第三章 ガニメデのひまわり3
車の中で彼女はたくさんのひまわりの花を愛でながら、小さく口ずさんでいた。それは確かに上手く、だが、ステージのものよりは幾分劣って聞こえた。
窓を開けて走るなど言語道断で、密室となった車内は作られた香料でむせかえる。生の花の匂いとはまったく違っているし、第一ひまわりはこんな香りではない。それが嫌で、シルヴィオの機嫌は悪くなる一方だった。
日が暮れ、寒さが一段と増したように思える。実際は一、二度下げる程度だと聞いているが、シルヴィオには十度も二十度も下がったように思えて、頭の中は帰ることでいっぱいだった。
アーシャの家は、やはり寒かった。
一人暮らしで、ダイニングキッチンと寝室。帰って寝るだけの部屋だ。その点は人のことは言えないのだが、花を置くにふさわしいとは言い難いこの室温はたまらない。ガニメデへ配達すると決まったときから、ポッドは暖房機能のあるものを選んだのだが、これではフルに動かさないとすぐに枯れてしまう。薔薇は特に冷気に弱い。おかしな変化はしないものの、持たせて二日だった。それでも、見る人が楽しんでくれればよいと思う。
「何か飲む?」
「いいえ」
彼女の問いに首を振る。それよりもさっさとこの寒々しい惑星を出たかった。
「どちらへ設置しましょう」
仕事を優先して進めようとする彼に、アーシャは呆れたような表情でダイニングキッチンにある小さな机をさした。
「そこら辺で適当にしてちょうだい」
適当に。
不意打ちの言葉に、怒りを抑える暇がなかった。顔色が変わる。彼女もその変化に気づき首を傾げた。
「何を怒っているの?」
本当に不思議そうに言う。
丹誠込めて育て上げた花だ。しかも宇宙(そと)では育ちにくいため、他の品種へかける手間暇の倍を費やしている。ここまで来ると我が子同然のものなのだ。同僚にはその点を行き過ぎだと常に注意されるが、それでも、シルヴィオの育てた花はいつも一番美しくあった。本当なら売りたくないが、そこは本末転倒。だから、いつも花たちを買ってくれた人が少しでも自分が育てた物を見て、美しいとか、心癒されたとか、そう思って貰えるのだからと、自分の気持ちを紛らわせていた。
なのに――適当にとは。
「それが高価で、だから怒ってるというわけではなさそうね」
アーシャはくすくすと笑いながら手にあるひまわりを愛でた。
「私は、いつも言ってるの。何が欲しいと聞かれたら、レプリカのひまわりがいい、ってね」
だから、と言って彼女は寝室の扉を開けた。
そこには、何十本ものひまわりの花束が散らばっていた。部屋の床を埋め尽くし、壁に飾られ、ベッドの上も彼女が寝ているだろう隙間を残し、すべて、黄色やオレンジの花で埋め尽くされていた。
「私、ひまわりが大好き」
少女のように微笑んで部屋に飛び込み足下の花をがさっと抱え込む。
「ほら」
ぱっと真上に放り投げれば、ひまわりが真っ逆さまに彼女の上へと降って来る。
「すごく、すてき」
夢を見るかのような面もちで、ベッドへと倒れ込む。寝室には、本当にベッドの他には何もなかった。
「そうやってずっと置いておけるように造花が良いって言うの?」
口を尖らすシルヴィオにふふふと余裕の笑みを浮かべてアーシャは否定した。いたずらっ子のような幼い表情と、黒い瞳が揺れている。
「違うわ。私は造花のひまわりが好きなの」
違う、彼女は本当のひまわりを知らないんだ。地球で太陽の下育てられた雄々しい、力強いエネルギーを放つあれを。
でもアーシャは否定する。
「見たことがあるのか? 本物を」
「ないわ」
ひまわりの中で目を閉じて彼女はたいして残念でもなさそうにつぶやいた。それがシルヴィオの勘に障る。
「本物のひまわりを見たこともないくせに造花がいいなんてよく言うよ」
「あなたもお客様に向かってよくそれだけ言えるわね」
何でもないことのように、でもしっかりとシルヴィオに聞こえるよう言う彼女は、うっすらと微笑んでいた。ベッドの上で、低い天井を見上げ、目を閉じ、胸の前で指を組んで。
「……」
本当にその通りで何も言い返せない。バツが悪くなって、仕方がないのでリビングへ行くと薔薇の設置を始めた。外気温の差や、空気成分濃度など、様々な情報から一番良い保存温度を割り出していく。バランスを計るためにはどうしても五分ごとに三、四回外気データを取る必要があり、調節には一回ごとに十分かかり……気付けば一時間、二時間は余裕で経っている。その間も彼女は目を閉じて、ベッドで仰向けに寝ていた。本当に睡眠を取っているわけではない。時折鼻歌が聞こえたり、本格的に歌い出したり。
綺麗な音だった。
「よし、完了」
すべてを終えたときには、この家に着いてから三時間近くが経過していた。これでも早い方だ。シルヴィオ以外の者なら倍はかかる。
