『1』 志賀純也


 両親を、病気と、事故で亡くしてから、おおよそ十年。

 高校一年生、十六歳。志賀純也は、人との距離を図って生きていた。

 周りから孤立しない程度に付き合い、特定の誰かと深く接した経験がない。

「ねぇ、志賀くん、志賀くん、ちょっといいかなぁ?」

「なに? 有里さん」

 金曜の放課後だった。自分の席で帰り支度をはじめていると、クラスでも「カワイイ」と評判の女子が声をかけてきた。

「あのねー、私図書委員で、先輩から頼まれた仕事があるんだけどー」

「そうなんだ」

「そうなのー。でね、実はこれから、ちょっと外せない用事ができちゃって。そのぉ~」

「いいよ。俺でよかったら引き受けるよ」

「え、ほんと?」

「ほんとほんと。どうせ帰宅部で暇してるから」

「ごめんねぇ、じゃ、悪いけど、先輩には有里の代理ですって伝えといてくれる?」

「わかった。その先輩の名前、聞いてもいいかな?」

「うんうん。小野千紗っていう、地味でキツイ感じの先輩だから気を付けてねぇ」

「了解」

「助かるよ~、今度お礼するね~っ」

 クラスメイトの有里さんは、両手を顔の前で合わせてにっこり笑った。至近距離から小首を傾いで、狙った感じの笑顔をみせられると、純也も正直、悪い気もしない。

「それじゃ、図書室に先輩がいるはずだから、よろしくね」

「オッケ、了解」

「ほんとにありがと。また月曜日にね。バイバイ♪」

 ひらひら手を振って、足取り軽く離れていく。その背中が廊下の向こうに消えた時だった。

「――見てたぜ。純也」

「ん?」

 反対側から、今度は同じクラスの男子が声をかけてきた。

「どしたの、亮介。なんか機嫌悪そうだね」

「ちげーよ。あきれてんだよ。俺は」

 はぁ。と分かりやすいため息をこぼされる。

「おまえさぁ、引き受けるにしても、ちったぁ粘れよ。アレはまた頼みに来るぜ、間違いない」

「いいよ。それならまた引き受けるからさ」

「タダ働きしてんじゃねーよ」

 今度は「やれやれ」と首を横に振る。亮介は背が高く、そういった仕草もなかなか映える。女子からもモテる方だが、今はバイト一筋を通していて、純也と同じ帰宅部だった。

「純也はよ、他人の都合とか仕事とか、安請け合いしてる自覚あるか?」

「一応は。なんでかな、俺ってそういう風に見えるのかな」

「見える。ぶっちゃけ、チョロいんだわ」

 断言される。

「入学してまだ二ヶ月の付き合いだけどよ。おまえがなんか頼まれてるの、もう十回は見たぞ。っつーか、さっきもためらいなく即答したろ」

「帰宅部で時間余ってるのは事実だから。亮介みたいにバイトしてるわけでもないしさ」

「だからって、他人の仕事引き受ける言われはねーだろが。大体よぉ、有里が言ってる用事ってのも、予想つかねぇ?」

「他校の生徒混じりでカラオケとか? 試験明けだし、有里さんカワイイし」

「しっかりわかってんじゃねーかよ……」

 そうしてまた、あきれた感じに言われてしまう。

「わかってんなら次は断れよ。それともなに、おまえ人の頼みを断ると死んじまう奇病にでもかかってんの?」

 亮介はつまらなそうに言って、勝手に純也の机に座った。ズボンのポケットから携帯を取り出して、メール画面を開く。

「こっちもそろそろ店に行かんとな。オヤジにメール送っとこ」

「あ、そういえばさ。先週ぐらいから、駅前に新しい店ができてたよ。亮介は知ってる?」

「それな、ウチと同系列のフランチャイズ店だ。おかげで商売敵が増えて大変だってのに、本社はいちいちメニューの内容に口出してくんじゃねぇ! ――って、オヤジが毎晩グチってる」

「名義借りてたら、そういうの指導くるんだ」

「夏場は特にな。だから俺は独立して、将来は自分の店持つ予定だぜ。ま、それはともかくだ」

 メールを打ち終え、今度は財布を取り出す。

「気が向いたら寄ってけよ。ほれ、特別にドリンク券をサービスしてやろう」

「……財布の中に常備してるんだ、サービス券」

「味気ない名刺もらうよか嬉しいだろ?」

 ぴらっ、と出された紙片を、純也は受け取る。

「サンキュ。けどこれって単品で使えないんじゃなかったっけ」

「そこは友達割引って奴だ。WIN-WINでいこうぜ、俺たち友達だろ?」

「店に金は落とせと。友情とは一体」

「金の切れ目が、縁の切れ目だってオヤジが言ってた」

 シビアだった。

「んじゃ、ぼちぼちいくわ。じゃな、純也、お先」

「おつかれ、また週明けに」

「おう。近いうちにちゃんと券使いにこいよ。ウチの店は年中無休で週末もやってるぞー」

 しっかり営業をしてから、亮介も教室をでていった。

 純也も鞄を持って、頭の中で図書室の場所を思い浮かべる。

「確か、旧校舎の方だったな」

 一人ごち、廊下にでた。


 純也はよく、良い人そうだと言われる。

 特別に優れたところはないが、勉強も、運動も、そこそこできる。付け加えるなら、けっして嫌な顔をしない。反射的に疑問を感じたり、面倒くさいと思うことはあっても表にださない。

 そういう人間は、なんとなく『安心感』がある。

(――安心感のある人間は、実は一番、人と距離を取りやすい)

 十年前、父親を事故で失って、純也は親戚の家に預けられた。直接には血の繋がらない人たちと、今も同じ屋根の下で暮らしている。

 暗い顔や、悲しい顔をしていたら、追い出されると思った。だから懸命に良い子を振舞ってきたが、それも逆に心配をかけてしまうことを知った。

 結果、純也は亮介の言うように、チョロい奴の雰囲気をまとうことにした。単純な優等生ではなく、ちょっとだけ格下に見られ、頼りにもされる。毒にも薬にもならない、そんな奴だ。

(他人への無関心を貫くには、むしろ隙があったほうが、都合が良い)

 高校一年生の志賀純也が、はやくに獲得した処世術。他者への無関心を隠した上で、距離を保つ手段。

(相手と、良い人の距離を保っていれば、あの〝数字〟も映らない)


 『3』『2』『1』――『0』。

 人の顔。こめかみのところに〝数字〟が浮かぶ。

 その人たちは、友情や愛情など、純也が一定の親しみを抱いた相手にのみ限った。

(俺は、親しくなった相手の顔に〝3週間以内の不幸〟が見える)

 どうしてそんなものが見えるかは、純也自身にもわからない。

 ただ、見えてしまう。

(あの日から、相手の顔色を窺って、生きている)

 小学生にあがった頃には、慎重に生きるのが癖になっていた。

 表向きはバカ騒ぎに興じつつ、常に感情の振り幅を見定めた。息を潜めていることを悟られないよう、他人とつかず離れずの距離を取って生きてきた。

(これまでも、これからも。必要以上の感情はいらない)

 改めて考えながら、旧館の階段をあがっていく。


 六月の中旬。

 夏至も近づき、窓の外に浮かぶ西日は沈むまでが長い。十分に明るい放課後の廊下を歩き、つきあたりの、図書室と掛けられたプレートを確かめた。

「失礼します」

 図書室の中に入る。ざっと見回してみるものの、他の図書委員であるはずの先輩の姿はない。受付の席は空いていて、電源の落ちたパソコンの側に、学校指定の鞄だけが置いてある。

(トイレにでも行ってるのか?)

 思った時だった。部屋の奥から扉の開く音がした。

 本棚の向こうにも別の書庫があったらしい。中から、ハードカバーの本を両手に抱えた、三つ編みの女子生徒が現れる。

「…………」

 じっと、純也の顔をにらみつける。平均的な身長の純也よりも、頭ひとつぶん小さい。全体的に線は細いが、警戒心だけは丸出しの、なんだか野良猫のような女子生徒だ。

「貸出、返却、どっち」

「え?」

 女子は突然に聞いてきた。

「あ、本を借りにきたわけじゃなくて。俺、一年の志賀と言います。有里さんの代理で、委員の仕事を手伝いにきました。えっと、小野先輩ですよね?」

「そう。二のA、小野千紗。で、彼女は休み?」

「いえ、個人的な用事があるとのことで」

「サボりか。余計なのがいなくて、こっちも楽だわ」

 小柄で華奢な割に、態度は辛辣で迫力がある。純也と違って、そもそも愛想と呼ばれるものが欠落した感じの女子生徒は、抱えていた本を受付に置いて、備え付けの椅子に座った。

「いいよ。君も帰って」

「はい?」

「たいした仕事じゃないから。一人でやる」

「えぇと……」

 純也もまた、少し迷ったが口にする。

「だけど、本当は二人でする予定だったんですよね。俺、手伝いますよ」

「君も仕事押し付けられた口でしょう。いいから」

 この時、純也の頭の中で働いたのは、ありふれた打算だった。

「小野先輩、ひとまず話だけでも聞かせてくれませんか。マジで役に立たなかったら、追い出してくれて構わないので」

 普段、顔を合わせる機会のない先輩の命令を聞くよりも、同じクラスの、影響力のある女子の頼みを断った。という事実ができるほうが面倒くさい。

「わかった」

 純也の言葉を、どう受け止めたのかは知れない。

 無表情のまま、千紗はうなずいた。

「やることは新しい蔵書の登録管理よ。話どこまで聞いてる?」

「すいません、内容については詳しくは。こちらの本がそうですか?」

「そう。奥の方にもあるから、とりあえず持ってきて。ぜんぶね。できたらケースごと。搬送用のキャリー、タイヤが割れて使えないの」

「わかりました。俺も鞄、そこの長机に置かせてもらいますね」

「どうぞ」

 純也は、千紗がでてきた扉の方に向かった。ほこりっぽい室内に、隙間のできた蔵書ケースを見つけ、抱えてから元の部屋に戻る。

「小野先輩、これですかね?」

「うん」

 千紗は振り返らずに言いきった。純也が戻ってくるまでの間、受付に置いてあったパソコンに電源が入っている。起動の準備をはじめていた。

「結構かかりますね」

「うん。遅い。すごく遅いの」

 一世代前のパソコンは、ジリジリと音をあげながら立ちあがる。千紗は、PCのデスクトップ画面をマウスで操作して、アイコンをクリックした。

「やっとでた。これが蔵書検索用のシステムね」

「へぇ、最近の本屋に置いてあるやつに似てますね。あれは、タッチパネルでしたけど」

「そうね。これはキーボードで直接入力するしかないわ」

 千紗が説明しつつ、マウスで画面を操作する。画面上にある一覧のタブから「書籍入力用」と記された欄をクリックして、本のタイトルを手打ちで記入した。

「タイトルと、作者の名前を入れたら、最後にバーコードを読み取るの」

 本の裏側には、貸出専用を示すバーコードが貼ってある。そこに読み取り機を押し当てると、ぴっと音がして、画面のコード欄に番号が挿入された。

「これで登録完了ね」

「へぇ、裏では結構アナログな処理なんですね」

「ここのシステムは古いからね。今時の書店は、書籍情報はぜんぶインターネットで版元から取り寄せてるし、検索システムも自動でアップデートしてるのよ」

「小野先輩、詳しいんですね」

「そ……そうでもない」

 ぷいっと顔をそらして、千紗は続けて、二冊目の登録にかかった。

「そ、それでね、私が登録するから、君は、登録した本を棚に埋めていって。むこうの棚から作者順で〝あ〟の人から始まってるから」

「わかりました。ところで、これだけの本を入れるスペースは、大丈夫なんですか?」

「平気。入れ替えるための古い本は、昨日の内に処分したから」

「なるほど。了解です」

「そうだ。あとね、本を入れ終えたら、私が登録した入力情報に間違いがないか、納品リストを再確認したいんだけど」

「はい。……え、それって」

 ここにパソコンは一台しかない。書籍データというのも、結局は千紗が手入力した情報がでてくるだけだ。

「ね、面倒でしょ?」

 千紗が言った。本棚に片付ける作業を行ったあと、入力データそのものに、ミスがないかを再点検するのは、確かに余計な一手間だ。それに千紗のデータ入力を待っている間、純也にできる仕事はない。時間を持て余すことになってしまう。

「だから帰っていいよって、言ったわけ」

「なるほど、わかりました。準備ができたら言ってください。先輩」

 しかし面倒なのを理解した上で純也が言うと、さすがに千紗も眉をひそめた。

「君ね。人の話を聞いてたかな?」

「聞いてましたよ。入力ミスがあったら、あとで本を検索する人が困るかもしれない。そうなると後から余計な仕事が増える。だから今のうちに確認しておく。ですよね?」

 まっすぐ言うと、千紗は、曖昧に返してきた。

「正直、二度手間だし、非効率だし……」

「いいですよ。俺のことなら気にしないでください。元々帰宅部で、委員なんかもやってない暇人ですし」

「……君、変わってるね」

「周りからは、良い人だって言われますよ?」

「扱いやすい人の間違いでしょ」

 根負けしたように、千紗はほんのり笑った。

「わかったわ。えっと、志賀クン、でいいのかな?」

「了解です。小野先輩。では作業に移りましょう」

 それから二人は、決めた役割を進めていった。


 新しく届いた本は、六十冊近くにも登った。登録の見直しまでを含めると、午後の七時が近づき、さすがに陽も沈みかけていた。

「確認終わりました。入力ミス、特に見つかりませんでしたよ」

 最後は一時間以上も席に座って、パソコンの画面と、用紙との入力欄とにらめっこした。

「ありがとう、お疲れ様。志賀クン」

「いやぁ、さすがに目が疲れましたね。先輩はよく、その小さな画面でやれますね」

「なれてるから」

 そう言った千紗の手には、スマホがあった。外部メモリにコピーしたファイルを操作して、パソコンを純也に譲り、自分はその画面で入力情報を確かめていた。

「スマホって、そういう事にも使えるんですね」

「古いエクセル用のマクロを使ったファイルだったからね。互換性があれば大丈夫」

「マクロ? 小野先輩って、パソコンとか詳しいんですか?」

「そ、そうでもないよっ」

 また、ぷいっと目をそらす。少しだけ、頬を赤らめたようにも見えた。

「本当はもう一台、せめて新しいPCがあればって、思うんだけど」

「その辺りの予算って都合できないんですか? 生徒会にかけあったりは?」

「難しいの。ほら、こっちは旧校舎の棟だし。単品で値のつく予算は、視聴覚室なんかの設備にいっちゃうから」

 不満そうな顔を隠しもせず、千沙は続けた。

「ここは、PCを使う頻度自体は多くないんだけど。やっぱりね、今日みたいな作業をする日には、いちいち立ち上がりが遅いのとか、メモリ不足でエラーでるとイライラするの」

「わかります。パソコンが途中で止まると、待つ間がヒマですからね」

「っていうか、むしろ検索ソフトの中身を根底から書き換えたい」

「先輩、やっぱりパソコン詳しいんですね」

「そ……そうでもないよっ! オタクじゃないんだから……っ!」

 よくわからなかったが、そこはあまり触れてはいけない話題らしい。

「えーと、俺は本を借りたい時って、学校外の図書館に寄ることが多いんですが。一般の人も多いんで、いつも結構混んでるんですよね。ここって、普段からこれぐらい空いてるんですか?」

「んー、試験期間が近づくと、それなりに増えるよ」

 千紗の言葉づかいは、相変わらず突きはなす感じだ。それでも心なしか、純也がここに来た時よりもやわらかい。

「これから夏休みに入る前に、最後の期末試験があるからね、その時は増えるかな。でも満席になったりはしないよ。だいたい、いつ来ても座れるぐらいには余裕がある感じ」

「そうなんですか。なんか穴場って感じで良いですね」

「うん。今なら落ち着いて勉強できるよ、オススメ」

「俺も利用しようかな」

「どうぞ」

 千紗の口元にやっと、確かな笑みが浮かんだ。

(この先輩、素がこっちで、真面目なぶん、一度怒ると怖いタイプかな)

 作業をきちんと、必要以上に細かく求めるところからも、職人気質な性格なのかもしれない。

(確かに有里さんとは馬が合わないかもな。俺は嫌いじゃないけど。それに)

 千紗は、ちょっと地味だが、小柄で可愛い人だった。

(どっちかっていうと、タイプかな)

 自然なメイクもしていない。制服の襟元やスカートの裾も、生真面目なほど校則に当てはまる。それでも間近で話してみればわかる。素顔はとても、美人の類に入ること。

 しかし、純也の気持ちが動きそうになった時、心の中で〝鍵〟が掛かった。

 ――カチャリと、音をたてる。感情が、すっと冷える。

「先輩、作業も終わったし、そろそろ帰りませんか?」

「そうだね、もう遅くなってきたものね」

 相手の顔に浮かぶ〝数字〟を見ないために、十年の歳月をかけ、意識的に作りあげたもの。

 自分の感情をニュートラルに制御する〝鍵〟。

(――相手に必要以上の興味を持つな。関心を覚えるな)

 千紗の顔色を窺いながら、純也は静かに身をひいた。異性の先輩と二人きりで話をしている。そんなほのかな熱も、相手に対する興味ごと、波を返すように引いてゆく。

「じゃ、俺はこれで。お疲れ様でした、先輩」

「……待って」

「え?」

「志賀クン、お願い。君の顔をよく見せて」

「はい?」

 千紗が席を立ち、中腰になった純也の顔を覗き込んできた。じっと静かに、なにかを見すえ、つかみ取るように。透き通る虹彩が、純也のそれと重なって映りあう。

「な、なんでしょうか」

「ひとつ、君に聞いてもいいかな?」

「構いませんけど……」

「君は、私のことを、どんな風に思ってる」

「………………え?」

 どくん。心臓が高くなる。顔に火がつきそうだった。

 その熱を冷まそうと、もういちど〝鍵〟が回る。感情がまた凍りつく。

「もしかして、先輩のことぶしつけに見てました? 不快でしたら、すみません」

「そ、そんなことないよ。むしろ気になるのは、今だよ」

「今?」

「うん……うぅん、ごめんね。なんでもない。今言ったことは忘れて。帰ろっか」

「わ、わかりました」

 純也も席を立ち、二人そろって図書室をでた。

 現実にある扉の鍵を閉めたあと、一階まで、なんとなく二人、黙って下りる。

「あ、私ね、鍵を職員室に返しに行くから」

「はい、それじゃ俺はこれで。失礼します」

 軽く会釈して、その場で別れた。あとは何事もなく帰路についた。


 翌日の土曜日。学校は休みだったが、制服を着て正門を抜けた。

 平日よりも、ゆっくり到着した朝の九時。空きの目立つ自転車置き場に自転車を止め、運動場から聞こえてくる野球部の声を聞きながら、職員室に向かった。

「失礼します」

 純也が部屋の中をのぞいてみると、白髪の浮かぶ、初老の担任教師と目があった。

「おや、志賀くん、めずらしいですね。学校に用事ですか?」

「こんにちは、植田先生。自主的に勉強をしたいのですが、図書室の鍵をお貸し願えますか?」

「図書室ですか。ちょっと待ってください」

 純也の担任は別の教師と言葉を交わし、各教室の鍵を管理している金庫を開いた。それから、入口に立つ純也の方に戻ってくる。

「部屋をでる時は、必ずこちらまで鍵を返してくださいね」

「わかりました」

「あと注意を二点ほど。休日は本は借りられないので、そのことについての了解と、一時ごろには私も帰りますので、部屋の使用はそれまで限りという事でいいですか?」

「はい、わかりました」

 了解すると、担任教師は、純也に鍵を渡してくれた。

「志賀くん、君の成績は上の方ですし、試験明けの休みを使ってまで、根を張りつめなくてもいいんですよ」

「大丈夫です。場所が変わると良い気晴らしになりますから」

「そうですか。教師がこういうのもなんですが、適度にね」

「はい、ありがとうございます」

 教師に礼を言って、昨日と同じ図書室に向かった。


 図書室は、昨日と同じ状態のままだった。

 外の陽は高々と輝いている。千紗の姿はもちろんない。

(昨日の今日とか。俺、なんか意識してんのかな)

