第5話 怯えて

 次の日の朝。柊は昇降口で待ち人を待っていた。もちろんその相手は犬飼である。

 犬飼を待つ間暇だったのでふと犬飼の下駄箱を見てみた。大体いじめの定番ではシューズに何個もの画鋲が入れてあるという物もあるからだ。犬飼のシューズを見てみると案の定大量の画鋲が、しかもご丁寧に何個かは両面テープで靴底に固定して付けられていた。もし万が一、一回靴を下に向けて床にすべて画鋲が落ちたと考えて、そのままシューズを履いてしまったら一体どう責任を取るつもりなのかさっぱりわからない、尋常ではない仕掛けだった。柊は特に画鋲を入れる入れ物を持っている訳ではないので、傍にあったゴミ箱にそのまま画鋲を捨てて、その後靴底に残った画鋲を一個一個剥がしていく。そういう形で止められていたのは三個であり、靴の奥の方、つまり足先の方に画鋲を配置させていなかったのが不幸中の幸いだった。柊は靴の外側も見回してみると、画鋲によるいたずら以外にも目を当てる気にはならない酷い言葉が落書きされていたりもした。本当になんという事をしてくれるんだという小杉に対しての怒りが、活火山から噴き出す熱波のように湧きあがってきて、今すぐにでも殴りに行ってやろうとかと思ったが、足を教室に向けて少し歩みを進めると徐々に頭が冷えてきて、殴った後の仕返しの存在を冷静に考え、殴ってやろうという思いは穴が開いた風船のようにふしゅんと一気にしぼんでしまった。

 戦意を喪失した兵士の様にげっそりとした顔で昇降口に戻ると、ちょうど下駄箱のシューズがないことに気付いた犬飼がそこにいた。犬飼はきょろきょろと辺りを見回すが、そこで柊の姿を確認して、柊がシューズを持っているのを訝しげに見る。そして明らかに攻撃的に吐き捨てるように、「返してくれ」と伝えてきた。柊もすぐに犬飼と前のような距離感で関われるとは思っていなかったので、動作一つ一つが犬飼の神経を逆なでしないように、細心の注意を払い柊はシューズをしゃがんで犬飼の傍に置く。

 そしてシューズを履いている犬飼に向かって、柊は角度が四十五度ぐらいになるまで体を曲げて、深々と礼をする。

「信司、本当にごめん。一回見捨てちゃった分際で何言ってるんだって感じかもしれないけど、俺もう一度お前と一緒に過ごしたいんだ。だからこれからは俺も積極的に教室でお前に話しかける。孤立も一緒にする。だからお前の傍にいさせてほしい」

 柊は低めの声でしっかりと強い意志を伝えた。五秒ほどして柊が顔を上げかけると、犬飼はそっぽを向いていた。当然だが、まだ怒られ続けていると感じた柊は上げかけた顔をもう一度下ろす。すると犬飼の方に動きがあった。

 相当柊の裏切りが許せなかったのだろう。彼はそのまま何かを言う事もなく、柊を置き去りにして教室へと向かっていってしまった。柊は悔しさと申し訳なさで下唇を噛み、犬飼がいなくなった後もしばらく誰もいない空間に対して礼の姿勢を取り続けていた。神か精霊を通じてその想いが犬飼に少しでも届くことを願っていたのかもしれない。



 その日の昼放課、柊は犬飼の後を追って教室を出た。今日からは犬飼と一緒にご飯を食べると決めていたので、コンビニで安い割に量が多い惣菜パンをすでに確保しておいた。

 犬飼の後にある程度の距離を取りながら張り付いて歩いて行く。廊下中から刺さる視線が「何あの子、犬飼君尾行してるけど……。何がしたいのかまるで意味が分かんない」というような思いを物語っていて柊自身ちりちりとした痛みあったが、特に気に留めることはなかった。痛いと言ってもせいぜいそれは痒みのような物であり、犬飼はきっとこれよりも数十倍痛い思いを経験しているのだろうから。

