第7話 戻ってきた

 柊はのろのろと学校の外を歩いていた。その日は水曜日で、時間は午前九時半頃。修了式などの都合で学校が早く終わったという訳ではない。ましてその日が休日という訳でもない。柊はただ単に、学校のずる休みをしていたのだ。

 柊がゆっくりと進んでいるのは閑静な住宅街の中のごく普通の舗装された道路だった。脇に歩道はないため、かすれた白線で車道と線引きされた路側帯をただ前に進んでいた。時折通りかかる車は徐行しているにもかかわらずいとも簡単に柊を追い抜き、柊がとてもゆっくりと歩いていることを物語っていた。

 その道路は一応対向車がすれ違えるほどには広いが、柊は実際に逆向きに進む車がすれ違うところを見たことはなかった。小学生の頃はよくこの道を通っていたのに、一度も見たことはない。車の通りの少ない道路なのだろうなと犬飼と共に話し合っていた。

 その路側帯には時折空の白い雲を突き刺すように電柱がそびえているが、柊は周りに警戒もせずに、砂漠で歩き疲れた遭難者の様にゆらゆらと歩いていたため、電柱の傍を通りかかる時に自身の肩が電柱にかする時があった。その度に柊はぼんやりと手がすれていないかを確認する。確認したとしても絆創膏を持っている訳でもないので、何か対策をしたりすることはできないが。

 鉄、国塚、日向達と時間を共にしてから、柊は月曜日、火曜日と学校に行く中で色々な変化が生じていることを感じていた。良い方向に転じたものと悪い方向に変わってしまった物の二つがあったのだが。

 良い方向に転じた方は犬飼との関係についてだった。前と全く同じような感覚で笑いあえた日曜日を経験してから、柊と犬飼は前と同じぐらい親しげに、ひょっとするとそれ以上に楽しく二人で会話できるようになっていた。教室でも今までより遥かに大声で会話していると、もう何も恐れていないかのように感じさせるその声が、いじめている側たちへの牽制(けんせい)として効果を発揮しているのか分からないが、前より過激なことはされなくなったように感じた。自分たちが席を空けている間に仕込まれるタイプのいじめは相変わらず行われていたが、授業と授業の合間はうるさいぐらいにぎゃあぎゃあ会話したせいか、向こうから寄ってくるようなことはなくなった。むしろ話し声が大きすぎて入ってきた教員に「誰だか知らんがうるさいぞ、廊下までしょうもない話が漏れてくるからもっとしょうもある話をしてくれ」と言わしめて優しい笑いが起こったほどだった。

 こうして柊と犬飼の関係自身は改善され、いじめも小康状態のような物に入ったことにより、学校というのは以前のような居心地の良さを取り戻し始めていた。と言っても、相手が小うるさい会話に慣れていついじめを再開してくるかわからないので、まったく油断はできなかったが。

 一方、悪い面で変化した事は、柊は己の醜悪(しゅうあく)さを感じながら学校生活を送らざるを得なくなった事だった。

 どうして犬飼があそこまで強くあれたのか。柊はそれが分からずにずっと尊敬し続けていた。もちろん長く一緒に犬飼といるので、犬飼がなかなか腹の座った剛勇な人物であることは知っていたが、それだけで何とかなる問題だとは思っていなかった。そして今回その疑問をようやく解消することができた。自分がいじめという問題から逃げている間にも鉄、国塚といった人物が見えないところで手を差し伸べてくれていたことをありありと知ってしまった。そうやって何も言われずとも動き出した人々の輝きを見ていると、どうしても自分の行為が霞(かす)んで見えてしまったのだ。鉄の堂々とした説得をたまたま盗み見たからこそ、何とか自分は犬飼のために行動することができた。だが、果たしてそれは犬飼のために自分がやったことだったのか、それが柊には分からなくなったのだ。犬飼を見捨ててしまった罪を贖罪(しょくざい)するための醜い正義なのではないか。鉄に車内で伝えられて気付いたが、自分はその鉄の「格好よさ」に憧れてやっただけではないか。

