最終話 キノコの翼

 それから翼は、翼が殺されたと判断した根拠を並べた。

 昨日、クラスに突入したのはこの顔を見せること。昨夜川の近くにいたのは、そこにやってくる人間の顔を見るため。橋の下の河原を掘り起こした彼らが、まだ翼の死体が埋まっていることに安心し、そして同時に恐怖するその表情を確認するため。

 あまりにも淡々とした口調で並べられたその理屈が、女子生徒の表情を変えていった。

「ち、違う、それは、私のせいじゃない」

「わかってるよ、お前のせいじゃないのは。でもお前は殺しに参加した」

「私が言い出したわけじゃない! 首謀者なんかじゃない! みんなで話してるうちにそういう話になっただけ!」

「殺しちまおうって?」

「そ、そうよ! それに、あいつが殺したかったわけじゃない! 私は――」

「誰でも良かった。だろ?」

 例えば、自分しか知らない場所に隠した、自分にとっての大事な宝物が、今誰かの目の前で探し当てられたとしたら、どんな想いを抱くだろう。

 その宝物が他人にも広めたいと思えるようなものならば、歓迎するだろうか。特定の誰かに見せるために隠していたとしたら、その誰かではない人間に探し当てられたことに悔しさを抱くだろうか。

 だとしたら、宝物を発見されて、怯えるとしたら、それはどんな宝物だろう。

 決して他人に明かしてはいけない、自分の心のなかにしまっておかなければならない宝物。自分にとっても重要な意味を持っているけれど、その誰かにとっても重要な意味を持っている宝物。

 もちろんそれは、秘密だとか信念だとかいう言葉で表現される。

 その、女子生徒が大事に抱えていたはずの宝物は、翼によってあっけなく隠し場所から解放された。

「誰でも良かったんだ。あんたはさ。あんたらって言った方が良いか。あんたらは、誰でも良いから、イジメてた。たまたま標的が翼だったんだ。理由はなんだ? 可愛いから? 勉強ができるから? まあ、なんでもいいや。誰でも良かったんだから、理由付けなんてどうとでもなる。な?」

 その全てを、翼は笑顔で語った。それは女子生徒に問うているようで、どこかはるか遠くにいる誰かに向かって言っているようでもあった。

 欄干に顔を押し付けている女子生徒は、翼からもう逃れられないというのに、そうすれば体がすり抜けてくれるんじゃないかって願ってるみたいに、欄干にひたすら体を押し付けていた。

 川の音がやけにうるさかった。

 翼が一歩足を踏み出すと、女子生徒は小さく悲鳴をあげて体中を固くした。

「あたしも同じだよ。誰でも良かったんだ。お前じゃなくてもさ、男子でも女子でも、誰でも良かったんだ。たまたまお前になっただけ。意味わかる?」

「な、なによそれ! ふざけないでよ! なんで私が!」

「てめえらがそうやって翼を殺したんだろうが!」

 空気が震えた。太陽を背にした翼の影が、女子生徒の体を真っ黒に塗りつぶそうとしていた。

「何回も殴ったんだろ? 頭を殴って、体を殴って、顔を殴って。ぐちゃぐちゃになるまで殴ったんだ」

「やめて」

「骨の砕ける音、肉が潰れる音。血の臭い、小便の臭い。赤い血が跳んで体に着いて。それでもやめなかった。死んでるのが分かったのに殴り続けた」

「やめて……」

「あんた、夢に見るだろ? 殴り殺したあいつが、殴ってきた奴らを殺していくんだ。お前にたどり着いたのは何番目かな。最初か、それとも最後か。ぐちゃぐちゃになった顔でお前をずっと見てるんだ」

「やめて! お願い、やめて……」

「翼だって言ってたろ? やめて、お願いやめて。それでもやめなかったのは、誰だ」

「違う、違うの、誰かが殴ったら、あの子、気絶して、地面に倒れて、それで、ムカつくとか言って、殴り続けてたら、血が真っ赤で、目が潰れてて、だから、このままじゃやばいと思って、証拠をなくそうと思って」

