##2 千明くんの家庭の事情
「――と、まあそんな夢を見たわけだ」
「それって、例のお姉さんの夢?」
千明に尋ねると、彼はそっけなく頷いて見せた。
「そう。失踪したあの馬鹿のこと」
もっとも男女問わず冷たい態度を取り、大学では主に観賞用として有名だった彼なので、そうした素振りはいつものことである。
大学を卒業して早数年。恐らく職場での評価も、そこから変わってはいないだろう。
冬もだいぶ深まり、吹きぬける風の冷たさで指先がちりちりと痛む。
千明がコートの袖の中に手を引っ込めるのを見て、こちらもマフラーを口元まで覆う。
「まだ見つかってないんだよね」
「……ああ」
大学時代、彼と友人として親しく付き合っていた自分は、恐らく彼のお姉さんのことを知る数少ない人間の一人になるだろう。
彼が大学生の時、すでに家を出て勤めていたお姉さんが行方不明になった。
正体不明の難病で入院している最中だったとのことで、かなり大騒ぎになったと聞く。
しかも、危篤ギリギリの状態で姿を消した為、自らの意思での失踪は考え辛く、誘拐事件として警察も出動したらしい。
けれど、管理の行き届いた閉鎖病棟からいなくなったことから、捜査は難航し、いっそ事件ではなく神隠しとでも呼んだ方が相応しい状況だった。
その時からしばらく、わざとらしいほどに話題を避けてきた千明だったけれど、最近は少しずつ、お姉さんのことを口にするようになってきた。
それでも彼にとって、両親以外で気軽に話ができるのは、自分を含む、事情を知る数少ない人間だけなのだろう。
「そもそも、生きているとも限らないけどな」
「なに言ってんのさ。殺しても死なないような姉だって、良く言ってたじゃないか」
冗談めかして悲観的なもの言いをする彼に、こちらもわざと明るく反論してやる。
数年前にたった二回だけではあるが、こいつの姉には会ったことがある。とは言っても、街中で偶然会って、ほんの短い会話を交わした程度の間柄なのだが。
『おおっ、千明だっ!』
ゼミ合宿に持っていく備品の買出しを頼まれ、千明とふたりで駅前の繁華街を歩いていた夏のある熱い日。
機嫌良さそうな声と共に、背後から千明にぶつかってきたものがいた。
そのあまりの勢いは、一瞬バイクか軽自動車でも衝突したのかと思ったほどだ。
実際千明はそのまま、顔からダイナミックに地面に転倒した。普段、やや格好付けしいな所のある千明の、あれほどまでに見事な転びっぷりを見たのは、今に至るまでその一回きりである。
「……お、おい。大丈夫か?」
「てめぇ……」
思わず心配するこちらを無視するように、地面からゆっくりと起き上がってくる千明の声は、地獄から響いてくるかのごとき物々しさを備えていた。
怒っている。これは心底怒っている……っ。
横で聞いていただけでもはっきりと分かる、怒りに満ちた低音。
普段冷静で感情を顕わにする事の少ない彼であるからこそ、余計に恐ろしく感じられる。
誰だか知らないけど、今すぐ逃げろ!
思わず加害者に向かって、必死に目で呼びかける。
「すっごい奇遇だね。まさかこんな所で会えるとは。いやはや姉弟の縁って侮れないもんだねえ」
しかし、その女性は真夏でも底冷えする程の怒りを露とも気にせず、千明の肩をばんばんと叩きながら、楽しげに声を掛けた。
千明は涼しげな目元をひくりと痙攣させると、勢い良くあさっての方向に指を突きつけた。
「お前みたいな姉を持った覚えはない。どこのどなた様かは知りませんが、可及的速やかにどっか行っていただけますか?」
「薄情な! こっちはおしめを変えてあげたことだってあるんだよ!? 一緒にお風呂に入ったことも、添い寝をしてあげたことも――、」
「知らん。あったとしても事象ごと歴史から消えている」
「ひどいっ」
そう言いながら縋り付く女性を、千明が貫一お宮もかくやといった具合に蹴り飛ばしている。
普段の彼からは想像もつかないやりとりに、自分はしばし呆然とその光景を眺めていた。そしてはたと我に返る。
「えっと、千明のお姉さんですか?」
おずおずと尋ねると、彼女は人懐っこい笑みでこちらを振り返り頷いた。
「その通りっ。あなたは千明の……お友達かな? うちのシャイで不遜な弟がお世話になってます」
確かにこういう時って多少は身内を下げるもんだけど、シャイで不遜って謙遜になるのか?
