第4話 彼とは

 小杉はグループの仲間とも別れ、自宅へ向けて帰りながら何となく鉄の言葉を思い出していた。と言っても特に思い出すほど長い会話はしていないわけだが。

 彼は小杉の事を思いやって言葉を並べてくれているように感じた。それはシンプルに小杉にも嬉しく思われた。だが、それは同時に小杉が望んだ答えとは少し違っていた。小杉が望んだ、「くそみたいに暑苦しい解答」とは程遠かった。最後に鉄が言った言葉も、まだまだ暑苦しくもなんともない。「春風をまとった爽やかな解答」程度に表現すればいいだろうか。小杉は鉄はてっきりもっと暑苦しい人間だと思っていたので、その振る舞いには正直幻滅してしまっていた。

 彼は特にそれ以上鉄の言葉に思う所はなかったのか、思考をさっさと打ち切ってしまい綺麗な夕日に照らされている住宅街を歩いていた。どこからか、にゃあ、という声が聞こえたので辺りを見回すと、さらさらとした毛並みをした野良猫が目に入る。小杉はふっと目元を緩めて猫に近寄る。猫はそこから逃げることもなくじっと小杉の様子を見ていた。

 小杉は昔から動物に好かれやすい体質で、また小杉自身も好かれたらそれを裏切ることもできず、家から何かを持ち出しては野生の猫にご飯を与え、そのたびに母親に叱られたりしていたものだった。曰く、人間がご飯をあげてしまうと猫はそのご飯を与える相手に依存してしまって、それ以降野良猫として強く生きていくことができないらしい。まあそれが真実かどうかは定かではないが、とにもかくにも小杉にとっては頼ってくる猫の方が大事だったのでまた次の日に何かを持ち出しては叱られて、の繰り返しであった。

 小杉はその黒と白のぶち柄をした猫の元に近寄り、すっと手を差し出した。ここで怖がって逃げていく猫もいるが、その時はその時である。その子に嫌がられているならば仕方がないと考え、小杉はしばらくの間、ダンベルか何かを肩に載せているのかと見紛うぐらい肩をがっくりとさせながらその場を離れるのだった。

 今回の猫はそういう事を嫌がるような奴ではなく、小杉はその猫をもしゃもしゃと撫でる。にゃあという気持ちよく思っているのか迷惑だと思っているのか分からない答えを返しながら、猫はどっしりと小杉の前で座り続けていた。されるがままというのも困り者だと何となく小杉は感じた。

 小杉の家はぼろぼろとした二階建てアパートの一室だった。夜はそのアパートの傍の灯りに蛾がこれでもかというぐらいたかり、その辺り一帯にある家々の品格を著しく低下させているように感じられるが、そのアパートはすでに蛾がなくても十分品格が欠如しているアパートだった。小杉の家はアパートの二階の一番奥の部屋なのだが、アパートの二階に上がるための階段の手すりの錆び方といったらもう、大航海時代を経験し終えた船に載せられていた、潮風を浴びに浴びた鉄のように酷い物であり、石を全力でぶつけたらぐにゃりとひしゃげてしまうんではないかというような代物だった。本来小杉の家族はそこまでおんぼろのアパートに住まずとも、もうちょっと新しめの場所に住める程度の経済力は辛うじてあるのだが、長い間住み続けてきたせいかそのアパートから抜けることはできなくなっていた。

 小杉は家のドアを開けて「ただいまー」という声を飛ばす。だが返事は帰ってこなかった。

「まだ帰ってきてないっぽいな」

 小杉の母親の裕子の未帰還はいつもの事なので、小杉は特に気にもせず部屋に入る。

 そのアパートは田舎の広いスペースを利用できたお陰か、四畳半ではあるが風呂付で、快適というほどでもないが家出したくなるほど危険な住み心地というわけでもなかった。部屋に入ると四畳半の部屋の真ん中に小さめの丸机が一つぽつりと置いてあり、部屋の隅には小さいが太めで、何とかデジタル放送が見れる程度のテレビが置いてあった。それ以外では特にこれといってめぼしい物がなく、幼稚園の頃だったか小学生低学年の頃だったかに母親を書いた(と思われる)絵が壁に飾ってあったり、部屋のテレビとは違う隅に置いてある箪笥(たんす)の上に飾られた家族の写真がある程度である。ちなみに箪笥の上段には家族のアルバムもしっかり収容されていた。

