第8話
鳥は羽ばたいてこそ美しいものだ。
籠の中の鳥は、その美しさを存分に発揮できていない。
潮風が優しく、時に激しく、僕たちの頬を撫でる。
華の誕生日にひと気のない海にやって来た僕たちは、履いて来たサンダルを放り出し、さえずり回る小鳥のように砂の上を駆け回っていた。
この日の為に僕がプレゼントした紺色インド綿の袖なしワンピースを着た華は、どこから見ても現代の女性だ。
ワンピースの裾を翻し無邪気に波と戯れる華を見ていると、このまま普通に、至って普通に、2人で永遠を過ごせそうな気がする。
空の彼方に浮かぶ太陽は永遠で、波は止まることを知らない。
それは、ずっとずっと、僕らがうまれるずっと前から不変のようで、そこで過ごすひとときでさえも永遠の不変のような錯覚を湿った潮風が繰り返し繰り返し運んでくる。
強い風に乗るかもめを見ながら、波打ち際に立ち、足元の砂に身体ごと持っていかれる感覚を楽しんでいると、はしゃぎ疲れた華が座り込んで僕に向かって手を振った。
足元を砂にとられながら、華のもとに倒れこむようにしていくと、華は少し笑って、真っ直ぐな目を水平線に向けた。
なんだか邪魔してはならない気がした僕は黙って華の顔を見つめていた。
華の美しく華奢な顔は、少し強い波の音と風に負けそうなほどはかなく見えるけれど、その中央についた二つの瞳は力強く海を真っ直ぐ見据えている。
「華…ひょっとして、家や家族が懐かしくなった?」
あまりにも長い間、波の向こうに心をやっている華に僕はこらえきれずに前から気になっていたことを聞いた。
「ふふっ、違うわ。私の家は優さんの家よ。」
くしゃっとシワをよせ、一瞬で溶けたような笑顔で華が答えた。
「いや、でも、いい家族がいたみたいだから、そろそろ淋しくなってきたんじゃないかと思って。」
こう言うと華はまた波の彼方に視線を戻し
「確かに家族はいるわ。でもそれは遠い過去のことよ。今、私は優さんと一緒にこうして過ごしてるから、過去に思いをやることはあまりいいことではないわ…」
そこまで言うと、華はまた溶けゆく綿あめの微笑で
「だって…後ろ向きで歩くとうまく歩けないでしょ?」
と言った。
「上手いこと言うね。ビックリだよ。君がそんなにしっかりしてるなんて…。」
僕が半分茶化すように言うと、
「今が一番大切よ。今を生きなくては誰が私の今を生きてくれるの?誰も替わってなんかくれないもの。」
僕の心の中を覗き込むように華が言った。
そうだ。僕は過去に囚われて今まで生きてきた。早死にした姉と、姉の殺した哀れなカモメに…。
カモメの様子がおかしいことに最初に気がついたのは姉だった。
「優ちゃん、カモメの様子がおかしいわ。」
姉は、学校から帰宅した僕を玄関で捕まえ、悲痛な表情でそう言ったが、僕は友達の家で新しいゲームをする約束があったので
「お腹空いてるんじゃない?餌をあげれば大丈夫だよ!」
と冷たい言葉を放ち、姉の返事を待たず、ランドセルをリビングに投げやって家を出た。
今の僕ならあのときの姉の瞳を見れば、何よりも姉とかもめを優先しただろう。
幼い頃の僕は、方向は変われど、常に真っ直ぐ前しか見ておらず、目の前の楽しいことしか見えなかった。
それ以外のことは、例えば高速で走る車窓から見える退屈な景色のように、ただ眼中の隅を流れるだけであった。
でも、華と暮らしている今なら高速で走る車窓から見える退屈な景色の中にも、何か大切なことや美しいものを見つけることができる。
それだけ心に余裕ができたのだ。
心に余裕をもつことは、自分だけでなく周りにも多大な影響を与える。
僕がそのことに気がついたのは少し遅すぎたようだ。気がつけば取り返しのつかないことになっていた。
その日、僕が帰宅したのは人影が滲む逢魔刻で、友達と新しいゲームに興じ、その興奮冷めやらぬ僕が
「ただいま!」と
玄関のドアを元気に開けると、我が家は誰もいないかのように冷たく静まり返っていた。
リビングにポツンと投げ出されたランドセルを見て、初めて僕は姉が言っていたことを思い出した。
「カモメ‥‥。」
慌てて玄関に面した階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある姉の部屋に駆け込むと、姉が水槽の前に座っていた。
「姉ちゃん、カモメは‥‥」
部屋の入り口に立つ僕からはカモメは見えなかった。
見えなくて当然だ。
カモメは水槽にいなかったのだから。
「優ちゃん・・・。」
ゆっくり僕の方に向き直る姉の手に、ヌラヌラ光る赤いものがあった。
僕は目を見張った。
姉はその白魚のような手の平の上に真っ赤なカモメを乗せて、そして、もう一方の手で持ったピンセットをカモメに突き刺していたのだ。
「それから、どうしたの?」
暴れる風の中に、華の澄んだ声が舞った。
僕は忌まわしい幼い頃の記憶を初めて人に話した。
「それで僕は‥‥」
曇り空の海から吹いてくる乱暴な風が僕の声をかき消し、あの日の思い出を僕の顔にぶつける。
「おいっ!!何やってんだ!姉ちゃん!!」
僕はすぐさま姉に、激しい感情を伴った言葉を投げぶつけた。
「……カモメが病気なの。」
と言って姉は、その時の僕が1番見たくなかった残酷な笑顔を見せた。
僕は何か納得できる理由を聞きたかったのに、姉から得た答えとその笑顔は、僕の心を煮えたぎらせるものとなった。
「だっ、だからといって殺すことないじゃないか!薬をいれたら治るって本に書いてあるの知ってるだろ?!」
微笑み続ける姉の真っ赤な唇が、僕の怒りを焚きつける。
「姉ちゃんは自分が治らない病気だからってカモメを殺したんだ!