 帰り際の、千紗の態度が気になったということはある。

「……まぁいいか」

 純也は昨日と同じように、長机の上に鞄を置いた。窓も締め切っていたので残らず開く。風に届けられる運動部の声をしばらく聞いていた。

「せっかくだから、なにか読むかな」

 昨日整理したばかりの書棚に向かう。特に意識はせず、タイトルや背表紙を見て、直感に任せて本を取る。収納棚に限りがあるためか、本の一群は作者順のみで整理されており、細かくジャンル分けされてない。

(雑多に並んでる方が、俺的に都合が良いな)

 新刊のライトノベルの隣に、自己啓発書が置いてあったり、分厚い専用の学術書が並んでいたりもする。背たけもまちまちで、不揃いな棚の間を、ざっと一巡して席に戻った。

 抱えてきた本を横に置き、一冊を取って、静かに本の世界に没頭する。

(〝鍵〟回れ)

 心に伝える。興味や感情を覚ますのに用いる〝鍵〟で、感情をロックした。

 純也の意識は一瞬にして冷える。余計なものを遮断し、手元に開いた本の活字にだけ、目を落とす。

 『本の世界』が、リアルを上書きする。仮想が、現実に昇華される。

(活字しかない世界の向こうに、人が生きている)

 純也にとって、あらゆる本は『世界』に等しかった。

 その場所は、ありふれた者から、際立つ才能を持つ者まで様々な人間がいる。だというのに、彼ら、彼女らは、共通してありふれた悩みを抱えていた。

 どんな『世界』でも、人は常に『答え』を求めている。

 自分たちが生きる『理由』を欲している。強く求め、願っている。

「…………」

 ページをめくる。純也は本を読んで、自分もこうなりたい、あんな風になりたいとは思わない。でも少しだけ救われるのだ。その『世界』の先にいる、他人の不幸を知る事ができるから。

 浅ましい、惨めな感覚。哀れな同類を求める意識たち。

 三週間以内の死期――〝数字〟が見える自分。忌避されるだけの才能。

 しかし異なる『世界』は教えてくれる。

 君にもまた、存在する理由があるかもしれないよ。

 今はこの場所にあっていいんだよ。そんな風に、なんとなく思えてくる。

 

 純也は一気に、何冊も読みきった。

 伸ばした手が空を泳いだとき、積んでいた本を、すべて読み切ったのだと知った。

「……ふぅ」

 意識が戻る。額からひとすじ、汗が伝った。

 幾分にも暑くなりはじめた初夏の風を感じると、ふと、人の気配を感じた。

「すごい集中力だね」

「え?」

 顔をあげると、対岸の席に、昨日見た顔が増えていた。

「お……小野先輩?」

「今日も誰かの手伝いで来たのかな」

 その音色は、どこか純也をからかう口調で、楽しそうだった。

「いえ、自主勉です。親切な先輩から穴場を教えて頂けたので」

「そっか。良い心がけだね」

 千紗が微笑む。昨日と違って、ずいぶんと親しげな表情を浮かべている。不覚にも、どきりとさせられた。

「先輩、今日は三つ編みじゃないんですね」

「うん。休みの日は、少しゆるいかな」

 千紗の格好は、相変わらず校則を守っていた。代わりに今日は三つ編みは下ろしていて、艶のある黒髪がさらさらと揺れている。飾りのついたヘアバンドも付けていた。

「土曜って、校則がゆるくなるんですか?」

「先生が多目に見てくれる分にはね。あとは、私の気分も、ちょっとだけ」

 会話は自然と、リズム良く揺れた。

 開いた窓。階下の音楽室から、ピアノの音色が聞こえてきた。楽譜をさらい始めたばかりなのか、流れるメロディは、まだぎこちない。

(踏み込むな)

 徐々に急く心臓。居心地の良い雰囲気とは裏腹に、純也の精神は警告をあげた。儀式めいた〝鍵〟を、ふたたび意識にかける。

 感情は冷めた。あとに残るのは、敵意のない笑顔を浮かべる良い人だ。

 必要以上の関心はもたない。繋がりも残さない。それをやぶれば、相手の顔には、近々不幸を知らせる〝数字〟が浮かぶことになってしまう。

「先輩も、今日は自主勉ですか?」

「うん。それと昨日、君に変なことを言ったでしょう。だから、気になって」

「別に気にしてませんよ」

「そっか。でもね、その……今日も、君がここにいたらなって、期待してたの」

 心臓が高鳴る。顔もほのかに発熱しかけ、また〝鍵〟が回った。

「俺はそうでもないですけどね」

 急すぎたせいか、突き放すような声がでた。

「うん。志賀クンは……」

「なんですか?」

「やっぱり。なにかが〝見えてる人〟だよね?」

「……はい?」

 千紗の表情が、ほんの少し険しくなった。

「私の事を、なんとも思わなくなったね。意図的に興味を消したのかな?」

「っ!」

 ずきん。今度は嫌な感じに心臓が痛む。

「志賀クン、君は、私の事を好きになったら不都合ある?」

「一体なにを言って」

「私はね――」

 千紗はが遮る。先んじて告げた。

「相手の顔を見ると、そこに、感情の色が、イメージとして浮かぶの」

「感情の色?」

「君の目に映る世界は、とても透明で、色があせてる」

 その時ちょうど。正午を知らせる鐘が鳴る。

 背すじを、冷や汗が流れ落ちた。


 私は、相手の顔を見ると、感情の色が浮かぶ。

 他に誰もいない図書室で、千紗は言った。

「経験上ね、赤は情熱の色。明暗で好意と敵意にわかれる感じかな。青は友情。黄色は単純な好奇心で、反対に緑は慎重な感じ。物事に対する深い造詣や関心がある色だね。それで――」

「待ってください、先輩。話についていけません」

「いいから聞いて。あとで君の見ているものについても、教えてほしいから」

 強い口調で、千紗は純也を制した。

(……どうしてわかったんだ?)

 どくん、どくん、どくん。

 心臓が焦り、早鐘を打ち始めていた。

「先輩、仮にその話が本当だとして」

「本当だよ」

「俺が先輩に向けてた色を聞いてもいいですか?」

「うん。最初から緑が来て、珍しいと思ったよ。志賀クンも私と同じで、あまり他人に関心を払わないで生きてるのかと思ったけどね」

 どんどん核心を突いてくる。血の気が、さーっと引いていく。

「君は一見すると愛想がいい。私と会話している間に、緑から少しだけ、ほんのり明るい赤に染まっていった」

 赤は情熱の色。好意と敵意。それはつまり、

「……あの、別にやましい気持ちとかは無かったんで。本当ですよ」

「うん。キスしたいとか、押し倒したいって感じの、卑猥な色じゃなかったね」

「流石にそんな失礼なことは」

 ありえないですよ。言いかけて息をのんだ。入口の方を窺ってから、改めて人気がないことを確認して尋ねる。

「そういう色も、見えてしまうんですか」

「男子の妄想なんて、一番透けて見えるものだよね?」

 痛いところをつかれた。

「ですが先輩、エロのない妄想をしない男子なんて、この世にいませんよ」

「開き直りとはいい度胸だね?」

「……すみません」

 視線が泳いだ。ものすごく気まずかった。

「その。先輩は俺の様に生きてたら、むしろそういう、色に晒されるわけですか?」

「単に人付き合いが面倒だって思うのも本当よ。志賀クンの場合は、最初の一歩だけは、あえて踏み込ませるようにしてるでしょ?」

「そうですね」

 素直に吐露した。

「小野先輩って、確かに近寄りがたいですもんね」

「まぁね。ってあんまりハッキリ言わないでよ」

「事実ですから」

「そこは謝らないんだ。いいけどね。で、君がそういう風に、上手に人との距離を置こうとしているのはどうして? 私と同じように、特別なものが見えるからじゃないのかな?」

 どこか興味深そうに、心なしか目を輝かせて聞いてくる。

 この『世界』で息をひそむように隠れている『異端者』を求めているような、興味心。きっと同族を求めているのだと、純也は思った。

「念の為に聞いておきますけど、先輩って、どこかのマンガとか、ライトノベルに影響されて、そういう事を口にしてるんじゃないですよね?」

「それなら良かったよ。きっと、私の力は、誰かの役にたつからね」

 千紗は変わらない口調で言いきった。

「物語の主人公って、自分と対立した相手を『悪だ』と断言して、物的に滅ぼせるじゃない。でも世の中には実際、そこまで分かりやすいものってないよね。だいたいは、運命なんかとは程遠い、運が悪かっただけの事故で片づけられるものばかりだよ」

 ――事故。純也の心臓がまた、不規則に反応する。

「むしろ表にでてこないもの、暴力で片づけられないものの方が、ずっと醜悪でドロドロしてる。仮に目に見える巨悪なんかがあったとしても、私はそれに立ち向かう風には生きられない。ハッキリ言って、面倒なのは嫌だから」

 千紗が口を動かしながら、両手と肩が震えているのが、純也には知れた。

「だからって、毎日、暗い顔してるのは、もっと嫌だよ。苦しいし、悔しいもの。他人の顔色を気にしてバカにされるぐらいなら、こっちから見下して、遠ざけてやる方がマシでしょ?」

「そういう気持ちも、わからなくはないです」

「わかろうが、わかるまいが、どっちでもいいわ。ただ、君の事を聞かせてくれたら、十分だから。――私は君のことが知りたいの」

 真剣なまなざしだった。その視線から逃げられない事も悟った。

「わかりました」

 ほんのいくらか目を閉じて、居住まいを正す。

「俺も、自分のことを話しますね」

「うん」

 深呼吸をはさんで、純也は冷え切った心で伝えた。

「俺は、相手の顔を見ると、その人間の言葉の真偽が見えます」

「えっ?」

「本当のことを言ってるか、嘘をついてるか、分かるってことです」

「そっか。じゃあ、私の言葉は、君の目にはどう映ったの」

「真実です。先輩は嘘をついていません。妄想を口にはしていない」

「もう少し詳しく教えてもらえるかな?」

 どこか信用してない口調の千紗に、純也は平然とウソを吐く。

「こめかみのところに、模様が浮き上がります。先輩と同じくイメージで、○か×といった記号が浮きますね。俺の場合は、その相手に一定以上の興味っていうか、関心がないと浮かびあがることはありませんが」

 ただし、ウソの中には真実を混ぜた。

「……志賀クンは、相手の本心が見えるから、気持ちを消して遠ざかるの?」

「そうです。俺は他人の本心を見たくない。とはいえ、先輩のように敵を作りながら、苦労して生きたくもありません」

 気づかれないよう、声には緊張感を装って喋り続ける。

「これは俺の持論ですが、みんなに良い顔をしてる人間は、本当のところで信用されません。そのかわり、流動的に新しい関係が作れて、同じような接点が生まれます。最低限のコネクションを維持していれば、生きることに支障はない」

 口はよどみなく喋りきった。千紗が複雑な表情を見せている。

「……君は、なんていうか……大人びているんだね。あまり良くない意味で」

「俺は両親が亡くなっているんです。だから、こんな感じにならざるを得ませんでした」

 会話の着地点も定めた。狙い通り、千沙の表情は陰る。

「……そうなんだ。ごめんね」

「いいですよ。実は俺も、秘密を打ち明ける相手が欲しくて、今はほっとしてます」

 虚実織り交ぜて、純也は自分の事をさらけ出した。

(俺に見えるのは〝3以下の数字〟。三週間以内の死期、それだけだ)

 千紗は言った。この世に『運命』なんてない。運の悪い事故があるだけだ。

 だが、純也には見える。

 『運命』に昇華されてしまった不幸が〝数字〟として見えてしまう。 

(小野先輩は知らない。他人ではいられなくなった相手が、自分の無力さを嘲笑するように亡くなっていくのを、知らないんだ)

 助けられた〝かもしれない〟人を、助けられなかったこと。

 その事実は、純也の人間性を変えてしまうのに、十分だった。


『――まずは相手の顔を見なさい。言葉を伝える時も、謝る時も、なにをするにしてもだ』


 不意に、亡くなった父親の言葉が蘇った。

 誠意を持って生きる。生真面目な父親は、亡くなる前にそう教えた。


『――相手の目を見れば、その人間が、どういう人かよく分かる』


 父親の教えは、純也の中で、本来の意味からは歪んでしまった。

(相手の目を見ろ。なにを考えているか予測しろ。その上で、無関心を貫け)

 純也はあきらめている。人との関わり方を、物事の一部として承知させている。

(俺はけっして正体を明かさない。同じ境遇の仲間が欲しいなら、他所でやってくれ)

 心は冷ややかに告げていた。裏腹に、表情には明るい色が浮かぶ。

「さてと。もうすぐ一時ですね」

「えっ?」

 壁にかかった時計の針は、すでに三十分の辺りを回っていた。

「図書室の鍵は、一時になる前に返しに行く約束なんです。部屋も閉めなくてはいけないので、申し訳ないんですけど」

「私も鍵を借りにいった時に聞いたよ。そろそろ帰る支度しなきゃ、だね」

「はい。それと小野先輩、今日の話は他言しないようお願いします」

「わかってる。私の方からもお願いね」

「もちろんです。じゃあ俺は、だしてきた本を戻してきます」

「私も窓閉めよう」

「ありがとうございます」

 席を引いて、二人そろって立ち上がる。

(もうこの場所には来ない方がいい)

 千紗と知り合って二日。時間にすれば半日にも満たない間に、これまで隠してきた事の大半が知られた。千紗が抱えている、同じ類の秘密も知ってしまった。

(深入り以上の何物でもない)

 聞くべきじゃなかった。そう思う。

「……志賀クン……」

 なのに、今もかすれて、消えそうな声を聞いた。意識の方は「無視しろ」と告げるのに、

「はい、なんですか。小野先輩」

 あまり良い予感はせずに、動作を止めてたずね返してしまう。それもクセだった。

「志賀クンは、誰かの頼みを断らないって言ったよね」

「引き受けますよ」

 でもそれは、親切心じゃない、打算だ。

「人を、好きにならないんだよね」

「必要以上にはなりませんね。嫌いにもならないですよ」

 芽生える感情は、意識の奥にある〝鍵〟を回せば閉じる。家をでる時に、玄関を閉めないと不安になるのと同じだ。日常的な動作として成り立っている。

「じゃあ、私のお願いを聞いてくれる?」

「聞きますよ。どうぞ、なんなりとおっしゃってください」

 それが、純也に染みついた生き方だった。

「志賀純也、クン」

「はい」

「私とお付き合いしてください。ただし、私のことを好きにはならない、という条件付きで」

「…………」

 心にしっかりと〝鍵〟をかける。いつもの様に返事をした。

「わかりました、小野先輩。俺でよければ、付き合わせていただきます」

 

