あの後、つまりは見た事も聞いた事もない恰好の、これまた見た事も聞いた事もないあおい髪にあおい瞳の綺麗なお姉さんを連れて、僕は自分の家――寄生木家に帰ってきた。僕たちの家は都内の一軒家だけど、お父さんの職業上、お金がかけられないから中古なんだけどね。そして僕は自分の部屋にあおいお姉さんを連れてきた。

 僕ひとりでも『赤い髪』で目立つのに、『あおい髪』なんて、それこそ前代未聞というヤツだと思う、たぶん。あかとあおが一緒に歩いているところを周りのおばさんがじろじろ見たけれど、僕はあまり気にしない。どうせもう信じてもらうのは諦めてるから。

 でも、お姉さんがあまりにも周りをキョロキョロと見渡みわたすものだから、なぜか僕の方が恥ずかしかった。お姉さんはなにもかもが見た事がないものでも見るように、ちょうど僕が博物館で恐竜の化石とか、古代の遺跡のミニチュアとかを見る時のような顔をしていた。いや、これはお父さんとお母さんが『麒麟が目を輝かせて見てるよ』と言ったのとたぶん同じことだろうと思う。

 さっき大きな男の人にカツアゲされていた時はもう少し薄いあおだと思っていた髪の色は、今はやけに濃い『あお』に変わっている。もしかしてマジシャンとか? そんな事を考えてみるけど、マジシャンだってこんな変……って言ったら失礼なのかな? でも僕から見れば変な格好だとしか思えないから、変っていう。それにしても、このお姉さんの服装って、なんだか博物館で見た縄文時代とか弥生時代のひとのものみたい。パッと見たところの、素材とか、デザインがなんだか古代っぽい。ボロボロになった図鑑に載ってた通りとはいかないけれど、かなり似ている。

 そんなことを考えていると、お姉さんが口を開いた。やけに重々しい声の音程だった。音楽の用語でいうのなら、アルトの声。

「……それで、もう一度訊くぞ? ここはどこだ?」

「どこだって、さっきも言ったよ。日本の東京。お姉さんは僕よりも年上なんだし、そのくらいは『ジョーシキ』でしょ?」

「何度でも訊く。その『ニッポンのトウキョウ』とやらはどこだ?」

「……」

 さっきからこのやり取りの繰り返し。もう何度目だろう、このやり取り。でもなんだか僕が求めていた何かに巡り合えた気がする。なんというか、コンキョはないんだけど、ロマンあふれる何か。でもやはり、繰り返しても解ってもらえないのはやっぱり面倒かもしれない。面倒なのがまたロマンを生むのかもしれないけど。

 そんな事を考えていると、お姉さんは機嫌が悪そうに、僕が出したコーヒー牛乳をじっと見た。じっと見たというか、睨みつけた? なに? 何か気に入らないの? 僕が何か失礼なことでもしましたか?

「……これは何だ? 見たところ液体だが、飲み物か?」

「お姉さんって、コーヒー牛乳も知らないの?」

「なんだその、こーひーなんとかは?」

 真顔まがおだし、とぼけてるわけじゃなさそうだ。困ったことになったけど、なんだか面白い予感がする。中学生になっても、やっぱり僕はこういう『未知との遭遇そうぐう』的な事に弱い。

 お父さんに買ってもらった大量の図鑑は、もう何度も読んで内容を暗記するくらいボロボロだから、それだけ僕も好奇心旺盛なんだろうな。多分専門職のお父さんの影響だけど。

「ええっと、コーヒーを牛乳で……」

 ここでお姉さんは部屋の赤いミニテーブルを強く叩いた。痛そうな音がしたのに、お姉さんは平然と、でもどこかイライラしてるように見える。髪の色がますます濃いあおに染まっていく。一体何なんだろう? 僕の赤い髪よりも不思議だ。

「だから、そのこーひーとやらは何なんだ! それとなんだ、この汚い色は! こんな泥水など飲めるか無礼者ぶれいもの!」

「どっ、泥水? これは美味おいしいんだよ? 飲んでみてよ、お姉ちゃん!」

「っ!」

 あ、しまった。『お姉さん』って呼ぶべきところを『お姉ちゃん』と間違えた! ……お母さんが自分の事を『お姉ちゃん』って呼んでって言うから、つい癖で……。引いただろうな……。

