かったわよ! 今回は素材も製法も吟味して計算しつくしたんだから! 絶対爆発なんて……する訳ないわ! もう、成功しても触らせてあげないから!」
――え? でもヘルメスさん最近中古屋とかジャンクショップに行ってませんでしたっけ?
そんなシループの疑問が口に付く前に、今までのぐだぐだは何だったのかという速度でガタンとレバーが落とされた。
先ほどから響いていた駆動音がさらに加速しながら音を重ねていく。振動はより細かく、大きくなり、通気管をゴウゴウと煙が通って行く音が部屋の中に響き始める。そして――
おおよそ二人の考えていた通り、巨大な
「ぎゃわー!?」
「ああ、やっぱり……!」
ヘルメスはローブ、シループは盾によって部屋中に吹き荒れる散弾をガンゴン防ぎながら、各々が視界不良の部屋から撤退を開始した。ヘルメスは反省会、シループは説教のことを考えながら――
しかし、その逃げ足はとある聞きなれない一声によって引かれることになる。
「爆発……? 何事だ? ここは何処だ? このオレがどうしてこんな場所に?」
男の声、無論二人はこの家に男を招いたことなど一度も無い。そもそもこの部屋は二人しか知らない秘密の部屋のはずだった。
「まさか空間転移……? なんてことだ! オレはオレの知らぬ間に新たな発明をしてしまったというのか!? やはりオレは天才だ! オレは……!」
二人の目の前で、男は何やら恐ろしく馬鹿なことは話し始めた。こんな妄言を言うような奇特な人間は知り合いにすら居ない。
そして、続く言葉によって、二人はさらなる事態の混迷を余儀なくされた。
「オレは……! オレは……誰だ!?」
「それが聞きたいのはこっちだー!!」
かくして、ヘルメス・カルメーンとシループ・パルカスの二人の工房に、何もかも謎の男が迷い込んだ。彼の存在がこの国に如何な影響を及ぼすことになるか、あるいは及ぼしたかなど、まだ誰も知りようはずもない――
"時計の国"ローウェル。
この国はそう呼ばれる大国だ。何故そのように呼ばれているのかと言えば、まさにこの国がそれそのものであるからに他ならない。
この国は時計で出来ている――否、この国は時計の上に出来ている。
国自体が巨大な歯車の塊の上に成り建っているのだ。
建物、木、畑、道、湖、川――人々が生を営む中で必要なもの、その全てがこの国においては時計盤の上に出来ていた。
人口の大部分が生活する最下層の時計盤――
三つの針とは即ち、秒針、分針、そして時針。
秒針とはたった六十秒で国を一周する程の、遥か神速を以て下層からの侵入を拒む、世界を切り裂く剣。
分針とはその上に、連綿と受け継がれてきた誇るべき血脈――即ち貴族たちを乗せて周る大地。
そして時針とは、この国の最も頂点に位置する大貴族、"四枚歯"と呼ばれる貴族の住まう天空の地。
"四枚歯"――四の貴族。彼らこそが、かつてこの文字通り国程に巨大な時計を造った建国の祖に他ならない。彼らは何らかの目的を持って時計を造り、そしてその上に国を築いた。
しかし、彼らがもたらしたものはローウェルという国だけではなかった。彼らが真にもたらしたもの――それは世界の革命。
かつてこの世は剣と魔法が入り混じるファンタジーだった。しかし今の世、彼らが国と共に生んだ新しい概念――"機械"の為に、人は剣から鉄槌へと得物を持ち変えて、新しい領域へと進みつつあった。
この世界に暮らす、剣を捨てた人々は自らの世界のことをこう呼ぶだろう。
この世の全ては機械で動く、"歯車と魔法の世界"である、と――
――数分前、
この剣の役割は防衛にあり、上の
そして同様に、この速度で移動する秒針の上に存在出来る建造物もまた、存在しない。針の回転によって生まれる遠心力や風圧の抑制――魔法による保護が効くのはせいぜい分針までだ。秒針上ではいくら魔法による補佐が在ろうとも、まともに留まることすらままならない。そう、そのはずだというのに――
その秒針の上には、人間が二人。どちらも容貌を伺い知ることは出来ない。彼らは吹き荒ぶ暴風と、弾き出さんとする遠心力の中で、何一つ不自由無い様に立っていた。
一人は全身を黒色で染め上げた鎧を身に着けており、その関節部の隙間からは薄く灰色の煙が立ち上っている。
もう一人も同じく全身黒色だった。しかしこちらは鎧という訳では無く、その人間が着ていたのは黒い燕尾服だった。顔は獣を意匠化したような気味の悪い仮面に覆われていて伺い知れない。雨も日も無いというのに傘を指す奇妙な人間だった。その開かれた傘は全てが金属で出来ているようで、一見すれば真円の盾のようにも見える。
二人は高速で遷移する下界を見下ろしながら言葉を交わす。交わすと言っても、それは一方的なものではあったのだが――
「……ついに、"今日"を迎えましたな」
「…………」
燕尾服が傘をくるくる廻しながら語るが、鎧はそれに何も答えることはない。
「
「…………」
「それが……果たしてどのような結果になるかどうか、この私めには計りかねますが、しかし重要なのは過程ですからな」
「…………」
燕尾服は袖を捲り、自らの腕に着いた時計に目を落とす。
「二十一秒……あと九秒程ですかな。……準備を」
燕尾服は開いていた傘を閉じ、秒針の外周に向かって歩き始める。その歩みに鎧も追従した。
「それでは……行きましょう。"機械"が完成したならば、"スイッチ"を入れるのが私めらの最後の仕事です」
その言葉を最後にして――二人は
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