 そういうなんとも言えない悩みが今の柊を歩かせていた。休みを挟んだとはいえいじめに連続で立ち向かい続けるのもそろそろ気が滅入っていたこともあったので、その休憩としてもちょうどいいかなと感じてもいた。だが、休憩期間を取ったことにより、相手を牽制(けんせい)するための友を失った犬飼にもう一度巨大な悪意が牙をむくんではないかということに気付いてしまい、また己の咎(とが)を増やしてしまったとぼんやり歩きながら思う。

ただ、その罪悪感もその歩みを止めるほどの存在感を持ってはいなかった。あるいは、歩みを止めるだけの気力が残っていなかったのかもしれないが。

 こうして柊はただ何となく気持ちの整理を付けるためにある場所へと向かっていた。今でもよく覚えている、犬飼と柊が親友の約束を交わしたあの公園へと。



*            *



 学校はその日の朝から大慌てだった。何しろいじめにあっている生徒が学校を休んでおり、その家に連絡を取ってみても親はてっきり学校へ行ったものだと思っていた、と答えるばかり。完全にいじめから逃れるために学校に来ずにさぼっているというシナリオになってしまっていた。教育委員会にいじめの情報が漏れる前に事態が収束してほしい所だったが、学校に来ない生徒を出してしまった時点でもう包み隠しづらい状況にまでなってしまったのを学校の多くの教員陣は歯噛みしていた。

 一方そんな中で歯噛みする教員陣を冷めた目で見ながら、さっさと柊を探しに行こうとする教員たちもいた。国塚や鉄、日向や矢川などである。特にあてもなく全員で捜索を開始するしかなかったが、そんな中国塚はある一つの場所に真っ先に向かうことを決めていた。

犬飼と柊が親友の約束を交わした公園へと。その公園は学区外に位置しているので、遠くには行っていない、あるいは街の方に向かったのだろう、と考えて捜索した場合見つけられない可能性があった。適当にその事実を他の教員たちに伝えて国塚は足早に職員室を後にした。



 いつもより始まりが遅いホームルームに犬飼は嫌な予感を感じていた。というのも学校に柊が来ていないうえ、今現在は九時十五分、本来なら九時から授業が始まるのだが、未だにホームルームさえ始まっていなかったからだ。犬飼は新品にせざるを得なくなった椅子に座りながらただ矢川がやってくるのを待っていた。

 さらに十分ほど経過したとき、矢川が急ぎ足で教室に飛び込んでくる。ホームルームをしながら今日の伝達事項を伝えてくるが、それによれば今日の授業はひとまず最初の方から中断で、何時間目から授業が始まるかはわからないのでそれまで自習しておくように、という事だった。

「じゃあしっかり勉強しておくように」とだけ言い残して矢川はさっさと出発してしまう。

その後を犬飼は追って矢川に尋ねた。

「柊がどうかしたんですか」

「……ああ、学校ではないどこかに行ってしまったらしいんだ。まあまだ一時間目だし後からくる可能性はあるんだけどもね。柊君が立たされている状況を考えると、そう悠長に構えていることはできないかもしれない」

 聞くが早いか犬飼は走り出した。体育で測定した本来の百メートル走よりもよほど速いであろう速度で犬飼は昇降口まで向かう。今日は靴箱の中のシューズ内に何かの糞らしきものが詰められていて、それを処分はしたもののとてもシューズを履いたり靴を入れたりする気にはなれなかったので、傘置きの中にそれとなく置いておいた靴を取り出し、さっと履いていく。

 先ほどラインで柊に対してどこにいるのか問う旨(むね)のメッセージを送ったが、既読になった後返信が返ってくる気配はなかった。柊の方は犬飼に見つけてもらうつもりは毛頭ないのかもしれない。

