原因不明の病に臥せる現皇帝のねやにそっと息をひそめて侵入する者があった。現皇帝は病のため身動きが出来ず、ただそれを見ていることしか出来なかったが、相手を見て安堵した。

「父上、私は紅薄京の老王の首をった。そしてその死体を水没刑にした。私の判断は間違いでしょうか?」

「……間違いではない。むしろよくやった」

 相手はほくそ笑む。侵入者だというのに騒がないのは、それが現皇帝のお気に入りだからだ。もちろん、その本性など現皇帝はまったく微塵みじんも知らない。

「では父上、次代皇帝の座は私のものだと念書ねんしょを書いていただけますか?」

 木の板にすずりすみは用意させてある。自分にもそれなりに有能な部下がいたという意外な喜びが、その男にはあった。

 彼の名は青梅。第三皇位継承者である実の妹スフィアを殺そうとしたとがで投獄されていた身の上である。

 彼は獄中ごくちゅうで考えていた。なぜあの兵が誰にも見つからずに済んだのかを。よく考えた結果、昔世話になった老人が言っていたことを思い出したのだ。

『坊っちゃまたちは知っておくべきです。何かあった時には城にあるいくつかの抜け道を使うのです』

 それを思い出したのは蜂起の時に見た、頭の髪以外はすべて覚えていた長老の姿がヒントになったのだ。だから彼も必死で記憶をたどり、牢からここまで抜けてきたのである。

 今、現皇帝は次代皇帝は最愛の妻の息子であり、第一皇位継承権を持つ青梅だと念書をかいているところだ。

 青梅の時代が、これから始まるのだ。


+ +


「首の怪我、どう?」

 お見舞いの花を花瓶かびんに活けながら、麒麟はスフィアの首の傷の状態を確かめた。

「あぁ、大分楽になった。お前の父上には感謝の言葉もない」

 だがスフィアの白い首筋くびすじにはするどい跡がしっかりと残ってしなった。これではせっかくの綺麗なお姉さんが台無だいなしだ。

 そんなようなことを麒麟は考えているのだが、スフィアは窓の外の空をながめながらぽつりと呟いた。

「もう一ヶ月も帰っていないな、碧玉京」

「うん」

 麒麟の勾玉が割られてからというもの、一度もタイムトラベルのきざしがない。碧玉京のことはふたりとも心配だった。また青梅が何か企んではいないか、そればかりをスフィアは考えている。一方で、麒麟は碧玉京をすでに第二のふるさとだと感じていた。

 現代の厳しい実力主義よりも、命がけの実力主義の方が自分の性に合っている。最初は戸惑ったものの、慣れてしまえばなんでもない。住めば都というヤツだ。

「翆玉さんの怪我はもういいよね?」

「当然だ。私が『兄』と慕うお方だぞ?」

 スフィアが誇らしげに笑う。つられて麒麟も、同じく。

「それでスフィーはどんな国を作りたいの?」

「なんだ突然?」

「僕もスフィーの夢を応援したいから。……ほら、いつも助けられてばかりだし」

「まったくお前という奴は。私の方こそお前に助けられている。その顔は自覚がないな?」

「うん。だって僕は全然スフィーの役に立てた覚えがないもん」

 麒麟が頬を膨らますのを見て、スフィアはまた笑う。

「私が目指す碧玉京は、誰もが生活に困らずに、笑顔で暮らせる国だ。そのためならば私は自分に出来ることならばなんでもしよう」

 なんともスフィアらしい答えだと麒麟は思う。そこで気になっていたこともついでに尋ねてみる。

「ねぇ、スフィー」

「なんだ?」

「スフィーは奴隷のことをどうするの?」

「あぁ。コウコウで学んだよ。いつか反乱を起こすのだろう? ならば身分差別みぶんさべつもなくし、民主主義みんしゅしゅぎとやらを取り入れようと思う」

「……やっぱりスフィーの言うことは、僕には難しいや」

 そう言って、今度はすねる麒麟の頬を優しくつねってみる。

「なにするの!?」

「いや、朱にはこんなことはしなかったからな」


 ――また『朱』さんだ。


 スフィアが朱の事を言うたびに胸がむかむかする不思議な現象を麒麟は感じていた。その答えがやっと解った。麒麟は朱に嫉妬しているのだ。

「……」

「どうした? 泣きそうな顔をして……」

「スフィー、答えて」

「なにをだ?」

「僕のことは『朱』ってひとの身代わりなの?」

「……それは――」

 スフィア自身、この気持ちが何なのか、理解できないでいる。悟は麒麟が自分に恋をしていると言っていたが、生憎とスフィアは恋というものをしたことがなかった。する暇がなかった。だから『解らない』。