「……」

 でも、お姉さんはどこか悲しそうに僕を見た。これまでの気の強そうな目つきじゃなく、何か大事なものを見るような目で僕を見る。その視線に、らしくもなくどきりとした。なんだろう、心臓の動きが早い。

「……お前の名はなんという?」

「えっ? ……寄生木、麒麟」

「『ヤドリギ』『キリン』とは、『ヤドリギ』は他の樹木じゅもく寄生きせいする樹木で、『キリン』は聖人せいじんの前に現れるという生き物、で正解か?」

「えっと……解らない、です」

「それほど大層たいそうな名を持ちながら、意味も知らんのか? おろか者が! ……せっかくの赤い髪が台無だいなしだな!」

「えっ、髪?」

 この言い方は、少なくとも嫌われてるわけじゃないよね? 初めてだ。僕の髪を、嫌わなかった人は。お父さんに似たんだと思うこの髪は、今まで染めてると決めつけられて誰にも信じてもらえなかった。それなのに……。嬉しくて泣きそうじゃないか。……まずい、涙が出てきた。

「……なっ、泣くな! 男だろう! お前にそんな顔をさせたかったわけではない! 決して!」

「……?」

 思わず目が熱くなった僕に対して、急にこのお姉さんはうろたえた。一体なぜ? 本当に、このお姉さんは何者なんだろう? 少なくとも『悪いひと』ではないと思う。だって、自分から男のひとに絡んでたわけじゃないし、あれはやり過ぎとはいえ、『セイトウボウエイ』なんだから。うん、絶対に悪いひとじゃない!

 僕が詰襟つめえりそでで目元をこすっていると、お姉さんは何か懐かしいものでも見るかのように僕を見た。……本当に、なんなんだろう?

「……お前がしゅに……弟に似ているから、懐かしくなって、な」

「……おとうと?」

 確かにこのお姉さんはいかにも頼りがいがありそうだし、本当に大人の男の人をあっさりやっつけてたし、実際に強いんだろうな。この人に弟がいるのも納得できる。でも、なんでいちいち懐かしそうな顔をするんだろう? それにこんな表情、最近どこかで誰かがしていたのと同じだ。

 ……そこまで考えて、去年亡くなったお母さんのお父さん、おじいちゃんのお葬式の事を思い出した。そうだ、あの時のお母さんの顔と似てるんだ。

「もしかして、お姉さんの弟って、もういないんですか?」

 するとお姉さんは悲しそうに、本当につらそうに、ただ無言でうなづいた。その仕草だけで、どれだけその弟が大事だったのかが何となくだけどわかった。嫌なことを思い出させちゃうなんて、僕は悪いことしちゃった。僕の好奇心はたまにこういう厄介事を起こすから始末が悪いんだ。

 お姉さんは僕の顔を見つめながら、しみじみと思い出すようにぼつりと言った。

「弟は腹違はらちがいだが、腹違いの姉である私に懐いた。素直で利発りはつ勇敢ゆうかんで……顔だけはお前にそっくりだった」

「……『ハラチガイ』? 顔だけは?」

「『腹違い』とは母親が違うということだ。それに、性格は大違いだ。朱はお前のように臆病おくびょうではない」

 ぴしゃりと言われてしまった。今までのいい気分が台無しだ。せっかくこの髪を嫌いではないらしいとわかって嬉しかったのに。……そういえば、大事なことを訊いてなかった。お姉さんの名前だ。名前が解らなきゃ、会話も進まない。

「お姉さんの名前はなんていうんですか?」

「スフィア、もしくはイノリだ。どちらでもいい」

「えっ? それはどういう意味ですか?」

 『スフィア』さんか、『イノリ』さんは答えない。じゃあ仕返しとして可愛く呼んであげよう。お母さんで知ったけど女の人は若く見られればみられるほど喜ぶみたいだし。

「……じゃあ、スフィー?」

「……誰が略せと言った? だが、朱と同じ顔でそう呼ばれるのも悪くない」

 ほら、やっぱり女の人は可愛く呼ばれるのが好きなんだね。そしてそのスフィーは、ほんの少し考えた後で、こう言った。

「どうやら私は碧玉京へきぎょくきょうとは違う場所にいるらしいな。『ニッポン』も『トウキョウ』も、見た事もなければ聞いた事もない。もちろん書物にも載ってはいなかった」