 だが、そんなことはお構いなしに目的地は決まっていた。遠い約束を交わし、一時は失われかけた絆が生まれた場所。

 今一度犬飼はその絆を手繰り寄せるために走り出す。



 田中は犬飼が教室を出て行ってから一向に戻ってこないことを疑問に感じていた。だがその答えは恐らく簡単だ。犬飼が柊を探しに行ったのだ。

 柊がいじめに耐えかねて学校に来なくなった。そしてその事情を知り犬飼は柊を探しに出発した、というところなのだろう。

田中はぼんやりと立ち上がって手洗いに向かった。ひょっとしたら犬飼は探しに行ったと見せかけて手洗いに行っただけだったのかもしれないと思ったからだ。

 そして手洗いに辿り着き、犬飼がそこにいないことを確認した。違う階層のトイレかも知れないと思い立ち、下へ下へと降りて行った。だが二階にも一階にも犬飼はいなかった。

 二人の繋がりをひしひしと感じながら田中はまた別の可能性にかけて図書館へと向かった。ひょっとしたら自習のために図書館へ向かった可能性も否定できないと感じた。

 田中は図書館へと歩みを進めつつ、廊下の窓の外の空を眺めて物思いにふけった。ここ数日での学校での犬飼と柊の様子は前までとは明らかに違っていた。前は柊が無理やり努力して犬飼に話しかけているような状態だったが、今ではごく自然にどちらともなく言葉を交わすし、前よりも話の中身も圧倒的に明るくなっていた。軽口も飛ばすし、何よりいじめられているとは思えないほど声が大きく、自信に満ち溢れているように見えた。

 一体あの二人を変えた思い、あるいは出来事はなんだったんだろうと田中は疑問に思った。

 自習と言われたはずなのにもかかわらず普段の休憩時間と変わらない、ひょっとすると休憩時間よりもうるさいかもしれない声で騒ぐ教室の声が耳につくが、田中にとってその喧騒は耳障りというほどでもなかった。思考に耽っている今ならうるさく感じてもおかしくないのに、むしろ、流れの緩やかな夜の川の周りで瞬く蛍の光の様にどこか優しく温かい、そんな感覚を受けた。ふと立ち止まってその教室の中に目をやると、多くの生徒たちががやがやとおしゃべりを交わしていた所だった。たくさんのグループがあり、そのどれもが何がおかしいのか分からないような事で笑いあい、楽しんでいるように見えた。その様子はここ最近の犬飼と柊の様子とぴたりと一致した。少し違う事と言えばいじめを受けながら犬飼と柊が過ごしていたということぐらいだろう。だが、いじめを受けながらもこんな明るさを取り戻していくことができたと考えれば、あの二人の成し遂げたことの凄さがよく分かる。

「繋がり……か」

 田中はぽつりとその言葉を零す。思えば随分と前から意識はしていた気がする。いじめに対して立ち向かうために必要な物が繋がりであるという事実ぐらいは。ただ柊の様にいじめられている側に近づくことは田中には到底できなかった。いつ刃が飛んでくるか分からない迷宮に飛び込むのと同じような危機感を感じずにはおれなかったのだ。例のいじめは物理的な干渉こそなかったものの、研いだばかりの刀のような鋭さを持った言葉が心を問答無用で切り刻んできていた。

 色々と考えている内に田中は図書室に辿り着く。図書室の鍵は開いていたので特に何かすることもなく部屋に入ることができた。だが、入ってみて感じたのは耳にうるさすぎるほどの静寂だった。ひょっとしたら犬飼は柊を助けに行ったわけではなく、ここにいるのかもしれない、という自分の考えが粉々に崩れ去るのを感じながら、なおも田中は図書室の中を巡り歩く。偉人賢人たちの言葉が書き連ねられた書物に囲まれていると、突然地震か何かが起きてその書物が田中に降りかかってくるかもしれないという錯覚を覚える。装丁にエナメルが貼られているのかと勘違いするほど美しくしっかりした真新しい本から、本の背表紙の上の方が木の皮がめくれ上がるようにぺろりとはがれかけている古ぼけた本まで、たくさんの本の間を歩きながら田中は犬飼の姿を探した。だが、本棚と本棚の間を探しても、本棚の上を探しても、挙句本と本の間を探しても当然ながら犬飼はいなかった。

