第四章 勿忘草2

 庭園の中の休憩スペースで、ローズマリーとクレイグは向き合ってお茶を飲んでいた。いつもなら、その瞬間だけは嫌なことや不安なことを忘れられるのに、今日はなんとなく心がもやもやとしたまま紅茶を口に含む。

 滅多に見られない課長は、すでになりをひそめていた。いつもの、にこにこ顔で何を考えているのかわからない姿に戻っている。

「つまり、HBLの現在の会長職についているのが、あちらの方で、それが、シルヴィオのお祖父さまということですか?」

「うん。そうだね」

 話の大きさにめまいがする。

 SFCももちろん世界中に名の知られている大企業ではあるが、それ以上に、バイオマスの研究で常にトップであるHBL――長谷川植物研究所は、研究者の誰もが一度は就職を夢見る。

 あのシルヴィオが、まさか、そのHBL会長長谷川銀蔵の孫だとは。

「シルヴィオってハーフだったんですね」

 社会が国際化しているのでさほど珍しいものではないが、島国は少し事情が違うと聞いていた。アメリカでの混血っぷりに比べて、割合血が混じることなく独自の民族性を保っていると言われている。世界が連邦制を作り、一部の国以外、ほとんどがそれに参加した今となっては、何より重要なのは国よりも地区(ブロツク)だ。二院制をしいており、上院は各地区から二十五席。その席を得るための熾烈な争いが三年ごとに行われる。日本は当時のアメリカの横やりで、アジア地区でなくアメリカ地区へ組み込まれていた。

「いや、ギンゾウさんも国際結婚でね。たしかイギリスの女性だ。で、娘さんがイタリアの男性と結婚されたから、クォーターかな」

 本人が気にしまくっている身長は、きっとアジアの血のせいなのだろう。

「それじゃあ、シルヴィオのお父さまは今、HBLの社長さんということですか?」

 言ってから、あれ、と思った。確か、社長の名前はエグバーグではなかったはずだ。そして、クレイグ課長の表情が、とても微妙なものに変わる。笑っているのだが、もっと違った感情を表しているようにも見えた。

「シルヴィオのご両親はあいつが小さな頃に亡くなっているんだよ」

 沈黙ののち、回答は上から降ってきた。手に持ったトレイをテーブルに置くと、ニコラスがローズマリーの隣へ腰掛ける。追加の茶器を頼んでいた。

「亡くなった……?」

「うん。あいつが四歳のときだそうだよ。二人とも、船の事故でね」

 先ほどの銀杏の木の方を振り返る。こちらから、シルヴィオと銀蔵の姿は見えない。

「その後シルヴィオの面倒を見ていたのがギンゾウさんだ。娘の残した孫を、一人で育てたそうだ」

 差し出されたソーサーのために、新しい紅茶を準備する。ニコラスも、クレイグと同じような複雑な笑みを浮かべたままだった。

「ロックウェルくんは、シルヴィオをどう思う?」

「えっ!? どうって……!」

 突然の質問に、顔へ一気に血が上る。茶器がガチャガチャと悲鳴を上げた。

 いったいなんでそんなことを聞くのかと、軽くパニックに陥る。だが、ニコラスの押し殺した笑いで我に返る。クレイグ課長も苦笑していた。

「彼の、あの状態が正常だとは思わないだろう?」

 ローズマリーの勘違いを正そうと、課長がもう一度言い方を変えて尋ねた。今度は何を意味するのかわかる。シルヴィオの、異常なまでの花優先な行動について言っているのだ。

「ご両親がなくなった事故の現場に、彼も居合わせた。運良く一人助かりはしたが、すっかり心を閉ざしてしまったんだ」

 両親の死を目の当たりにしたシルヴィオは、自分の殻に閉じこもってしまった。

 最愛の娘と、その婿を亡くし、さらに孫も口をきかずただ生きているという状態に当時銀蔵もほとほと困り果てたという。

 知り合いのカウンセラーに見せ、専門機関に孫を任せることも考えたが、とうとう彼はしばらく仕事を休み、つきっきりで孫と向かい合うことにした。

 とはいえ、彼にできることと言えば植物を育てることくらいだ。反対に、花を育てることにかけては他にひけをとらない。HBLの技術を利用してSFCを設立したのは銀蔵なのだ。