 ある程度の距離を保ちながら歩いていると犬飼が時々柊の方を振り向く。そのたびに柊はパッと目を輝かせて小さく手を振るが、その反応を見ると犬飼は毎回ふいっと顔をまた前に向けてしまい、まるで柊を視界に入れるのさえ嫌であったかのようにずんずんと歩みを速めて進んでいく。柊はその離れるための熱意に少し苦い思いを感じながら、やっぱり俺は傍にいるべきじゃないんだろうか、という思考に頭が囚われる。確かに、いったん裏切った人間の顔を見たくないというのは非常にもっともな気がした。柊自身もそんな奴の顔を見たらゴキブリか何かに見間違えてしまうかもしれないと悲しいながら思った。そう思うとかさかさとうるさく音を立てるコンビニ袋もなんだか無価値、いや、無価値どころか、柊がゴキブリのような害虫である感じを引き立てているかのような想像に囚われ、歩みがどんどん遅くなる。

 そうしてしゅんとして下を向きながら惰性で前に進み続けていると、たっという廊下を駆けだす音が聞こえてはっとして柊は顔を上げると、そこにもう犬飼の姿はなかった。ここは三年生の廊下で三階に位置しているので、階下に走り去ってしまったのか、あるいはどこか最寄りのトイレにでも逃げ込んだのか分からなかったが、とにかく駆け出してその場を去ってしまったのは犬飼だったという確信が柊にはあった。

 さすがにどこへ行ったのか分からないままあてもなく彷徨い歩くのは憚られるが、だからといって教室に自分一人だけ戻って行ってしまうのはやはり犬飼と一緒に戦うと決めた以上大きな不義になるような気がして、柊は手近にあるトイレの中にこもり、もそもそと惣菜パンを食べ始めた。トイレ特有の洗剤臭に、何人もの尿が混ざり合った後のなんとも言えないつんとした非常に薄い臭いが混ざってお世辞にもいい食事環境であるとは言えなかった。犬飼はひょっとして毎日こんな場所で食べていたのだろうかと思うとますます気が重くなってくる。この学校には幸い、校庭に六角形の屋根がある休憩スポットのような所があり、そこで昼ご飯を食べることができなくもないため、普段から犬飼はそっちでご飯を食べていてほしい物だ、と柊はまるでおいしくないパンを食べながら思った。前食べた時もこんなにまずかったんだろうか、と柊はぼんやりと考えながら、無駄に甘すぎるパンをさらにかじった。



 昼放課が終わる六分ぐらい前に柊は教室に戻った。その時間は大体犬飼が戻ってくる時間だったので、トイレであまり美味とは言えない食事を済ませた柊と、階段から上ってくる犬飼が鉢合わせたのはそれほど不思議ではなかった。犬飼はバツが悪そうにふっと顔を背けると足早に教室の方へ向かった。柊はその隣にぴたりと並んで、「昼ご飯はどうだった?」と話しかけてみた。そうすると犬飼は「まあ」と非常に雑に答えて会話が止まってしまう。そして次の瞬間には二人が教室に着くが、そこには柊が予想だにしていない光景が待っていた。

 クラスに近づく前からがやがやとうるさい雰囲気になっていたのは音で分かっていたが、一体何が行われていたのかは分からなかった。だが実際に行ってみるとそこでは、ブサイクで太ったよく分からない人形が犬飼の席に鎮座している真っ最中だった。席に座らされた人形の高さは腕の肘から先の部分程度であり、髪はぼさぼさしていて、それでいて頭の前方は禿げあがっている。目は濁っており、口はちゃんと微笑んでいるのだが、そこから見える歯がぼろぼろとかけていて、正直可愛さは欠片もない。こんな人形がどこかに存在していることがまず驚きだが、その人形の服には、雑に「犬飼」という名前が書かれた付箋が貼り付けられていた。

「犬飼いつの間にそんなに禿げたんだよ、大丈夫かー? 心病んでんじゃねー?」

「遺伝的にそういう感じだったんじゃね? 運命と書いてさだめって読むあれだよ、犬飼が好きそうなさあ」

「うっわー、中二臭い、まあ俺らも中三だけど流石にないわー」

「てか犬飼でぶだよな、正直。いや今までずっと言わずにいたんだけど、俺とお前の仲だから今言うわ。お前でぶだよな!」

 どうやら人形を犬飼に見立てて、犬飼に普段は言えないような犬飼の欠点を堂々と公言するという、そんないじめらしい。しかも中身も真実とはかけ離れている。犬飼の体型は普通と言い張ろうにも細すぎるような物なのにもかかわらず、ただ心を抉るための言葉だけが選ばれて口にされていた。