 そう答えようかと迷うのだが、この幼い少年を傷つけてしまいそうで恐ろしい。だからこう言うしかない。

「解らない」

 すると麒麟はひどく気落ちした様子で病室を出て行く。その顔はうつむいたままで。

「待て麒麟! どこに行く?」

「売店でスフィーにコーヒー牛乳でも買ってくるよ。気に入ってるもんね」

 麒麟の表情は作り笑いだった。そんな表情をさせるつもりはなかったのに、とスフィアは後悔するが、後悔先に立たずだ。

「……なぜなら、本当に理解できないのだから」

 ひとり病室に残されたスフィアはそう呟いた。窓の外の空のあおは、碧玉京のみ切ったものとは大違いだ。

 服のたもとから命よりも大事な碧玉の勾玉を取りだしてみる。そこにうつっているのは若干幼い時分自身と、今は亡き朱の姿だ。

 もちろん、そんなものはうつつに決まっている。でも、今はまだ傷を癒したかった。

「こんな傷を作ったとなれば、朱にも麒麟にも怒られるな」

 スフィアは曖昧な笑みを浮かべた。自分はこんなに気の多い女だったのかと自分でも驚いている。

「スフィー、コーヒー牛乳買ってきたよ!」

 麒麟が何事もなかったかのように病室に戻ってきた。手にはビニール袋をぶら下げている。中身が透けて見えて、コーヒー牛乳と何やら丸いものがふたり分入っていた。

「麒麟、コーヒー牛乳は解るが、この丸い、フワフワしたものは何だ?」

「メロンパンだよ。甘くておいしいよ。食べてみて!」

 突然現れた未知の物体に、スフィアは警戒するが、麒麟がいかにも美味そうに食べているのを見て、勇気を出して食べてみることにした。

「……甘い」

「甘くておいしいでしょ?」

「あぁ、こんな美味なものは初めて食べた。コーヒー牛乳と一緒だとさらに美味いな」

「うん。僕もこのコラボは最強だと思うんだ」

「私もだ!」

 そしてふたりは何事もなかったかのように笑い合う。そしてこれが最後のふたりの思い出になることは、この時点では誰も予期よきできないことだった。


+ +


 翆玉は今日の分の陳情の山を片付けたばかりだった。ここは皇帝の間。現皇帝か摂政しか座ることの許されない玉座のある場所だ。翆玉は玉座に腰掛け、摂政としての仕事をこなす。あぁ、また奴隷が陳情の山を持ってきた。

「我が帝国はまだまだ改善の余地があるというわけか。課題が多いのは、やりがいがあっていいことだ」

「翆玉様、喉でも渇いてはおりませんか?」

「あぁ、水が欲しいな。毒見を頼む」

「かしこまりました」

 奴隷は他の女奴隷に水を用意させると、毒が入っていないかを自ら証明するためにその水に口をつける。

「恐らく毒はないでしょう」

「すまないな。毒見役どくみやくなどと」

「それが俺の仕事ですから」

 翆玉は毒見済みの水を一気に飲み干す。水が美味いということは健康の証だ、このまま民のために尽くす人生は翆玉の望むところだった。

 ただし、その次の瞬間には絶望的な状態になるのだが。

「……頭が……お前は」

「すみません、翆玉様。でも青梅様につけば奴隷の身分から解放してやると言われていて……」

 翆玉が最も信頼する奴隷をも懐柔かいじゅうする狡猾こうかつさは間違いなく青梅の差し金だ。ただ、この奴隷があの青梅がそんな約束を守るように見えるということが、ただただ悲しかった。


 次に翆玉が目覚めた時、彼は身体の自由を奪われていた。縄で縛られ、皇帝の間の奥の方にいた。玉座に座っているのはなんと、病に臥せっているはずの現皇帝だった。なにがなんだかわけがわからない。

 青梅は父王に跪いて見覚えのあるモノを掲げていた。

「これが水に漬けた紅薄京の愚かな王の首だ! 奴を仕留しとめたのはこの私! 私以外の誰が次代皇帝じだいこうてい相応ふさわしいのだ?  ねぇ、『父上』?」

 青梅は紅薄京の老いた王の首を現皇帝の前に掲げて、『父上』と強調し、告げた。それは、明らかに先代皇帝の嫡男ちゃくなんである翆玉への当てつけだろう。日頃から人望がないため、ここぞとばかりに自らの優秀|ルビを入力…《ゆうしゅう》さを示そうというのだ。