「あいつはてめえらのイジメの証拠じゃねえんだよ!」

 翼の足が女子生徒の腹を蹴った。

「なあ、キノコ。お前も言いたいこと、ある?」

 私は首をふった。

 何かを口にすれば、涙が出てきそうだった。でも、翼より先に泣いちゃいけないと思った。

「だってさ。というわけで、お前はここでさようなら」

「え?」

 あっという間だった。

 女子生徒の体は、翼の手によって欄干の外の幅10センチもない足場へと立たされた。じたばたともがけばすぐに落ちてしまうことは女子生徒でも分かったのだろう。

 だからか、声という手段で、女子生徒はひたすらに、みっともなく、助けを求めた。

「いや、いや! やめて、助けて! お願い、なんでもするから! もうイジメないから」

「当たり前だっつーの。おせえんだよ。大丈夫だ。簡単には死なねえよ。川も浅いしな。頭からいけば、気絶したまま死ねるかも知んねえし。それとも足から行くか?」

「いやぁ……やだよ……」

 様々な液体でぐちゃぐちゃになった顔で懇願するその人は、私の知らない人間だった。自分の命が危機に晒されると、こんなにみっともなく助けを求めるんだ。それはきっと、生きたいからだ。どんな犠牲を払ってでも、まだまだ生きて、やりたいことがあるからだ。

 私にはなかった。

 なんとなく人生を生きてきて。

 この学校でいじめになって。

 どこかで終わるならそれでも良いと思えた。

 いつかに終わるならいまでも良いと思えた。

「じゃあな」

「いや……」

 翼の右腕人差し指が、女子生徒の頭を押した。あっけなくバランスを崩す体。無常にも働く重力。そこに待ち受ける死。彼女が私を見た。

 どうしようもなかった。

 どうしようもなかったんだ。

 私は気づけば、欄干から体を伸ばし、女子生徒の制服を掴んでいた。

 右腕がギシリと鳴った。彼女の全体重がかかった腕は根本から引っこ抜けそうになる。欄干を掴んだ手がいまにも滑ってしまいそうだった。

「なにやってんだ! そんなやつさっさとはなせ!」

 動けなかった。ちょっとでも動こうものなら、右手で掴んだ女子生徒を落っことしてしまいそうだった。

 それだけは出来なかった。

 そんなことをしたら、翼に会えなくなる。

「ダメ、だよ……」

 いよいよ限界だった。にっちもさっちもいかなくなって、右手は汗でどんどん滑って、もう女子生徒の体をとどめておくことは不可能に近かった。

 そのとき、私の横から手が伸びて、女子生徒を掴んだ。隣に、翼の顔があった。

 二人の力で、女子生徒の体は、橋の上に戻された。

 私達は橋に座り込んで、ぜえぜえと荒い呼吸をしていた。女子生徒は横たわったまま動かない。どうやら恐怖のせいか、意識をなくしたみたいだった。

「なにやってんだ! そんなやつ助けたってしょうがねえだろ!」

「しょうがなくないよ!」

 私に反論されるのがよっぽど想像だにしていなかったのか、まるで猫にでも噛みつかれたみたいに、驚いた顔をしていた。

「翼ちゃんは、ダメだよ、こういうことしたら……」

 気まずそうに、うつむく翼が、新鮮だった。

「なんなんだよ……お前なら、あたしのやることに賛同してくれると思ったのに」

「だって、人を殺しちゃったら、翼ちゃんに会えなくなるよ。私、翼ちゃんと会えなくなるの、いやだよ」

 自分の隣に翼がいる。この数日はそれだけで救われた。この数日を、翼との思い出になんてしたくなかった。誰にも言えない秘密にして抱えていくなんて、無理だ。

「お前も、誰でも良かったのか」

 そのセリフの意味は、私には分からなかった。

「小鳥」

「え?」

「翼は妹の名前だ。私は小鳥。似合わねえだろ?」

「ううん、可愛いと思う」

「つまり似合ってねえってことじゃねえか」

「つば……小鳥ちゃ、じゃなくて、小鳥さんは、可愛いと思う、思います」

「やめろよ。翼でいいよ。あと敬語もなし」

 彼女は立ち上がると、私に手を貸してくれた。足が震える。体中が痛い。深呼吸をすると、縮こまっていた肺が膨らむ心地よさがあった。西の空はもうまもなく日が沈もうとしていた。