「……『ヘキギョクキョウ』?」

 彼女――スフィーは頷いた。

「私が将来治おさめる帝国の名だ」


+ +


 ――どうやら、ここは碧玉京とは違うらしい。


 私はそのことだけは確かだと思った。目につくもの全てが、見た事もなければ聞いた事もないものばかりだった。満足はできていないが、それなりにつとめている私ならば一つや二つは知っているものがあるはずだ。

 そう考えたのだが、甘かったのだろうか? 目につくものは、すべて私の知らない文字や場所ばかりだった。碧玉京の特徴である、『あお』が皆無と言ってもいい。

 ただ、色合いは違えども同じ『あお』、空だけは同じだった。碧玉京のんだ色とはまるで違う色だったのだが、空が存在することは私を落ち着かせてくれた。足をつく場所も、本当に碧玉京が存在する場所なのかと疑わしいくらい硬い足元だ。歩いていると足が痛くなる。それでも少しでもこの場所について知らなければ何もできない。その前に、まずは深呼吸して落ち着くことが先決だ。

 落ち着いてからまず最初にしたことといえば、狼藉ろうぜきをはたらかれてはいないかと身なりをあらためたことだ。どうやら、どこもおかしなところも、身体の違和感いわかんもなかった。

 

 ――よかった。


 とりあえず責務せきむまっとうする事は可能のようだ。その後再び周囲を見渡してみても、歩いている者たちは皆一様に不健康に見える。確かに私と同じ種類の生き物『ヒト』なのだろうが、私の知る者たちとは遥かに違う。なにもかもが、すべてが違う。

 身なりも違えば、顔の形も違う。その者たちが一斉に奇異きいの目で見てくるが、それほど私は有名人だったのか? 『イノリ』としての名は知られているが、『スフィア』としてはそこまで知られているわけではないはずだが。第三皇位継承者としての名など、巫女としての名、イノリの二つ名のようなものだ。本名が二つ名と言うのも妙な話だが。

 まぁそんなことよりも、私は確かに『儀式』のために巫女装束に着替えて、準備が出来るまでは自室で控えていたはずなのに、なぜ野外にいるのだ? ここはいったいどこだ?


 ――一体どうなっているのだ?


 思わず、朱の形見である勾玉まがたまにぎりしめていた。碧玉へきぎょくで作られたものだが、今となっては何よりも、命よりも大事な私の宝。

 そこでいかにも骨のなさそうな、下品で見るにえない身なりの二人組が声をかけてきた。神聖な水の色であるあおをわざわざ汚したような袴のようなものを穿いている。裾が長いのに、引きずって歩くそのさまは、いかにもだらしがない。


「ねーちゃん、金くんねぇ?」

「その変なカッコ、コスプレ? まぁそんなことより、金だよ、かぁね!」

「あれ? ねーちゃん俺らが怖いの?」

「ならどうすればいいのかくらい、小学生でも知ってるよな?」


 ――何が言いたいのだ、この男どもは?


 『かね』とはきんぎんだろう、それは言い方で察したが、この巫女装束しょうぞくの中にそんなものが入ると本気で考えているのか? だとしたら相当暮らしに苦労するような生活環境なのだろう。だが、その派手な見たこともない服装を着れるのならば、ちゃんと食糧は確保すべきだ。

 そんな簡単なことすらも理解できないのか? ならば、十分な教育も受けられないのだろう。……碧玉京ももっと学ぶ場所を用意すべきだ。義兄上あにうえ進言しんげんするとしよう。


「……なんだぁ? そんなに俺らがこぇーの?」

「だったらどうすりゃいいのか、すぐわかるよねぁ、ねーちゃん!」

「金だよ! 金出せって言ってんの!」

「コスプレするくらいなら結構持ってるよなぁ?」

 朱に姉と呼ばれる時はこの上ないよろこびを感じたが、この男たちの呼び方は不快極きわまりない。第一、仮にも碧玉京第三皇位継承権へきぎょくきょうだいさんこういけいしょうけんを持つこの私に向かって、なんという口のき方だ? ……やはり、我が国に足りないのは学ぶ環境だ。

 そんな事を考えていると、いつの間にか手首をつかまれていた。そして二人がかりでかかってくるつもりらしい。全く、愚か者というものはどこまで経っても救いようがない。あわれになって男たちを見つめると、なぜか喜んでいる。……何がおかしいのだろうか?