 外見は女そのものだが、中身は雄々しく、同時に非情に狡猾でもあるのがこの男だった。彼は現皇帝の字で書かれた念書も同時に掲げてみせた。

 翆玉はなぜ彼がこの帝王の間に彼がいるのか、察しがついた。多分、先日の蜂起で一緒に戦ってくれた元守り役の長老の顔から、昔の話を思い出したのだろう。厄介この上ない。その抜け道を通って現皇帝の閨に忍び込んだ――大方こんなところだろう。

 翆玉はこのままではまずいと感じていた。せっかく民への安定した食物供給しょくもつきょうきゅうの知識をあの『あか』の少年から受け継いだのに、青梅が統治すればそれらはすべて皇族が独占することになってしまうに違いない。自分さえ良ければ他人などどうでもいいのが青梅という男なのだ。

「……」

 翆玉はただ自分の無力さを唇を噛むことで表現するしかない。……あの時、紅薄京の王を彼が仕留めたという話は偽りだという事を、誰よりもよく知っているのが翆玉だった。なぜならば、あの場には彼もいて、麒麟が偶然に紅薄京の王を殺害してしまったという事実をその目で見ていたためだ。

「しかし現皇帝! かの王を殺したのは青梅様ではありません!」

「第二皇位継承者は黙っていろ! どうせ貴様は怪しげな妖術ようじゅつ人心じんしん掌握しょうあくし、我が息子の邪魔立じゃまだてをするのであろう?」

「いいえ! 誓ってそのような事実はありません!」

「翆玉殿は少々お疲れのようですね。父上、縄をほどいてやりましょう」

「お前は慈悲深じひぶかい男だな、青梅よ」

「それほどでも……ありますが」

 どっと笑いがまき起きる。どうやらこの場には翆玉の味方は誰一人としていないらしい。兵たちも皆、青梅の息がかかった者ばかりだ。このままでは次代皇帝は青梅ということになってしまう。こんな時に限って、『妹』は何をしているのだろうか?

「ところでスフィアの姿が見えんが? あれは母親に似た、美しい娘だ。顔が見たい」

「申し訳ございません父上。我が愛しの妹スフィアは、旅に出ておりまして」

「旅だと? 女子の身でよくやるわ。では皇位継承権は捨てたのだな?」

「はい」

「いいえ! スフィアは青梅様に切り付けられそうになった私を庇って、怪我を負ったのです!」

「偽りを申すな!」

「真実です!」

「青梅よ、真か?」

「いいえ、翆玉殿の狂言です」

「青梅様! 貴方というお方は……どこまでも卑劣な!」

 味方は誰一人いない。周囲にいるのは珠玉にとっての『敵』ばかり。これでは民の生活は再び乱れるだろう。それだけは避けたい、なんとしても。

「お待ち下され我らが皇帝陛下」

 皇帝の間の簡素な扉が開かれた。そこにいたのは長老と、その他の民たち。いつかの乳飲み子を抱えた家族を持つ兵もいる。

「そなたは……?」

「儂は貴方様より青梅様と翆玉様の幼い頃のお世話をおおせつかった爺です。覚えいてらっしゃいませぬか?」

「そういえば、面影があるのだな。息災そくさいか?」

 ここで長老は首を左右に振る。

「今はそんな私事わたくしごとよりも皇位継承者の話でしょう。真実を申されているのは翆玉様です」

「……なんと? まことか、爺?」

「真にございます。翆玉様は誰よりも我々民の事を考えていてくださる」

 長老の言葉に続き、いつかの兵が当時のことを語る。

「青梅様は私が悪いとはいえ、すぐに極刑である水没刑を下されましたが、翆玉様のおかげで助かったのです」

 民たちは一斉に翆玉の傍についた。護るためだ。

「みんな……なぜここに来た? みなの身も危ないのだぞ?」

 長老はにっと笑う。他の皆もそれに続く。

「前にも言っただろうよ。儂らは翆玉様のためならこの身など惜しくはないと」

 現皇帝は頭が痛くなってきた。これは一体どんな茶番だ? 先代皇帝は最期まで自分を皇帝の器だと認めようとしなかった。だから、事故に見せかけて毒を持って暗殺した。翆玉もまた似たようなことを起こすに違いない。自分の血のつながりのない翆玉に玉座を明け渡すなど論外だ。あとは後残りの可能性としてはスフィアがいるが、今ここにいない以上は無関係だ。

