第四章 勿忘草6

「かえでさん! このお花もすごく可愛い」

「あらあら、本当に。ラブリーだわ」

「あ! あのお店の植木鉢がすてき」

「ローズマリー! お前の買い物じゃないだろ!?」

 今にも駆け出しそうになる彼女に、冷静なシルヴィオの声が飛ぶ。

 三月中旬の日曜日。必要な苗や種のほとんどは、フロントガーデンを任せているガーデナーに事前発注していたが、せっかくだからと三人でコロンビア・フラワーマーケットへ出かけた。とても混むからと、朝、かなり早い時間から出た。

 かえでもシルヴィオも、来たことがあるそうだ。しかしローズマリーは、大量の花はSFCのプラントで見たことがあるが、こんな風に活気溢れる花市は初めてで、否が応にもテンションが上がっていく。

 あちこち覗いて、これも可愛い、あれも可愛いと物色し、球根を買い、気に入ったものを花束にしてもらったりした。

 一角にぎゅっと熱気が詰まったこのフラワーマーケットは、それほど広くはない。もともと平日は単なる道でしかない。それが日曜日だけ花市に変身するのだ。だから、あらかた見終え、両手いっぱいの荷物に、シルヴィオがうんざりした抗議の声をあげたところで、三人は腹ごなしをしようと店に入った。

 車の中でサンドウィッチを少しつまんではいたが、すっかりお腹が減っている。ベーグルとチーズ、そしてハム。簡単な食事ではあるが、空腹は最高の調味料とはよく言ったもので、三人とも満足だ。

「他に買う物は? ワスレナグサ以外に気に入りの花は?」

 ローズマリーはあれやこれやと買い込んでいたが、結局かえでは球根を三つほど選んだだけで終わっている。

「名前にちなんだものは?」

「名前?」

 ローズマリーが不思議そうに尋ねると、シルヴィオがうなずく。

「『かえで』というのは、メイプルツリーのことなんだ」

「メイプルシロップの? そうなんだ」

「いろいろと種類もあるから、小さな木でもいいし、鉢植えでもいいし」

「そういえば、盆栽でもあったわね。庭に新しく木を追加するのは難しいけれど、小さなものならいいかもしれないわ」

 かえでもまんざらではなさそうだ。

「日本ほど上手く紅葉するかはわからないけどね」

「そうね。そこまで期待してはだめね」

 二人は笑う。その雰囲気がなんだかとても羨ましくて、ローズマリーはぽつりと漏らす。

「なんかそう言うのいいなあ」

「あら、あなただって名前が植物じゃない」

「……でも、なんか、ハーブのイメージが強いし、ローズマリーじゃなくてローズじゃだめだったのかなぁなんて思ったりはします」

「えっ! なんでだよ。ぴったりじゃん」

「それは、私に薔薇は似合わないってこと?」

 世界中で愛される、高貴なる花。名前負けしてしまいそうな気はするが、香りも姿も美しい。女の子なら憧れて当然だろう。

「そうじゃなくて、だって、ローズマリーの語源はラテン語の『ロス・マリヌス』で、海のしずくって意味なんだよ。お前の青い瞳にぴったりじゃん」

 シルヴィオは、たまにこんな不意打ちを食らわせる。

 返す言葉がなくなって、間抜けな顔のまま黙り込む。そんな彼女の反応をどう取ったのか、きまりが悪そうに彼もベーグルを頬張った。

 かえでだけが淡い微笑を浮かべていた。



 シルヴィオは、月に二回。ローズマリーは一ヶ月に一度くらいのペースでかえでの元を訪れた。彼女と会うたびに、シルヴィオは回復していっているように見える。もう、SFCでの仕事は、普段と変わりない。つまり、人の分まで時間の限界まで植物と戯れているあの状況に戻りつつある。

