第6話 日常が

 柊が犬飼と一緒にいじめに立ち向かってくれるようになってから二週間程度が経っていた。

 犬飼は柊が共に戦ってくれて素直に嬉しく感じていた。反面、今更戻ってきて、遅すぎる、という思いもあったが。確かにいじめられている人間の傍に寄り添うのは至難の業な気がした。犬飼が何とかこのいじめに耐えられているのは、紛れもなく国塚の支えによるところが大きかった。その支えがなければ自分は不登校か何かになっていたかもしれない。そう思うと実際にいじめを経験する立場に立って、こんなものには純粋に関わりたくないと感じるようになった。この感情を一度知ってしまった以上、いじめという物に関わるという選択は相当の覚悟がなければできない。だから柊がここまで時間をかけてしまったのに苛立ちを覚えるが、これだけの時間をかけて何とかその勇気を振り絞ってくれたのだと思うと自然と心の中から感謝できた。だからそろそろ意固地になって柊を受け入れないでいるのは止めようと思って、今久しぶりにラインで連絡を入れている所だった。ここ最近は相手からラインが来ることはあっても基本既読無視を貫いていた。今まで来たラインの内容は大したことではなく、ただの雑談程度の物だったが、そのすべての発言に既読マークだけを映し出された柊のラインのトークの様子を思うと、かなり申し訳ないことをしたなと痛感する。むしろこれだけの事をしてしまって柊の心がまた離れていかなかったのは、まさしく彼をもう一度親友だと考えるのに十分に足る事実だった。

 一番最近のメッセージへの返信を交えつつ、「柊、今日用事あるか?」とだけ尋ねた。ラインでそのまま謝ってしまっても構わなかっただろうが、やはり謝罪は面と向かってすべきだと感じたのだ。メッセージのような文面の方が恥ずかしさを感じずに伝えられるという点でメリットも大きいのだが、その恥ずかしさを超克(ちょうこく)してまで伝えたい思いであることは間違いなかった。

 今日は日曜日で国塚の元へ会いに行く日だ。国塚には柊がやばくなったらすぐに連れてこいと言われていたし、実際最近の学校で見る柊はさらに目のクマが酷くなったような気がして、衰弱している感じもしていた。昼ご飯を一緒に食べていても柊は弱々しく総菜パンをはむだけで、彼の方から何かしゃべりだそうとする機会は減ってきていた。総菜パンの量も前は二つ三つ買ってきていたものが、今では一個食べれば十分だという。食欲が少なくなっている自覚があるのか尋ねてみたかったが、妙なプライドが邪魔してそれを訊くことはついにできなかった。

 しばらくしてメッセージが返ってくる。

『暇。どうした? そっちから用事なんて珍しいな』

 最近のやり取りを見ればしょうがないことだった。変にくよくよと考え込まず返信を送る。

「お前に話したいこととかがあって。連れて行きたいところとかもあるから、外出できるか?」

『おう! どこに行けばいい?』

「お前んちの近くの水鳴公園で。あ、あと自転車で頼むわ」

『わかった(ファンシーな犬のキャラの「了解」というスタンプ)』

 これで呼びつけるのは完了した。犬飼は自転車で早速公園に向かう。



「あー、待たせちゃったか?」

「ううん、全然!」

 声を盛大に裏返らせながら犬飼は女子力皆無の女子声を出す。大して柊はただ、ただ引いていた。しかも友達に対して向ける、「お前何してんだよー」的な意味合いの引き方ではなく、どんな言葉を紡ぐべきなのかかなり逡巡している微妙な引き方だった。

 空きすぎた距離感を一気に埋めようと妙なことをしたのが失敗だったらしい、最近のお互いの交流の雰囲気とは違いすぎて何を言えばいいか言葉を探っているような柊を見て、シンプルに犬飼は申し訳ない気持ちになった。

