第2話 キノコと夜
家に帰って、ひたすら翼からの連絡を待った。晩ごはんの時間になっても、お風呂に入る時間になっても、携帯電話はピクリとも反応しなかった。夜も遅くなり、父と母が眠りについて、私も布団に入った。いつものように明日への不安からガタガタ震えているとようやく胸に抱えていた携帯電話が着信音を鳴らした。
一度も鳴ったことのない着信音は、初期設定のままの電子的な和音だった。聞き慣れない音に慌てた私は、そもそもがどのように通話をするのかも分からず、一度切ってしまったくらいだ。10秒もしないうちに二度目がかかってきて、今度は慌てずに通話状態にすることができた。
「なに切ってんだよ」
「ごめん。使い方、よくわからなくて」
「まあいいや。いまから来られるか?」
「う、うん。万橋、だよね」
「なるべく黒い服で来いよ。暖かい格好もしてこい」
「分かった」
電話を切る。画面を見ると、もう夜の11時だと告げていた。
ゆっくりひっそり、親に気づかれないように動く。
少し笑ってしまった。だって、黒い服を着て来いって。その忠告は無意味だと言いたかった。靴下、パーカー、ズボン。太陽が沈んで夜が訪れるのと同じくらい自然に、私服を身につけた全身は真っ黒に染まっていた。タンスの中にある布地は、下着以外のほとんどが真っ黒だ。
音を立てないように気をつけて階段を降りて、洗面台の鏡で自分を見た。私の薄暗い顔に、笑みが浮かんでいるのに気づいた。つり上がった頬は自分でも気持ち悪く感じるけれど、早鐘を打つ心臓、今すぐにでも飛び上がりたい心地、快哉を叫ぶという言葉がまさにうってつけだ。
そうか、これが期待なんだ。
これからなにが行われるのかわからないけれど、翼とともに夜の万橋に行けることに期待を感じているんだ。胸がぽかぽかと暖かい。
そろそろと忍び足で家を出る。靴を履いて、翼に指摘されたことを思い出してコートを羽織った。お父さんもお母さんも起きませんようにと祈りながら玄関のドアをあける。いつも出入りしているときには感じなかった重みが、私をこの家から出すことを拒絶するようだった。
外は思ったよりも明るかった。空には猫の目みたいな細い月しかないけれど、ぽつりぽつりと道路のわきに点在する街灯のおかげで、足元がおぼつかないようなことはなかった。
カギをかけるとき、静かな夜にヒビをいれるみたいに、大きな音が鳴った。心臓がまたとびはねる。
家から離れて、しばらく待っても、部屋に電気が点く気配はなかった。慎重に私は歩みを進めた。
「おせーよ」
ごうごうと唸り声がしていた。
家から10分ほど東に向かって歩けば、大きな川に行き当たる。万橋はそこから北に向かって歩けばすぐにたどり着いた。
近くに街灯はなく、細い月に照らされた川は、青白く浮かび上がった天の河みたいだった。空を見上げれば、本物の天の河が悠々と流れている。
また電話が鳴った。出ると、こっちだという声がした。周囲を窺い見れば、橋から更に100メートルほど離れた河川敷に翼の姿があった。土手を降りて、雑草が茂ったその平野をかけて、翼のもとに向かう。キャンプなどによく使われているのだろう、コンロや火かき棒がいくつも放置されているのが目に入った。
「ご、ごめん」
「ちゃんと暖かい格好してきたな。眠くないか?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫」
「ほら、やるよ」
翼がくれたのは、やっぱりチュッパチャプスだった。今度はプリン味だ。
「ありがとう」
「お前も横になれ」
雑草に埋もれるかたちになって、私達は並んで地面に寝転んだ。夜露にぬれて冷たいことなんて、全く気にならなかった。隣の翼も、天上に浮かぶ天然のプラネタリウムには、その荒っぽい言葉を口には出来ないようだった。