首を傾げていると、彼女はさらに何かを言おうと口を開く。しかし、
「お前、気持ち悪いから。半径30メートル以内に近寄んな。しっしっ」
彼女の言葉を遮るようにそう言った千明に、腕を掴まれる。そのまま足早に歩き出されよろめくが、どうにか転ぶことなく後に続いた。
「えっ、いいのか?」
「いいんだよ」
そのまま振り切らんばかりにすたすたと歩く千明は、後ろをちらちらと気にする自分に断固として答える。
そう言えば以前千明は、ゼミ仲間との世間話の中で個性的な姉がいると言葉少なに語っていたような気もする。確か、あだ名が「二大巨変」だっただろうか。
確かにアレは個性的というかなんと言うか――すごい。
こんな人間がもう一人いるらしい千明の住む町内が、ちょっとした魔境のように思えてくる。
彼女は我々を追っかけてくるようなことはしなかったが、その背に向かって、叫んだ。
「ちーちゃんの意地悪っ! 今度その子と三人でご飯食べに行こうね!」
「ちーちゃん?」
子供のように手を振る彼女から友人に視線を移すと、彼は顔を真っ赤にして俯いていていた。
「お姉さんと仲良いんだな」
「誰がっ!」
反射的に言い返してきた千明に、思わず噴出した。
これが、千明の姉との
そして、その後二度目の遭遇があったことは、実は千明は知らない。
合宿も無事に終わり、風に落ち葉が混じり始めた秋口の頃。
個人的な買い物のために駅前まで足を運んでいた折り、ふいに背後から声を掛けられた。
「あれ? 確か、千明のお友達さん?」
一瞬、良くあるキャッチセールスかと思ったけれど、それにしては友人の名前まで知っているのはおかしい。
誰だろうと思ったところで、唐突にその存在に思い至った。
飛び上がるように距離を取りながら振り返ると、目をまん丸に見開いた千明の姉が中途半端に手を差し伸べたまま立ち尽くしていた。
「いや。さすがに、身内以外にいきなり突進していったりしないから」
そんなに警戒しなくても、ときょとんとした顔から一転けらけらと笑いながら、彼女は手を横に振る。
「はあ、すみません……」
とりあえず頭を下げるけれど、あれからちょくちょく伝説ともいうべき逸話を聞かされた身としては、ある程度自衛に走ってしまったのも仕方ない。
個人的には、台風の日に手作りのいかだに同乗させられ琵琶湖に漕ぎ出でた話が印象的だった。それ以来、彼は船が苦手らしい。
泥舟に乗せられたカチカチ山のタヌキの気持ちが良く分かったと、しみじみと語る遠い目をした千明に、聞いたときはなんとも同情を禁じえなかった。
「良かったら、少し千明のこと聞かせてくれない? この間は結局、ろくに話もできなかったしさ」
飲み物くらいは奢るよ、と目の前にあるコーヒーチェーン店を指差されたが、首を横に振った。
この間のやり取りを鑑みるに恐らく、千明とこのお姉さんは角を突き合わせる様な間柄ではないのだろうけれど、本人のいないところで勝手に千明の話をするのは躊躇われた。
御丁寧にそれを告げた訳ではないけれど、そうした気持ちは伝わったのだろう。彼女は、うーんと頭を抱えた末に、一つ頷いた。
「よし、じゃあちょっと待ってて」
そう言って、彼女はどこかに駆け出していく。角を曲がり、姿が見えなくなってから五分も経っていないだろう。同じような駆け足で、彼女はこちらに戻ってきた。
「さっきのは無しで。代わりに私の話を聞いてよ」
そして、はい、これと手渡されたものを見て、呆気に取られてしまう。
どこかの自動販売機ででも買ってきたのであろう、缶入りの飲料。しかし、それはこともあろうか、ホットの汁粉ドリンクだった。
季節はだいぶ涼しくなってきたとは言え、まだ残暑に悩まされることもある秋口である。
咽喉を潤すにはどう考えても適当ではないだろうし、そもそもよくぞこの季節に見つけ出してきたものである。
「私、これ好きなんだよね」
彼女はガードレールに腰掛けると、ぷしゅっとプルタブを開ける。駆け戻ってくる間に振り回してしまったらしく中身が軽く噴き出し、ぎゃっとその口から愉快な悲鳴がこぼれた。
それを見て、こちらも思わず苦笑がこぼれる。
無碍にするのも可哀想になったので、貰った缶は手に持ったまま、彼女の隣に同じように腰掛けた。
「それで、何を聞かせてくれるんですか?」
「うん、そうそう。私ね、仕事についてから一人暮らしを始めたんだけどさ、そしたら千明と顔を合わせることがほとんどなくなっちゃったんだよね」