 田中はやはり認めざるを得なかった。犬飼は柊を探しに行ったのだと。彼らはそれだけ強い繋がりで結ばれているのだ、という事を。

 田中は一人蚊帳(かや)の外になっている自分に何とも言えないやるせなさを感じながら、図書室の椅子の一つに腰かけた。たまたま腰かけた席が窓辺だったため、後ろから朝日が入り込んでくる。図書室の電気は付けていなかったので、入り込んできた優しい朝日の中で、プールに元気に飛び込んだ子供たちが放つ水しぶきの様にほこりたちが舞うのが見える。ほこりの輝きに先ほど通りかかったクラスで見た生徒たちの輝きが重なり、自分だけが地獄のような別の世界に迷い込んだ錯覚に囚われる。田中は痛烈に自分自身が世界から隔離されてしまったのを感じた。

 そして後ろの背の低い棚にあった本を適当に取り出し、意識もなく目を通している最中に、ふと考え至るところがあった。

 田中はその考えに確信めいたものを感じていた。国塚にかつて言われた「ヒーローでなく相棒になればいい」ということ。その意味をふっと掴んだ気がしたのだ。

 犬飼にとってのヒーローは間違いなく柊だった。恐らく柊は同時に相棒でもあった気がしたが。

 だが、ただの相棒でしかない存在になら俺ならなれると、そう感じたのだ。

 田中は特に行き先を決めずに歩き出す。その歩き出した先に犬飼や柊がいるかどうかは分からなかった。ただ、彼らの後ろにもし辿り着くことができたなら、きっと自分の考えは間違っていないと思えることができる気がした。

 相棒は考える。いじめから逃げ出したい時自身はどこへ向かうのか、と。そして思いつくまま快活に靴音を鳴らして歩み行く。



*            *



 学校を出てからどれくらい時間が経ったのか。犬飼は自身のスマホで時間を確認する。大体計算すると二十五分程度といった所だった。と言っても一回学校を出た後、家に帰りこそこそと家族にばれないよう自転車を獲得してから目的地に向かっていたので、徒歩で歩くともっと時間がかかるかもしれない。そんな、自分たちの家からは途方もない距離の所にある冴えない公園に犬飼は辿り着いていた。

 別段急いで自転車をこいできたわけではないので息は特に上がっていない。ただ先ほどから暑さのせいで噴き出すように汗が皮膚に浮かび上がってくるので、額に浮かんだ汗だけ腕でさっと拭い捨てた。その公園は小学校以来であるが様子は今でも全く変わっておらず、滑り台とブランコ、そして地面から盛り上がるように設置された山のような空間に、子供がやすやすと出入りできそうないくつかの穴が開いている遊具が置かれているだけだった。

この公園は基本的にあまり人気がない。一応周りは住宅地ではあるのだが、若い子供はそれほど住んでいない住宅地だったのだ。加えてこの公園よりも一回り大きく遊具もたくさんある大公園が傍にあるため、大体遊ぶ子はそっちに流れて行ってしまっているのだ。今日もその公園は閑古鳥が滑り台の上に乗って鳴いていてもおかしくないほど人っ子一人いなかった。

犬飼は周りを見回しながらゆっくりと歩みを進めていく。辺りにある建物の様相自体は前とは少し様変わりしているように見えた。小学校の頃より背の高い建物が増えたように見える。と言ってもその建物が何であるかは全く分からなかったが。

 一方その公園の周りの建築物の組成が少し変わっても、一つだけ変わっていないと思われるものもあった。その公園は歪んだ四角形のような形をしているが、その一辺は傾斜が三十度ほどはある斜面だった。その斜面がしばらく続いた先には木々に囲まれた神社がある。気の量は割合多く、今の時期は木陰がたくさんあって気持ちよく過ごせる場所だ。その神社と辺りの木だけは時間が止まったように前と変わらず存在していた。