カモメは薬さえやったら治ったのに!カモメが憎かったんだ!」
突然降ってきた雹のように激しく罵声を浴びせると、僕は姉の手の中のカモメの死骸を奪い、部屋をあとにした。
自分の部屋で、よくよくカモメの死骸をみてみると、尾びれが所々破れ、ピンセットで刺された箇所は鱗が剥がれていた。
「酷い……」
僕の目から悔しさともとれる悲しみの涙が溢れた。
それから、僕は、姉を恨み続けた。
仲の良くなかった僕ら姉弟を、初めてひとつにした金魚のカモメ。
そのカモメを消滅させるということは、良い方向に向かっていた僕らの関係までをも消滅させたということと同じことだとその頃の僕は解釈し、姉が亡くなるまで、まともに話すことはなかった。
しかし、そんな冷え切った関係も、そう長くは続かなかった。
それから1年後、姉は風邪をこじらせ、あっけなくこの世を去ったのだ。
風邪の原因は、なぜか夜も遅くに庭で雨に打たれていたからで、
白い綿のパジャマは泥だらけになり、両手の爪の中には土がビッシリと入っていたらしい。
母が翌朝の食卓で父に話していた。
「お姉さまはどうして夜中に庭に居たのかしら?」
華が聞いた。
「いやあ、わからないんだ。全く自分の姉ながら理解に苦しむよ。」
無理矢理笑ってそう答えると、
「金魚のことにせよ、何か理由があったに違いないわ。理由を聞いてあげなくちゃ…」
「でも僕はその頃小学四年生だったから、悲しみのほうが先にたって、姉の言い分を聞く余裕なんてなかったんだ。」
霧のような雨が降ってきた。
人っ子一人いない霧雨の海岸は、この世の果てのようで、僕と華はしばらく口をつぐみ、
ただただ灰色の水平線をみていた。
身体が少し冷えてきたところで、僕はようやく口を開き
「そろそろ移動しようか?」
と立ち上がろうとすると、華は華奢な手で僕の腕を掴み
「手放すいい機会よ。お姉さまのこと、許してあげて。」
と言った。
確かに、ショックが大きすぎて誰にも話したことなかった過去のトラウマを発したということは、
ガチガチに硬くなっていた気持ちが軟化した証だろう。
突然、まるで夢のように現れた華が僕の心をとかしてくれた。
それは、雪に突然熱湯をかけたような乱暴なものではなく、冬によって閉ざされた山中の雪が、春の訪れによって徐々に溶かされてゆくような自然なことであった。
「今は優さんは私と生きてるのよ。私は、今の優さんが好きだわ。」
僕の心の中を、美しい雪解け水が流れた。
「うん‥‥そうだね。もう、忘れるよ。華がいてくれるから。」
「嬉しい!」
華は、濡れた体を僕の胸に委ねた。
そこで、愛おしさの込み上げた僕は、華の小さな顔を両手で包み込み、キスをしようとした。
「いや~!!!!」
それは、あまりに突然で、僕は最初何が起こったのかわからなかった。
気がつくと、僕の熱い感情による行動を振り切った華が、一目散にに僕から逃げて走り出したところだった。
「華!ごめん!もう何もしないよ!」
慌てて華を追いかける僕の頭に浮かんだのは、嶋本さんが言った、
「金魚に乱暴したらあかんで。」
という言葉であった。
乱暴?ただキスしようとしただけだ。
恋人同士なら、何よりも自然な感情をじゃないか。
野生動物は、教えられたわけでもないのに、毒のあるものを口にしないという。
口にするということは、自分にとって害ではない、信頼できるものであるということだから、人間はキスすることによって愛情確認すると、保健体育の教師が性教育の時間に話していた。
とすると、華は、まだ僕を受け入れてくれていないのか?
砂に足をとらて倒れた華を捕まえた僕は、華に受け入れられていないという不安から、華の細い腕を掴む手に力をこめた。
「もう本当に何もしない!約束だ!でもなんでそんなに嫌がるんだ!」
「いやっ!いや~!お願い許して!離して~!!」
華がそこまで取り乱しているのを見るのは初めてで、僕は掴んだ手の力を緩めた。
華は自分の身体を抱え込み、激しく泣きじゃくっていた。
僕はしばらく狂ったように泣く華を、ただ呆然と見ていた。
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