一人暮らしをしているとは言っても、場所は隣の県らしい。距離もたいして離れてるわけでもないので、忙しい仕事の隙間を縫ってちょくちょく実家に帰ってはいるものの、弟の千明とはすれ違ってばかりだという。
「千明も大学生になって忙しくなったんだとは思うんだけど、バイトだとかゼミの飲み会だとかでいつ帰ってもいないんだよ」
「まあ、大学生の男なんて家に寄り付かないもんですから」
不思議そうに首を傾げる彼女にそう言って慰めながらも、内心は、避けられてるんだろうなぁと推測してしまう。
千明のお姉さんは、はたで話を聞いたり、遠くから見ている分には大変愉快ではあるけれど、恐らく身内にいたら非常に面倒くさい。正直、千明にちょっと同情するレベルだ。
「まあ、実家のお父さんお母さんから、元気にしているって情報は聞くから、それならそれでいいんだけど……。でも、ちょっと心配なんだよね」
「心配、ですか?」
彼女は、汁粉飲料の缶を包むように両手で握りこんだまま、眉尻を下げて苦笑する。
「ほら、千明ってさ。幼少時に私が鍛えすぎちゃったのもあってか、何事にも動じなさ過ぎると言うか、愛想がないじゃない」
「まあ、確かに……」
「ちゃんと仲の良い友達とか作れてるのかなってさ」
顔立ちが良く、大人びている千明は、クラスやバイト先の女性からよく黄色い声を投げ掛けられている。もっとも、いささか口が悪く冷めた物言いも多いせいで、人付き合いそのものは、あまり活発ではなかった。
しかしながら、そんな彼の性質がこのお姉さんに鍛えられたものだとはついぞ知らなかった。
このお姉さんはいささか子供っぽく落ち着きのないお人のように見えるので、反面教師にし過ぎたというのも考えられる。
いっそ千明とお姉さんを足して2で割ったらちょうど良く……いや、お姉さんの性質の方が勝ってしまうかもしれない。
表情豊かにはしゃぐ千明という想像し難いものに、目を遠くして思いを馳せていたものの、はたと我に返りお姉さんに言った。
「大丈夫ですよ。あいつは結構みんなから慕われてますから」
千明は確かに一見取っ付き難いけれど、その実、気を許した相手に対しては面倒見も良いし、年相応にはしゃいだりもする。
常に人に囲まれた人気者という柄ではないけれど、彼の内面を知って親しく付き合うようになった友人は自分のほかにも何人かいるのだ。
「そっか、それなら良かった」
彼女は、ほっとしたようにふにゃりと笑う。
「千明がぼっちを極めすぎて、孤高のロンリーウルフになっちゃったら責任を感じちゃうところだったよ」
「――ぶふっ」
それを聞いて、思わず笑いが噴き出した。
孤高のロンリーウルフ――それは、一見クールで気難しく、かつ格好付けしいなところのある千明に、意外にぴったりのあだ名だ。
今度それで当人を呼んでやろうなどと思っていると、お姉さんは「よしっ」と掛け声を立ててガードレールから飛び降りた。
「今日は話を聞けて良かったよ。可愛げはなくとも、たった一人の弟のことだからね。気になってたんだ。もっとも――傍にいてくれる人が少なくとも一人はいると分かってたから、そんなに心配はないだろうと思ってたけど」
そう言えば、結局しっかり話してしまった。千明に怒られるかなと思いつつ、まあ、いいだろうと自分を納得させる。何なら今日のことを千明に黙っていればいい訳だし。
お姉さんは、こちらを振り返ると丸い目を瞬かせて、弾けるように笑った。
「良かったら、これからもずっと弟と仲良くしてあげてよ。あなたみたいな子が千明の隣にいてくれてるんなら、私も安心できるからさ」
「お姉さんは」
天真爛漫そのものの様子に、何だかこちらが照れ臭くなってしまい、頷きながら彼女に尋ねる。
「お姉さんは、誰か傍にいてくれる人はいるんですか?」
近距離とは言え、仲の良い家族から離れて一人暮らしをしている彼女。
なかなか会えない弟を寂しく思うほど家族思いのこの人に、誰か他に甘えられる人がいると良いのだけれど。
しかしお姉さんは予想外のことを聞いたと言わんばかりの顔をして、うーん毎日仕事ばかりだからなぁと首を傾げた。
「まあ、私はどこに行っても何とかやっていける自信はあるから、どうにでもなるでしょう。身体は丈夫だし、流されるまま生きるのは得意だし」
そして彼女ははたと自分の腕時計に目をやって、悲鳴を上げる。