 翆玉は民たちに心から感謝していた。だが、皇位継承者はスフィアこそふさわしいと思う。きっと現皇帝は血のつながりのない自分よりは、まだ実の娘であるスフィアの方をすだろう。

 それにしても青梅はあの正々堂々としたスフィアとは似ても似つかない、まさしく『愚兄』だ。実の兄と妹でありながら、なぜこうも違うのか? ただの食生活の違いだろうか? そういえば青梅は豪華な食事を好み、スフィアは質素なものを好む。翆玉もまたスフィアと同じ粗食が好みなため、気が合うのだろ

 翆玉がそんな事を考えていると、重苦しい声がした。現皇帝の威厳に満ちた声。

「……よし、青梅よ。貴様が皇位を継承すべきだと確信した」

 現皇帝は、そうおごそかに告げた。病に臥せる事が多いとはいえ、現代の皇帝は彼であり、彼の決定は絶対である。その彼がこう言ってしまえば、それを覆す事など不可能だ。


 ――スフィア、お前は一体どこで何をしているのだ!?


 翆玉は願わずにはいられない。義理とはいえ大事な『妹』のような存在が、戻ってきてくれるその時を。それはきっと、周囲の民も賛同してくれるに違いない。男の青梅と自分とは違い、女である彼女にしか『儀式』は不可能だし、それによって民にもたらされる恩恵おんけいはかりり知れない。

 しかし、彼女は現在この碧玉京にはいない。以前にも文字通り『消えた』のだが、その後どれだけ問いただしても、スフィアは詳細を語ってはくれなかった。ただ、「危険な要素が多すぎるからです」とだけ言っていた。それは一体どのような意味なのだろうか? さとい少女だし、絶対に深い意味があるからこその言葉だろうが、せめてこの自分にだけは打ち明けて欲しかった。

 ……そうすればこの最悪の事態――よりにもよって青梅が次代皇帝の座にくなど阻止できたのに。


 ――一体どこへ行ってしまったのだ!


 このままでは卑劣な青梅が次代の皇帝として定まってしまう。翆玉は周囲が言う通り、先代皇帝の遺児いじであるがゆえに、皇位継承などは元から望んでなどいない。

 そんな途方もない、分不相応ぶんふそうおうな立場など自分の望みではない。自分が望むのは、あくまでも平和で、民が笑って暮らせるような帝国だ。だからこそ、周囲が何と言おうとも『摂政』の立場でまつりごとを行ってきた。

 ……それなのに、この結末はあまりではないだろうか?


 ――私は罰を受けるような覚えなどないし、民は全くの無実。それなのに、なぜ……。


 現皇帝は自らの腕にある皇帝の証である入れ墨――自身の身分である皇帝を示す大きな星と、奴隷を示す小さな星を上下で縁で囲んだ『碧玉京皇位継承者へきぎょくきょうこういけいしょうしゃあかし』を、きざまずいて青梅に見せる。それを神妙な顔で、だが満足げな笑みを浮かべ、彼は受ける。皇位継承の儀式だ。女奴隷がふらふらした足取りで舞い踊り、男奴隷たちが豪華な食事を運んでくる。

「誰か、剣を持て」

 今この場には城の奴隷が全員集い、民の一部の特権階級とっけんかいきゅうの者たちも呼ばれている。最初から現皇帝はすでに皇位を譲り渡すつもりだったのだろう。顔色が優れないのは病のためだろうと翆玉は思う。

 その現皇帝は儀式用の丁寧な作りの剣を受け取った。丁寧な造りといっても、金属ですらないそれはただの黄金でできた儀式用のレプリカだ。

「第二十九代皇帝へ、第二十八代皇帝より力を受け渡す」

 儀式用の剣はそれなりに先端が尖っている。この碧玉京で唯一のはモノといっても良かった。それを交互に青梅の左右の方に載せてゆく。

「青梅よ、より強い帝国を築くのだ」

「はい、父上」


 ――スフィア!