「悪い、変に気にしないでくれ」

「……ああ」

「いつもとは若干立場が逆転しちゃってるな、悪い」

「……いや、気にしなくていいって」

 そう言って柊は微妙な笑顔を浮かべる。少なくとも昼ご飯を一緒に食べていた時に顔に貼り付けていたような笑顔よりはましだが、相変わらず友達に向けるというよりは知り合いに向ける笑顔に近い笑顔になっていた。こんな笑顔を浮かべさせている要因が自分であるということを考えると、犬飼は本当に気が滅入りそうになった。一体俺は今まで何をしていたんだろうという感覚が地下水脈にぶち当たったように溢れ出てくる。柊が今まで頑張って自分との距離感を再び縮めようと努力してくれていたのに、俺は相手の想いを真正面から踏みにじることしか考えていなかった。小さめでいいから腹いせに少し復讐してやろうと考えていたが、いざこういう風に具体的な弊害(へいがい)を見せられると自分はなんて馬鹿なことをしたんだろうと猛省する。

 はあ、と誰にも聞こえないように自分自身に対して嘆息する。柊はその様子を見て微かに首を傾げた。

「うーん、で、何の用なんだ?」

 ひとまず自転車は使わずに歩き始めてすぐ、柊が当然の疑問を投げかけてくる。犬飼は予め公園に向かう前にある程度脳内で組み立てていたことを伝える。恥ずかしさなどを感じている場合ではないが、実際気恥ずかしい思いは拭いきれず、もにゅもにゅとした物言いになってしまった。

「いや、特に明確な用事とかはないんだけどさー。……いや、なくもないというか……。とにかくだ。今までやたらと素っ気ない態度を取っててごめんっ!」

 犬飼は大きく頭を下げて柊に謝る。ごくシンプルな謝罪だったが、あまりにもダイナミックに頭を下げすぎたせいで、グリップとそれを握る左手にごつっと頭をぶつけてさんざんな目にあった。その様子を見て柊は思わずといった様子でぶっと吹き出し、昼間だが近所迷惑になりそうなほどうるさい声で笑い出した。

「笑いすぎだって! 俺の左手の痛みを少しは分かってくれ!」

「痛いの痛いの飛んでけ♪ って奴か?」

「それ痛み全然飛ばないじゃん? それのせいで昔の人の知恵信用できなくなったわ俺」

「あるあるだな」

「だよな。子供にはもっと痛みが飛ぶ合理的な呪文を教えてあげることにしよう」

「絆創膏を貼りましょー♪ 的な奴だな」

「実用的過ぎてビビったわ。子供どころか大人にも適用できるよそれ」

 元はそのつもりはなかったが、犬飼の体を張った一発芸のおかげでいつの間にか二人の距離感はぐっと縮まっていた。いつものファミレスまでの道のりの間、特に緊張もせず犬飼は謝罪の言葉を伝えることができて嬉しく思っていた。時々挟まれる「すまん」という言葉に柊も過剰反応してしまい、「いや俺こそ。助けに行くのが遅くなって悪いな。ヒーローは遅れてやってくるから」と無駄に照れ隠しを混ぜながら答えていて、「鬱陶しい」と犬飼に一蹴されていた。

 こうして犬飼の心配事は何とか晴らされ、そんなこんなでいつものファミレスについた。

 入店するとやはりいつもの席に国塚がおり、さらにその隣にはなぜか鉄も日向もいた。

国塚や鉄は学校で見慣れているような服装をしていた。特に鉄は大人が半袖半ズボンという少年感の高い服を着ているということもあり、辺りから目を引いてしまわないか心配になるほどだった。半ズボンはねずみ色で、上の半袖には白地にでかでかと「I♥愛知」とプリントされていて、辺りから目に見えて引かれてしまわないか心配になった。日向は白と黒のギンガムチェックのワンピースを着ているが、童顔なのも相まって非常に似合っている。だがその童顔とは裏腹に象徴的な膨らみが胸部にあるせいで、辺りの男がメロンに惹かれてしまわないか心配になった。ちなみに柊と犬飼はどちらも、久しぶりに学校の外で会うという事で、お互いに距離感を計りかねていたせいか、上下で違う単色の服を合わせただけの半袖半ズボンだった。