「しまった、すぐに会社に戻らないと行けなかったんだ! 色々ありがとう! 今度千明をだまくらかして、三人でご飯食べに行こうね!」
彼女はこちらを振り返り手を振り、何度か蹴っつまづきそうになりながら、駅に向かって走っていった。
お陰で、こちらはその姿を、見えなくなるまでハラハラと見送ることになった。
「なんと言うか、すごい人だったな……」
勢いがあって、何するか予想がつかなくて、目が離せない。でも、不思議と憎めない人だった。――四六時中そばにいると、何かと苦労させられそうではあるけれど。
「千明と会えなくて寂しそうだったし、そのうち本当に千明を騙して一緒にご飯でも食べに行くのも良いかも知れないな」
そんなことを呟きながら、一緒に飲み損ねてしまった汁粉ドリンクの蓋を開けて、一口飲んでみる。予想以上の甘さに、脳みそがツーンと染みるようだった。
――この出会いから半年後、千明のお姉さんは病に倒れ行方不明となる。共に食事に行くという約束は、結局果たすことはできなかった。
「――もしその夢が正夢だったら、お姉さんは今もどこかで元気にしてるってことだね」
あのたった二回の邂逅を、脳裏に甦らせながら千明にそう言ってみる。千明はものすごく怪訝そうな顔でこちらを見た。
「ただの夢だぞ」
「でも、いなくなったと時の不可思議な状況を考えれば、夢の通り異世界に呼ばれてしまったという可能性だって、万に一つもないとは言えないだろう?」
あの突拍子もないお姉さんが、すでに死んでしまっているとは考えたくないし、考えられない。
ならば、いっそどこか遠くの世界で、のん気に女神でもやっていると思った方がよっぽど想像しやすかった。
それは千明も同じようで、彼はふっと表情を和らげる。
「そうだな。もっとも俺としては、あのとんでもない姉の面倒を誰かに押し付けてしまったことに、良心の呵責を覚えなくもないけどな」
「ははっ」
思わず笑いがこぼれる。
「本人曰く、どこに行っても何とかやっていけるらしいから、きっと心配いらないさ」
それにあの底抜けに明るい彼女なら、もし何か困ったことがあっても、きっと見かねた誰かが手を貸してくれることだろう。
自分の知っている彼女は、ほんの一面に過ぎないけれど、そんな想像が楽に思い浮かんだ。
「本人曰くって、どこで聞いたんだ?」
「いいからいいから」
ぎょっとした顔をする千明を適当に誤魔化して、思い描く。
暇が出来たら今度こそ、千明と外に食事に行くのもいいかもしれない。千明のお姉さんはいないけれど、代わりに千明に彼女の思い出話をたくさん聞くのだ。
それはきっと、とても愉快なものになるに違いない。
「なに、ニヤニヤしてるんだよ」
「ん? ああ、今度どこかに一緒に飯でも食べに行かないか」
千明は一瞬不思議そうな顔をしたが、納得したように頷く。
「ああ、それもいいな。ところで、真由美。お前、いつまで男言葉を使ってるんだ?」
「そうだなぁ。子供でも生まれたら、直すかな」
社会人になって普段は常識的な言葉遣いを心がけているが、千明といるときはついつい気が緩むのか、学生時代の蓮っ葉な言葉に戻ってしまう。
いい加減、どうにかしないとなと思っていると、耳まで赤くなって視線を逸らしている千明が目に入った。
大人びて格好付けしいな千明だが、どうにもこういう部分は可愛らしくていけない。もっともそれが、千明の良いところなんだが。
また、冷たい風が吹きつけてきる。
「うわっ」
思わず首をすくめて、身を縮めこませる。
本当に寒い季節になったものだと思っていると、ふいに千明が手を掴んできた。
「何だ、千明?」
「いいからさっさと行くぞ。気の重い挨拶は、早く済ませるに限る」
言葉は急かすようだけれど、その手は冷え切った指先を包むような形で握り込んでいた。
私は、思わず笑みを浮かべる。
「こっちは、別に緊張したりはしないけどね」
「お前はそうだろうさ」
休日だというのに律儀に着てきたスーツのネクタイを緩めながら、憮然とした声で千明は反論する。
学生時代のあの秋口の会話から、早数年。
千明とはもう友達という関係ではなくなってしまったが、それでも自分は彼とずっと一緒にいるつもりだ。
そうすれば、どこか遠くにいるはずのお姉さんもきっと安心してくれることだろう。
千明の手の暖かさを指先に感じながら、そんなことをふいに思った。
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