 翆玉は声を上げてその名を呼びたかった。その気持ちは、きっと民も同じはずだ。彼女ならば、きっとこの血塗られた碧玉京の歴史をも変えられる。真の皇帝の器は彼女だと、この場の誰もが思っていた。

「……第二十九代、碧玉京皇位継承者は――」

 そう現皇帝が宣言した、その時。誰もが待ち望んだ人物が『そこ』にはいた。現皇帝の子である何よりもの証拠である、あおい髪を風になびかせながら。

「……貴様に皇位など相応しくない。我が愚兄よ」


+ +


 スフィアは麒麟が帰った後で、自分の気持ちをしっかり整理しておくべきだと考えた。でなければ麒麟にも朱にも失礼だから。

 モヤモヤした気分でただ機械的に手を動かして本を読んでいた。『紙』とかいう物質は不思議なもので、手触りがいい。本の内容は頭に入らないが、大体の気持ちの整理はついた。

 自分はやはり、麒麟に朱を重ねているだけなのだ。きっと、そうだ。そうに決まっている。でなければ誰があんな未熟な子供など――。

「……駄目だな、私は」

 麒麟の父である悟に言われたことが頭から離れない。麒麟が自分に対して恋をしている、などと。少し前の彼女ならばすぐに「片腹痛かたはらいたい」と言っていただろう。……しかし、麒麟の眼がどこか以前よりも変わった気がする。具体的にどこがどう、とは指摘できないのだが。

「……」

 ――朱と麒麟は別人だ。

 だが、きっかけは確かに朱だった。朱に似ているからこそ、スフィアは麒麟に興味を持った。そうでなければ、誰があんな軟弱を絵にいたような子供が気になるのだろうか。しかし、やはり気持ちが落ち着かない。こんな事は朱と過ごした日々の中でも、少ししか思い出せない。


 ――だから! 朱は私の庇護など必要ない麒麟児だろう? この時代の『麒麟』という名の少年とは無関係だ!


「……」

 これが恋なのかとスフィアは考える。胸が痛むのは、朱を喪ったからではないのか? それとも麒麟が気になっているからなのか? 自分で自分が解らない。

 そんな時だった。 朱の形見の勾玉が光を放ったのは。しかもその光り方は、これまでにない強烈なもの。


 ――まさか、碧玉京に異変が!?


 そんな嫌な予感を覚えたまま、スフィアは故郷へとタイムトラベルしたのだった。


+ +


 割れたルビーの元勾玉が淡い光を放ち始めた。

 寄生木家は夕食の最中で、いつまで入院中で帰ってこないスフィアの身を案じてはいたのだが、彼女は十分に強いのだし、大丈夫だと母親のちさとがいつも通りののほほんとした調子で言ったので、あまり心配はしていなかった。

 だが、恋心を自覚した麒麟としては心配で仕方がない。更に、勾玉がいつもとは違う光り方をしているのが気になった。……いつもならば、もっと主張するように強烈な光を放つのに。


 ――まさか、スフィーに何かあったんじゃ?


 幼い自分に出来る事など限られている。その自覚は十分にある。現に、彼女には助けられてばかりで、自分で自分が情けないと思ってばかりだ。

 それでも、男子としての意地が芽生めばえていた。好きな異性の前で、格好いい所を見せたいと思うのは当然だろう。麒麟もまたそう考えるような年頃だった。

 

 ――でも、どうすれば古代に行けるんだろう?


 そもそも一度も確認などしたことがなかった。『古代に行くための条件』、これはただ単に『勾玉が光ったから』行けるのか、それとも何か『特別な条件』が必要なのか?

 それを食事中の父に尋ねると、いくら大人で考古学者といえども、まさか実際にタイムトラベルなどという現象が起こるとは思ってもいなかったので、解らないと言った。

「お父さん、僕は真剣にスフィーが心配なんだよ!」

「……あら、やだわこの子ったら! おませさんね」

 母のちさとはそう微笑ましそうに言うのだが、麒麟の中の直感がスフィアの危機を告げているような、そんな気がした。それを、よりにもよってそんな言い方などしなくてもいいではないか。

 そう抗議しようとするが、母は強く、全くこたえる様子はない。

「……私の推測だが……元から気になっていた事がある」

「何?」

「なぜ麒麟だけがタイムトラベルが可能なのかという事だ。他にもタイムトラベルに相応しいような少年は数多いはずだ。……これが私の立てている仮説に基づく事だ。後は自分で考えてみるんだ」