鉄が視界に入った柊はすっと背筋を伸ばして佇まいを整える。突然柊が背筋を伸ばした理由は犬飼には分からなかったが、柊は背筋を伸ばすことに集中しすぎて、がしょんがしょんという音がなりそうなほど歩き方が機械的になってしまっていたので、とりあえず柊の背中を押しながら教師三人の元へ近づいて行った。二人が近づいていくと向こうの国塚も手を振ってくる。

「ついに柊君来たんだね!」

「国塚先生だけじゃなく鉄先生も日向先生もいるんですね」

「この前三人で話し合ったときがあって、その時にこれからは三人とも行くことになったんだよ。国塚先生だけじゃなく三人でやれば交代とかもできるかもしれないし。長い目で見ればこっちの方が良さそうだなあ、と思ってね」

「私はただ国塚先生に侍ってきただけだけどね」

 三人が自己紹介のような物をしている間に柊と犬飼も向かい側の席に座る。その時、犬飼は意図的に日向の向かい側には座らないように意識していた。国塚の話によれば、日向の本性はそれはもう天国と比べた地獄というほどの異次元な恐ろしさらしく、そこら辺の美女を手当たり次第食べてしまいそうな勢いだという。要するに凶悪な百合であることは間違いないため、自分自身は被害にあうことはないだろうと思いつつも、彼女がショタコンまでこじらせている最悪のパターンを想定し、日向の前に座ることは止めにしたのだ。国塚から授けられた「常に最悪を想定していじめに向き合い、心の準備は怠らないこと」というアドバイスをまさかここで応用するときがこようとは。

 そうやって色々と考えを巡らせていると、日向がぴこーんという謎めいた効果音を口に出した。日向は相変わらず変なところで高い感受性を持っているのだ。

「犬飼君、私はショタコンなんてこじらせてないよ。クニコンだけだよ」

「それって国塚コンプレックス? そうなんですか? そうじゃないと言ってくれませんか?」

「そうなんです」

 国塚が日向に応答したのち、素早く行動に出る。現状では日向が一番奥、国塚が真ん中、手前が鉄という構図になっていたため、その席から逃げることは不可能に近い。我ながら一生の不覚という顔を浮かべながら鉄に位置の交代を迫るも、もうすでに日向は国塚のお腹辺りに的確に巻き付いていた。

