第五章 EXPO'2300,Mars6

 痛いのか、熱いのか、心臓の鼓動とともに右の額あたりが疼く。波打つような疼痛に紛れて、時折話し声が耳へ届いた。意味のある言葉なのだろうが、耳から身体の中へ入って来た途端、ぼろぼろと崩れ去る。左側には固い感触。ぐらぐらと上と下がどちらにあるのかがおぼろげで、身体の奥が迷っている。

 ひんやりと冷たい感触が熱源に押し当てられ、冷たさが痛みとなって頭を覆う。身じろぎすると、一度は離れるが、またすぐにやってきた。今度はより慎重にそっと触れられる。

「そんなもの放っておけよ、ローズ」

「私の名はローズマリーよ」

 低く抑えられたその声はよく知るもの。よく知る名前。

 頭の中の厚いもやが少しずつ晴れてくる。まぶたの裏の明るさが、目にしみた。

 侮蔑を込めた鼻を鳴らす音と、地を蹴る音。それらが遠ざかっていくと、反対に近づいて来る足音があった。どこにも迷いがない、靴が行き先をインプットされているかのような真っ直ぐな足音だ。

 すぐ傍の気配が勢いよく離れる。

 扉を開く音と同時に彼女の怒りを孕んだ声が飛び出す。

「乱暴しないって言ったのに!」

「ローズ。こいつのせいで捕まった仲間がいる。それを苦々しく思っている者が大勢いる。怪我程度で済んだのが奇跡だ。お前もわかっているだろう?」

「でも!」

「これ以上あいつらが悪さできないように一緒にいてやれ」

「兄さんは?」

「準備の時間だ」

 がたがたと物が動かされる。それを取りにきたのか、それとも彼女を見に来たのか。

 扉が閉まる音と同時に目を開く。その先には見慣れた後ろ姿があった。金色の尻尾と、白いシャツにグレーのパンツ。最後の姿のままのローズマリーだ。

 彼女はしばらく閉じられた扉を見ていたが、突然頭を強く左右に振り、シルヴィオを見た。その様子をずっと眺めていたので、真っ向から目が合う。

 そらされるかと思ったが、彼女はそのまま近づいてきた。

 シルヴィオもゆっくりと身体を起こす。手を身体の前で縛られていた。足首も同じようにガムテープでぐるぐる巻きになっている。

「気持ち悪いとか、頭痛とかはない?」

 声を出すのが苦しくて、軽く首を振る。目をそらしたのはこちらが先だった。頭を揺らすとめまいがした。

「ごめんなさい。怪我をさせることになるなんて」

 片膝をついて傍に座り、手に持っていたタオルをシルヴィオの額に当てた。固い感触がする。保冷剤に巻いてあるらしい。

 すぐ後ろが壁になっているので、そこに身体を預けると幾分ましになった。

 部屋はコンクリートがむき出しで、木箱がいくつも重ねられている。輸出用の安い合板だ。そのうちの数箱が開き、中から銃器が見えている。手榴弾も見えた。

 黙っているのはなんと聞けばいいのかわからないからだ。

 なぜどうしてに、自分の求めている答えが得られるとは思えない。

 だが、明らかにローズマリーは待っていた。

「兄貴いたんだ」

 一つ目の質問としてはひどく間抜けな物になる。

 ただ、彼女にとっては沈黙の辛さから抜けられる救いの手だった。

「前に誰かが、ローズマリーは一人っ子か弟妹がいるんじゃないかって言ってたから」

「うん……私ね、養女なの。赤ん坊のときに、今の両親へ預けられた。その事実は早いうちから話してくれていたし、両親もとても私を愛してくれたから気にしてなかったわ。兄がいるというのも、十五くらいのときに本人がやってきて、いろいろと、証拠を見せてくれて知った。兄弟がいなかったから、結構嬉しかったの」

 ローズマリーを手放したのは、彼女の今の両親に乞われてだった。子どもを授かることができなかった彼らは、遠い親戚の子を望んだ。四人目の子どもだったこともあり、ローズマリーの産みの親は、裕福な家庭で育てられるのも悪くないと周りに説得され彼女を差し出したのだ。多少の複雑な心内は、赤ん坊の幸せとやりとりされた金額で霧散した。

 彼女自身も、そこはまったく気にしていなかった。経済状況もあるだろう。第一、十分幸せだったから。

 突然現れた兄も、その点は何度も強調した。産みの親は決してローズマリーを邪魔だと思っていたわけではない。そのときの環境では、それが彼女のために一番だと、誰もが結論づけたのだと。

 いい加減世の中と金の仕組みをわかる年頃だったので、単に、欲しかった兄弟が現れ純粋に嬉しかった。

 ただ、両親たちが二人が会っていることをどう思うかまではわからなかったので、月に一度か二度会うことはずっと内緒にされていた。

 兄や兄の友人たちの話はとても興味深く、妹だと可愛がられることが楽しく、彼らが何を目指しているかを知ったときには驚きはしたものの、さほど反発を覚えることはなかった。ファーストドーム、ファーストコロニーの者たちは潜在的に反政府であったし、歳を経るにつれ、政府の横暴が目にあまった。火星に閉ざされ、閉じ込められたその努力を横からすくい取っていく敵だと、ローズマリーも認識していたのだ。

「SFCに来たのも情報を得るためか」

「違う! それは違う。それだけは、本当に違うのよ。兄さんも私がスブリマトゥムに関わるのはあまりよく思ってなかった。だけど、ずっと付き合って来ていた人達がみんな関わるようになれば、自然と私も関わらずにはいられなかったの。ファーストドームのあたりではね、英雄なのよ」

