『2』 小野千紗

※二章 小野千紗


 それは、千紗にとって〝昔のできごと〟だった。

 なんとなく、家にまっすぐ帰るのがおっくうで、寄り道をした。

(すこし歩き疲れたなぁ)

 横断歩道の側に立ち、信号が変わるのを待っていた。対面にベビーカーを押す母親と、風船をにぎった男の子がいた。

 隣からガシャンと音がした。なにかと思ったら、同じ学校の制服を着た青年が一人、自転車にストッパーを付けて降り、まっすぐに立っていた。

 特に気にも留めなかったが、不意に強い風が吹き、対面にいた男の子の手から、風船が離れたのが見えた。

 なんとなく、ぼうっとした目つきで追った。続けて男の子が道路に飛びだしたのを確認した。

 ――あ、危ない。

 思った時には、道路の方からも、運悪くトラックが走り込んできていた。

 ――え、間に合わないんじゃないの?

 その場にいた他の通行人と同じく、千紗も無意識に思った。しかしたった一人、すぐ隣に立っていた青年が同じように飛びだしていた。

 彼は立ち尽くす子供を抱えた。次の瞬間、ずがんと鈍い音がして、二人の身体が吹き飛んだ。彼はしっかりと少年の頭を抱えていて、自分から先に、数メートル離れたアスファルトに激突した。

 ぐしゃり。まるで重たいスイカを落としたような、すごく嫌な音がした。

「―――ひッ!」

 千紗の心臓が跳ね上がる。どこかで悲鳴が交差する。

 次の瞬間、とっさに〝力〟を発動させていた。


「…………ぁ」

 桜が咲いていた。

 見慣れた高校の門前はにぎやかだ。というのも、毎年恒例のクラスわけで、三年生から、新しく入学した一年生まで、誰もが一喜一憂しているからだ。

「……やっちゃった……」

 千紗の心臓はまだドキドキと脈打っている。ショッキングな光景が忘れられない。脳裏にまざまざと蘇る。

(あ、あれはやっぱり、死んじゃったのかな……男の子を、かばって……)

 ぶるっと身震いがきた。この学園の誰か、制服を着た男子生徒の一人がトラックにはねられたのだ。それは〝ついさっきの出来事〟だったが、

(……〝今日は〟六月の半ばだったから……あと〝二ヶ月後には〟死んじゃう)

 千紗は後悔した。凄惨な事故現場を目の当たりしたことを。そして、また、

(〝戻って〟きちゃったよ。面倒くさいな……)

 過去へと逆行してしまったことを、ひどく後悔した。


 小野千紗は、未来から過去へとタイムスリップができる。記憶を引き継いで戻ることも可能だが、その能力を正確にはコントロールできず、特殊な条件も存在した。

(……あぁ、もう、まだ胸がドキドキしてるよ。怖かったぁ……)

 その条件は、心拍数が一定以上まで跳ね上がる時に限った。さらにその状態で、目の前の現実を直視したくない、逃避したいと思う必要がある。

 戻れる過去は同じく心臓がドキドキして、けれど、特別に逃避したいとは思わなかったところだ。

(……また四月からやり直しだよ。もうクラス分けの結果、わかってるんだけどなぁ)

 新しいクラスの振り分け。新しい環境に身を置くことが苦手な千紗にとっては、今日はたまらなく憂鬱な一日だった。

(教室に行こう……)

 たかぶっていた感情は、瞬く間に冷めていく。

 繰りかえす現実は色があせていた。


 千紗は人付き合いが苦手だ。自分の考えを伝えるのが下手だし、すぐに赤面してしまう。

 失敗して恥ずかしいと思った時は、何度か過去へ逆行した。上手い具合に修正してきたこともあったが、そのうち段々と、わずらわしさを感じるようになってやめた。

(だいたい、人が集まって話をはじめると、決まって余計な時間が掛かるし、無駄が多い)

 結果のわかっている相談や議事録に、千紗はうんざりしていた。

(一人がいい。その方が、元の時間に帰るのがはやいから)

 自分のペースで進みたい。なるべく早く、効率良く。他人に振り回されることなく、淡々と日常を通過していきたい。

 一人でいることが、いつのまにか、千紗に身についた生き方になった。しかしそのおかげか、うっかり過去に逆行してしまった時は、ずいぶん前に〝戻って〟しまう羽目にもなった。


 千紗が過去に戻って、一ヶ月が経った。

 それとなく、あの学生を探したが見つからなかった。青年が飛びだして、車に跳ねられるまで一瞬のできごとだったので、ほとんど記憶に残っていないことが災いした。

(とりあえず、私と同じ二年生か、三年生でもないみたい……って、どうでもいいよね。当日になったら、別の道を通って帰ればいいんだし……)

 学校の授業中、千紗はノートを取る振りをして、プログラムのソースコードを記していた。

(あーあ。また一から作らなきゃだよ。基本動作の小さいのはいくつか残ってるから、適当に流用するとして……今度はなにを作ろうかなぁ……)

 プログラムは千紗の趣味だった。

 一人で気晴らしにできる物が欲しくて、一時は小説を書いたり、楽器を鳴らしたりもしたが、小説は過去に戻った時に、内容が消えているのを見て、空しくなってやめた。

 楽器を弾く技術は無駄にならなかったが、手先が不器用なこともあって上達しなかった。それならばと、音楽の作詞、作曲を試みて、『MIDI』や『ボーカロイド』などの制作ツールに手をだした。

 その過程で、千紗はプログラムに興味をもった。

 コンピューターの、もっと根本的な所に興味がわいたのだ。

 千紗は『作品』と呼べる物の完成を目指すのをやめた。何かを集計をするだけのプログラムや、画面をタッチすれば反応を返すだけのプログラムといった、小さくて細々とした物を作った。

 そしてなにか『割とどうでもいい物』を作りたくなった時に、あらかじめ用意しておいたプログラムのリソースを組み合わせ、簡易的なツールを作ったりもした。

(……過去に戻っても、すべてが無駄にならないよう、リカバリー効くようにしてっと……)

 それは、静かにコツコツ進められる、できあがった物にも、特別な愛着を持たずに済む趣味だ。

(あっ、先生の追跡ツールなんてどうだろ。ちょっと面白そうだけど、できるかなぁ)

 千紗の技術もまた、すでに十分なものになっていた。

(だけど、これを仕事にすると、そうも言ってられないんだろうなぁ……)

 薄々予感はできた。自分が作っているのもまた、金銭的な報酬が発生したり、大勢の人間が関わってくると、どうしても面倒なことは避けられない。実際に仕事をしている大人たちの本音は、ブログなり、ツイッターなりを覗けば、無数に転がっている。

(なんていうか、夢も希望もないんだよねー)

 人の世界は面倒だ。どうしてこんなにも、窮屈なもので成り立っているんだろう。

(大人になるの、嫌だなぁ……)

 同じ毎日が続く。これまでも、この先も、ずっとだ。

(わたし、最近笑ってないかも……)

 予想していなかった事態に遭遇して、そこから逃げだしたいと思えば、千紗の場合は叶う。けれど結局のところ、のぞむ場所には行ける事はない。

 いつかは、必ず同じ現実がやってくる。それが、タイムスリップという能力だった。


「――ねぇ、小野さんって、図書委員だったよね?」

「うん。そうだけど」

 放課後に声をかけられて、誰だったかなこの人。と一瞬考えた。

「あのね、昨日本を返しにいこうと思ったら、扉しまってたの。もしかして平日って、開いてない日とかある?」

「うぅん。平日は基本、毎日空いてるはずよ」

「そうなの? じゃ、担当の人が休みだったのかな?」

「かも。ごめんね、今日は私が担当だから、よかったら返却しておくよ」

「あ、本当? 助かるよ。じゃ、私部活あるから、ありがとう、小野さん」

「うん、柊さんも部活がんばって」

「ありがとー」

 確かクラスメイトだった女子生徒は、明るい笑顔で教室を後にする。名前が間違ってなかったことに、千紗はほっと安堵した。

(えーと、昨日の担当は、一年のなんて言ったっけ……ま、サボりよね、どーせ)

 千紗が図書委員を選んだのは、今回が初めてだ。

 どこかの誰かがトラックに跳ねられるのを見た〝前周〟は、千紗は帰宅部だった。けれどまったく同じ日々を選択するのも退屈で、今回は静かな場所で働けそうな、図書委員を選択したのだった。

(ほんと、図書室にある蔵書管理のプログラムは、一から書き直してやりたいわ。あれ絶対金額値切って、満足に仕事できない新人にテスト兼ねた作らせたやつよね。ソースコードめっちゃくちゃ汚いし。吐くかと思った)

 心の中で悶々としながら、千紗は図書室の方に向かった。


 六月の上旬、最初の期末試験も終わったころ、新しい本が入ることになった。当日に合わせて蔵書整理を行い、古いものは処分すると伝えられた。

 千紗は一年の有里という後輩と、同じ曜日に割りふられた。

 後輩はよく仕事をサボった。事あるごとに「暇ですねー」を口にしては、携帯を操り、指定の時間が来るより早く「あとは明日の人に任せて帰りましょうよ」を連呼した。

 そのうち適当な理由をつけて顔をださなくなった。最後には、なんだか人の好さそうな男子を代理で送り込んできた。

「俺、一年の志賀と言います。有里さんの代理で、委員の仕事を手伝いにきました」

 最初の第一印象で引っかかった。

(どこかで見た気がする。どこだっけ?)