 小杉は机の上に置いてあったメモ書きを見る。

「野菜と魚が冷蔵庫に入っています。 PS.ちゃんと一人で夜ご飯を食べること!」

 とのことだった。小杉はそのPSは見飽きたと言わんばかりに愉快そうにはっと鼻を鳴らし、炊いてあったご飯を少しだけよそって小腹を満たし、そのまま風呂に入った。そして高い成績を維持するためにもさっさと勉強を始める。

 小杉はいつもこのような生活をしていた。小学生の二年の時に交通事故で父親をなくしてしまったが、裕子は女手一人で小杉を育て続けてくれた。その裕子と夜ご飯は一緒に食べるということを心の中で決めているのだ。どうせ同じ部屋で過ごしているのだから裕子がご飯を食べている時間も小杉は傍にいて、会話することができるのだが、せっかくだからおいしいとかいう感想をその場で言ってあげたいと小杉は思っていた。

 黙々と勉強を続けていると「ただいまー」と長時間労働の末に疲れて帰ってきた様子の裕子の声が聞こえる。小杉は「おかえりー」と言葉を返して、裕子の荷物を確認する。重たい物を持ったりして買い物帰りの場合は即座に応答して持ちに行ってやるのだが、今日はそんなことはなく普通に勤務先に持っていっている鞄しかなかった。

 そして裕子が冷蔵庫を開けると「またですか……」、という呆れに似た視線が小杉に帰ってくる。小杉はちらっと裕子に見られると優等生然とした己の振る舞いを強調するかのようにすっと背筋を伸ばし、私は何も知らないといった澄ました表情で勉強を続けた。

「ご飯はねー、ちょうどいい時間に食べないと太っちゃうんだよ?」

「ああ、お母さん太っちゃうわこれ……」

「ああん? なんか言いました?」

「ああ、お母さんfootちゃうわこれ……っていう勉強の呟きだよ」

「ふっと? 正直何のこと言ってるのか分からないけど、太っちゃうわこれではないのね?」

「まさか、違いますよ!」

「はいはい、そうですか……」

 裕子は謎の掛け合いに疲れてしまったのか、先ほどよりさらに疲れた様子で小杉の料理と自身の料理を持ってきて机に並べる。

「さて、いただきますか」

「いただきます」

「ふっとちゃうわこれって少し意味分かったかも」

「おお、どういう意味?」

「英語のふっとでしょ?」

「よく分かったな! 正解」

「君今やってるの数学じゃん」

「だからなんじゃん?」

 だから何じゃんってどういうことよ、とははっと笑いを零す裕子を見て小杉も笑う。こんな風な時間が小杉はたまらなく好きだった。この裕子の優しさによって一体どれだけ助けられたか分からない。小杉は心底母親に感謝していた。

だが、一人っ子であったこと、また当然だが亡くなってしまった父親に似ていることから、正直なところ自分自身は甘やかされて育ち過ぎたように小杉は感じていた。小学校の頃、小杉は喧嘩で同級生と殴り合ったことがあった。その喧嘩の末、同級生側は謝ってきたのだが、どうしても当時の小杉は相手に対して謝り返そうとしなかった。何故そこまで頑なに謝らないことにこだわったのか、今の小杉ならなんとなくわかる気がしたのだ。

 目の前の母に目をやる。魚をつつくのは実はすごく下手で、彼女はぼろぼろと魚の身を破砕していっており、いつの間にか枝豆の一粒大になった身をちまちまと泣きそうになりながら食べていた。「面倒くさい……」と彼女は言っているが、その元凶は自分自身なのでなんとも声を掛けづらい状況だが、小杉も一口魚を含んで「でもおいしい」と笑って伝えた。

 裕子は嬉しそうに笑って「でも面倒くさい」ともう一度、今度は笑いながら呟いた。

 小杉は裕子の育て方が優しすぎたからこそ、自分が誰かに謝れない人間になってしまったと感じていた。裕子はあまり小杉を叱ることはしなかった。むしろ可能な限り貧乏でできる範囲内で徹底して甘やかしている感じがした。その甘やかしすぎが、自分自身の少し過剰すぎる自尊心を育み、謝るのを苦手にしてしまったのではないかと。そう感じたのだ。それに裕子は元々あまり謝るタイプではなかったと記憶している。父親と激突したときも、大体決まって気弱な父親がスライムみたいに萎縮しながらふにょふにょとした謝罪をし、母親がそれを許すという具合で争いは終結していた。