「このねーちゃん、二対一で俺らに勝てるとでも思ってんの? バカじゃね?」

「女が勝てるわけね―じゃん!」

「このまま手首折られる前に、大人しく金だそうな?」

「そうそう。抵抗するだけ無駄だから」

 そう、あいも変わらずのわけの解らないことをぐだぐだとつぶやいたかと思うと、元から品の欠片もない顔面で不快な表情で笑う。……我ながら、たかが男の二人ごときに本気になるなど、自制心じせいしんが足りない。しかし、今は解らない事ばかりで混乱していたところだ。槍も弓も見当たらないことだし、こういう時には武術が一番の精神安定せいしんあんていになる。ただでさえ混乱しているんだ、少しくらいは殴っても良かろう。

 そういうわけで、身分もわきまえない無礼者をきたえ直してやるつもりでいたのだが、子供の、少年独得の声が耳に届いた。そしてそちらを振り返った時、私は夢幻ゆめうつつの中にでもいるのかと思った。


 ――朱。


 あの時、我が母上を殺したとがで殺された、我が最愛さいあいの弟がそこにいた。どこか呆然としたようにこちらを見つめる少年。その赤い髪は間違いなく朱だ。『あお』の帝国である碧玉京において、唯一無二の『あか』。それは朱、お前ひとりしかありえない。

 ……泣いてしまいそうだった。もう二度とうことが出来ない、私が誰よりも愛する者、私が一番に守るべき者、……私が誰よりも逢いたかった者。

 名をことにしてしまえば消えてしまいそうだったから、何も言えなかった、言わなかった。

 その朱は、周りと同じ奇妙なころもをまとっている。


「『イジメ』は良くないですよ!」


 なんということだ、朱までおかしなことを口走くちばしるようになったのか? それとも黄泉返よみがえりの過程かていで狂ってしまったのか? ……私のことすらも忘れてしまったというのか!?

 しばらくの問答もんどうすえに、相手の少年が朱ではないと確信した。失望しつぼうとはまさしくこのことだ。

 外見はどう見ても朱なのに、オドオドとしたところは全く違う、声の調子も軟弱なんじゃく過ぎる。私の朱ならば、迷わない、立ち止まらない。そんな朱だからこそ私も愛した。すでにもうこの世にはいないけれど、今でも愛している。

 その朱によく似た少年は、他の者と同じく妙な身なりをしている。相手が朱と同じ外見だからといって、私も油断した。思わず口走っていた。本当に、私としたことが。誰かに頼る、尋ねるなど情けない。自分の事は全て自身でやらねば意味がないのに。

『ここはどこだ?』と。


+ +


 その朱に似た少年は『ヤドリギキリン』と名乗った。

 我が国に伝わる文献ぶんけんにも『ヤドリギ』という文字は『寄生木』とも書いたり、『宿木』とも書かれていた。あまり意味は変わらないのだろうが、いかにも脆弱そうなこの少年には『寄生木』の方が相応ふさわしいのではないかと思った。朱のような利発な表情ならば『宿木』だと思うが、軟弱者ならば『寄生木』だろう。

 『キリン』も、目の前の少年とは真逆と言っていい。才能の片鱗へんりんを感じさせることもなければ、勇気の欠片もなさそうだ。ただし、その赤い髪だけは嫌でも朱を思い出させる。


 ――朱、私の『弱さ』と『罪』の象徴しょうちょう


 今でも鮮明せんめいに思い出せる、あの時のことは。嫌だと思っても心から消えない。朱のためならば、私は喜んで代わりに死んだ。進んで命を投げ出した。

 皇位継承権こういけいしょうけんこそなかったが、あの麒麟児きりんじぶりは、まさしく王のうつわだと思っている。……死んだ、と理解はしていても。

「……お姉さん?」

 麒麟が私を心配そうな眼で見る。それだけ感傷かんしょうひたっていたのだろうか。見た事もない品々が所狭ところせましと並ぶひどくせまい空間は、彼の部屋だそうだ。……やはりここは碧玉京などでは断じてない。我が碧玉京はもっと広大こうだいな帝国だ。こんなみみっちい空間は私の部屋よりも遥かに狭い。私の部屋とてそれほど広くはないが、ここよりはましだ。

「……すまない、考え事だ。ここは『ニッポンのトウキョウ』だと言ったな? では残念ながら、我が碧玉京とは違う国だ。そして、ありえないことだが、どうやら私は『移動』したらしい」

「『移動』?」

「ああ、そうとしか思えない。様々な可能性を当たってみたが、未熟な私が考えつくのはただこれだけしかないんだ」

 ……悔しくてならない。私は碧玉京、第三皇位継承者スフィアだ。なのにこんな自分より遥かに幼い少年の前で、よりにもよって迷うなど、あってはならない! なにが、皇位継承者だ! なぜ私はこれだけ未熟なのだ!