彼の声にアーシャがこちらへやってくる。
「お疲れさま。確かに綺麗ね」
それは当然だ。これはシルヴィオが丹誠込めて育て上げたものの一つなのだから。
薔薇は鉢植えよりも花束が主流だ。たくさんの高価な薔薇を集めた花束は、今でも男性が女性へ送るプレゼントの代名詞だ。しかし宇宙で花束は無理な話で、いくら成長を促す青色の光を当て続けたとしても萎れるのではなく、枯死する。切り花の命は短い。
けれど、この薔薇は一輪の鉢植えでも十分美しいと思う。
すっと直立する姿は気品があり、孤高の美を作り出している。
屈折率ほぼゼロのアクリル透明ケースによって、薔薇の姿は常に見ることができた。SFCの技術者たちによる努力の結晶がこの透明度にあった。
また、花は視覚を楽しませると同時に嗅覚へのアプローチもある。その二つが合わさってこその花で、SFCはそこにも力を入れた。三時間に一度、香りを孕んだ内の空気が外へ排出される。薔薇は香りを楽しむ品種の一つでもあり、部屋の中に芳香が広がるだろう。
何をとっても造花などとは違う。
我ながら完璧な調整だと、努力の成果をうっとり眺めながらシルヴィオは腕を組んで何度もうなずいた。
だから、彼女がポッドの背面に周り開閉ボタンを押すその瞬間、いったい何が起きているのか理解することができなかった。
シュッっと音がして、アクリルのケースが二つに割れる。
薔薇は外気にその身をさらす。
絶望の叫びをあげる間もなく、それは枯れていった。起立していた茎も、深紅の花びらも、すべてが茶へ色を変え、頭を項垂れていた。
「な、なっ!!」
「良い香り」
アーシャが微笑んで大きく息を吸う。
そりゃ、良い香りだろう。ケースの中にこもっていた空気は外気より暖かく、上へ昇る。そのとき一緒に香りの成分も上へと移動する。その中に顔を突っ込んで匂いを堪能するのだ。ぎゅっと詰められたその薔薇の香りはそれはもう一番のものだろう。
理解不能のその行為に、シルヴィオはぱくぱくと金魚のように口を動かし、その隣でアーシャはぼんやりと朽ちた薔薇を眺めていた。
「本物は枯れないといけないのね」
そんな小さなつぶやきに、シルヴィオは現実へと引き戻される。
「あ、あんた! 何考えてるんだ!」
怒り狂って顔を真っ赤にする彼とは対照的に、アーシャはきょとんとして首を傾げた。手を出さなかったのは相手が女性だったからだ。男なら迷わず一発かましている。
「もっと近くで見てみたかったの。でも、枯れてしまったわ」
「あったりまえだろう! さっきから俺がどんだけ苦労して調整していたと思ってるんだ! 花がここでは枯れちまうってのは知ってるんだろ!?」
「まさかここまでとは思ってなかったわ。いいじゃない。もうサインはしてもらったんだし。これをプロヴァンス様やSFCに苦情として言ったりはしないわよ」
「そんな問題じゃない!」
机を思い切り叩く。冷えた室内には、その音がやたらと大きく響いた。
「あんた、花の命をなんだと思ってるんだ! こいつは最低でも後一日咲いていることができたんだぞ! それを、簡単に殺しやがって!!」
シルヴィオの剣幕に怯んでいたアーシャだが、殺すという単語に肩をすくめる。
「でも、花を育てて売っているのは、人の心を満足させて癒すためでしょう? 私も満足したかった。もっと近くで見てみたかったんだもの。仕方ないじゃない?」
無表情に、歌うように言うその姿がシルヴィオには恐ろしかった。
「あんたには……造花がお似合いだよ。そうやってまがい物に囲まれて生きていればいい。こんな風に花を枯らす人間なんて、本物の花を愛でる資格なんてないよ」
ひどい言い方だとわかっていても、自分を止められない。花に対してこんな扱いをする人間を見るのは初めてで、こんな仕打ちも初めてだった。自分の周りにいる人間は、皆、花を愛で、愛情を注ぐ者たちばかりだったから。
自分には到底理解できない生き物だった。
「本物って何? 生身であるということ? 私にとってこれが本物。この造花が心癒される嬉しいもの。この寒さに凍った星で唯一光り輝く太陽よ」
アーシャは造花の花束に顔を埋める。
「所詮はまがい物さ。あんた見たことがないんだろ? アレを、太陽の花を。本物の花を。それがいいと言うけど、本物の方が素晴らしいに決まってるじゃないか! 真の姿を見たことがないやつが、よく言うよ」
すると、アーシャは今まで見せなかった色を表した。無表情の中に、黒い瞳の奥に怒りがある。
初めての反応に少し、驚いた。
「そこまで言うなら見せてよ。本物とやらを。真とやらを。それで、私がこのひまわりから受ける以上の何かを感じたら、謝るわ。何でもあなたの言う通りにして謝るわよ!」
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