月が浮かんでいる。さながら星は、水中を漂う宝石。流れに沿って、集まり、離れ、一本の筋が出来上がる。天の河は、私の足元から生まれ、頭の方へと伸びていた。
顔を傾けると、翼の横顔。口元にチュッパチャプスの棒。
どうして私と一緒にこんなところにいるんだろう。どうして私が誰かと一緒に河原に横になって星を見上げたりしてるんだろう。
そういう疑念は、けれど、翼という人間と一緒にいることの幸福に比べたらミジンコみたいなものだった。翼の顔と星空を眺めている間に、キノコの胞子みたいに知らぬ間にどこかへ消えていってしまった。
いまはただ、この、なんとなく素晴らしい時間を堪能すべきなんだ。
「なあ」
「な、なに?」
「なんだよ、お前、そんなウジウジすんなよ」
「し、してないよ」
突然話しかけられて、驚いただけだ。相変わらず他人から話しかけられるということに慣れていない。
「お前、いつからイジメられてるんだ?」
少し、残念に思った。そんなことか、と思ってしまった。
「えっと……」
でも、翼が聞いてくれたことだから、答えることにした。
「今の学校に転校してきてから、だよ」
「それまでは何もなかったのか?」
「う、うん。なかったよ」
暗い生徒ではあったと思う。友達は片手に数えるだけ。グループ活動では最後の方になって余り者で形成される。けれど、誰かにないがしろにされたり、仲間はずれにされるようなことはなかった。話しかければこたえてくれるし、椅子に座っていても誰も怒ったりしなかった。
すべてが変わったのは、一ヶ月前、父親の転勤で今の学校に転校してきてからだった。
空気が違うことに気づいた。
今までの学校とは何かが違う。クラスメイトが私を見る目は、「転校生」という物珍しいものを見る目ではなく、なにか忌避すべきものを見ているようだった。今までが動物園の檻に入れられた珍獣だったとしたら、今回は放し飼いにされた猛獣。
もちろん私なんかにそんな力はないから、すぐに彼らはイジメという方向性で、この奇妙な生物を下の地位へと突き落とすことに合意形成したのだと思う。
理由は分からない。
私がなにか、きっと悪いことをしたのだ。
「んなわけねえだろ。てめえはなにも悪くねえんだろ?」
「わ、わかんない。なにか、やったのかも」
「だったらそれを言えばいいだけだよ。イジメってのは、イジメてるやつが悪いんだ。100パーセントな」
「そ、そうかな」
「ああ。死ねばいいんだ」
そのセリフが、本当に心の底から発せられたように思えて、全身を震えが襲った。それが、私を助けたことと何か繋がりがあろうことはすぐに分かった。けれど詳しく問うことは出来なかった。
翼が空を指差した。
「星見ろよ。綺麗だろ」
もうさっきまでの恐怖は感じなかった。今日出会ったばかりなのに、それがいつもの翼だと感じた。それほどまでに、さきほどのセリフは、異質だった。砂の中に沈んでいる鳥みたいに、ありえないとは思うけれど、もしかしたら深い理由があるのかもしれないとは想像してしまうような、奇妙さ。
今は、心の片隅に閉じ込めておくことにする。翼と一緒に星を眺められることを楽しもう。いまいちど、そう思った。
「星はな、何も与えてくれない。奪われることもない。ただああやって浮かんでるだけだ。だから良いんだ」
微笑んで、翼は私を見た。私も頷いた。
気づくと星空はどこかへ消滅し、真っ黒だった空は東の方が白み始めていた。陽気が出てきたとはいえ、まだ朝早い時間には冬がしがみついている。風がふいて、体が震えた。雑草のベッドは寝心地が良いとは言えず、体中に痛みがある。隣に翼の姿はなかった。
「翼ちゃん?」
体を起こし周囲を確認する。まだ太陽の光は完全には届いておらず、薄暗い河原は、唸る川の声だけがやけに大きく聞こえてきた。100メートルほどしか離れていない万橋が、はるか先に見える。翼の姿は、どこにもなかった。
