##3 神官長Xの献身(1)
もう随分日は高く昇り、朝と言うよりかは昼に近かった。
渡り廊下から見上げる空は、目に痛いほどに青く、まぶしい。
神殿の関係者ならば当然のごとく、皆せっせと己の務めをこなしている刻限だが、そこに一人、いまだ惰眠を貪っている者がいる。
いつもならばその自堕落さに呆れと苛立ちを覚える訳だが、さすがに今回ばかりは叱責をする気にはならない。
なにしろ、かねてより寝汚い方ではあったけれど、こんな時間まで起きて来ないとなると、恐らく昨夜はほとんど眠れなかったのだろうと容易に推測できるからだ。
今日は自分が、神官長としての職を辞する日だ。
こうして彼女を起こしにいくのも、これで最後となる。
神官長としての特権により、幾度となく訪れた彼女の部屋。本人の気質を表すような明るい色合いの内装も、分厚いカーテンによって薄暗いまま、主の就寝を知らしめている。
ひときわ目に付く巨大な寝台に近づくと、胎児のように丸まり、包まった布団から艶やかな黒髪と白い横顔が覗いていた。
顔にかかる幾筋かの髪を指でよけて現れた涙の跡に、優越感とほんの少しの歓喜が胸を過ぎる。
それを苦笑一つで追い払い、手慰みのように髪を指の背で撫でると、彼女の口からむにゃむにゃと意味をなさない寝言が漏れる。
そんな無防備な姿を眺めていると、ふいに彼女との出会いから始まる様々な記憶が、脳裏に思い浮ぶのだった。
※ ※ ※ ※
「これが、次の神官長です」
端的な紹介の中に、僅かな棘が混じっているのに気付く。
むっつりとした前任者の顔から視線を外し、私は深々と頭を下げた。
「若輩者ではありますが、誠心誠意仕えさせて頂きます。何卒よろしくお願いいたします」
「ええっと、よろしくね?」
どこか気が抜けるような笑みが、へらりとこちらに向けられた。
それは、彼女の座する立場からすれば、信じられない程軽薄な表情であると驚かずにはおられない。
一瞬よもや騙されているのかと思いもするが、目の前の相手はともかく間に立つ前任者は、到底冗談を言うような人柄ではない。お蔭で疑ってみせることもできなかった。
「それでは、自分はこれにて」
前任者は無作法とも言える程あっけなく頭を下げて、踵を返して立ち去る。
人伝えに聞いた話によると、前任者である元神官長と彼女はまったくと言っていい程性格が合わず、衝突も多かったらしい。
この地位には任期と言うものはないが、それでもあまりにも短い在籍期間は、前任者と彼女との確執によるものだと容易に予想がついた。
いや、むしろ次の神官長としてまだ年若い私が選ばれたのも、彼女が気を許せることを最優先にした人選だったことが大きい。
私のような気質の人間が側にいることで安らげるとは、残念ながら思えない。だが、そう判断し、私を選んだのが当の先代神官長であることを考えると、容易に弱音は吐けなかった。
「あっ、待って……!」
彼女がふいに駆け出す。
ほとんどこけつまろびているかのような足取りで、彼女は先代の服の袖を掴んだ。
「今まで、その……ありがとう。元気でね」
振り返った先代は、驚いたようにもの言いたげな様子を見せたが、結局何も言わずに唇を引き結ぶ。
そして彼女の手をそっと解かせると、慇懃無礼とも言える仕草で深々と頭を垂れた。
「女神様も、どうぞご健勝で」
彼女は眉尻を下げて、うなずく。
「うん。さようなら……」
それは、誰の人生にも一度は起こりうる、良くある別れの光景。
どこか寂しげなその表情は、少しの間、端で見ていた私の中にも鮮明な印象として残った。
これが、 この世でただ一柱の疫病の女神と、次の神官長として就任した私の出会いだった。
冬の寒さも和らぎ、日増しに暖かな陽気が辺りを解して行くのを感じられる。
身近な変化をあげるならば、新年参りの参拝客も落ち着いて我々神殿職員も、どうにか一息つけるようになる時期だ。