 そこまで考えたとき、思いだした。

(あぁ。君が、私がこの場所に〝戻った〟原因ね)

 志賀純也と名乗った男子は、これから三週間後、事故で亡くなる、その人だった。


 万が一にも、巻き込まれたくない。

 千紗は「帰っていいよ」と彼に言った。

 実際のところ、一人で仕事をする方が、面倒がないという思惑もあったが、相手は断り、まずは手伝わせてくださいと告げてきた。

 純也にも、なにかしら打算があったのだろう。けれどその打算に従って、面倒事を引き受けられる人間は意外といない。

(人は楽をしたい生き物だから)

 千紗はどこかしら、純也に共感めいたものを覚えていた。

(君は、なにか隠してる。この世界の一面に冷めて、あきらめている)

 作業の合間に顔を突き合わせ、言葉を交わしていると、それが実感できた。

 他の高校生は誰もがエネルギーに満ちている。たくさんの夢と希望を抱え、光を浴びて輝くことを願っている。ヒーロー、ヒロインになりたい願望を秘めているのだ。

 千紗と純也の二人は違った。その光を単純に、あたたかい、心を満たしてくれるものと見れない。むしろひっそりと、冷たい闇の中で息をひそめられる事を願っている。

(もしかして君も……過去に戻るような力を持ってるの?)

 思ったが、真実を知る機会はなかった。

 純也と顔を合わせた〝二度目の世界〟では、彼が仕事の代理で現れた事をのぞき、言葉を交わす機会はなかったからだ。他にも、千紗は異性である、男子の内面に踏みこむ勇気がなかった。純也もどこかしら、近づかれるのを避けているように見えた。

 その日、千紗は例の道を通らずに、別の道を歩いて帰った。心の一部は「見殺しにするの」と叫んでいたが、無視した。

(私は、使命とか、運命だとか、そういうのは信じてない。ノンフィクションの世界では、人はヒーローになれない。代わりに埋め合わせになるものが、娯楽として世に満ちている。私は正しい。間違ってない。危ない橋を渡る必要なんてどこにもない)

 自分に放つ言い訳は、どれもこれも、今までになく、正当性に満ちていた。

 夜、家で眠りにつく時に、胸がズキズキした。


 正確に純也が亡くなったと知ったのは、翌日だ。緊急の朝礼が開かれ、学園のトップに立つ教師から、一年の志賀純也という男子生徒が、四歳の子供をかばって即死したことが直々に知らされた。

「たいへん痛ましい事件でした」

 タイヘンイタマシイジケンデシタ。

(そう、そんなものよ)

 大抵のことは、無関係と無関心でやり過ごせる。

 半年もすれば風化する。今だけ悲しそうな顔を作れば済む。

(……私たちは、物語の主人公じゃないもの)

 彼はありふれた一人で、千紗も同じ。過去に戻れる力を持ってはいる。

(だからなに? ほとんど面識のない他人を、私が救う義務があるわけ? ないでしょ?)

 救済を強制する正義の味方も、対抗する悪の組織も存在しない。

 世界は退屈で平凡だ。みんな同じ。相手の顔色を窺って、生きている。

(…………でも)

 ひとつだけ、思った。

(志賀クン、君はどうして……あの子を守れたの?)

 今になって思えば、純也は一人だけ、事を予感していたように思えた。

 自転車から降りて、スタンドを付けて降り立っていたのも、あの子が風船を追って飛びだす可能性を考慮したのかもしれない。

(……でも実際、迷わずに飛びだせるかっていうと……)

 無理だ。あの場にいた千紗をふくめ、誰もが現実を見送った。しかしたった一人、どこか同じような目をした彼だけが、迷うことなく飛びだせた。

 どこにでもいるはずの青年が、自分を犠牲にして子供の命を守った。それはまるで、

(正義の味方。自己犠牲をおそれない、ヒーロー)

 心拍数があがる。心臓がズキン、ズキンと、痛ましい悲鳴をあげて泣き叫んだ。

 その気持ちはけっして、誰かを想う愛情や恋慕ではない。

(……私にはできなかったのに……っ!)

 嫉妬したのだ。みにくい、黒い感情が広がった。

(現実は誰も助けてくれない。誰かを助けても、自分は救われない。なのに誰かを傷つけると、周りからは袋叩きにされる。良かれと思って、目立つ事をしても同じ結果になるだけよ。だから代用品で満足してるのに。私と同じ目をしてた君なら、わかっていたはずなのに。ねぇどうして? 〝どうして君は自分の命と引き換えに誰かを守ることができたの〟?)

 認めたくない。気がつけば拳を強く握りしめている。どくん、と大きな心臓の音が聞こえる。自分がブレるような感覚が全身をつらぬく。

 それが千紗の知る、世界への反逆だ。過去へと〝戻る〟逆行の合図だった。


 同じ桜を、三度見た。

「……」

 三度目の人だかりを、無言で足早に通り抜ける。千紗の目と意識は、彼の顔を探していた。

(どこにいるの)

 心臓の高鳴りは止まらない。顔が歪まないように気をつけるのがやっとだ。

(志賀純也)

 まるで宿敵を探す気分だった。

(君も、時を超えることができるの? それとも別の力を持ってるの?)

 面と向かって、有象無象の観衆の前で聞いてやる。そんな抑えきれない気持ちを抱えて彼を探したが、すでに教室に入ったのか、千紗は純也と出会うことはできなかった。

(顔を見せなさいよ、バカぁっ!)

 叫びたいのを、ぐっとこらえて、千紗もおとなしく教室に向かった。


 〝三周目の初日〟が過ぎると、だいぶ冷静になった。というか、逆に面倒さが増した。

「……また同じ二ヶ月をやらなきゃいけないっていう……」

 がっくり来た。相手の顔が見つからなかったから、せめてクラスだけは知っておこうと思い、一年生のクラスわけの紙を見て、純也のクラスを覚えた。

「……なんか、ストーカーっぽい……」

 会おうと思えば、一年の教室に向かえば会える。

 昼休みにでも声をかければいいだろう。

「なんて聞けばいいのよ……君も過去にいけますかって、直接聞くわけ? 無理無理、絶対にムリ。そんな恥ずかしいことできないしっ!」

 気分が落ちついて、冷静になった頭で考えはじめたら、そんなことはできなかった。

 千紗は元々は人見知りで、面と向かって男子と喋った経験もない。自分の部屋で椅子にすわり、うわーんと頭を悩ませる。

「直接が無理なら、手紙を書こうかな? えーと、えーと……」

 とりあえず、広げたノートに書いてみた。

「志賀純也クンへ。……私は君の秘密を知っています、その秘密をバラされたくなければ、昼休みに学校の裏庭に来てください。お話があります。脅迫状かっ!?」

 違う違う。そうじゃない。修正しなくては。

「志賀純也クンへ。……君は近い将来、正確には二ヶ月後に死にます。助けが欲しければ、昼休みに学校の裏庭に来て、私の問いに答えてください。うん。意味がわからない!」

 違う違う。そうじゃないってば。もっとシンプルにいこう。

「志賀純也クンへ。……大切なお話があります。昼休みに学校の裏庭に来てください」

 あ、これは、あれだ。

「……ラブレター? や、違うっ、そういうんじゃないの! べつに好きとか、嫌いとか、本当にそういう気持ちはこれっぽっちもなくてっ、私はただ――」

 じたばた。夜中に悶えていたら、母親から「うるさいわよ!」と叱られた。


 何日も悩んだあげく、でた結論はこうだ。

「図書委員をやってたら、彼の方から会いにくるよね」

 逃げ腰だった。

(……時間を逆行して、まったく同じ行動をとるのって、初めてかも……)

 千紗は初めて〝前周〟と違う行動をとらないよう、注意した。

 そうして志賀純也が死ぬ、三週間前。彼は前と同じように、クラスメイトの仕事を引きうけて、図書室にいる千紗の前にやってきた。

「失礼します」

 予定どおり、千紗は蔵書室で準備をしていた。声を聞いた時にどきっとした。

 せまい部屋をでて、顔を合わせる。下手をすれば、緊張のせいで相手をにらみつけていたかもしれない。静かに近づいて、椅子に腰かけ、千紗は言った。

「――貸出、返却、どっち」 

「え?」

 とつぜん聞かれて、純也はすこし言葉に詰まったらしい。

(って、なに言ってるの私はっ! そ、そうじゃないでしょ!?)

 ドキドキした。目の前にいる。

 ありふれた一般人。けれど、その身をていして小さな男の子を救った、自己犠牲型のヒーローがいる。そのことは彼自身もまだ知らない。千紗だけが知っている。

「あ、利用者じゃないです。俺、一年の志賀と言います。有里さんの代理で、委員の仕事を手伝いにきました」

「彼女は休み?」

「いえ、個人的な用事があるとのことで」

「サボりか」

 それも知っている。けれど努めて熱のない言葉で返事をした。

「まぁ、余計なのがいなくて、こっちも楽だわ」

 遠慮のない辛辣な言葉だった。〝前周〟では、適当に受け流したあと「そっか、ごめんね。一人でやれるからいいよ」とかなんとか、無難な言葉で返したのに。

(う、上手く喋れない……)

 胸がドキドキする。なんだろうこれ。これじゃ、また過去に戻っちゃう。

「いいよ。君も帰って」

「はい?」

「たいした仕事じゃないからね。一人でやる」

「……えぇと」

 遠慮なく、ざっくり言いきってしまった。

(そうじゃない! そうじゃないってば! これはさすがに帰るでしょ普通!?)