 午後一時。土曜日で飲食店がもっとも繁盛する時間に、二人はやってきた。

「いらっしゃいませー! 二名様で……」

 快活な店員の声が、ファミレスの中で響いた。

「亮介、割引チケット使いにきたよ」

「純也、と?」

「こっちは先輩」

「二年の小野です、どうも」

「あ、どもっす。席はちょうど、そっちの窓際のテーブル席が空いて……二名?」

「あってるよ、二名で」

「……え、なに? おまえ、俺の昨日までの志賀純也っつー、クラスメイトのデータと違うんだが?」

「上書き保存しといて」

「いやぁ、難しいっすわー。理解に苦しむわー。主に女連れというところに明確な違和感を覚えるっつーか。マジ? 彼女じゃないよな?」

「ついさっき、条件付きで」

「そうか。よし帰れこの野郎――ぐぼぁあっ!?」

 亮介が笑顔で客を追い返そうとした時だ。

「……このクソ忙しい時間帯になに油売ってんだ……しかもお客様を帰そうとするなんざ縁切られて野良犬のエサになりてぇのか……?」

 ニンジャの様に背後に忍び寄った女性店員が、ものっそい裏声で、客には見えないところで肘打ちを入れていた。眉間に寄った皺は、光速もかくやという勢いで笑顔に変わる。

「いらっしゃいませー! 二名様ですね~。申し訳ありませんが、混む時間帯ですので相席をお願いするかもしれませんが宜しいでしょうかー?」

「俺は構わないです。先輩は?」

「私も平気」

「はい、それでは窓際のお席が空いているので、ご案内いたします。……おらそこの愚息ぅ、テメェもはよ業務に戻れやバイト代削っぞ、んん……?」

「う、うす……すんませんした。副店長」

 亮介は脇腹を抑えて「解せぬ……」という顔で、他席のオーダーを取りに向かった。


 料理を注文して、セルフのドリンクを入れてから席に戻ると、千紗が言った。

「あ、志賀クン、携帯のアドレス、交換してもらってもいい?」

「いいですよ」

 携帯を取りだして、千紗と番号を交換する。

「志賀クンの携帯って、ちょっと古い型だね」

「携帯は、電話とメールができたら何でもいいよ教です」

「ウチのお父さんと一緒。バッテリーが充電のしすぎで切れてきたら、買い換えるんだよね」

「そうですね。あと、親にねだるのも気が引けるので」

「志賀くんの親って、厳しいの?」

「いえ、むしろ緩い方です。さっきも少し言いましたけど、義理の関係なので」

「あ……そっか。ごめんなさい」

「いいですよ。ぜんぜん。それより、頼んだポテト来ましたね」

 店内の廊下の方を見ると、皿を運ぶ亮介の姿が映った。

「お待たせしました、こちらフライドポテトになります。他の料理はもう少々お待ちください」

 営業スマイルで爽やかに笑ってから、さりげなく背後を振り返り、別の店員の気配がないことを察知する。

「で、どういうことだよ純也。クソババアに気づかれないうちに、簡潔に五秒で説明しろ」

「小野先輩と条件付きで付き合うことになった」

「だから、そこんとこがわかんねーんだよ。つーか……はっ! ではごゆっくりどうぞっ!」

 厨房の方からオーラを感じたのか、素早く、しゅたぁーっと踵を返していく。超はやい。

「……えっと、彼って、君のクラスメイトなんだよね?」

「そうです。結構人気ありますよ」

「そうなんだ。なんていうか……世話焼きオカンな感じだよね。レアだわ」

「どれぐらいレアなんですか?」

「うーん、課金ガチャで、出現率5%ぐらい?」

「かなりレアいですね」

 純也はドリンクを飲みながら、友人を評価する。

「亮介は、確かに良い奴なんですけどね。基本的にヘタレで、うちのクラスの残念なイケメン枠と評判です」

「納得よ。見るからに尻に敷かれそうな色だわ。あ、ポテトもらうね」

「どぞ。俺もいただきます」

 熱々に、カラッと茹で上がったポテトを運ぶ。塩気も良く効いていて、美味しい。

「美味しいね。ケチャップかけていい?」

「どうぞ。マスタードは使います?」

「断然ケチャップ派。トマトは偉い、すごい、万能い」

「了解す」

 千紗が真顔で言うので、マスタードには退場を願った。山に盛られたポテトの中央に、勝利を確信した真っ赤な液体をにょろっと注いで、満足げに口に運ぶ。

「ぽてと美味しい~」

「先輩、なんかこう、至福のオーラが出てます。すげぇふわっとしてる」

「至福だよ~」

 ほころんだ時、二人が頼んだ料理がやってきた。運んできたのは、さっきの女性店員だった。

「お待たせしましたー、ハヤシライスの大盛りと、ミートソースのパスタでよろしいでしょうか?」

「はい、こっちハヤシです」

「かしこまりました」

 テーブルの中央に大皿が置かれる。あわせて大匙のスプーンが純也の方に、それからフォークが千紗の前に置かれて、

「あ、すいません、私――」

 口をはさんだ。「はい」と店員が応対すると、千紗はとっさに純也の方と手元を見て、伝えかけた言葉を閉ざした。

「な、なんでもありません、大丈夫です」

「わかりました。なにかありましたら呼び鈴の方でお呼びくださいね」

 笑顔で、颯爽と離れていく。

「先輩、どうかしたんですか?」

「え、えと、うん。お、美味しそうだなーって思って」

「ミートソースも、トマトですよね」

「そうだよ。万能トマトだよ。志賀クンのハヤシライスも美味しそうね」

「白米に落ち着きますね、最終的に。あと肉ですか」

「ご飯にステーキとか?」

「王道にして別格ですよね。メニュー見ても、王者の風格が漂ってますし。主に値段が」

「男の子って、やっぱりお肉好きなんだね」

「嫌いな奴は珍しいですね。で、ポテトが冷めますし、とりあえず食べませんか」

「そ、そうだね。いただきます」

「いただきます」

 正直、ポテトで収まる以上に腹が減っていた。ガッとスプーンを握って、ガッガッと食う。

「……」

「先輩? 食べないんですか?」

「た、食べるよ。食べたい、とても」

 微妙にカタコトだった。心なしか、手にしたフォークがぷるぷるしている。なにか慎重に、やけに丁寧にパスタを巻きつけ、そぉっと口に運ぶ。

「先輩、制服が汚れるのとか気にしてます?」

「そんなことはないんだよ!」

「あ、そうですか」

 真顔で言いきられた。それもどうかな、と思わなくもなかったか、ひとまず答えを持つ。

「…………わ、笑わないって、約束してくださいね?」

「承知しました」

 何故か丁寧語だったので、丁寧に返した。

「私は、フォークが使えません」

「はい?」

「お箸しか使えません。ナイフは、そこそこなんだけど」

「あ、はい……」

 二人は示し合わせたように、テーブルの隅に置かれた備え付けの食器ケースを見た。しっかり割り箸が用意されている。

「先輩」

「うん」

「…………は、箸を、使っても、いいんですよ?」

「し、志賀クンっ! なんで俯いたの今! 全身で必死に何か耐えてるでしょ!?」

「耐えてません。耐えてません、よ」

「う、嘘だぁ!」

「本当です。俺だって麺類を食う時は箸を使います。ラーメンもうどんも蕎麦も箸ですよ、先輩」

「パスタは?」

「フォークっす。先輩、なんでそんなに不器用なんですか?」

「う、嬉しそうに聞かないでよぉ!」

「やばい、涙でてきた」

「ひどい! 志賀クンって実は性格悪いんじゃないかなっ!?」

「自覚ありますよ。はい、先輩、箸どうぞ」

「~~~っ! どうもありがとっ!」

 千紗が割り箸を受け取って、ぺきっと折る。改めて両手を合わせた。

「いただきますっ!」

 千紗が麺を啜った。丁寧に。お上品に。美しく。

「すげぇ……箸でパスタを上品に食べる人って初めて見た。写メを……」

「志賀クン? フォークってね、凶器なんだよ?」

「すみません。自分調子のりました」

 対して遠慮なく、飢えた男子は、ガッガッと飯を食らった。



 ドラグーンハンター、通称「どらはん」と呼ばれるゲームが流行っている。

 携帯ゲーム機で、赤外線通信を利用して、離れた相手と遊ぶことができるゲームだ。

 「どらはん」は、学校でも一種のコミュニティツールとして、遊ばれている。

 もちろん校則違反だが、生徒のプライバシー保護という名目で、持ち物検査を容易に行うことができない学校側の隙をつき、生徒らの一部はゲーム機を隠し持っていた。他にも、スマホのアプリゲームを遊ぶ生徒も割といる。

 そんな昼休み。各々は育てた自慢の『ハンター』を連れて、『ギルド』に集う。

 ――昼休みは、ひと狩り行こうぜ。

 四人一組のハンター達の間に、先輩、後輩といった年功序列はない。男女という区別すらも存在しない。純粋な実力主義によって成り立つ異世界が存在する。

 予鈴を含めても五十分の昼休みは、己の誇りをかけた、竜狩人時代へと突入する。


「おい純也、そっち行ったぞ、尻尾は任せたかんな」

「了解。さくっとやるよ。ダウンしたら追撃よろしく」

「あいよー」

「来た来た。麻痺弾うつでー」

「よろー」

 一年生のクラスでも「どらはん」は、ブームを起こしていた。

 純也と亮介を含めた男子四人が、教室で机を向き合わせ、手早くゲーム機を操作する。

「オッケ、麻痺入った。後たのむわ」

「うし、仕留めるぞ」

「昼休み、あと十五分ねーぞ。殺せ殺せ」

「翼もぐよ」

 画面いっぱいの剣舞が躍り、惨劇の鮮血が縦横無尽に飛び散った。

「よし、尻尾斬れた」

「おしゃー、頭ぶっつぶすぞー」

「よろー」

 ドラゴンが気の毒になる台詞を吐き、四人は淡々と〝処理〟を進める。

 彼らの机の上には、弁当や総菜パン、水筒のお茶から紙パックの牛乳まで、各自の家庭環境を窺わせる昼飯が並ぶ。そのほとんどは、開始十分で、文字通りのゴミと化していた。

「はい、クエ終了ー」

「おつー」「おつおつ」「おつかれさま」

「さて、素材剥ぐか」

「せやな」

「レア素材カモン」

「祈るべし」

 古代千年を生きてきた、世界を震撼させし恐怖の象徴は、今日も「昼飯を食べるついでに嬲られ、素材を回収されました」といった風に屍をさらす。

「クソがー。素材ノーマルしか落とさなかったわ。もっかい行こうぜー」

「時間的に無理だろ。俺パス」

「俺も。麻痺弾のストック尽きたわ」

「ここまでだね」

「しゃーねーかー、くそー、腹立つわー」

 愚痴る一人、亮介を残し、残る純也たちはさっさと切りあげた。

「あっ、志賀くん、いたいた。今大丈夫かなぁ?」

「――有里さん。なに?」

「これ、金曜のお礼だよ~。よかったら食べて。チョコ入りだけど、甘いの平気?」

「いけるよ。ありがとう。有里さん」

「よかったぁ。渡しといてなんだけど、味はそんなに期待しないでね。ホント」

 わかりやすくてカワイイと評判の有里さんが、透明のビニール袋に入ったクッキーを差し入れてくれる。封をしているリボンが、ピンクで目立つ。

「志賀くん達も、どらはんやるんだー。すごい人気あるよねー」

「だね。シリーズの新作もでたし、CMも流れてるから手だしてみた」

「志賀って何気にゲーム上手いよな。滅多に死なないし、安定感あるわ」

「そうなんだー。やっぱり中の人の性格がでるのかなぁ?」

「どうだろうね?」

「でる方じゃね。立ち回りとか、自分の装備武器とかで」

「そっかぁ、楽しそう。いいなぁ、私も買ってもらおうかな。今度ヒマな時に混ぜてくれる?」

「もちもち! なんならオレ、装備集め手伝うって!」

「わぁ~、ありがとー!」

 男子一人が食いつく。可愛い女子もさらりと笑顔で受け流す。それから純也の方をちらりと見てから「クッキーの感想、良かったら聞かせてね」と言って離れていった。

 足取りは軽い。ひょい、と別のグループに顔をだして、可憐に立ち振る舞う。楽しそうに言葉を弾ませて、あっさり溶け込んだ。

「……なんだよー、なに、志賀ぁ、おまえ有里となんかあったの?」

 ニヤニヤしながら、男子の一人が聞いてきた。純也もすかさず答えた。

「先週、委員の仕事を手伝ったから、それかな」

「あー、なるほど。志賀ってそういうの断らなさそうだよなー」

「そういや志賀って、なんも部活やってなかったっけ?」

「やってない、帰宅部だよ」

「もったいねーな。おまえ、結構運動できんじゃん」

「そんなことないよ。本気でレギュラー目指して頑張ってる人には、敵わないし」

 純也が応えて、クッキーを鞄にしまう。横から亮介がニヤリと口元を緩ませて、指摘した。

「クラスの女子からは礼をもらいつつ、その裏では彼女を作りやがるんだから、まったく、おまえはたいした奴だぜ」

「なんだと……志賀に彼女が?」

「……話の詳細を聞かせたまえ、亮介君」

 凄腕のハンターから、一般の男子高校生にジョブチェンジした連中が、すごぶる食いついてきた。

「おう。仕入れた情報によると、志賀純也という奴は、突発的に彼女を作ったそうだ」

「え、なに、美人? ブス?」

「顔見せろ、顔」

「おい亮介……」

「いいじゃん、べつに。あとでドリンク券を奢ってやる」

「あれは奢りとは言わない。搾取だ」

「そんなことより、彼女の写メとかねーの?」

「俺らがジャッジしてやんよ」

 エサに食いついた野郎どもが、ヒャッハーとばかりにはやし立てる。純也は仕方なしとばかりに携帯を取りだして、フォルダを開いた。

「これ、一昨日、亮介の店で飯食いに行った時の写真だよ」

 旧式の携帯を取りだして、受信ファイルから画面を表示させる。画面には、すねた感じと、照れた様子を同居させた千紗が、明るい西日を浴びて輝いていた。

「……めっちゃ美人じゃん?」

「マジ? うちの先輩にこんな人いたか?」

 どれどれ、と食い入るように顔を覗かせてきた二人が、わりと一瞬で真顔になった。

「いやぁ、俺も驚いたね。名前なんつったっけ?」

「小野先輩。二年だよ」

「知らんな初耳」

「では、そろそろジャッジといきましょうか」

「んん……志賀、アウト。爆発しろ」

「リア充、滅ぶべし」

 男子裁判が終了した。

「というわけで、純也、俺らが食ったゴミ捨ててこい」

「いきなり扱いがひどい。まぁ、ゴミは捨ててくるよ」

「チョロいなー。つかおまえ、やっぱ人の頼みは断んねーよな」

「そもそもの原因は亮介だろ」

 携帯を閉ざしつつ、素直に机の上に広がったゴミを回収する。振り返った時に、別グループの所にいた有里さんと目があった。あわてて逸らされた。

「……」

 なんとなく視線を戻す。机の中央に置かれたスマホに目が留まった。

「この携帯、亮介のだっけ」

「ん? どうかしたか?」

「いや、さっきから放置してるけど、これ、なんのアプリ?」

 なにか気まずい気持ちを誤魔化すようにたずねた。

「あぁ。純也はしらねーのか。これ、今一部で話題になってるアプリだよ」

 スマホの画面には、学校の校内を示す見取り図が表示されている。ひと昔前の、アドベンチャーゲームでありそうな古い絵だ。

「先生いまどこいるの。略して〝せんどこ〟」

「なんだそれ……」

 画面の方に目を戻すと、とつぜん『新校舎三階・踊場階段』の場所に、ピコン、ピコン、と黄色い警告を示す『!』が浮き上がった。

「お、反応あったか。誰だろ」

「えっ、なにこれなにこれ」

 他の二人も画面の変化に気づく。全員の注意がそこに集まった。

 『!』マークは徐々に階段をあがって、純也たちのいる三階の廊下にやってきた。亮介がマークの上を指でタップすると、画面右端にコメントボックスが開く。

『大剣大好き。さん:――生活指導の鬼瓦が接近中。どらはん同志よ、注意されたし』

『めうめう。さん:――鬼ちゃん、三階に到着。狙いは、我々一年生の模様ですっ』

『ぷーすけ。さん:――抜き打ちはいるぞコレ。ゲームやってる奴は気ぃつけや』

 リアルタイムで、まさに今更新されているらしいコメント群が並ぶ。さらにコメントの端には『ナイスを送る』というタブがあり、亮介がタップすると、

 『大剣大好き。さんにナイスを送りました』と表示された。

 どうやらまっさきに危機を申告した『大剣大好き』という生徒が、他の生徒からの支持を集めているようだ。〝ナイスMVP〟とやらに『大剣大好き』の名前が爛々と輝いている。

「……これってさ、うちの学校と、生活指導の先生の事だよな?」

「おうよ。通称鬼ちゃんこと、鬼瓦源蔵、三十七歳独身な。これまで、あいつに没収された3DOSと、PPVITANの事を考えると枕が濡れるぜ。許せねぇ、時給換算にして何時間分かかると思ってんだ」

「……いや、まぁ、それは」

 校則違反なのだが、同じムジナの穴である純也も黙っていた。そして廊下の先からは、岩男のようなマッチョメンこと、鬼瓦権蔵先生が、のっしのっしと歩いて来た。

 純也たち四人はすでに、問題のブツを見えないところに避難させている。

「…………ぎろり」

 過去に、熊と素手で戦ったことがある。SWATに所属していた。その正体は異世界から転生してきた魔王(魔力的な要因によって現在は魔法が使えない)。という様々な噂と考察がされる、一部でカルト的な人気を誇る先生は、教室のクラスメイトを睨みつけた。

「…………そこ、学校でゲームを遊ばない。携帯電話だから見逃すが。次に見つけたら没収な」

「ひい! すいません! お願いだから殺さないでくださいぃ!」

 人を殺めた数は片手で足りない。そんなことを窺わせる視線だった。携帯自体の持ち込みは許可されているので没収も難しい。ゲームアプリを遊んでいても、注意するのがせいぜいだというのが世知辛い。

「…………」

 鬼ちゃん先生は、そのまま廊下を歩き去っていった。

「やれやれ、緊張したなー。やっぱ鬼ちゃんはプレッシャーあるわー」

「パねぇよな。ところでこのアプリ、どこで配布してんだ?」

「つーか、これ校内の見取り図がモロじゃん。ヤバくね?」

「亮介が作ったんじゃないよな?」

「ねーよ。元は学校の裏サイトに落ちてたらしいわ。俺は他所の奴から聞いたんで拾ってきたんだけど、そこの掲示板の書き込みで、URLが貼り付けてあったってよ」

「それ、大丈夫なのか? ウイルスとか」

「細かい事はしらん。個人情報とかださない限り平気じゃね?」

 あっさり言うと、隣に座る男子もスマホを取りだし操作した。

「そうかー。俺も落としてみっかなー。にしても、こういうの作ってる奴って、どんな性格してんだろーな」

「ぜってーオタのぼっちだわ」

 そんなやりとりをしていると、予鈴の鐘が鳴った。

 もうすぐ、昼休みが終わる。


 放課後になってから、純也の足は自然と図書室へ向かった。

 通常の委員の仕事は、曜日での割り振りで決まっているらしく、今日の担当は千紗だった。

 図書室の前まで来ると、三つ編みを揺らす小柄な後ろ背が見えた。

「先輩」

 声をかけると、扉が開きながら、千紗が振り返った。

「や、志賀クン。どうしたの。またパシリ?」

「今日はパシリじゃないですよ」

「そっか。自主勉だね」

「……そういうわけでもないんですが」

 即座に返されて言葉に詰まった。

「あの、俺たちって付き合ってましたよね。若干、自信なくなってきたんですが」

「そうだよ……あ、そっか。こういうのって、普段から声かけた方が良いのかな?」

「それがいいと思います。一般的には」

「そか。ごめんね。必要な事以外を連絡するの、面倒だから忘れてた」

「俺が言うのもなんですが、先輩も十分ドライですよね」

「コミュ障でごめんね?」

「いえいえ。ひとまず中に入りませんか」

「だね」

 言いながら、図書室に入る時、千紗が付け加えた。

「ほ……本当はね。その、日曜も、メールしようかなって思ったんだよ。本当だよ」

「家の事情で忙しかったんですよね」

「う、うん。色々とね……夜には一段落ついたから、メールか、電話しようって思ったんだけど、もう遅いし迷惑かなぁって」

「そんなことないですよ。実は結構、楽しみに待ってたりしたので」

「ホント?」

「本当です。俺もメール送ろうかと思いましたが、男の方から送るのも、アレかなって」

「そ、そうだったんだ。あのね、実を言うとね。夜の七時前ぐらいに三行ぐらいの本文を、消したり、書いたりしてたの。小一時間、うぅん、小二時間ぐらい?」

「それは小とは言いません。先輩、携帯のメール画面で二時間も格闘してたんですか」

「そ、そうだよ。なんて打ったらいいかわかんなくて」

「〝家の用事終わったよ。疲れたー。また明日学校で会おうね〟とかでいいんじゃないですか」

「え? そんなの送って来られたら、こいつウザッ、って思わない?」

「そりゃ五分で、数十通とか来たら着信拒否りますよ。でも、数通でしたらなんとも」

「そ、そうなんだ……季語とか、拝啓とか、前略っていらない……?」

「それはやめて頂けると助かります」

 笑顔で言うと、千紗も「あ、はい」と真顔になった。

「と、とにかくね。気が付いたら、二時間ぐらい経っちゃってたの。……結果疲れきって、お風呂入って寝ましたごめんなさい」

「先輩って、ほんと不器用ですよね」

「う、うるさいなぁ」

 図書室に入り、千紗が荷物を置いた。赤く染まった顔は、明後日の方を向いていた。

 そのまま小走りで窓際に向かい、順番に開いていく。純也も黙って手伝った。

「ね、ねぇ、志賀クン」

「なんですか」

「私も気にしないよ。その、五分で十通とか来ない限り。だから、あの……メール、頂戴?」

「わかりました。実を言うと後輩ですから、その辺りも遠慮してました」

「そっかあ。じゃあ……先輩命令とか、発令しちゃってもいいのかな?」

「いいですよ」

 二人、それぞれが窓を開き終わって、顔を合わせた。気持ちの良い風が吹いた。

「委員の仕事が終わるまで待ってて。一緒に帰ろ」

「わかりました、先輩」


 長机の端の椅子を引いて、読書を始めた。

 いつもと同じく〝鍵〟をかけ、ページをめくっていたつもりだったが、やがて外野の方から小さくない声が聞こえてきた。

「ね、これ、ヤバいでしょ?」

「うわー、ヤバいヤバい」

「でねでね、ここタップすると、そのID宛てにナイスが贈れて……」

「ナイスて! ウケるぅ! マジ、ナイスて!」

 没入して聞こえる程だったから、その声は十分にうるさかった。

 読書を中断して横目で見れば、女子の二人組が楽しげに、同じ液晶の画面を覗いていた。

「ナイス送りまくったりって、できひんの?」

「無理っぽい。なんか制限あって、三分に一回みたい。で、そのナイスもね、他のIDから貰った分が、ちゃんと集計されてんの。ほら見て。日間・週間・累計でランキングあるでしょ」

「ナイスランキングて! てかなに、この一位。大剣大好きて! ナイスランキング、ぶっちなんですけどぉ、大剣大好きぃー!」

 大剣大好きパネェ、ヤバい。

 女子二人が盛りあがっていた。また別のところに座っていた女子が煩わしそうに立ちあがり、無造作に本を戻して部屋をでた。

(……先輩、さすがに注意ぐらいした方がいいんじゃ)

 純也が入口の方を窺うと、受付の席に座っている千紗は、じっと俯いていた。

(もしかして、寝てるんじゃないだろうな……)

 そう思ったが、千紗は何気なく、女子二人の様子を気にしている風だった。ただ動かない。どこか複雑そうな面持ちで、むしろ話の内容に耳を傾けているようにも見えた。

(なにやってんだ)

 純也は席を立ちあがり、二人の方に近づいた。

「すみません、少しだけ静かにしてもらっていいですか」

「きゃっ、ごめんねぇ」

「ほらぁ、やっぱ声大きかったってぇー、アンタ声大きいからぁ。地声カバだからぁ」

「ちょっとー、私だけのせいにしないでよ、つーか、カバて。テメ死なすぞ」

 お互いの肩をべし、ばきょ、とドつき合う。「ごめんねホントコイツがね」「だからテメーだよ」「は? 最近調子のってね?」「あぁん? ぶっ殺すぞ☆」とじゃれあい、示し合わせたように席を立ち「マジごめんねー」と両手を合わせ逃走した。

「……息合いすぎだろ」

 思わずそんな感想がもれる。他に人がいなくなって、なんとなく後ろ髪をかいてから、受付の方に向かった。

「で、なんか弱みとか握られてるんですか?」

「えっ?」

 席に座った千紗に向かい、見下ろす形になって告げる。

「違うんでしたら、さすがに職務怠慢だと思いますよ、先輩」

「ご、ごめん。注意すべきだったね」

「するべきでしたよ」

 率直に突き放すと、千紗も両肩を縮ませ「ごめん」と重ねた。

「わ……私の作った物が、あんな風に評価されるって、すごく嬉し恥ずかしくて……」

「はい?」

「あっ、志賀クンは知らないかな。これ、スマホならダウンロードできるアプリなんだけど」

 千紗が制服のポケットから携帯を取りだす。画面を操作すると、今日の昼休みに見た画面が表示された。

「先生今どこいるの? なんかね〝せんどこ〟って略称が付けられてるんだー」

「今日の昼休みに知りましたけど……それ、先輩が作ったんですか?」

「そうだよー。昔作ったデータベース改変したの。ウチにあるPCで仮想サーバー建ててね。名前情報共有して、画像データ埋め込んでID登録を……オタクじゃないよ?」

「なんでそんな物を作ったんですか」

 笑顔を浮かべ、さらりと無視して問いつめる。

「……世界が退屈だったから。ちょっとだけ、小さな世界を掌握してみたかった、なんてね」

「マンガのキャラクターが言いそうなセリフですね」

「うっ……い、いいじゃない。好きなんだもんっ」

「そうですか。俺も結構読みますよ。マンガとか、ラノベとか」

「あ、なに読むの? オススメとかあったら教えて?」

 水を得た魚のように食いついてきた。

 思い浮かんだタイトルをざっとあげると、千紗はすべて読破済みだった。さらにカウンターで、純也も知らないネタバレはおろか、裏設定や薀蓄まで語られた。

「志賀クンって、有名ドコロしか読んでないね。そんなんじゃダメだよ」

 しかもダメだしが来た。

「ともかく。例のアプリはマズイんじゃないんですか。先生の業務妨害になってますよ」

「だったら対策を考えるべきなんだよ。そうして技術は進歩するんだから」

「その場合、先輩を犯人として突き出せば、一気に解決しそうですが、どうでしょう」

「突き出すの?」

「……いえ。やめておきます」

 言った。どうしてだろう。やめる理由がわからなかった。

(先輩が楽しそうで、嬉しそうだったから?)