「……あのー? 大丈夫?」

「大丈夫だ! お前は何もあんずるな! 私が必ずこの状況を打破だはしてやる!」

「うん。でも僕はなんにも困ってないよ?」


 ――なんたることだ! この私が年下に気を使われているだと!? あってはならない、大恥だ!


 文字通り頭をかかえる。大分時間が過ぎたが、目の前の少年は巻き込んでしまった対象だ。私の考えが確かならば、この場所と碧玉京の相違点を整理しておいた方が後々のためではないだろうか?

 そう考えた私は、麒麟と名乗った少年に質問してみることにする。まずは碧玉京を知っているかだ。

 「……碧玉京という帝国ていこくに聞き覚え、思い当りはないか?」

「『ヘキギョクキョウ』? ……ないです」

「やはりか……。では、この国の統治者とうちしゃは誰だ? 摂政せっしょうか、それとも皇帝こうていが直々に統治しているのか?」

「え……僕、そんな難しい言葉なんて知らないよ? 聖徳太子が『セッショウ』だった事は習ったけど……」

 ……大丈夫なのか? この少年は。いや、この『ニッポン』とかいう国は。この年頃の少年ならば知っていて当たり前だぞ? どうやらここは予想以上におかしな場所らしい。いや、おかしな国と言った方が的確か?

「その『ショウトクタイシ』とやらは私は知らん。義兄上にでもご意見を伺おう。……私のいたのは碧玉京で、統治しているのは摂政の義兄上――翆玉すいぎょく様だ。父王ちちおうは原因不明の病でせっている。ここまでは理解できたな?」

「……何を言ってるのかさっぱり解らないよ?」

 私は説明が下手だったのか? これまでの鍛錬たんれんは何だったのだ? 物心つく前から学問も武道もたしなんできたが、まだ鍛錬は足りなかったらしい。朱と会話した日々が懐かしい。朱ならば私の言うことをすんなり理解したというのに。

 私が再び頭を抱えていると、少年は何かを持ってきた。それは少なくとも碧玉京では一度も見た事のない、薄い海苔のりのような素材でできた書物のようなものだった。見た事もない物質でできていて、どういう原理なのか、我が国のどんな書物よりも厚みがあり、じ方も独特どくとくだ。……というか、本当にどのように綴じているのだ? しかも並の文献よりも遥かに分厚い。

「これは辞書って言って、えっと、言葉の意味がってる本……かな。たぶん」

「……ほう?」

 それは非常に便利だ。麒麟がぺージをめくるたびに、私も知らない語句――というか文字すらも判別不能はんべつふのうなものがほとんどだが――の意味が載っている、らしかった。この発想はっそうはなかった。これは是非参考にして、貧しい民のために配布はいふしよう。

 そんな事を考えていると、少年は私の言った言葉の意味を全て調べ終えたようだった。……この『素直さ』だけは朱に似ている、と認めてやらなくもない。

「……うん、僕の知らないことばっかりだ。お姉さんのその変な服も、その『ヘキギョクキョウ』では『普通』なの?」

「普通? ……いや、これは豊穣ほうじょうを太陽に願う祈祷きとう儀式時ぎしきじ巫女装束みこしょうぞくだ。私は太陽信仰たいようしんこうはしない主義だが、帝国人口ていこくじんこう大多数だいたすう農耕民のうこうみんだ。農耕民は太陽を異常に信じるからな。私は、というより水信仰だが、民のためならば私個人のこだわりなど捨てるべきだ。それが皇位継承者の責務せきむだ」

「……その辺のことは載ってない。ねぇ、西暦せいれき何年頃の話をしてるの?」

「『セイレキ』? なんだ、それは?」

 ここで少年はひどく驚いた顔をした。……何がそれほど驚くのだ? 確かに我が国はこよみの作成には大いに他国に後れを取ったが。そこまで驚くことでもあるまい? しかし少年は、またもや意味不明な事を言い出した。

「お姉さんの誕生日は、何月何日で、血液型は何型?」

「……たわごとなど聞かんぞ? なんだそれは? 生誕日ならば、母上から空が重い日、極度に寒い日に生まれたと聞いている。『ケツエキガタ』とは何だ?」

 そこで今度は彼は急に楽しそうな顔をした。瞳をきらきらとかがやかせて、まるで仔オオカミのように私をじっと見てくる。


 ――朱の面影がある……なぜだ?