 絶対、気分を悪くされた。

(もうダメだ。やりなおしたい。でもそうしたら、また、あの日に戻っちゃう……)

 ドキドキして息苦しい。自分がブレる感覚を、わずかに感じとった時だ。

「だけど、本当は二人でする予定だったんですよね。俺、手伝いますよ」

 彼は言った。にこにこと、人懐こい笑顔だった。

「君も仕事押し付けられた口でしょう。いいから」

「もし、ジャマになるようでしたら素直に帰ります。えっと、小野先輩ですよね?」

「そう。二のA、小野千紗」

「小野先輩、俺も時間に余裕があって引き受けたので、ひとまず手伝わせてくれませんか」

 千紗は彼の顔を見た。瞳の奥にある感情は読み取れなかった。

「…………わかった」

 ただひたすら、胸がドキドキした。とても、とても、息苦しい。だというのに、あの日に戻りたいとは思えない。新しい〝中間点〟が、この場所を元に上書きされる。


「志賀クン、ズバリ聞くわよ。あなたも過去に逆行、タイムスリップできるわね?」

「はい? えっと、なんの話ですか?」

「い、今のナシー! ナシでーっ!」

 戻った。

「志賀クン、ズバリ聞くわよ。あなたには人に言えない秘密があるわねっ!」

「え? そうですね。人並みにはありますよ」

「じゃあ、その上で聞くんだけど。実は、君は正義の味方で、この世界に隠れた悪の組織とか、教団とか呼ばれる存在と戦ってたりする?」

「あの、それってなにかの冗談ですよね。本気ですか?」

「い、今のナシー! ナシでーっ!」

 戻った。

「志賀クン、ズバリ聞くわよ。あなたには人に言えない秘密があるわねっ!」

「え? そうですね。人並みにはありますよ」

「特殊能力はなに系統? 実は異世界から来た設定ある? 妖精とか精霊って信じてる?」

「えーと……先輩って、少年マンガとか、ラノベとかお好きなんですか?」

「い、今のナシー! ナシでーっ!」

 戻った。何度も、何度も、死ぬほど恥ずかしい思いをして逆行しまくった。

 その結果わかったのは、やっぱりこの世界には、物語を盛りあげてくれるような、ファンタジー感あふれる代物は無いのだということ。すくなくとも千紗は、自分の能力以外でそういったものを知らないし、彼もまた、そういうのは現実ではありえないと悟っている様子だった。

(でも、やっぱり志賀クンも、なにか〝持ってる〟んだわ)

 何度も短い時間を戻って確信した。そしてためしに言ってみた。

「志賀クン、君って、人には見えないものが、見えたりする?」

「…………」

 間があった。

 それは一呼吸ほどの時間。しかし確かに異なる反応を示していた。

「べつに普通のものしか見えませんよ。はは、なんですか、霊感とかですか?」

「霊感じゃないんだね」

「え?」

「今のナシで」

 逆行する。卑怯だと思いながらも、純也にしか見えていないものを、千紗は知りたかった。


 その日は、どうやっても答えを得ることは叶わなかった。あざといとは思ったが、わざと思わせぶりな態度だけを残し身を引いた。

 夜、自宅の湯船につかりながら、千紗は悶々と考えていた。

「……変な奴だって思われてたらどうしよう」

 最後に自分の取った行動を思いかえすと、顔に火がついたように赤く染まる。ぱしゃ、と両手で桶を作り、あたたかい湯をひとつ救う。

「……志賀クンは、なにを隠してるんだろう……ただ、私みたいに過去へ直接とぶんじゃなくて、なにか普通じゃないものが、見えてるっぽいんだよね……」

 とはいえ、べつに知らなくても良いことだ。志賀純也は、特別な人間では無いのだから。

「……子供をかばって死んだのも、勇気があるっていうよりは、無謀ってだけかも……」

 もしかすると彼は、フィクションにでてくるような、物語の主人公として選ばれた人間かもしれないと、実はちょっとだけ期待した。

「…………バカみたい」

 ちゃぷん、と湯が音をたてる。

「現実は違うって、わかってるし」

 千紗本人が、過去へ渡る異能を持ちながら、単純に〝力〟を持て余しているのだ。

 利用しようと思えばいろいろできるだろう、たとえばなにかの博打をしかけて、大成功するまで繰り返せばいいのだ。けれど千紗は小心者だった。

「……バカみたいだけど、未来警察みたいのがいて、そういうことに使ったら、私のことを逮捕しにくるんじゃないかとか……思っちゃうんだよね」

 他にも、いざという時に使えばいいかなと思い好機を逃してしまう。逆にうっかり過去へと戻ってしまった時なんかも、やはりどうでも良いことが原因だったりする。

 そんな風に繰りかえしていると、日々が退屈に感じられて、つまらなくなった。

「ようするに、普通なんだろうなぁ。私って……」

 過去に戻ることのできる唯一の能力を、持てあました普通の人間。それが小野千紗の正体だ。

「……志賀クンも、私と同じじゃないのかな……」

 純也もまた、他の誰にも真似できない能力を有している。けどそれは、彼自身の人生を豊かにするものとは思えなかった。

「この世界には、正義の味方もいない。悪の組織もない……」

 やっていいことと、悪い事のルールがあるだけだ。皆それを承知しているから、そこそこの進学校に通っていれば、殴り合いのケンカさえ起きるのは稀だった。

「みんな、自分のことが一番大事。私だってそうだよ……」

 せいぜいが、不満があればネットの掲示板に書き殴るぐらいのものだ。

 仮想人格者が、仮想人格者を傷つけあう。満足できなければ、現実のコミュニティで、己が有利な状況で発散して収束する。

「みんな、本当に誰かと一緒にいたいのかな……一人ぼっちの方がいいんじゃないかな」

 千紗にはわからない。

 自分自身と、どこかの誰かが、相互に求め、喜び合う関係のビジョンが見つからない。

「……イヤだな、嫌だなぁ……」

 ぱしゃ、ともうひとつ水を救いあげる。

 なんだかどんどん、自分が惨めになっていく気がした。

「……志賀、純也クン、かぁ……」

 心臓がほんの少しだけ、きゅっと痛くなる。〝戻る〟には程遠かったが、今逆行したらまた、あの夕暮れの図書室へ行けるのだと思うと、鼓動はふわりと早くなる。

 少し湿った本の匂いがする、古い建物の最上階。さほど広くない空間に、二人きり。

「……思えば、男の子とあんなに会話したのって初めてかも……」

 思い返すと、心臓の鼓動がさらに早くなった。あわてて深呼吸する。

「べ、べつにそういうんじゃないから。好きとか、気になってるとか……そういうんじゃ……」

『千紗ぁ! 早くお風呂でなさい! いつまで入ってんのっ!?』

「ぴゃっ!?」

 脱衣所と廊下の仕切り戸が、母親の声で勢いよく開かれた。

「お風呂のお湯が冷めちゃうでしょうが! 追い炊きとかしたら、電気代増えるでしょ!」

「わ、わかってる! もうでるから! お母さん、うるさぁい! バカぁ!」

 すごくビックリして、それから「お母さんウザっ!」と思って、また過去に戻りかけた。


 翌日、土曜日。

 千紗は休みの日に学校に来ていた。いつも通りの校則を守った制服姿だったが、黒髪はそのまま下ろし、先生に見つかっても、見逃してもらえる程度の髪飾りをつけてきた。

「……なにしに来たんだろう」

 正門のところで、ぼぉっと校舎を見上げる。運動場の方からは、早朝から部活動をしている、覇気に満ちた声が聞こえてくる。

(……せっかくだし、読書していこうかな)

 昨日、純也と話をした時に、今の時期の図書室は自主勉にいいよと薦めた。純也も愛想よく「俺も利用しようかな」と応えていたが、昨日の今日でやってくるのも考えにくい。

「……なんか、私、志賀クンのこと、意識してるみたい……」

 思わず声にでていた。

(違う違う、そういう意味じゃないからっ! た、確かに意識はしてるけどっ!)

 気合をいれて、怒られない程度に、本当にうっすらメイクをしてきたのも、全然そんなんじゃないから。文学少女よろしく読書をしつつ、余裕があれば一月後の試験対策も兼ねた勉強をしにきたわけで。

(学生の本分は勉強だよ。うん。私はなにも間違ってないよね)

 改めて確認して、まずは鍵を借りようと職員室に向かった。

「こんにちは、失礼します」

 職員室に入ると、初老の男性教師と、女性教師が仕事をしていた。

「おや。君は二年の小野さんだったかな」

「はい。植田先生、自主勉強をしたいので、図書室の鍵をお借り願えませんか」

「おやおや、君もかね」

「君も?」

「あぁ、ついさっき、私のクラスの生徒が来てね。午後一時までの約束で、図書室の鍵を貸したところだよ」

「そうなんですか。……えっと、先生の今年のクラスって、一年生でしたっけ?」

「一のAだね」

 純也のクラスだった。息をのむ。

「そういうわけで、図書室は空いてるはずだよ。行ってごらん」

「は、はいっ」

 頭を下げる。すると、

「――小野さん」

「はい?」

 初老の教師もまた、深い愛情と、一抹の淋しさを同居させたような顔で、肯定した。

「勉強の方、がんばってくださいね」

「あ、ありがとうございますっ」

 もう一度頭を下げてから、職員室を退室し、千紗は胸をおさえた。

「……ど、ど、ど、どうしよう」

 まさか、本当に来てるなんて思わなかった。

(も、もしかして、志賀クンも、私のこと意識してたりするのかな……いや、だからそういう意味じゃないし! 変な意味じゃないんだってば! そもそも学生の本分は勉強で、私は勉強しにきたわけで彼もそうなの! 自意識過剰っていうか、ぜんぜんそんなつもりないもんっ!)