 気持ちを誤魔化すように話題を変える。

「そろそろ、六時回りますね。ここって、だいたい何時までやってるんですか?」

 外はまだ、うっすらと明るい。運動部も残っている。

「基本は六時半までには閉めることになってるよ。試験期間は人がそれなりに来るから、ギリギリまで開けるけどね。今日みたいな日は、本当に個人の裁量に任せる感じ」

「なるほど、確かに気分次第で決まりますね」

「うん。でもね、あまり早く帰りすぎるのも問題だよ。部活が終わった後に、思いだして返却に来る人も結構いるからね」

「じゃあ、もう少し、このままですか」

「うん。もう少し、このままです。ごめんね、退屈?」

「いいえ、そうでもないですよ」

 なんでもないはずの時間が楽しかった。不思議と、帰る気になれない。

 なんでもいいから、言葉をかわしたかった。

「ねぇ、志賀クンって、普段は家でなにやってる?」

「最近は〝どらはん〟ですかね」

「あ、ドラゴンハンターやってるんだぁ。武器なに使うの?」

「片手剣です。先輩もやってるんですか?」

「やってたよー。初代からね。最新作は、桶爆弾と、落とし穴と、ミサイルでねー、全身炎上装備でライフミリにしてから、火力五倍のフルバーストで薙ぎ払うの超気持ちいいよ~」

「あの……なんか、めっちゃやり込んでる匂いがするんですが。ていうか、もう全種の武器を集め終わって、行きついた先がそれ、みたいな」

「だ、だって、爆破武器が一番、時間効率いいんだもんっ! そ、それに、セーブデータもよく消えちゃうから、最近はやってないし」

「セーブってそんなに消えますか? メモリーカードに保存するから、俺は特に消えた覚えがないですけど。確かPCにバックアップ取って、保存もできるんですよね」

「ま、まぁ、そうなんだけど。そのー、私はうっかり、ゲーム機を落としちゃうから……」

「わかります。先輩ならやりそうだ」

「ひ、ひどい! さっきは先輩に敬意を払うみたいなこと言ってたのに!」

「ちゃんと払ってますよ。主に面白い人だなってとこで」

「……志賀クンの意地悪」

 千紗がむくれる。

 人気のない図書室で二人、他愛のない話をするだけで、時は流れ過ぎていった。


 午後六時半。今度は入ってきた時と同じように窓を閉めきった。空気の流れが制限される。外では運動部の活動も一部が終わったようで、周囲は音のない気配に包まれた。

「ありがとう、志賀クン」

「いえ。じゃあ帰りましょうか」

 聞こえる雑音は少し遠ざかる。そのかわり、二人が発する音は気持ち大きく聞こえた。

 関係性が進展するのは、いつもささやかな距離だった。

「あれ、そこの机の上、本が残ってるね」

「さっきの喋ってた二人組が残していったんですかね。片しますよ」

「ありがと。というかごめんね、君は委員じゃないのに」

「いえいえ。人の役に立つのが趣味なんで」

「それはそれは。素敵な趣味ね」

 軽口を叩きあう。純也は本を拾いあげ、作者順に沿った棚に向かった。

「あれ? 先輩、棚にすき間がないんですが」

「あぁ、それね。たぶん、本を元の場所に戻さずに、適当に突っ込んで帰ったんだと思う。作者順で名前が外れてる人いない?」

「待ってくださいね。――ん、これかな?」

 本の背表紙を一冊ずつ眺め、見つけた。

「先輩、そっちの欄に空きってあります?」

「えーと。あっ、一冊入る隙間があるね。入れ替えてくれる?」

「了解です」

 本を入れ替え、棚の間を移動する。足音だけがやけに響いた。

 千紗の立つ隣に移動して、その本を戻すと、なんとなく、目があった。

「私ね」

「はい」

「土曜日に君とごはん食べて、家に帰ってから。今日までずっと考えてたの」

「なにをですか?」

「志賀クンの〝力〟は、本当に、人の真偽が見抜けるのかなぁ、って」

「……俺が嘘をついてると?」

「うん。私の論理的思考と、繰り返しての観察、主に勘がそう告げているわ」

「前半と後半の文言が一致してません」

「じゃ、勘を優先します」

 千紗はどこか確信めいた口調で言う。まっすぐに見つめられ、つい、たじろいだ。

「君に問います、志賀純也クン。私にウソをついていますね?」

「……いいえ」

「視線そらしちゃ負けだよ?」

「証拠はあるんですか」

「それ、死亡フラグだから」

 人差し指を向けられ、気持ち良さげに言われる。

「白状しなさい」

「……先輩って、なにか急に押しが強くなりますよね。やたら鋭くなるというか」

「見直した?」

「いいえ」

「即答! ひどい!」

 すねた顔をされる。たぶんというか、間違いなく。そっちが千紗の本性だった。

「ほんと、先輩は不思議ですよ」

「不思議ちゃんとか言ったら怒るよ」

「そうじゃありません。なんていうか〝読めないんです〟。とつぜん、付き合って欲しいと言われたのもそうですが。時々、こっちの思惑を飛び超えるというか……まさかとは思いますが、テレパシー持ってるとか言いませんよね?」

「残念だけど、持ってないよ。そんな力があれば、君の隠している事も、一瞬で判別できるんじゃないかな」

「それなら、本当に勘だけで?」

「勘だね。というわけで、よかったら教えてもらえるかな? 君の本当の秘密を、ね」

 千紗はどこまでも楽しそうだ。純也は何気なく周囲を窺った。神経をすませても、自分たち以外に人の気配はない。廊下の先からも、音は聞こえてこない。

(十年、隠してきた)

 距離がつまる。心が離れようと思って〝鍵〟を取る。

(言ったところで信用されない。ずっと隠してきた)

 誰かを不幸にしないために。不安に、恐がられないように。

 他人との距離を、子供の時から意識した。息を潜めて、生きてきた。

「志賀クン。君はきっと、自分で思っている以上に良い人だわ。とても優しくて、想いやりのある人だよ」

「……やめてください」

 良い人。それは純也の理想だ。なのに今だけは、その言葉が突き刺さる。

「先輩にだけは、そんな風に言われたくありません」

「どうして?」

「どうしてって」

 つい、と顔をよせられて、言葉につまる。

「あまり、煽らないでください」

「君が本当のことを言ったら、許してあげる」

 あらかじめ決まった袋小路に追い込むように、踏み込んでくる。

 どうしようもなく、苦しかった。

 息が、感情が、詰まる。

「私は君のことが知りたい。興味があるの」

「……お互いに見えないものが見えるから、ですよね?」

 人には見えないものが、見える人。

 同じ感覚を持つ共有者。共感できる相手が欲しい。それだけのはず。

「先輩こそ、なにか隠してるんじゃないですか?」

「私はなにも隠してないよ。ただ、君は、私の〝憧れ〟なんだよ。志賀クン」

「憧れって……俺はどこにでもいる普通の奴ですよ。そもそも、俺たちは顔を合わせて、まだ数日しか経ってないんですよ」

「でも、私たちは付き合ってる。私が望んで、君が了解した。そうだよね?」

「その通りです」

「君は、彼女に平然とウソをつくような人?」

「…………」

 また目をそらして、どうにか答えた。

「すみません。でもこれだけは、誰にも言わず、生きていくと決めたんです」

「頑くなだね。君が否定するのは、よっぽどの理由があると思うけど」

「たいした理由はありません。聞けば嫌な気持ちになるから、口にしたくないだけの話です」

「私に嘘を吐くよりも?」

「はい。これは俺一人だけが抱えて、墓まで持っていく案件です」

「――わかったわ」

 時間の流れが遅い。一秒が、一分にも、それ以上にも感じられる。

「じゃあ、これだけは聞かせて。君は他人には言えない、特別ななにかを視る〝力〟を持っている。そうなのね?」

「はい、それだけは確かです」

「うーん。なんだろうなぁ。未来予知とか?」

 千紗の答えに、ぎくりとした。近い。

「さぁ、どうでしょうか」

「その顔は、当たらずとも遠からずってところかな」

「勘弁してください……本当に、困ります」

「ふふ。あんまり問いつめてもアレだしね。今日はこの辺りにしてあげようかなぁ」

「助かります」

 本音がでた。思っていた以上に、自分のことが知られるのは怖かった。

「だいたい、先輩はどうして、そんなにこだわるんですか」

「どうしてだろう。実を言うとね、私にもよくわからないの」

「なんですか、それ」

「なんだろうねぇ、本当に」

 純也は笑った。千紗も肩を揺らしてほころんだ。

 不意に胸いっぱいに感情が広がった。〝鍵〟を使う暇もなく、あたたかいもので心が満ちた。

(そっか。おれ、いま笑ってるのか)

 ひとつ上の先輩と、相手の顔を見つめあい、楽しい時間を過ごしている。

「先輩、俺からも、もうひとつ、聞かせてください」

「なに?」

 心は自由だった。今だけはなにも難しいことを考えず、声がでた。

「先輩は、俺の事が好きですか?」

「え?」

 一体、どうすればこの人との距離を、保ち続けることができるだろう。

「わかってはいるんです。先輩は、人の感情が色として見える。だから、自分の感情を制御できる俺のそばにいて、安心したい」


『私と付き合って。ただし、私のことを好きにはならないという条件で』


 けっして相手を傷つけることのない、やわらかなミトンでできたぬいぐるみ。仮想世界で無条件にしたってくれる。そんな相手が、志賀純也という存在だ。

「俺は、直接誰かを傷つけません。言われたことも、なんだって聞きます」

「志賀クン、それは違うよ。あの条件を出したのは、その……理由があってね」

「だったら」

 胸が痛くなる。

「俺は、どうすればいいんでしょうか」

 感情が冷めていく。普段とは別の方向に向かっている。

 帰りたくない。この場から離れたくない。納得のできる答えが欲しい。

「志賀クン、あの……怒ってる?」

「わかりません。そういうの、十年ぐらい前に、忘れたんで」

 いつものように笑う。誰かに腹を立てたり、いら立ったりするのは、楽に生きるための足かせにしかならないと知ったから。

 純也は怒らない。泣かない。ただ、いつからか、笑うことしかできなくなった。

「すみません、先輩、今更ですが、やっぱり断らせてください」

「……それって、付き合うのをやめるってこと……?」

「いいえ。俺が先輩を好きにはならないっていう、あの条件をです」

 身体が、ゼンマイ仕掛けの人形のように動いた。てのひらが彼女のまぶたを隠す。逃げ場をふさぐように、千紗の背後にある本棚に手をおいた。

「先輩」

 感情の起伏を作らないコツは、なにも求めず、欲さないことだ。

 そうすれば、あきらめがつく。怒る必要も、悲しむ必要も、喜ぶ必要も、なにもない。

「もらっても、いいですか」

 苦しむこともないのだ。いつか必ずやってくる別れに、泣き叫ぶ必要もない。

「〝色〟が見えなければいい。確か、そういう条件でしたよね」

「あ、あ、あの……っ! 志賀クンっ!?」

 てのひらに、千紗のまぶたの感触がある。震えていた。

「人の感情は余計でしかない。そこは俺も同意見です。そんなものは、見えなければいい」

「ちょ、あの、待って……っ」

 距離を寄せる。足を前に出して、自分から踏み込んでいく。千紗の背が本棚に阻まれた。

「嫌だったら言ってください。関係を解消しても、先輩の秘密は守り通します。俺は、口だけは本当に堅いんです」

「そ、そうじゃなくて……その……」

 本棚が、カタン、と揺れる音がした。

 他に音は聞こえてこない。誰か来ても、止まる気はしなかった。

「こ、心の準備、欲しいなって……」

 ぽつりと、懇願するような音がきた。

「いいんですか?」

「……ぅ、うん……」

「色、見えますか?」

「……」

 ほんの少し首を振る。確認してから、まぶたを覆っていた手をそらす。空いた手は、壊れ物を包むように、後ろの棚に並べる。

 純也も目を閉じた。なにも見えなくなる。

「志賀く……んっ!?」

 世界はまっくらだった。閉ざした扉と窓の向こうから、一切の音が消える。

 あるのは、二人ぶんの吐息だけだ。かすかに漂う古い本の匂いを感じながら、キスをした。

「……っ」

 気持ちの受取り先は抵抗する。たぶん、反射的に逃げようとしていた。腕の間隔を狭め、体を寄せる。制服のボタンが触れるところまで近づき、心音を重ねた後に離れた。


 目を開いた時、無言で「ひどいよ」と責められた。首筋の裏に軽く、爪をつき立てられたのが、ひどく甘い傷みを伴った。

 うるんだ顔を見られたくなかったのか、屈んで、胸元に顔をうずめてくる。

「好き。君のことが、好きだよ」

 心臓のところに、千紗のやわらかな頬が触れた。純也もまた、強張った両手を背に回す。

「先輩、もう一度」

「うん……」

 早く鍵をかけて、帰らないといけない。わかっているのに止まらなかった。

 ――カタン。

「っ!?」

 けれど、行為の中断を促すように、立てつけの悪くなった図書室の扉が音をたてる。とっさに、純也は入口を見た。反射的に、両腕は大切な物を隠すように抱きしめる。

『………………』

 〝少女〟がいた。二人を見ている。目元を隠すように伸びた前髪、フリルのついた黒と白を基調とするドレス。腰元には、革張りのポシェットもくっついている。

(――幽霊?)

 状況に理解の追いつかない頭が、非現実的な解答を導く。反して心は〝鍵〟をかけた。

(……なんでこんなところに。小学生だよな。十歳ぐらいか?)

 ――感情が冷めた。状況を分析する。

 相手はどう見ても子供だ。服装が特徴的で目立つ。やはり前髪が長く、俯きがちの姿勢であるのも相まって、表情が窺えない。

『……………』

 純也の心境を悟ったのか、少女もまた逃れるように扉をしめた。「おじゃましました」とでも言うように、立てつけの悪い音が、ぴしゃりと閉まる。

「し、志賀クンっ!」

「はい、なんですか先輩?」

「くるしいっ、苦しいよぅっ!」

「あ、すみません」

 強く抱きすぎていた。

「はぁはぁ……は、はわぁ、はわわぁ……」

 本当にまっかになった千紗が、息を荒げながら、自分の手で顔を隠した。大真面目に言った。

「ど……ドキドキしすぎて、死んじゃうかと、思ったわ……」


 うすい赤味を帯びた雲。ほんのすこし湿った空気。額に汗がにじみそうになる暑さのなか、これから夜に変わっていく夕暮れの中を、二人並んで、ゆっくりと歩いた。

(手が空かない)

 自転車のハンドルを握って思う。入学して初めて、自転車通学なのを後悔した。

「志賀クンって、西区の方に住んでるんだよね」

 隣には、歩幅を合わせて、一緒に歩く人がいた。

「あの辺りって、最近新しい駅できたんだっけ?」

「増えましたね。最近は一本で、町の中心にいけるので便利ですよ」

「そっか。定期の届け、出してもらってる人も多いし。志賀クンは頼まなかったの?」

「義父の家までそこそこ歩くんで、自転車にしたんですよ」

 間を持たせたくて、言葉が駆け足になる。なんでもいいから喋っていないと、さっき行ったことが、頭の中で繰り返されてばかりだ。

「私はあんまり使わないんだよね。町の反対側、終着ってどこになるのかな?」

「今は私立の大学前になってます。あの線自体は、新しい住宅街の建て増しで作られたものらしいです」

「へぇ、そうなんだ」

「はい。店は少ないんですが。けっこう静かで、住むには良いとこだって聞いてますよ」

「志賀クン、詳しいんだね」

「義父が仕事で大工やってるので、食事の合間なんかに話が聞けるんです。俺もできれば、将来は似たような職場で働きたいなって。本当は普通科の高校じゃなくて、すぐにでも働きたかったんですけど――」

 関を切ったように、純也の口からは、たくさんの言葉があふれでた。照れ臭さの代わり、これまでの時間を進めたがるかのようでもあった。

 隣を歩く人に、自分のことを、少しでも知って欲しかった。

「すみません、喋りすぎました」

「ううん。ぜんぜん。むしろ、しっかりしてるなー。って思いながら聞いてた」

「そんなことありません。先輩は、将来の夢ってありますか?」

「とりあえず進学希望かな。正義の味方でもいいけどね」

「てきとうな悪の組織があればいいですね」

 冗談を交えて歩いていくと、すぐに分かれ道にやってくる。

 あんなにゆっくり歩いたのに。楽しい時間は終わってしまう。

「先輩」

「なにかな?」

「えっと、まだ今週に入ったばかりですけど。今度の土曜、日曜って、空いてます?」

「同じこと聞かなきゃって思ったところ」

 足を止めて、分かれ道の前で千紗が笑う。

「どこか遊びにいきたいな」

「行きたいところ、ありますか?」

「うん。君と行ってみたいなってところは、たくさん浮かぶよ」

「悩みますね」

「悩むね」

 純也も笑った。胸がチクリと刺すような痛みを覚える。

「あ、俺の色は大丈夫ですか?」

「さっきあんなことしておいて、今になって言われても」

「……そうですね。次からは前もって宣言します」

「や、だからその……っていうか、さっきも宣言は……」

「しましたね」

「うん……」

 夕暮れを背に、千紗は困った顔をしながら、くすっと笑った。

「じゃあ、私も宣言しようかな。志賀クン、目を閉じて」

「わかりました」

 目を閉ざすと、慣れた〝鍵〟のイメージが浮かび上がってきた。

(なんだこれ……上手く掛からない)