もっとも、だからと言って仕事がなくなるということはない。
何より、日も高く昇り切ったこんな時間まで惰眠を貪っているというのは言語道断だ。
「あの、神官長……」
神殿内の職務を受け持っている神官の一人が、扉の前で困りきった表情をこちらに向ける。確か内勤の医療神官でシュウといったか。
私はそれにひとつ頷くと、鍵の掛かっていない部屋に問答無用で入り込む。そして、部屋の中央で無駄な存在感を主張している寝台の、毛布を勢いよく引っぺがした。
「いい加減に起きなさいっ!」
「う~ん、あと二週間……」
「どんだけ粘る気ですか!」
あなたは冬籠りの熊かと叱咤して、どうにか起床を促す。
彼女は寝台に座り込んだまま、目をしょぼしょぼさせていたけれど、ふいに私の背後にいるシュウ神官に気付いてがっくりと肩を落とした。
「今日もまた採血かぁ」
「そんな気の抜けた声を出さないでください。彼だって仕事なんですから、あまり待たせてしまっては可哀想でしょう」
再び布団に潜り込もうとする彼女の行動を、素早く毛布を引き寄せることで阻む。
「いえ、あの、僕はあんまり気にしてないですから……」
「ほら、彼だってこう言っている訳だし」
「そういう問題ではありません!」
ぴしりと叱責すると、彼女は拗ねたように唇を尖らせる。
「だってこんなに頻繁に検査受けたり血を抜かれたりしていたら、しなしなの干物になっちゃうよ。よもや女神の干物をつくって、神殿の土産物にする壮大な計画が……!」
「馬鹿なことを言ってないで。いいから、まず身だしなみを整えてください」
シュウ神官に一度退室をしてもらい、子供を相手にするように着替えを手伝い、もつれて絡まった髪を梳かす。髪には幾筋か不揃いな箇所があって、私は思わず眉をひそめる。
「痛んでいる箇所もありますし、今度少し揃えましょう」
「神官長が切ってくれるの?」
「なんで私が?」
「さらっと自然に突き放された!」
どうせどうせ私なんかと拗ねた様子を見せる彼女に、溜め息をつく。
「分かりました。その代わり、多少不格好になっても文句は言わないで下さいね」
「はーい!」
嬉しそうに手を挙げる彼女に、不思議な気持ちになる。素人に切らせるぐらいなら、専門家でも呼んだ方がよっぽど綺麗にやって貰えるだろうに。
子供じみた彼女の態度に、本当に幼子を相手にしているような気になって、これが自分の仕える神かと思うと、どっと疲れが出てきた。
「今日のスケジュールは採血後、國舘市の式典の打ち合わせ、次いで近隣の派生神殿の視察に、会食時の礼儀作法の練習です」
「ええ!? そんなにあるの?」
「これでもだいぶ調整をしているのですから、我慢して下さい」
何かと働くのを嫌がる彼女のために、毎日の予定には随分気を使っている。着任したばかりの頃、きっちりスケジュールを組んだ所、彼女が逃亡した挙げ句部屋に閉じこもってストライキを起こした事への反省だ。
扉からためらいがちなノックが聞こえる。
「シュウ神官が戻ってきたようですね」
彼の元に行くように促すと、彼女は不安げな表情でこちらを見上げた。
「神官長は一緒に来てくれないの?」
「私には別の仕事がありますから」
神官長という役職にある以上、いくらやっても仕事は尽きない。私自身これまでになく多忙な毎日を送っていた。
「ですから、あまり手間を掛けさせないで下さいね」
「うう……善処します」
「次に寝坊なんかしたら、ベッドを没収して代わりに金タワシを敷きつめておきますからね」
「誠心誠意頑張ります!」
威勢良く答える彼女であったが、その足取りは市場に向かう子牛のように重かった。
そんな後ろ姿に呆れた眼差しで見送り、私もまた仕事に向かうのだった。
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