「冬の寒いときにあなたの腹巻として使ってくれても構いません」

「私腹巻使ってないので」

「じゃあなんですか? 抱いてくる枕的な?」

「抱き枕じゃなくて⁉ だいぶ怖すぎるんですけどそれ⁉」

 もう帰ろうかなという瞳で暴走する日向を見つめる生徒二人に対して鉄が優しい笑顔で引き止める。

「まあ日向先生はいつもこんな感じだから許してあげてほしい」

「国塚先生大変なんですね……。俺のいじめに取り合ってるより大変そうなんですけど……」

「大人のセクハラを見たのは生まれて初めてだよ……。やっぱり女子のスカート捲りなんて時代遅れだったんだな。時代は女子の腹巻になる時代だったんだ」

「柊君道を踏み誤るな。少年院をそんな恐ろしく下らない案件で悩ませちゃだめだ」

「大丈夫です。玄はこう見えて小心者なんでせいぜい女子のリコーダーに口を付けるぐらいしかできません」

「信司フォローになってる? それ俺フォローされてる?」

「柊君……。裏で工作しながら好きな人に対して唾を付けようとするなんて人のすることじゃないわッ!」

「ひょっとしてリコーダーを舐めて唾がついたのと掛けてますか? あと日向先生は盗撮してたことを棚に上げないでください」

「盗撮ッ? そんなことまでしたんですかッ? 僕にも見せてください」

「玄何で興味示しちゃってんの⁉ え、ちなみにちょっとえっちな方向ですか?」

「君も大概にするんだ犬飼君。君たちにはまだ早いだろ? ちなみにどうなんですか?」

「鉄君教師としてあるまじき姿を見せるのは止めなさい。というか鉄君はもう中身知ってるでしょ」

「いやー、変な悪乗りに乗ってしまいましたね……」

「そうですよみなさん。私がたとえ国塚先生のあられもない姿を撮影してたとしてもそれは私だけの宝物なので誰にも渡しません」

「日向先生その胸に手を当てて心の中にしまってある感出すの止めましょう。むしろその想い握りつぶして捨ててください」

「国塚先生がやってくれるなら喜んで。どこに思いがあるか優しくまさぐり当てる所からお願いします」

「中学生二人の前でそういう事は止めなさい」

「「「続けてください」」」

「はもるなッ! ていうか三人いたと思ったら鉄君もかッ!」

「やっぱりお互い男子だからかもしれないけど気が合うかもしれないね」

「鉄先生、これからも俺たちに色々教えてください」

「ああ、色々教えるよ。上から下までね」

「それは網羅的にっていう慣用句的な使い方だよね? 上のネタから下のネタまでってことじゃないよね?」

 鉄は色々ご指導ご鞭撻(べんたつ)をしてくれるようお願いしてきた柊と、さらに手を差し出してきた犬飼とそれぞれ握手をした。柊と犬飼はお互いに加えて、二人目のソウルフレンドを手にした感覚が湧きあがってきて感慨深い思いに浸っていた。そして日向はその男の熱い友情には目もくれず女への熱い欲情に身をゆだねながら国塚に抱き着いていた。国塚は普段自分ではなく鉄が突っ込み役だったはずなのに、という三人でいる時の差異を何となく感じながら、抱き着いてきた日向を必死に引きはがしていた。

 だいぶ状況が落ち着いて飲み物もそれぞれに確保した後、いつも通りの時間つぶし的業務である変な答え晒しが行われようとしていた。鉄と柊は何が始まるんだろうという興味津々なまなざしで国塚が取り出すものを待っている。犬飼はいつも通りの光景なのでそこには目をやらず、なんとなく全くいつも通りではない日向に拘束されながら非常に動きにくそうに物を探している国塚を見て苦笑いを浮かべていた。国塚は非常に面倒な状態ながら何とかテスト類を取り出し、いつもの珍解答確認作業に入る。ちなみに日向も国塚と同じ国語の教員であり、鉄は数学を教えていた。日向と国塚は担当している科目が同じなので頻繁に意見交換をしており、それと同時に珍解答もお互いに見せ合うなどして楽しんでいた。と言っても日向は珍解答に点数を与えているように見せかけたりはしていないため、国塚に比べて圧倒的に珍解答が少ないのだが、日向自身そこを気にしていて今度から国塚方式を学ぼうとしているのは秘密である。

「へえ、珍解答なんて面白いですね。数学じゃこんなのできませんよ。まあ落書きとかならしてくれる生徒がいますけど」

「裏面とかだよね。たまに消し忘れてそのまま大作を提出しちゃってる子とかいるよねー」

「この前凄かったなあ、なんかジブリ映画のパロディみたいなやつが書かれてましたよ。なんだったかなあ……。『それたちぬ』とか何とか……。えーと……」

「いや、それ以上思い出さなくても大丈夫です。それ以上思い出しちゃったら色んな意味で危ないので。多分元ネタあるので。さて話を元に戻しましょう」

「あ! 『レ勃ちぬ』だ。え? なんかおかしい?」

「日向先生止めて! これ以上思い出したらいよいよ色々ヤバいので!」

「国塚先生さっさと始めましょうよ。前なんか先生にアピールしてきた奴の話とかどうなったか気になりますし」

「あれはアピールだったのかなあ……」

 横でうんうん唸っている日向はとりあえず無視することにした。日向が考え事をしているおかげで抱き着かれなくなって体は先ほどより暑苦しくないのに、だらだらと流れ出る冷や汗の意味を国塚はとりあえず考えないようにした。