 なにも問題ないし、やましいことも一切ない。

(ちょっとした偶然が重なって、驚いただけなんだから。うん! よし!)

 自己弁明を完結させてから、図書室に向かう。そして一時間ほども経たないうちに、千紗はこの瞬間に、何度も〝戻って〟来ることになった。


「なんで!? なんでそんなに秘密を押し通そうとするの志賀クンはっ!?」

 志賀純也は、絶妙な手強さだった。

 押しても引いてもダメと思わせておいて、攻めてみると意外に弱い節がある。

「……確信めいたところを突かれると、顔にでるわねっ! もう一息よっ!」

 だーっと廊下を走る。もう我慢ならず、小学生の男子のように、四階までの階段を一段とばして駆け上がった。

(楽しい)

 四階の踊り場のところで呼吸が乱れる。整えてから、最後の階段を上がりきる。

 廊下の窓から校舎の方を見る。太陽はずっと高いところにあった。

 キーンと気持ちの良い音がして、野球部の白球が、青空を一途に上昇する。

「あれ……空って、こんな色だっけ?」

 どうしてだか、胸がくすぐったくなって、千紗は笑った。

「あはは。ヘンなのー」

 ヘンだ。自分は今、おかしい。

(迷惑かな。うん、迷惑なのは知ってるよ)

 それでも繰りかえすのは、どうしてだろう。その答えはすぐにでた。

(私は、君と同じ景色を見てみたい。色付いたこの世界を感じてみたい)

 胸に両手を重ねて人心地つく。足音を立てないよう、そっと図書室に入った。


 千紗は物語のキャラクターと自分を重ねられる。感情移入して、あぁ、この子になりたいな。こんな風に活躍できたらなと夢を見る。千紗にとっての本は、現実に足りない部分を満たしてくれるものだった。しかし目前の彼は違う。

(志賀クンは、本に救いを求めてる)

 この人物になりたいな、こんな風に活躍できたらなと、夢をまったく見ていない。その代わり、明日生きていくための手段や答えを、必死に探しているようにも見えた。

 そしてなによりも、集中力が桁違いだった。

 オンとオフのスイッチを気持ちひとつで切り替えられるのか、外界の出来事を意識的に切り離している。ページをめくる手がとにかく早く、文芸書から啓発書、ライトノベルに至るまで、活字中毒と呼ばれる人の速度で読み進めていた。

(君が見ている世界は、本の中の活字と同じように、白と黒しか無いんだね)

 『二進数』と呼ばれる、ゼロか、イチかの基準しかない世界がある。

 プログラムの処理そのものが、人の形を得たら、あるいはこんな人に化けるのかもしれない。そう思わせる存在が志賀純也だった。

 一応さっき「君はアンドロイドですか?」と聞いてみたところ「なに言ってんだこの人?」という顔をされたので、さっさとループして、また戻ってきた。

(うーん、本の世界を行き来するような能力でもないみたいだし、なんだろう)

 気づかれてないのを良いことに、長机の対岸から観察する。

 なんだか実験用のモルモットを検分する気分。もしくは、あと一ターンのところで倒せない、ボスモンスターの行動パターンを分析する感じ。

(どこが弱点なんだろう。なにかが見えてるっていうのは、間違いなさそうなんだけど)

「ふぅ」

 初夏の日差しがうすらと熱い空間の中で、純也が一息をこぼした。

「すごい集中力だね」

「……え?」

 対岸に座った顔が、にわかに驚いた声をだす。毎回、ちょっと良い気分だった。

(今度こそ、君を攻略するからね)

 ひたすらやり直した。虚実を織りまぜ優位に立ったうえで、余裕を持って彼との対話を進めていく。


 純也はついに正体を明かした。

「――俺は、相手の顔を見ると、その人の言葉の真偽が見えます」

「えっ?」

「本当のことを言ってるか、嘘をついてるか、わかるってことです」

「そっか。じゃあ、私の言葉はどう映ったの」

「本当です。先輩は嘘をついていません」

「……もう少し、詳しく教えてもらえるかな?」

 聞きながら、千紗の内心はひどく緊張していた。

(――私は君を騙してる。嘘をついているんだよ、志賀クン)

 相手の感情の〝色合い〟なんて見えてはいない。

 千紗にできるのは、制御が完璧に行えない、過去へと逆行する能力だけだ。そうとは知らずに純也は言葉を続けていた。

「こめかみのところに、模様が浮きあがります。先輩と同じくイメージで、○か×といった記号が浮く感じですかね。俺の場合は、その相手に一定以上の興味っていうか、関心がないと浮かびあがることはありません」

 彼もまた、虚実を織りまぜていた。千紗よりもずっと自然な感じで、台本を読むようにスラスラと言葉がでてくる。

(そっか。君は日常的に、世界に嘘をついて生きているんだね)

「……志賀クンは、相手の本心が見えるから、気持ちを消して遠ざかるの?」

(君は、他の誰も傷つけたくないと思ってる。けどそれは、物語のヒーローみたいに、誰かの力になりたいんじゃない。誰かを助けてあげたいんじゃない。君は――)

「そうです。俺は臆病なので、他人の本心を見たくない。とはいえ、先輩のように敵を作りながら、苦労して生きたくもありません」

(君は、自分になんの価値もないと思ってる。〝なにもできない人間〟だって信じてる)

 欠けている、なんてものじゃない。

 人としての証明、生きるための指針、欲そのものがない。男子高校生なら当たり前に持っている夢やプライド、自尊心と呼べるものが、ごっそり失われている。

(私は嘘をついたけど、もし本当に相手の色が見えたなら、その通り、君の色はなにも見えないんだろうね)

 志賀純也の本質は〝虚ろ〟だった。死んでないだけの肉の塊といえた。

 それは相手の表層を見て分析と応答を繰りかえし、実行に至るロボットだ。プログラムが人の形を得たみたいだと思った千紗の考えも、あながち外れてはいない。

「さてと。もうすぐ一時ですね」

「えっ?」

 壁にかかった時計の針は、三十分の辺りを回っていた。

「図書室の鍵は、一時になる前に返しに行く約束なんです。部屋も閉めなくてはいけないので、申し訳ないんですが」

「うん。私も鍵を借りにいった時に聞いたよ。じゃあ、そろそろ帰る支度しないとね」

「はい。あと小野先輩、今日の話は、誰にも他言しないようにお願いします」

「わかってる。私の方からもお願い」

「もちろんです。じゃあ俺は、本を戻してきますね」

「私も窓閉めよう」

「お願いします」

 席を引いて、二人そろって立ち上がる。

(でもね志賀クン。君は、私が勝手に抱いた君のイメージは、違うんだよ)

 純也と知り合って、二日。正確にはもう少し長い。

(最初に、君が死んでしまうところを見たよ。次は見殺しにした。……志賀クンは、自分になんの価値もない人間だから、当然なんだと思っているかもしれないけれど)

 千紗は〝前の週〟の記憶を思い返していた。


『たいへん痛ましい事件でした』

「ッざけんなボケェッ!」

 今はまだ存在しない、三週先の未来。一同が集められた体育館で咆哮が轟いていた。

「そいつの顔を直に見たことすらねぇのに、適当な事抜かしてんじゃねぇッ! わざわざ人集めといて、最初から台本あり気のテンプレ発言するぐらいなら、はなから黙祷薦めとけやッ!」

 体育館の空気が一瞬で冷えきった出来事だった。

 夏も近い日に、心底冷えきるような、そんな熱を放てる怒りがあった。発言者はクラスメイトの男子で、おそらくは友達だった。

(君は、人に近づかず、相手を遠ざけていたのかもしれないけどね)

「俺はよ、小さなガキ一人助けようとして、自分から道路に飛びだすバカは、ぶっちゃけ、死んだって仕方ねぇと思うぜ!」

 その男子生徒は、誰もが青ざめるような事を、怒りのままに口にした。

「痛ましいなんて言ったら、誰も救われねぇだろうがッ! 交通ルールを守って走ってたトラックの運ちゃんも、子供を助けようとして道路に飛びだしたバカも、そのバカのおかげで助かったガキも、なんも間違っちゃいねぇんだよッ!」

(志賀クン。君には、君の行動を、本当の意味で理解してくれる人が、ちゃんといたんだよ)

 男子生徒の発言は感情を優先していた。倫理のネジが一本外れた、青臭い理想論だった。

 でも、それは正しいと、千紗は反射的に感じた。

(だって。この世界には、明らかな正義も悪もないんだもの。みんな、仕方のないことなんだと割り切って、ガチガチに固めたルールの上を、息をひそめるようにして生きている)

 その例外となれるのが、物語の主人公だ。

 そして、千紗も初めて見たのだ。誰も幸せにしない、自己犠牲型のヒーローを見た。志賀純也という、自身をあきらめた無気力な青年、しかし、他の誰にもできなかったことをやり遂げた。

 十六歳の主人公。

(気がつけば、私は逆行していたよ。だって、ものすごく悔しかったんだもの。現実は物語とは違う。ヒーローなんていないって信じてたのに。――君は、私のすぐ側にいた)