正直に言って痛いというのが感想だった。だが、これは明らかに人形に話しかけているのがどうこうという痛みではないことは火を見るより明らかだった。小杉グループの中でも三人がげらげらと笑いながら犬飼について歯に衣着せない物言いで言葉を重ねていた。それを時々はっとつまらなさそうに笑いながら眺める小杉と、その様子を楽しそうに撮影する岩月の姿もあった。話をただ茫然と聞き続けるしかなかった犬飼と柊に小杉が気付き、そして射抜くような視線を投げかけてくる。

 柊は背筋が凍るような思いだったが、蚊の鳴くような声で「止めろ……」とだけ口にした。犬飼はそれが意外だったのか普段より少し目を大きめに開けて柊を見る。犬飼は柊がそこまで積極的に自分のために努力してくれるとは思ってなかったのだろう。柊はそれ以上続けて言葉を紡ぐことはできなかったが、小杉にしっかりと、今にも泣きそうではあったが、視線を向けていた。

 小杉がはっとつまらなさそうに鼻を鳴らし、少しばかり柊に顔を近づけて「今、止めろって言ったか?」と尋ねる。柊は固まってしまって何も言い返すことができなかったが、小杉はそんな様子の柊を見て、ふうんと呟いた。そして、まるで春に花が咲き誇るように嬉々とした顔を浮かべて「これからは二人とも仲良くいじめてやるよ」とどこでもない場所を見ながら呟いて、行くぞとメンバーを連れて引き揚げていった。

 小杉が去った後も、柊はふらふらと千鳥足の様に歩いている自分にしばらく気付くことができなかった。怯えすぎた魂が必死に体から抜け出そうとして意識が頭の方に集中し、足の制御がまるで効かなくなっているようだった。

 次の授業の準備をして席に着き、柊は今更ながら冷や汗が体中から流れ出ているのを感じた。今まさに犬飼が受けていたのは完全なる人格否定に等しい物だった。今までにはアプローチとしてあんな方法で犬飼がいじめられているのは見たことがなかったが、それでも思い返せば今までもあのような、犬飼の欠点をなんの情けもなく抉ってくるいじめもあったような気がする。これからはそれを自分自身も背負っていかなければならない。柊はその重すぎる重荷を思わずにはいられなかった。棘ばかりが生えている巨大な鉄球が後方から迫ってきているような底なしの恐怖を感じ、柊の顔から一線の冷や汗が流れ落ちる。

 そして柊にはもう一つ思うことがあった。それは小杉の超然とした態度。今まではあまりにも漠然と犬飼のいじめを捉えてきたため、小杉がてっきり一番犬飼をいじめているのではないかと考えていた。柊自身、考えていたという表現を使っている時点で、自分自身が犬飼のいじめから明確に意識を逸らそうとしていたことがよく分かってしまった。そして今、柊は小杉と犬飼の立ち位置を正確に把握したような気がした。

 あの超然とした態度。あれはまるで王のそれのように見えた。犬飼は奴隷で、王を楽しませるために周りの側近たちが犬飼を適当に調理して、それを王の前に献上する。時には王自身も安全圏から優雅に手を下す。コロッセオも似たようなことをやっていたように思うが、つまりそういう事な気がした。

 柊はここに至って、いじめはただの暴力の行き場が彷徨って居場所をなくし、誰かに牙をむいているだけではないことを理解した。暴力とも違う、支配という恐怖がすぐそこにある。そのことを思うと、柊は目の前で開かれた教科書の黒い文字がふわふわと膨らんでは暴れ出し、どんどんと自分の心を侵食していくのを感じた。



*            *



「さて鉄君、何かやりすぎた事をしたという自覚はある?」

 国塚は太陽の香りが漂ってきそうなほど柔らかく優しい笑顔を浮かべていた。と言っても、太陽のような笑顔からは突然プロミネンスが飛び出してくる可能性もあるので、その笑顔が鉄にとって優しい物に見えたかどうかは定かではないが。

 だが、国塚に関して言えば実際に普通に温かい笑顔を向けている気持ちだった。国塚自身何が起こったのかをよく把握できていなかったのだ。ただ、ここ一週間ほどでいじめの様相は少し様変わりしたという事を肌で感じていただけで、その原因はなんだったのか分からないままだった。

