第三章 ガニメデのひまわり2

 黒い服を着た、がたいのいい男がすぐに近づいて来る。

「ロベルト・プロヴァンスさんのご依頼で花を届けに参りました」

 ちょっと気合いを入れれば敬語だって使える。気合いを入れないとボロがでるので地球でぎりぎりまでローズマリーに注意された。

「ああ。聞いているよ。あちらへ」

 彼の誘導で車を止めると、後部座席のポッドを覗く。今回のポッドは鉢を丸ごと入れるタイプで、少し大きめのものだ。色は定番のシルバーメタリックだが、ご丁寧にリボンがかけてある。邪魔だなと思いつつ、後ろのパネルを開いて状態を確認すると、そのまま扉を閉めた。どこかへ置くのだろうから、それを聞いてから移動させた方が効率的だし花への負担も少ない。

 端末だけ持って男の後をついていく。背が高い。何を食ったらそこまで高くなれるのか問い詰めたい。彼もシルヴィオのことが気になるのか、ちらちらとこちらを振り返る。言われることはわかっている。なぜ、少年が、SFCの配達に出向いているのか、と。

 配達に行くたびに言われるのでいい加減腹も立たなく――なるわけがない。そのつど問題を起こして帰って来るので滅多にシルヴィオは一人で配達にでなくなったのだ。本人にしてみればその方が良い。

 いくらでも問題を起こしてやるぜとの気構えでいるのが相手に伝わってしまったのか、なかなか彼は質問をしようとはしなかった。

 内心舌打ちをしながら、寒さに身を縮こまらせて周囲を見る。

 どうやらこの建物はギリシア神話をモチーフに作られているらしい。柱も、パルテノン神殿を意識しているようだった。いつの間にか青い空が夕暮れの色に変わり、白い建物があかね色に染まる。

 スタッフの通用口から建物の中に入ると、音楽が流れてきた。

 いや――、

「声?」

「ちょうどアーシャの出番だ。君、運がいいよ」

 レストランというよりもちょっとした劇場だった。

 中央のステージの周りにたくさんのテーブルが並び、空席がまったく見つからない。天井は高く、二階席、三階席がステージを眺めやすいように作られている。赤い絨毯に金や銀で化粧された装飾。テーブルや椅子もいちいち重そうで高価なものだった。

 シルヴィオは厨房脇の通用口からホールに入ると、足を止める。

 少し早い夕食の時間。テーブルには料理と飲み物のグラスが並ぶ。どうしたって音を立てずにはいられないその状況で、彼女の声以外、聞こえてくるものはない。給仕も示し合わせたように動きを止め、誰もがステージの上の彼女を見つめる。

 浅黒い肌に、彫りの深い顔立ち。青い、ターコイズブルーの絹を身体に巻きつけたような衣装で、彼女の唇から音が漏れる。

 歌詞はない。

 ただ音が。力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほど細い喉から、溢れてくる。

 ハープのような繊細な響きが時には二重になり、ホール内に響き渡った。

 食べることをやめ、動くことをやめ、彼女の音の虜になり、世界が音で満たされる。

 濡れた黒い瞳が宙を見つめ、動くたびに音程が変わる。旋律が渦のように彼女を中心に流れていく。

 ――いつ終わったのかわからなかった。

 拍手が、初めはまばらに、そして最後には波のようにステージへ押し寄せ、彼女が笑顔でお辞儀をした。

 賞賛の嵐を受け、何度も腰まである豊かな黒髪を揺らしてそれに応えていた。

「どうだい? 彼女の声は。歌詞すら必要がない、至高の音だろう」

 耳元でそう囁かれ、シルヴィオは意識せずにうなずき返していた。

 終わった今も、彼女の音が身体の中で響いて、指先がじんとしびれている。

「さあ、彼女に贈る花を持ってきてくれるかい?」

 右側に立った男を見上げる。黒いスーツに青のネクタイの壮年の男が言う。写真で見たロベルト・プロヴァンスだった。案内をしてくれたスタッフはいつの間にか消えている。

 自分がなんと答えたのかも曖昧なまま、車へ行き、そして、再びホールに戻る。足下がふわふわと頼りない。初めての品種に出会ったときのように、自分が熱に浮かされているの感じた。

 彼女はまだステージの上でたくさんの花束をもらっていた。

「ひまわり?」

 シルヴィオのつぶやきに、依頼主がうなずく。

「ああ。彼女は花をもらうならひまわりがいいと言うんだ。しかも、レプリカのね」

 だが、今シルヴィオが抱いているのは薔薇の鉢だ。深紅の花びらと甘い香りのする花だ。

「さあ、行こうか」

 彼は迷うことなく踏み出し、自然と割れる人垣を歩いていく。シルヴィオは夢うつつの状態でついていく。そして、一歩進むごとに少しずつではあるが現実へ引き戻されていった。

 やがて彼らの動きはステージ上の彼女に伝わった。振り返ったその表情には、先ほどの近寄りがたい雰囲気は微塵も感じられず、親しみやすい微笑みがのぼっていた。

「プロヴァンス様」

「やあ、アーシャ。今日も素晴らしい歌声だったよ」

「いらっしゃらないのかと思っていました」

「君の声を聞かずして、一日が終わるわけがないだろう? さあ、今日はプレゼントがあるんだ」

 ロベルトはこのレストランに、アーシャにとって特別な客なのだろう。周りは彼らの会話を邪魔することなくじっとその成り行きを見つめていた。

 彼に促され、シルヴィオが一歩前に出る。人々の視線は自然とその両腕に抱かれたポッドに集まった。

「SFC?」

「そう――彼女へ」

 シルヴィオは裏側のパネルを操作し、正面の銀色のカバーを開く。

 すると中からまさに今が見頃の赤い薔薇が一輪姿を現した。

 彼女の唇のように濡れた深紅の薔薇だ。

「まあ」

 アーシャのつぶやきに合わせて、周囲からいくつものため息が漏れる。

「困ります。こんな、――高価な物を」

「何を言うんだアーシャ。君の歌声に妻を亡くした私がどれだけ勇気づけられたか。君の声には癒しがある。せめてもの恩返しだ。もらってくれるね?」

 しばらくためらった後、やがてアーシャは笑顔をのぼらせうなずいた。年は二十四、五だろうか。そのはにかんだ表情が彼女をさらに若く見せる。

「さて、支配人。彼女の今日のステージはもう終わりかな?」

「はい。プロヴァンス様」

「それはよかった。彼女を送って花を設置してもらえるかな?」

 想定内のことだったので、シルヴィオは迷わずうなずいた。しかし、次は予想していなかったことで、思わず声をあげた。

「それでは私はこれで」

「え?」

「何か問題でも?」

「いえ、その……サインを」

「ああ。そうだったね」

 彼が手の平を出すので、シルヴィオは端末に受領書を出す。ロベルトは慣れた手つきで親指を押し付け、サインをした。

「設置場所は彼女の指示に従ってくれ。それじゃあ、今日はお先に失礼するよ」

 アーシャの手を取り、軽く口づけするとその紳士は優雅に退場する。客たちも途中だった食事を再開するために各テーブルへ散っていく。

 なんともあっさりした終わり方だ。

 呆然とそちらを見ていると、歌姫もステージから降りていくところだった。慌てて追いかける。ただし、花に影響が出ないよう慎重に。

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