 胸が痛くて、苦しくて、仕方がなかった

「……志賀クン……」

 今もかすれて、消えそうな声をあげてしまう。意識の方は「言うな」と告げるのに、

「はい、なんですか。小野先輩」

 彼は振りかえり、動作を止めてたずね返してくる。愛想の良い笑顔を浮かべている。

「志賀クンは、誰かの頼みを断らないって言ったよね」

「引き受けますよ」

 感情のブレーキは利かない。これ以上を進むには、たくさんの勇気が必要だった。

「人を、好きにならないんだよね」

「……必要以上にはなりませんね。嫌いにもならないですよ」

 向けられたのは、からっぽの笑顔。そんな相手に対し、芽生える感情は止まらなかった。


(三週間後、死んでしまうはずの君を、今度は私が救ってあげる)


 私だって、誰かのヒーローになりたい。守られる側のヒロインじゃ嫌だよ。

 他の誰も持ってない、特別な力を使って、誰かの役に立ちたいの。

 千紗は〝戻らなかった〟。臆病な自分を切り捨てて、染みついた生き方を振り払う。

「志賀純也くん、私とお付き合いしてください。ただし、私のことを好きにはならない、という条件付きで」

 相手の顔色を窺って、生きない。今だけはまっすぐに、相手の瞳を覗きこむ。


(私が代わりに死んでしまっても、君が、明日を生きていけますように)


 千紗は覚悟を決めた、人生で初めて、精一杯の告白をした。

 心惹かれた、その人に。


 それからの世界は、たくさんの色が満ちていた。

 毎日がドキドキして、その度に〝戻る位置〟が上書きされた。

 付き合いの始まった日に、一緒にお昼ごはんを食べた。訪れたファミリーレストランは、純也の友達の父親がオーナーを務めるお店で、バイトをしている友達の顔には覚えがあった。

 一緒に並んで、フリーのソフトドリンクを汲んだ。

 携帯電話のアドレスを交換した。

 ポテトにケチャップをかけて、指でつまんで食べた。

 うっかり一番好きな食べ物を注文して、フォークが使えないことを悟られて、笑われた。

 彼は大盛りのハヤシライスを、ガツガツ食べた。

 男子高校生の胃袋は尋常じゃない。どこの家のお父さんも、我が武勇伝を語るが如く「高校生の時は、今とは比べものにならんかったぞい」と言う理由がよくわかった。パない。


 翌日の日曜も、純也とどこかへ行きたかったが、千紗は彼を救うための情報収集や、作戦を練る事に時間を費やした。

(最悪、あの子を守るために、志賀クンよりも早く、私が飛びださなきゃ)

 とはいえ、素直に死ぬつもりもなかった。無謀だと思いながらも、トラックと激突した時に、存命できる可能性をネットで検索した。

『時速六十に近い速度のトラックに真正面から跳ねられて、生存する方法ってありますか?』

 ネットで意見を募ると、日曜だったせいか、暇人の意見がたくさん寄せられた。

『まずは衝撃を分散させるべく、身体を柔らかくする必要があるな。ヨガを始めよ』

『立ちガードからの受け身の練習をすべし。バランスボールとか超オススメ』

『頭部にヘルメット着用は必須だろ。あと全身に物理耐性の装備を整えて祈ってろ』

『SWATに入隊すればいいと思う』

 どこまで本気なのか、さっぱりわからない意見を交わしあい、まとめ、動いた。

 夕方近くになって、メールを送ろうとした。

 たった一通のメールを打つのに、二時間もかけた。しかも迷惑か悩んで送れなかった。

 結局夜が深まったところで、あきらめた。なにもしてないのに、へとへとに疲れた。

 その間もずっとドキドキしていた。一秒刻みで〝戻る位置〟は上書きされた。


 月曜日に、学校でまた会えた。嬉しかった。

 純也も同じように、メールを送るか迷っていたらしい。

 今日は、寝る前に電話を掛けてもいいですか。と言ってくれた。嬉しかった。

 図書室で、まぶたを覆われて、キスされた。死んでしまうと思うぐらい、びっくりした。

 放課後は一緒に歩いて帰った。彼は自転車通学で、手を繋いで歩けないのが、すごく残念だった。週末はどこに行こうか話しあって、その週は庭園で咲き乱れる紫陽花を見た。

 続けてショッピングに出かけた。映画を見て、ソフトクリームを食べた。甘かった。

 相合傘をして帰り、分かれ道のところで、二度目のキスをした。

 

 毎日が楽しかった。けれど翌週、彼が体調を崩して学校を休んだ。知ったのは昼休みだ。あの友達から教えてもらった。ついでに住所も聞きだした。

(志賀クンは、たぶん、相手の顔を見たら、その人が不幸になる時間がわかるんだわ)

 千紗はうすうす、純也の能力に見当が付きはじめていた。正確なところまではわからなかったが、自分が来週には死んでしまうことを、なんらかの形で悟ったのだと思えば、体調を崩して休んだのにも会得がいった。

(志賀クンに言うべき? 君はあの道路を渡ると、男の子を守って死んでしまう。だから行かないでって。どこか別の場所に遠ざける?)

 午後の授業は、体調不良を理由に放棄した。歩きで行くには距離があったので、以前に彼が言っていた市電を利用した。

 やりすぎかなとも思ったが、携帯にかけても返答がないのが、不安に過ぎた。

(でも……志賀クンがあそこを通らなければ、あの男の子が亡くなっちゃう)

 ガタン、ゴトン。

 揺れる市電に乗って、純也の家に向かう途中、ずっと彼が助かる方法を考え続けた。

(ダメ。志賀クン一人を助けるんじゃ、意味がない)

 たいへん痛ましい事件でした。口にした校長先生のように。

 今度は千紗が、あの少年に対して同じことをしてしまう。

 ガタン、ゴトン。

(私がここにいる意味。〝戻りたい〟と思って、もう一度、この二ヶ月をやりなおして来たのは、ヒーローになりたかったから。もう、どこにも逃げたくなかったからだよ)

 ガタン、ゴトン。

(志賀クンを別の場所に遠ざけるのはアリだとしても。私は現場に行って、あの子を助けなきゃ。確か、風船を追いかけて飛びだしたから。上手くいけばその前に……)

「――やめておきなさい」

 

 とつぜん、あらゆる音が遠のいた。周辺にいた人の気配どころか、姿も消える。

「……え?」

 勇ましい、ゲームミュージックだけが流れてくる。

「運命というのは、なるべくして起こる不変の事象。人の死もまた、有機的な生命の、しゅ、しゅ……しゅーえん? として、導かれる崩壊現象にすぎない」

 千紗の対岸、難しい漢字はまだ苦手といった年頃の、小学校中学年ぐらいの少女が座っていた。白と黒でよく目立つ、ゴスロリファッション。

「それを捻じ曲げることは、後の世界に大きな影響を及ぼす。とりわけ、中枢の……キノーカイヘンとなる物に関しては、組織的な人員と設備を持って、我々が対処しなければならない」

 少女は、カチャカチャと、携帯ゲーム機を操作しながらしゃべっていた。

「小野千紗」

「な、なに?」

 自分のフルネームをとつぜん口にされて、びくっとした。

「志賀純也は死ぬ。それが〝正しき未来〟である」

 少女は一切、千紗と目を合わせようとしなかった。

 その失礼な態度と特異な格好に、ひとまず「親の顔が見てみたいわね」とか思う。

「志賀純也を無理に救おうとすれば、他の大勢が不幸になる」

「ねぇ……貴女、一体何なの?」

「私は、時の調停者。それ以上の発言は禁則事項につき、語る術をもたない」

 少女は俯いて、ゲーム機をいじったまま、抑揚のない声でつぶやき続ける。

「小野千紗は、すでに運命の領域線を超えている。これ以上の進行を許せば、世界は然るべき処理を執り行わねばならない。よって、私が警告にきた」

「ふっ……なるほどね」

 予想もしていなかった事態に、千紗は余裕をもって頷いた。まずは聞いておく。

「貴女、厨二病って知ってる?」

「私は、時の調停者。時空を双方向に移動することを可能とする。厨二病ではない。むしろそういった病にどっぷり侵されているのは、小野千紗の方」

「な、なにようっ、年上はちゃんと敬いなさいよね! あとはまぁ薄々思ってはいたけれど、やっぱり貴女みたいな存在はいるのよね。うんうん、いいことだわ!」

 千紗は異常事態に、割と普通に順応していた。むしろ嬉々としている。

「……能天気、かつ気楽過ぎ。ほんと…………」

「え、なに? 後半がよく聞き取れなかったんだけど」

「うるさい」

 むすっとした声を出して、時の調停者は告げてきた。

「これより私が示すのは警告である。小野千紗は、志賀純也を別の場所に移動させたところで、運命は間違いなく彼を殺す」

「志賀クンが死ぬ運命は、避けれないってこと?」

「真なり。さらに、事態はより大きく深刻にもなる。人々にとっての〝悲哀値〟の範囲は広がり、増幅させる結果に繋がっていく」

「ふーん、志賀クンが死ねば、その〝悲哀値〟とやらが最少で済むわけ?」

「真なり」

「そう。お断りよ」

 千紗は即答した。

「今の私は、志賀クンがなにより大事なの。他のことなんて知らないわ。私にとって一番つらくて悲しいことは、志賀クンが居なくなることだもの」

「その結果、より大きな〝不幸〟が発生しても?」

「構わないわ」

「……」

 少女がほんのわずかに面をあげた。絶対零度の、冷たい視線が突き刺さった。

「志賀純也を救うことに、小野千紗のメリットは無い」

「メリットとか、どうでもいいわ。だいたい貴女、えーと、名前なんだっけ?」

「私は、時の調停者だって言ってるの!」

 言ってるのっ!