 本能が、今だけは感情を閉ざすことを厭う。古いテープを巻き戻すように思いだす。

 血の繋がる肉親の姿。血が繋がらずとも、大切に思っていた人たちの笑顔もまた。

 心が過去に巻き戻る。

『――なぁ、ジュン。家に帰って着替えたら――』

 暗闇の中。亡くなった父親の声を思い出す。

 彼の隣にも誰かがいた。額縁だけの記憶に残る、女性の、やさしげな笑顔が映る。

『三人で、お弁当を作って、お花見にいきましょ』


「えい」

 むにっ。頬を引っ張られていた。

「……なにをするんですか」

「えへへ。だまされたねぇ、志賀クン」

「子供ですか、先輩は。そこは素直にキスを――」

「無理だよっ! だって、ほら……人目があるし、ね?」

 りりりん。

 言ってる側から、二人の隣を自転車に乗った主婦が通りすぎた。ママチャリのカゴに乗った女の子が、純也と千紗の方をガン見して、指さして、大声で叫んだ。

「おかーさん、とめてぇー! おにいちゃんとおねえちゃんが、ちゅーするからぁー!」

「こ、こらっ! 見るんじゃありませんっ!」

「なんでー? ねー、なんでー? テレビならアリなのぉー?」

 りりんりん。ベルが鳴りながらママチャリが去る。頬をひっぱる千紗が「ほらぁ!」と言わんばかりに、ジト目になっている。

「わかりました。先輩、とりあえず頬から手を離して頂けると嬉しいです」

「あ、ごめんね。え、えっと、週末の話だったよね」

「それなんですが、先輩、よかったら花を見にいきませんか」

 気がつけば口がすべっていた。

「えっ、花? 植物園とか?」

「あ、いえ……映画とか、遊園地の方がいいですかね」

「うーん、どっちかっていうと、人が集まるにぎやかな場所よりは、静かな場所の方が好きだけど……。ちょっと意外。志賀クンって、花が好きなの?」

「いえ、なんとなく、浮かんだので」

「そっか。今の季節ってなにが咲いてるのかな。紫陽花とか?」

「ですかね。あの、よかったらそういう場所も探してみますけど、どうですか?」

「うん。良いかも。せっかくだから、お弁当も食べたいなぁ」

「いいですね。弁当は先輩の手作りですか? 素晴らしい」

「えっ! それは……」

 ちろっと目をそらす。純也はにこにこ笑っている。

「さすが先輩だ。普段から女子力がたいしたことないと思わせておいて、ここぞというところで発揮してくれるわけですね」

「たいしたことないって……あー。うん、わかったよ。週末は本気だす」

「楽しみです」

 純也がのんびり返すも、千紗の笑顔は若干、ひきつったままだ。

「あ、そうだ先輩、明日もよかったら、昼を一緒に食べませんか」

「い、いいよ。志賀クンは学食派?」

「いえ、俺も弁当派です。ウチは日替わりで弁当作ってるんで」

「……あ、そうなんだ、へ、へぇー、志賀クン〝も〟料理できるんだー?」

「たいしたものはできません。卵焼きとか、丼もの、あとカレーと、おでんとか」

「できてるじゃん!」

 なぜか怒られた。

「……あのね、言っとくけど、私のお弁当は……お母さんのだからね?」

「なるほど。つかぬ事をおたずねしますが、先輩、料理の腕前の方は」

「トマトのヘタ取りなら任せて」

「さすがだ」

 純也の笑顔が、ものすごく優しくなった。

「先輩は、俺の期待を裏切らない」

「やさしい笑顔で言わないでっ! い、今わかった! 志賀クンがそういう顔する時って、実は内心ですごく残念に感じてる時だよねっ! もう、そこまで言うなら、ぜったいに食べてもらうからねっ!」

「すみません、俺はトマトのヘタは捨てる派です」

「違うよ! 私だってヘタは捨てるもんっ! ちゃんとしたお弁当だよ!」

「先輩、あまりにハードルが高いようでしたら、無理しないでください。俺は普通に学食でもいいんですよ?」

「そこ気づかわないでよっ! ていうか、煽ってるよね絶対! もう決めた、先輩命令よ! 明日はお弁当の交換をする、いいわね?」

「承知しました」

「ふふ、ふふふふふ……志賀クンの驚く顔が、今から楽しみだわ……」

「声が裏返ってますよ」

「武者震いね」

 千紗は闘志をみなぎらせ、ぐっと拳を握った。

「じゃあね、志賀クン。また明日、学校で会いましょう」

「はい、また明日。ところで胃薬は買っておいた方がいいですか?」

「……その発言をしたこと、未来永劫に後悔させてあげるわよ……」

 夕日を背に、まるでライバルキャラのごとく不敵に笑い、颯爽と去っていった。


 翌日。昼休みになって、いつもの『ひと狩り親睦会』が始まろうとしていた。

「なんだと……彼女の手作りだと……?」

「そう。手作り弁当なんだ。というわけで、今日は中庭の方で弁当食ってくる」

 もはや麻雀卓を囲むように、男子四人が集まって席を移動し、四方から食い物と携帯ゲーム機を持って輪を作るのが通例になっていた。

「中庭……まさか、あの聖域(サンクチュアリ)のことか!」

「なんだ、なにか知っているのか、亮介?」

「只事ではなさそうだ。聞かせてもらおう……」

 戦慄する亮介に、いつもの狩りメンバーがノリ良く聞いた。

「噂に聞いたところによると、うちの学園の中庭は、昼休みは男女ペア限定の疑似デートスポットになっているらしいぞ……そうと知らない連中が、弁当を食うのに適当な場所を求めて、中庭のベンチに座ったところ、二人は恋人に違いないという、あらぬ噂が立ってしまったそうだ……」

「ま、まさか、それ、男同志だったとか?」

「その通りだ」

「ひぃ!」

「なんて恐ろしいハニートラップ!」

 あらぬ事で、ホモ容疑をかけられてしまった先輩たちに、各々は密かに黙祷した。

「おかげで新聞部がいつも新鮮なネタを求めて、毎日日替わりで張り込みやがるから、その場で弁当を食べるバカップルは、後に聖域の勇者と呼ばれるようになったとか」

「やべぇ、やべぇよ……出る杭を打ちたがる民族にとって、そんな噂の的になった日にゃあ……」

「個人情報スッパ抜きで、ネットで炎上コース一直線だぜぇ……」

「ひゃっはー! リア充は消毒だぁ!」

 友人たちは口々に盛りあがり、手早く端末を取りだした。

「んじゃ、純也の破局までの様子を見守るグループ作ります、入るやつ挙手ー」

「はーい、はいはいー」

「フォローよろー」

 三人が一斉に声をあげ、そろって純也を見た。手にした「どらはん」を起動しつつ、また口々に言う。

「さらばリア充。世話になったな。とっとと失せろ。アイテムだけ寄越せ」

「彼女と別れた時は、またよろしくな!」

「だがこれからもノートの写しはよろしく頼むぞ。頑張ってくれ」

 熱い友情と絆の言葉をもらい受ける。

「ほんと、友達っていいもんだな」

「そう思うならいいものをやろう。友情はプライスレスだ」

 そして亮介から祝いの品として、フライドポテトの券をサービスされた。しっかり金は落とせよ。という意図らしかった。


 風通しの良い中庭に来ると、空いたベンチに千紗が座っていた。

「あ、志賀クン。こっち、こっちだよ」

 広葉樹の下で、ひらひら蝶々のように手を振る。膝の上にはお弁当箱の包みが乗っていた。

「先輩、お待たせしました」

「ううん、来たところ。それより、ね」

 純也がベンチに掛けると、優しい笑顔が、すわ真顔になった。

「――作ってきたわ。食べなさい」

「先輩……」

 ちらと相手の指元を見る。バンドエイドが三枚ほど貼ってあった。

「一体、どんなフルコースを作ったんですか」

「ふふふ……期待に震えなさい?」

 包みをほどいた。ランチセット用の弁当箱が現れて、フタを開く。中にはぎっしりサンドイッチが詰まっていた。

「あの、他には?」

「ないわ」

「わかりました。とても美味しそうですね」

「志賀クン、貴方ムカツクわ。せめて罵りなさい。チッ、なんだこの程度かよ、とか」

「そんなことできませんよ。これ、わざわざ作ってくれたんでしょう」

「えぇ、包丁とナイフって感覚が違うのね。パンの耳を切り落とすのは上手くいったけど、トマトを切断するのは非常に骨が折れたわ。さぁ罵るがいいわ」

「そんなことできませんよ。確かにレタスとトマトのサラダサンドって、みずみずしい組み合わせで美味いですよね」

「そうよ。トマトは万能なのよ。こっちはイチゴジャムとトマトのサンドで、こっちはハムとトマト。で、これがトンカツとトマトをはさんだ、カツトマトサンドよ。罵りなさい今なら許す」

「そんなことできませんよ。ところでこれはなんですか。なにか白い物体とトマトが挟んであるんですが」

「白いのは餅よ、おもち」

「そんなこと普通できませんよ。……餅って、正月に食べる、あのモチですよね?」

「えぇ、rice cake よ」

 流暢な言葉づかいだった。目が半ば死んでいる。

「戸棚を開けたら、お正月の残りのパック切り餅があまってたから、焼いてトマトと一緒に挟んでみたわ。だって志賀クンが、最終的には白米に落ちつくって言ってたから」

「確かに言いましたけど。サンドイッチに餅って……パンとごはんを一緒に食べるようなもんだと思うんですよ。というか、餅は単品で頂きたいというか」

「えぇ。私も作ったあとで思ったわ。料理に独創性なんていらない。普通が一番良い。罵れ」

「いえいえ。これはこれで新しいので悪くないですよ。そうか、餅かぁ……」

「罵ってよ! どうせ私は料理できないから! 女子っぽいこと苦手なの!」

「いえ、この数日で先輩に期待するのは酷だと悟ったので、特に問題ありません。家庭的な行動が苦手な女子というのも、ある意味でギャップがあって良いと思いますよ」

「せぇいっ!」

 ボディブローが来た。しっかり拳を握りしめた一撃が胸をつく。

「で、俺の弁当なんですが」

「聞いてないっ」

「効いてません。先輩、ロールキャベツってお好きですか」

「ふぇ?」

 純也が取りだしたのは、熱を弾くタッパーだ。フタを開くと、ほくほく熱を保っていた。

「トマトが好きとおっしゃってたので、圧力鍋でトマトソースをベースに煮込んだ汁に、ロールキャベツを放り込みました。さっき食堂のレンジを使って温めなおしてきたので、そこそこいけると思いますよ。あ、こっちはいつもの弁当です」

 もう一つの弁当フタを開くと、白飯が半分に、ウインナーと卵焼き、茹でたブロッコリーとミニトマト、ロールキャベツで余った牛肉で、ミニハンバーグもできていた。

「志賀クン」

「はい?」

「……志賀クンは、mother だったのね?」

「先輩、気を確かに」

 目が死んでいた。

「私は正気だよ。だって、これは、だって、お母さんのお弁当だよ? ……あ、そっか。志賀クンが特別なんだね。うん」

「そうでもないですよ。亮介、えっと、この前のファミレスで会ったあいつなんですけどね。日頃から店の手伝いも兼ねて作ってるんで、俺よりずっとレシピもってますよ」

「ふーん。私はなにも聞かなかったことにするわ。いいわね?」

「わかりました。それじゃ、先輩の餅トマトサンド、ひとつもらっていいですか?」

「だ、ダメ! 絶対ダメだよっ! 喉つめて死んじゃう!」

 千紗が自分の弁当箱を両手で守る。

「こ、これは、私が責任もって食べるんだからねっ!」

「そうですか? では、ロールキャベツ一つと交換でどうですか」

「割に合わないよ! 君がね! 私が申しわけないからもう許してぇっ!」

「ははは。いいですよ。ぜんぜん」

 優しく笑いかける。軽く周囲を見回して、気持ち声をおさえた。

「相手が先輩なので明かしますが。俺が料理を覚えたのは、相手が厭うことのない、コミュ用のツールになるからです」

「え、そうなの?」

「はい。男だろうと、女だろうと、料理ができたところで、プラスになることはあっても、マイナスに働くことはないじゃないですか」

 感情が、気持ちが、今はほんの少し振り切れた。

「料理の世界で生きていくつもりなら、また変わってくるとは思いますが。趣味の範囲に留め、誰かに話題を提供するだけなら、こんなにも便利な技術はありません」

「……志賀クンの趣味や特技って、ぜんぶそういう感じなの?」

 千紗は眉をひそめて聞いた。純也は変わらない笑顔で頷く。

「そうですよ。勉強も、運動も、料理も、どらはんも、頼まれた仕事を引き受けるのも、すべてがそうです。俺が率先して行うことは、必ず自分にメリットがあります」

 にこやかに笑って、純也は言いきった。

「どうです? 先輩こそ、俺のことを軽蔑してくれますか?」

「ううん。すごいことだと思うよ」

 千紗も真顔でうなずいた。

「私はそんなこと、煩わしくてできない。いつだって自分を中心に考えて生きてるよ」

「いや、ですので、俺も基本同じなわけで」

「同じだったとしても、大勢の人はできないよ。だって志賀クンは、元々は興味が無かったわけでしょう?」

 千紗は淡々と、純也を説き伏せるように伝える。

「小さなメリットを得るために、興味のないことを繰り返す。成功に至るには、たくさんの失敗を重ねているはずだよね?」

「まぁ、それなりには……」

「普通の人はね。わずかなメリットと失敗を天秤にかけたら、後者を優先するものだよ」

 千紗はまっすぐに純也を見て、丁寧に言葉を続けていく。

「黙々と挑戦する人は、実は見返りを求めていなかったりするんだよ。純粋に、誰かの役に立ちたがってる。だから、一度や二度の失敗であきらめない。くじけない。そういう人って、私はすごく素敵だと思う。尊敬するよ」

「あ、えぇと、それは……」

 純也はめずらしく、言葉が継げなくなった。

 千紗に評価されたことはわかる。物心ついた時には、極力目立たないように、普通の優等生をやってきた。教師からも、間違いなく同じ評価を受けるタイプだった。

 檀上に上がり表彰されたことはあまりない。良くも悪くも印象に残りません。でも成績は優秀でしたし、いつも素直に首を縦に振りました。

 大人はいつも、純也をそんな風に評価した。とても簡単に騙されてくれた。

「志賀クン、顔が赤いよ?」

「え……あ、えっ?」

 他人はいつも表面しか見ない。そう思っていた。

 ――侮っていた。驕り、心のどこかでは馬鹿にしていた。

 だから嬉しかった。そして自分のことが、恥ずかしかった。

「君は可愛いね」

「っ!」

 意識と感情を支配下におけるはずの手が、とっさに口元を隠す。

「そ……そんなことは、ありませんが……」

 今は、自覚できるほどに、体が熱く染まっていた。

(なんだこれ)

 照れくさい。恥ずかしい。全身がたぎるように燃焼する。

 自分の一部をさらけだして、受け止めてくれたこと。それどころか、あっさり真相に辿りつかれてしまって、懐まで一歩、踏み入ってこられたこと。

(どうにかしないと)

 これまでずっと、相手の顔色を窺って、生きてきた。だから、そんな感情は知らなかった。

「私の逆転勝利だね」

「……勝負なんてしてません」

「じゃあ、私の勝ち逃げね。うんうん、志賀クン、お弁当交換しよ♪」

 すかさず言われる。これは確かに「負けた」と思ってしまった。


 中庭の食事は、話が弾んだ。

「でね、昨日帰って、ネットで調べてみたんだー」

 千紗が肩を寄せて、手にしたスマホで画面を操作する。

「は、はい」

 昨日とは真逆だ。

 千紗はまったく緊張していない感じで、純也の方が、今更に声が上擦った。

「六月から夏場にかけて見られる花って、春と比べると、やっぱり減っちゃうんだよね。メインになるのは、紫陽花とか、花菖蒲、アイリスあたり。あとは睡蓮なんかもあったよ」

「青と白系がメインになりそうな感じですね」

「そうそう。探してたら、そういうの見られる庭園なんかもあったよ。回ってみる?」

「行ってみたいです。けど、なんていうか、その」

「うん。ちょっと〝っぽくない〟よね。初デート先が、庭園巡りってどうなんだろーって」

「一日ず歩くのも疲れますしね。適度に他の場所にも移動できればいいんですが」

「いけそうなとこはあるよー」

 千紗が調べて集めてくれたらしい、お気に入りサイトは、たくさんの緑豊かな光景が広がっていた。

「庭園とかって、意外と町の方にあるんだよね。わたし初めて知ったよ」

 楽しげな千紗の声を聞きながら、純也が、ちらっとお気に入りタブの欄を目にとめた。

「すみません先輩、さっきお気に入りタブを操作した時に、若干目に入ったんですが」

「ふぇ?」

「某ロングセラーゲームがタイトルの、劇場版のサイトが登録されていたような」

「あ、それナシ! ちっともこれっぽっちも関係ナシっ!」

「さらに付け加えると、一時保存のところに〝初デート先で絶対に避けたい場所〟とか〝アニメ映画はアリかナシか、ちなみに私は女子の方です〟という質問タブが――」

「……志賀クン、それ以上はいけないよ……。物理的に君の記憶を消去してしまうよ……」

「いえ、俺はべつに良いですよ」

「ほんとっ!?」

 すごいテンションで声が跳ねあがった。

「いいの!? あのね、ポシェットモンスターズの最新劇場版が見たい!」

「懐かしい。中学の頃によくやりました。ポシェモン」

「懐かしくないよ! ぜんぜん現役だよっ! ポシェモンは大人御用達の対戦格闘ゲームだよ志賀クンっ! まずは個性値と努力値を吟味するところから――」

 夢中で語りそうになる千紗を制する。

「じゃあ、ポシェモンも見にいきましょうか」

「いく!」

 すごく食いつきがよかった。

 それから、デートの待ち合わせ場所と時間を決めた。そうしている間に予鈴がなる。楽しい時間はすぐに終わってしまった。



 純也を引き取った親戚は、父方の遠縁にあたる人達だった。

 義父は大工をしている。七つ離れた義姉もまた、短大を卒業後、父と同じ職場の設計事務所で働いていた。義母は、純也がこの家に預かってもらう前から、病で亡くなっている。

 父と娘。二人で生きてきた空間に、自分が入っていいはずがない。

 小学生でありながら、同じような境遇で育ってきた純也は、本能的にそう思った。

 極力、義父と義姉に迷惑をかけないよう生きてきた。中学を卒業したら、真っ先に家をでて働こうと思っていたが、二人は反対し、進学を強く勧めてくれた。

 純也を引き取った二人は、優しく、立派な大人だった。

 なのに、どうしても、心を許すことはできなかった。


 『3』

 小学生の時、仲良くなった友達が一人できた。

 その男子も境遇が似ていた。他の子供たちのように、気軽に、おたがいの家に遊びに行くことはなかったものの、学校ではいろんな話をした。歳相応に、バカみたいな事でも競いあった。

 ――なぁ、ジュンヤ。俺たちって、シンユーだよな。

 にひっと笑った、友達のこめかみには〝数字〟が浮かんでいた。

 