 柊が犬飼と共に行動を共にするようになり、いじめも一緒に受けるようになった。これが喜ばしことなのかどうかは分からないが、国塚自身は悪くない変化だと思っていた。ただ、犬飼が柊をあの集会に連れてきたがらないのは正直頭を悩ませるしかなかったが。やはりいったん裏切られてしまったという過去はそう簡単に払拭できるものではないらしく、瞳に力を込めて「もう少し玄には痛い目にあってもらいます」という悲しい決意表明を犬飼にされてしまったので、国塚も苦笑いで答えるしかなかった。念のため、柊が本当に滅入りそうになったら早く連れてこい、と言ったら「もちろんです!」と力強い返事が返ってきたので、恐らく来週の日曜日ぐらいにはちゃんと柊を連れてきてくれると思うが、柊のメンタルが予想以上に強く、鋼並みの心であればもう少し先延ばしされるかもしれなかった。国塚自身としてはさっさと柊も会合に来て不安を少しでも和らげてほしかったが、少し過激とはいえ犬飼の気持ちも理解できるのでちょっとだけ野放しにしておくことにした。

 さてそれについてはまあどうでもいいことであり、目下のところ最重要なのは鉄が何かやらかしていないかという事であった。ここ三、四日ほど日向が変にそわそわして国塚に対して大胆な行動を取ってこなかったのを、国塚が不審がって問いただしてみたのだ。

「日向先生、どうしたんですか? 最近元気がないですね……」

「えっ? そ、そうですか? 元気ですよとても! 国塚先生こそ最近は少し女子力が落ちたんですか? みりょ――」

 それを聞くと国塚はまさしくプロミネンスが噴き出して紫外線をバンバン送ってくる太陽のような真っ赤な微笑を浮かべて、日向の首根っこを掴んだ。国塚としても普段通り振る舞えない日向を心配した対応を取ったにもかかわらず、恩を仇で返すような言葉を述べてきた日向に少し鉄拳制裁を加える必要を感じたようだった。

 鉄拳制裁を下すために国塚が日向を生徒指導室に連れて行き、少し脅迫すると日向は呆気なく口を割って、鉄に国塚が裏で何をしているのかを説明したことを吐いたので、鉄も国塚に引っ張ってこられて彼女の前の椅子に座らされている状況だった。

「まあ正直私も何が起きたのかさっぱりだし、鉄君が何かしたとしてもいじめ自体が悪化する、っていう私が想定した事態が特に起きなかったことを考えると、鉄君もかなりうまくやってくれたみたいだし、特にいう事はないんだけどね」

 国塚は鉄が柊を焚き付けて、友達を守るためにとりあえずいじめの真っただ中に突っ込ませたのではないかと思わないでもなかった。だが熱血派の鉄でも流石にそこまではしないだろうという確かな信頼を込めて先ほどの言葉を言っていた。

ただ、何かしらのきっかけがないと柊が今になっていじめに関わってくる意味もよく分からない。その理由が知りたいと思う国塚だったが、それはまた柊が犬飼と一緒にあのファミレスに顔を出してくれた時でも問題ないだろう。

 色々と雑念で頭を悩ませていると鉄が事の経緯を話し始めた。と言っても特に長い話ではなく、小杉たちにどういう注意を行ったのか、というただそれだけだった。なかなか相手想いの良い説得だと国塚は内心感心したが、そのあと鉄が告げた、小杉自身の台詞も聞いて不思議に感じずにはいられなかった。小杉の感性が変わっている、という単純な話で片づけていいのか疑問だったが、その様子ではきっとどんな説得をもってしても今の状況を変えることはできないだろう。今この瞬間は小杉の魔の手から二人を守ることが最優先だということを国塚は再認識した。

 そして一通り話を聞いて国塚は顎に手を当てて少し考え事をする。矢川といじめについて初めて意思疎通を図ることができたあの夜から、ごく普通に国塚は矢川と会話をするようになっていた。特に放課後、毎日十分ほど校舎の外に出てはいじめの事について話し合う時間を確保するようになり、矢川が獲得してきた情報をだいぶ国塚も把握することができていた。矢川の話によれば、柊は前々からどういう訳か知らないが学校帰りに小杉の後を尾行していることが多かったらしい。これは矢川の妻から得られた情報らしく、矢川の妻がいつも登下校時刻に通学路を散歩しているのは、防犯という観点よりもむしろいじめの早期発見という意味合いの方が大きいらしかった。通学路でもいじめは行われることがある。だが、教員が傍にいてはその行為をあからさまに行うことはない。だから矢川は生徒たちに顔が知られていない自身の妻に頼み、いじめの監視役をしてもらっているらしい。その妻が、最近柊が頻繁に小杉の後を尾行しているのを見ていたらしいのだ。

