4. がめおべら
†
「さて、説明してもらおうか」
パンッ、と音を立てて、俺はその手に持つ一枚の紙を叩いた。
その書類、一番上の部分にははっきりと『借用書』と記されている。
次に目を引く中央部には、七億八千五百万エズという、途徹も無い金額が記されている。
債権者の欄には、クラサ・ダークウォーの名前が記されている。
債務者の側には、リオール・ジャネイレーラとある。当然だが知らない名前だ。
ちなみにクラサが持ってきた布の服を装着しているので、俺は全裸ではなくなっていた。
そして改めて思った。全裸でないとは精神衛生上、なんと素晴らしいことだろう。服を発明した人は全世界の人々から偉人と讃えられてしかるべきだと思う。どうでもいいな、うん。
俺が服を着たところで、クラサの先導で俺たちは部屋を出た。
俺が目覚めたのはクラサのいわば秘密の研究室とでもいう場所で、部屋の外は階段になっていた。それを登ってみればこの部屋に出たと言うわけだ。
朽ちた部屋、というのが俺の第一印象だ。
廃屋の一歩手前と言い換えてもいい。
破れた壁紙に、壊れかけたチェスト。暖炉には蜘蛛の巣が張っていて、元は鮮やかな模様を描いてただろう絨毯は色褪せてしまっている。
洋館の一室を、百年ほど放置してたらこうなりました――そんなイメージの場所だ。
窓の向こうには草原が広がっていて、遠くには街らしき影が見える。
何か曰くのありそうな館のようだが、さておき。
破けて中身の飛び出しているソファに座った俺たちは、一枚の書類を挟んで向かい合っている。
それが、俺とクラサのおかれている現状と言うわけだ。
「説明? 何の説明が必要だというんだ、タスク」
書いてあること、それが全てだ。
いっそのこと清々しいほどの態度で、クラサはそう言い切った。
「って言ってもなぁ。いくらなんでも、尋常じゃないだろこの金額」
普通、日常生活において億という単位は出てこないと思う。
「ちょっと聞いておきたいんだが、7億エズっていう数字、あまりにも額が大きすぎてイメージが湧かない。具体的にどれくらいの事ができる額なんだ?」
「そうだな……たとえば、ある侯爵領でよく氾濫する河川を整備した費用が10億エズだったとか聞いたことがあるな」
比較対象が公共事業かよ。
「じゃ、じゃあ逆にだな――例えばそこに見える街なんだが」
「王都フェアズウィルか?」
「そう。そのフェアズウィルに住む、一般市民の平均的な収入ってどれくらいだ?」
「富裕層を除く一般市民の場合なら、平均して月に25万エズの収入があると言われている。これは夫婦と二人の子どもが、無理なく充分生活することのできる額だ」
なるほど。
異世界なので単純比較はできないが、1円≒1エズくらいなのか?
ということは、俺の抱いていた希望が潰えたということでもある。
つまりエズの価値が暴落してハイパーインフレが起きていて、額面上桁は多いが、実際にはそこまでの価値が無いとか……たとえばコーヒー一杯で100万エズってこともないわけだなガッデム。
もっとも、そんなハイパーインフレが起こっていたらクラサの借金どころかこの国の経済が破綻しているってことなんだろうけどな。
俺はガシガシと頭を掻いた。
「ったく、一体何をどうしたらこんなとんでも無い額の借金を拵えることができるんだか……んで、これの返済の当てはあるのか?」
「いや、無い」
「無いのかよ!」
即答で返された。しかも無駄に堂々としていやがる。
「そんな大金の当てがあったら、そもそもこの館だって」
と、クラサは周囲を見回した。
「こんな朽ちてはいないさ。とっくに修繕しているよ」
「そりゃそうか……って。いや、問題はそこじゃねえ」
俺はコメカミを押さえたまま尋ねる。
「で、どうするんだこの借金。踏み倒すのか?」
「ははは、真っ先にでる選択肢が踏み倒しとは、タスクはなかなか豪快だな。勿論返すつもりでいるともさ」
「でもさっき、返す当ても無いって」
「私にはな?」
にっこりと微笑まれて、真っ直ぐ俺の方を見てくるクラサである。
俺はその視線の先を追って肩越しに後ろを見たが、誰もいない。
「いやだから、そういうのいらないから」
「こう言うのは繰り返すのが基本なんだぞ。 ……それで、どうして俺を見る?」
「どうしてもなにも、私がキミを造ったのはそのためだからさ」
ごくり、と俺は喉を鳴らした。
冷たい汗が背中を伝う。
視線が自然と泳いで、クラサの後ろにある窓へと引き込まれる。
「……そのため、とは?」
「なんだい判ってるくせに。焦らしプレイの一種かい? その約八億エズを、返済する労働力として、と言う意味だよ」
「ッッ!」
その言葉を聞いた瞬間、俺はソファから跳ね起きて走り出した。
目指すのはクラサの後ろの窓だ。
この部屋は一階。飛び出しても怪我はするまい。
そのまま街まで走って逃げる。俺の頭にあったのはそれだけだった。
異世界転生ってだけでも意味がわからないのに、突然億単位の借金返済の片棒担ぐハメになるとか、どんな人生縛りプレイだよ冗談じゃない……!