 そんな私の疑問など無視して、麒麟はわけの解らない事を言い出した。

「古代からのタイムトラベルだ!」

 だが、私にはどう応えていいのか、皆目見当がつかない。

「……」

「……」

 しばらく私と、この種によく似た少年は黙り込んだ。


+ +


 約五分ほど、ふたりは無言で見つめ合った。実際には本当に少しの時間ではあるが、彼ら――特に麒麟には十分じゅっぷんにも二十分にじゅっぷんにも感じられた。相手のお姉さん――スフィーは何事かを考え込んでいる。怒ったような顔をしたり、悩ましげな表情をしたり、再びまた怒ったような顔をしたり……。

 実際に彼女は様々な事を考えて頭がパンク寸前すんぜんだった。『自分のいる場所が碧玉京ではない』ということまでは理解可能だったのだが、自分よりもはるかに幼い目の前の少年が、自分より多くの言葉を知っている事に驚いた。

 まさに、彼こそが実は麒麟児なのではないか? そんな事を考えていた。そして何よりも謎の言葉――一度も耳にした事のない異国の言葉『タイムトラベル』とは一体何なのかを考えていた。『タイム』という言葉は一度だけ異人いじんが使っているのを聞いた事があるが、尊敬する義兄でさえも意味は知らなかった。……それほどまでに高度な事を容易たやすく言ってのける少年には可能性を感じずにはいられない。

 更に『赤い髪』という特徴が、やはり嫌でも朱を思い出させた。


 そんなスフィア、もしくはイノリの考えている事など、もちろん麒麟の知るところではない。彼は彼で、これからの事を考えていた。

 考古学者こうこがくしゃで数冊の書籍しょせき執筆しっぴつしたことのある父が、口癖くちぐせのように言っている言葉があった。『タイムトラベルが出来たらなぁ。もっと詳しい研究が出来るのに……』。その『タイムトラベル』が実際に起こったのだ。目の前のスフィーは嘘を言うような『悪いひと』には全く見えないし、始終しじゅう真面目な顔を崩していない。その彼女が着ているのは、父がよく話して聴かせてくれるような、粗末そまつ素朴そぼくな素材でできているとしか思えない謎の服。しかも彼女は『イジメ』という言葉すら知らなかった。……それと全く根拠こんきょにはならないのだが、自分と似たような常識外れの『あおい髪』だ。

 これらの要素から、彼女は『大昔からタイムスリップしてきた』と少年は判断を下した。そして、更に言えば少年はそのタイムスリップというものに父の影響を受けて、大変な興味を持っていた。SF小説も割と多く読むのだが、作り話と実際の体験は全くの別物であることは彼にもよく解っていた。

 

 そして二人は同時に口を開く。出てきた言葉はふたりとも同じだった。


「あの!」


 気まずくなって、互いに視線を逸らした後、再び向き合う。今度こそ、という意気込みで。


「なんだ?」

「なんですか?」


 またもや二人同時に言ったのだが、スフィアは無言で麒麟に先を促す。これだけ話しかけようとしているのに声が重なっては会話が進まない。


「どうやって、この時代に来たんですか?」

「……時代? どういう意味だ?」


 ここで麒麟は『タイムトラベル』について、自分の知る限りのことを話した。横道に逸れがちだったが、スフィアは無言で頷き、定義ていぎ概念がいねんを大体理解した。

「つまり、『たいむとらべる』というのは時間を移動する、という事でいいのか?」

「まぁ、そうです。……驚かないんですか?」

「私が気づいた時にはここにいた。確かにいつも通りに『儀式』のためにこうして巫女装束に着替えて準備している間に、だ。突然だった。その原因が、その『たいむとらべる』とやらならば、何の疑問も残らない。……どこに驚く要素がある?」