 この情報を加えて考えると、柊は鉄の話を小杉の尾行の過程で聞いた可能性がある。それに惹起されて柊自身も活動を開始したのかもしれない。ただの推測の話ではあるが。

 国塚は鼻で息を抜くようにして肩をリラックスさせる。まあ今考えたところでしょうがない。ただ、その仮説が正しければ、鉄が持つ熱い心は矢川が持つ周到な心と同じく、間違いなく自分自身に足りない才能だと感じられた。

「鉄君、君もやるねえ」

 素直に口からその言葉が出る。鉄はそれが称賛の言葉なのかただの皮肉なのか判断しかねていたが、鉄の隣あたりに立っていた日向が「これは素直に感動しています。鉄先生への評価がうなぎ上りですよ」と的確な国塚の生態解析を披露してくれたので、若干引きながらもふっと肩の力を抜いた。

 マシュマロのようなふんわりとした弛緩した空気が辺りを包み込み、誰がともなく安堵のため息を漏らした。

「そういえば、結局聞きそびれてましたけど、日向先生はどうして私がそんなことをしていると知っていたんですか?」

「ああ、別に大したことじゃありませんよ。国塚先生をちょっとばかり尾行してちょっとばかり盗撮していただけなので」

「大したことですよ。大したことどころか大した犯罪に片足突っ込んでますよ」

「そうですか? テレビの録画とかと同じですよ、好きな俳優さんを思う存分盗撮できてるじゃないですかあれ」

「同じなんですかねえ……」

「国塚先生騙されないでください、同じじゃないですよ、怒っていい所ですよここ」

「ちゃんと撮影の時のカメラのアングルとか考えてくれたッ⁉」

「怒るところなんか違う気がしますねえ……。面倒くさい女優みたいな雰囲気ばんばんになっちゃってますよ……」

「もっと国塚先生に振り回されたいハァハァ」

「ちょっと黙りましょうか」

 混沌としたやり取りが始まりかけたので鉄が止めにかかるが、すでに混沌、あるいは悶々とした気持ちは収まりきらなかったのか、いつの間にか日向は椅子に座る国塚にがっしりと抱き着いていた。今日はたまたま国塚は黒くスマートな印象を与える腰丈チュニックを、日向はクリーム色で優しい印象を与える腰丈チュニックを着ていたため、抱き着くことにより二人の服にほんのりと染み込んだフローラルな香りが漂う。日向も国塚ももよもよともがいているが、日向が的確にもがきづらくなるように抱き着いているせいか、全く抵抗できない。仮にも盗撮した相手に対してこうも詫びれずに積極的に抱き着くことができるあたり、流石日向であると国塚と鉄は両者ともに戦慄しながら日向を引きはがしにかかった。

「そういえば、犬飼君を保健室登校させるという話はどうなりましたか?」

 日向が鉄にがっしと顔を掴まれて、コンプライアンス的に問題がありそうな方法で国塚から引きはがされそうになっているが、必死に抵抗してへばりつきながら言った。

「ああ、そのことなら伝えたんですけどね……。やんわりと断られちゃいました。特に理由とかは言ってなかったんですが、……うーん、少しでも親御さんにばれるようなことはしたくないのかなあ?」

 国塚もその辺の子供の心理は非常に難しいと感じており、あまり推測できていなかった。ただ本人がまだそこそこ元気そうな段階でこちらから無理を通すこともないと考えて保健室ではなく実際に教室登校させていた。