「……」

 父はそれだけ言ってすぐに出来たての焼き魚について母にコメントしている。麒麟のこれまでの経験からして、こういう時の父は何を言ってもそれ以上のことは教えてくれないのだ。

 夕食を終えて 、自分の部屋に来た麒麟は、紅色の勾玉をじっと見つめる。

「……」

 こんな事をしている場合ではないのかもしれない。今も、もしかしたらスフィアは危機に晒されているのかもしれない。ならば、グダグダしている暇などない。

 麒麟は勾玉に向かって語り掛ける。駄目で元々、というやぶれかぶれの気持ちでもあった。……それでも、スフィアを想う気持ちだけは本物だと確信していた。

 やがて勾玉からか、脳内に響く聞き覚えのある声がした。まるで自分のもののようだが、声が低い。多分中学一年生の自分よりも年長だろう。その少年の声が、ダイレクトに頭に響く。


 ――お前に彼女を、義姉上を護る『覚悟』はあるか?


「あるよ。僕は絶対にスフィーを護る!」


 声の主は疑わしいといった調子を崩さない。それにこの声には聞き覚えがあった。確かに以前聞いたことのある声だった。


 ――本当に?


「もちろん!」


 ――その純粋無垢じゅんすいむくな手を血によごすす『覚悟』だぞ?


「……え?」


 ――ほら見ろ。やはりお前には無理だ。怪我をする前に碧玉京から離れろ。


 声の主は最初から麒麟が無理だと決めてかかっている。それがまた、逆に意地にならせた。


「……たしかに、怖いよ。『人が死ぬ』、なんて、そんなの間違ってる! ……だけど、僕はスフィーの力になりたい! スフィーを護りたい! この気持ちは本物なんだよ! お願いだから、僕を……『ヘキギョクキョウ』に連れて行って!」


 ――……。


 声の主は、しばらく黙りこくっていたが、麒麟の気持ちを察したようだった。そしてまるで賭けでもするかのように力強く言い切った。


 ――ならば、その『命』を賭けて証明してみせろ。


 声の調子は厳しかったが、それがなぜなのかは今の麒麟には解らない。だが、相手もまたスフィアを大切に想っている、という事だけは察しがついた。……似た者同士なのだと麒麟は思う。

 そして次の瞬間、彼の身体は部屋いっぱいの光の洪水に包まれていた。


+ +


「……すっ、スフィア……?」

 翆玉が信じられないものを見る目で『妹』を見る。彼女が突然現れた事にももちろん驚いたのだが、問題は彼女が現在いる位置だった。スフィアが現れたのは、現皇帝が儀式用の剣を青梅に渡した後のふたりの間だった。なんとも運命はというものは酷い。

「……スフィア?」

 現皇帝はあまりのことに自身の娘である事すら忘れて、あおい髪の少女を見つめる。だが、やはりこういった局面でも悪い意味で機転が利くのが青梅という彼女の実兄だった。

「……どこに行っていたのだ? 心配したぞ、我が愛しの実妹よ」


 ――好都合すぎる、これほどまでに、天は私に味方をしているとしか思えぬ。


 青梅は内心で大笑いしたい気分だった。翆玉の最大の弱点にして、自分にとってはがんでしかない邪魔な『実妹』。そのスフィアは、なんと自分のふところにいきなり現れたのだ。常に気に食わない、冷静な彼女でも明らかな狼狽が見て取れる。彼女の白い肌には珠汗たまあせが浮かんでいる。

「……」

 スフィアが今いるのは、現皇帝と皇位を継承したばかりの青梅の間だった。いくら細いとはいえ成人済みの男であれば、彼女のか細い首をへし折るなど簡単だろう。それに剣という手もある。以前負傷した首の傷は信じられない速さで綺麗に治っていたが、それはどうやって治したのか不思議でならない。

 この状況で、スフィアは冷静になろうと己を叱咤し、冷や汗が流れる背中を見せまいと意地を張る。


 ――やはり、この愚兄は私が殺さねばならない。他のなんのためでもない、この碧玉京のために。


 そう彼女は確信するのだが、肝心の武器になるものが石ころ一つなかった。更に分が悪いことに、相手は未来の物体には及ばないものの、儀式のための剣を手にしていた。……圧倒的に不利な状況。これは奇跡でも起こらない限り現状打破は難しい。