 ――そして父親が事故にあった時も二人は、何のことでだったかは小杉には分からないが、喧嘩をした後だった。小杉の両親は喧嘩をした後どういう訳か父親がいったん家を飛び出して行ってしまい、反省してから家に帰ってきて母親に謝るということが多かったのだが、その日もちょうどそうだったのだ。そして結局その日に父親は帰らぬ人になった。父親を亡くしてしばらく小杉も裕子も茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)といった感じだったが、二年ほど経ってやっとその生活にも慣れてきたころ、裕子は小杉に対して言っていた。

「私、謝るの苦手だったの……。でももっと素直に謝っていれば、あんなことにならなかったかも……。則ちゃん、ごめんね……」

 このように心から感じたに違いない思いを小杉に吐露してくれていた裕子は実際それから三年ほど丸くなったように見えた。と言っても別に小杉に対して接する態度が変わったというわけではなく、ただ職場の人と些細ないさかいを起こしがちだった裕子が、あまりそのようなことを起こさないようになったのだ。裕子の口から職場に対する露骨な愚痴が漏れることもなくなり、本当に心からそう感じて別の新しい心を移植したように振る舞っていた。だが、それが最近年を重ねたことによる影響も大きいのか、前のような状態に戻りつつあるのを小杉は感じていた。だからこそ、今このタイミングで裕子に前のような気持ちを再確認できる機会を持ってほしいと思ったのだ。

 だが、この母親は子供から何かを言って意見をどうこするような人ではないと小杉は感じていた。だからこそ小杉は非常に遠回りで回りくどく、また本人は気付いていない、というか考慮してないが、効果があるのかさえ正直なところ微妙な方法を取ることにしたのだが、それが実を結ぶのはまだまだ先なように感じられた。まあ、今すぐ早急に必要とされることではないので別にいいのだが。

「母さん、小魚の食べ心地はどう?」

「小賢しいね」

「小魚だけに小賢しいという事?」

「そこ言わせちゃう? 言わせないでよ恥ずかしい」

「大体の場合まあそう言ってる時点でほとんど言ってるようなもんだけどね」

「本当にそうだよねー。ていうか本当にいつになったら小魚食べ切れるんだろう……」

「スプーン持ってくる? さっき豆粒みたいな大きさだったのにいつの間にか米粒みたいな大きさになってんじゃん」

「なってないわ! さすがにそこまで不器用じゃない!」

「なんかでもひじきみたいになってるじゃん」

「それはたまたま身を部分的にほぐしていたらだね……」

 母親がかくかく云々(しかじか)と豆粒魚がひじき魚になるまでの経緯を説明してくれるのを、小杉はふうんという物凄い雑な相槌をしながら聞いていた。



 時刻は十二時を回り小杉と母親は眠る準備に入った。布団は日中その辺に出しておくと邪魔になるので普段は押し入れの中に入れてあった。巨大な岩の様になかなか動こうとしない押し入れの引き戸を何とか開けて毎回布団は出し入れしている。

「あー、母さん開かないわこれ」

「えー、うっそー。ちょっと私に貸してみてー」

 母親は押し入れの扉をがたがたやってテクニカルにレール敷きの軌道を修正し、すっと引き戸を開ける。

「うわー、馬鹿力ー……」

「ああん?」

 というここまでのやり取りが謎のテンプレートとしてこの二人の中にはあった。

 母親が馬鹿力もとい技術力を結集させて開けた押し入れから二人分の布団を出し、机を部屋の隅に動かしてから布団を敷いてそれぞれが眠りにつく準備をする。

 そして灯りが消され、母親はすぐ寝てしまうたちなので目を閉じて五秒程度たつとすぐにすやすやと眠ってしまった。母親は普段の仕事の疲れもあり、夜はよく眠れてしまうようだった。

 小杉はすぐに寝静まった母親を見て、天の川や満点の星々がプリントされたスマホケースに包まれたスマホを取り出す。別に母親に隠す必要はないのだが寝る前にラインにメッセージを返す。ごく普通に会話をする奴もいるし、正直何を言っているんだこいつはというぐらい頭のおかしいラインをたびたび送ってくる奴がいれば、スタンプだけで会話を試みようと新たな人間のコミュニケーションの形の開拓に学者並みの探究心を持って取り組む奴もいる。そういう奴がいろいろ集まっていてラインでのやり取りはそれはそれで小杉にとって面白かった。

