カシュガルとこの世のものでないあの世の女
捨石 帰一
カシュガルとこの世のものでないあの世の女
ゴビの砂漠の彷徨える湖。人知れずそびえる伝説の燃える山。その麓のかたすみの小さな村に、カシュガルは暮らしていました。
カシュガルは、生まれた時から独りぼっちでした。少なくとも、自分で思い出せる限りでは。
『カシュガル』というのは、村の長がつけてくれた名前。どこか遠くの大きな町の名前と同じだということです。さしずめ、そちらの方から流れてきた者くらいの意味なのでしょう。
カシュガルは、感じています。自分はよそ者だと。
といっても、村人たちが不親切だった訳ではありません。身寄りのない自分の面倒をずっと見てくれているのですから。
けれど、誰一人、心を開いてくれていない。いえ、そんな難しいことは、子どものカシュガルには分かるはずもありません。ただ、なんとなく感じるのです。
カシュガルは、村人たちから、家畜の世話を任されています。といっても、あたりの土地は痩せていて、あまり草も生えないので、大した数の家畜は飼えないのですが。
夜になり、家畜を囲いに入れると、カシュガルは、村の長のところに行って、夕ご飯を分けてもらいます。それを持って、自分の寝床へ行き、星空を見ながらご飯を食べます。
カシュガルには、家はありません。夜は、家畜たちのそばの地面に動物の毛皮を敷いて横になります。凍てつく冬は、村の食べ物を蓄えておく岩室で寝起きします。
誰もカシュガルを泊めてくれないのか…いいえ、別に、村人がカシュガルに意地悪をしている訳ではありません。村はとても貧しいので、誰のところにもカシュガルの寝起きするだけの場所がなかったからです。
短い夏がやってきます。カシュガルは家畜を連れて草原へ出かけます。誰もいない草原。そこに行ってカシュガルは、ひと夏を過ごします。家畜に、夏の間に野に育つ僅かばかりの草を食べさせながら、草原を渡っていくのです。
村人はほんの少し、でも、せいいっぱいの食べ物をカシュガルに持たせます。
そして言うのです。荒野に出たら、気をつけるように、と。もちろん、人にではありません。荒野には、誰一人いないのですから。
荒野で出くわす獣でもありません。荒れ地では、人を襲うほど大きな獣など、端から生きていけないのですから。
では、何に気をつけるのか。そんなものは言うまでもない。それは、カシュガルにも分かっています。
一番気をつけなくてはいけないのは、自分自身と、そして…。
持たされた食べ物は、程なく底をつきます。あとは、家畜の乳と野に住む小さな獣。そして誰も食べることのない湖の魚。夏の間だけ現れる湖に不思議と繁殖している小さな魚たち…。
それでも、何とか生きていくことができます。
けれど、独りでいるのはとても寂しい。草原に一人でいると、毎日のように幻を見てしまいます。天駆ける龍、荒れ地のたうつ大蛇、湖面に映る大きな顔…。どれも、カシュガルの目にだけ映るありえない虚ろな影。それに惑わされないように、自分自身に語り掛けます。怯えるな、何も考えるな、何も、何一つも。
草原に来て、ひと月が立ちました。
幻は変わらずに、時折、目の前を踊っていきます。けれど、もうカシュガルには、それらに気を取られることが、全くなくなっています。何も考えていない自分がそこにいる。ありあまる空気の中、胸いっぱいの空気の中、寂しい自分が一人。
そんなある日、ついさっきまで目の前にいた家畜たちが、ちょっとうたたね寝をしている間に、どこかへ消えてしまったのです。眼前、見渡す限りどこにもいない。そんなはずは、絶対にないのに。カシュガルは慌てて立ち上がります。その拍子に、もんどりうって、地面に頭から逆さに落ちている自分に気がつきます。逆さに見える地面の前…そこに家畜たちの姿が。起き上がれば、確かに家畜が目の前にいます。自分は平らな地面に横になっていたはずなのに、今いるのは崖下の窪地。いや、崖の上で寝入ってしまったのだったかしら。いやいや、そんなことは…
そのとき、ふいに眼のふちを何かがよぎったような気がします。
それからも、ときどき、ほんの些細な、けれど、どう考えてもあり得ない出来事が続くのでした。捕まえておいた魚が、いつの間にか石の下に隠されていたり、獣を捕まえるためにしかけておいた罠が、いくら探しても見つからなかったり。あるときなど、川からほんの少し離れて藪を歩いただけで、川の場所が全く分からなくなってしまった、そんなこともありました。
そのたびに、眼のふちをよぎる何か。得体のしれない何か。
いつもカシュガルのまわりで踊っている幻ではない、確かにそこにあるような、何か分からないもの。
聞こえもしないくすくす笑いが、カシュガルの周りを包み込みます。身の毛もよだつくすくす笑い…。
見えている幻には、それに取り合わないことで、もはや感じることのなくなった恐怖。しかし、この見えない何ものかは、心の中に小さな澱を少しずつ積み重ねるように、カシュガルをどうしようもない恐怖に陥れていくのでした。
まる三日、カシュガルは、この恐れをじっと我慢しました。しかし、夜、寝る時まで、それは、眼のふちに宿って、消えようとしない、見えないのにそこにいる…。
一人でいる間、まったく口をきくことのないカシュガルです。けれど、三日目の朝、さっと眼のふちをよぎったその何ものかに向かって、思わず声に出して懇願してしまいます。
「お願いだから、姿を見せて!」
すると、『それ』は、虚空から、音もなくぞわぞわぞわっと目の前の一点に集まってきて、形のない一つの黒い塊になって漂い、揺れ始めるではありませんか。そして、どこからともなく声ともつかぬ声がするのです。
『吾は、汝の望みを叶え、姿現さぬ。吾、汝の僕となりぬ。望むもの与えん』
「君は、誰?」
『世の裏側を統べるものの使い。汝との契約をもって、汝の望み叶えん』
契約…契約ってなんだ。しかし、カシュガルの頭はまるで働きません。
「それじゃあ…もっと、ちゃんと姿を見せて」
『いかな姿を望む』
「それは…」
そう言われても、カシュガルには、何も思い浮かばないのでした。このひと月、何も、何の一つも考えないようにしてきたのですから。
ただ、せめて、こんな得体のしれないものでなく、人の形になって、できれば、自分に危害を加えない、もっと言えば、心安らかに話しができるような…
『あい分かった』
そう言うと、得体のしれない塊は、一度、空中に霧散して、次の瞬間、あたりの何かを集めるよう渦巻いて、人の形になって、地にふわりと降り立ちました。
若い女の姿をして。
ああ、この人は知っているような気がする。
「吾、汝の望み叶えん。汝の望むものとなりぬ」
女の声がそう言います。そう、その姿はどこかでずっと望んでいたもの…。
「吾、汝の望み二たび叶えん。汝、最後の望みを申し述べよ」
最後の?
ああ、これか。カシュガルは、思い当たりました。
これだったのか。今頃気づくなんて。村の皆が注意してくれたのに。
気をつけろ、荒れ野に現れるこの世のものでないあの世のそのそれに…。
あたりはまだ昼日中、太陽が真上に輝いているというのに、冷たい空気が肌をぬぐっていきます。
それは恐怖ゆえ…いいえ違います。草原の短い夏が、あっという間に終わろうとしているのです。
カシュガルは、はっと我に返ります。家畜を村に連れて帰らなければ。草原の夏は、恐ろしい速さで冬へと様変わりしてしまうのです。
カシュガルは、女の形をしたそれを置き去りにして、周りに散っている家畜を集め、川べりを村へと歩き始めます。
女の形をしたそれは、軽やかな足取りで、カシュガルのあとを、踊るようについてきます。カシュガルは、それに構わず、どんどん歩きます。日が暮れる前に、行けるところまで、とにかく少しでも村に近いところまで。一日で、気温はびっくりするほど下がっていくのですから。
そして、家畜を追いながら、その日は何とか、村まであと一日という丘の麓まで辿り着きました。
「汝、なぜにそう急ぐ」
女は、くすくす笑いを浮かべながらそう尋ねます。
「冬が来るからさ」
カシュガルは、不思議ともう恐怖を感じなくなっています。それが、望んだとおり、心安らかに話の出来る姿となって、目の前で微笑んでいるからでしょうか。
「当たり前だ。季節は巡る」
女はくすくす笑いを浮かべたまま言います。
カシュガルもつられて、思わず微笑んでしまいます。それは、この夏の間で、カシュガルの顔に始めて浮かんだ笑みでした。いいえ、もしかしたら、物心ついてから、初めての心からの笑みだったかもしれません。カシュガルは、なんだか心なし、楽しくなってしまうのでした。こんな、荒野の片隅で
それから、一日、家畜を追いたてながら懸命に歩いて、次の日の日暮前に、カシュガルは、何とか村にたどりつきます。村人たちは、毎年のことながら、季節変わりのあまりの速さに、大慌てで冬支度を整えるのに夢中で、カシュガルが戻ってきたことにも気がつかないようでした.