 スフィアの白い肌に珠汗が伝う。肝心の実父である現皇帝は、すっかり青梅を信頼しきっている。

 元から先代皇帝の遺児である翆玉をよく思っていない上に、その彼と親しい娘のスフィアも、現皇帝にとっては青梅ほど大事ではなかった。

「ええい! 邪魔をするな、スフィア!」

 いくら寵姫の産んだ実の娘であろうが、自身の目的の邪魔をするのであれば容赦をするつもりはない。それが現皇帝の考えだった。

 そんな彼の想いを汲むふりをして、青梅は彼に囁きかける。

「皇帝陛下にお手数をおかけする必要はありません。……私も大変心苦しいのですが、父上の病を悪化させる可能性は摘むべきだと考えます」

「……うむ。そうだ、殺してしまえ。そして示すのだ! 次代皇帝の強さを!」

 現皇帝は、もはや青梅に交代していた。すでに『元』となった皇帝は、実の娘のためにせめて瞳を閉じる。その様子を満足げに見つめる青梅。それを慌てて止めようとする翆玉。……だが、やはり青梅の方が距離が近い分、有利だった。

「許せ、愛しい我が実妹よ!」


 ――もう駄目だ!

   

 いくら強気なスフィアでも、この最悪の状況では、次に待ち受けるのは痛みを伴う死だと確信せざるを得なかった。


 ――もう、『おわり』だ。


 誰もがそう諦めていた。他でもないスフィア自身も。だが、次の瞬間聞こえたのは聞いたことのない澄んだ音だった。

 その音は、スフィアには聞き覚えがあった。『ヘイセイ』という時代で、日常生活で使われるもの。『コウコウ』という場所で、使われるもの。

「……え?」

「……スフィアが……殺されていない?」

 思わず目を閉じていたスフィアと翆玉は、予想外のことに目を見開いた。その視線の先にあったのは、予想だにしていなかった光景だった。小奇麗に着飾った男が、呻いている。首筋から血をしぶかせながら。

「ぐっ……はぁっ!」

 首筋から鮮血せんけつを飛び散らしながら呻き声を上げているのは青梅だった。その傍らには、『あか』がいた。

「……」

 少年は茶褐色の詰襟に、カッターナイフを手にしていた。その刃先には青梅のモノと思われる赤い液体が付着していた。……どう考えてもその少年が第二十九代皇帝を殺害したという事は、この場にいる者すべての見解だった。

「……麒麟……どうして?」

「スフィーこそ、『どうして』? やらなきゃやられるって、僕に言ったのはスフィー自身だよ?」

「いや、そうではない。確かにそれも『どうして』だが、どうやってここに来た? 勾玉はもう……」

「それが、まだ欠片は残ってたから。ボンドで直したんだ。パズルみたいで大変だったけどね」

 もはや場はしんと静まりかえっていた。見知らぬ少年、しかも第三皇位継承者であるスフィアの実母を殺した『あか』――朱と瓜二つの少年が、『またしても』、今度は義兄殺しの罪を犯した。奴隷たちも特権階級の者も、この事実には驚きを隠せない。

「やはり『あか』は呪われている!」

 そう言い出したのは巫女として名を馳せる女だ。

「『あか』は根絶やしにするべきだわ!」

 奴隷の女も同じく同調する。

「あお以外の皇族など汚らわしい!」

   奴隷の、今度は男も麒麟をねめつける。

「静まれ!」

 それらの声を一言で収めたのは、やはり摂政の翆玉だ。彼の人望は厚く、すぐに騒がしい場は水を打ったように静まり返った。長老も民を纏めるのに一役買っている。

「皆の者、イノリ様のお連れの少年じゃ。悪しきことなどするわけがなかろう?」

「ですが!」

「あんた、忘れたの? あの『あか』の子のおかげで、あたし達の暮らしはずいぶん楽になったんじゃないか!」

 民が騒ぐ中、翆玉は麒麟を見つめる。麒麟の瞳は黒だ。ただ、髪の毛だけが赤い。

「……麒麟、といったね? まずはスフィアを助けてくれて礼を言う。だが、なぜ君がここにいるのだ? それに、なぜそこまでスフィアに……」

 翆玉は途中で麒麟の想いに気づいたかのように口をつぐむ。しかし、周囲はそれでは納得しない。麒麟はカッターナイフの血の付いた刃の部分を乱暴に折る。そして刃の部分をしまう。

「……託されたんです」


 ――『誰に?』

 

 そう一番問いたいのはスフィアだった。

 麒麟はこの時代にタイムトラベルする最中のことを思い出していた。




_____________________

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る