 犬飼は山のような遊具の傍にまで辿り着き、「柊、いるか?」と声を掛ける。これでいなかったら相当格好悪いな、と返事が返ってこなかった時のことを想像して苦笑いを浮かべて待っていると、「ああ」という声が返ってきた。今にも泣きそうとかそういうような感情の高ぶりを感じさせる声ではなかったので、落ち着きながら遊具の中で座っているようだった。

「入るぞー」

 犬飼は言ってから相手の返事も聞かずに遊具の中に入っていく。中は相変わらず黒い世界が広がっており、そこにぽかんと開いた穴から差し込む光が色を与えているだけだった。光の中で浮かび上がる柊の表情はただぼうっとしているように見えた。

「探すの苦労したぞ」

「そうかな、案外簡単に分かる場所だと思ったけど」

「まあな、実は別に大して苦労はしなかった。むしろ読み通りの場所だったな」

「だろうな」

 柊はふっと笑いを零す。黒い空間に音が広がって心なしか黒が透き通っていくような感覚を受ける。

「……突然どうしたんだ?」

 犬飼は静かに柊に理由を尋ねる。正直昨日までの様子を見ていて犬飼に思い当たる節は全くなかったのだ。今まで通り、ひょっとしたら今までよりも順調にお互いに仲良くなれたし、いじめについても露骨に牽制(けんせい)するような態度を取ったおかげか勢いは和らいだ。これから状況はもっと改善されていくだろうし、そのまま勢い付けばいじめも何もなかったかのように終わる可能性だってある。流石にそれは楽観的かもしれないが、このままの状況がしばらく続きそうな気が犬飼はしていた。だから、率直に言って前よりいじめに対しての心配は犬飼の中では小さくなっていたのだ。それはこの二日間を通じて柊も同様に感じていると思ったのだが。

 だが、柊が犬飼よりも精神面でもろい部分があることは犬飼も感じていることだった。柊にとって国塚たちとの接触は少し遅すぎたのかもしれない。そう考えると今更ながら安っぽくてつまらない復讐で友達を傷つけてしまったことの後悔がまた湧き上がってくる。

 だがとりあえず今は罪悪感を飲み下しながら柊の言葉を待った。

「まあ俺にも悩みはあるってことだよ。……本当に馬鹿みたいな悩みだけどな」

 犬飼は柊の言わんとしている所が掴めずただ静かに次の言葉を待った。犬飼はかつて柊に対して裏切られた復讐をしてやりたい、という馬鹿みたいな願望を持っていたが、恐らく柊が抱えている悩みはそのような物とは無縁だろう。

 暗い空間に静寂がわだかまるとなんだか気分が滅入ってくるが、それは柊も同じことだろう。何かに当てられて悩みを吐き出してくれたらそれは犬飼にとって嬉しいことだった。

 しばらくすると柊がふうと一つ溜息を付いて口を動かし始めた。

「俺、信司ともう一度一緒に過ごそうと思ったのにはきっかけがあったんだよ。そのきっかけを作ってくれたのは鉄先生なんだけどさ。……まあ簡単に言うと、鉄先生が小杉たちを説得してるのを見て、こういう格好いい人になりたいな、と思ったからこういう行動に出た訳なんだよ。でも冷静に考えたら、動機なんてそういう格好よさに憧れただけだったで、本当に信司を助けようと思ってやった訳じゃなかったよなあ、と思ってさあ。自分のやったことにちょっと自信がなくなっちゃったんだよなあ」

 犬飼はただ静かにその話を聞いていた。

 そして話を聞き終えた後、まず最初に感じたことは、やっぱり柊は相変わらず面倒な柊だった、という事だった。

 何も変わっていないなよなよした柊が愛おしい様な可笑しいような感じに囚われ、思わず口角が上がりそうになるが、非常に大事な場面であるため笑顔でなく真顔で柊の言葉に返す。