 翼は、女子生徒の手足を結んでいたロープを解いて、誰のものか知らないコートをかぶせていた。

 すぐにこの場所を去ったほうが良い。そう判断した翼は、私を連れて、川から離れるように歩き出した。

 土の河原から移動し、コンクリートで舗装された道路を歩いていく。

「これで、終わるの?」

 背後を振り返りながら尋ねた。

「どうせ同じことを繰り返すよあいつらは。殺人に関与した奴らは警察がしょっぴくとしても、他にもいじめに参加してた奴は確かにいた」

「翼ちゃんは、もう満足?」

「さあな。お前も殺されたくなかったらこんな高校さっさとやめろよ」

「うん分かった」

「はっ、なんだよ。ずいぶん面白いこと言うようになったな」

「卒業してやめる」

 翼が私を見た。私も、きちんと翼を見た。

「いじめられても知らねえぞ」

「そしたらまた助けに来て」

「てめえでどうにかしろ」

「どうにもできなくなったら助けに来てくれる?」

「さあな」

 そういいながらも、きっと助けてくれるだろうと思った。

 ふと、思いついた。

「なんで、あのとき、助けてくれたの? クラスに顔見せるだけなら、助ける必要、なかったよね」

「最初に言ったろ? 助けたのはお前のためじゃないって。お前が邪魔だっただけだよ」

「誰でも良かったの?」

「お前も、自分を助けてくれる人間だったら、誰でも同じだろ?」

「分かんない。でも、翼ちゃんに助けてもらえて、良かったと思う」

 もし、自分を助けてくれる人間が、翼でなかったとしても、その人をこうして好きになっていただろうか。

 きっと、なっていた。

 でも私は、翼に助けられて、好きになった。翼と一緒にいると、泣きたくなる。自分の感情が押さえつけられなくなる。

 私の知らない翼にも、そういう気持ちはあったのだろうか。

「なんかあったらあいつに言えよな」

 翼が口にしたのは、クラスメイトの名前だった。

「どうして?」

「ほら、これ」

 翼が取り出した携帯電話に映像が流れている。それは、今朝の私と男子生徒のやりとりだった。逆光になっていて少し見づらい。そういえば、そのクラスメイトも窓際の席だったなと思い出す。それから、私を見ていた奇妙な目。

「翼が死んで悲しんでるのは、私だけじゃない」

 雫みたいな翼の言葉が、水面に垂らした絵の具のように、私の心の、知らない部分に染みこんでいった気がした。

「明日の放課後、またここに来いよ」

「デート?」

「あん?」

「ううん、なんでもない。ねえ、チュッパチャプスもくれる?」

 言葉にするだけで、口の中に甘みが広がった。翼との思い出の、甘い味。

 けれど翼は苦笑いを浮かべて、呆れたような言った。

「あれな、私、大嫌いなんだよ。あいつの味覚、マジ分かんねえ」

「そうなんだ。小鳥さんは、なにが好きなの?」

「さあな。明日、デパート行って決める。お前も来いよ」

「うん。わかった。絶対、行く。デートだよね」

 翼は、私をじぃっと見て、それから片方の頬をあげた。

 やっぱり振り返らずに帰る翼に向かって、どこに行くのかと尋ねたら、アルバイトだと答えた。それから、戻ってきた彼女は、私の手にチュッパチャプスを握らせた。

「ポケットに入ってた。最後の一個。やるよ」

 少しだけ寂しそうに笑ったので、私は断った。

「最後は、いらない。小鳥さんが舐めたほうが良いと思う」

 なにか言おうとした彼女は、私を見て、チュッパチャプスを見て、苦笑いを浮かべて、飴を口にくわえた。

「舌がしびれる」

 チュッパチャプスを舐める彼女の顔を見ていると、言うほどに大嫌いなモノを咥えているとは思えなかった。

 小鳥さんの目から、飴玉みたいに綺麗な雫がひとつ、こぼれ落ちた。

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キノコに翼は生えるのか ミチル @michiru

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