「それでも、暴力で思い通りにしようというのは、賛成できない」

「私だって。話し合いでことを進められれば一番いいと思う。けど、火星政府は、連邦政府はまったく聞く耳を持たないし、カーチス様は投獄されてしまった」

 もともと、話し合いを持とうというのが間違っているのだ。

 連邦政府は火星を話し合いの相手とは最初から思っていない。火星はあくまで連邦政府の直轄地であり、独立したものとして数えられてはいないのだ。人が溢れる地球の受け入れ先でしかない。

 反対に火星で生き延びた人々は、故郷の地球を半ば諦めていた。火星をわが国として、この地で生きていこうと決意した人ばかりだった。磁気嵐に閉ざされた際、地球がまったく手段を講じようとしなかったのは事実だ。当時の技術では何もできなかったというのもまた事実だった。

 互いの主張は平行線ですらない。

 地球連邦政府の前に、訴えは紙くずのように捨てられたのだ。

 せめて、初期のアプローチがもう少し違っていたらと言う者もいた。

 磁気嵐が弱まり、連邦政府との交信に、火星の人々は歓喜し、受け入れてしまったのだ。その後の展開を知るよしもなかった。

「私も、暴力なしでじっくり話し合いをしていければいいとおもってた。だけど、そう悠長にしていられないの」

「……ヴンダニウムだな」

 それまでは、うっすらと諦めのような笑みを浮かべて話していたローズマリーの表情が、一変し、険しく、そして青ざめた。

「俺の端末ないけど、殴られた場所に置いてきたのか?」

 彼女の答えはない。だが否定もしなかった。

「なら、きっと政府も知ってる。終わりだよ」

「なんで!」

 ヴンダニウムは、金の泉だ。月で失敗した連邦政府は、ガニメデでのヴンダニウムの権利はすべて政府に帰結すると約定を取り交わした。

 火星でも当初はそのようになっていたが、度重なる調査で火星にヴンダニウムはないと思われている。もしこのまま、スブリマトゥムの望む通り火星の独立を政府が認めたとしたら、ヴンダニウムはそのまま火星のものになっただろう。

 だが、少しでもその気配を感じれば、連邦政府は容赦しない。

 その徹底ぶりはガニメデの開拓時代を見れば嫌というほどわかった。

「横暴よ。地球は、連邦政府は、ヴンダニウム市場を独占して、完全に流通を制御してるのよ? 加工する場所も限られているし、民間での研究も許されていない。技術の進歩を妨げる以外の何ものでもないじゃない」

 青い顔をしながらも、彼女は語気荒くシルヴィオを責めたてる。

 普段はどこか大人なローズマリーが、まるで別人のように話し続ける姿を、じっと黙って見ているとやがて黙り込んだ。

「何も言ってくれないのね」

「言ったろ。俺そーゆうのよくわかんねえから。ローズマリーが今なんて言って欲しいかなんて、わからないよ」

「そうじゃなくて! 別に、言って欲しい言葉があるわけじゃなくて……」

 青い、海の泡の瞳が伏せられる。微妙な沈黙が二人の間におりる。

 正直、パイオニアの気持ちを理解することはできないし、それに対して論じるだけの知識もない。ローズマリーが望むような口論もできる気がしない。

 結局は自分の知識の枠で話を進めることになるのだ。

「政府が、ヴンダニウムを独占し、流通を制御しているって言っただろ?」

「ええ。そうよ」

「なんでだと思う?」

「え?」

 ぽかんと彼女は目を見開いて口を開ける。

「何をいまさら。そりゃ、ヴンダニウムは金になるからでしょ? 資金を得るために、全部自分たちの物にして高い金を要求しているんだわ」

「そんなことしたら、反発があるってわかってるだろう。現にそういった団体だってあるわけだし、今回みたいなことにもなるわけだし」

 シルヴィオの言葉に眉をひそめる。

「何を――」

「そこまで考えてるならもっと物事の裏を見てみるといい。それに、ローズマリーにはもう一つヒントがあるだろ。なんで俺が、火星にはないと調査結果の出ているヴンダニウムが火星にあるとわかったか」

「なぜ、シルヴィオが気付いたか……」

「まあ、調査っつっても抜けがあったんだろうけどさ。どこで見つかったかなんてのはわからないけど、ファーストドーム内にあることは知った」

 本来なら、SFCで数年働けば嫌でも気付く事実で、誰も教えようとはしないし、そして、誰も公言しない。ただ、当然の用に受け入れられていく。

 頭のいいローズマリーだから、言われなくてもいずれたどり着いただろう。

「シルヴィオが気付くこと……あのとき――変異が」

 そう。あってはならない変異のステージ2が火星で起こっていた。

「ローズマリーはもうステージ2からステージ3への移行も知っているだろ? ステージ1の変異ならよくあることだ。けど、火星ではステージ2は起こらないと言われてる。なんでか、もうわかるだろ?」

 本来なら自然と知ることだ。

 それを、無理矢理直面させようとすれば、当然の反応がある。

「嘘よ。そんなの……だって」

「嘘じゃないよ。事実だ。だから、政府はヴンダニウムをすべて管理しようとするし、根こそぎ発掘して隔離しようとするんだ」

「だって、それじゃあ、火星は――」

「変異の原因はヴンダニウムだ。それが事実だよ、ローズマリー」

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