「や、厨二患者の異名を聞いてるわけじゃないんだけどね。まぁいいわ。貴女も、志賀クンに対して、なにか執着心があるみたいね」

「そ、そんなことないしっ!」

 少女は今度こそ強い反応を返した。

「わ、わたしはべつにっ、志賀純也のことなんて、なんとも思ってないんだからね!」

 顔を隠すように伸びた長い前髪の下からは、幼いながらも、とても綺麗な顔立ちが覗いた。

「と、とにかく、志賀純也を助けるのは、だめっ! ダメなのっ!」

「ごめんねー。もう決めちゃったからねー」

 やっと見せた、少女の素の反応が面白くて、千紗もからかう口調になってしまう。

「私ね、彼に出会って思ったの。やりたい事をやらず、怯えて死んでいくよりも、素直になった方がずっといい。私はもう、あの色のない世界には戻りたくないんだよ」

 小心者で普通。ありふれた千紗は、まだずっと幼く見える少女に向かって言った。

「この世に、正義も悪もない。ヒーローも悪者もいない。自分のやりたい事を、やりたいようにやろうとする、有象無象の人間がぶつかり合ってるだけなのよ」

「……」

 ふたたび、調停者は絶対零度の視線を向けてくる。

「未来が変われば、現れるかもしれないの」

「なにが現れるの?」

「〝異端〟……自分のことをなによりも忌避し、この世界の顔色を窺って、生きていく。そんな哀れで、不自由な存在が……」

「ふぅん」

 千紗は口元を歪めた。謎の少女に向かって、圧倒的に微笑んでやった。

「ごめんね。自分に運が無かったのを嘆いてね。助けてくれるヒーローが現れなかったのを、絶望して死んでいきなさい。時の調停者さん」

 正面。世界中の敵意を、一身に集めた様な眼差しに対し、上から言う。

「私は志賀クンを助ける。彼が守ろうとした男の子も救う。でもそれ以外は関係ない。勝手に滅びて、世界のあらゆる場所で嘆きなさい」

「……そう……あぁそう」

 時の調停者は、ゲーム機を閉まって立ちあがった。

「この時から……話が通じない、平行線を地でいくのが……ほんと……」

 ムカツク。

「私は小野千紗が嫌い。個人の主張を優先し、他者への理解度が低い。遅れている」

「意見が合うわね。私も貴女に対して同じ感想を持ったわよ」

 少女と正面から向き合うと、相手は特別でない、普通の可愛い女の子に見えた。

「命じられたタスクは終了した。私は領域へと帰還する。その前に、もうひとつだけ忠告しておく」

「なに、まだなにかあるの?」

「二人の命を救いたければ、望むようにすればいい。ただし、志賀純也を別の場所へ運んだり、実際の事が起こる前に、なにかをするのは絶対に避けて」

「その他大勢の人が、代用品として巻き込まれるから?」

「そう。運命を侮るな。未来を悲観しろ」

「望むところね」

「わかった。私が言うべきことはもうない。……この時間軸を再開させる」

 ガタン、ゴトン。単調な音が再開する。千紗はふたたび、目的地に向かって走りはじめているのを感じとった。

「小野千紗は、私の敵」

 最後に調停者の少女は、姿を消す直前に、目じりに人差し指を添えていた。

「だいっきらい。ちさの、ばーか!」


 電車は何事もなく、最寄りの駅についた。

「……時間もぴったり」

 まるで、白昼夢を見ていた気分だった。

「結局なんだったんだろ。あの子」

 スマホを確認する。メールの返信は無いままだった。彼の性格からして無視することはないと思ったが、やはり不安で心配だった。

「あ、そうだ。簡単に食べられるもの買っていこ」

 さっさと気持ちを切り替えた。日常の中を走りぬける。家に押しかけて、風邪をひいて弱った彼の看病をした。初めての「はい、あーん」をやっていると、真顔で「結婚しよう」と返された。

 つい長居しすぎて、ご両親ともエンカウントした。恥ずかしすぎて死にかけた。

 

 六月の半ば。志賀純也が亡くなる前日の夜。

 千紗の家は毎年の恒例で、納戸からだされた扇風機が、ゆったり首を振っていた。

「お母さん」

「んー、どうしたのー?」

 家事を終えて、居間でのんびりテレビを見ながら、お茶を飲んでいる母親がいた。ふっくらした顔が千紗を見る。

「えぇとね……」

 テレビからは、深夜のバラエティ番組の音量が流れてくる。千紗の母親は、なにか気づいたように、リモコンを取って音量を下げた。

「あっ、べつにたいした話じゃないから」

「そお? で、なぁに?」

 音量は戻さなかった。きちんと千紗の方を向いて、耳を傾けてくれている。何気ない仕草に気がついて、胸がくすぐったくなった。

「お母さん……頭なでて?」

「どしたの急に」

「な、なんとなくっ」

「あぁ、びっくりしたわぁ。新しいパソコン買って、とか言いだすのかと思った」

「いつもなにかを、ねだってるみたいに言わないでよ」

「違うのかしらねぇ。頭なでてやるぐらいなら、お安いものよ」

 母親の手が向かってくる。

「よしよし、いいこいーこ」

 母親は楽しげに娘の頭をなでた。千紗は黙ってなでられる。

「それで、どうしたの急に。彼氏となにかあったの?」

「な、なんでそう思うの!?」

「いやぁ、わっかりやすいのよ。ちー子は、すぐ顔にでるからねぇ」

「ちー子って言うな。でも、そ、そうなの……?」

「わかるわよ。わが娘ながら、なんでこんなに死んだ魚の目ぇして、毎日生きてんのかしらって、心配だったからねぇ」

「実の娘に死んだ魚とか言うな」

「ふふふ。中学の頃は部屋に閉じこもって、なんか毎日、マンガかなにかの呪文をぶつぶつ詠唱してたでしょ。あの時は、これは流石にヤバいんじゃないかって」

「わぁー! うわぁーっ! なんでぇ、なんで知ってるの!?」

「知らない振りをしてあげるのが、母のやさしさってやつよ」

 よしよし。頭をなでながら、母親はくすくす笑った。

「せっかく元は良く産んであげたのに、ちー子ったら、変なところでいつも引いてばかりだったからね。中身はまだまだ子供なのに、余計なとこだけ大人びてて、世の中を俯瞰して、達観してるようなところがあったわよ」

「う、うん。そういうのはあったかも……」

「あったあった。でも最近は、なんだかやっと〝らしくなった〟って気がしてたわ。やっぱりアレね。恋をしたら女の子って変わるのねーって、お母さんも青春時代を思いだしたわぁ」

 ふっくらした顔が、えへへーっと緩んだ。

「で、なぁに。すれ違いが起きちゃったのかしら? お母さんに聞かせてごらんなさい」

「な、ないから。そういうのないもん。順調だから!」

「えー、つまんなーい」

「つまんないとか言うな」

 ていっ、と母親の手を引きはがす。

 そのまま席を立って「私もう寝るね、おやすみ」と言い渡した。

「千紗」

「なによー」

「がんばれ。お母さんは応援してるぞ」

 母親の一言は、千紗の心の奥に、すとんと落ちた。

「ありがと」

「どういたしまして」

 温かい沁みが広がる。やっぱり生きていて良かったと、千紗は思う。

 ――この世界には、正義も悪も在りはしない。

 在るのは人の願いだけ。星の数ほどに、ありふれた気持ちが広がるだけだ。

 自分の夢を叶えたい願望と、大好きな誰かを応援したい、見返りのない想いだけ。相容れない二つの気持ちは、いつも世界のどこかでぶつかりあっている。それだけだ。

「――大丈夫。まだ、君が死んでいい日じゃない」

 次の日、千紗は運命の場所に向かった。




 ぶつかった。風圧と衝撃が全身の肉と骨に響いた。脳みそがひどくブレた。チューニングのズレたノイズが全身を駆け巡るような、嫌な電流が奔った。

 地と空が反転する。細胞すべてが悲鳴をあげるのを、純也は感じとった。

(死んだ。俺は死んだんだ)

 ある意味で、まるで数学の方程式を解いたような気持ちになった。

 これで構わない。いいんだ。知っている。世界の答えは一つで、人はそれに逆らえない。

(せめて守れ。腕に抱えた頭と小さな全身を、自分を盾にして守り通せよ!)

 父親への償いをはたす。今まで誰も守れなかった、生き方をあきらめてきた、みっともない自分の最後に相応しい。

(―――ッ!)

 ぱぁん。

 アスファルトの地面に叩きつけられた。風船が割れる音が、激烈な急ブレーキの擦過音に混じる。そしてもうひとつ、より高く、より向こう側に吹き飛ばされた〝なにか〟がいた。


 ――ガゴォンッ! ガァンッ! ガッ! ダンッ! 


 地面にぶつかり、勢いで跳ね、二転、三転と、転がされていく音が轟いた。

(……………………え?)