「いやあ、親御さん思いの国塚先生本当に素敵です……」

「今一瞬も国塚先生が親御さん思いだった発言はなかったと思いますが……」

「まあこれまでの行いを総合してという事で。国塚先生は百点満点の女性ですね」

「百点満点の先生じゃなくてですか? 女性面評価でしたか今?」

 わりゃわりゃと剥がしたり剥がされたりしがみついたりしがみつかれたりという状況でありながら、国塚は保健室登校の提案をしたときの犬飼の様子を思い出していた。別段変わっていたという訳ではない。だが、犬飼はあの時「俺にはちょっとやらなきゃいけないことがあるんで」などと言っていたような気がした。と言っても曖昧な記憶でしかないが。保健室登校を勧めたのはいじめが始まってそれほど間もたっていない頃だったので、記憶が薄れかかってしまっているのだ。あまりに早すぎる段階で勧めるのもどうかと思ったが、身の安全を考えれば早いうちに手を打っておいた方がいいのは間違いなかった。小杉はこのいじめで物理的に相手に被害を与えるようなことはしていないようだが、いつそのような物理的ないじめが始まるかも分からない。さっきは柊がすぐにあの場所に来てくれなくても大丈夫だと思ったが、それでは遅すぎるのかもしれないという考えも頭をよぎった。

 ごちゃごちゃとした揉み合いに発展してきた日向引きはがし作戦だが、日向が揉み合いに紛れてふわっと国塚の胸を揉んできたので、国塚はバラの様に美しい笑顔を浮かべながら日向を蹴り飛ばした。綺麗な花には蹴りがあるという話である。



*            *



 ある日の昼放課。柊と犬飼は微妙な空気感の中で昼ご飯を終えて教室に戻った。最近は柊が犬飼と一緒に戦うと言い出した頃よりは話すようになっていたが、それでも犬飼はまだ前までの調子には戻っていないようで、柊にはどうしようもない違和感が感じられた。もっとも、素直にご飯を一緒に食べることができるようになったのは大きな進展なので、そのまま行けばきっと前のような関係の戻れるだろう、と柊は心の中で安堵していた。犬飼との距離が近づいているという確かな実感を感じ始めていることもあり、昼放課は柊にとっても心を休めるためのいい時間になっていた。

 とはいっても、ご飯を食べた後、教室に戻ろうとして近づけば近づくほど足は重くなり、ご飯を食べたときのゆったりとした気持ちは底なし沼に飲み込まれていくように消えてしまう。

 教室に戻ると、犬飼の椅子と机に異常が見受けられた。椅子に糊が塗られているいじめは最近さらに悪化して、その糊を介して画鋲などを椅子に設置するという形になっていた。糊はただでさえ剥がしづらいのにそれに加えてしっかりと糊付けされてしまった画鋲。正直お手上げで、画鋲は引っ張っても引っ張っても外れる気配がなく、椅子はいよいよ交換が迫られそうになった。

「最近糊の付着具合が悪くなってたからな。椅子を変えてもらうにはちょうどよかったかもしれないな……。また糊が塗りやすくなる」

「机もちょっと落書きしすぎて摩耗が進んできたんじゃね? そろそろ変えてもらった方がいいかもしれないな。また落書きしやすくなった方が犬飼もいいよな?」

 犬飼が糊付けされた画鋲を必死になって剥がそうとしていると、天上から何を間違えたのか天使でなく悪魔の声が降ってくる。顔を上げるとそこには口裂け女の様に歪んだ笑みを浮かべた奴らが二人並んで立っていた。今回やってきたのは小杉と岩月という奴だった。それ以外のメンバーは自分たちの席でその様子を眺めながらせせら笑っている。

 柊は机の落書きを消す作業にあたっていた。何も言葉には出せないが、睨むような視線をその二人に向けると、その二人は互いを見合って笑いあい、嘲笑を浮かべて柊に向き直る。

「柊も馬鹿だよなあ。一緒になっていじめられようとするなんて。まさかドM? いやー、気色悪いのなんのって。マジ引くわ」

 最後の方は本当に声音を押さえて極寒の冷たさを宿して言い放ってくる。小杉もその言葉に同意したのか、はっと軽快に鼻を鳴らして答える。柊は氷の槍を心臓につきたてられたかのような錯覚を覚えてしまうが、そのあとに聞こえてきた声にその槍が氷解させられる。

「玄は関係ないだろ」

 犬飼が黙々と作業をしながら静かにそう紡いだ。その剣幕はなかなかのものだったが、例の二人には夏のじめっぽくて鬱陶しい微風程度にしか感じられなかったらしく、顔を歪めて肩を竦めあった。そのあとまた余裕の笑みを浮かべ直して言葉を吐き捨てていく。