「翼ちゃん? どこにいるの?」
体が震える。携帯電話を取り出すと、時間はまだ朝の6時にもなっていなかった。立ち上がる。目眩がした。
私を置いて帰ってしまったんだ。星空を見終わったから、もうこの場所にも私にも用はなくなったんだ。
「翼ちゃん!」
あらん限りの声で叫んだ。日頃使っていない声帯の震えで、咳が出た。何度も咳き込んで、肺が痛んだ。
「翼ちゃん! どこにいるの!」
体が震える。視界が揺れる。寒さはもう感じなかった。それ以上に私の体を悲しみが貫いていた。東の空はだんだんと明るくなっていく。太陽が地表を照らし始めた。夜露が蒸発し、雑草が光合成を始める。私は見捨てられた悲しみに打ち震えている。地面に膝をつく。両手で体を抱きかかえた。
「おちつけ、おちつけ」
何度も口にした。今は朝の6時。コートは着ている。学校には行かなくちゃいけない。誰かに見捨てられるなんて今更のことじゃないか。悲しむ必要なんてないじゃないか。
翼と別れることになったって、そんな未来はあらかじめ想像できたはずだった。自分の隣に誰かが居続けてくれることなんてあるわけがない。もし誰かが自分のそばにいつづけるのならば、それは私を貶めようとしているに決まっているんだ。
だったら翼だって、ずっと私のことを思ってくれているわけじゃない。
でも翼は、私の手を取ってくれた。
私をあの教室から連れだしてくれた。
キノコでしかない私を。
暗い思い出と思考が、プレス機みたいに私を押しつぶそうとしている。地球を照らす朝日には、きっと人の悲しみを増幅させる力があるんだ。
「翼ちゃん!」
「そんな大声出すなよ。聞こえてる」
声は背後からだった。
振り返ると、土手を降りてくる翼の姿があった。
翼がこちらに辿り着く前に私は走っていた。足がもつれ、転びそうになる。それでもこらえて、雑草に足を取られながらも、なんとか走って、翼に抱きついた。
「翼ちゃん!」
「危ねえだろ」
細い私の体をしっかりと受け止めて、翼は私の背中に手を回してくれた。
「翼ちゃん」
「だから聞こえてるって。悪かったな」
「ど、どこ行ってたの?」
「秘密の場所。……嘘だよ。そんな顔すんな」
「置いて、行かれたのかと思った」
「悪かった。もっと早く戻るつもりだったんだけどな。ちょっと立てこんじまって」
「なに、してたの?」
「いろいろ」
優しく私を見る目が、それ以上は聞くなと言っているようで、深くは聞けなかった。秘密を持たれていることに対するほんのちょっとの悲しさはあれど、私のすぐ側にいてくれる喜びの方が優っていて、それを隠すみたいにして、翼の体に顔を埋めた。
「悪かったな」
しばらく翼はそうしてくれていた。背中に回された手から、温もりが伝わってくるようだった。ようやく、周囲が寒い空気に覆われていることに気づき、体が震えた。
私を抱きしめたままで、翼はちょっと想像もしなかったことを口にした。
「明日、あたしは学校に行けねえからよ。お前、一人で頑張れよ」
「え、どうして……?」
「色々とな」
聞けなかった。
その色々に、私が関わってはならないのだと、強く言われているようだった。
「こわいよ」
「お前は大丈夫だよ」
「私は? どういう意味?」
「これやるからよ。頑張れよ」
やっぱりポケットから出したのはチュッパチャプスで、今度はコーラ味。
「これ、好きなの?」
「ああ。あたしはそんなに好きじゃないけどな」
「え?」
「苦いだろ、コーラ味って。じゃあな。ちゃんと朝飯食えよ」
来たときと同じくらいあっさりと、翼はどこかへ行ってしまった。途端に襲い掛かってくる朝の寒気が、私にまとわりついてきた。
コーラ味が口の中に広がった。苦味はなかった。やっぱり、舌がしびれるくらいの甘さだった。
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