『明日の宿題なんかあったっけ?』「ないな」

『賢者タイムなう』既読無視

『(なんかうざいスタンプ)』「(OK的なスタンプ)」

『今日も疲れたわ(怒っているこめこぱんだ)』「本当に悪いな(笑) 明日も手伝ってくれ」

 最後の人物がラインで送ってきたのは「こめこぱんだ」というゆるキャラのスタンプであり、密かな人気を呼んでいてるものだった。こめこぱんだ好きの人物も一学年探したら二人ぐらいいるかもしれないほどの人気である。それが果たして人気と言えるのかは甚(はなは)だ疑問であるが。そのキャラクターはもちもちのパンダという設定であり、どうやらもちもちなのは米粉からできているかららしい。要するに「米粉パン」とパンダをかけている訳だが、お腹をすかせて泣いている子を見ると頭をもちっとちぎって「これを食べなよ」と渡してあげたりする、明らかに何かをモチーフにしたとしか思えないブラックな設定も人気の一因である、みたいなことを友達から聞いたこともあった。あと、うんちが米粉パンの良い香りがするという設定もあるらしい。本家のパンダのふんも竹のかぐわしい香りがするという事をモチーフにしているようだが、どちらにしても臭いを嗅ぎたい代物ではないなと小杉は心の中で苦笑していた。他にもマントを羽織った「たこやきもち」とかいろいろと危なげなキャラクターも存在するらしいが、こめこぱんだがどうやら一番人気のようだった。

 ひとしきりラインに返信し終えると一通のラインがまた帰ってきて、『ティッシュタイムなう』と言ってきたので「ホモォ」と顔文字を付けて適当に返しておいた。

 こうして小杉の一日はいつものように終わりを告げた。まるで昼間彼は品行方正に振る舞っていて、何一つ気に病む要素などないという顔で、彼はいい夢を見るために眠りについた。



*            *



 はああ、と深い溜息が夜の学校に響く。溜息の主は国塚だった。国塚はその日の学校の夜の見回りに出ている最中で、ぶんぶん飛び回っている蚊を追跡しているかのようにしきりに懐中電灯で辺りを照らす。

 夜の学校は恐ろしい。いつトイレから花子さんの声が聞こえてくるかわからないし、音楽室のベートーベンの目が動いても偉人だからしょうがないと片づけられしまうし、音楽室のピアノが音を出しても欲求不満だからしょうがないという話になってしまうし、理科室の人体模型が追ってきても「迫られてしまうお前が悪い」という政治家の失言が飛び出しそうだし、上っても上っても上り切れない階段に囚われてしまっても、「とある少年たちはくそ長え十二宮殿へ続く階段を延々と上り続けて夏休みも吹っ飛んだアル」というパロディに次ぐパロディの突っ込みを入れらて、せめて夏休み期間分ぐらいは階段を登れという話になってしまうし、かつてこの学校で亡くなったと言われている子供の幽霊が出現しても、Anotherディメンションなら死んでたけどそうじゃないから大丈夫となってしまうし、AV教室で誰も見ていないにもかかわらず突如としてAVが流れ出しても夜なんだから営ませてあげようとなってしまうしで、一部ばかばかしい物もあるがこの学校の七不思議的な物を恐れている国塚は夜の学校の見回りは本当に勘弁してほしかった。

 はああああ、と先ほどよりもさらに深い溜息を国塚は付く。夜の見回りとはいってもせいぜいすることは戸締り程度なので一階だけ戸締りしていけばいいかなあ、と思いつつも、なんだかんだで惰性で上の階まで見回ってしまう。時折水道からぽちょん、という水滴が落ちる音が聞こえたり、たまたまその日履いてきたハイヒールが立てるかつん、という音が誰もいない廊下にこだましたり、暗がりの中で真っ赤に点灯する消火栓のランプが目に入ったりしてきて学校の雰囲気をより薄気味悪い物にしている。天井に設置された非常口の通路を知らせる緑と白の看板の中に緑の人影があるので、現実には存在しない人ではあるが、誰かが傍にいてくれるという意識を持ちつつ歩いてなんとか国塚は夜の学校を攻略していた。途中から口笛を吹こうしてみるが、あいにく練習したことがなかったため極めて下手で、ふーふーという空気を吹き出す音しかならず、この真っ暗闇が誕生日パーティの時にろうそくの火をふーっと吹いて消した後の和やかな暗闇であればどんなによかっただろう、と逆に自分を心細くしてしまう結果に終わってしまった。