クラサの横を駆け抜けて、窓へと一直線に――
そこで、クラサの身体から何か波のような物が発せられたのを感じた。
粘度の高い風で煽られた、そんな感じだ。
同時に、クラサがブツブツと何かを呟いた瞬間、
「……ッ!? あっ、い、ああ゛あ゛あ゛っがぁぁぁぁぁッッ!!?」
突然、強烈な頭痛が発生した。
恐ろしい激痛。万力で締められるような、というヤツだ。
平衡を失って俺は絨毯の上に転がった。埃が舞うが、そんなこと気にしていられない。
痛みに身を捩りのたうち回る。頭を押さえて、『それ』に、手が触れた。
クラサがさっき俺にくれた、金環だ。
頭にジャストフィットしていたそれが、今は頭蓋をへし割りかねない力で物理的に締めつけているのだ。
「うあ、……おぁああ、あ、あ、あ、」
あまりの痛みに呻くことしかできない。締めつけられ過ぎて、視界が赤くなってきた。
うずくまる俺の背後から、女性の声。クラサだ。
「――なかなか思い切りがいいじゃないか、タスク」
だが、と彼女は続けた。
「この世界に生まれたてのキミが一体どこに行くと言うのかね? 言葉が喋れて文字が読めるだけでどうにかなるほど甘い世界でもない。下手したら街に辿りつく前に魔物に襲われてお終いだ。それに、キミだって私と離れることでとんでもない不都合が起こるんだぞ?」
「不都……合……だと……?」
「そうさ。キミは、私が造り出したホムンクルスだ。生命として不安定かつ不自然な存在であるため、定期的に調整が必要なのさ。加えてキミは私の持つ独自の技術をアレコレ詰め込んだ特殊な個体だ。キミを調整できるのは、この世に私しかいない」
放っておけば半年ほどで肉体が崩壊するだろう、とクラサ。
マジか。頭痛も借金もそうだが、そっちも洒落になってない。
「私だって借金その他もろもろの事情で、キミを手放すわけにはいかないのだ。まずは落ち着いて、キミの雇用条件を設定するところから始めようと思うのだが、どうだろう?」
「ッ……ッ、は、ぐぅぅぅ……、そ、れならまずは、この、アタマの、どうにかしや……が、れ……」
「なるほど、もっともだ。ちょっと待ってくれ」
そう言ってクラサは再び何か呟くが、
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ、ぐわぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
締め付けがもっと強くなった。
「お、しまった。逆の呪文だった」
なんて間違いをしくさりやがる!
「ぎ、ぎ、ぎ、」
やばい、あまりの痛みに意識が遠くなってきた。
っていうかギシギシピキッという何か硬い物にヒビが入る音が聞えて来たんだが。
視界はとっくに真っ赤に染まり、限界を超えて――
パキグシャアッ、と。
呆気なく。
俺の頭は、割れた。
「うわっ、しまった! タスク、タスク!?」
急速に遠くなる意識の中、クラサの焦った声が聞えた。
異世界転生一日目。
俺は死んだ。
え、嘘。
マジで!?
マジで死んだの俺!?
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