第三章 ガニメデのひまわり4

 誰よりも長く仕事場にいるシルヴィオが、半日以上見えないと久しぶりだと思えてしまう。向こうからやってくる小さな姿にニコラスは思い切り手を振る。

「おかえり! 迷子にならなかったか?」

 普段ならここで子ども扱いするなと鉄拳が飛んでくるものだが、なにやらとんでもなく急いでいるらしく彼の脇を素通りしていく。

「おい、シルヴィオ?」

 すると、彼が来た方向からローズマリーが駆けて来た。ニコラスの姿をみとめると足を止める。表情は困惑の色を呈していた。

「ニコラスさん! シルヴィオが……」

「なんか変だね。どうしたの?」

「わからないんです。ガニメデからさっき帰ってきたばかりなんですけど、位相空間ゲートを出たところで突然二日の休暇願を」

「休暇ぁ!?」

「しかも、SFCのシャトルを私用で使いたいと申請まで」

 ローズマリーは口を閉じて眉をひそめる。

 あの、シルヴィオが休暇を取る。

 その異常な事態に、自慢の端整な顔立ちが崩れるのも厭わずあんぐりと口を開けた。

 植物は生もの。一日一日姿を変える。その成長過程をできることなら二十四時間つきっきりで見ていたい。

 それがあの花馬鹿シルヴィオの願いだ。

 普段は三交代制。三交代のうち二を働かせろと無茶苦茶を言ったのはいつのころだったか。労働基準法に抵触するから、頼むから来ないでくれと課長が無理矢理家に連れ戻したりすることもあった。サービス残業大好き、休暇なんて必要ない。会社がお願いだから休んでくれと泣きついて、ようやく休みを取った次の日は朝五時のまだ夜が明けないうちから飛んでくる奴だった。

 それが、自分から休暇を申し出たと言う。

 これは、まさか、もしかして。

「女か?」

 つぶやいた瞬間、横で殺気が湧いた。

「いやいや、ローズマリーちゃんがいるのに、そんなことはないな!」

「別に私、シルヴィオのことなんとも思ってませんから!」

 本当になんとも思ってないならそんな風に真っ赤になって怒鳴りはしないと思う、がそれは言わないでおく。火に油を注ぐことになって、明日からニコラスの紅茶だけないという寂しい事態を招きかねない。

「まあ、花しか眼中にないあいつに限ってまさか女ってのは……」

 先ほど猛ダッシュで消えていったシルヴィオが、今度は大切そうにポッドを抱えてやってきた。

「おい、それ製品だろう?」

 実験試験用のポッドではない。市場へ流通する商品用のポッドだった。

「買った」

「買ったって、買ってどうするんだよ。自分用ならあのすべてがお前のもんだろう。気分的に」

 さっきはポッドを持っていなかったので追いつけなかったというか、追おうと思わなかったが、今度はポッドがあるために早足程度。コンパスの違いを見せつけてやり、余裕の表情で隣をいく。その後ろからローズマリーが小走りで付いてきている。

「……また出かけるから。俺のリリーちゃんの世話、頼む」

「おい、シルヴィオ」

 大切なテッポウユリの面倒を人に任せてまで買った花を持っていく。

 扉の向こうに消えた背中を見送りながら、やっぱり女か? と心の中でつぶやいた。


 さすがに月や火星とは距離が違う。シャトルを借りるのに手間取り、ステーションで足止めを食らった。結局やってきたのは一日後。前日とほぼ同じ時間だ。途中仮眠は取ったが、正直眠れた気がしない。

 ガニメデはやっぱり寒い冬の星だった。

 本当なら二度と来たくなかった。

 彼女の家の方が近いので、先にそちらへ向かうことにした。また同じような時間だからレストランにいる可能性の方が高いかもしれないが、近い方から押さえていくのが良いと思われた。ひまわりは薔薇とは違い、宇宙に強い種だ。とはいえ、切り花にしてしまったからには保って五日。この寒さでは三日に縮まってしまう。これ以上はシルヴィオの手をもってしても難しい。