カシュガルは、家畜を囲いの中に追い込むと、村に戻ったことを長のところに伝えに向かいます。あたりは、もうすっかり暗くなってしまっています。
カシュガルは、薄ぼんやりと明かりのともった長の家の戸の前で声をかけます。
「誰だ、こんな時刻に」
「カシュガル!」
その声に応じて開かれる扉。そこに明かりを背にした長の影が現れます。
「よく帰った、ご苦労だったな、カシュ…」
と、そこで長の言葉が途絶えます。暗がりの中、長の眼が大きく見開かれるのが分かります。長の眼は、カシュガルの後ろを凝視したまま、まんじりともしません。
「カシュガル…おまえ…」
長は、そう呟くと、カシュガルの目の前で、ばたりと扉を閉めてしまいます。カシュガルは驚いて、閉まった扉に取りすがります。扉の向こうから、長のうめくような声が聞こえてきます。
「あんなものを…あんなものを連れて戻って」
カシュガルは、扉の向こうの長に呼びかけます。けれど、返事はありません。カシュガルは何度も呼びかけます。何度も何度も。カシュガルの後ろの暗がりからは、さっきからくすくす笑いが聞こえています。
しばらくの沈黙ののち、ようやく扉の向こうから、絞り出すような長の声が聞こえてきます。
「…カシュガル、村を出ろ、すぐに」
「なぜです」
「分かっておろう…それは、それは、ここにあってはならぬ、ならぬのだ」
ああ、そうだ。そうだった。そうなのだ。それは、荒れ野に現れるこの世のものでないあの世のそれ…
カシュガルの後ろでは、相変わらず、くすくす笑いが暗がりの中にしみこんでいくように、続いているのでした。
その夜のうちに、カシュガルは、誰に知られることもなく村を出ました。夜は、すっかり冷え込んで、とても眠るどころではありません。カシュガルは夜通し歩き続けました。
カシュガルの後ろには、変わらずに、この世のものでない女が軽やかな足取りでついてきます。
やがて、東の空に日の光が差し始めます。カシュガルは、さすがに疲れ果て、枯れかけた灌木を背に座り込みます。
「汝、何処に行かん」
女は、カシュガルを覗き込むようにして、問いかけます。その顔は、変わらずにくすくす笑いを浮かべています。
カシュガルは答えません。怒っていたから。いいえ違います。単に疲れ切っていたから。そして、そもそも自分がどこかに向かって歩いている訳ではなかったからです。
女の背後から朝日がカシュガルの顔に差し込みます。凍てついていた夜の空気が、少しずつ和らいでいきます。カシュガルは、そのまま深い眠りに落ちてしまいます。
どれくらいの時間そうしていたのでしょうか。眼を開くと、太陽は中天でぼんやりと輝いています。昼とはいえ、足早な冬は、すぐそばまでやってきていて、顔をなでる風はうすら寒い。けれど、カシュガルは、一向に寒くない。それは、すぐそばに温もりを感じているから。横には、カシュガルに寄り添うように女が眠っているのでした。
この世のものでないあの世のそれ、であるはずのものが、女の形をして人肌の温もりをカシュガルにゆだねているのです。こんな安らかな時間は、生まれてこの方、一度たりとも経験したことがない。カシュガルは、身じろぎ一つせずに、灌木を背に女の温もりに包まれます。体だけでなく、心の底までも。
二人は荒野を歩き続けます。食べ物は川の魚を取り、小動物を捕まえて。女は、この世のものではないものなのに、カシュガルとともにそれを食べます、ごく当たり前のように。そして、夜になれば、寒さをしのぐため、二人肌を触れ合って眠ります。
荒野の真ん中にいながら、カシュガルは、村にいた時より数段幸せに感じるのでした。
目覚めると女はカシュガルの顔を見てくすくす笑います。カシュガルは「おはよう」と言って起き上がります。村にいた時は、ついぞ口にしたことのない挨拶の言葉。そのまま、たいした会話もなく歩き続ける二人でしたが、特に問題はありません、いったいどこに向かっているのかということを除いては。
カシュガルは川に沿って歩いてきました。しかし、歩き始めて五日目の昼、朧な太陽の下、川は大きく大地を削って切り立った渓谷の中に沈んでいきます。後は目の前に道なき荒野が広がっているだけ。
「汝、何処へ向かわん」
女はくすくす笑いを浮かべて問いかけます。
「どこへ行ったらいいんだろう」
カシュガルは思わず女に問いかけます。
「それは、吾に答えを求める汝の望みなるか」
ああ、いけない。こんな質問が最後の望みに…
「いや、自分で決める」
女は面白そうにカシュガルの顔を覗き込みます。
「汝の名は、カシュガル」
そうだ、カシュガルだ。何を今さら。
女は、なおもカシュガルの顔を笑いながら覗き込みます。そうだ、俺の名はカシュガル、歌に唄われる南の都『カシュガル』、そのカシュガルから、火の山の麓に流れきたのやも知れぬ流浪のもの。
ああ、そうか。
「カシュガル」
女はそう言って、カシュガルの手を取りくるりと舞うようにして、カシュガルの額に自分の額を寄せ、その目を覗き込むようにすると、パッと飛びのいて、くすくす笑いました。
それから二人は、昼、太陽に向かって歩を進めます。大地はますます荒れ果てて、見渡す限り草一本見えない有様です。日の光が強くないこの季節、一日二日は飲まず食わずで、どうにかこうにか歩き続けることができなくもない、けれど、三日となるともう限界です。
カシュガルは川から離れた己の軽率さを恨みます。女はといえば、この世のものではないにもかかわらず、カシュガル同様に、やつれて生気がありません。
とにもかくにも、泉の一つも見つけないことには、己の、もしかしたら二人とも、『命』が危うくなってしまいそうです。
カシュガルは目を凝らします。しかし、見渡す限り、泉らしきもの、緑生い茂るオアシスらしきものなど、見当たりません。
「ああ、水…」
カシュガルの口から呟きが漏れます。
「そは…汝の望みか」
女が弱弱しく問い返します。
う…、望み。いや、望んでもいいかも…。
「吾も水を欲するところ。吾の欲するところにより、水出ださん」
女はそう言ってカシュガルに向けニッと笑ったまま、左手の先を天に向けて軽く二、三度輪を描くように振ります。
その瞬間、あたりに雷鳴が轟き、篠突くような雨が大地を激しく打ち始めたのです。女は顔を上げ、嬉しそうにくるくると大地の上を舞います。そして、舞いながらカシュガルに向かって笑いかけます、満面の笑みで。
そのまま二日ほど歩きます。何もない砂地は、ところどころに灌木が顔を覗かせる荒れ野へと姿を変えます。もう少し歩けば、オアシスに辿り着けるかもしれません。
荒れ野には生き物の気配はなく、食べる物にも事欠きます。
カシュガルは、灌木の根を掘り出して口に含みます。根はまだ生きていて、少しの水気といくばくかの食感を味わうことができます。
カシュガルは、根を割いて、女に渡します。女は微笑んでそれを受け取ると、親指と人差し指の先でつまんで、すっと手前に引いて汚れを落とすと、上を向いて、口の中へ垂らし、つるつると蕎麦のように食べてしまいます。
今日の食事はそれで終わり。歩く力も次第に弱り、とぼとぼと荒れ地を進むカシュガルと女。
夜になりました。二人は、また肌を寄せ合って眠ります。そろそろオアシスに辿り着かないと、二人とも行き倒れそうです。女は、自らは、不思議な力を使おうとはしません。己が身体がやつれ切っても、それにまかせたまま、カシュガルにつき従っています。
何の契約か、はっきりさせないながら、カシュガルに願いを叶え与えることで、その取引が成就する、それまでの間、カシュガルと共にいることとしている、そういうことなのでしょう。
夜が更けます。あたりには何の物音もしない、静寂だけに包まれた荒れ野が広がっています。かすかな寝息を立てて傍らで眠っている女。カシュガルは空腹でまんじりともせず、満天の星空を見上げていました。
そのとき、全く気配のない闇の中から、突然、黒い影が現れ、あっという間に二人を拘束すると、暗闇の荒れ地をすごい速度で走り抜け、二人を何処かへ運び去ります。
カシュガルは、疲れと空腹で声を上げることもできぬまま、恐怖すら感じることなく、連れ去られるに任せるしかありませんでした。
連れ去られた先は、険しい頂の上にある城のようなものの一室でした。日はすでに昇り、室内には朝日が筋をなして差し込んでいました。
広間の真ん中に下ろされたカシュガルと女。その周りには、彼らを運んできた者たちが並んでいます。皆、若者、というより少年のよう、年の頃はカシュガルと大して変わらない、幼さを残した顔立ちをしています。
部屋の中は、煙が漂い、何とも言えない香に満たされています。
目の前の一段高くなった場所には王座のような椅子が置かれ、老人が一人だらしなく座っています。その周りには、半裸の女たちが、座るでもなく横になるでもなく、所在なげにたむろしています。
老人が右手をかすかに動かすと、それを見た少年たちは、皆、音もなくカシュガルの周りからいなくなってしまいます。ずいぶんと訓練された者たちのようです。
「よく来たな。私は『サバー』。ここの生活には、おいおい慣れてくれればよい」
老人がそう言うと、周りにいた女たちが、カシュガルたちの方へ一人二人とやってきて、二人をそれぞれに小部屋へと誘っていきます。
カシュガルは、それからの日々をあまり良く覚えていません。
食べるのにはまったく困りませんでした。今までに食べたこともないような食べ物が日々食卓に上ったからです。一方、この世のものでないあの世の女は、別の部屋に連れていかれたきり。なんの音沙汰もありません。しかし、夢枕には良く立ちます。もっとも、女は、夢の中で、相変わらず何も言わず、くすくす笑いを浮かべているだけでしたが。
暫くすると、カシュガルは、毎日、武闘の訓練のようなものに駆り出されるようになりました。もともと、荒れ地で家畜と共に暮らしていたカシュガルは、身のこなしが軽く、すぐに周りの少年たちと遜色なく立ち回れるようになりました。
時に、刃物を使った訓練もありました。俊敏なカシュガルには何ということはありませんでしたが、中には、ずいぶんとひどいことになっている者もいます。ある時など、背中をたすきがけに切り裂かれ大量に出血した少年が、武闘の場に置き去りにされたことがありました。けれども、誰一人助けようとはしません。皆、一様にぼんやりとした眼をしていて、動作は素早いにもかかわらず、どこか反応が鈍いのです。カシュガルも同様です。そんな彼らを、置き去りにされた少年は鋭い目つきで睨みつけています。異国の出身なのでしょうか、その眼は、遠目にも不思議な色合いを放っていました。
こうして、幾週かが過ぎました。
ある日、カシュガルは、広間に連れ出されます。そこには、以前、出会った時のように、老人が美女を侍らせて、だらしなく椅子に座ってこちらに顔を向けています。老人のすぐ横、ひじ掛けのところには、この世のものでないあの女が、くすくす笑いを浮かべながら腰かけて、カシュガルを見ています。