「さて、先週の少年だけど、彼が今週もなかなか盛大な間違え方をしてくれたよ」

「なんだあいつまた間違えたのか……。今度はどんな間違いをしたんですか?」

「例えばこの問題。『ひめい【名詞】悲しんで鳴くこと。また、その声。』を漢字に直して、その漢字を含む例文を作りなさい……」

 後半に行けばいくほど国塚の声が小さくなって紙を握る手がわなわなと震えている。犬飼が恐らくその真意を感じとり言葉を繋いだ。

「あ、国塚先生の天然出題問題枠。ていうかだいたい天然問題か」

「うぅぅっ! また間違えてるっ!」

「別に間違えてはないですけどね。まあ定番ですよね。ていうかこれは酷かった」

「国塚先生、これはちょっとひどいです」

「国塚先生、これはちょっとひわいです。私をそそってくるという意味で」

「いやアクセント調整して酷いに合わせてくれてますけど全然違いますから。生徒たちの前でそういう言葉を吐くのは教育に悪いのでやめてください」

「流石国塚先生の可愛さが象徴されてるなあ」

「全くだ」

「やっと君たちも国塚先生の魅力を理解したんだね。日向先生はどんな国語の問題を解いてくれたことよりもそれが嬉しいよ」

「それは国語の教師として、というか人としてどうなんですかね……」

「しかし、この問題で間違えることができるなんてすごいですね。流石に俺でも間違える気がしないですよ」

「まあ鉄先生は先生なので。一応俺ら中学生用の問題ですよ」

「それもそうだった……」

 そしてみんなして珍解答に対して目を通す。その解答は「助けに来ました! 国塚姫居ますか⁉」。

「いや直球じゃないですか。こいつ完全に国塚先生狙ってませんか?」

「姫居……なんか城かなんかでありそうな雰囲気でてますね」

「国塚姫……私も今度から使わざるを得ないなあ」

「これ俺ですね」

「玄かよッ!」

「そうなんだよねー、柊君なんだよー」

「さっきあたかもこんな問題間違える奴いない風な雰囲気醸し出してただろうがっ!」

「まあ、国塚先生こういうのでも丸くれるからさー。それに可愛いし?」

「うんー、生徒にとはいえ可愛いと言われるとちょっと照れるね」

「国塚姫愛してます」

「日向先生にはそういう事言われてもなびかないかなー」

「俺が言ったらどうなりますかね?」

「鉄君かあ……。まあ弟みたいなものだからどうにもならないかも」

「俺が言ったらどうなりますか?」

「柊君はこれだっ! て感じになるんじゃない?」

「俺はどうですか?」

「犬飼君はそれだっ! て感じになるんじゃない?」

「後半からどんどん雑になってません?」

「うんごめん、面倒だった……」

 国塚が露骨に疲れた顔をして肩を落としてしまったのを見て、男子たち三人が申し訳なく思っている中、日向は立ち上がって国塚の肩を揉んでやる。

「君たち、いくら国塚先生が優しいからって先生を悩ませるようなことをしてはいけません」

「まあ一番の悩みの種は日向先生なんですけどね……」

「そうなんですか? なら悩みがあったらいつでも相談してくださいね」

「――どういうことですか?」

「私が悩みを作りながらも私が悩みの相談を受ける。関係継続のための永久機関ですよ」

「たぶん理論からすでに破たんしてます」

「物理学の第一法則が憎いッ!」

「たぶんそれは熱力学ですね」

「あ、そうでしたっけ……。よく鉄先生覚えてますね」

「一応理系なので」

 やたらと国塚にアピールしてきていた生徒の正体が柊だと分かって犬飼は大いに疲れてしまったようで、へたりとファミレスの椅子に背中を預けていた。そしてその様子を柊は横目で見やる。