 捕まらないギリギリの速度で道路を走り抜け、あの寒々しい部屋へ向かう。女性の家だけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 シルヴィオは、なんだかよくわからないがとても傷ついていた。何が傷ついたとか、何を傷つけられたとかが、わからないというのが一番痛い。

 灰色のコンクリートの壁をさらした冷たいアパートメント。チャイムを幾度か鳴らし、頑丈な扉を叩く。

 しかし、返事がなく、そして鍵もかかっていなかった。

「変だ」

 お邪魔します、とつぶやいて扉を開けると中も寒かった。扉の軋む音があたりに響く。

 暖房は止まっていて、とても人が住んでいられるような気温ではない。

「もう仕事に行ったのか?」

 寝室には相変わらず山のような造花のひまわり。何度見ても呆れるほどの量だ。

 机の上にはこの間のポッドがそのままにしてある。中には枯れた薔薇に霜がついていた。ずいぶん長い間暖房が入っていないようだ。

 結局姿が見えず、レストランへ向かうことにした。

 白い柱には人の姿が彫ってあった。正確には人ではなく、神だ。地球に古くから伝わるギリシア神話の神々が彫られていた。

 同じ場所に車を止めたまではいいが、そこからなんと言って彼女の前に現れればいいか悩んでしまい、正面玄関まで来た。柱を一つ一つ見上げながら入り口へと近づいていく。

 一番正面に近い場所の柱には、ゼウスと、その妻ヘラがそびえ立っている。そういえば、ゼウスの対応する天体は木星だったなと思い出す。ガニメデが周遊する中心にある惑星。

 ギリシア神話に限らず、神話や古い話には植物が関わることが多く、自然とシルヴィオでも詳しくなった。花にはいろいろな由来を示す小話がある。

 ガニメデはガニュメーデースというイーリオスの王子だった。その美貌に目をつけたゼウスが、自分の給仕係として鷲に化けさらった。ゼウスの奔放さは毎度のことで、それに対してヘラが怒り狂うのもおなじみの光景だ。これは不味いとガニュメーデースを星空へ上げて難を逃れたという。困ったら星にしてしまえもゼウスのお得意技だ。なんと身勝手な神様だろう。人間味溢れる神と言われているが、つまり、人間のように愚かなことをする神なのだ。相手の気持ちも考えずに己の益を求める。自分の利益のために人を操り好きなように動かし、身に危険が及べば捨ててしまう。星空はゼウスのクローゼットか、もっと悪く言えばゴミ捨て場だ。

 レストランは昨日と同じように盛況で、入り口の男がシルヴィオの姿に目を止めやってくる。あの黒いスーツの背の高い男だ。今日もコートなどといったものは着ていない。それでも動きに、寒さによるぎこちなさはなかった。慣れなのだろうか。

「あれ? SFCの人だよね。どうしたの?」

「いや、その……お届け物です。アーシャさんに」

 すると、彼はとても奇妙な顔をした。

「それは、あんたも運が悪いな」

 とくんと、心臓が跳ねた。

「せっかくの注文が無駄になっちゃったね。誰が補填するんだろうなぁ」

「どうした?」

 後ろから支配人と呼ばれていた男もやってきた。

「SFCの彼が、アーシャにまた花を届けに来たそうですよ」

「それは、タイミングが悪かったなあ。まあ、いかれてあんな良い声を出すようになっていたから、ここのオーナーが雇ってたんだがね。いい子だったのに、残念だ」

 残念だ。

 それが頭の中で何度も響く。

「ちょうどさっき回収されたって連絡が来たよ。止まったのは夜中だそうだ」

「本人も覚悟していたみたいですけどね」

「そうは言うが、自己修復機能が上手く働かなくても何もしてくれないっていうのはやっぱりひどい話だろう」

 彼らの会話が遠くに聞こえる。

「その代わり、がっぽり金もらってるって言うじゃないですか」

「それは親が、だろ? そんなもん背負わされる子どもにとっちゃいい迷惑以外の何ものでもないよ」

「声帯がいかれて止まって、最後は心臓だっていうからなぁ。人工臓器プロジェクトも実際どこまで進んでいるのやら……おい、あんた。大丈夫か?」

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