「お前がどう感じてるかとかは知らないけど、少なくとも俺は玄が一緒に戦ってくれて本当に嬉しかったぞ?」

「そう言ってもらえるとありがたいんだけどな……」

 歯切れの悪い返事を返す柊。どうでもいいことを気にする性格は昔から本当に変わっていないな、と堪えていた微笑を苦笑いにして浮かべる。

「ちょっと外に出ろ」

 犬飼は有無も言わせず柊を遊具の外に引っ張り出そうとする。柊は突然どうしたという顔を浮かべてはいるが、特に抵抗する様子もなく一緒に外に出てくる。

「そこに立て」

 犬飼は柊を手ごろな場所に直立させた。柊は犬飼の言う通りに直立したままになる。

 そして犬飼は「歯を食いしばれ」と柊に伝えた。柊は一瞬「はい?」という顔をしたが、後ろに手を引いている犬飼の様子を見てこれから何が行われるかを瞬時に察知し、「ちょっと待て!」と言いかけたが、もう間に合わないことを動き出した手から察してしまい、全力で歯を食いしばった。

 犬飼の右手から放たれた強烈な拳が柊の左頬にめり込み、柊はなすすべもなく後ろによろめいてばたんと倒れた。倒れるのに失敗して腕に若干擦り傷ができたのも相まって、体の所々に痛みが走る。

「いってえ……」

 柊は殴られた頬をさすりながら仁王立ちしている犬飼の事を見上げた。太陽を背に受けているせいでその顔は見えなかったが、恐らく優しい顔をしていたんだろうと柊は思った。

「雑念雑念飛んでけって奴を施してやった。もう変な発想はしなくてもいい。玄は俺を助けてくれた。それだけだ。もしまだ雑念が飛び切っていないなら何度でも殴ってやる」

「痛いの痛いの飛んでけを元ネタにしてる割には痛すぎるぞこの制裁は……」

「それぐらいやらないと飛ばないだろ、お前やたらと心配性な発想が脳にこびりついてるし」

「記憶まで飛んだりしたらどうするつもりだったんだよ……」

「その程度の男だったってことだ」

「いやそれはちょっと酷くないか⁉」

 柊が理不尽な対応に抗議の声を上げるが、犬飼にはそれは届いていないようだった。

 犬飼はもう一度大事なことを伝えることにする。

 しゃがんで柊と視線を合わせた。わざわざこんなことをする必要はなかったかもしれないが、上から何かを伝えるのもどうかと思ったのでどうしようもなかったのだ。

「玄は俺を助けてくれただけだ。それ以上でもそれ以下でもないさ」

 犬飼はそう言って一人でだいぶ納得した様子で三、四回頷いた。柊の方は「自分で納得するだけなのは止めろよ」と咎めたが、その顔には、殴られた左頬の緩み方が少し不自然であるものの笑顔が浮かんでいた。

 今度は山のような遊具の上に登って二人で並ぶ。同じ遊具を利用している状態ではあるものの、暗闇の中でひそひそと過ごす場合と陽光の中でほくほくと過ごす場合とではやはり気持ちの感じ方が変わるように思えた。柊もそれは感じているのか、中にいたときよりも心なしか生き生きしているように背筋が伸ばされている。

「なんか外に出た途端暑いな」

「この時期は山の中の方がちょうどいいみたいだな……」

「信司どうにかして俺を温めてくれ」

「ちょっと待ってくれ、温めてくれてってどういう事だ涼しくしてくれじゃないのか」

「すげえ露骨に間違えちゃったわ……」

「もう一回言葉のきまり勉強したらどうですか? たぶん童心に帰りながら勉強できるぞ」

「何年生まで帰らせる気だよそれ。てか完全に小学生ぐらいまで帰っちゃうだろ温かいと涼しいの違いとか」

「所詮その程度の頭だったってことだな。ピカピカの一年生からやり直そう」

「脳みそはピカピカっていうかツルピカっぽいな……。しわ全然なさそうだわその子……」

「その子にさりげなく責任を転嫁するなよ、その子じゃなくお前の話だよ」

 そうやってなんともない話を駄弁(だべ)ったり遊んだりして時間を潰して、昼ごはん時の午後一時ぐらいに帰ろうという話になった。

 一時になるまで懐かしい気分に浸りながらその公園で遊びまわる。と言ってもブランコは前より一層錆びついていてこぐたびにきいきいという音を立てていつ壊れるともしれない様子だったし、滑り台はちょっと動いたらすぐ止まる、というぐらい滑りが悪くなっていたりと、遊具としては散々な状態になっていた。