 『2』

 人の機微に鋭かった友達は、すぐに「おまえ最近ヘンじゃね?」と聞いてきた。

 純也は「なんでもないよ」と目をそらした。


 『1』

 言葉を交わさなくなった。大切な友達は歯切れの悪い純也にいらだち、初めて殴りかかってきた。殴り返した。教師に怒られたのはその時だけだ。


 『0』

 事件が起きた。ニュースにもなった。

 テレビ画面の向こう側。見慣れたニュースキャスターが、変わらない表情で喋った。


 『本日、マンションの一室で強盗殺人事件が起き、その犠牲者として小学生の――』

 ぷつんと。義父がテレビの電源を消した。

 同時に、純也の中でもまた、なにかの感情が途切れて消えた。

 

 ある日、義父の知り合いで顔を合わせた大人が、二週間後、とつぜん容態が変わって亡くなった事があった。こめかみの位置に〝数字〟は見えず、この時に確信した。


 ――あの〝数字〟は、僕が好きになった相手の、余命を告げているんだ。


 ――消さなきゃ。おじさんと、ねえさんへの感情を、消さなきゃ。

 知られないように。こっそり消さなきゃ。見たくない。

 いつ、その日がやってくるかなんて、知りたくない。


 ――僕は、なんにも、できないんだから。


 冷めろ、失せろ、色褪せろ。関心を持つな。鍵をかけろ。閉ざすんだ。

 笑え。愛想よく。不安に思われちゃダメだ。嫌われるな。距離を取れ。

 いつしか、呪詛のように、唱え続けた。

 そうしている内に〝鍵〟のイメージが出来上がり、上手く心を閉ざせるようになった。

 純也を引き取ってくれた大人たちは、なんとなく、距離を置かれている事には気づいていたが、実の家族ではないからだろう。遠慮しているのだろうと思っているに違いなかった。

(こんな、誰の役にもたたない〝力〟は隠さなくちゃ。誰にも言わない。僕だけの秘密だ)

 どこかぎこちないまま、同じ屋根の下で十年、義父と義姉と暮らしてきた。

 だから、それはささやかな事件だった。


 夕飯の食卓。いつもの様に三人そろって、席についていた。

「義父さん、義姉さん、俺、今度の週末、出かけてくるね」

「おう! 青春してこいよぅ! 小遣いくらいる? 一万で足りるか? 持ってけドロボー!」

 豪快な大工の義父が、何故かぐっと握りこぶしを作って笑う。

「あ、いや、大丈夫。今ある分で全然足りるから。一万円とか大金だよ」

「かーっ! ジュン! 本当におめぇは昔から遠慮しやがるなァ! いいんだぜェ。たまにはねだってくれてもよぉ! ねだってくれねーと、父ちゃん寂しいなう! なう寂しい!」

 〝なう〟はもう古いよ義父さん。スマホを手に入れ、ツィッターなんかも初めたりして、ぶいぶい若者ぶりたい義父に、教えてさしあげようかと思ったが、遠慮してやめた。

「そうだよ、ジュン君。私もやっぱり、高校に行って正解だったと思うな~」

「……うん。ありがとう、義姉さん」

「お礼なんて言いんだよ~。がんばって合格したのは、ジュン君なんだからねぇ」

 どこかほわほわした義姉が、自分のお茶碗にご飯を装いながら言った。

 線の細い美人だが、意外とすごく、よく食べる。頬をリスのように膨らませて、もくもく、幸せそうに食べている。

「やっぱり高校って大事だよねー、お父さん」

「おうよ! 一生に一度の青春だもんなぁ! 若い時分にはわかんねーかもしれねーが、ぶっちゃけ、なんもかんも、はっちゃけるぐらいが一番良いんだぜぇ!」

「……あはは、かもしれないね」

 いつもの夕飯。三人で囲む食卓。義父も義姉も、純也が学生らしい発言をすると、なんだかほっとした表情をみせる。

「亮介くんだっけ? あの子、礼儀正しくて、お姉ちゃん好きだなー。彼氏にするには物足りないけどね」

「ほぉ、ジュン。友達と遊びにいくのか。わかったぞ! ナンパだな! かーっ! 父ちゃんも若い頃の青春を思いだすわー! やっぱ野郎が町にでかけるっつーたら、ナンパだよなー!」

「いや、でかけるのは亮介とじゃなくて、学校の先輩とで」

「知ってる知ってる。女子をあれだろ。ハンティングしに出かけるわけだよな!」

「いや、その先輩は女子なんだよ、義父さん」

「えっ、ジュン君、それって」

「おう、なんだなんだ、父ちゃんワカンネ、詳細キボン」

「お父さん、うるさいから黙ってて」

「おうふ!?」

 義姉が、実の父親の脇腹にエルボーをかます。やたらと古いネットスラングを使いたがる義父は、箸を持ったまま悶絶した。

「も、もしかして、ジュン君、彼女ができたの? え、えっ、初デート?」

「……一応は、そうなるんじゃないかな」

「きゃあ~~っ! お父さん聞いた!? ジュン君が! ジュン君が女の子とデート!」

「お……おk、把握……」

「もー、なんでそんなにテンション低いのー」

「お、おまいう?」

 苦しげに顔をしかめる実父に、えげつない一撃を浴びせた義姉は、トドメとばかりに言った。

「えっと……今晩、お姉ちゃんたち、帰ってこない方が良かったりする? 部屋、一晩使っちゃう?」

「お、俺一人で帰ってくるからっ! 夕方にはちゃんと、俺一人で帰ってきますからっ!」

「なるほど。外でご休憩ね? いい! お姉ちゃん、許すっ!」

「違うよっ! あと許されねぇよ! 停学どころか退学レベルだからなそれ!?」

「……おぉ、ジュンの奴が珍しく慌ててやがるぜ。こいつぁ……こいつぁ実に愉快だ!」

「お赤飯炊かなきゃ!」

「それも絶対意味違うからッ!」

「青春にかんぱいだぁ!」

「いえ~い!」

 一人息子が慌てる様をツマミにして、父と娘は勝手に盛りあがった。


 次の週末、純也はデートの待ち合わせ場所にやってきた。快晴とはいえず、空模様は少しあやしかったが、しばらくは保ちそうだ。

 町中を走り、目抜き通りへと通じる駅のホームに入る。構内を気持ち早足で歩く。遅刻だけはするまいと、待ち合わせ場所には十分前についた。後は待っているだけかなと思った時に、反対側の方からも、あわいピンク色のワンピースを着た千紗の姿が見えた。手には小さなバッグを握っている。

「志賀クン、おはよう。わたし、時間、間違えてないよねっ?」

「大丈夫ですよ。俺も来たところですから。その服、すごく可愛いですね」

「そ、そうかな。えへへ。ありがと~」

 ほんわりと、空気が和んだ。

「そうだ。今日の午後ね、雨が降るかもだって。予報見た?」

「見ました。午前中は大丈夫だと思いますが」

「うんうん。志賀クン、傘は持ってきてないの?」

「降ってきたら、コンビニで買うから平気ですよ。先輩は?」

「私は折り畳み持ってきたから大丈夫」

「わかりました。それじゃ、行きましょう」

「うん、行こう。あの、今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。よろしくお願いします。先輩」

 純也は手を伸ばして、千紗の手を握った。できれば、常にこの手は開けておきたかったから、今日は傘を持ってこなかった。


 町中にある、有料の庭園は、六月の時期は咲き乱れる花を楽しむというよりは、専属の庭師によって剪定された、緑豊かな景色を楽しむ趣の方が強かった。それでも所々、色鮮やかな紫陽花や、外来種のアイリスが並べられ、二人で手を繋ぎ、景色を楽しむには十分だった。

「うーん、良いねー。なんかすごーい癒される」

「落ちつきますね」

 芝生の道を進んでいくと、白い花をつけた榊の樹がたっていた。根本の側には頃合いよく、休憩用のベンチがあって、そこに並んで座った。

 見渡せる緑と池の向こうに、高々とそびえるビルが見える。

「あれだねー、時々は、電子機器のない場所にもこなきゃダメってことかなぁ」

「といっても、携帯はもう手放せませんし、人によってはタブレットや、ネット用の無線とか、常に持ち歩いてる人もいるんでしょうね」

「あー、うん。全部入ってます……」

「先輩のは、なんかもう職業病に近いんじゃないですか?」

「やっぱりそうなのかなぁ。そんなに持ち運ぶの手間じゃないから、つい、持ってきちゃう」

 苦笑して、千紗は呟いた。

「空、灰色だね」

「え? 確かに曇ってますけど、まだそこまでは」

「あ、ごめん。なんかね。綺麗な灰色だなぁって、思ったから」

「綺麗な灰色ですか?」

「うん。灰色が、ちゃんとしてるっていうか」

 その時に、ふわりと風が吹いた。かすかな花びらが何枚か、二人の側にやってきた。

 純也の肩に乗って、千紗がなにげなくつかみとる。目が合った。

「志賀クン、あのね」

「なんですか、先輩」

「ひ、ひざまくらとか、いっかい、やってみたいなーって、いうか……」

「いいですね」

「嫌じゃないの?」

「いいえ、むしろ大歓迎です。色がでないよう、今必死に〝鍵〟を掛けてます」

「志賀クンが照れてる。可愛い」

「それでは、お願いできますか?」

「う、うん。了解です」

 言って、二人が同時に身を傾けた。

「え、先輩?」

「え、志賀クンが膝枕する方だよ?」

「……そうだ……わかっていたつもりだったのに……」

 空を仰ぎみた。美しい灰色だった。

「……俺はまた、同じ過ちを犯してしまったんだなぁ……」

 満面の笑顔になる。

「先輩の女子力はその程度でしたよね。すみませんでした。さぁ先輩。遠慮なく俺の膝で横になってください。周囲からの痛々しい視線は、こちらですべて引き受けます」

「やっぱり志賀クンって性格悪いよねぇ!?」

「先輩、三分経ったら役割を交替しませんか? 俺は三十秒でいいので、膝枕を、なにとぞ」

「どんだけ膝枕やりたいの!? 私どんだけ期待を裏切っちゃったの!?」

「すごく」

「わかったよ! 私が悪かったよぅっ!」

 それから千紗は、改めて身体を預けてきた。三分経ったら、ちゃんと交代した。


 そこからも、歩く時はずっと手を繋いだ。

 昼食はハンバーガーで軽く済ませ、その後で映画を見た。

 オープンカフェで、ドリンクを飲みながら意見交換をして、もう少しどこか回りたいと思って、アミューズメントパークに入った。

 ここはカラオケかな、学割効くし。と考えていると、

「――志賀クン、ボーリングって得意?」

 なにかやけに、挑戦的な眼差しがやってきた。

「いえ、そんなには」

「何点ぐらいだせる?」

「最高で百ちょい、だったような」

「いいわ。賭けましょう」

「先輩。今明らかに、勝ちを確信した口調でしたよね」

「志賀クン、負けたら月曜日、トマトボイル煮込みのロールキャベツね」

 どや顔になった千紗が、勝手に話を進めていく。

「もちろん、志賀クンにも特典はあるわよ? まぁ、万が一にも私が負けることなんてありえないけど。君が勝てたら〝なんでもひとつ、言う事を聞いてあげるわよ〟」

「……マジですか?」

「ふっ、ハイスコアが百ていどの素人が、この私に勝てると思わないことね」

 千紗の挑発に、純也も静かに闘志をたぎらせる。

「今日、俺は自己ベストを更新します。いえ、パーフェクトを狙います」

「えっ」

「絶対に勝ちます。忘れないでくださいよ。さっき言った約束――〝なんでもする〟」

「微妙にニュアンス変わってない!? あのっ、やっぱり、なんでもって言うのはー」

「逃げるんですか」

「に、逃げないし! 逃げてないし!」

 チョロかった。

「では行きましょう。勝負は、勝っても、負けても、文句なしの1ゲームで」

「……志賀クンて、変なとこでわかりやすいよねー……」

 エレベーターで、ボーリングのフロアまで上がった。


「負けた……負けてしまった……」

 この世の終わり。とばかり、男子高校生は肩を落とす。

「あ、危なかったわ……」

 勝った方もまた、息も絶え絶えに、スコアボードを見ていた。

「なんでいきなり、後半覚醒したようにストライク連発してくるのよ……。ともかく、志賀クン! 私の勝ちよ!」

「負けました。大人気なく、終始勝ちを狙いにいった先輩には、がっかりです」

「ひどい言われようなんだけどっ! だいたい君だって、二百点近いスコアを出してきたじゃない。私にウソついてたの?」

「いえ、先輩は男子の妄想力(イマジネーション・パワー)を舐めすぎです」

「落ち着いて志賀クン。キャラ変わってるわよ」


 外にでると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。駅までの道はいくらも距離がある。

「思ったより勢いが強いですね。先輩、傘持ってますか?」

「うん。折り畳みなら持ってるよ」

「わかりました。じゃあ俺、そこのコンビニで自分の分を買ってきますので、少し待っててもらえますか」

「あ、うん。その、待って」

「はい?」

「さっきの約束。変更していい?」

「まさか俺に勝ちを譲ってくれるんですか? 先輩、大変なことになりますよ?」

「そうじゃなくて! えっと……一緒の傘、入って?」

 ぽふ。と小さな折り畳みの傘が広がった。

 

「さすがにそれだと、先輩が濡れてしまいますから」言って、純也もコンビニで傘を一本買った。透明な傘の下、周囲の視線をあびながら、二人で肩を寄せ合って歩いた。

 来るときに使った駅の屋根に着き、傘を閉じた。

 傘を閉じることを、惜しいと思う気持ちは初めてだった。券売機のところで、二人並んで電車の時間を確かめる。

「電車、今でたとこですね」

「ほんとだ。ごめん、ちょっとお手洗い行っていい?」

「わかりました。ここで待ってます」

「うん、いってくるね」

 繋いでいた手が一時、離れた。千紗の姿が消えてから、何気なく改札機の向こうを振り返った時だった。

『………………』

 ホームに続く階段のところに、少女が立っていた。小学校中学年ぐらいの、白と黒を基調とした、とても目立つ服装をしている。腰回りには革製のポシェットが付いていた。

(あの子は、この前の……)

 手に、携帯ゲーム機を持っていた。

 高性能に進化したゲーム機からは、勇ましいゲームミュージックが流れてくる。

(ん? 〝ゲームの音が聞こえる〟?)

 疑問を抱いた。――純也の周辺から〝人の喧騒が消えている〟。

「志賀純也」

 考えがまとまるよりも早く、少女は口にする。

 距離にして、数メートルほど離れた所から、

「はじめまして」

 とつぜんの挨拶。少女が自分のフルネームを知っていることに動揺し、得体の知れない不気味さがやってくる。心の中で〝鍵〟が回る。


「君は、一体誰だ?」

「調停者」

「は?」

「私は〝時の調停者〟」

 携帯ゲーム機を操作しながら、面をあげずに少女は名乗った。

「私は志賀純也に会いに来た。今回〝世界の調和を謡う機構〟より、その許しが示された」

「…………?」

 わけがわからない――俺は死んだ。異世界にいた。女神さまから「貴方が勇者よ」と告げられた――なんとなく意味はわかるが、さっぱりだった。

「そのゲームのストーリーかい?」

「偽なり。〝これ〟は現実に存在する」

 少女、時の調停者は首を振る。指先のゲーム機からは、音楽と共に「うおりゃあ!」と戦士の咆哮らしき怒声と、巨大な大剣を硬質な鱗に撃ちつけたような、にぶい斬撃音が響いた。怪物の悲鳴があがる。

「私は忠告に来た」

「忠告?」

「そう」

 今度は首をうなずかせる。最初から俯いていたせいで、長い前髪がゲーム機の液晶にまでかかっていた。

「…………」

 しかしとつぜん、無言になった。黙ってゲーム機の電源を落とし、ポシェットに閉まう。代わりに折りたたんだ紙片を取りだしたが、それを広げたり、純也に手渡すこともなく、

「ここまで」

「うん?」

「今回は、ここまで」

「え?」

「さようなら。志賀純也。また会いにくる」

「おいっ、ちょっと待てよっ」

 踵を返して階段を駆け上がった。せめて、どうして自分の名前を知っているのか。それぐらいは答えて欲しかったが、改札機に阻まれる。

 少女の姿が見えなくなると、また唐突に、人のざわめきが戻ってきた。

(なんだ、これ。今なにが起きたんだ? ……時の調停者?)

 一応、記憶を辿ってみるも、そんな知り合いがいるはずもなかった。考えたところで、なにかの答えが出るはずもなく、普通に五分ほど経ったところで千紗が戻ってきた。

「おまたせ。どうしたの志賀クン? なにかあった?」

「――いえ、なにもありませんでしたよ」

 努めて平静に、いつも通りに笑いかけた。


 市電に乗って同じ駅で降りたあと、さっそく傘を開きなおした。雨が降っているのに、遠回りをして歩いた。

「志賀クン、ありがとう。ここで大丈夫だよ。これ以上は、君が家に帰るの遅くなっちゃう」

「わかりました。じゃあ、ここで」

「うん」

 どうして、別々の場所に家があるのだろう。帰る道が同じではないのだろう。そんなことを思っていると、にわかに強くなりはじめた雨の気配が、路地裏に立つ二人を包んだ。

 自然に人の気配が途絶えている。

「先輩」

 静かな音だけが聞こえる街路灯の下、彼女にたずねた。

「その、いいですか」

「…………うん、いいよ」

 真っ赤な顔で了解を得た。傘を持たない、空いた手で頬を寄せる。目を閉じた。わずかに濡れた肌は艶っぽく、重なった唇は、最初の時よりも長かった。


 家に帰ってきた時は、身体の半分が濡れていた。

「ただいま」

 雨の勢いが予想以上に増したこともあって、前髪から一粒、雫が落ちる。

「義父さん、義姉さん、いないの?」

 家の中は静まりかえっていた。ひとまずリビングに踏み入ると、大学ノートが一冊、机の上に見つかった。表紙には油性マジックで「志賀家連絡帳」と几帳面な字で書かれている。

「義父さんたち、どこか出かけたのかな」

 純也がこの家に来て以来、義父と義姉、三人の間で交換されたノートだった。最新の日付まで辿っていくと、やたらと豪快な太字が踊っていた。

『青春! おかえり! 青春してきたか! とーさんも若い頃を思いだしちゃったなぁ! あっ、ここで一句。とーさんは、火急の仕事、外出なう!(字余り)』

「俺の名前は青春じゃないよ、義父さん。あとやっぱり、なうはもう古いよ」

 息子に彼女ができたのが、とーさんはやたらと嬉しかったのか。テンションが高い。

「義姉さんの方は……」

『ジュン君、おかえりなさい。これを君が読んでいるということは、朝帰りではないということですね。なんという名推理でしょう。あっ、お姉ちゃんも友達から連絡が来たので少し外出してきます。夜には帰ります。朝帰りはしません』

「了解」

 もはやツッコミを入れる気も失せた。

「とりあえず、うがいと手洗いしとくかな。風邪ひいたらマズいし」

 純也は洗面所に向かった。濡れた靴下と上着を脱いで脱衣カゴに放り込む。着ていたジャケットの肩は片方がだいぶ濡れていて、鏡台の前に立って掌を見ると、顔がゆるみそうになる。