 ニコラスは失敗したのかと首を傾げるが、ローズマリーはそうは思わなかった。

 かえでとシルヴィオは、言葉数が多いわけではないが、ぽつぽつと話をしているそうだ。研究も提出して、あとは待つのみと言う状態だったので、時間はあった。けれど、積極的に彼に同行するのはやめていた。その方がいいように思えた。

 春が過ぎ、夏が来て、秋になる。

 いつもはかえでの家へ行くのだが、今日はSFCの屋上庭園に彼女を招待することになった。その日は銀蔵もやってきて、エスコートする。ローズマリーは紅茶と、かえでに習った菓子を大量に作ってもてなした。

 シアトルの秋は過ごしやすい。天井はところどころ開いており、気持ちのよい風が通って来る。 ローズマリーが紅茶をもう一杯淹れていると、カップが差し出された。

「おかわり」

「同じ物でいい?」

 シルヴィオがうなずく。

「ばーちゃん喜んでるかな?」

「見ればわかるでしょう? とっても楽しそうじゃない」

「……うん」

 返事のにぶさに、首を傾げる。

 シルヴィオはそばの椅子を引いて座り、湯気立つダージリンを両手で包み込む。ローズマリーも彼の向かいに座った。

「俺さ、そーゆうのあんまりわからないから」

「そう? そんな風には見えないけど」

「ローズマリーはさ、前に言ってたじゃん。相手の機嫌を見て淹れる紅茶を変えたりするって」

「あなただって、その日ごとに部屋に飾る花を変えてるじゃない」

 それもシルヴィオの時間外仕事の一つだ。自分たちの仕事場と、よく利用する会議室。他にもいくつかそうやって花を飾っているスペースがある。花は生もので、シルヴィオのその判断は間違っておらず、黙認されている。

「あれは、その日摘みごろで、商品にはならないけど一番きれいに咲いてるのを持って来てるだけだし」

「でもそれだって、きれいだから飾ろう、みんなで愛でようっていう気持ちがあるわけでしょう?」

「うん」

 それきり黙り込んでしまう。

 こんなときかえでならどんな言葉を投げかけるのだろう。

「そんな風に考えたってことが進歩なんじゃないの?」

「ん?」

「だって、今までのシルヴィオはわからない自分をわかってなかったじゃない? それが、わかったわけだし、わかったら次のステップに進めばいいのよ」

「褒められてるんだかよくわからない、それ」

「褒めてるのよ」

 納得がいかないようで、不満顔だ。でも、深刻なシルヴィオよりずっとその方がいい。

「その調子でもう少し周りを見ていけばいいの」

 例えばと問われ、少し考える。

「そうね。例えば、二週間前に私、髪を切ったのよ?」

「ん……ああ。そういえばちょっと短くなったよな。なんかニコラスが言ってたっけ」

「女の子がね、髪を切るって結構重要なことなの」

「うん。まあ、似合ってるよ」

 それでも大進歩。だが、それなら以前のシルヴィオでもぎりぎり気付ける範囲なのだ。

 合格の一言が得られなかった彼は、不安な顔をする。

「論文がね、きちんと通ったの」

「ああ! おめでとう」

「うん。ありがとう。それで、正式には花博後なんだけど、就職も決まったの」

「そうなのか。火星に帰るんだろ? 残念だな」

 それは、とても、今までなら絶対得られないすてきな言葉だ。だから、思い切り笑顔になる。

「SFCにね、決まったの。しかも最初は本社よ。ここ」

「えっ! そうなんだ。そっか。うん。そっかあ」

 満足そうに何度もうなずいてる姿を見て、こちらもうなずく。

「そうよ。だから、よろしくね、先輩」

「おう! そうだ。休みを合わせたらばーちゃんちにも一緒に行けるよな?」

 まさかそこまでとは思わず、一瞬本心がこぼれそうになった。弾けるような嬉しさとともに、ごく個人的な、一抹の寂しさを噛みしめ飲み込む。

「とってもすてきな計画だと思うわ!」

 それは、大きな進歩だった。

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