「お前は来て間もないが、だいぶ腕が上がったようだな」
老人は、物憂げにカシュガルに話しかけます。
「そろそろお前にも一仕事してもらおう」
仕事…いつの間にカシュガルはこの老人に使われる身となったのでしょう。けれど、カシュガルは、そのことが、あまり気にならないのでした。部屋の中は、相変わらず強い香を放つ煙で白くけぶっていました。
時を置かず、カシュガルは山の頂の城を出て、申し渡された『仕事』を果たすために、南の都に向けて出発しました。食料も水も十分に持たされていたので、渇きや空腹を恐れることなく旅することができます。
しばらく荒れ野を歩いていると、ふいに背後で耳慣れたくすくす笑いが聞こえます。振り返るとこの世のものでないあの女が微笑んでいます。
「吾、汝と共にあらん」
女は、カシュガルと並んで歩き始めます。女が隣に立ち、肩と肩が触れ合った時、カシュガルは、久しぶりに頭がすっきりしたような感じがします。山の頂の城にいた間は、ずっと頭に霧がかかっていたような、そんな気がします。けれど、どういうわけか「『仕事』を果たさなくては」という、この気持ちだけは、どうにも、カシュガルの頭の中から、消えて行かないのです。あの老人の使用人になったわけでもないのに。
カシュガルとこの世のものでない女は、何日もかけてずいぶんと南まで歩きました。そして、ついに目指していた南の都、その門前まで辿り着きます。
都の名は、そう、言うまでもありません。
あたりは日が暮れて、既に夕闇が迫っています。門の前には、二人のほかに人影はありません。二人は、幾分急ぎ足で揃って都の門をくぐろうとします。と、二人を呼び止める者がいます…門の見張りです。
「手形を見せよ」
手形…手形とは。カシュガルには何のことか分かりません。
「手形を持たぬものは、それ相応の税を課す」
税。荒れ地で暮らしていたカシュガルには、世の中に『税』などという決め事があることなど、知る由もありません。もちろん、その意味が分かったとしても、支払うべき金品の持ち合わせなどないのですが。
睨みつける見張りの男。立ちすくむカシュガル。
「支払えぬのなら、立ち去るがよい」
見張りは、容赦なく言い放ちます。
すでに日はとっぷりと暮れています。
「本日は、もはやこれまで」
見張りは、声高らかにそう叫びます。それと同時に、見張り小屋から男が四人現れ、門の扉を閉めにかかります。都の門は日没とともに閉じられるのです。
重そうな扉が左右から閉じられていきます。せっかく、ここまで来たのに…カシュガルは、思わず叫びます。
「お願いします、中に入れてください」
すると、それまで一言も口を挟まなかったこの世のものでない女が、カシュガルの耳元で囁きます。そは、汝の望みか…と。カシュガルは思います。ああ、そう、そうとも。
女はくすくすっと笑います。
「今宵は冷える。吾は、今夜、暖かい屋根の下の褥で眠りたい」
女はそう言うと、懐から何かを取り出します。その広げた手のひらには、眩いばかりに輝く涙形の小石が二つ。その一つを、女は見張りに手渡します。
「おお、これは」
見張りは、絶句して、小石に見入ったまま、しばらく動きません。
女は、また、くすくすっと笑うと、もう一つの小石を、見張りの目の前にかざします。見張りは、我に返ると、その小石をひったくるようにして己の懐にしまいます。
「入るを許す。この台帳に記名せよ」
見張りは、分厚い帳面を広げ、筆を差し出します。
名前…けれど、カシュガルは字が書けません。どうしたものかと逡巡するカシュガル。その傍らで、女がすらすらと帳面に二振りの文字を並べます。
「よし」
見張りは、二人を通します。その後ろで扉が軋みながら大きな音ともに閉まります。
そして二人の目の前には…これまでの荒れ野とは打って変わって、人間の営みが息づいているのが見えます。
カシュガルは薄暗がりの中に浮かび上がる街並みに見入ります。
「参ろうぞ」
女が促します。
カシュガルは、先に立ち振り返って微笑んでいる女の顔を見て尋ねます。
「何て書いたんだ、名前」
「吾の名か」
女はカシュガルを面白そうに見て、再び前を向いて言います。
「『ロウラン』とした」
ロウラン。それは、遠く東の地の…
「町の名前じゃないか」
「汝と同様なり」
女はそう言うと、また、くすくすっと笑うのでした。
その夜は、宿に部屋を取ります。都のはずれにある小さな宿でしたが、カシュガルにとっては、寝台で眠るなど初めての経験です。あまりの心地よさに、これまでの疲れもあって、カシュガルはあっという間に眠りに落ちます。宿代はどうしたか…そんなことには、端から気が回りません。傍らでは、この世のものでない女が、満足そうに身体を延ばして寝息を立てていました。
明けてあくる日、カシュガルと女は、都の市に出かけます。都までの道のりは思いのほか遠く、女と食べ物を分け合ったこともあって、ここ数日は、ろくな物を食べていなかったので、まずは、何か食べる物を探しに行ったのです。
カシュガルは、こんなにも多くの人がいる場所に来たことがありません。何もかもが初めてのことばかり。見たこともない衣装を着た異国の者も行き交っています。市に居並ぶ店には、これまた、見たこともない珍しい物が所狭しと並べられています。何かの肉を焼いたものでしょうか、得も言われぬ良い香りを漂わせている食べ物を売る屋台。その前で、カシュガルは、動けなくなってしまいます。ふと振り向いて見る女の顔。女はくすくすっと笑って
「吾、すこぶる空腹なり」
と言うと、その焼いた肉を二切れ求めます。女は都で流通する金を持っているのでした。
カシュガルとこの世のものでない女は、市の中心の大きな広場に行くと、誰でも座って休むことができるように設えられている磨いた石に並んで腰かけ、焼いた香ばしい肉を食べます。カシュガルは、肉を一口、ぐっと噛み切ります。口の中に広がる甘辛い肉汁。あまりのおいしさに一瞬言葉を失うカシュガル。あっという間にむさぼるように食べ尽くすと、ほぉーっと大きなため息を吐きます。それを見て女はくすくすっと笑います。
「吾は、半身で十分」
女はそう言うと、木串に刺さった肉の半分をカシュガルによこします。
「いいの?」
カシュガルは、木串を受け取ると、はぐはぐと音を立てて、一気に飲み込むように食べてしまいました。
腹ごしらえも済み、ようやく一息ついたカシュガルは、都を見て回ることにしました。都は、市の周りに広がる職人街と、その奥の人々が暮らす街並みによって形作られています。そして、街並みの中心が小高い丘になっていて、そこに建つ都を統べる者の屋敷が街を見下ろしています。
カシュガルは思い出します。そうだ、ここに用があったんだ。あの「サバ―」と名乗る『山の老人』から託された『仕事』をやり遂げなければ。けれど、そもそも、この都に来たのには、別の目的があったような。そう、女とこの都に来ると決めたあの夕暮れ…カシュガルの頭は、そのあたりまで記憶をたどると、なぜかぼんやりと煙ってしまうのでした。
カシュガルは都をぐるりと回って、宿に帰ってきます。この世のものでない女は、後をついてきていたかと思うと、ふらっとどこかへ行ってしまい、また戻ってきては、カシュガルの横に張り付かんばかりにして歩きます。そして、時々、カシュガルの顔を見ては、くすくすっと笑います。どういう訳か、カシュガルには、それが嬉しいような気がするのでした。
翌日、カシュガルは、また市に出かけます。とりあえず、都を統べる者の屋敷に入り込む手立てを考えなければなりません。
市の中心の広場に来た時です。そこでは、昨日は見かけなかった人だかりができています。どうやら、その人だかりの中では、誰かが、何かをやって見せているようです。カシュガルと女は、その人だかりの中に分け入ります。人だかりの前まで出ると、そこでは、男が小さな猿に芸をさせています。ちょっとした芸が決まると、人々は大いに喝采します。中には小銭を投げる者がいます。男は、猿に芸をさせることで金を儲けているのです。
一通りの出し物が終わったのか、しばらくすると、男と子猿は、集まっていた人々に頭を下げます。人々は拍手をして、また小銭を投げます。子猿がそれを拾い集め、頭を下げます。それを見て、また、人々が沸いて、小銭が投げられます。そんなことが繰り返された後、集まっていた人々は、三々五々市の中に散っていきました。
大した見世物ではなかったのですが、娯楽が少ないのか、人々は満足した様子。カシュガルからして、見終わった後、子猿の賢さにひどく興奮していたのですから。
磨いた石に腰かけて、二人はしばらく休みます。どこからか女が買ってきた甘い果物を食べながら、市の様子をぼんやりと眺めます。昼近くになり、日もだいぶ昇って、少し暖かさが感じられるほどです。
果物を食べ終わったときです。この世のものでない女が、突然、カシュガルの方を向いて笑いながら言います。
「吾は踊りたくなりぬ」
意図を図りかねて、返す言葉のないカシュガルを置いて、女は立ち上がると広場の中心へと歩を進めます。そして、くるりと振り返ると、すっと身体を延ばし、片手を天に向け、その手をふわりと体に巻きつけるようにして身をくねらせます。足はそれにあわせて、ゆっくりとした拍子を刻んでいます。その舞は、少しずつ速さを増していきます。カシュガルは目を見張ります。人の、いや人ではないのかもしれませんが、その舞うところなど、これまで見たことがなかったからです。育った村では、みな日々の暮らしに追われ、舞を舞うような祭など何年も、少なくともカシュガルが覚えている限りでは、開かれたことがありません。カシュガルは、その舞の美しさに見とれます。見とれてしまったのはカシュガルだけではありません。広場にいた者は、ことごとくその舞姿に、心を奪われてしまいます。この世のものでない女の周りには、あっという間に何重もの人垣ができます。カシュガルは慌てて、人を掻き分けて、女の舞う目の前に座ります。女は舞いの速度を上げて、くるくると裾を広げて独楽のように回りだします。くるくる…あまりに見事に回るので、見る者は誰一人声も出しません。くるくる…そのままどれくらいの間、女は舞ったでしょうか。ふいに、女は両手をすっと天に向けると、腰を折って、ぴたりと止まります。
女は身を起こすと微笑みを浮かべます。その瞬間、見ていた者たちから、嵐のような拍手と歓声が巻き起こります。女は、息一つ切らすことなく、微笑みを浮かべたまま。
そして、右足をさっと前に出すと、深く腰を折って人々に礼をしました。再び沸き上がる大喝采。それはいつまでも終わらないのでした。
この世のものでない女は、歓声に応えて、もう一度、短く舞うと、丁寧にお辞儀をして広場の中心を後にしました。女が歩を進めると、人垣がさっと左右に分かれます。ご祝儀の小銭を投げる者など一人もいません。広場にいた者すべてが、その舞が見世物などという次元のものでないと感じていたからでしょう。カシュガルは立ち上がって女の後を追います。何人かの子供が続きます。女はそのまま磨いた石の所まで来て、そこに座ります。人々は去りがたいのか、遠巻きにして女の様子を伺っています。