 懐かしい気分になって遊んだのは何も遊具を本来の目的で使うだけではなかった。そこら辺にある空き缶を拾ってきてたった二人だけの、つまらないけど素朴な缶けりをしたり、ブランコからどれだけ靴を遠くに飛ばせるかを競う靴飛ばしをしたり、滑り台に水を撒いて走りにくくしたうえで滑り台をかけ上る勝負をしたりと遊べることは色々だった。

 そしてひとしきり動き回る遊びをし終わり、少しの休憩も兼ねながら地面に落書きしたものの名前を当てるゲームもした。人差し指で地面に図形を描くと容赦なく爪の中に小石が入り込んでくるが、その感じも久しぶりにやると面白おかしく木の枝を使わずに指で直接地面をなぞっていた。

「これなーんだ」

 今は犬飼が地面に柄を書く番で、柊がその柄の正体を当てていた。そこに描かれていたのはいい感じに小麦色の焼き色がついた肌の色を連想させる、パンダの形をしたゆるキャラだった。と言っても砂に描いているせいでそのキャラクターの、パンの焼き色をモチーフにしたぶち模様は全く分からない。申し訳程度にその部分を集中的に抉って薄茶色の土を露わにさせてあるが、どのみち素人が書いた絵でしかないので可愛さはあまり感じられなかった。

「体のバランスとか柄の表現の雑さとかマイナスポイント多すぎるわ」

「うるせえ、地面だけでよく再現した方だ。本家と違って今にも死にそうで危うい感じは地熱的な微熱で焼き上げられた感を出してるんだよ」

「そこまで考えられたのかよ……。つか地熱で焼くパンとかちょっとお洒落だな……。『こめこパンダ』だろ」

「当たり。こんな絵でよく分かったな」

「お前今よく再現した方だとか言ってなかった⁉」

 自分の発言をそんな瞬間的に忘れるなんて痴呆なんじゃないか、病院へ行くべきだ、という実に詳細な視線をこちらに投げかけながら柊は突っ込む。

「まあ、お前これ好きだしな。お前が好きな物でパンダなんつったらこれぐらいだろ」

「よくパンダだなんて分かったな……。俺こんなの見せられたら呪いの人形か何かにしか見えないわ」

「発想が怖いな! 昼間じゃなかったら危うくちびってたわ……」

 犬飼は改めて自分の絵を見直す。そのもふっと広がった体に風穴が開くようにぐりぐりと地面を抉って表現された部位は、パンダのぶち模様というよりは、呪いのわら人形に釘どころか極太の杭を打ち込んでみたような部位にしか見えない。犬飼は本当によくこんな絵で分かったもんだと深く感心した。それと同時に相変わらず自分の趣味を把握してくれている柊に感謝する。と言っても柊がこめこパンダを可愛いといったためしは一度もなかったが。どうやらこめこパンダの魅力は分かる人間にしかわからないらしい。まあ、柊とは別の部分で普通に趣味を共有できていればそれで十分という感覚ももちろん大いにあるが。

 こうしてまた地面に落書きをしてはその答えを導き出そうとするクイズを出し合い、公園での遊びを満喫していた。犬飼や柊の中では、今日はもう学校にわざわざ帰る必要はないだろうという共通認識になっていたので、特に気に追う所もなく童心に帰ってしっかり遊ぶことができた。

 こんな風にして時間を使っていたら、気付かぬ間に午後一時ぐらいになってしまっていた。犬飼はそろそろお腹が減ってこないか、と柊に提案する。柊もそれに同意し、二人は立ち上がって最寄りのコンビニに向かおうとした。

