第二章 月上美人7

 ラボ内の禁煙は徹底されていた。愛煙家は特定の場所でぷかりぷかりとやるしかない。アイリーンは定位置と化したその場所へ陣取り空を眺める。外からは見えないが内からは宇宙が見えるマジックミラー。

 高い高い天井の先にある青い惑星――地球。

 青と白と緑で彩られた美しい母星は、その囲いから自ら育んだ生命を排出することを拒んだ。しかし、明確な意思を持ったその子どもたちのうちの一部がその殻を無理矢理破る。やがて、母を裏切った子どもたちにはそれ相応の罰が下った。

「生活するうえで必要な植物は、正常に育っているのがまだ救いか」

 人類のとばっちりを食った植物は、その命を本能がままに保とうとしただけだ。誰が悪いわけでもない。あの男は運が悪かった。

 喫煙ルームの扉が開く。現れたのは花馬鹿でない方の部外者だった。彼は何も言わずに少し離れた席に腰を下ろし、彼女と同じように空を眺めた。

「どんな風に処理するんですか?」

「それを今考えていたところだ」

 独り言のような彼のつぶやきに、彼女も小さく返す。ここには録音をするようなものはない。ただ、監視カメラはあった。ほとんど唇を動かさずに、彼女はわざと口元をカメラに映るようにして話した。ニコラスは下を向いたまま。煙草を吸う手で上手く隠している。

「スティーヴン・クルーニーが、本当の依頼主だとしたら、政府は彼をどうするんですか?」

 スティーヴン・クルーニーは、最近就任したばかりの月の都市、ラングレヌ市の市長だった。月では特にヴンダニウム産業で成功した人間が市長などの名誉職に就くことが多い。そのバックに控えた金の力で更なる富と権力を買うのだ。彼もそんな一人だった。

 金を持つ人間が市長の座に就くことは、政府も悪いとは思っていない。その財力で月都市の経済力を高めるならば、多少の目こぼしはしようというそんな裏事情もあった。

「あるとは思えないが、もしも市長が根源だとして彼が証拠を残すような阿呆な真似をしていたとしてもだ、たぶん政府は手を出すことはしない。まあ、そこら辺の心配は事実関係を確認してからだろう。もっと上の連中が頭を悩ませるだけだ」

 白で統一された喫煙室に、二人分の紫煙がゆっくりと昇っている。

「あの彼はもう無理ですか?」

「根が心臓に達しているそうだ。月下美人が枯れれば彼も死ぬだろう」

「船員は?」

「船員?」

「あの彼だけじゃないでしょう? 他にもいたはずだ。彼らはどうなっているんですか?」

「ああ……」

 今はとある施設に収容されている。そのうち身に覚えのない罪状を山ほど突きつけられて独房に入り、人との接触を禁止されるだろう。そこで謎の心臓発作を起こすかもしれない。他の船員は二人。何百億という人間の安全を前にすれば些細な犠牲だと、上の人間は判断するのだろう。

 黙り込んだアイリーンに、ニコラスは何も言わず再び話を戻した。

「市長に関しても、変につついてあらぬ疑いを抱かせるよりは、ということですか?」

「そうだな。それよりは何かあったとき、密輸の件をちらつかせて黙らせるといった切り札に使う程度じゃないかな」

 秘密は完全には守れない。守ろうとするならば、秘密を知っている人間をすべて排除せねばならない。

「今、宇宙の認識は『きれいな花を咲かせる品種は地球外で枯れてしまう』この程度だ。この間お前たちが騒ぎを起こしたスイートピーなどの一部が成長障害を起こすということも、確かにああやって少しずつ漏れていく。だが、それでもまだ人々は危機感を抱かない。スイートピーはたいして害にはならないし、テロリストから自分たちの身を守れたというプラスのイメージが強い。だが、すべての人間が先の件を知れば中には危機感を募らせる扇動者が現れる。今回の件などは最悪の部類だ。どう考えても異常で危険な事態としか思えない。悪意ある扇動者が現れればパニックが起こる。今はそれが一番恐ろしい」

 植物に関しての情報を提示しろと人々が言う。だが、それは知らない人間の言葉だ。知っているからこそ隠そうとし、知らないからこそ知ろうとする。その不毛なやりとりはずっと続くのだろう。

 再び空の惑星へ目をやる。

 月は常に同じ側を地球へ向けており、こうやって日に何度か煙草を吸いに来るたびに、やはりあの緑溢れた星へ帰りたいと思う。地球など見えない火星では、ガニメデでは、人々は何を思うのだろう。母星へ似せて自分たちが住む土地を作りたいと思うのだろうか。

 突然がんがんと壁を叩く音がする。

 喫煙ルームは透明のプラスチック張りで、その外にものすごい笑顔のシルヴィオがいた。目をきらきらと子どものように輝かせている。

 彼の保護者と視線を交わして、アイリーンは煙草をもみ消すと顔だけ出した。

「どうした?」

「早く来いよ! すごいんだってば!」

 そのままずるずると腕を引っ張られる。

「わかったからやめろって」

 慌ててニコラスも喫煙室から出て二人を追いかける。

 先ほどのラボに着くと、皆モニターへ釘付けになっていた。

「室長……」

 一人が気付くと全員がこちらを向く。

 その複雑な表情から事態の次第を知った。

 月下美人は、一晩だけ花を咲かせる。その瞬間は、花びらが開く音が聞こえることもあるという。

 先ほどまではなかったつぼみがだんだんと上へ向き、今にも花開こうとしている。

「あっという間で、止める暇もありませんでした」

 それは予想されていたこと。シュートのできる速さといい、月下美人は生き急いでいた。通常の何十倍もの速さで生長し、やがては花を咲かせるのだろうと。

 だが、それでもさすがに早すぎる。まだ何の準備もできていなかった。

「宿主は?」

 彼女の質問に部下たちは一様に顔を伏せる。

「だめか……」

「ここに来て急に具合が悪くなっています。脈拍も先ほどまでの半分以下です」

 花開くためのエネルギーに、生命を吸い取られようとしている。生き残るために他を犠牲にする。それは太古の昔から繰り返されてきた。

「なあなあ! ここの天窓開いちゃだめ?」

 重い雰囲気をものともせずに、シルヴィオがアイリーンへ駆け寄る。

 この第三研究室は、もしも何かが起きたときのために研究室ごと移動できるようになっていた。その一環として天井が左右に開く。

「何をするんだ?」

 すると彼は、これ以上ないくらいの笑顔で空を指す。

「あいつに地球を見せてやりたい」

 花などという、実生活にはなんら必要のないものを、人は手に入れようとやっきになる。高価な品物で、確かにステイタスの一つとなるのかもしれない。だが、その何分の一の値段でもっと素晴らしいものが山ほど買える。けれど、人は花を求めた。地球でしか手に入らないとわかっているからこそ、望んだ。

 どこに行こうとも、人は地球を求める。

 母なる星を求める。

「わかった。開けてやれ」

「室長!?」

「必要書類は後で私が書くから」

「何? 面倒なことになるの?」

「たいしたことじゃないよ」

 シルヴィオの頭をポンと叩く。そのまま踵を返しラボを後にする。

「あれ、見てかないの?」

「お前が煙草の邪魔をしたんだろうが」

 

 月下美人は、青い惑星を天上に抱き、月上で初めての花を咲かせた。

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