「信司と国塚先生は毎週ここで会ってたんですか?」

「うん、そうだよ。流石にいじめを一人で乗り切るのはきついからね。私がわずかながらでも手助けできれば嬉しいなと思って」

「へえ、信司、恵まれた奴だ」

「……いやいじめうけてるやつに恵まれた奴はないだろ。デリカシーを持て」

「ん、確かに、悪い」

 柊は静かに頭を下げた。犬飼もそこまでされるとは思っていなかったのか「いやいや」と言いながら頭を上げさせてきた。

 しばらくさらに談笑していると、鉄は用事を思い出したようで先に帰ることになった。そしてそれに加えてどうやら鉄は部活の顧問の都合上、恐らく相当少ない頻度でしかここには顔を出せないことが分かった。その言葉に柊が反応して、自分も一緒に帰ると言い出した。と言っても自転車と自動車という交通手段の違いがあり、一緒に帰ることはできなかった。だが聞けば鉄はいったん家に帰るという話であり、鉄の住所を訊くと学校の傍であったので、柊は失礼を承知で、話したいことがあると断りながら一緒に車で連れて行ってもらえないかと頼んだ。自転車をこの辺りに置いておくことについては柊はさして気にしていないようだったので、鉄は快くそれを了承し、柊と鉄たちはそのファミレスで分かれた。

 犬飼は柊の背中を見送りながら、目の前でいちゃついているように見えなくもない面倒な二人とどう過ごしていくべきかしばらく思案に耽っていたと思ったら、なぜか解散の時刻が来ていた。二人のわいわいとした様子に巻き込まれて知らないうちに時間が経過してしまったようだった。日向は用事があると言ってさっさと行ってしまい、いつも通り最後には犬飼と国塚が残ることになった。

「犬飼君、柊君を連れてきてくれてありがとう」

 国塚が犬飼の目を覗きながら言った。

「いえ、そろそろ俺の安っぽいちっぽけな復讐も終わったので。……なんかバカみたいなことしちゃったなと思いましたけど」

「いいよ、何度でも間違えよう。その年なんだからね。でも、一回間違えたら――絶対に忘れちゃダメ」

 国塚は己の胸にそっと手を当てて目を閉じた。まるで今感じた思いを体のどこからも漏れ出させないように、そして優しく心の中に刷り込むような仕草だった。犬飼も特に意味はないがその動作を真似てみる。胸に手を当てると、心臓の鼓動が手を通じて伝わってきた。その鼓動の一拍毎に思いが血流にのって、体中に巡って記憶されていくような不思議な感覚を覚えた。自分の血の流れに沿ってある思いを体中の細胞一つ一つに刻み込む。すでに許した友達を下らない復讐で傷つけない、と。

 お互いが席に座って胸に手を当てて目を閉じているという光景は周りから見たら若干異常に見えるかもしれないということを犬飼は思い至って、さっさと目を開ける。国塚も知らないうちに目を開いており、飲み物を少し口に流し込んでいた。

「さて、私たちも帰ろうか」

「そうですね」

 そう言って手短に会計を済ませて店を出る。鉄や日向も帰る前にお金を出しておいてくれたのでちゃんと正当に払うべき金額のみを国塚が支払っている。柊の分のお金も鉄が一緒に帰る時に置いて行ってくれたので、国塚は静かに鉄に感謝しながらファミレスを出た。

「先生、さっきのなんだったんですか?」

「ん? 胸に手を当てる奴かな?」

「そう、それです」

「あれはねえ。特に大きな意味はないよ。ただ昔友達がよくやってたからさあ。その子は何か凄く反省しなきゃいけないことがあった時は、そうやって反省してたんだよね。毎回。それで胸の中に刻み込んでいるらしいんだ」

 国塚は眩しいように目を細めながら楽しそうに旧友の話を語った。そのあと、「と言っても、おやつは三日に一回! みたいな大したことない誓いはすぐに破っちゃってたみたいだけどね」と苦笑いしながら付け加えた。

 その後国塚とは別れて犬飼は一人で自転車に乗って帰ることにした。帰る際中の道のりでぼんやりとまた国塚の言っていたことを思い返した。国塚の旧友がやっていた誓いの立て方。どうでもいいことは破っちゃっていた、ということは、大切なことはきっとその人は守り続けたのだろう。それが一体何かは分からないが、犬飼には少し興味があった。そうやって自分なりに自分の想いを貫き続ける方法を持っている人が、どういう事を守り続けたかったのか。案外犬飼にとってはどうでもいい様な事かも知れないが、それでも知ることができたら犬飼は少し知識を増やすことができるような気がした。抱いた思いを忘れないための鋼の記憶力を手に入れるための手掛かりになりそうだったから。もしそんな記憶力を手に入れることができたら自分のためにも使えるし、友達を助けるためにも使える。

