教室にて
会話はそこで打ち切られ、「あれ、もうそんな時間?」「やばいやばい」などと、二人揃ってあたふたと次の授業の用意を始める。ベルが鳴り終え、一拍の後、教師が入室し、型通りの挨拶が行われて授業が始まった。
準備の遅れた聡は慌てて教科書を開きながら、心の中では特芸科の噂について考えていた。
(今の話が全部でないにしろ、噂はやっぱり噂だってことだよな。それも相当悪質だ)
進学組からの情報があったとはいえ、実際聡も塚本の話を聞くまでは、特芸科に対する猜疑心は強かった。自覚はなかったが、どうやら聡自身、相当噂に毒されていたようだ。
(噂をまいてる奴がいるとみて間違いない。広がりの早さを鑑みても、やっかみ程度の可愛い嫌がらせじゃないよな。組織だってやってるってことか?)
(こんなことをやりそうな奴らと言えば……士爵、しかないよな)
帝都消失という大事件後、貴族制度、特に末端の下級貴族は衰退の一途を辿り、貴族とは名ばかりの冷や飯食いにまで没落している。いわゆる置き去り様だ。
その下級貴族に成り代わって台頭してきたのが士爵で、事もあろうに皇族の傍流を自称し、我が物顔で政治経済に首を突っ込みだした。聡が貴族に対して鼻持ちならない印象が強いのは、彼らの欲に飽かせた下品な振る舞いが原因だった。
三大侯爵家をはじめ、未だ健在の名だたる名家は、この事態を放置して所領地に引きこもり続けた。士爵たちを対立するに値しない新参者と見下ろしている節があり、自ら動こうとしないように見受けられた。過去の栄光を身内同士じめじめと忍んでいるなどと陰口を叩かれようと、彼らは態度を改める気は毛頭ないようで、相変わらず時代遅れともいうべき頑固な気質を固持し続けた。
聡のような地位とは無縁の人間にとっては、どっちもどっちで、雲の上の人々のやり方に、せいぜい白い眼を向けるのが精一杯だったのだが。
それが一変したのは一年前。
国は士爵に対して身分詐称を明言し、大々的に取り締まりを始めた。
政界や財界を牛耳っていた親玉が死んだとか、侯爵家がとうとう本気を出したなどと噂は尽きないが、詳細は不明で、単純に国が重い腰をようやく挙げたという認識が一般的である。
だが、いくら取り締まりが始まったとはいえ、半世紀以上にも渡って続けらえた士爵の横暴がそう簡単に収まるはずもなく。
(実際、俺が特芸科の噂に反応したのも、連中がらみかと思ったわけだし)
良家の子女とは名ばかりの、品性のかけらもない士爵たちの不道理がまたまかり通ったのかと危ぶんだのだ。
(それにこの学園は、連中の恰好の的でもある)
立花本陣学園、その後ろ盾には立花グループが存在している。そしてその立花グループを運営しているのは、
(立花侯爵家)
この国の三大侯爵家に数えらえる名門中の名門。
聡はそっとため息を漏らす。
(断言はできないけど、疑いは濃厚ってことか)
(目的が何であれ、かなり危ないかもな)
表立った情報は出ていないが、後のない士爵共が、暴力的な手段を講じ始めたと話も出ている。
(波乱の予感しかないぞ、これ)
などと危惧しつつ、しかし一人で悩んだところでどうしようもないと思い直した。
(後でほかの連中に話してみるか……)
何となく気になって塚本の様子を探ると、やはり焦って教科書を開いていた。アニメの下敷きをノートに挟みこむのを認めてつい笑ってしまう。
むわっと生暖かい風が横っ面に吹き付けられたのはその時だった。
ぞわっと背が粟立つ。まるですぐ近くで吐息を吹き付けられたような感覚だ。生き物の体臭と排泄物を混ぜ合わせたような、どぶ臭いような、それでいて鼻孔の奥をつんと刺激するひどい悪臭がして、聡はうっと息を止め、裾で鼻を覆う。
(なんだよ、この臭い)
悪臭に淀んだ空気が、ねっとり皮膚にからみつくような気がして、その不衛生さに総毛が逆立つ。
原因を探して周囲を見回そうとした聡は、しかしぎくりと固まった。
「……!」
間近で、ぐひゅるうぐひゅるうと笑いを含んだ嫌らしい呼吸音がする。
すっと頭から血の気が引くような気がした。引いた血の行先は腹の底で、得体の知れないない何かが教室にいると悟った途端に、聡はなぜか、怯むどころか猛烈に腹が立ったのだ。
怒りに任せて、
(なに笑ってんだよっ!)
ばっと勢いよく振り返る。しかしそこに広がるのは折り目正しく着席した生徒の姿だけで、皆静かに授業を受ける日常の風景が広がるばかりだった。
怪訝に周囲を見回せども、おかしなところは一つもなく、むしろ聡の様子に気づいた生徒が、不審そうに眉をひそめてこちらを見るだけだった。いつの間にか悪臭も消えている。聡は顔にあてがっていた腕を下ろした。
教師の声よりも、かりかりと文字を書く筆記具の音や紙をめくる音の方が、がやけに耳につく。
(なんだんだったんだ、今のは……)
毒気を抜かれて、やや自失気味の聡は額に手を当てる。
(気を張って、変に鼻が効いたのか? 俺、実はけっこう疲れてるとか?)
首をかしげながら、何にせよ異変は去ったので、授業に集中しようと気を取り直す。
ふと隣席から忍び笑い聞こえた。反射的にそちらに目を向けて、聡は眉をひそめる。
(……?)
塚本は口元に笑みを浮かべていた。ややうつむき加減で、目元は髪の影に隠れて判別つかないものの、何かを楽しむような、あるいは挑むような表情に見えたのは、気のせいだろうか。
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