カシュガルは、女の横に腰かけます。女はカシュガルの顔を見てくすくすっと笑います。カシュガルは、自分が舞った訳ではないのに、妙に気持ちが高ぶっています。自分のことのように嬉しく、何だか誇らしいような。カシュガルは、遠巻きにしている人々の方に目をやります。すると、そこから、傍目にもずいぶんと良い身なりをした、高貴な家柄の縁の者と見える女性が二人、こちらに近づいてきます。一人はまだ子供のように若く、もう一人は年配の女性です。年配の女性は、この世のものでない女に向かって、たいそう丁寧な物腰で話しかけます。
「突然、お声をおかけすることをお許しください。先ほどの舞、何とお美しく、素晴らしかったことでしょう。あのような舞はこれまで拝見したことがございません。さぞ、名のある踊り手の方とお見受けします。そこで、大変差し出がましいお願いなのですが、出来るならば我が屋敷にお出でいただき、ぜひとも家の者たちにその舞をご披露いただけないでしょうか。主もさぞや喜ぶことと存じます」
その申し出には女は何とも答えず、ただ微笑んでいます。年配の女性は、重ねて懇願します。
「お礼は、出来得る限りお望みのままに。何卒、お運びくださいますようお願い申し上げます」
年配の女性に誘われるまま、女とカシュガルは、屋敷に招じ入れられます。屋敷とは、街の中心にある都を統べる者、正にその人の住まう所です。本来なら、女だけが招待されるところを、その小姓ということで、カシュガルも同行を許されます。カシュガルが、屋敷に入る手立てを考える前に、女がお膳立てをしてくれたのか…この世のものでない女は何も言わず、カシュガルの顔を見てくすくすっと笑っているだけです。
屋敷の重そうな扉の門を入ると、雑然とした外の街並みとは打って変わって、十分に余裕のある敷地の中に、カシュガルが見たことのない不思議な造りの建物が、整然と立ち並んでいます。敷地の中には大きな池さえ設えられています。何もかもが贅沢な造り。屋敷の中で出会う人、侍女であったり召使であったり、それらの人々の服装も、街の人のものよりよほど清潔で、良い生地を使ってあつらえられています。カシュガルたちを案内してきた年配の女性からして、かなり贅を凝らした服を着ています。
「しばらくこちらでお待ちください」
カシュガルと女は、池の見える楼閣のような、一段高くなった部屋に通されます。こんな荒れ地の真ん中にある都にもかかわらず、渡り鳥でしょうか、白く細身の大きな鳥が一羽、池の岸辺に遊んでいます。と、その鳥が、何かに驚いたように羽ばたいて飛び去ります。
「お屋形様でございます」
池を眺めていたカシュガルたちが振り向くと、先の年配の女性が部屋の戸口に立っています。一人の偉丈夫を伴って。男は何も喋りません。にもかかわらず、そこにいるだけで、有無を言わせずに他を圧する何かを漂わせています。
男は年配の女性と共に、部屋の一角にどっかと腰を下ろします。楼閣の小部屋は踊り舞台のような造りになっています。どうやら、ここで舞を舞うようにということのようです。
けれど、この世のものでない女は、何するでもなく、男を見てくすくすっと笑っています。痛いような静けさがあたりを覆います。カシュガルは気が気ではありません。男も年配の女性もただじっと座っています。
しばらくそうしていると、ぱさっぱさっと羽音がして、先ほどの白い鳥が池の岸辺に戻ってきます。鳥は、細い足で池の岸にすっと立つと枯れた声で一声鳴きます。女はそれを聞くとにっこりほほ笑んで立ち上がり、おもむろに舞い始めます。ゆっくり、ゆっくりと足で拍子を取りながら。
女は舞い終わると、正に岸辺の鳥のようにすっと立ち、広場の時と同じく深々と礼をしました。
それまで全く無言で舞を見ていた男は、その瞬間、はじかれたように立ちあがると、その大きな手を打ち鳴らして拍手をします。その音に驚いて、岸辺の鳥は、またどこかへ飛んでいってしまいます。
女は、身を起こし、にっこりと笑顔を見せます。男は、その目をまっすぐ見ると、年配の女性に一瞬目配せをして、黙ったまま部屋を出ていってしまいました。
「ありがとうございました。お近くで拝見し、心が打ち震えるようでございます。主もご覧のようにこの上ない喜びようでございました」
年配の女性は頬を紅潮させ、心持ち上ずった声で続けます。
「もし、もしお差支えなければ、当方にしばらくご逗留願えませんでしょうか」
野に宿り、草の根を食み旅してきた身には、拒む理由などありません。まして、カシュガルには、この屋敷でやりとげなければならない『仕事』があるのですから。
年配の女性は、池を巡る渡り廊下を通って、池に面した屋敷の反対側にある離れの一室に二人を案内します。
「ここでお休みいただけますでしょうか」
部屋は程よく広く、南に面していながら直接日の光が射し込まないよう工夫された、すこぶる居心地の良いものでした。中央には華やかな装飾が施されたテーブルと椅子、奥は一段高くなっていて大きめの寝台が設えられています。
「それでは、ごゆるりとお過ごしください」
そう言うと、年配の女性は渡り廊下を母屋の方へ戻っていきました。
女性の姿が見えなくなると、カシュガルは、寝台に飛び込むように寝転がります。すると、寝転んだ体がふわっと寝台の中に埋まるではありませんか。宿の寝台がこれまでで最も素晴らしいものと思えたのが嘘のよう、その寝台は信じられないほど柔らかな織物で覆われていて、カシュガルの体全体を包み込んでいるのでした。驚いて首だけもたげるカシュガル。その様子を見て、女はくすくすっと笑います。
「お飲み物をお持ちしました」
声の主は、鮮やかな彩りの衣装をつけた、うら若い女性。細身の鳥の形をした水差しに入った飲み物と、細かな細工が施されたガラスの器を載せた盆を捧げ持ち、部屋の前に立って首を垂れています。
この世のものでない女は、少女から盆を受け取ると、片手の手のひらに載せ、くるりと半身をひるがえして、テーブルの上に置きます。それは、まるで先程の舞の続きを見ているようです。
女は振り向いて、部屋の入り口に立ってこちらを見ているうら若い女性の視線を捉え、くすくすっと笑います。その女性は、先に年配の女性と共に市の広場で出会ったあの少女でした。
カシュガルは、その女性の姿を改めてよく見ます。艶やかな衣を着た若い女性。けれど、まだどこか幼い、というか子供のような…もちろん、カシュガルは、そこまで、はっきりと言葉にして感じ取った訳ではありませんが、確かにその女性からは子供のような硬さが感じられるのでした。さらに、特徴的なその眼。片方の眼は、自分たちと同じ鳶色、けれどもう片方の眼は翡翠の色をしているのです。そして、それは自分たちとは違う何か、何か違うところのものを見ているような、そんな眼なのでした。
その晩、カシュガルとこの世のものでない女は、屋敷の主とその家族、主だった家臣らと共に、夕餉を囲みます。大きな広間のひどく長いテーブルの卓上に並べられた有り余る程の食べ物、そして酒。これほどのご馳走を、カシュガルは、かつて見たことがありません。こんなものをこの人たちは毎晩食べているのか、まさかそんなことは…そんなカシュガルの思いをよそに、皆平然とそれらの食べ物、飲み物を平らげていきます。そして、空になった食器は侍女がすぐさま下げ、また別の新たな食べ物を運んできます。この世のものでない女は、にこにこ微笑みながら、美味しそうに、これまたよく食べています。
カシュガルの横には、あの若い女性が控えています。女性は召使というより、さしずめ世話をするために二人の傍に侍る、家人に近しい者という役どころでしょうか。何か気の利いた会話をする訳でもなく、自らも食しながら、カシュガルとこの世のものでない女に不自由がないよう、よく気配りをしています。
やがて、宴もたけなわというところで、主が一つ手を打ち鳴らします。すると、薄衣を纏った女たちが夕餉のテーブルの周りに現れ、ゆったりと舞い踊り始めます。皆すこぶる美しく、舞もなかなかに見応えのあるものです。いつの間にか、背後に楽器を持った者たちが控え、舞に合わせて楽曲を奏でます。宴は大いに盛り上がります。ここで、この世のものでない女が立ち上がって女たちと共に舞い踊れば、その場はさらに華やかなものとなったのでしょうが…女はそうする素振も見せず、にこにこと嬉しそうに、ひたすら食べ続けているのでした。
その夜の宴は、そのままお開きとなります。主が席を立つと、家人も、一人また一人と席を立って部屋を出ていきます。カシュガルとこの世のものでない女は、かの若い女性に案内され離れの部屋に戻ります。
若い女性は、二人に、休む前に湯あみをするよう勧めます。カシュガルは湯あみなどしたことがない、というより、そもそも湯を浴びるなどということを考えたことがありませんから、若い女性が何を言っているのか良く分かりません。
この世のものでない女に促されるがまま、カシュガルは、若い女性の導きで湯殿に向かいます。湯殿は、離れのすぐ先に設えられています。それほど大きなものでなく、離れに泊まる客人のために用意されているようです。若い女性は「ごゆっくり」と言って下がっていきます。カシュガルは、どうしたものか、少なからず途方に暮れてしまいます。すると、この世のものでない女が、するすると着物を脱ぎ始めます。一糸まとわぬ姿となった女はカシュガルを見てくすくすっと笑います。
「汝も衣脱ぎたまえ」
女は呆然としているカシュガルの胸元に手を伸ばし、合わせを解いて、着物を脱がせようとします。女の美しい胸元がカシュガルの目の前に踊ります。帯を解こうとカシュガルに腕を回したその腋から、かすかに女の汗の香りがします。ぼうっとしているカシュガルの頬に女の髪が、かすかに触れます。耳元に一瞬女の吐息が聞こえます。
「さあ、湯あみせん」
カシュガルの服を脱がせた女は、先に立って湯気にかすむ湯船の方へ向き直ります。湯気の中に、女のすらりと伸びた脚と、その形のいい腰が、朧に影となって浮かび上がります。カシュガルは、女のその美しさに、その場に立ち尽くし、ただ動けずにいるのでした。
湯殿から出ると、二人の脱いだものが丁寧に畳まれていて、その横に湯上りに羽織るのに丁度よい着物が置かれていました。
カシュガルは、湯に浸かることなど、まして女と共に湯あみすることなど初めてだったので、体の火照りがどうにも収まりません。
この世のものでない女は、着物の横に同じく畳まれて置かれていた手拭いで、手早く体の水気を拭うと、何の躊躇もなく着物を羽織ります。体の火照りに、ぼんやりしていたカシュガルは、夜の冷気にさらされて大きなくしゃみを一つします。女はくすくすと笑いながら、手拭いでカシュガルの体をささっと拭きます。湯で上気した女の肌の温もりが触れんばかりに近づいて、カシュガルはますます体が火照ってしまいます。カシュガルは大慌てで自分も着物を羽織るのでした。
カシュガルと女は自分たちに供された部屋に戻ります。部屋の窓には夜の寒さを防ぐために既に戸が立てられ、寝台には夜具が用意されています。テーブルには湯上りの渇きを癒すための飲み物が二つ。あの若い女性の気配りでしょう。
カシュガルは寝台に横になる前に、厠へ向かいます。正直、我が身の火照りがまだ収まらず、夜風に当たって冷まさなければ寝つけそうになかったからです。
厠は、離れを挟んで湯殿の反対側に設けられています。カシュガルが廊下を渡っていくと、ひんやりとした空気が頬を撫でていきます。カシュガルは思わず身震いをします。あたりは真っ暗で、月明かりだけが頼りです。
カシュガルは厠の前までやって来ます。と、その時、どこからか人の呼ぶ声が聞こえます。「カシュガル…カシュガル…」声は、聞こえるか、聞こえないかという程にかすかなものです。この世のものでない女が、部屋から呼んでいるのか。いいえ、そうではありません。囁くようなその声は、女の良く通る声とは違った、耳を撫でるような声音です。カシュガルは周りを見回します。けれど暗くて良く分かりません。夜の冷気とは違った寒気がカシュガルの背中を走ります。「カシュガル…カシュガル…さあ」声は、カシュガルに何かを促します。カシュガルは足がすくんでその場から動けません。「カシュガル…さあ、カシュガル…」微かな声は、また促します。消え入りそうな声なのに、なぜかカシュガルの頭の中でその言葉がこだまします。「カシュガル…さあ」声が頭の中で渦を巻きます。その声が、頭の中に潜んでいたものを形にします。分かっている、分かっているよ、『仕事』をしなければいけないんだ、そう、あの『仕事』を…。
カシュガルは、声に導かれるように厠から母屋に向かって渡り廊下を進みます。声は相変わらず小さく微かにカシュガルの耳に囁きかけてきます。カシュガルは『山の老人』に言いつけられた『仕事』をこの屋敷でやり遂げなければなりません。『仕事』。その仕事とは…
「さあ、ここが主の部屋…」
声が囁きかけます。カシュガルは、母屋の奥まった一室の前に立っています。
カシュガルは、部屋の扉に手をかけます。そして、それを押し開けようとした、その時、カシュガルの耳元にふっと吐息がかかり、押し殺したくすくす笑いが聞こえます。
「汝、何をしたもう」
はっと我に返ったカシュガルのすぐ脇に、この世のものでない女がくすくす笑いを浮かべながら佇んでいます。カシュガルは、女に問われて改めて自分が何をしにこの屋敷に来たかを思い出そうとします。『山の老人』に命じられて、この都まで旅し、その都を統べる者の所へ行き、そして…そこから先がどうにもぼんやりして思い浮かべることができません。さっきまで、あの声に導かれている時には、はっきりと、するべきことが分かっていたはずなのに。
もう、カシュガルを導いてきた囁き声は聞こえません。いつの間にか、体の火照りも収まっています。
女は、まだぼんやりとしているカシュガルの手を取ると、その手を引いて、先に立って歩き出します。カシュガルの手を握った女の手のひらは、ふんわりとして、まるで真綿に触れているような、そんな手触りがするのでした。
あくる日、カシュガルが目覚めたのは、ずいぶんと高く日が昇ってからでした。部屋に女は居らず、カシュガルただ一人。カシュガルは、服を着ると部屋の外へ出てみます。離れには誰もいない様子です。一方、母屋の方には、廊下を行き来する侍女たちの姿が見えます。そろそろ昼時なのでしょうか、食べ物を盛った大皿を運んでいく者もいます。
それを見て、カシュガルのお腹が、くうと鳴ります。昨日の晩、あんなに食べたのに。それとも、あんなに食べたので、胃袋が大きくなってしまったのでしょうか。つい何日か前までは、大して食べていなかったのですから。
カシュガルは厠へ行きます。厠への渡り廊下で、昨日の晩のことが思い出されます。真夜中に自分に呼びかける不可思議な声、そして、この屋敷で自分がしなければならない『仕事』。
その『仕事』が一体何なのか。カシュガルの頭は、また、ぼおっとしてしまうのでした。
カシュガルは、母屋の広間に向かいます。何人もの侍女が、その方向へ足早に歩いて行くのについていったのです。広間には、既に大勢の人が集まっています。昨夜あったテーブルは片づけられ、大皿に盛られた食べ物や飲み物が無造作に床に並べられ、その周りに屋敷の人々が思い思いに腰を下ろしています。
カシュガルが広間に入ると、例の若い女性が目敏く見つけ、カシュガルに身振りで自分の隣の席につくよう合図します。主の姿はまだありません。主が来るのを待っているのか、誰一人、食べ物、飲み物に手を付けている者はありません。
暫くすると、広間の反対側の扉が開き、主と年配の女性が入ってきます。カシュガルと女をこの屋敷に誘った女性です。主は広間の真ん中を横切り、集まった人々の中央にどっかと腰を下ろします。年配の女性は、その少し下手の方に固まって座っている女性たちの中に腰を下ろしました。
主が座につくのを待って、侍女がその杯に飲み物を注ぎます。主はそれをぐいっと一気に飲み干します。それがきっかけとなって、広間の一同が飲み、食べ始めます。
カシュガルは改めて広間を見回します。腰を下ろしている人々の顔を隅から隅まで眺め、この世のものでない女を探します。けれど、女はどこにも見当たりません。もちろん、見落とすことなどありはしません。何しろ女は、この世のものでない程、美しいのですから。
すると、ふいに楽器の音が聞こえてきます。振り返ると、表に面した広間の入口から、楽器を携えた男女が、それを奏でながら入ってきます。そして、その後ろから、艶やかな衣装に身を包んだ女、この世のものでない女が、優雅に舞いながら歩を進めてきます。女は口元に笑みを浮かべながら、いかにも楽しそうに舞い踊ります。広間に座した者たちは、女の舞の邪魔にならぬよう、座を立って左右に分かれ、その通り道を開けます。
女は、広間の真ん中に踊り出ると、楽曲に合わせて、心地よさげに舞を舞います。時に軽快に、時に妖しく、その舞は続きます。
ある者は驚嘆の叫びを上げ、また、ある者は魅入られたように舞と共に体を揺らしています。広間は次第に興奮の渦に包まれていきます。
楽曲の調子は徐々に速くなっていきます。女は曲に合わせて身体を回転させて踊ります。速く速く、衣装が広がって伏せた杯のようになりながら、女は回り続けます。けれど、その身体の軸は全くぶれることなく、まるで天からまっすぐな一本の糸で吊るされているかのように、寸分の狂いもなく同じ場所で回り続けます。
広間の一同は、打ち揃って、舞に合わせて手拍子を送ります。手拍子は次第次第に速くなり、熱を帯びてきます。女は手拍子に合わせて速く速く舞い、このまま回りながら飛び去ってしまうのではないかと思う程に旋回し続けた、その瞬間、女はすっと両手を差し上げ、ぴたりとその場に止まりました。そして、それまで回っていたのが幻であったかの如くに全くふらつくことなく、さっと右足を差し出すと、そのまま深々と礼をします。
楽曲も手拍子も鳴りやんだ広間は、一瞬、しんと静まり返ります。女は、優雅に身を起こすと、満面の笑みを浮かべます。それを見たとたん、広間の一同は、割れんばかりの大歓声を上げます。主は、手に持った杯を女に向けて掲げます。一同も、自らの杯を掲げ、主が飲み干すのに合わせ、一気に杯を開けます。
女は笑みを浮かべたまま、広間を横切り、まっすぐカシュガルの方へやって来て、その隣に座ります。そして、カシュガルの持っていた杯をすっと手に取ると、その中身をごくごくと美味しそうに飲み干します。女の頬には、うっすらと汗が浮かび、その顔は上気して赤みがさし、美しく桃色に光っているのでした。
昼食の席は、夕餉のそれより簡素なものでしたが、それでも、たっぷりと食べ物が用意されています。夕餉には同席しなかった者たちも集まっていて、わいわいと食事を共にしています。中には子供も混じっており、何人かは、この世のものでない女を遠巻きにして見ています。
女は、そんな子供たちに目をやると、にっと笑います。子供たちは恥ずかしそうにして、それぞれの母親の後ろに隠れてしまいます。女はくすくすっと笑うと、目の前の皿から食べ物をつまんで口に頬張りました。
昼食の後は、特に何をするでもなく過ぎていきました。カシュガルと女は、離れの部屋で池を眺めながら過ごします。久し振りののんびりとした時間です。池では、昨日と同じように白い鳥が、岸辺に一羽遊んでいます
「なぜ、みんなの前で踊ったの?」
カシュガルは女に尋ねます。人に請われたからといって、自ら舞を舞うような女ではないのですから。
「衣装が頗る美しかったであろう?」
女はカシュガルの問いには答えず、反対に問い返します。
「ああ、びっくりするくらい、本当にきれいだった」
それぞれが、それぞれの問いに、直接に答えを返したという訳ではありません。けれど、お互いに、その言わんとしたことは通じたと、カシュガルは思いました。少なくともカシュガルには、女の言おうとしたことは分かります。それが本心かどうかは別として。
やがて日は傾き、部屋は夕闇に包まれます。そこへ、頃合いを見計らったように、あの若い女性が明かりを灯しにやってきます。
「昼の舞は以前にも増して素晴らしゅうございました。今宵も粗餐を用意いたしておりますので、どうぞお運びください」
部屋の入口に立ち、若い女性は一礼をして二人を夕餉に誘います。この世のものでない女は、若い女性の顔を見ながら、くすくすっと笑います。
「昨晩はもう一息であったな」
この世のものでない女は、若い女性に意味ありげな笑みを浮かべながら話しかけます。若い女性は、それに特段の反応を示さず、
「支度は整っておりますので。広間でお待ちしております」
そう言うと、また礼をして去っていきました。カシュガルは二人のやり取りがかみ合わないのを訝しく思います。
「何が、もう一息だったの?」
女はそれには答えず、カシュガルの顔を見て微笑み、腰かけていた窓辺の縁台から降りて立ち上がります。
「さあ、夕餉に参ろうぞ」
月の出が遅いその晩は、星明かりだけのずいぶんと暗い夜です。カシュガルと女は早々と床に就き、夜半にはすっかり寝入っていました。
東の空に下弦の月がそろそろ顔を出すか出さないかという時刻のこと。暗闇から誰かを呼ぶ声が聞こえてきます。そうです、また、カシュガルを呼ぶ声です。
カシュガルは、その声に反応して、ふらりと寝台から立ち上がります。半分目覚めているようないないようなおかしな感覚です。呼び声は、昨日の晩のように、母屋の方へカシュガルを導いていきます。
やがて、昨晩と同じように、カシュガルは母屋の主の部屋の前に立ちます。そして、今度こそ、その扉を開けて中に入らんと…
「ぐっ…」
その時、渡り廊下の下から、押し殺したような喘ぎ声が聞こえます。カシュガルは、その場で凍り付きます。渡り廊下の下で人がうごめく気配がします。そして、聞きなれたくすくす笑いが聞こえてきます。
カシュガルとこの世のものでない女は、離れの部屋に戻っています。カシュガルは寝台に、女は窓辺の縁台に座っています。テーブルの前の椅子には、女性が一人。あの若い女性が座っています。着物が乱れ、少し汚れています。
「なぜ、俺を呼んでた」
若い女性は答えません。
「なんで、俺の名前を知ってる」
やはり、女性は答えません。この世のものでない女は、面白そうにそのやり取りを見ています。
「何故、それほどに急ぐ」
この世のものでない女は、おかしそうに尋ねます。
「二晩続けて、同じ手管とは能がない」
若い女性は、この世のものでない女を睨みつけます。睨みつけられても、女はかわらず微笑んでいます。開け放った窓から月の光が、丁度差し込んできます。沈黙の後、若い女性は、この世のものでない女からその鋭い視線を外します。
「もう時間がないのだ」
若い女性は、足下に目を落とし、低い声で呟きます。その声が、あまりに低いので、カシュガルはびっくりします。
「人の命の時は短いからのぉ」
この世のものでない女は、くすくす笑いながら返します。
「そうではないっ」
若い女性は、強い口調で言い返します。その声は若い娘のそれとはとても思えぬほど…。
暫く後、若い女性は、絞り出すように言います。
「アル・ラアを…救わねばならぬ」
アル・ラア?…カシュガルの脳裏をよぎった疑問に答えるように女性が呟きます。
「アル・ラアを…妹を」
この世のものでない女は、寝台を降りて、若い女性に近づきます。驚いて身構える女性。この世のものでない女は、それには構わず、若い女性の傍らに立つと、すっとその頭を抱き寄せます。
「言わずとも承知しておる」
そして、カシュガルを振り返って言います。
「いい月夜となった。湯でも浴びに参ろう」
湯など毎日浴びるものなのか…ましてこんな状況で。
この世のものでない女とカシュガル、そして若い女性の黒い影が、月明かりの中、湯殿への渡り廊下を歩んでいきます。
湯殿に着くと女はさっと着物を脱いで湯船に向かいます。
「湯は立てておらん」
若い女性は目を伏せて、後ろからぼそっと呟きます。この世のものでない女は、振り向いてくすくす笑うと、そのまま湯船に浸かってしまいます。
「よい心持ちぞ。汝らも」
女は、湯船から微笑みかけます。いつの間にか湯船からは湯気が立ち上っています。
湯殿でじっとしていると足下から夜の冷気が忍び寄ってきます。カシュガルは着物を脱いで湯船に向かいます。けれど、若い女性は、カシュガルを真っすぐ見て立ったまま動こうとしません。
「さあ、汝もここへ、アル・ラジュ」
若い女性は、ひどく驚いた様子で、この世のものでない女を見ます。アル・ラジュ…というのは、この若い女性の名前なのでしょうか。この世のものでない女は、なぜそれを知っているのでしょうか。女の横で湯船に浸かりながら、女の豊かな乳房が湯に浮かぶ様に、どぎまぎしているカシュガルの頭は、ますます訳が分からなくなってしまうのでした。
ずいぶん長いこと湯に浸かっていたような気がします。カシュガルは、すっかりのぼせあがってしまいます。この世のものでない女も、いい具合にほんのりと薄桃色にほてった白い肌を湯船の端にもたせ掛け、こちらに体を向けて微笑んでいます。横座りになった女の体は、カシュガルの目の前で、湯を透かして前に後ろにゆらゆらと揺らめいています。カシュガルは、熱いのと気恥ずかしいのが相俟って、本当に頭から湯気が出そうでした。
この世のものでない女は、何か聞きなれない歌を口ずさみ始めます。女は、とても心地よさげに唄います。その歌声は、聞いている者を限りなく穏やかな心持ちに誘っていくようでいて、一方でどこか落ち着かなくさせる不思議な響きを持っています。
カシュガルは、その落ち着かさなさ加減に突き動かされて、我慢できずに湯船から外へ出ます。女の歌声を背中に聞いて、そのまま数歩進んだところで、湯気の向こうに人影が見えます。湯殿は外の冷気に晒されて、霞むほどの湯気に包まれています。湯気の先に、朧にしか見えないそのシルエットは、髪の長い若い裸体…。それはあの若い女性の姿です。けれど、女性にしては、その体はまろやかさに欠けている…もっとも、既にのぼせて頭がぼんやりしているカシュガルには、実のところそこまでは見て取ることはできないのでしたが。
人影は、虚ろなカシュガルの横をすり抜け、湯船へと向かいます。露になった胸には膨らみはなく、引き締まった上半身が湯気を割ってカシュガルの目の前をよぎります。すれ違ったその横顔は、確かにあの女性。そして、カシュガルがその背中を目で追うと…肩口からばっさりと斜めに走る深い刀傷が赤黒く浮かんで湯気の中に消えていきます。
湯気に煙った人影は、そのまま湯船に入って、この世のものでない女の影と並びます。
カシュガルは、もはや何も考えることができなくなって、熱さで床に座り込むと、そのまま意識を失ってしまいます。遠のく意識の中で、この世のものでない女と若い女性が、ずいぶんと低い声で何かを話しているのが聞こえてきたような、そんな気がしました。
気がつくと、カシュガルは離れの部屋の寝台に寝かされていました。
「気分は如何なり」
寝台に腰かけていたこの世のものでない女は、微笑みながらカシュガルの顔を覗き込みます。カシュガルは、まだ視点が定まらず、女の顔がぼんやりと歪んで見えます。女は、そんなカシュガルの様子を見てくすくす笑います。そして、枕元に置いてあった水差しから直接に水を口に含むと、カシュガルに顔を近づけて、何のためらいもなく、口移しに水を飲ませます。女のやわらかな唇が優しくカシュガルの口元に触れ、その触れ合う感触の狭間から、女の与えた水がゆるゆるとカシュガルの喉へ流れ込みます。
何と美味しい水でしたでしょう。カシュガルは女の与えてくれた水が体に染み渡るように感じます。無理もありません、あまりにのぼせ上がり、湯殿で体の水気がすっかり抜けきってしまっていたのですから。
女はもう一口カシュガルに水を与えます。おかげでカシュガルは次第に頭も心もはっきりとしてきます。女は、寝台に腰かけて、変わらずにカシュガルを見つめています。つい今しがた、口移しに水を飲んだことが、カシュガルには、まるで夢であったかのように感じられます。女はカシュガルの顔を見て、また、くすくすっと笑います。
あたりは闇に包まれています。何一つ物音もしません。カシュガルは、先ほどの湯殿でのことを思い返します。あそこで見たものは一体何だったのか。あれもまた、夢だったのか…。
窓からの薄ぼんやりとした月明かりが部屋の中を照らしています。その中で、影が一つ蠢きます。驚いて転じたカシュガルの目に、若い人の姿が映ります。それは少女、いや少年…その面立ちには確かに見覚えがあります。何かを射すくめるようなその眼差し。そうです。あの若い女性。けれど、湯に浸かり化粧の落ちたその顔は、女性というより、幼さの残る少年のそれです。
カシュガルはもう一度よく見ようと、首をもたげます。けれど何とも力が入らず、ちょっと首を傾けただけで、力なく頭が枕に沈み込みます。女は、それを見てくすくす笑いながらカシュガルの頭を手で支えます。
若い女性、いえ、湯殿でアル・ラジュと呼ばれたその者が、テーブルの前の椅子に腰かけカシュガルと女を見つめています。
「汝、この者に見覚えはないか」
女はカシュガルを膝枕して、顔を覗き込んで笑みを浮かべて尋ねます。カシュガルは記憶をたどります。育った村には老人と子供ばかりでこんな若い者はいません。貧しいがゆえに、働ける者は、皆よその町に出稼ぎに行っていました。あと、若い者と一緒になったのは…。そうです、あの山の頂の城です。けれどカシュガルは、その時のことが、あまり良く思い出せません。
「汝は、香に毒されておったからのぉ」
香に毒されていた。確かに城には香が立ち込めていましたけれど…。ということは、この者は、あの城にいた者たちの一人だというのでしょうか。『山の老人』の周りに侍っていた妖艶な美女たちの一人…いえいえ、ここにいる者は妖艶とは程遠い。老人の小姓だというならまだしも。けれど、そんな小姓など山の頂の城にはいませんでした。
女はカシュガルの様子を見てくすくすと笑っています。
「この者は汝と同じ者。異なるのは香に毒されておらぬこと」
ほどなく日が昇り始めます。日の光の中でその若い者の姿が浮かび上がります。着崩れて、胸元がはだけてしまっている着物。眉も頬紅も落ち、鋭い眼光の下の頬骨が凛々しさを漂わせる顔。その姿はまさに少年です。
「少年」は、何か違うところのものを見ているようなその翡翠色と鳶色の眼で、カシュガルとこの世のものでない女を黙って見据えています。
母屋の方から、人の動き回る音が聞こえてきます。侍女たちが朝の支度をし始めたようです。
「己が寝所に戻り、化粧を直し、着物を正せ」
女は少年にそう告げます。少年はカシュガルと女に視線を残したまま、部屋を出ていきます。去り際に、少年は女と目を交わします。女はにっこりと微笑んで少年を送り出します。
その日は一日何事もなく過ぎていきます。カシュガルは寝不足と、湯殿でのぼせあがって倒れたせいで体が怠く、動く気がしません。女も、部屋の窓辺に腰かけて日がな一日池を眺めながら、眠そうに時々大きな欠伸をしています。池では、相変わらず白い鳥が一羽、じっと岸辺に佇んでいます。すっかり眠気を誘うそんな昼過ぎ、カシュガルは、とろんとした目をしている女に尋ねます。
「昨日、俺が寝ている間、あいつと何を話したの」
女は物憂げにカシュガルの方に向き直ります。外からの風が、女の巻き上げた髪のほつれを頬の上に軽くなびかせます。
「あいつはいったい誰なの」
女は、カシュガルを見て、また一つ大きな欠伸をします。そして、窓の縁に腕を伸ばし、その上に頭を横たえます。
「あいつは、なぜ俺を呼んでたの」
「問いばかりだのぉ」
女は頭を横たえたまま気怠そうな笑みを浮かべます。
「汝はこの屋敷に何をしに参った」
カシュガルは答えられません。『山の老人』に命じられてこの屋敷で成し遂げなければならない『仕事』。どうしてもそれがはっきりと思い浮かばないのです。
「香の力は絶大であることよ」
女はそう言うとくすっと笑います。
「汝は」
女はカシュガルの眼を見て意味ありげな顔で続けます。
「アサシンを為しにここに参った」
アサシン…
その時、母屋の方から大きな叫び声が聞こえます。怒号とも悲鳴ともつかない声がそれにかぶって響いてきます。その声に驚いて、池の白い鳥がぱさぱさとどこかへ飛び去っていきます。
騒ぎはそれだけですぐに収まりましたが、どうにも気になる出来事です。カシュガルは、母屋の方へ向かいます。
母屋では、侍女たちが右往左往しています。彼女たちの話し声は、大きくはないけれど、さざ波のように母屋の中に漂っています。その話し声の中心を目指し、カシュガルが厨房に足を踏み入れると、そこにはけっこうな人だかりが出来ています。人だかりを掻き分け中に入ると、厨房の床の上に食器や料理が散乱しており、その真ん中に侍女が一人倒れています。その口は泡を吹き、鼻から血を流して、視点の定まらない瞳を大きく見開いています。そして、全身を強張らせ、びくっびくっと痙攣を繰り返しています。
「哀れな」
中腰にしゃがんでいたカシュガルの背に、女の上半身がもたれ掛かります。いつの間にかやって来ていたこの世のものでない女が、カシュガルの肩口から、倒れている侍女を見て、気怠そうにそう言います。
「何があったッ」
どやどやと駆けつけてきた男衆が怒鳴ります。侍女たちは顔を見合わせるだけで、誰一人答えません。
「これは強い毒だのぉ。このままではもう長くない」
この世のものでない女が、いたずらっぽい表情でそう独り言ちます。
「毒だとッ」
男衆は、それ以上言葉が続きません。誰も状況が飲み込めず、狼狽えています。もちろんカシュガルも。この世のものでない女だけが、訳知り顔で、カシュガルの肩に眠そうに顎を乗せ、その背にもたれているのでした。
やがて、倒れている侍女の痙攣が徐々に弱まっていきます。年かさの侍女が、彼女の口や鼻を濡れた手拭いで拭き取って、白湯を飲ませようとします。
「その程度では足らぬぞ、樽一杯飲ませよ」
この世のものでない女が、少し強い口調で言います。年かさの侍女は、驚いて顔を上げると、すぐさま他の侍女に水を持って来るよう指示します。侍女たちは、水の入った樽を数人がかりで運んで来ます。年かさの侍女はそれを柄杓ですくって飲ませようとします。けれど、水は口元から外へ流れ落ちてしまいます。
「漏斗を用いよ」
この世のものでない女は、ずいぶんとひどいことを言います。侍女たちは顔を見合わせています。
「急がぬと死ぬるぞ」
年かさの侍女は、意を決した様子で、厨房の棚から漏斗を探し出し、倒れている侍女の口に無理やり差し込むと、水を流し込もうとします。
「少し体を横にせよ、肺の臓に水が入らぬよう」
侍女たちは、倒れている侍女を少し横に向かせます。年かさの侍女が、漏斗に水を流し込みます。ごぶごぶと嫌な音をさせて、水が喉から流し込まれていきます。
「樽一杯飲み込ませたら、全て吐き出させよ」
年かさの侍女は水を流し込みながら黙って頷きます。この世のものでない女は、それを見るとカシュガルの背に持たれるのをやめて、人だかりの中を戻っていきます。カシュガルの手を引いて。
カシュガルは、倒れている侍女が気になって振り返りますが、女はお構いなく部屋に戻っていきます。
「大丈夫なの」
「案ずるな」
女はカシュガルの顔を見ると、にっこり微笑みます。
侍女は助かりました。まだ若かったこともあって、手荒な療治にも体が良く耐えたようです。
結局、厨房で何が起こったのかは分からずじまいでした。昼食に供される予定だった料理を運ぶ際に、それをちょっとつまんだ若い侍女が、料理を運んでいた周りの者たちを巻き込んでそのまま床に倒れ込んだ…分かっているのはそれだけでした。床に散らばってしまったどの料理に毒が盛られていたのか、誰がその毒を仕込んだのか、それは分らぬままなのでした。
侍女の取りまとめを任されていたのでしょう、年かさの侍女は責任を取らされ、見せしめのために、使用人たちの前で上半身の着物を剥がれ、鞭打たれてしまいます。侍女の背は、みるみるみみず腫れになり、目を背けたくなる程の有様。ついには背中の皮膚が破れ、幾重にも血の筋がほとばしります。侍女は地面に突っ伏し意識を失います。そこで、仕置きは漸く打ち止めとなります。
屋敷の中には殺伐とした空気が流れ、カシュガルはどうにもいたたまれない気持ちになってしまうのでした。
その翌日、屋敷に見慣れぬ出立の来訪者がありました。侍女たちが交わす話から察すると、その者たちは、異国から主の元へ、何か貢物を携えてやって来た様子。
一方、件の若い女性…いえ、少年は、昨日の明け方の出来事以来、カシュガルと女の前に姿を現しません。異国の者たちを交えた晩餐の席にもその姿はありません。
広間では盛大な宴が催され、例によって披露される演舞が、場を盛り上げます。酒も程良く入り、一同やんやの喝采の中、その視線は自然とこの世のものでない女に集まります。けれど、女はまるで意に介することなく、変わらず楽しげに良く食べ、良く飲みます。主も、いつもと変わることなく、どっしりと広間の中央に座し、女を気にする素振りもありません。
やがて演舞も終わり、つかの間、座に静けさが訪れます。その時を見計らっていたのでしょうか。異国からの来訪者の一人が、主の前に進み出て恭しく礼をすると、口上を述べ始めます。けれど、カシュガルには何を言っているかわかりません。今までに聞いたことのない言葉です。
「何て言っているの」
カシュガルは、この世のものでない女にそっと尋ねます。女は頬張っていた骨付き肉の塊をゆっくり飲み込むと、カシュガルの耳に口を近づけて囁きます。
「主が近々嫁を迎えるにあたり、祝いの品を献上すると申しておる」
「嫁って、いつも隣にいる人は奥さんじゃないの」
カシュガルは、主人の横に座っている華やかに着飾った年配の女性、カシュガルと女を屋敷に招じ入れた、かの女性こそが主の連れ合いだとばかり思っていました。
「力のある者は、何人でも妻を持つ」
何人でも…。あの女性のほかに、また妻を娶るというのでしょうか。カシュガルの育った村では、そんなことは考えられません。村の者たちは、夫婦二人、力を合わせて、どうにか日々の暮らしを営んでいくだけの糧を得る、それが精一杯でしたから。
異国の者の口上が終わると、続きの間の扉が開き、貢物の数々が侍女たちによって広間の中央に運び込まれます。そこには、カシュガルがこれまで見たこともないような珍しい品々が並んでいます。
主人は満足そうに頷くと、手に持った杯を顔の前に差し上げます。一同はそれに応えるように、一斉に己が杯を掲げ、歓声を上げます。杯が飲み干されると、広間は割れんばかりの拍手に包まれます。主はそれを制して、大きく一つ手を打ち鳴らします。すると、また続きの間の扉が開いて、目にも鮮やかな衣装を着けた一人の娘が、侍女に伴われて入って来ます。うつむき加減で現れたその少女の顔は、その長い髪に隠れて見えません。少女は侍女に誘われ、しずしずと主の前まで歩を進めると、その場に座ります。そして、ゆっくりとその顔を上げました。
「あ…」
カシュガルは思わず声を上げそうになって、それを飲み込みます。驚いたことに、その少女の顔が、あの少年と瓜二つだったからです。けれど同じ人物ではないことは明らかでした。なぜなら、その眼差しが全く違っていたからです。少女の眼は涼やかで優しげな光湛えています。そして、その両の瞳は、鮮やかな瑠璃色をしているのでした。
少女と主の婚礼は、六日後の新月の晩に執り行われることに決まっていました。どうやら、この世のものでない女はその婚礼の場で舞を舞うことが期待され、屋敷の客人として留め置かれているようです。もちろん、女が舞うかどうかは、女の気持ち次第ですが。
主の妻となる少女は、もしかして件の少年の妹なのでしょうか。少年は、あれ以来、姿を見かけません。カシュガルが、部屋に飲み物運んできた侍女に尋ねると、体調を崩して伏せっているとのこと。
この間の食事に毒が盛られていた件にしても、年かさの侍女が仕置きを受けただけで、その犯人が捕らえられたという話を聞きません。
婚礼を前にして、明らかに屋敷に不穏な空気が漂っています。カシュガルにしてからが、その一端を担っているようなのですが、本人にはその自覚がありません。何しろ、この屋敷に何をしに来たのか分からないのですから。女は、「アサシン」がどうとか言っていましたが…『山の老人』に託された『仕事』が「アサシン」なのでしょうか。
婚礼に向けて、屋敷では着々と準備が進んでいきます。主に貢物を贈る者たちが日々訪れ、婚礼までの間、離れに逗留します。それまで、母屋から遠く、夜は寂しいほどに静かだった離れも、宿泊している者たちが昼夜分かたず酒宴を催すものですから、騒々しくてかないません。カシュガルとこの世のものでない女は、その騒ぎから逃れるため、昼間はなるべく離れの部屋を出て、厨房や、家臣の家族たちの集まる部屋を訪れるようにします。
初めは距離を置いていた侍女や家臣の家族も、いつも微笑みを浮かべているこの世のものでない女の様子に、警戒心を解き、次第に打ち解けて話をするようになります。
「こたびの婚礼、主殿の妻となるのは何者ぞ」
ある時、女が侍女の一人に尋ねます。
「あの方は、御屋形様が夷狄と戦いなされた時に、その地のおなごと契られ、儲けたお子のお一人ですよ」
カシュガルは、一瞬、侍女の言ったことの意味が良く飲み込めませんでした。お子のお一人…それは、実の子を妻として迎えるということなのでしょうか。そんなことが、この都では罷り通っているのでしょうか。
「ずいぶんと長いこと離れてお暮らしでした。姫さまもすっかりお年頃になられて。たいそうなお美しさでらっしゃいます」
この者たちは、親子が婚姻するということを、特におかしなことだとは思っていない様子です。カシュガルには、どうにも理解ができないのでした。
それから数日、かの少年が夜陰に乗じてカシュガルを惑わす誘いをかけることもなく、また、婚姻に水を差そうとする企みが表立って行われることもなく、いたく平穏に、粛々と時が過ぎていきます。
カシュガルは、この屋敷に潜り込んだ目的を全くもって思い出すことができず、女の言う「アサシン」、つまり「暗殺」という言葉、その意味するところの何たるかも分からぬまま、無為に日を過ごしていました。
屋敷には、既に客が溢れ、その顔立ち、肌の色、目の光の異なる者たちが、屋敷の中を自由に行き交っています。その中に、仮に怪しげな者が紛れていたとしても、最早分からないという有様です。
もっとも、この衆人環視の中で、何かことを起こそうとする酔狂な者など、端からいないであろうとは思われましたが。
この世のものでない女は、カシュガルの傍に侍りながら、家臣の子供らとたわいのない遊びに興じたり、異国の者たちと、カシュガルには分からない言葉で喋っては、笑いあったりして、いかにも楽しそうにしています。そんな様子を見ていると、カシュガルは女がこの世のものでないことを忘れてしまいそうになるのでした。
そして、空に月明かりのない、幸福を呼び込む節目とされる新月の晩、いよいよ婚礼の時を迎えます。
屋敷の広間には、来客と近親の者、そして家臣の主だった者、開け放たれた扉の向こうには、家臣の家族が控えています。さらに屋敷の中庭には、都の金持ちたちが祝いの品を携え、参じています。
