第四章 勿忘草3

 大慌てで準備をして、専用機で移動すること七時間。着いた頃にはもう十七時を回っていた。冬のイギリスは大変寒く、アメリカ北西にあるシアトルとはまったく違っていた。事前に着る物については注意されていたので平気だったが、それでも外気にさらされると鳥肌が立った。

 最後は車で移動した。空港から少し走ると、二階から三階建ての家がずらりと並んでいる。どこも、家の前のスペースに木々を植え、花壇があった。季節がくれば色とりどりの花が咲くのだろう。二月のこの時期にも、きちんと手入れがされていた。時々アパートメントのような建物があるが、ほぼ百パーセント、ベランダにコンテナがあり、この時期でも楽しめる花や草が植えられている。そのどれもが外壁との色合いを計算しており、見目が良い。

「シアトルとは大違いね」

 あちらでは、公共スペースには木々がふんだんに植わっているが、個人宅になると家主の方針次第ということになる。割合大きな邸宅は、庭や外観に金をかけていろいろと手入れをすることは多いが、マンションやアパートメントになるとそうはいかない。隣や上下の住民とまるで示し合わせたような色合いのコンテナを準備したりということは少ない。

「イギリスは特に外観を気にするからね。道路に面した家の前の庭は、パブリックスペースといってきちんと整えるように約束されているんだ。もし手入れもしないで方っておいたら近隣から苦情が入る」

「苦情まで? でも、個人の自由じゃないんですか?」

 タクシーを使うのかと思ったら、銀蔵は空港でレンタカーを手配していた。ローズマリーは助手席に乗り、シルヴィオはまったく喋らず目を閉じて後部座席で横になっていた。眠っているのかと思ったら、突然話に入ってくる。

「家の価値が下がるんだよ」

 飛行機に乗っている間もっぱら話すのは銀蔵で、久しぶりにシルヴィオの声を聞いた気がする。

「家の価値?」

「フロントガーデン――家の前の庭は、その家の価値も左右する。自分の家だけでなく、両隣はもちろん、その集落の価値にもなるんだ。家を売ったり貸したりする際に、とても重要になるから、最低でもフロントガーデンだけはガーデナーを雇って整えることが多い」

 へえ、と声を漏らしながら再び窓の外に目をやる。確かに、それぞれ自分の庭にこだわっているようにも見えるが、どこか両隣と、周囲と調和し、変に抜きん出たおかしな景観にならないよう足並みを揃えているようにも見えた。

「さあ、もうすぐ着くよ」

 銀蔵がハンドルを切ると、その道の先に一軒家が並んでいる。

「ほら、あの青い屋根の家だ」

 家の前に、白髪の女性が立っていた。毛糸で編んだ臙脂のストールを肩にかけ、こちらに気付くと手を振る。

 そのまま彼女に導かれ、車を止めると、三人は荷物を手に降りた。

「いらっしゃい、銀蔵さん」

「かえでさんも、元気そうだ。これは、私の孫のシルヴィオ」

 大きな手で、シルヴィオの頭を撫でる。その手に押されるように、頭を軽く下げた。

「聞いているわ。SFCで一番の腕をしているって、銀蔵さんがよく自慢しているもの」

「師匠がいいからなあ」

 そう言って胸を張る銀蔵に、かえでは口元を押さえて笑った。瞳は黒、髪の毛も、昔は黒かったのだろう。痩せすぎても太りすぎてもいない、小さな可愛らしい老女だった。背はローズマリーよりもずっと低く、百五十あるかないか。多少腰が曲がってきているので、若い頃はもう少し高かったのかもしれない。

「それで、こちらの可愛いお嬢さんは?」

 自分のことを言われているのだと気付くのに、少し時間がかかった。慌てて背筋を伸ばして手を差し出す。かえでもごく自然な動作でローズマリーの手を握り返した。

「ローズマリー・ロックウェルです。火星の生まれですが、SFCには研究のために来ています。シルヴィオさんとは同僚で……」

 無理矢理連れてこられましたとは言いにくい。

「孫のガールフレンドなんだ」

「違います!」

 かぶせるように否定すると、銀蔵は少し寂しそうな顔をした。かえではクスクスと笑って、当のシルヴィオは完全に黙りだ。

「さあ、立ち話じゃ疲れるでしょう? 中に入ってちょうだい」

 そう言って招き入れられた家は、家主がきれい好きなのだろう。隅々まで掃除されており、塵ひとつ見つからなかった。

「荷物を置いて、まずはお茶にしましょう」

 玄関ホールを右に折れると、リビングルームだ。ソファが三つあり、二人がけのソファに銀蔵とシルヴィオが、ローズマリーは一人がけのものに座った。外から見たフロントガーデンもいいが、家の中から見るそれも趣がある。

