第10話
窮屈なガラスの金魚鉢に住む、僕と華の金魚は、一時患った尾腐れを克服し、すくってきたときより一回り大きくなっていた。
「なんだか窮屈そう……」
金魚鉢を置いてあるカラーボックスに肘をつき、ため息をつきながら華が言った。
「ああ、そうだね。随分大きくなったね。大きい水槽に移したらもっと大きくなるよ。」
髭を剃りながら僕が答えると、
「本当?!」
僕の方に向きなおった華が目を輝かせながら言った。
その目はまるで、金魚鉢の底に沈めたビー玉のようだった。
「本当だよ。水槽の大きさで金魚の大きさも変わってくるんだ。そいつは一匹だから、余計大きくなるんじゃないかな?」
僕たちの飼う金魚には名前がなかった。
僕は華の好きな名前をつけるように勧めたけれど、華は名前をつけるのをいやがった。
名前までこちらでつけてしまったら、完全に支配してしまうので、金魚が可哀想だというのだ。
じゃあなんて呼ぶのかと華に問うたら、
「その時の気分で呼べばいいと思うわ。」
と言った。
それ以来、僕は大体
「そいつ。」
と呼び、
華は
「りんごさん。」
やら
「りぼんさん。」
など、赤い色にかけた名詞で呼んでいた。
時折、
「金魚。」
とそのまま呼んでいたが、そういう時は、大概真剣なときや、寝起きのときであった。
「広い家に行きたい?」
「大きな自分に会ってみたい?」
などと
僕が朝の身支度をしている間ずっと華は金魚に話しかけていて、
そんな華の声を聞いていた僕に名案が浮かんだ。
大きくて立派な水槽を買ってきて、華の誕生日のやり直しをしよう。
熱帯魚が住むように綺麗に飾り付けをして、その水槽の前で、誕生日会をするんだ。
仕事人間でほとんど不在の父と、姉の世話とパートで忙しかった母は、僕の誕生日会というのをしてくれたことがなかった。
せいぜい、会社帰りに買ってきたケーキが食卓に並ぶくらいであった。
8歳の頃に初めてクラスメイトの誕生日会に招待された僕は、ただただ驚いた。
色とりどりの折り紙で飾り付けられた普段は殺風景なリビングに、テーブルの上に所狭しと並べられた、母親の愛がこもったご馳走の数々。
最初のうち、僕は場違いなところに来てしまった居心地の悪さを確かに感じていた。
しかし、その場の甘くぬるま湯のような心地よい空気が、まるで古い洋画に出てくる幸せな一家の団欒シーンのようで、
あたかも自分が、その家族の一員のような錯覚に陥り…僕は、束の間の幸せな夢をみた。
甘い夢がパチンと覚めたのは、日も暮れ、子どもが家に帰る時間を少し過ぎたころで、当たり前だけれど、僕は、後ろ髪ひかれる思いで、その幸せを絵に描いたような家をあとにした。
その日の夜、母に、一縷の望みをかけて、友達の家で見たものや、食べたご馳走を話したが、
「美奈子ちゃんの前でそんな話、しちゃだめよ。美奈子ちゃんは外に出れないんだから。」
とたしなめられただけであった。
そのとき僕は、本当の意味であきらめを覚えた。
それからはあまり要求しない子どもになった。
そして現在、大人になり、愛する者を持ち、今まで虚勢を張っていた孤独の中ではなく、対、人との関係で強くなった僕は、我慢でもなく、諦めでもない対処法を得た。
自分がしてもらえなかったから、自分ですればいいんだ。
僕の誕生日はまだまだ先だけれど、大切な華の誕生日会だ。
きっと、自分以上に嬉しいに違いない。
「今日は残業で少しだけ遅くなるから、先に食べておいていいよ。」
出がけに僕が言うと、
「そう…じゃあ、いちごさんと先に食べてるわ。」
華が言った。
ドアを後ろ手に閉めて、僕は笑みをこぼした。
残業なんて言うのは嘘で、華と金魚にプレゼントする水槽を探しに、ホームセンターに行くつもりだった。
大きな瞳を、金魚のように見開いて驚いた華の顔が、頭に浮かぶ。
人に何か喜びや、驚きを与えるのは楽しいものだ。
たとえそれがエゴだったとしても、大半の人は気がつかない。
相手の喜ぶ顔を見ると、自分も嬉しい。
相手が喜ばなかったら、たちまち被害者意識に陥ることもある。
相手が裏切り者の加害者になってしまうのだ。
僕は、以前の華の誕生日に起こったことで、加害者になったつもりで、心の奥では被害者になっていたのかもしれない。
だから、今度こそは華に喜んでもらって、幸せな誕生日会を、今度は虚像でもなく疑似でもない、本物の幸せな誕生日会を経験したいと思った。
被害者でも、加害者でもない、楽しい時を過ごし、美しい思い出を共有する二人に。
僕だけのためじゃあない。
華と、僕と、そして、いちごさんのためだ。
躍る心と共に駆け出した僕は、勢い余って、駅のホームでこけてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます