第8話 伊織

借りた枕の寝ごごちを試しつつ

借りてきたばかりの小説を開いた

24才銀行窓口のOLの

仕事と恋愛のつまらない日常の話

暖かい家族が晴樹の家族と似ていた


「大丈夫?」

確かにあの時耳に入ってきた言葉は

大丈夫? だった

でもあの時頭の中で響いていた言葉は

(何やってるの だから言ったでしょ)



いつの映像だろう

見上げると母親だった

でも目線は合わない

天井をみるとゆらゆらボヤけている

「何やってるの だから言ったでしょう

ソファーに立ったら危ないって

あんたは いっつも いっつも

忙しい時にかぎってこんな事をする

ワザとなの?」

ワザとなの ワザとなんでしょ

苛立たしげに怒鳴る母親

一言も声が出ない

心の中では ゴメンナサイ ゴメンナサイと

繰り返している

ナイタラ ダメダ ナイタラ ダメダ

ボクガ ワルイ ボクガ ワルイ

あれはまだ父親もいた頃

あの時 俺は 後頭部をしたたかに打ち付け

痛くて痛くて 大丈夫?と言って欲しかった

困らせたかった訳では無かった

ただ足が滑っただけ



そう思うと俺は欲しい言葉を

ずいぶん兄から貰っていた

再婚してくれて本当に良かったと

どれだけ思った事だろう

新しい父から大事にされ

兄から大事にされ

どれだけ優しい言葉をかけらたことか

でも今思えば

その優しい言葉を父も兄も

母の前では絶対に言わなかった

母の怒りが通り過ぎた後に

こっそり欲しい言葉が与えられた


「僕が伊織を依存させちゃったから」

兄の部屋の前を通りかかると そう聞こえてきた

去年の梅雨が明けきれず

ねっとりと蒸し暑い日の事

いつ来たのか晴樹の声がした

「何ですか依存って 亮さんの職場って

家を出なくてもギリ通える距離ですよね」

「僕達には距離が必要だから」

あの時俺は

あぁまた自分が間違えたのだ と思った

俺のせいで兄さんは出て行くのだ

静かにその場を離れ 外に駆け出しながら

あの時は確かにそう感じた

なのに今感じている違和感

もしかしたら距離を取りたかったのは

俺では無く 母親なのかもしれない

母も兄に対しては幾分気を使っていたが

しょせん家の中では女王様だった

血が繋がって無い分優しい兄は

母親に気を使っていたのかもしれない

俺のせいにして

俺を置いて

逃げた兄さん

そうは思っても責める気も起きない

俺もきっとこの静かな檻から逃げたいのだ



母を中心にこの家は回っている

大丈夫?と言って欲しかった

話を聞いて欲しかった

抱きしめて欲しかった

目を見て欲しかった

心の底から湧き出てきた満たされない思いは

俺がそれを母親に求めてるからだった

他の誰にも埋められない

でも母は俺には触れない

目も合わない

欲しい言葉は貰えない

だって母は俺が嫌いだから



馬鹿バカしい事実に気付いたのは

去年兄が部屋を空けるために

少しずつ片付けを始めた夏休みたっだ

使わないけれど捨てられない物を

和室の押入れに押し込んだ

ふと古いアルバムが目にとまった

小さい頃何度か見た事のある赤い表紙のそれには

若い父と母が写っていた

披露宴だろう 着物を着た両親や親戚が写っている

「私はお姫様みたいなフワフワの

ウエディングドレスが着たかったの」

母の口から何度か聞いた事がある

それから生まれたばかりの俺の写真

違和感を感じたのは日付

俺が生まれたのは2月

披露宴の写真はその前の年の12月だった

おめでた婚だったのか

両親の口から一度も聞いた事は無かったが

さすがに2〜3ヶ月で子供は生まれない

あぁだから俺のせいでウエディングドレスを着れなかったのか

SFファンタジーという括りでうっかり手を出してしまった 美少女系魔法遣いの小説に書いてあった

フワフワに広げる為には

ドレスの下にパニエを履く

そのパニエは針金で空間を作る

その重さが全て腰にくる と

腰痛持ちの美少女系ってどうよ とか

魔法で軽くすればいいだろ とか

その時は 無言で突っ込んだなぁ

と思い返すが 心を占めていたのは

俺のせいでウエディングドレスが着れなかった

という事実

俺が生まれなければ「あんなどうしようも無い男」と結婚しなくても良かったという事実

俺がいなければ母親はもっと幸せになっていたかもしれないという可能性


だから

出来ていない事の粗探しに一生懸命なのか

だから

花粉が飛び始めると家中の窓を開けるのか

だから

「あんたは いつも」と言うのか


気付かなければ良かった

あの有刺鉄線のような言葉と同時に

「お前が悪い」

という声が聞こえる


気付かなければ良かった

俺は俺が生きていることを許せない

そして

俺が生きていることを誰かに許して貰いたかった

だけどその言葉は その誰かからは貰えない



ポタリと涙が流れ落ち

枕を濡らす

またポタリ

この涙は何だろう

悲しみなのか

苦しみなのか

なぜ涙が流れるのか

わからないままに

涙だけが流れ落ちる

もっとちゃんと泣けたらわかるのかな



バサリと顔に小説が落ちてきた

「……」

バイクが近づく音がする

もうすぐ新聞がポストに入る

あぁ 晴樹の心の旅ってこういう事か

地獄ってこれより辛いのかな





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