 おくれて数秒、交差点の縦横から、無数のクラクションと、その場にいた人々の悲鳴が交差し、事故が起きたことを周辺一帯に知らしめた。

「……ぁ、ぁあ、うああああああんん……っ!」

「っ!」

 パニックを起こした人々の声に混じって、両腕の中、男の子の泣き声が聞こえた。聞こえる。そう、聞こえるのだ。純也は生きていた。

「だ……大丈夫だよ。大丈夫だ。君、痛いところはないか?」

「うあああああっっ! うああああああんんんっ!!」

「こら、泣くな」

「うぅっ! うあ、ひぐっ、うえ……」

 純也は気持ち、叱るような怖い声をだした。反して心は苛立っておらず、むしろ何故だか、ずっと優しい気持になっていた。

「泣くなよ、男の子だろう? どうだ、我慢できないぐらい痛いところないか?」

「う、うん……び、びっくり、した、けど、い、いたいとこ、ない」

「えらい。えらいぞ。本当にえらい。よし……いっ!?」

 純也も身体を起こしかけ、思わず顔をしかめた。吹っ飛ばされた際に、半袖でむきだしだった両腕が、地面と擦過してひどく擦りむけていた。他にも全身が痛む。

(っ、ついでに骨にもヒビ入ってんなこれ……あとぶつかった背中の方もやべえ、クッソ、めちゃいてぇ……)

 額からじわりと、脂汗が流れてくる。とっさに自分に命令した。

(――〝鍵〟かけろ。マイナスの感情を消せ。いつもみたいに笑え。志賀純也)

 いつもの感覚をトレースする。かちゃりと音がして感情が閉まる。

「お、おにいちゃ、だ、だい、だいじょ、うぶ? ち、おてて、いっぱい、ちでてる……」

「あぁ、これぐらい平気平気。君は立てるか?」

「た、たて、たてる……ご、ごめ、ごめんなさい、ごめ……ぼく、とびだし、て……」

「いいから。それより、ほら」

「ゆうくんっ!」

 頭をなでると、母親が走ってきた。

「だいじょうぶ!? だいじょうぶなのっ!?」

「あ、おか、おかあさ……」

「バカッ! なんで、なんでいきなり……飛び出した、の、このバカ……ッ!」

「ご、ごめんなさ……ごめんなさいっ! うあ、うあああんっ!」

 母親が、子供をぎゅっと抱きしめる。すぐに純也の方を見て、ぐしゃぐしゃになった泣き顔で謝ってきた。

「すみません! 本当に、本当にすみません! ごめんなさい……っ!」

「あ、大丈夫ですよ。俺はその、見てのとおり生きてますから」

 純也が痛みをどうにか堪えて笑うと、真っ青な顔をしたトラックの運転手が、ふらふらしながら運転席から降りてきた。

「き、きみ、君は、だ、大丈夫なの、か?」

「大丈夫です。こちらこそ急に飛びだしてすみませんでした」

「…………す、すまない。本当に、よかった。いや……申し訳ない、申し訳ありませんでした」

 運転手は生気のなくなりかけた目で、三人に向かって頭をさげた。続けてぼう然と、離れた場所に横たわるものを見やった。

「……や、やっぱり、あ、あの子は、し、し、死んで……俺が……ひ、ひいて……」

「いえあれは……」

 純也もそちらを見る。少し奇妙だった。というのも、もうじき夏も来るというのに、その人影はやたらと厚着をしていたからだ。しかもなにか乗り物に乗っているわけではないのに、頭にはヘルメットを着用している。

(あれって……ロードレースのライダーが着用する、本格的なバイザーヘルメットだよな)  

 目前を遮断するバイザーのおかげで、仰向けに倒れて動かなくとも、顔も見えない。

「ありゃ、男かな、それとも、女なのか……どっちにしても、あぁ……」

 トラックの運転手が、呂律の回らない口調で続けた。一日がもっとも長い、夏至の夕方から現れた幽霊だか、正義の怪人だかを跳ねてしまったように、震えた声と共に顔をおおった。

「えぇ、事故です! 場所は……!」

「救急車呼びました! すぐ来るって!」

 あちこちから人の声が連鎖した。皆が一斉に携帯を持って、救急車や、消防車を呼びあげている。けれど誰も、そこに近づこうとしない。

「そうです。えっ、ケガ人ですか? いえ、小さい男の子と、高校生ぐらいの男の子は無事みたいですが……」

 生きているのか、死んでいるのかわからない、空を仰ぎみるように大往生している、不気味な人影をなんと報告すればいいのか。

「あの人……〝どこからでてきた〟んだ?」

 〝鍵〟をかけた純也は、感情がにわかに冷めていた。

 まだ混乱している現場で一人、事故にあった当事者でありながら、冷静だった。

 記憶を辿る。トラックの風圧を全身に感じた瞬間だ。男の子を抱え、守ろうと背を向けて、トラックのバンパーから身を背けた時に、ふと見えた。

「――大丈夫。今日はまだ、君が死ぬ日じゃないんだよ」

 自分と子供、トラックの間に、まるで魔法のように現れた人影。

 両腕を交差して自らが盾になって吹っ飛ばされた。衝撃は殺しきれず、トラックはそのまま純也と子供にもぶつかってきたが、勢いは確実に減らされていた。

「……だから、生きてる」

 ずきん、と全身が痛んだ。

「づっ!」

 感情を鈍くしても、尋常じゃない痛みが全身にきた。それでも、足が動いた。

 空の下、倒れて、ぴくりとも動かない、その人のところへ歩いた。

「…………生きてるよな、生きてますよね?」

 まるで、自分たちを救うために、颯爽と現れた自己犠牲型のヒーローの声。この短い間で、なによりも聞き覚えのある声だった。

「……先輩、なんで、俺が、今日死ぬって、知ってたんですか……?」

 涙がこぼれた。頬をつたって、ぽろぽろ落ちた。

 泣いたのは、いつ以来だろう。

 父親の骨を拾った時は、すでに色があせていて、もう上手には泣けなかった。

「ってか、なんですかその格好……今は真冬じゃないんですよ」

 歩み寄る。砕けたメットの破片を踏みつけると、ぐしゃ、ぐしゃ、耳障りな音がした。

「先輩、死なないでください。お願いですから……」

 倒れたかたわらまでやって来て、膝を折る。

「いかないで、ください」

 あとほんの少しで、泣き叫んでしまいそうだった。心が壊れる。――心が折れる。

「………………ふぇぇ、い、いたっ、いた……っ」

「先輩?」

「こ、こわ、こわか……無理、も、やだ……た、助け、助けてぇ……」

「ちょ、先輩!? 生きてるんですか!?」

「ふええええええぇぇっ! 死んだよぅ! もう絶対死んだよーっ! だって死んだお婆ちゃんが河の向こうに見えたんだもんんんんっ!!」

「先輩、生きてるんですね!? 怪我は!? 大丈夫ですか!?」 

「おばあちゃーん!」

「俺はお婆ちゃんじゃありません! ダメだ! 頭ですか! 頭を打ったんですね!? ってかめっちゃ地面にバウンドしてましたよね! 先輩っ!」

「痛いよぅ、怖いよぉ、あ、頭ぐるぐるする…っ…! き、きぼちわるいいぃ……っ!」

「先輩しっかり! メット脱がしますよ!」

 顎のところで固定されたベルトに手を伸ばし、それを外す。ヘルメットを脱がすと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、青白い顔をした千紗がいた。

「先輩、大丈夫ですか! 身体、上体だけゆっくり起こしますからね」

「う、うう、し、しが、志賀くぅ……う、うぼええええええぇぇ……っ!」

 嘔吐した。純也の胸元に向かって、げろげろリバースした。

「先輩、怪我は!? 真正面からぶつかったんですから、無事なはずが……」

 身体に触って、また違和感を感じた。女子の柔肌のはずが、やけにゴツゴツする。

「……これ、この服? 冬物のコートの下になにを着こんでるんですか?」

「う、う、ぅぇ……ね、ネット……」

「はい? ネット?」

「う、ん、ネットで、軍人さんの、横流し品……防弾、防刃、耐久性が、ウリの、こ、コンバットなんちゃらスーツ上下一式。く、靴は、登山用の安全靴……超重いの、ぜんぶ……Sサイズなのに……ぶかぶか……お値段も、ヤバかった……おこづかい、消えた……う、うえええぇ!」

 また吐いた。必死に背中をさすりながら聞く。

「なんで……そんな物を下に着てるんです?」

「だ、だって、志賀クン、今日死んじゃうはずだった……から」

「やっぱり知ってたんですか」

「う、うん……だから」

「バカですか。先輩は……いえ、とにかく話はあとで聞かせてもらいます。とりあえず、今すぐに死にそうではないんですね?」

「……うん。だいじょぶ、みたい……身体のあちこち痛いけど……」

「そうか。よかった。先輩、よかった……よかった……よかっ、た……よか…………っ!」

「……志賀クン?」

「っ! ふっ、うぐっ! ふ、うあ、っ、ひっ、ぐ! よかっ、よかっ、た!」

 ぼろぼろと崩れていった。十年の間積み上げてきた、錆びついた感情の下から、大口を開けて泣きじゃくる、本当の自分が見つかった。

「おれはもう嫌だ。大切な人を失いたくない。一人ぼっちは嫌だ。嫌だ……嫌だっ」

 押し殺しきれない声をあげながら、あらん限りの力で、愛しい身体を抱きしめる。やさしく強く、駄々をこねるように抱きしめた。

「うん……今日までずっと、君はがんばったんだよね、えらかったね」

 両手が純也の頭に回される。今日までそうされてきたように「よしよし」と頭をなでた。

「ねぇ。これでもう、志賀クンは大丈夫なんだよね? またすぐに死んだりしないんだよね?」

 千紗に問われて、正面の瞳をのぞきこんだ。

 うるんで、不安定な境界の向こうに、自分の顔が見える――〝数字〟が消えていた。人の不幸を知らせるものが、影も形も浮かんでいない。

 ――〝乗り越えた〟のだ。予定調和の内に定まっていたはずの『世界』を、けっして抗えないと信じていたものを、ただの人間の意識が、想いが、行動を促して、超越させた。

「……すごいな」

 純也は泣きながら、くしゃくしゃの顔で、子供みたいに笑った。

「無茶苦茶ですよ、先輩は。俺の死亡フラグ消えちゃってるじゃないですか。なにをしたんですか、一体」

 千紗も泣きながら、くしゃくしゃの顔で、子供みたいに笑った。

「私は、志賀クンと同じことをしただけだよ」

 誰かが誰かを助けようとして、結果的に、誰も死ななかった。そんな都合よくできた話が、小さな奇跡となって実を結んだ。それだけの話だった。

「……で、なんで冬物のコート着てるんですか」

「だ、だって、めっちゃ怪しいじゃない! この初夏に、バイザーメットつけて、軍人用のスーツで武装してるとか、不審者もいいところだよっ! あと女子的にもアウトだよ! だからせめて、上着を重ねて、補導だけはされないようにって……」