屋敷には、大勢の人々が集い、その中を侍女や使用人が行き来しています。主は既に豪奢な衣装を着け、広間の中央の一段高くなった壇上に陣取っています。広間いっぱいの人々は、思い思いに言葉を交わし、その声は波のように広間の中を行きつ戻りつしています。やがて、家臣の一人が立ち上がると、何やら高らかに口上を述べます。一同は、その声でぴたりと話しを止め、広間は水を打ったように静まり返ります。
すると、家臣の家族が控えている隣の部屋から、おーっという低いざわめきが広がってきます。その声は次第に広間に近づいて、その中心を、着飾った侍女に手をひかれ、絢爛豪華な衣装に身を包んだ少女が、ゆっくりゆっくりと歩を進めてきます。
花嫁衣装を着た少女は、うつむき加減の顔にベールを掛けています。ベールに隠されていても、その面立ちの美しさは、紗の影からうっすら透けて見えます。眼を伏せ、化粧を施されたその顔は輝くばかりに白く、神々しいほどです。
少女は広間の真ん中を真っすぐに進むと、主と同じ壇上に腰を下ろします。それを待っていたかのように皆一斉に杯を掲げ、広間に大歓声が上がります。
それを合図に婚礼の宴が始まります。次々と運び込まれる料理の数々。酒、飲み物も尽きることなくふんだんに供されます。それは広間の者だけでなく、次の間、控えの間、さらには中庭に参じている者たち、もしかしたら、屋敷の外の者たちにまで振舞われているのやもしれません。
広間では、宴の慰みに歌舞音曲が始まります。異国から来ている踊り子たちが、エキゾチックで妖艶な舞を舞い踊ります。その後に、揃いの衣装の楽隊が、異国の楽器をかき鳴らし、聞いたことのない楽曲を聞かせます。その後も次々に披露される出し物。宴はますます盛り上がります。
主は、広間の中央で、至極満足そうにその様子を眺め、杯を傾けています。花嫁は、その横でまるで動かずに、ただじっと座っています。飲んだり食べたりすることもなく、口を利くことも、笑みをこぼすこともありません。自分の嫁入りのための宴だというのに。緊張しているのか、それとも嬉しくもないのか。そんな少女の様子にお構いなく、宴は続いていきます。
時は過ぎて夜半も回ろうとしています。気がつくとカシュガルは、座ったままうたた寝をしてしまっています。いつの間にか、隣にいたこの世のものでない女はいなくなっています。中庭にはいくつもの篝火が焚かれ、池の周りは、その明かりでずいぶんと明るく照らし出されています。
その時、一段と大きな音で楽隊が音曲を奏で始めます。その楽曲に合わせて、これまでに宴で舞い踊った踊り手たちが池の周りに集い、思い思いに舞を舞い始めます。様々な衣装が篝火の光の中で幻のように揺れ動いています。そして、その中央に、薄衣一枚を纏った細身の女が、大きく跳躍して、まるで天から降って来たかの如くに舞い降ります。そう、それは、この世のものでないあの世の…その女です。
女は、他の踊り手を圧する華麗さで中庭を席巻し、人々の中を跳ぶように舞い踊ります。揺らめく篝火の明かりに照らされ舞うその姿は、ほとんど全裸と見まごうばかり。その華奢な身体に豊満な乳房と腰を備え、驚くほど軽やかに身をよじり舞い踊るその姿は、正にこの世のものとは思えない美しさ。その場に居合わせた一同は言葉を失い、その眼の奥に、その舞い姿を深く刻みつけます。後に、この女の舞は、見た者の子から孫、そのまた子へと後々まで語り継がれる伝説となります。
女は舞いながら、次第に広間に近づいてきます。広間の中庭に面した引き戸と大窓は開け放たれており、人々はそこから女の舞い踊る姿を見、我を忘れたかのようにその姿に魅せられてしまっています。
やがて女は大窓を軽々と飛び越えて広間の中に躍り出ます。女は、広間の中を舞いながら、主の方へ近づいていきます。間近で見るその妖艶さは尋常でなく、その場に居合わせた男たちは、魂を抜き取られてしまったかのように、すっかり放心しています。主は、その眼差しをじっと女に据え、微動だにしません。とはいえ杯を持つ手が心なし斜めになっています。主も女にすっかり心を奪われてしまっているようです。
女は主のすぐ前、ひな壇の端まで来ると、主に相対し、両腕をまっすぐに上に伸ばし、ぴたりとそこで舞を止めます。そして、にっこりと微笑むと、その右手を肩口に下ろし、さっと羽織っていた薄衣を脱ぎ捨てます。
広間の一同が一斉に息を飲み、喉が鳴る音が聞こえます。主の手にした杯から、酒がしたたり落ちていくのが見えます。
広間全体、屋敷全体が固まってしまったようなその瞬間、それまで全く動かなかった花嫁がぱっと身をひるがえし、主の脇に横ざまにしなだれかかります。その一瞬、花嫁のベールが横にずれ、垣間見えたその顔、その見開かれた眼…そこには、鳶色と、そして翡翠色の瞳が光っていました。
その後のことを、カシュガルは良く覚えていません。主に横ざまに身を預けた花嫁が体を離すと、主は俯せに倒れ込み、程なくその衣装は朱に染まっていきます。つかの間、花嫁の袖口で細身の剣が光ります。花嫁はそれを何事もなかったかのようにそっと脇に置くと、そのままその場に座しています。この世のものでない女は、その辺りに脱ぎ捨てられ置かれていた誰かの上掛けを羽織ると、花嫁…かの少年が入れ替わっていた花嫁の手を取り、呆然としているカシュガルを小脇に抱え、広間に入って来たときと同様、飛ぶように部屋を出ていきます。
あとに残された人々は、しばらくの間、状況が飲み込めずにぼんやりしています。やがて、朱に染まった主の衣装の意味に気がついた侍女が、大きな悲鳴を上げ…
女とカシュガル、そしてかの少年は都の夜道を駆け抜け、といってもカシュガルは荷物のように女に担がれていたのですが、都の入口の門まで辿り着きます。
そこに待っていたのは、あの年かさの女性、カシュガルと女を屋敷に招き入れた主の連れ合いの女性です。その傍らには少女、かの少年に瓜二つのその妹が立っています。
「馬と、当座の食べ物、飲み物を用意してあります」
年かさの女性は押し殺した声でかの少年に語り掛けます。
「門番は酒で眠らせてあります。さあ、早く」
年かさの女性は、一同を急かすと、門の外へ誘います。そこには、駿馬が四頭、そのうち二頭には大きな荷物が背に括り付けられています。
カシュガルと女、少年とその妹は、それぞれに、荷の括り付けられていない馬に二人ずつまたがり、夜の荒野に馬を駆り出します。
四人は、夜が明けるまで、夜通し馬を走らせます。淡い朱色にかすんだ東の乾いた空、そこに朝日がゆっくり顔を覗かせます。暁色に染まった大地を背に、少年が馬を止め、振り向きます。女も馬を立ち止まらせます。
「世話になった、ここで別れよう」
「随意に」
女は少年の眼を見て、にっこり微笑みます。少年と同じ顔をした少女が、それにそっと微笑み返します。
少年とその妹は、朝日と反対の方向に馬を向けると、ハァッという掛け声を残して馬を駆り、遠ざかっていきます。
「…どうなってるの」
夜通し慣れない馬の背で揺られ、すっかり疲弊しているカシュガルは、カシュガルを抱えるようにして後ろで手綱を握っている女の方に首を傾けて、やっとの思いで尋ねます。
「語れば、長いものとなるぞ」
「かいつまんで」
女はカシュガルの背に身を預けると肩口にその顔を乗せ、横目でカシュガルの顔を見て、くすっと笑います。女の温もりが、カシュガルの疲れた体を優しく包みます。
「あのおのこは、妹に代わり、外道たる親を誅した」
それは何となく分かります。ただ、なぜこの世のものでない女は、それに加担したのでしょう。そして、あの年かさの、主の連れ合いであるはずの女性は…
「あのおのことは、山の頂で一緒になっておろう」
山の頂…あの『山の老人』の城のこと。前にも、そこで「少年」と一緒だったようなことを言っていましたが、カシュガルには思い当たりません。でも、それだけのことで加勢したのでしょうか。
「吾の気まぐれなり」
気まぐれ…気まぐれとは。
では、あの年かさの女性はなぜ…
「おなごであるからのぉ。それに、子もおる」
カシュガルには、何のことやらさっぱり分かりません。そもそも、カシュガルは、なぜあの屋敷に行くよう『山の老人』に命じられ、そして『仕事』を託されたのでしょうか。
「奥方の差し金であろう。汝がたまたま、そのアサシンを担う者となった故、奥方が屋敷に招じ入れたまで。まあ、汝は成し遂げられなかったが」
女は面白そうにカシュガルの顔を見ます。
「俺を呼んだおかしな声は」
「問いが多いのぉ」
最早答えようとはしない女は、カシュガルの頬に自らの頬を軽く重ね、くすっと笑うと身を起こし、馬を前に進めます。
地平線に目を転じると、まだ星屑が残る藍色の空に向かって、小さく駆けていく白い砂埃が見えます。
「あの二人は故郷に帰ったのかな」
カシュガルは尋ねます。
女は暫く沈黙した後、カシュガルに答えるでもなく呟きます。
「かの者ら、夫婦となり、新たな国を興すであろうよ」
夫婦…って、二人は兄妹ではないのでしょうか。外道の父親を葬ってまで、妹を守った兄ではないのでしょうか。
この世のものでない女は、自らが手綱を握る腕の中で固まっているカシュガルの頭に顎を乗せて言います。
「そういう世界もある」
カシュガルは何だかひどく不安になります。自分が信じてきたもの、当たり前だと思っていた家族の絆のようなものが、この数日であっけなく否定されてしまった…。もちろん、自分には、もとから家族などいないのですけれど、それ故に、家族とはこういうものだと思っていたもの、信じていたものが、目の前で崩れ去り…
「ねえ」
「なんじゃ」
女はカシュガルの頭の上に顎を乗せたまま答えます。
「お願いしても、いいかな」
女は、カシュガルの頭の上に顎を乗せたまま、暫く馬を歩かせ、そして、軽く手綱を引いて馬を止めます。
「うむ。最後の望みであるな。叶えて進ぜよう」
女は身を正して、カシュガルの言葉を待ちます。カシュガルは、振り向いて女の顔を見上げて、言います。
「ずっと…ずっと、これからもずっと、俺と一緒にいてほしい」
女はカシュガルの顔をじっと見ます。そして、くすくすっと笑います。
女は、手綱を離すとその両の腕をカシュガルの首に巻きつけて、そして、答えます。
「汝の魂が滅ぶまで、吾は汝と共にある」
そして、くすっと笑い、付け加えます。
「そは、吾の望なり」
夜になりました。
カシュガルと女は、灌木に馬をつなぎ、その下で横になります。女はカシュガルを腕枕して眠りに誘います。
「汝、カシュガルの都にて、求めるものは見つかったか」
ふと、女が尋ねます。カシュガルは、眠りに落ちながら考えます。求めていたものは、そう…
「うん、見つかった」
カシュガルは、この世のものではない女の柔らかなぬくもりと心地よい甘い香りに包まれて、深い深い眠りに落ちていきました。
カシュガルとこの世のものでないあの世の女 捨石 帰一 @Keach
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