第五章 EXPO'2300,Mars5
携帯用端末には、職員の位置を知らせるGPSがついている。ただし、今日のこの磁気嵐の中では使えない。
結局シルヴィオの最後の足取りは、ファーストドームと称されるうちのαゼロファイブへ移動したところで途絶えていた。
しかしそれは一緒に昼食摂っていた青年の証言でとっくにわかっていることだ。きっと行ったであろう場所もそうそうに突き止め、人をやっている。今は報告を待っているところだ。
昼食に追いやったあと、二地球時間しても戻って来ない時点でおかしいという話になった。シルヴィオだけなら、花の話にそれこそ花が咲いてしまったら、一、二時間あっという間に過ぎてしまうだろう。何しろ彼のシフトの時間ではないわけだから、誰も文句を言わないし、それで本人の疲れが取れるなら仕方ないとも言える。
だが、ローズマリーが一緒となると少し事情が違った。
朝の九時から夕方五時までをこのSFCのテントで過ごす。無理矢理週休二日にさせてはいるが、きっちり、この三ヶ月そうしてきた。昼の休憩は一時間だ。摂る時間が多少変わり、三十分程度伸びることはあっても、誰も咎める者がいないからと好き勝手するような彼女ではなかった。
初めに気付いたのはクレイグだ。少し調べようと、三本ほど電話を掛けて、異常事態を知った。
「ファーストドームなんて、あの馬鹿」
いつもにこやかな表情を崩さないよう努力しているニコラスが、珍しく真剣な顔で舌打ちをした。他の職員も自分たちの仕事をこなしながら、彼らの方を気にしている。連絡はアイリーンの端末に入る。それまで菓子や紅茶のカップがのっていたテーブルの中央に置いている。茶器は片付けられていた。
「ロックウェルくんあたりが連絡してくれそうなものなんですがねえ」
しかし、アレクセイから話を聞いた感じでは鉄砲玉のように飛び出していったシルヴィオを必死で追いかけていたそうだ。彼女にも余裕がなかったのだろう。
「そのシルヴィオのお友だちは上手く丸め込んだのか?」
「ええ。そこら辺はぬかりなく」
「得意そうだな」
「シルヴィオに付き合ってきましたからね」
これぐらいの後片付けはお手の物だ。
普段ならここでアイリーンからさらにイヤミが飛び出すのだが、今日はにやりと笑っただけでまた椅子にもたれ、端末へじっと視線を注ぐ。
磁気嵐の影響が、なんとも腹立たしい。よりによってこんな日に騒ぎを起こさなくてもいいだろうと、また、舌打ちをする。
と、目の端で緑色の光がちらりと見えた。
途端にアイリーンが端末へ飛びつく。音声は使えない。文字での連絡だ。それを見た彼女の緑色をした瞳が揺れる。
「なんと?」
クレイグが促す。本当なら何があったと急き立てたいところだが、相手が相手なのでそれだけに留めた。
彼女は端末をそのままクレイグに渡し、周囲で聞き耳を立てている者たちにも聞こえるようはっきりと言った。
「あいつの端末と、レンタルしたと思われる車が放置されていたそうだ」
「他には!」
「草を踏み荒らした足跡が数人分。あいつ、あの身長じゃ靴のサイズそれほどでかくないよな?」
「8.5か、そこらだったと思います」
「9.5やそれ以上のがあったらしい」
誰か、他に男性がいた。そして、万博中の携帯を義務づけられている端末を放り出していったということだった。
「道路にタイヤの跡はなかったそうだ。事故というわけではないな」
最悪の事態だろう。
危惧していたことが、起こってしまった。そう考えるべきだ。
アイリーンは立ち上がる。
「調べに行った者が帰って来たらその報告を持ってこさせよう。正直我々にできることは少ない」
重い息を吐きながら首を振った。自分を諦めさせるような言葉だった。
しかし、それに異議を唱えたのはクレイグだった。
「すぐにチームを編成して現場へ向かいます」
「悪いが、素人の出る幕じゃ――」
「いえ、我々の仕事です。そして、あなたのね」
引かないクレイグの態度にアイリーンは眉をひそめた。それは不快感を表すものではなく、珍しい行動に警戒するような表情だった。