 家の中の家具も、あまりごちゃごちゃと置かれているのではなく、それでも記念の品やちょっとした小物が見栄え良く飾ってあった。

「かえでさんは、日本の方ですか?」

「そうだよ。私の同級生だ。結婚してこちらに来たんだ」

「置物の間の取り方が日本的だよな」

「そうか? あまり違いはわからんが……」

「そりゃ、じーちゃんも日本人だからだろ。イギリス人のとはまた違う」

 ふうんと、銀蔵は鼻を鳴らす。

「まあ、確かにこの家は日本以外では一番落ち着く場所だな」

「日本の庭は空間が命だ。なんでもかんでも植えてきれいならいいってわけじゃない」

 結局は庭――植物の話か。

 そこへかえでが茶器をトレイに乗せてやってきた。手伝おうと立ち上がると、彼女は首を振る。

「あなたたちには悪いけど、これは日本茶なの。後で紅茶も準備するけれど、とりあえずはぜひこれを試してみてね」

 トレイの上にはポットではなく、それよりもずっと平べったいような物があり、カップの他にもいろいろと道具が並んでいた。

「これはね、急須というの」

「キュウス?」

「まあ、日本茶用のポットね。紅茶のものとそう変わらないわ」

 濃い、黒に近い茶色の容器を中央のテーブルの上に移動する。カップも持ち手がないつるりと丸い形をしていた。色は白く、赤い実の絵が外側に描かれている。

「紅茶は沸騰したお湯をそのまま注ぐけど、日本茶は少しぬるめのお湯がいいのよ。あと、絶対に軟水。ミネラルウォーターを沸騰させたものを使うわ」

 そう言って、お湯のポットからカップ四つに湯を注ぎ、少しおいたあと、深めの椀へそのお湯を移す。

「これは湯冷まし。一度お湯を移すことによって約十度下がると言うわね」

 今度は移したお湯を、急須へ。急須には茶葉をティースプーンで四杯入れてあった。そのまま一分強、蒸らしたところで最初のカップにお茶を注ぐ。黄緑色をしていた。

「さあ、どうぞ。よかったらクッキーも一緒に」

 紅茶や中国茶はいろいろと試したが、日本茶は初めてだった。なんともさわやかな香りがする。そのままひとくち、口に含む。紅茶の渋みとは違った、苦みの後に、ほのかに甘味が広がった。

「気に入ってもらえたかしら?」

「はい。とっても、不思議な風味です」

 銀蔵も美味しそうに飲み干し、シルヴィオだけが少し口を付けただけで飲むのをやめた。

 まあ、彼は珈琲党だから、紅茶を飲むのも珍しいところに、この日本茶は口に合わないのだろう。

「日本には紅茶も、珈琲も嗜好品として入って来ているけれど、他の国では日本茶はあまり出回っていないものね」

 かえでに見つからないようシルヴィオを軽く睨む。彼は肩をすくめて横を向いた。

「それじゃあ、本題に入ろうか」

「そうねえ。でも、もう十八時になるわ」

「今日のうちに軽く見ておくのもいいんじゃないかな?」

 再びそうねえと、言いながら、かえでは立ち上がり、銀蔵がシルヴィオを促す。ローズマリーも後に続いた。

 リビングルームの奥に、ダイニングルームがある。大きな机に、白い皿だけが並んでいた。その隣がキッチンだ。夕飯の支度をしてあるのだろう。とても良い香りがする。

 ダイニングルームの奥はベランダになっており、その向こうに庭が広がっていた。部屋の灯りで庭がぼんやりと浮き立っている。

 が、

「ぜんっぜん手入れしてねーじゃん!」

 それまでの受け答えはけだるそうに、ほとんど通常以下の大きさでやりとりしていたシルヴィオが、腹の底から大声を出す。びっくりしてそちらを見るが、彼は荒れ果てた庭に釘付けだ。

「そうなのよ。庭いじりは夫の趣味だったから、私はまったくノータッチで……彼が亡くなった後は、娘が一人でやっていたの。副産物の処理は夫と一緒にやっていたから得意なのだけど」

「副産物?」

 ローズマリーが尋ねると、かえではふんわりと笑う。

「林檎やプラム、ルパーブやハーブ類。そういったものでお菓子や料理を作ったり、保存食にしたりするのは得意なのよ」

 そう言って、キッチンに入っていき、たくさんの瓶をカウンターに並べだした。

 そのすべてに日付と中味の書かれたラベルが貼ってある。瓶もまちまちで、手作りな感じがすてきだ。

「夕飯の後にはプラムジャムのプディングを準備してあるから」

 かえでは嬉しそうに瓶一つ一つを撫でた。

「それで、だ。シルヴィオ。この庭を生き返らせてくれ」

「はぁ?」

 口を半開きにして祖父を睨み付ける彼の瞳の奥には、戸惑いが見てとれた。

「ガーデナー雇えばいいじゃん。バックガーデンもほとんどの人がガーデナーにアドバイスもらってやるんだからさあ」

「それが、どうもここら辺のガーデナーと私が合わないの」

 かえでの望む庭と、英国式の庭が上手く折り合いがつかないらしい。

「ちょっとしたことなんだけれど、どこか違うのよ。彼らもプロ意識が強いから、私みたいな庭いじりをずっとしたことのない駆け出しの人間にあまり指図されたくないみたい」

 だから、表のフロントガーデンは割り切って彼らに全部を任せることにした。その代わりこちらは自分でやってみようと思ったのだが、素人なのでやはり上手く行かない。

「女性の年を言うのはエチケットに反するが、まあ、私と同じ年だ。身体の自由もだんだんときかなくなってくるからな。今年が最後のチャンスかもしれないんだ」

 二月は準備の月だ。今のうちに余計な草木を始末しておかなければ、三月の下旬、四月に入ったらそれらがまた勢力範囲を広げにかかるだろう。

「プラムや林檎の木の周りだけはとりあえず草取りをしたりしているんだけどねえ。前は全部娘がやっていたから、他人にすべてを任せるという気にならないのよ」

 彼女はすっかり荒れ放題になった庭に目をやった。どこか寂しそうな表情を見ていられずに、ローズマリーも庭へ、シルヴィオの背に視線を向けた。

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