第五章 EXPO'2300,Mars4
「シルヴィオ! 待ってって。ねえ。本当に危ないわよ、ファーストドームは」
彼女の呼びかけに、仕方なく速度を落としはするが、早足で行くのはやめない。
「ねえ、シルヴィオ……」
地上に出て西へと移動する。ドームをまたぐためには、手続きが必要だ。が、シルヴィオはSFCのパスがある。
もうローズマリーは尋ねることをやめていた。ただ黙って後をついてくる。
三重構造の半球状のドーム同士を、柔軟なチューブがつないでいる。チューブへ入る手前で、シルヴィオは首にかかっているパスを右手の機械に掲げた。通行可能の青いランプが光り、目の前のバーが下りて、先へ進む。
二人の他に人はおらず、自動で動く床に立つと、順に後ろの扉が閉じていった。代わりに前方の扉が開く。貴重な大気を外へ漏らさないための仕様だった。
「セージは何科か」
「え、えと……」
チューブといってもとても大きなもので、直径が十メートルはある。動く歩道は2ラインあり、行きと帰りで合計4ラインだ。今はまだ博覧会が始まっていないので、歩いて移動する者は少なかった。
「お前の名前と同じシソ科だ」
「う、うん」
ただの情熱だけで飛び出して来たのではない。火星は変異が少ない。ゼロではないが、それでもかなりましなのだ。
もしアレクセイの見間違いでなければ、どの程度の変異が起きているかこの目で確かめなければならない。そして、本当に変異が起きているのならば、博覧会なんてそっちのけで動かなければならないことがある。
「シソ科の主な変異特徴、覚えてるか?」
「あ、……催眠性ガス」
すべてが当てはまるわけではない。むしろ調べがついていない方が多いが、それでも科や種ごとに、変異の方向性が見えてきているものもある。シソ科は一時的に気を失わせるようなガスを出すものが多かった。以前ハイジャックにあったとき、ニコラスが持っていた種子もシソ科のエゴマだ。あれは水分を与えられるとガスを出す。他にも光や、振動、熱などがあった。
「もし群生して、もし、本当にそれがセージの変異種だったら、こんなドーム型の空間では致命的になる」
「……わかった。私が案内するわ」
ローズマリーがそう言って、先を行く。秋に切っていた髪の毛が、もうずいぶん伸びて、金色の尻尾が動きに合わせて揺れていた。
「いや、無理について来なくても――」
「無理にじゃない!」
かぶせるような彼女の言葉には、怒りが含まれているように思えた。振り返ったそこには、ローズマリーの名にふさわしい青い瞳が揺れている。
息を飲み込み、留めていたそれを肩を下ろすと同時に吐き出し、ローズマリーは落ち着いた声で言った。
「無理じゃないよ」
直前とは真逆の言い方に戸惑っていると、踵を返して先へ進む。こちらに背を向けて、チューブの終着点へ向かった。シルヴィオも後を追いかける。
「火星生まれだって言ったでしょ? 私の方が道がよくわかってる。このあとどうやって行くつもりなの? 結構距離あるのよ。私なら安く車を借りられるところも知っているし、道も承知してる」
「おう……サンキュ」
「シルヴィオはもう少し、自分のことをよく考えた方がいい。自分の価値とか、周囲にどう思われているとか」
「ようやく周りを見られるようになった俺が、そこまで進化できるわけねーじゃん」
それには、軽いため息を返されただけだった。
彼女の言われるがままに車を借りて、アンリの爪を目指す。
ファーストコロニーは、その後開発された場所とは違い、地上は閑散としている。今も権利やなにやらで地上の開発が難しい地域とされていた。ぽつりぽつりと集落が存在し、アレクセイが示した場所は、彼がどうしてここへやってきたのか謎なくらい、周りに何もなかった。
「もう少し行ったところに結構評判のレストランがあるから、そこへ散歩がてら目指していたのかもしれないわね」
シルヴィオの疑問に、硬い表情のローズマリーが答えた。道路脇に車を置いて、二人は周囲を見渡す。太い、二車線の道路が真っ直ぐ走り、その両脇にまばらな草むらがある。大地は赤い。酸化鉄が多く含まれている。こうやって自生する植物は珍しい。いや、こうやって、変異せずに自生している植物が珍しかった。月やガニメデではこうはいかない。自生しているものを見つけたら即政府が飛んできてあたりを一掃するだろう。ごくごく秘密裏に。だが、徹底的に。
地球外でこんな風に植物を見ることがなかったので、その光景に息を詰める。本来なら、こうあって然るべき姿。地球では当然のように存在する風景だったのに、宇宙に出た瞬間、奪われたものだ。
万博で、かなり厳しく管理しながら植えられた植物たちをみている。
ほとんどが直接空気に触れぬよう、ケースの中で存在するのだ。手を伸ばせば触れられる距離にありながら、絶対に届かないのが宇宙(そと)でのありかただと、諦めていた。
それが、かがんで手を伸ばせば指先に届く。
「シルヴィオ! これじゃない?」
ローズマリーの声に、思わぬ感傷に浸っていた自分を振り払い、彼女の方へ駆け出す。人工的に作られたのではない、こんな世界をたった二ヶ月で懐かしいと思える自分に驚く。
「たぶん、これがセージだと思うんだけど。確かに、かえでさんの庭で見たのとは違う気がするの。ほら、葉っぱのこの部分」
小高い丘になっていて、その頂上の部分から少し下りた場所に問題のものがあった。
大いに問題だった。
花は、よく知る形とまったく同じだ。薄紫の唇状花。白いものもちらほらとみとめられる。
セージと一般的に言われるのはコモンセージだった。自生しているこれらも、その特徴をよく表している。園芸用として、葉に斑入りのものもある。だが、確かにアレクセイの言う通りこれは違う。
「変異だ」
この葉は、よく知っているものとは違う。でも、知っている花の形をしていた。セージは薬用にも使われる。早い段階で研究されていた。火星では大丈夫だと、そう報告されていたはずだった。月やガニメデでは育てられないが、火星には、変異を促すものがないと。
「どお?」
ローズマリーの心配そうな声も、シルヴィオの耳には届いていなかった。
この変異は拙い。
万博など、やっている場合ではない。これは、すぐにでも調査にかからねばならない。
ふと、気配を感じた。
首筋に、ちりちりとしたかゆみのような何かを。
だが、あまりにセージに魅入られて、反応が遅れた。顔を上げたときには、ローズマリーの驚いた表情が飛び込んで、白く弾けた。
「シルヴィオ!」
真っ白な世界と同時にこめかみに熱い塊と、そして暗闇へと堕ちていく。
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