 国塚は自身が勝手に心細くなる方向に行動を重ねてしまったことを後悔しながら、大寒波に見舞われた日本列島を歩くように肩をすくめながら前進する。そして国塚が三階の廊下を歩いている時だった。一教室挟んだ先に矢川の教室がある、という位置で国塚は足を止める。かつ、というハイヒールの音が止んで廊下がしんとした静寂に包まれる。だがその中に混じって奇妙な、ぺたり、きゅぺりというような音が響いているような気がした。この音色に国塚は当然ながら聞き覚えがあった。シューズが廊下を踏み歩く時の音にそっくりなのだ。

 ぺたり。きゅぺり。

 その音は時折止んではまた鳴り出し、国塚の足を完全にその場に固定させてしまった。

 その音は矢川の教室から漏れ聞こえているように感じられ、幸いなことに教室を一つ挟んでいるのでまだかなりの距離がある。国塚は選択を迫られていた。つまり、逃げるか見に行くかである。だが国塚にとってその選択肢など大した意味はなさなかった。

 国塚は静かに微笑み、ハイヒールではあるが可能な限りの全力ダッシュをもって職員室に戻った。途中何度もこけそうになったが何とか気合で持ちこたえてとにかく例の教室から距離を取ろうとした。職員室は一階の一角にあるため三階からは相当の距離がある。そこまで逃げてしまえば優しい灯りが全身を包み込んで圧倒的な恐怖感を和らげてくれるうえ、きっとこの学校でかつて亡くなったと思われる幽霊は眩しさに目をくらませてどこかに逃げて行ってしまうだろう。そうでなくては困ると国塚は必死に自身と背後に迫っているかもしれない幽霊に念動力的な何かで訴えかけつつ、目から涙がこぼれ落ちそうになるのを抑えながら職員室に逃げ込む。

 どこからともなく勝利BGMが流れそうな安心感の中、国塚は職員室の入り口の扉に背中を預け、へなっと地面にへたり込んでしまった。職員室の床にお尻と手がくっつく形になったわけだが、職員室の床があまりにも冷たかったので、職員室まで水のお化けの支配下に下ってしまい、床一面が水浸しになってしまったのか思い、ひっという声を上げながら床にさっと目をやるが、そこにあるのはいつも通りの何の汚れなのか分からない黒染みがしみ込んだただの床であり、国塚はほっと固い一息を付いた。

 しばらく腰が砕けてしまって立ち上がることもままならないような状況だったが、時間が経って何とか立ち上がることができるようになると、まるで四、五時間は座っていたんじゃないかと思うぐらい疲れがたまった腰をゆっくりと持ち上げ、自分自身の席に戻る。結局校内の見回りは途中で中断されてしまったが、自分自身の人生がここで中断されてしまうよりは遥かに賢明な判断をしたはずなので、国塚はさっさと帰ってしまおうかと考えながら荷物をまとめ始めた。もう今この学校には国塚と矢川しかいないので帰ってもそう大した問題にされることはあるまい、と自分を納得させててきぱきと準備を進めていると、職員室のドアが開いて矢川が入ってくる。

 ――冷静に考えればあの時教室にいたのは矢川だったのだろうか、と国塚は矢川の足元確認してみる。矢川は動きやすいというのと生徒たちと同じような恰好をしていたいという理由で、シューズだけは学校の物と共通の物を履いているらしかった。そして実際見ると、確かにシューズを履いている。スーツにシューズというのは明らかに不格好だが、大切な時はちゃんと通常の革靴に履き替えているようだし、普段から革靴を履くのはあまり好みではないのかもしれない。、それならば矢川の教室にいたのはやはり矢川本人であったのだろうか、とさらにまじまじとシューズを眺めていると、なぜか矢川の体が全く前進していないことに気付く。