「洗いたくないな」

 繋いだ手の温もりが、まだ残っている気がした。別れ際に交わした、キスの感触も思いだすと、全身の熱がにわかに上がる。

「好きなんだ」

 誰かのことを、好きになった。

 親切にしてくれる友達や、家族とも違う。特別に親しい、同じ時間を生きている人がいる。

 強い感情が巡った。ともすれば、初めてだったかもしれない。

「……学校、楽しみだな」

 そこへ行けば、大切な相手とまた会える。

「今度こそ……悔いが残らないようにしないと……」

 誰にも告げない決意をこぼす。

 名残り惜しい気もしたが、洗面台の蛇口をひねり、手を洗いながら鏡を見た。


 『1』


「…………?」

 瞬間、なんのことだか、わからなかった。


 『1』


「…………」

 〝興味を持った。関心を持った。ある程度に好きになった相手に浮かぶ余命〟。


 『1』


 鏡の中に映る、自分の顔。〝数字〟が、こめかみのところに浮かんでいる。

「なんだよ、おれ〝今週死ぬのか〟」

 遅れてやっと、理解ができた。

「…………はは……」

 思わず笑った。

「なんだよ。死ぬのかよ、くくっ」

 口にだすと、現実感にとぼしくて、バカバカしくて、声に出すほど笑えてきた。

「ははは。知ってた。はははは」 

 自分の生き方、在り方、その証明。

 変わりたかった。変わろうと思った。

「知ってたさ――最初から、なにも、意味なんざねーってなァッ!」

 わけもわからず、ブチ切れた。

 明日、隕石にぶつかって死ぬ可能性はゼロじゃない。みんな一度は考える。――そんなことは起こらない。どうせ生きてる。仕方がない。がんばっていこう。また明日。

「……そうだ、どうにもならない事だってある。なぁ、そうだろ?」


 『1』


 鏡の中の自分が、この世界を呪う。嘲るように口角を釣り上げる。

「ふざけんな、消えろよ。ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんな畜生……ッ」

 こめかみのところに爪を立てる。ガリガリと、血が出るまでひっかき回す。

 〝数字〟は消えない。どこまでも、純也の行く末を主張した。


『――おまえは、あと一週間以内に死ぬんだよ。逃げられないんだよ。あきらめろ』


 皮膚が裂けて、血が伝いはじめた。ひたすら悔しくて、声にでた。

「ざけんな……クソ……クソが……ッ!」

 ざあざあと、洗面台を流れていく水の音。

 あぁ、これもったいないと、急に小市民的な事を思う。どうでもいい事で意識が切り替わったら、途端に気持ちが軽くなった。

「…………そっか。こんなもんだよな。仕方ないか」

 蛇口をひねって水を止める。どん底まで落胆していた気持ちが冷めていく。フラットな自分が戻ってくる。

「だませ」

 両手で水をすくいとる。ゆっくりと、顔に馴染ませた。

「気づかれるな。笑え。上手くやるんだ。あと、数日で終わるんだからな」

 余命一週間。あるいは、一時間後、隕石にぶち当たって死ぬかもしれない。

 方法はわからない。わからずとも確実に死ぬ。

 高校生になって、最初の夏休みは、おとずれない。

「大丈夫。俺ならやれる」

 濡れた顔で、鏡に映る自分の顔を見る。

「笑うんだ。愛想よく。なにも変わらない、今まで通りの距離を取れ」

 しっかりと、瞳の奥まで覗き込んで言い聞かせる。

 血は流れ続けたが、痛みは消えていた。

 無感動に変わる。意識的に、無自覚になったことを自覚する。

「知ってた。感情なんて余計だ。生きていくのに不都合だ」

 鏡の中に映る純也の顔が、自然な感じに笑む。

「だませ。自分を含めて他人だ。俺が俺である必要性なんて、ない」

 子供の時に作った〝鍵〟を拾いあげる。感情の扉を完全に閉ざすと、こめかみに浮かぶ〝数字〟は消え去った。満足げに頷いたはずだった。


『――まずは相手の顔を見なさい。言葉を伝える時も、謝る時も、なにをするにしてもだ』


 こんな時に。亡くなった父親の言葉が心臓をえぐる。


『――相手の目を見れば、その人間が、どういう人かよく分かる』


 鏡の中に『人の形をした抜け殻』がいた。

 こういう場合はどんな顔をすれば良かったんだっけ。考えている。考えている間に、自宅のチャイムが鳴った。きっと『この家の人たち』が帰って来たのだ。

 志賀純也という記号体は、いつもと変わらない笑顔と足取りで、玄関に向かう。

「はい。今開けますよ」




 屋外。住宅街の通りを一本はずれたところに、黒の軽自動車が止まっていた。運転席に座った男が後部座席のロックを外す。少女が黙って乗り込んできた。

「おかえり、早かったな。首尾は?」

「……」

 返事はない。

「まさか、接触しなかったのか?」

「……」

 黙って扉が閉められた。運転席に座った男は、三十路を少し超えた辺りの、まだまだ仕事盛りといった、生気あふれる眼差しを湛えている。フロントミラー越しに、少女に伝えた。

「どうするんだ。もう時間がないぞ」

「……わかってる。でも、志賀純也は、今たいへんだから」

「だからこそ、真摯に受けとめるだろう。もう一度、家に向かう事を薦めるが、どうだ?」

 声に少女を咎める気配はない。熱くも冷たくもなく、最善と思われる事実のみを続けていた。

「……もうすぐ、おじ……志賀純也の両親が帰ってくる、から」

「あぁ。そうなる前に、君の〝力〟を使って、彼がすべき事を伝えてやればいいだろう」

「……」

 少女は返事をせず、ポシェットを開いた。なにかを探している様子だったが、見つからないのか、小声で「あれ?」と呟く。

「探し物は、これか?」

 男が一枚の紙片を見せた。丁寧に折りたたまれた痕を示すそれは、今は広げられていた。

「な、なんでっ! いつ取ったの!?」

「悪いな。職業柄、手癖が悪くてね」

 四つに折りなおし、悪気もなく紙片を放り投げる。

「そんな物に頼らずともいい。台本なんて用いずに、これから起きることを素直に伝えるだけで十分だ。もちろん、真実を伝えてしまうのはNGだがな」

「……うるさい」

 私物を勝手に見られたことに、ミラー越しに怒りが伝わってきた。その様子を無視して、男もまた、生真面目な装いで口にした。

「会いたかったんだろう、志賀純也に。緊張する気持ちはわかるがな。――君は、我々構成員の中でも特別な〝力〟を持っている。故に味方からも監視対象となり、実際に気の毒だとは思う。だが、今回の任務は自らの意志で引き受けた以上は――」

「うるさいっ! わかったような口をきかないでっ!」

 激昂する。その声は車内に反響した。

「悪かった。言い過ぎた。すまない」

 自分の子供ほどに齢の離れた少女に向かい、男は素直に謝った。

「だが、どちらにせよ、志賀純也は死ぬ」

 告げると、少女の肩が大きく震えた。

「その事実は変わらない」

 男は助手席においたアタッシュケースを取り、八桁のロックナンバーを入力した。一見普通の鞄だが、数字を入力すると、底の部分がスライドして開かれた。

「とある事故でな。我々の組織の名簿にも記されている。君も見たはずだ」

 中には通帳やパスポート、県立高校が発行している教員を示す免許証、ラベルのない化粧水を湛えた小瓶が一式、ややフレームが歪んだ眼鏡などが現れる。

「君は、志賀純也の死を追っていると聞いた。やめておいたほうがいいぞ」

「どうして」

「真実を疑うのは、不利益な事でしかないからだ。少なくともその場合、本人だけが、相当に危ない橋を渡っている事に気づいていない。それともうひとつ、なにかの質問をする時は、実は自分を追い詰めているのが大半だ。覚えておくといい」

 男は手慣れた様子で化粧品を顔に塗った。すると、人が年齢と共に重ねる皺が浮かぶ。

「人は誰もが秘密を持っている。まずはその事を、強く自覚しなさい」

 目尻はおだやかで、人生を半ば悟ったのと、疲れた感じが同居する具合に変わった。

「真実に辿り着くことは、おだやかな事ではありませんから」

 喉元にブレスケアを吹きかけると声が枯れる。フレームの歪んだ眼鏡をかけ、最後に通常の蓋を開いて、量産物の背広を出し、着ていたジャケットを脱いで着替えた。

「――それでは、今日のところは、セーフハウスに帰るとしましょうか」

 面影は完全に変わっていた。どこかのんびりとした、初老の男性教員が運転席に座っている。シフトレバーを起動させ、ハンドルを握り、車を発進させた。

「……どうして、今変装したの」

「念の為ですよ。親子というよりも、祖父と孫といった方が、都合が良いでしょう」

 年相応の、無理のない運転をしながら、交差点を曲がる。

「ねぇ、ひとつ質問に答えてくれる?」

「いいですよ」

「さっきの姿が、貴方の本当の姿なの?」

 長い黒髪の下から、ミラー越しに眼差しが突き刺さる。さっきの言葉を受け止めたうえでの発言だったのか、男の口元もまたほんの少し緩んだが、

「さてはて、どうでしょうねぇ」

 流石に積み重ねてきた年期が違っていた。さりげなく視線をそらし、とても自然に嘯くと、少女はそれ以上、なにも聞けなかった。




 真夜中、生きた心地がしなかった。

 いつ、自分のこめかみに浮かぶ〝数字〟が『0』になるのか、おびえた。


 寒気は朝になっても収まらず悪化した。純也は学校を休んで、部屋で横になっていた。

「……このまま死ぬのかな……」

 体温計で熱を測ると、三十九度を超えていた。

「……体調崩したのって、いつ以来だっけ……」

 かすむ天井を見て、純也はぼうっとした頭で昔を思い返していた。

 その視界の中に映ったのは、義父ではない、実の父親の顔だった。

『ただいま、いろいろ買ってきたぞ。食べられるか?』

 記憶に残る父親は厳しかったが、風邪をひくと、やさしくなった。

 プラスチックのスプーンに、プリンの欠片を乗せて、食べさせてくれた。

「……体調不良で学校休んだのも、初めてだな」

 しっとり甘い、カラメルソースの味を浮かべると、少し、腹が減った気がした。

「今何時だろ……朝からろくに食ってないし……なんか、とにかく胃にいれないと……」

 言ってしまってから、ふと笑えた。

「……餓死で死ぬ可能性は、あったりすんのかな。さすがにないか」

 毛布を被ったまま、よろけながら部屋を出た。リビングの隣にあるシステムキッチンの方に回り込み、冷蔵庫を開ける。ついでに時計で時間を確かめると、正午を回っていた。

「見事になんもねぇ。けほ……せめて牛乳ぐらい飲んどくか」

 心配してくれた義父と義姉が、一度様子を見に寄ると言ってくれたから、もう少し待てば帰ってくるかもしれない。

「素直にもう一眠りしとくかな……けほ」

 咳をしながら、どうにか牛乳だけグラスに注いで、飲み干していく。

「ぜんぜん味しないな……げほ、げほっ!」

 簡単にグラスを洗い、毛布をかぶりなおして部屋に戻ろうとした。その時に、玄関のチャイムが鳴った。

「誰だ……?」

 訪問販売だとしたら、無視を貫こうと心に決めて、外に通じるインターホンを手にとった。

「はい、どちら様ですか」

『あっ、志賀クン?』

「先輩? なんで……うえっ、げほっ!」

 むせた。

『大丈夫? あのね、君の友達から風邪だって聞いて、お見舞いに来たの』

「あ、げほっ、えぇと、大丈夫で、ごほっ、すよ」

『ぜんぜん大丈夫そうじゃないね。ドア開けてもらえる?』

「いえっ、う、うつりますから!」

『先輩命令。開けなさい。それとも私を徒労で返すつもり?』

「…………承知しました。けほ」

 よろよろと、純也は半ゾンビのような足取りで玄関に向かった。

 

「すみません、こんな格好で」

 マスクを付けた上下パジャマの格好で、純也は玄関の扉を開いた。

「気にしないで。君のことが心配で、私の方が勝手に来ちゃったんだから。友達から住所も勝手に聞いちゃってごめんね、携帯にもメール送ったんだけど、返信なかったから心配で。もしかして、寝てた?」

「いえ、平気ですよ。今起きたのも、なにか食べようと思って……ところで学校は?」

「午後はぜんぶ、サボっちゃった。それより、ごはんまだなんだね?」

「はい。冷蔵庫が空で、牛乳飲んでたところです」

「そっか、いろいろ買ってきて正解だったね。志賀クン、冷蔵庫開けていい?」

「は、はい。どうぞ」

 純也の家にやってきた千紗は、近くのスーパーの袋を抱えていた。

「流しも借りるね。志賀クンは部屋で休んでて。おかゆ作って持ってく」

「す、すごいぞ。今日の先輩は一味違う……できる感じだ。輝いて見える……この人は、本当に俺の知る先輩なんだろうか。そうか。もうすぐ俺、死ぬんだっけ……」

「心の声がだだ漏れよ。あと顔色悪くして死ぬとか言わないで、冗談にならないから」

「はは。ですね。すみません。……げほ」

「ほら。無理しないではやく休んで。私もすぐに行くから」

「すみません、お言葉に甘えます」

「うん。あと、おかゆの他に、今すぐ食べたい物ってある?」

 千紗が聞いて、純也はしばらく考えたあと「プリン」と短く答えた。


「先輩、俺は今なら死んでもいいかなって思うんです」

「うん。なんだか病弱な雛にエサあげてる気分になってきた。ほら、冷めちゃうから口開けて」

「先輩、そこはこう、もう少し、男子心をくすぐっていただけると」

「冷めるって言ったの聞こえなかった? ほら、口開けて。開けなさい。開けろ」

「……あーん」 

 仕方がないので自分で言った。雛鳥よろしく、千紗が作ってくれたレトルトのおかゆを、差しだしてくれた匙ごと、ぱくっとくわえる。

「んぐ……」

「どうかな、食べれそう?」

「なんとか。それにしても、味がぜんぜんわかりません」

「そりゃ、風邪ひいてるんだもん。志賀クンって病気にかからない方?」

「風邪は何度かひきましたけど。体長が悪いなと感じたら、すぐに対策取ってたんで」

「それってやっぱり、ご家族に遠慮してるから?」

「……はい。義父さんも、義姉さんも、すごく良くしてくれるので、できれば余計な心配をかけたくないなと。今回は――油断してた、気が緩んだのかもしれません」

「そっか。志賀クンはえらいね。……は、はい、あーん」

「っ! やはり今日の先輩は一味違うっ」

「わ、私だって恥ずかしいのっ! 人目があったら絶対やらないからねっ! 志賀クンが病人だから、今は仕方なくてやってるんだよっ!」

「では、病人の戯言と思って、ひとつ聞いてくれませんか」

「いいよ。なに?」

「先輩、もう少し上目づかいで見つめてください。……そう、その角度です。いいですね、写メをとるので動かないでくださ、あっ、熱い! 先輩、匙がほっぺに熱いぃっ!」

「志賀クンはもう少し、私に対して遠慮した方が良いと思うの。っていうか、今日は熱のせいか、明らかにおかしいね。それとも、そっちが君の本性なのかなぁ?」

 ぐりぐり。じりじり。

「すいません調子にのりました。謝るので、ほっぺをぐりぐりしないでください」

 頬に熱いおかゆを乗せたスプーンを押し当てられて、純也は素直に謝罪した。


 おかゆをたいらげ、熱冷ましも飲むと、すこし体調が良くなった気がした。

「ありがとうございます、先輩。すっかり全快しました」

「するわけないでしょーが。ほら、熱も三十八度こえてるよ。あーんして」

 餌を与えるのも慣れてきたのか、自然な感じにプリンを差しだす。

「んぐ。でも本当に楽になりましたよ。ありがとうございます」

「そっか、よかった。昨日、帰るまではぜんぜん普通そうに見えてたから、心配したんだよ。雨に濡れちゃったのが原因で、風邪ひかせちゃったんじゃないかって」

「……それはないです。先輩は悪くない。本当に」

 こめかみのところに〝数字〟が見えたのは、昨日の夜。

(最高で、あと六日)

 現実味がない。

(来週までには、なにかが起きて、俺は死んでる。この人の隣には、もういないんだ)

「志賀クン? 大丈夫?」

「あ、いえ、……そうだ先輩、ひとつ頼みを聞いてくれませんか」

「内容によるよ。今度はなに?」

 ちょっぴり警戒心むきだしの彼女に向かって、言ってみた。


「結婚してください」


「………………………………」

 ものすごい沈黙がきた。

 餌をやる人が、プリンを乗せたスプーンを持ったまま、固まった。

 なんとなく勿体なく見えたので、手を取って、自分の口に運んで「ぱく」と食べる。

「志賀クン? やっぱり? まだ? お熱があるね?」

「ありますけど、意識の方はしっかりしてますよ」

「どこが? だって? 結婚? うん? どういうことかな?」

「先輩、落ち着いてください。俺の色、見えてるんでしょう」

「そ、それはその……っ!」

「べつに気持ちを隠したり、嘘をついたつもりはありません。ただ、今の素直な気持ちを、きちんと先輩に伝えておきたいと思いました」

「だ、だだ、だけど! 結婚とか……っ! その……びっくりするでしょ普通はっ!」

「えぇ、先輩の〝その顔が見たかった〟んですよ」

 純也は見た。千紗の顔に〝数字〟が浮かんでいないのを確かめた。

 さらに瞳の奥。千紗の中に映った自分の顔に、昨日浮かんだ『1』の〝数字〟が、同じように見えることも確かめた。

「あぁ、良かった」

「良くないよっ! ま、まだ、ドキドキしてるんだから……っ!」

「すみません。勢いに任せて口走りました。忘れてください」

「忘れられるわけないじゃない……ば、バカぁっ!」

「それなら、もう少し、覚えていてくれますか」

 最後になるかもしれないから。伝えておく。

「先輩」

「こ、今度はなに?」

「俺、あなたに出会えて良かったです。本当に、心から感謝します」

 本心を伝えてから、純也は〝鍵〟を拾いあげた。

「俺を見つけてくれて、ありがとう。好きです。この世界でいちばん、先輩が好きだ」

 志賀純也の『世界』は、ここにあった。

 生まれて初めて〝数字〟を含め、すべての生に感謝した。

「俺を変えてくれて、ありがとう」

 最後に、誰かを好きになる事の大切さを教えてくれて、ありがとう。

 ――〝鍵〟をかける。自分の気持ちを覆い隠す。

(先輩は、千紗は死なない。少なくとも、これから三週以上は生きるんだ。それはつまり、俺の不幸に巻き込まれることはないってことだ。良かった。本当に良かった)

 寒気は消える。あたたかさもまた、失われた。

(初めて、必要なウソを付いたな)

 甘いプリンの香りがする。ほんのうっすら、幸せな気持ちで、心が満ちた。


 翌日、目を覚ますと微熱が残っていたが、薬だけ飲んで、学校へ向かった。

 世界はまた、ぼんやり色あせていた。色あせていると分かったのは、一度、色のある世界を経験したからだった。

「よぉ、純也、おはよーさん」

 学校が近づき、生徒が増えてきた辺りで、亮介が声をかけてきた。自転車から降りる。

「おはよう、亮介」

「もう体調いいのかよ」

「まだ微熱はあるけど、大丈夫かな」

「そうか。はー、にしても最近あちーよなぁ。学校に冷房なんてねーし。店でバイトしてる方が全然マシだわ」

「あと一ヶ月もすれば夏休みだし。それまでの辛抱だろ」

「だよなー。あー、一ヶ月先が待ち遠しいぜ! 夏休みになったらよ、海いこうぜ、海! おまえも彼女連れてこいよ」

 屈託なく笑う亮介の言葉を聞いて、地味にひっかかった。

「亮介も彼女できたのか?」

「はっはっは。今の発言も聞いても、べつに俺は、余裕だな、コイツ死ねばいいのに、とか思ってないんだぜ? その優越感もあと数日の猶予だと思え」

「つまり彼女はまだできてないと。ただ夏休みの前に試験もあるし、赤点だけは取らないようにしないと」

「あー、だよなー、赤取ったら補修だし、最低でも赤だけは免れねーとなぁ」

 試験が終われば、すぐに本格的な夏がやってくる。

 夏休みになれば楽しいこともあるだろう。もしかすると、今年の夏は特別なものになるかも、しれなかった。

(生きていればなぁ)

