第7話 伊織
「ただいま」
静かな玄関に呼びかける
そのままキッチンに向かう
ステンレスのシンクには水滴1つ無い
シンクとコンロの間の調理スペースには
布巾の上に伏せられたグラス
それを取るとサーバーに向かい水を入れる
壁に留められたカレンダーが目に入る
…夜には二人共帰ってくるか
荷物を足元に置き
カレンダーをめくると
8月に兄さんの帰省が書き加えられている
昨日電話で聞いた日程
「あと3ヶ月…」
長い…
そして分かってしまった…
たとえ兄さんに会えたとしても
この鉛の様に重い空気は纏わり付いたまま…
グラスを洗うと布巾に伏せる
台拭きでシンクを綺麗に拭きあげると
パタリと枕の入った紙袋が倒れた音がした
晴樹は 自然光の入る
暖かいよりは 暑いのではないか
と思う席を陣取っていた
右腕に頭を乗せて本を読んでいる
時々 ページをめくる動きが無ければ
寝ているかと思うくらいだ
「お待たせ」
「待ってねーけど」
「もう返してきた」
「お〜」
「何読んでるの?」
「日本古来の色」
図鑑の様に分厚いその本は
色に溢れていて
晴樹も読んでいると言うよりは
眺めているようだった
「面白い?」
「ん〜
何か図書館静かだからか
ゆっくり見れる」
読むじゃなく
見ると言うのが
晴樹っぽかった
1年の頃
小説を読んでいた晴樹が
急にページをめくらなくなったから
どうかしたのか声を掛けた事があった
晴樹は当然のように
「行間見てる」
と言った
行間を読むじゃなくて? と突っ込んだら
「心の旅」
と言った
そんな本の読み方もあるのか
と思っただけで
どんな風に読んでるかは
想像出来なかった
今も
無表情で本を眺める晴樹は
どこか旅に出ているのか
時々目が動かない
「まだいるなら
新しい本借りてくる」
「ん〜」
「晴樹 その本借りる ?」
「ん〜や」
新しい本を借りた後に声を掛けたら
晴樹は読みかけの本をパタリと閉じて
書棚に戻した
「読みたくなったらまた来るし
どーせ借りて帰っても
うちじゃ 落ち着いて見られないし」
「ふ〜ん じゃあ帰ろっか」
天井の高い廊下を抜けて出口に向かう
くぐもった振動音が聞こえる
晴樹が携帯を取り出し
発信元を確認すると
眉間にシワが寄った
「出ないの?」
「… 後からかけ直す」
携帯を鞄に投げ入れる姿が
晴樹にしては珍しいかった
見るとも無しに見ていると
…そっかぁ 恋かなぁ
小春ちゃんの声が聞こえた気がした
「…彼女?」
「ちげ〜よ」
「おかえり父さん」
リビングで父さんが 荷解きをしていた
「あぁ ただいま 伊織もおかえり」
父は小さな箱を掴ませた
「これ美味かったから お土産」
昔は大きな箱で買ってきていたお土産も
1人で食べきれるサイズになっていた
「出張の度にお土産とかいらないから」
「チョコレートだから
夜食代わりに食べられるだろう」
「ありがとう 」
「もう花粉はだいぶいいのか」
「うん マスクしなくても
時々クシャミが出るくらい」
「そうか今年は軽くて良かったな」
玄関でガタガタ音がした
「母さんだな」
「そうだね」
玄関の横の収納スペースに荷物を押し込んだ
母さんが手ぶらで入ってくる
「ただいま あなた早かったのね」
「ああ 1つ早い飛行機にのれたからな」
「あーもう伊織 ここにグラス置かないでって
言ったでしょ 疲れて帰ってきてるんだから
疲れさせないでよ
お父さん今日外食でいい?」
「ああ いいよ 伊織は何が食べたい?」
「もう 食べたからいい」
「そうか」
「あーお腹すいた 中華でいいでしょ」
「いってらっしゃい」
グラスを洗って 食器棚に収めた頃には
また静寂が戻る
正直ホッとした
あのグラスは生贄だ
何か1つ小言を言わないと始まらないのか
あの人は必ず粗を捜す
シンクの水滴
15年物のダイニングテーブルの傷
牛乳パックを洗うと水が勿体無い
半年もすると牛乳パックは洗うべきだ
根拠もない その時の気分次第で
目に付いた事を口にするだけ
躾でもない ただ怒るだけ
「片付けろ」が口癖の母親が実は掃除が
得意ではない事に気付いたのは高1だった
動き回っている割には物を右から左にやるだけ
ビニール袋に何でも放り込み
それを積み上げ最終的に
薄っすら埃が積もっている
自分の物は山積みなのに
人の物は断りもなくどんどんゴミ袋に
入れていく
片付けとは 収める場所を作ったり
収まる場所に合わせて物を減らしたり
あるべき所に収める作業だ
いつも思い付きで収めるから
食器棚の中 も収納棚の中も 冷蔵庫の中も
いつも場所が変わり
何がどこにあるか 全てを見て回らなければ
ならない
その癖 どこにあるのか尋ねると
「自分で探しなさい」と怒鳴られる
もう そういうプレイなのだと思う事にした
掃除が苦手だと分かると
料理も洗濯物を干すのもあまり上手ではなかった
苦手なりに18年も家事を頑張っていたんだと分かった時には尊敬した
しかし完璧な自分しか認めない母親は
決して家事の苦手な自分を認めない
次の生贄はシンクの水滴
チョコレートの箱と荷物を掴み
リビングを出る
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