「犬飼ー。いいねえ。どうやら柊をいじめた方が怒れちゃう感じ? はあ、なるほどねえ、ドMの元友達の方がいじめられるのをご所望ですか。いいねえ、ドSだねえ、友情もくそもねえなあ」

「なあ柊。こんな冷たい奴見捨てて俺たちの仲間にならないか? たくさん可愛がってやるよ」

 小杉が能面のような冷たい笑顔を浮かべて柊に語りかける。ただ、語りかけているように見せかけているだけで本質は威圧でしかない。柊はその意味合いを感じとって恐怖し、少し肩を震わせる。可愛がってやるというのはいたぶってあげるというのを優しく言っているに過ぎない。冷たく不条理な優しさはただ柊の心に静かに刃を立てて、迂闊に動いてしまえばすぐに心が傷つくように待ち構えている。

 いじめという物には心を捨てて立ち向かう必要があるのかと柊は改めて感じた。自分は人ではない、人としての資格を持っていない。心など持っていてはいけないという強迫的な人格の否定さえやすやすと行われているような気がしてならなくなってきた。心を持てば傷つけられる。ならば心を捨てるべき。もっともそう思い至ったとしても、家に帰れば家族がいて、そこでは心を感じてしまう。せっかく学校で心を捨てたとしても、家に帰ればその優しさを求めて心はふらふらと舞い戻り、痛みをまた味わうことになる。優しさが人を傷つけることもあるというが、まさかこんな形でも心を傷つけてくることがあるとは思わなかった。

 もうすぐ昼放課が終わるという事で、例の二人は自分自身の席に帰って行った。結局柊は犬飼の机の落書きを消しきることができず、しずしずと自分の席に帰って行った。犬飼は椅子なしで授業を受ける訳にもいかなかったので、最寄りの空き教室から椅子を一つ借りてきて自分の椅子の代わりに使っていた。恐らくもう使い物にならなくなってしまった椅子はその空き教室の後方に置いてきたようで、報告はまた別のタイミングにするようだった。

柊が自身の席に戻ると、そこにはさっきの机を見た後だと昨日今日購入したばかりの新品と見間違えるばかりの机がそこにあった。柊の机には特にいたずらはされていなかった。それどころか、柊は基本的にあのいじめグループからは無視されていた。柊が率先して犬飼の所に突っ込んでいかなければ、碌に関わられない。なので、実は柊はこの中途半端な状況に感謝してもいた。直接攻撃される心配はないので、思う存分犬飼の補助だけに回ることができる。最近犬飼のいじめに関与するようになって、自分が犬飼と同じように陰湿で苛烈にいじめられたら、絶対に自分自身の事だけで手いっぱいになると感じていた。犬飼と一緒に戦うと言っておきながら、自分が傷つきすぎてもう犬飼のために何かして傷つく気にはなれない、という状態になってしまうという確信があった。だから犬飼には申し訳ないが、今の状況は非常にありがたく、柊はこちらにいじめが飛び火してこない今の状況を心の底から感謝していた。

 だが、同時にそれはかなり柊の気持ちの上で負担になっていた。柊はいつでもいじめから逃れられるということ。いつでも犬飼を見捨てることができるということ。柊にとってこの条件は思いの外巨大な誘惑だった。まだ自分にいじめが降りかかってきていない今なら引き返せるかもしれない、という身勝手な思考が、落書きを消すのを手伝っている時、糊を剥がすのを手伝っている時、なけなしの勇気を振り絞って敵意を込めた視線を相手に送った時、さらには昼ご飯を食べている時でさえ、頭の片隅にむくっと現れてくるのだ。そしてふっと現れたと思ったら次の瞬間には脳全体の神経すべてに「止めてしまえ」という信号を伝達する。そんな風に瞬間的に脳の思考をすべて喰らいつくしてしまうほど、柊にとってその状況は魅力的だった。そしてそう感じている自分を日に日に嫌になっていくせいで、同時に気も滅入っていく。最近はそんなことの繰り返しだった。眠れなくなってクマも浮かんできてしまった。眠る暇があったらいじめから離れるか否かを延々と考えてしまうほどだったのだ。

 そして柊はいじめと戦った後の、ただただ嫌悪感しか湧いてこない疲労に身を任せて、授業中だということも気にせず机に顔を伏せる。そしてそのまま柊は雲の上から落ちるように一気に眠りの中に吸い込まれていった。

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