9. ウサギとダンス



   †


 鋭い刃が光を反射しながら、一直線に俺へと迫る。


「う、おおおおッ!」


 身を翻して俺はその一撃をなんとか避けた。

 一瞬前まで俺が立っていた空間を、刃兎ブレードラビットが身体ごと貫いた。

 地面に倒れ込みながらそれを見て、俺はぞっとした。もし身体が動かないで突っ立っていたままだったら、今の一撃で喉を貫かれていただろう。

 考えるまでも無く致命傷だ――そう思うと背筋に冷たいものが走った。


 だが、そんな恐怖をのんびり味わっている場合でもない。

 着地した兎が反転し、再びこちらに向けて飛び掛かって来たからだ。

 高く跳ぶのではなく、首を振るった横薙ぎの一撃。

 再び俺は地面に身体を投げ出す様にして避ける。背中に衝撃。見れば、背負っていた籠に大きな裂け目が出来ていた。


「くそっ、テメェ! これ借り物なんだぞ、弁償しろよなっ!」


 背負い紐を外して身軽になると、俺は立ち上がった。籠なんて背負ったままで、戦える相手じゃない。

 手にしたナイフを前に突き出して威嚇する。


「今度はこっちの番だ!」

 

 踏み込んでナイフを一閃。

 しかし余裕をもってかわされてしまう。

 更に追撃。

 突いて払うを繰り返すが流石は兎。地面をぴょんと跳ねまわりながら俺の攻撃を回避する。

 しかも、


「っうおっと! あ痛ってぇ!」


 不用意にナイフを突き込んだのを横跳びに避けられ、カウンターで突き出した右手を狙われた。ガツッと衝撃と鋭い痛み。

 見れば、ギルドで借りた革の籠手に白い線が入り、その延長部分で肌が切り裂かれていた。赤い血が滴り落ちる。


 痛てぇ……!


 一歩跳び退って、兎から距離を取る。

 相手から視線を逸らさず腕の具合を見るが、手や指を動かすのには全く問題は無い。幸運にも腱や太い血管などには届かなかったようだ。ギルドで籠手を借りたお陰だ。もし無かったとしたら、今の一撃は大怪我どころでは済まなかったかも知れない。

 切り落とされていた――ということは流石に無いにしても、大出血に至っていた可能性は十分にある。そうなれば冗談ではなく、命に関わってくる。

 

 舐めていたつもりはなかった。

 だが、浮かれていたのは確かだし、認識が甘かったって言われても仕方ない。


 これが異世界。

 これが戦い。


 俺は刃兎から視線を外すこと無く、そろりそろりと移動する。さっきおろした籠の傍に辿りつくと、空いている左手で、その中身を漁った。

 摘んだばかりの薬草は本来回復薬の材料だが、そのまま食べる、もしくは揉みこんだものを傷口に当てるだけでもある程度の止血と傷の回復に効果がある、とクラサが言っていた。

 勿論精製して薬にした方が効果は高いらしいが、この際贅沢は言わないことにしよう。

 左手に握った薬草にかじりついて、口の中で爆発する苦みを我慢して飲み込む。

 ついで手に残った分を握って揉み潰して右手にあてがう。

 それだけでも心なしか痛みが和らいだ。もしかしたらいわゆるプラシーボという奴かも知れないが、この際どうでも良い。大事なのは即効性があって、手の動きに支障が無くなったという事実だけだ。


 さて――

 改めて俺は、相手の兎を見やる。

 体格は、中型犬くらい。

 最大の特徴かつ武器は額に生えた刃のような角であり、その切れ味は今体感したばかり。他の冒険者たちにはどうか知らないが、少なくとも今の俺には十分な脅威だ。

 俊敏性に優れ回避能力に長けている。同時にその脚力を活かした突進を不用意に食らえば洒落にならないことになるだろう。

 俺はクラサ特製のホムンクルスなのだから、胸元に埋め込まれた真魔核を別のボディに移せば問題は無いのかもしれない。

 だが、問題がないからといって死にたい訳ではないし、もっと言えば肉体をやられたとして更に真魔核にちょっかいを出されないという保証は全く無いわけだ。そうなった場合、今度こそ俺は死ぬのかも知れない。

 

 冗談ではない。

 大したことのない平凡で凡庸なものだったが、それでも一度しかない人生だった。

 まだまだこれからって時に、理不尽な事故で俺は死んでしまったのだ。

 幸運にも手に入れた異世界転生っていうチャンスを、こんな所でフイにしてなるものか。


「俺はこの世界で、借金返して生きるって決めたんだ……!」


 …………くそ、もうちょっとこう、なんか決め台詞の内容どうにかならんのか我ながら!

 なんでこうカッコいい場面で後ろに向かって前向きな発言してんだ、俺はもう!

 

 まあいい。今は俺の所信表明なんかより、兎の相手する方が大事だ。


 息を吸って――吐く。

 腰を落として、半身に構える。ナイフを握る右手を前に、左手を後ろに。

 吐いて、吸う。その度に意識から余計なものがそぎ落とされて行くのがわかる。

 目の前に居る兎と、俺。

 視界と意識の内にその二つだけ――世界に俺とコイツだけ。


 風が吹く、木々がざわめく。

 そんな音も遠く、遠く――


 切っ掛けが一体なんだったかは、わからない。

 俺のナイフの切っ先が、ぴくりとだけ動いた、からかもしれない。

 互いに相手を見つめあっていた俺と兎にとっては、それだけで爆発するのは必然だった。


 俺のナイフの切っ先が揺らいだことで、兎が反応した。

 一瞬だけ身を撓め、力を溜めて跳躍しようとしている。狙いはこちらの喉。

 だが、そんな奴の狙いは、奴の動きにのみ集中していた俺には最初から判っていた。

 だから、奴が攻撃へと移行するほんの数瞬だけ早く、俺は踏み込む。


「――シィッ!」


 先の先を取った形で、踏み込みから横薙ぎの一撃――!