 だが、歩き出してすぐに犬飼の足が止まる。犬飼に対して一歩先に出た状態の柊が後ろを振り向いて不思議そうな顔をすると、犬飼は山の遊具を見ていた。柊にとってもあの場所は非常になじみ深い物だったので、そのまま視線を遊具に移す。

 あれは小学生五年生の頃だったか。犬飼と柊はあの遊具の中で一つの簡単な誓いを交わした。と言ってもその誓いは蓋を開けてみれば、娘が小さい頃に父親に対してする「将来お父さんと結婚する!」という発言ぐらい、曖昧で役に立たない物だったが。

 二人は小学校四年生になった頃からよくここまで来て遊んでいた。自転車を同じような時期に買ってもらい、せっかくなので遠出をしてみて辿り着いた場所がここだった。最初は寂しい場所だと思ったが、犬飼と柊にとっては誰も近寄ってこないで好きなだけ遊び通せるので、いつの間にかその場所は二人のためだけの遊び場の様になっていた。特に二人が好きだったのが山のような遊具の中にもぐりこんでは秘密戦隊ごっこをすることだった。街が敵の襲来によって危機に瀕したとき、颯爽とあの山の穴からロケットなどを発射して敵を粉砕するという非常に根暗でブラック1とブラック2しかいないような戦隊だったが、それでもあの山の中でこそこそと街に将来襲ってくる危機の妄想を話し合ったり、普通に学校の事を話し合ったりするのはとても楽しかった。彼らにとってそこはまさしく秘密基地であり、学校からも離れていて誰にも発見されない、何でもできる場所だったのだ。

 そしてそんな場所で彼らはある日約束を交わした。一生親友でいようという約束を。

 あの約束を交わしたのは確か山の中だったはずだ。秘密の約束という意味不明な立ち位置の約束だったため、その約束を交わすのも秘密基地の中という話になったのだ。

 そして時を経てもう一度例の山を見る。前は秘密基地で交わされた約束だったが、それは誰にも見つけられない秘密の場所に置き去りにされてしまったせいか、一回はご破算になってしまった。

 ――だからもう一度同じ約束を交わそうと思うのは子供っぽいかもしれない。

 青臭いかもしれない。

 だがあいにくと犬飼はそういう事を気にしないたちの人間だった。

「なあ、もう一回あの約束しようぜ。今度は秘密基地とかじゃなくて、お天道様とかに見せびらかす勢いでさ。どっちももう約束破れないくらいに豪快に」

「豪快にやるっていうのは具体的にどういう感じなんだ?」

「別に特に考えてないけどなあ……。指切りじゃなくて指をガチで切っちゃうとか?」

「豪快と後悔の入り混じった馬鹿みたいな選択肢になっちゃうと思うぞそれ……」

「それもそうだな」

 犬飼はふっと笑って山の上に登っていく。柊も何も言わずともついてくる。

 お互いに向き合ってどちらともなく小指を差し出して絡める。

「指切りげんまん。嘘ついたら……あー……」

「椅子に画鋲千本貼り付けるってのは?」

「タイムリーなネタだなあ、さすがに千本貼り付けられたら剥がしきれる気しねえわ。てか前も剥がしきれなかったし」

「まあ俺たちにぴったりの約束の仕方だろ」

「違いないな。じゃあそれで指きった、と」

 太陽にかざすようにして小指を突き上げて、最後にほどく。

 今度は秘密の約束なんかではなく、同じ空の下ならいつでもお天道様に監視されてしまっている約束だ。

 そう簡単には破れないな、と犬飼と柊はお互いに顔を見合わせて苦笑を返した。

 そしてやるべきことはやってお腹がすいたのか、二人のお腹が同時に鳴る。そして顔を見合わせて今度は高らかと笑いあった。改めて近くのコンビニに向かうために歩き出そうとすると、遠くから聞き覚えのあるよく通る声が聞こえてきた。

「おーい、二人ともちょっと待ってー」

 その声の方を向くと、遠くの方にいつも通りの白と紺で構成された服をまとう国塚が佇んでいた。

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