 ひとまず犬飼は最寄りの公園に自転車を止めて、そこに置いてあったベンチに適当に腰かけた。もう一度胸に手を当てて、思いを体中に伝播する流れに耳を傾ける。まだ正午頃にも関わらず外で遊んでいる子供たちは見受けられず、公道からも外れた場所にある公園なので静かな時が犬飼を包んだ。夏の気配を感じさせる少し蒸し暑い風が犬飼の頬を撫でた。

 どうやら彼の友達の狙いは間違っていないようだった、と犬飼はふっと笑ってその場を後にした。



*            *



 柊は鉄の車に乗せてもらいながら窓から流れている風景を見ていた。鉄の車の中は若干汗のにおいがしたのであまり快適とは言えなかったが、それもそのはず、その辺にごろごろと筋トレグッズが転がっていた。腹筋ローラーにダンベルなどが後部座席辺りにゴロゴロとしているのだ。加えて、飲んだ後のレッドブルやモンスターエナジーなどの空き缶なども転がっているため、車でありながら完全にトレーニングルームとしての役割を担わされていた。

「鉄先生誰か車に乗せたりしないんですか?」

「どうして? 時々するよ。本当に時々だけどね」

「後部座席とかに色々置いてあったりするので……」

「もちろん人を乗せる時はそいつらはどけるよ。ファブったりもするし。今回は申し訳ない、ファブれなかったから汗のにおいが消えてないかもしれない」

「先生も大変ですね……」

「そんなことはないよ。車内に色々なグッズを積んでる自分が悪いんだし。腹筋ローラーとかは車内じゃそもそもできないし」

「じゃあいつ使うんですか、あれ」

「どっかに行ったときに堅そうな床があればいつでも使えるよ」

「なるほど……」

 鉄がそこまでの筋肉馬鹿であるとは流石に柊も知らなかったので、尊敬半分呆れ半分で話を聞いていた。

 そしてまた話すことがなくなると、タイミングを見計らったわけではないが、柊は鉄に語りかけた。と言っても語りかけた内容は大したものではなかった。あの放課後に何を見て、何を感じたのか。そしてそれがきっかけで今は何とか犬飼の横に立って頑張ることができている事とか。

 鉄はその話を聞いて最初は驚いた。「いやー、聞かれてたのか、かなり恥ずかしいな」と照れながら言っていたが、後の方は微笑みながら柊の話に耳を傾けていた。柊は短いながら話を終えると、鉄は目を細めて何度も頷いていた。何となく柊も気恥ずかしい気分になって、鉄が事故を起こさないかそわそわと心配げに車の前へと目をやった。

 すれ違う車はどれも足早に走っていて、なんだかそのスピードで見る車は酷く形がぶれて歪に見えた。すれ違う木々も人々も、走っている車の速度のせいか元のとは程遠い形をしているように錯覚してしまう。その忙しない動きはどこか柊の心の中にじんわりと刷り込まれた。

「柊君、いいね。俺は格好いいと思うよ、そういうの」

 柊はふっと顔を上げて鉄の事を見た。

「そうやって柊君が格好良くなるきっかけが俺だったと思うと、俺もなかなか誇らしく思う。これからも犬飼君としっかり仲良くやっていってね。こういう障害を乗り越えた二人ならずっと仲良くやっていけると思うし」

 鉄はまるで子供が初めて言葉をしゃべった時の様に嬉しそうにしながらメッセージを伝えた。そのメッセージを聞きながら柊は酷く曖昧に頷いた。

周りの風景はさっきよりもさらに速く動いているように柊には感じられたので、ふっと自動車のメーターを見ると、そこにはただ一定の数値で六十キロメートルと表示されていた。

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