 銀蔵が、自信を持って教えられることは植物のことだけだった。

「かくして、シルヴィオは花セラピーという名の植物英才教育を受け、今現在に至るわけだ」

 課長の話を引き継ぎ、最後に少しおちゃらけたのはローズマリーの表情が予想以上に深刻だったからだ。

 二人にそんな風に気を使われるのは本意ではない。少し表情を変えるだけでいいのに、それができなかった。

 なぜなら、その話がまた初めの言葉に戻るからだ。

 ――シルヴィオのあの状態が正常だとは思えない。

 つまり、銀蔵の努力は少し、おかしな方向へ行ってしまったわけだ。

「一つのことに熱中できるというのは、反対に周りが見えなくなる。周りを、見なくても済むんだ」

 初めは両親のいない世界から目をそらした。

「銀蔵さんもね、後から言ってたよ。自分もシルヴィオと同じことをしていたってね」

 娘夫婦の死を、孫へ集中することでいっとき忘れようとした。

「だけど、彼は大人だった。それも経験豊かなね。自分の逃避にきちんと気付いていた。だから健全であり、効果的だったんだ」

「シルヴィオは……」

 小さな子どもだった。

 全力の逃避が、今もまだ続いている。

「これは俺の持論なんだけど、植物を育てるのと、動物を育てるのって、少し違うと思わない?」

 突然のニコラスの質問に、ローズマリーはよく考えた上で答えた。

「動物の方が、いろいろと複雑、ですか?」

「うん。まあそれもそうだけど……動物ってさ、結構突拍子もなく死ぬだろ? 愛情表現なんかもあったりして、心底可愛がっていたのがある日突然冷たくなっていたりしてさ。でも、植物ってそこら辺がちょっと違うんだよね。もちろん大切に育てていたのが一夜で枯れてしまったりするけど、でも、ペットが死んでしまったときのように嘆いて、喚いて、しばらく落ち込んだり、もう二度とペットは飼わないなんて思うことはないだろう? 次はもっと気をつけよう。夜に霜が降りていたからだ。虫がついていたのに気付いていなかった。全部、自分の責任なんだ。そしてそれは、経験と注意深く観察することによって徐々に減らせるものだ」

 言いたいことはなんとなくわかる。

 花をもらって、枯れたからといって普通は嘆かない。花は切り花にすればそれくらいで枯れるものだし、鉢ならば、自分の水やりや何かが悪かったのだろうと思う。人や動物の死と、植物のそれとは違う。特に樹ではなく、草花は、そのサイクルが人にとっては短く、思い入れは花全体であり、そうなると一株一株に対してのそれは極端に薄れる。もちろん、一輪の鉢を愛することもあるだろうが、シルヴィオの周りにあっては、ほとんどない。彼が可愛がっているリリーという名のテッポウユリも、一輪だけでなく数百の集合体をさしていた。

 以前彼が言っていたことを思い出す。

 植物が枯れる原因は全部自分にある。サインを見逃していただけだ。花が枯れたのは自分のせいで、決して文句は言わず、嘘をつくこともない。

 裏切られることはない。

「それに植物は枯れたように見えて、そうでないことも多いからね。死んだと思ったら、そうじゃなかった。地下茎が生きていたり、新しく芽吹いてきたり。植物の死は、とても曖昧なものでもある」

「……シルヴィオは死から逃げている?」

「逃げていた、だろうね」

 再びクレイグ課長が話を引き継ぐ。

「今までの状態が良いとは思えなかったんだが、それでも、彼が一見まともに動いていたから、下手に手を出すことをためらっていたんだそうだ」

 もしそれで状況が悪くなったら。自分を保っていたシルヴィオが、崩れるようなことになったら。

「結局、シルヴィオに何があったんですか? なんか、ニコラスさんが言うには――」

 失恋だと。

「初恋は実らぬものですよ」

 そう訳知り顔に言っていた。

 クレイグ課長は、一度口を開くが、結局何も言わずに閉じてしまった。

 銀杏の木の方から、二人が揃ってやってくる。銀蔵と並ぶシルヴィオは、普段の彼よりもさらに幼く見えた。

 クレイグ課長とニコラスが席を立つ。慌ててローズマリーもそれに倣った。

「お茶になさいますか?」

 ニコラスの提案に、首を横へ振る。

「この後約束があってね。――クレイグさん、ちょっとしばらくこの子を借りますよ」

「了解しました。ちょうどいい。有給を使え使えと言ってもなかなかそうしないんです。この際まとめて消化してください」

 先日、入社して初めての有給を使い、そして、こんな彼になったことはおくびも出さない。

「しかし、せっかくのイングリッシュブレックファーストを味わい損ねるのも寂しいな……クレイグさん」

「はい?」

「彼女は?」

「ああ。ご紹介が遅れましたね。ローズマリー・ロックウェル。火星のメリディアニ大学から研究のためにSFCへ来ている大変優秀な子です。研究も順調に進んで良い結果が出ています。彼女の努力のたまものでしょう」

 手放しで褒められると恐縮してしまう。ローズマリーは思わずうつむく。

「ああ。あなたが」

 銀蔵は笑顔をのぼらせる。

「彼女も連れていってよいかな?」

「え?」

「もちろん」

 彼女の驚きの声に被さるように、クレイグ課長の許可が出る。

「課長!?」

「研究も一段落したところだし、ちょうどいいじゃないか。あまり地球観光もしていないようだし、行っておいで」

 どこへともわかっていないのに、簡単に言わないで欲しい。

「学生さんを私用で勝手に連れていくのは拙いかな?」

「構わないでしょう。彼女が望むなら最終的にはうちに来てもらいたいとも思っていたし。少し早い新人研修ということで」

「課長!?」

 先ほどとは違う驚きの声を上げて、にこにこ顔の彼を見る。隣でニコラスも笑っていた。

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