 色があせていく。

 朝起きた時に聞こえるセミの鳴く声を、今年はもう、耳にすることはない。

「ところでよ、純也。やっぱ、まだ具合悪いんじゃね?」

「そんなことないけどさ。どっか変か?」

「おう。表情硬いぞ」

「表情が硬い?」

「あー、なんつーか、前のおまえに戻ったっつーか」

「なんだよ、それ」

 高校の正門に至るまでの、最後の坂道。

 慣れはじめた登下校のT字路だった。亮介の言っている意味がわからず、何気なく交通ミラーに映る自分の姿を見上げて、驚いた。

「…………」

 そこには、ひどく曖昧な作り笑顔を浮かべる、純也がいた。

(あぁ、そうか……俺、先輩と会うまでは……)

 ずっと、こんな顔で笑ってたのか。

 自分では愛想よく、ちょろい優等生を演じていたつもりだったのに。それは端的に言って、

(ひっでぇ顔)

 崖っぷちに立ち、いざとなれば身を投げる危うさがあった。

(気づいてくれる人は、気づいてくれてたんだな)

 私欲のために〝良い人〟を演じる純也とは違っていた。他人の機微に鋭く、本当の意味で心優しい人たちは、その笑顔の本質に気づいていた。

「なぁ、純也。もしかしておまえ、あの先輩となんかあったのか?」

「――いや、むしろ関係は良好だよ」

「そうかそうか。ま、過去のことは忘れて、次の出会いを求めよーぜ。俺的にはだな。けっしてビジネスライクでない、家庭的でやさしい年上のおねえさんが、ん? 良好?」

「そう。昨日も見舞いに来てくれてさ、看病までしてくれた」

「まてやコラ。なんだその、全国男子一同が妄想する理想シチュはっ!」

「俺も驚いた。おかゆ作ってくれて、プリンも食べさせてくれた。理想シチュでさ」

「テメェ……だんだんと顔色良くなってきたな?」

 友を心配する亮介の顔が、徐々に宿敵を見る目に変わっていく。

「そうか? ともかくさ、聞いてくれよ。小一時間雑談してたら、様子見にきた義父さん達と鉢合わせてさ。よかったらついでに、夕飯どころか泊まっていってくれって誘ったんだけど、先輩は何度も丁寧に頭をさげて、結局真っ赤になって逃げるように帰って――」

「おい純也」

「なんだよ、話の途中だぞ」

「うるせぇ! ブチ殺がすぞオラァ!」

 キレた。 

「俺が労働に勤しんでいる間に、彼女とよろしくしやがってっ! 俺だってなぁ。けっして損得勘定で動かない、ナチュラルスマイルを向けてくれる、家庭的な黒髪美女のおねえさんに『はい、あーん』って、癒してもらいてぇんだよ! そう! 癒しが足りない! 時給八百円で馬車馬のごとく働かされる俺には、日々の癒しが足りてないんだああああぁぁっっ!!」

 魂の慟哭が、朝から通学路に響き渡っていた。


 さらに二日が過ぎた。

 きっかけは、水曜の放課後だった。

「あ、志賀くん、ちょっといいかなぁ」

「なに、有里さん」

「今日ねぇ、例の委員の先輩がさぁ、なんか学校休んでてー、困るよねー、委員の仕事変わらないといけないのー」

「へぇ、そうなんだ」

 今日は千紗と合ってない。顔を合わせるもつらくて、自然と距離を取っていた。

「そうなの~、だけど私の方もね、たいせつな用事が入っててー」

「ごめん。今日は無理。試験も近いしさ」

「え? あれ?」

「今回は試験の範囲広いしさ。真面目に勉強しないと追いつかないんだ」

「あの、ちょ、ちょっと待って。まだ試験まで二週間あるし……」

 余裕だな。二週間もあるのか。

「俺もほんと余裕ないんだよ、今日もまっすぐ家に帰る予定だから。ごめん、有里さん」

「そ、そっかぁー、じゃ、じゃあ、仕方ないねぇ」

「うん。また明日」

 明日があるのか。それすらわからない。

 机の中の教科書を、無造作に鞄に突っ込んだ。純也が断るとは思っておらず、あてが外れたのか、有里さんは若干、困惑したような雰囲気で離れていく。

「どしたよ、純也」

「ん、なにが?」

 タイミングを見計らっていたのか、亮介が側に来た。

「なにがじゃねーよ。お、珍しく断ってんじゃんとか思ったら、なんかやけに雰囲気険しくなって、逆に心配になったわ」

「そうかな」

「見りゃわかるぜ。これでも一応、バイトとはいえ働いてんだ。中坊の頃からな。特にウチは飲食店だから、客の顔眺めてっとわかんだよ」

「へぇ、なにが」

「本当に疲れてんなコイツ、とか。結構余裕ありそうだな、とか。あと今にも腹減って死にそうで見てらんねーな、釣り銭百円多く渡してやるか。とかいう感じだ」

 亮介がいつもより真面目な顔で言う。

「純也、ここ最近のおまえ、やっぱ変だぞ。本当に大丈夫か」

「大丈夫だよ。今度の試験範囲、わからないところが多くてさ。実は結構焦ってるんだよ」

「おまえ成績はいい方だろ。……ま、なんだ、腹が減ったら飯でも食いにこい。わりぃが、今の俺にはそこまでしかできねーわ」

 亮介は言って、懐から財布を取りだした。いつものサービス券らしき物をだしてくる。

「ほらよ。プラチナチケットだ。全品八割引き、しかもお二人様まで有効だぜ」

 いつもの紙切れではなかった。名刺サイズの、いかにも高級っぽく輝く電子カードだ。自然に受け取りかけた純也の手が、さすがに止まる。

「これってさ、株主優待とかのやつじゃないの。さすがに悪いって」

「バカ野郎、遠慮してんじゃねぇ。前によ、金の切れ目は縁の切れ目つったろーが。ダチなら遠慮せず食いに来い。ついでに彼女の友達がいらしたら、俺の事を紹介して、チャンスをくださいお願いします」

「そっちが本音か。だいたい亮介のルックスだったら、普通に彼女できるだろ?」

「俺は上がり症なんだ。女子とサシで会話するとか、考えただけでやべぇ!」

 残念なイケメンだった。

「まー、ともかくだ。受け取れ。えらい奴も、バカな奴も、根っこは一緒だ。食わなきゃ死ぬ。だからよ、なにがあったか知らんが元気だせ」

 それは亮介なりの、友達と認めた相手への、最大限の気づかいだった。

「人生ネガってたって腹は膨れねーし、財布もあったかくなんねーぞ。だったら、精一杯やれる事を、やるっきゃねーぜ。俺はガキの頃、苦労してるオヤジの姿を散々見てきたからな。ま、それはともかく、期限もねーしよ、今度の週末にでも彼女連れて、飯食いに来い」

「わかった。腹が減ったら寄らせてもらうよ」

「おう。約束だぜ。純也」

「……約束する。ありがとう」

 輝くカードを受け取った。いつもの紙切れよりも、ずっと「重いな」とわかった。

「亮介」

「うん?」

「いつか、この礼は必ず返す」

「オッケー、期待しとくぜ」

 亮介がサムズアップして笑う。そのベタな仕草に、純也もつられて笑った。

(良かった。亮介も死なない)

 友達の顔に〝数字〟は浮かばない。ヘタレだが気の良い友達に、なにか手助けができるなら、損得抜きで手を貸してやりたいと思えた。

(あと少し、時間があればな)

「んじゃ、途中まで一緒に帰るか?」

「あぁ、帰ろう」

 鞄を持って教室をでる。


「止まりなさい、志賀純也」


「ん?」

 その時だった。教室の方から、純也をフルネームで呼ぶ声が聞こえた。

「チャンスはもう残されていないよ。志賀純也」

 年端のいかない子供の声。振りかえると、純也の席に座り、携帯ゲーム機を手にした少女がいた。長い黒髪は顔を覆い隠すほどに伸びている。手にする携帯機からは、相変わらず勇ましいゲームミュージックが聞こえてくる。

(あのBGMって〝どらはん〟の、超強敵戦だよな)

 数えて、三度目の邂逅。さすがに余裕をもって対処した。

「こんにちは、時の調停者、だったか?」

「真なり」

 少女は純也の方を見ずに告げた。

「本来、貴方はこの時点で、自分の顔に〝数字〟を見ることはなかった。いつも心に持ち歩いている〝鍵〟を使って、感情を覆い隠していたから。貴方は自分の未来を諦観していた。あらゆる可能性に興味を抱いてこなかった、のである」

 最後を除き、スラスラと淀みなく喋りきる。最後以外淀みなさすぎて、むしろ演劇の台本を読むような健気さがあったが、少女は、純也がこれまで隠してきたあらゆる事実を知っていた。

(なんか袖口にカンペっぽい紙が見えたけど、無視するとして……)

 大人の対応を心掛ける。純也もまた注意をそらさず、慎重に、横目で廊下の方を見た。

(人の気配が消えた)

 誰もいない。先に教室を出たばかりの亮介はおろか、放課後の校舎を行き来する大勢の生徒さえも見当たらない。静寂だ。聞こえるのは、ゲームのBGMだけ。

「一体、なにをしたんだい?」

「認識できる世界の一部を、私の〝力〟で閉じ込めた。私は時間と呼ぶ領域、空間を行き来する能力を持っている」

 やはり少女の言葉は、なんとなく意味はわかる。わかるが、支離滅裂だ。

(まるでラノベのセリフだな。……好きなのか?)

 冷静に〝鍵〟をかけ、相対している現実に対峙する。

「で、君はいったい、なにをしに現れたんだ? この前は忠告に来たといったよな」

「真なり。私は――」

「待ってくれ。できれば、こっちを見て話してくれないか」

「……拒否」

 断られた。ゲームの音楽だけが続く。

「解答は無効。私は自らを示す権限を与えられていない。ただ、志賀純也に伝えるだけ」

「わかったよ。なにを伝えてくれるんだ?」

「――未来を悲観しろ。志賀純也」

 自称、時の調停者は、ちょっと声高に告げる。どうやら決め台詞らしかった。

「小野千紗と遭遇した以前の自分に戻れ。希望を持たず、死も恐れるな」

「暗に、俺に死んでこいって言ってるのか?」

「真なり。小野千紗、この存在が貴方と共に、通常の未来から逸脱しようとしている」

「え……なんで先輩が出てくるんだ? 人の色が見えるからか?」

「それは真ではない。だがこれ以上の権限は与えられていない」

「肝心なところは言えないと」

「真なり。ただ、私が望むのは、志賀純也が〝不幸を最小限に抑えた未来〟である。志賀純也は、自分が目にする〝数字〟には、絶対に逆らえない。貴方はこの不幸を避けられず、事実として享受せねばならない。以上だ……」

 決まったわ。とばかりに、スッと椅子を引いて立ちあがる。しかし相変わらず面はあげない。

「つまり、俺はどうしたって、もうすぐ死ぬ。そうなんだろ?」

「真なり」

 ゲーム機をポシェットにしまい、どこまでも俯いた姿勢のまま、幽霊のように呟いた。

「志賀純也」

「なんだよ」

「貴方が、もし〝不幸を最小限に抑えたら〟私はもう一度現れる。その時にはまた……話がしたい、の、です……」

 最後の一言だけ、やけに感情がこもっていた。

「けど、俺は死んでるらしいじゃないか」

「……私に解答はできない。指示が来た。この時間線を再接続する……」

 少女が消える。

 喧騒が戻ってくる。まるで途切れたフィルムの一部を戻したように、人の気配と、雑多な音や匂いが、純也の五感に戻ってきた。

「おい、純也? どしたよ」

「なんだ亮介か」

「いや、なんだじゃねーよ。失礼だなおまえ。ってかいきなりなんで立ち止まってんだ」

「どれぐらい立ち止まってた?」

「はぁ? なに言ってんだ?」

 亮介が眉をしかめている。空いた距離もほんの、二、三歩といったところだ。時間に換算すれば、一秒の間があったかもあやしい。

(時の調停者、か……若干中身がアレだけど、本物かな)

 つい顔をしかめて、こめかみのところに手を置いた。窓ガラスに映る自分の顔を見る。

『相手の目を見れば、その人間が、どういう人かよく分かる』

 どこか遠いところから、生真面目で優しかった父親の記憶が蘇る。

『誠実に生きろ、純也』

 その言葉にずっと縛られている。戻れない過去から、悔いを刻みつける。

(けどさ、父さん)

 誠実に生きることは、自他ともに向き合い、素直に生きていくことにも通じている。

 素直に生きれば、その〝数字〟が見えてしまう。そして、


『志賀純也は、自分が目にする〝数字〟には、絶対に逆らえない』


 改めて、あるいは初めて、別の存在から真実を突きつけられたのは苦しかった。

「純也、おい」

「わるい、亮介。やっぱ俺、まだ調子悪いみたいだ。保健室寄ってくよ」

 自然な苦笑を浮かべる。亮介は「そうか」と頷いた。

「んじゃ、また明日な。大事にしとけよ」

「ありがとう」

 まだ明日があるのか。軽く手をあげて、そんな事を思った。


 体温をはかったが、平熱だった。

 念のため、渡された風邪薬を飲んだ。なんの味もしなかった。

「ありがとうございました。失礼します」

 保健室をでた。

 急激に感覚が鈍くなっていく。鏡に映る自分の顔にはなにも浮かんでいない。千紗にメールを送ろうかと思ったが、迷惑な気がしてやめておいた。

(そっか。これがいつもの感じか)

 靴箱のところに人は残っていない。他の生徒は大半が学校を後にするか、すでに部活を初めていた。純也も上履きからスニーカーにはき替えて、自転車置き場の方に向かった。

 ざくざく、砂利が蹴られる音がした。

(帰ろう。帰れるかな?)

 荷物を前のカゴに乗せ、自転車を押して校門をでる。

 隣には誰もいない。名残惜しい気持ちもなく、自転車にまたがった。いつもの調子でペダルを踏む。いつもの速度で登下校の道を帰っていく。

 陽は高い。周りも明るい。けれど、目に映る色のひとつひとつが、上手く思いだせない。

(これ、何色だっけ。夕焼け、オレンジ? こんな色だったか……?)

 どれもすべて同じ色に見える。くすんでいて、ざらついている。

(あぁ、そうか。灰色だ)

 その色だけは知っている。その色を見て、今までずっと生きてきたのだ。

(灰色の空と、灰色のアスファルトと)

 灰色の自転車が、灰色の音を立てて走る。

(灰色の信号機と、灰色の横断歩道と)

 信号が灰色に変わる。立ち止まった。

(たぶん、赤だ)

 脳が判断して、純也も速度を落とした。靴底が地面を踏む。

(みんな疲れてるんだな)

 同じような人たちが、同じように立ち尽くしている。純也もその一人だ。

 灰色の自動車が、灰色のガスを捨てて、目の前を次々に横切った。信号機の向こう側には、ベビーカーを押す母親と、まだ小さな男の子が見えた。少年はうさぎの風船を握っている。

 すこし風が強い。風船は風にあわせて、ゆらゆら揺れている。

(……なんか)

 なにを思ったのか、よくわからない。ただ、純也は自転車から降りた。

 自分でも意味がわからなかったが、何故か自転車にスタンドをかけ、固定させた。

 もし〝なにか起きれば、走り出せる姿勢を取った〟。

(なんかさ、あれって……)

 理屈ではなかった。

(危なくないか?)

 母親の両手は、しっかりとベビーカーのハンドルを握っていた。疲れているのか、欠伸をした。

 目をうっすら閉じ、口が開く。

 母親がその口元を隠す。ちょうどその時、横薙ぎの強い風が吹いた。

「あ」

 男の子の手から、風船が離れた。本当に、微妙な距離を進んだ。

 男の子が一歩、足を前にだす。

「……っ」

 母親がちょっと驚いた顔をした。「ダメよっ」と言ったのかもしれないが、口は手でおおわれていて、その声は届かない。

 風が流れる。男の子がもう一歩、つられたように前にでる。強い追い風が吹く。見えない手に背中を押されたように、ふらふらと前に躍りでた。


 結果。子供が飛びだした。空を泳ぐ風船を追いかけて。

 ありふれたポスターや、交通安全の注意書きで、幾度も目にしたことはある。

 誰もが知っている。頭に想い描ける、シンプルな図式が展開された。

 青信号だ。トラックが来ている。

 男の子のすぐ近くまで迫る。飛びだすなんて予測はしてなくて、普通に走っていた。

 交通ルールに従い、アクセルを踏み込んだままの足。アクシデントに対して認識が遅れる。

 ブレーキ。遅い。

 その場にいた誰もが、どこか眠たい意識で思う。

『えっ、これ、現実?』

 リアルとフィクション。刺激のない、平和であるはずの世界が仮想を超える。まっさきに脳が未来を予測するも、今ある身体は動かない。起こった事実を視るだけだ。

 青年が走っていた。

 十年前、もっとありえない事故に遭遇し、身内を亡くした。予期せぬ不幸は誰の身にも振りかかるのだと、日常的に意識していた高校生だけが動いていた。

「――――」

 純也は飛びだした。何も考えず、全力で駆けていた。正面には、自分もなにが起きたのか分からない。といった表情で立つ男の子がいる。

 純也と目が合う。同時に、真横から大型のトラックが放つ風圧を感じた。

(よし)

 反射的に確信する。男の子を安心させるように、心の中で表情を緩めた。

(大丈夫だよ。君は死なないから)

 少年のこめかみに〝数字〟は浮かんでいなかった。

 追いついた。間に合った。最後の時間を使って、男の子の身体を庇うように包んだ。盾になる。

(死んだな、俺)

 鉄でできたフロントバンパーが、時速六十に近い速度で目の前に迫る。甲高い擦過音は、ブレーキだろう。それが間に合わない事は知っている。

 

 『1 ―――』

 少年と目を合わせた時、自分の顔に浮かぶ〝数字〟が、変わる瞬間を見た。

(お父さん)

 圧縮された過去がまとめてやってくるのを、純也は感じた。

(ごめんなさい)

 光速で過ぎていく過去は、どれも灰色だった。誠実に生きてなくて、自分も相手も騙して、感情には蓋をして、熱くなればすぐに冷まして生きてきた。

 賢い生き方だった。だが、生前の父親が教えた意図とは違った。

(でもさ)

 最新の過去には、確かな色彩が加わっていた。


『私と付き合って。ただし、私のことを好きにはならない、という条件で』


 連続した記憶の中、色彩は、その時点で満開になっていた。

(そっか。俺はもう、あの時点で、先輩のことが好きだったんだ)

『誠実に生きろ。ジュン。人の目を見れば、相手のことがよくわかる』

(わかってる。おとうさん、おれ、さいごはちゃんとできたよ)

 鏡に映る自分の〝数字〟を見た時は、まるで世界が一面、まっくろに塗りつぶされた気がした。

 それは、生まれて初めて好きになった女の子と、別れることの悲しさ。

 一つ歳上の、子供っぽいところのある先輩。初めて、俺が守りたいと思った、その相手。

(ただ、遅すぎたんだよな……)

『また週末にでも彼女連れて、飯食いにこいよな』

 友達と期限のない約束も交わした。だがそれも果たせそうにない。

(悪いな、亮介。まだ使ってない券があったよな。使っとけばよかったな)

 そして最後に、顔を知らない少女の声がした。

『未来を悲観しろ。志賀純也』

 ひりつくような痛みが来た。

(嫌だ……俺、まだ、死にたくない……)


 『0』

 記憶の履歴がすべて終わる。

 意識が現実に引き戻される。大きな衝撃が純也たちを襲った。

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