「……ないですね」

 只者ただものではないこのお姉さん相手に、実は大変な事態なのではないかと理性が告げるのだが、一度湧いた好奇心はなかなか収まらない。麒麟は自分でも抑えきれないほどの好奇心に飲みこまれそうだった。だが、それを制して、冷静に麒麟なりに質問を重ねる。

「それで、何か心当たりはないんですか? 僕が読んでるSF小説とかだと、なにか合図みたいなものがあるのが定番ていばんなんです」

「……『定番』という言葉の意味は、その書物で調べてみるとしよう。心当たりはただ一つ、朱の形見かたみの勾玉が急に光り出したのだ。辺り一面を包み込むような強烈な光で、私もその中心部にいた。だからその『たいむとらべる』とやらに巻き込まれたのだろう」

「勾玉?」

 スフィアは衣の前をくつろげて、その中から見事なあおい宝石でできた勾玉を取り出した。麒麟が知るような整ったカタチではないのが残念なくらいの、見事な……多分サファイアでできたものだ。

「……キレイ」

「朱の形見で、私の命だ。見事な碧玉だろう?」

「『へきぎょく』?」

「碧玉がどうかしたか?」

 麒麟はすぐに辞書で『へきぎょく』を引いてみた。そこには『サファイアの別名。碧玉』と書かれていた。これで更に確信を強める。彼女――スフィーが古代人なのだと。

「……ところで、お前の着ているその変な衣は何だ? 軍にでも所属しょぞくしているのか?」

「え、ぐんたい? いや、これは制服ですよ! 僕は今年から中学一年生で、十三歳なんです!」

 先月誕生日を迎えたばかり、という事はせておいた。そして制服を着るのが中学校からで、中学校というのは勉強をするところだと彼女に説明した。もっとこのお姉さんと仲良くなりたいから。……麒麟はいつの間にか彼女の事を完全に信頼しんらいしきっていた。

 彼女は難しそうな顔をしたが、何かを思いついたらしい。

「……そろいの衣で同族意識どうぞくいしきあおり、士気しきを高める。しかも所属も一目瞭然いちもくりょうぜん。さすがは、我々よりも進化しているだけのことはある! よし、決めたぞ。私もその『チュウガッコウ』とやらに行く! いや、行かせてくれ!」

「えっ? ……スフィーには『高校』だと思う。中学生は無理だよ。そんな大人っぽい中学生なんて見た事ないもん」

「『コウコウ』?」

「中学より年上の人が行く学校だよ。スフィーは頭が良さそうだし、高校の方がいいと思うよ? それに僕の父さんも、きっとスフィーは大歓迎だよ!」

 そして麒麟は自分と彼女が実は似た者同士なのではないかと思い始めていた。『普通』ではない対照的たいしょうてきな『髪の色』、互いに互いのことを『知らない』、そしてなにより、麒麟も彼女と同じく『宝』を持っていた。

「……これは僕の『宝物』。ルビーの勾玉だよ」

「『るびー』は知らんが……見事な紅玉こうぎょくの勾玉だな。これはどうしたんだ?」

「うちに代々伝わる『家宝』だから、きっと僕の身を護ってくれるって言って、渡してくれたんだよ。……ちょうど、スフィーのと似てるでしょ?」

 麒麟の勾玉も、ルビー自体は美しいのだが、カタチがいびつだった。下手をすればただの石ころとして捨てられていたかもしれない。しかしそうならなかったのは、素材があまりにも美しかったからだ、と父は仮説かせつを立てている。根拠があまりにも弱いので、相変わらず学会では相手にされないけれども。

「これはもしかしたら、勾玉の縁かもしれん。いつ戻れるのか不明な以上、どこか雨のしのげる場所が欲しい。……すまないが、麒麟の家庭に厄介やっかいになってもいいだろうか?」

 今までの尊大そんだいな態度が嘘のように、スフィアがそう言って頭を下げた。若干強く唇をんでいるようだったのだが、その理由は、彼女について何も知らない麒麟には当然わからない。

 少年は微笑んだ。見知らぬ者との出会い、見知らぬ憧れの世界に行けるかもしれないという根拠のない期待が彼をそうさせていた。


「顔を上げてよ。僕のうちでよかったら、ずっといてもいいんだよ? これからよろしくね、スフィー!」

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