第四章 勿忘草1

 紅茶のセットを乗せた自動運搬機(オートトランスポーター)を従えて、ローズマリーはSFC内にある庭園を、ゆっくりとした足取りで歩いていた。給仕用の特別製であるこれは、その場でお湯を再沸騰することもできるので、冷めることを気にせずともよい。それなりに値段のする物だが、SFCレベルの企業であれば、いくつも所有しており、そのうちの一つをほぼ専用に使わせてもらっているのはかなりの好待遇だった。

 研究の研修先にSFCがあがったとき、目を疑った。夢に見ることすら恐れ多く、自分の幸運に、反対に不安を感じた。

 実際に決定した後も、何か悪い冗談ではないかと思ったほどだ。

 研究もある程度目処が立ち落ち着いてきた今でも、毎朝起きるたびに、今までのことが夢だったのではないかと心配になる。

 社員の人達はそんなローズマリーを笑う。大丈夫だよと言って肩を叩き、そして、彼女に紅茶を要求するのだ。自分で言うのもなんだが、紅茶の味には自信がある。珈琲党の多い職場だったが、その半数がいつの間にか紅茶党に宗旨替えをしていた。お世辞で旨いと言っているだけではないというのがわかって、彼女も嬉しかった。

 特に、今庭園の中を探し歩いている彼は、彼女の紅茶以外は絶対に飲まない。完全なる珈琲党だ。

 食器がカチャカチャと音を立てる。

 庭園の中は、鳥のさえずりと木々のざわめき、そして自動運搬機のモーター音だけだった。

 日曜日だけ一般公開しているこの庭園は、シアトルにあるSFCの五十階建ての自社ビルの、屋上にあった。地上に人が溢れかえると、人は上と下へ居住地を伸ばすしかなく、二百年前には予想すらできないほど、建物はより立体的に組み上げられるようになった。

 陽光を確保するため、緻密に計算された都市部は透明な要塞のようだ。

 SFCのこのビルも、中央部分は外から見られぬようになってはいるが、その周囲は紫外線などの有害光線を九十九パーセント以上カットできる特別製の透明素材で作られており、地上に光をもたらした。

 シアトルに大企業はいくつかあるが、その中でもSFCは抜きん出ている。互いのビルを上手く組み合わせて作り上げ、そしてその頂上に植物の楽園を戴く。

 二月になり、確かに見栄えのする花々は少ないが、それでもローズマリーはこの季節が嫌いではなかった。春に備え力を蓄えている時期で、表面上は精彩を欠くが、じっと向き合っているとその下に潜む力の躍動を感じることができる。ローズマリーの専攻である土壌物理学においても、重要な期間だ。下ごしらえを十分にすることで、春や夏、秋に、力一杯咲き乱れるのだ。

 というのは全部受け売り。

 まごう事なき珈琲党であるが、ローズマリーの紅茶だけは好んで飲んでくれる彼が、ずっと前に言っていた。花を、木々を愛してやまないシルヴィオの受け売りだった。

 暇さえあれば、この庭園にやってきて植物の世話をする。社員の中で当番が決まっているのだが、ほとんど彼がやっていた。

 それが、ここ二ヶ月ほど、去年の十二月から彼の様子がおかしかった。ガニメデに配達に行ってから、すっかり落ち込んでいる。

 いや、落ち込んでいるというよりも呆然としているように思える。

 みんなが心配して、何かと声を掛けるのだが、多くを話そうとはしないし、仕事は普通にしている。ただ、以前は普段の仕事にプラスして、仕事以上のことをして回っていたのに、それがなくなった。他の社員は自分の仕事として当番はこなしていたが、彼に甘えていたのは事実で、途端に周囲が忙しくなっていった。

 いつも騒ぎを起こして、クレイグ課長と言い合っている姿ばかりを見ていたので、なんだかこの状況がとても不思議だった。自分の好きなようにやりたいようにやっているとばかり思っていたのだが――現にそうなのだろうが――、それが、上手くはまっていたようで、シルヴィオが躓くと周囲も一緒になって転びそうになる。

 火星で来年開かれる花博に、嫌がる本人を無理矢理主任にすえたのも、わかる気がする。彼がいるだけで仕事の密度が変わる。

 そんなことを考えながら歩いていると、庭園のかなり奥まで進んでいた。すっかり葉を落とした銀杏の木の下に寝そべる姿を見つけ、ローズマリーは足を速める。

 ところが、反対方向から白髪の男性が歩いてくるのが見えた。見かけない顔で、五十か六十くらいだろうか。今日は開放されていないとはいえ、迷い込んでしまう可能性もなくはない。だが、今そういった人をシルヴィオへ会わせたくはない。ローズマリーは銀杏の木を気にしながら、男性の方へと向かった。

 途中であちらも気付いて、にこにこしながらやってくる。あそこまで笑顔を見せられると、どう切り出していいものか悩む。

 だが、すぐに距離は縮まり対面する。背はそう高くなく、顔は全体的に平たい感じがするので、アジア方面の人のようだ。きっと髪も昔は黒々としていたのだろう。けれど、白い髪が雰囲気を柔らかくする効果を産みだし、笑顔をさらに柔和なものにしていた。

 こちらよりも先に、相手が話しかけてきた。

「おはようございます。良い天気ですね」

 流暢な英語で、喋り慣れている感じがする。

「イングリッシュブレックファーストですか?」

「あ、ええ。はい。そうです」

 一日の、初めに飲む紅茶はやはりこれしかないと思う。

「それは素晴らしい」

 にこにこと、笑顔を崩さないその姿勢にこちらのペースが乱される。それでも意を決して彼女は尋ねた。

「見学のお客様ですか?」

 すると彼は一瞬驚いたような顔をして何か言おうと口を開いた。そこへ、クレイグ課長が血相を変えてやってくる。

「ロックウェルくんっっ!!」

 いつも笑顔を絶やさず、大声を出すことなんてない課長のその姿にローズマリーは驚いて一歩引く。

 かなりあった距離を一気に縮め、息を荒げて課長が言おうとしたときに、またしても邪魔が入る。

「じーちゃん?」

 銀杏の木の下で寝そべっていたシルヴィオが、きょとんとした表情ですぐ後ろに立っていた。

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