「暑くないんですか」

「暑いよーっ! もうめちゃめちゃサウナだよこれーっ!」

「落ち着いてください。皆が見てます。なにあのバカップル、トラックに跳ねられたのにイチャイチャしてる。とか思われてますよきっと」

「ちょ! 待って! 誤解だよっ! どんだけマゾなの私たち!?」

「あ、救急車が来たみたいですね」

 遠くから、救急車のサイレンが近づいてきた。

「では先輩、俺らたぶん救急車に乗せられるでしょうし。また後で会いましょう」

「……急にクールキャラになるよね。志賀クンは……」

「ほっとしたら、なんか普通に冷めましたね。もう癖ですこれは」

 そう言って笑う純也の顔は、けれど、晴れ晴れとしていた。


「――ジュン! テメェって奴は、本当に後先かえりみないんだな、このクソ馬鹿タレが!」

 入院して初めて、今の家族に怒られた。

 義父は雷を落としたように無茶苦茶に叱り、本気で頭を殴ってきた。義姉にも泣かれた。

「うぅ、ジュン君死んじゃったら、お姉ちゃんも死ぬんだから、忘れちゃやだよぉー」

「……ごめんなさい」

「バカたれが! 謝ってすむのは親がいる間だけだぞッ! いいか! おまえは俺の息子だ! どこのどいつがなにをほざきやがろうとも、おまえは俺の息子なんだ! わかったかッ!?」

「ごめん、わかったよ。〝父さん〟」

「だったら二度と、手前の命を粗末にすんなッ! 次に同じことをやらかしたら、俺の家から叩き出すッ! 返事しろクソガキがッ!」

「わかった。もう絶対に、同じことはしない。誓う。誓います。お父さん」

 誰かに叱られて、泣き叫ばれたのが、実は嬉しかったとはいえなかった。頭を殴られ、いつ終わるともしれない説教を受け、最後にはきちんと抱きしめられた。


「よーっす、純也。話聞いた時はマジビビったぜー」

「だよな。おまえ、ピンチの子供を助けるって、マジ勇者すぎんよー」

「いのちだいじにしろよな」

 亮介を含めたクラスメイト達も見舞いにやってきてくれた。やたらと大きなバスケットカゴに無造作につっこんだ果物を、どかっとベッドの隣に置いた。

「んで? その両腕は平気なのかよ?」

「あぁ。腕は骨折れてたけど、他は擦り傷ぐらいで済んでる。奇跡的に」

「んだよー。俺だって部活で骨ぐらい折ったことあるわー。三本ぐらいあるわー。心配させやがってよぉ」

「だよなー。ってかさぁ、腹へらねぇ? 果物食っちまおうぜー」

「いいアイディアだ。食おう食おう」

「おまえら……仮にも見舞いの品を自分たちで食うのか」

「俺らが金だしたんだぜ。文句ねーだろ。友情はプライスレスだ」

「そうだそうだ。ってなわけで、いただきー」

 言うなり、男子共は果物を、わっしがっしと掴んだ。亮介に至っては、リンゴを一個まるごとシャカシャカ齧りはじめた。

「いやぁ、肉も美味いが、たまに食う果物がうめぇんだよなー」

「わかるわー。ミカンウメェー」

「あ、このブドウ種入りだわ。どっか捨てるとこねぇの?」

「てか、純也いつ頃に復帰するん? おまえいねーと、どらはんの上級クエだりーよ」

「そうそう。『カオスナーガ』とかいうのがよぉ。マジパねぇんだわ」

「あとやっぱ、真面目にノート取るダチがいないとなー。古典の谷村の授業がさぁ、相変わらずクッソ単調で眠ぃんだわ。あれぜってー催眠音波出してるって」

「いや、ノートはちゃんと自分で取れよ……。俺もそろそろ金取るぞ?」

「そういうことなら仕方ない。俺がフリードリンクのチケットを奢ってやろう」

「それ結果的にタダ券じゃないだろ」

 傍若無人な野郎共は、散々好きなように食い散らかし「帰るべー」といって去っていった。


 一週間が過ぎると、すっかり日常が戻ってきた。普通の、いつもと同じ時間が流れていく。

 そして昼休みのはじめに、いつものように声がかかった。

「ねぇねぇ志賀くん、悪いんだけどー。今日もまた、委員の仕事お願いできないかなぁ」

「ごめん。今日もできないよ、有里さん」

「えー、なにか用事あるの?」

「特にないよ。俺もたまには、寄り道して帰りたいなと思ってね」

「えっ!」

 どこか優しい笑顔で言うと、クラスで可愛いと評判の有里さんは怯んだ。

「や、やだなぁ。べつに私の場合は遊んだりするんじゃなくってぇ。家の用事で……」

「なら、どっちかを優先しないといけないよな」

「そ、そうだね……」

「悪いけど他の人をあたってくれると、俺も助かるんだ」

「わ、わかったよ」

 すごすごと退散する。

 若干、恨みがましい気配も感じた。仕方ないかと思いつつ廊下にでると、

「――あーあ、ありゃ恨まれるぞ」

「亮介」

 ニヤリとしながら、亮介が隣に並んだ。

「な、俺が言った通りだろ。最初に良い顔してたぶんのツケが、ここで回ってきた感じだな」

「仕方ない。適当に上手くやってくよ」

「おう。その時はちゃんと周りも頼れよ。払うもの払えば、天は味方するぜ。たぶんな」

「頼もしい。あぁ、そうだ、実は亮介に相談があるんだ」

「ん? なんだよ」

「亮介の店で、バイトできないかな。それか、いいバイト先知ってたら教えてほしい」

「ほぉ。金が入用か?」

「いるようになる、と思う。もうすぐ夏だろ」

「あー、そうだな。夏といえば、いろいろ散財する季節だよなー」

 海に、山に、お祭りに。プールや花火大会などなどに。

「夏と言えば、やはり水着は欠かせんな。あとは、浴衣なんてのもあるのか……」

「そういうことだ。俺には金がいる。助けてくれないか、親友」

「わはは。いいだろう。リア充め。……人権を無視した非道な職場で、同年代に死ぬほどこき使われる覚悟があるなら、オヤジに直談判してやろう……」

 ククク、と邪悪な笑みを向けられた。純也も一言「よろしく先輩」と返す。

 こうして現役高校生は、一月後の夏休みを見すえ、期間限定でバイト社員にクラスチェンジすることが決定した。


 その日は曇りで、風も少し冷たかった。

「千紗先輩、退院おめでとうございます」

「ありがとー、もう本当になんともなかったのにね。お母さんが心配して、長引いちゃった」

「状況を聞けば仕方ないと思いますよ」

 純也は屋上で千紗と待ち合わせ、弁当箱を広げた。

「やっぱり俺は、あの事故で死ぬはずだったんですか」

「そういうことだね。あっ、タコさんウインナー頂戴」

「どうぞ。ところで先輩の持ってる〝力〟は、本当に時間移動――タイムスリップだったんですね。相手の色合いが見えるというのは、俺の本心を引きだす嘘で、そのために、何度も小規模なタイムスリップを繰りかえしていた、と」

「うん。なんていうか、あっさり信じてくれるんだね」

「にわかには信じ難いです。けど、俺も人のことは言えませんから」

 純也が苦笑すると、千紗もうなずいた。

「志賀クン、君は仲の良い人の顔を見ると、その人が三週間以内に死ぬかわかる。本当だね?」

「本当です。もう隠しても意味はありません」

 初めて誰かに真実を伝えた。

「じゃあ、これからはもう、嘘はつかないって約束してくれる?」

「わかりました」

「うん。それじゃ早速、質問です。私はいつ亡くなりますか?」

「見えません。まだ」

「いつか、見える日は来ますか?」

「来ますね。俺か、先輩か、どっちが先になるかはわかりませんけれど」

「そっか。はい、あーん」

 おだやかな風が吹きぬけていった。千紗が差しだした卵焼きを、自然な感じで食べる。目に見えるバカップルに、むざむざ近づく人影はいない。

「そっか。じゃあ、もし見えたら、その時はきちんと話してね? 〝数字〟が君の顔に、もしくは私の顔に浮かんでもね」

「わかりました」

「うん。嘘をついていない目だね」

「わかるんですか」

「君のことだけ、わかるよ」

 おたがいに笑った。それから純也は、なにかに誘われるように、後ろのフェンスの方を振り返った。中庭のベンチに一人、静かに座る少女が見つかった。

「――先輩、俺、飲み物買ってきます」

「うん。いってらっしゃい」

 嘘ではなかった。だから誤魔化せた。

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