 それは今までで、間違い無く最高の攻撃だった。速さと重さ、申し分なし。狙い違わず奴の顔面を切り裂く一撃。


 で、あったはずだ。

 そうはならなかった。


 先手を奪ってのナイフの一閃はしかし、空を切った。

 恐るべきは野生の本能、いや反射というべきか。

 俺に向かうはず跳躍。そのために溜めていた力を、兎は回避の為に使用した。

 バックにひとっ飛びし、寸でのところで兎は俺の一撃を回避して見せたのだ。


 ザッ、という音が、ただそれだけが、無音の世界に響き渡る。

 それは飛び退いた兎が地面を踏みしめる音。

 後ろへの跳躍から着地、そして着地の衝撃を受けるために大地を踏みしめ身を撓め――


 兎は、ナイフを振るって無防備になった俺に向かって飛び掛かって来た!

 額に生えた刃で、俺の喉を抉る為に――


 死が迫る。




 何もかもが、俺の想定通りに。




 振るって、開いた右腕。

 ナイフを握ったその手が、

 いや、その腕が、

 いや、肩が、鎖骨が、背骨が、腰が。


 俺の身体が、回る。

 左へと回る。

 右へとナイフを振り回した勢いを反動として。

 右足を踏みしめて回る。

 折り畳んだ右ひじ。コンパクトに腰で回転する。

 左へと、斜め上への軌道で、


 俺の無防備な喉へと、一直線に飛び掛かって、今なお空中にある、刃兎ブレードラビットの、無防備な腹に、


 俺は全身の力を余すことなく乗せたナイフの刃を、兎の腹へと叩き込んだ。

 弾力のある感触。ブツリと表皮を突き破って、ナイフの先端が内側へと入り込んで行く感触。臓器へと突き刺さり、肉を裂くその感触。


 ピギィッ!


 兎が鳴く。

 渾身の一撃に、渾身の一撃をカウンターで食らったのだ。無事である筈もない。

 空中で力を無くし、それでも身を捩って着地しようとするも、失敗。

 横っ腹から地面に激突しバウンドして四肢を踏みしめる。


 その顎に向かって、俺は全力の蹴りを見舞う。ただただ遠くへボールを蹴飛ばす時の蹴り方。しかし、ボールよりも遥かに硬い蹴り応え――兎の頸椎が砕ける、ゴキリという感触は音ではなく振動で伝わった。

 口の端から血泡を吹いて、兎が倒れる。

 俺は飛び退いた。距離を置いて、血に濡れたナイフを構えたまま兎を見た。


 裂けた腹からは破れた内臓が飛び出ていた。

 首の向いている方向が明らかにおかしい。

 だが、その四肢がピクピクと揺れている。

 相手は、巨大な兎だ。犬ほどの体格を持つ兎なのだ。

 まだ死んでないかもしれない。


 数秒――あるいは数分、俺は倒れた兎に向かって、ナイフを構えていた。

 逸る心臓、荒い呼吸は流石に落ち着いた。

 魔獣と呼ばれる生き物の生命力がどれほどかわからないが、それでも腹から夥しい量の地が流れ出している。あの体格であれだけ血を流せば、どんな生き物だって死んでないにしても重篤な状態であることには違いない。


 やった――


 そう自覚すると、途端に腕が重たくなった。

 カクリと膝から力が抜けて、つい尻餅をついてしまう。

 その瞬間、たゅんと俺の胸に存在する双つの丘が揺れた。

 これが自分の体ではなく誰か見目美しい女性であれば、平素の俺でも非常にこう……グッド来るモノがあったことだろう。だが悲しいかな、今は自分の身体なのだ。


「嬉しくもなんともねぇなぁ……」


 なんて呟いて、俺は手にしていたナイフを地面に置いた。

 そして力無くも悦びを噛み締める。


「勝って、よかっ――」


 その瞬間。

 すぐ横の茂みから、全く別の刃兎が飛び出してきた。


 その額の刃をこちらに向けて、真っ直ぐに。

 直感で悟る。

 ヤバイ、これは避けきれない。致命の一撃。

 油断していた――!


 など、後悔先に立たず。

 スローになる世界。

 無防備に晒されていた喉に、刃が届こうとしたその瞬間。


 赤い、炎の塊が眼前を過ぎった。

 

 一つひとつは小さな礫程の大きさの炎が、数十――いや、数百。

 それらが俺の視界の外から飛び込んできて、兎の身体を滅多撃ちにした。いや、滅多撃ちなど生優しいものではない。文字どおりに蜂の巣だ。


 突然目の前で起こったことに呆然としていると、

 炎が飛んできた方向から声がした。


「まったく、はぐれないよう注意しろ、と言ったそばからコレだ――大丈夫かい、タスク」

「……クラサ!!」


 俺の保護者であるクラサが、頭に蜘蛛の巣をひっかけて辟易した顔のクラサがそこに立っていたのである。


 

 



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