「ヴァレリー。全員出勤だ。非常態勢とする」
ニコラスの後方でこちらを気にしていた社員の一人にそう言うと、クレイグはアイリーンに端末を差し出す。
そこには写真がいくつかあった。文字だけでなく、不審者と思われる者の足跡も一緒に送られてきていたのだ。
「ステージ2です」
「なにっ!?」
「まさか……」
ニコラスはめまいがした。血の気が引くというのは、こんな体験なのかと思う。
「それは、本当に?」
アイリーンがクレイグに詰め寄る。彼はうなずいて写真の隅を指した。
「セージは、これはコモンセージですが、運搬時に第一ステージへ移行します。ただ、この時点で特に害はありませんし、問題ありません」
変異にはステージ3まである。このステージは変化の大きさや振れ幅ではなく、生態系や人、環境に害があるかどうかで判断される。ステージ3は明らかに有害なものだ。以前ニコラスが使った人を気絶させるガスを発するエゴマの種は、ステージ3に分類されていた。他にももちろんもっと凶悪なものがある。月下美人は特定環境下での育成がステージ3を誘発するとされた。スイートピーももちろんステージ3の変化だ。一株がどこまでも大きくなるのは環境をがらりと変える可能性があった。
セージのステージ1は葉の形の変化。これは兆しとも呼ばれていた。初めて実験をする植物の変異の兆し。それがステージ1だ。
ステージ2は、ステージ3へ移行する前段階の変化だった。
宇宙船で運んでいる状態では、セージはステージ1で留まる。だが、月とガニメデでは一週間もすればステージ3まで変化した。第二段階はほんの数時間だ。
「根もとの部分が木本化しています。つまりそれなりに長い間咲いているのでしょう。本来火星ではステージ1で終わると報告されていた。月やガニメデのような変化はないとね。これは予想していたことで、だからこそ火星で自生種が発見されても問題視してきませんでした。むしろ、火星は植物を育てられると思っていた」
だが、ステージ2がある。この写真の中に。
「もしかしたらとても長いスパンで変化しているのかもしれない。今までの実験を考えればないことだと言いたいのですが、百年単位の長期的な実験は日数的に無理だった。絶対ないとは言い切れない」
変異は爆発的だ。瞬間的に起こる。早くてコンマ何秒。長くても二十四時間もすればステージ2の兆候が見られる。今までのどれも、起こるか起こらないかのどちらかだった。
それでも、特に変化のない品種に対しても、十年、二十年単位の実験はずっと続けられてきている。しかし、百年、二百年単位となるとなかなか結果は出ない。
「自生したものが変化しだしている。つまり、アレがあるのか?」
アイリーンは目を伏せ、つぶやいている。そして最後には頭を強く振った。
「わかった。ただ、上に知らせるにしてもしっかりと証拠が欲しい。そちらで採取したデータを添えたい」
「それがいいでしょうね」
クレイグの言葉にニコラスもうなずいた。アイリーンも強くため息をつく。
「しかし、これでシルヴィオは確実だな」
きれいな爪をがりがりと噛んでいた。薄いピンク色のマネキュアがぼろぼろとはがれる。
「こんな重要な発見をして連絡をしてこないというのが、決定的ですね」
「彼女の親戚とやらと観光をしているって可能性を捨てたくはなかったんだがな……」
「そうですね、そのお兄さんとかとどこか出かけてる可能性とかね」
ないとわかっていても、そうすがっていた。
ところが――、
「なんだって?」
クレイグの素っ頓狂な声に、ニコラスは首を傾げる。課長は真っ直ぐ彼を見ていた。アイリーンも不思議そうに視線を二人の間に置いている。
「ええと、可能性の話ですか?」
「そうじゃない。兄だと?」
「ええ。アレクセイたちに言っていたそうですよ。親戚が、兄がいると」
「それはまずい」
何がと問われる前に、クレイグは続けた。
「ロックウェルくんに兄弟はいない。彼女は一人っ子のはずだ」
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