「どうかされましたか国塚先生?」

「え? ああ、これはすみません、ちょっと矢川先生の足元のファッションを確かめていまして……」

「国塚先生がわざわざですか? 参考になったらいいのですが……」

「いえ、参考にするためではありませんが」

 国塚も矢川も苦笑いを浮かべて、そのあとお互いにふっと謎の含み笑いをしあう。謎めいた会話にどちらも違和感を感じずにはおられなかったのだろう。

「ところで国塚先生、さっき校内の見回りをしてくれていたようですが、途中で大急ぎで帰って行きましたよね? 大丈夫でしたか?」

「あ、やっぱりご存知でしたか。あのー、矢川先生の教室でちょっと不気味な歩行音が聞こえたので、幽霊かと思って引き返してしまいまして……」

「はっはっは、それは申し訳ありません、たぶん私ですね。いやあ、幽霊と間違えられてしまうなんて私も随分と死が近づいてきたようで……」

「矢川先生、そんな悲しげな顔で悲しげなブラックジョークを言わないでください、ジョークに聞こえなくなりますよ」

 矢川に対して優しく語りかけ、国塚は自身のブラックジョークにしゅんとしてしてしまった矢川の気持ちを鎮める。

「しかし、矢川先生はこんな時間にまた何を? しかも暗いままでやるなんて、何か生徒に対してよからぬことをしているのでは……。リコーダーをしゃぶるとか……」

「私はどちらかと言えば熟女嗜好でしてね」

「凄いいらない知識を手に入れてしまった上軽く引いています……」

「すみません、少し魔が差したんです……。本当は幼女嗜好で」

「逆の属性だからさっき引かれた分中和できると思ったんですか。さらに引きますよ……」

「はっはっは、いやあ、本当に国塚先生は愉快な方ですねえ」

 朗らかに笑いながら矢川はひじきのような目をさらに左右にひじき一本分延長した程度に瞳を笑わせる。国塚もそれに引っ張られるようにしてくすりと笑みがこぼれる。

 つくづくこれでさらにいじめにも向き合ってくれれば完璧なのだが、という発想が国塚の頭によぎるが、まあこの年で仕事をここまで頑張ってくれている以上、いじめの問題についてはこちらの若くて血気が盛んな奴らが何とかするしかないか、とまた考えを改め直す。

 そして遅ればせながらこのような時間に何故矢川が自身の教室にいたのかを答え始めた。

「私がクラスにいた理由ですが……。まあ今は国塚先生しかいませんので大人しく白状しますかねえ」

 と言って国塚を少し手招きし、矢川は職員室を出た。どうやらついて来いという事らしく、国塚は帰る準備をした鞄をひとまず机の上に置いて再び懐中電灯を持って矢川の後を付いていく。

 歩いている最中、矢川はおもむろに口を開いた。

「私はこれから腹を割って犬飼君のいじめの問題について話そうと思うので、国塚先生も裏で何をしてくれているのか話していただけませんか?」

 国塚は驚いて矢川の方を見る。矢川は相変わらず細い目を緩めっぱなしで微笑んでいるような顔を浮かべている。一体矢川がこれから何を語ろうとするのか国塚にはさっぱり見当もつかなかったが、確かにお互いにいじめの事について話す上で自分だけ何をしているかについて言及しないのもどうかと思われたので、国塚は矢川の教室に辿り着くまでに犬飼に対してしていることを大雑把に報告した。矢川はほおほおと優しいおじいさんらしい相槌を打ちながら話を聞いていた。話したことと言えばせいぜい毎週のようにファミレスで犬飼と落ち合って一緒に雑談しているという事だったが。

「ほほう、そんなことを。裏で何かしてくれているとは思っていましたが、まさか日曜日をつぶしてまで。本当に犬飼君のためにありがとうございます」

 矢川は歩きながら恭(うやうや)しく頭を下げる。国塚は慌てて手を振って「いえいえ、大したことではないですから」と困った笑顔を浮かべながら答えた。

「確かに学校の外に居場所があるとそれだけでありがたいですからね。子供の気持ちを吐き出す場所としてそういうこともできたんですね。若い人から学ぶことがまだまだたくさんありそうで、悔しい限りです」

 ふふふと本当に嬉しそうな微笑みを浮かべながら矢川は言った。国塚はべたべたに誉められたせいでなんとも言えないむずかゆい気持ちになり、照れながら所在なさそうに手をもそもそとやっていた。

 そして矢川の教室にちょうど良く着き、矢川は特に迷う事もなく一直線に掃除道具入れの方に向かい、突然立ち止まる。国塚も後に続いて立ち止まったのち、辺りを少し見回してみる。そして矢川は国塚が道中道を照らすために使っていた懐中電灯を借り受け、掃除道具入れの上の辺りを照らす。そこには今にも爆発しそうな出目をしているという謎めいた意匠の招き猫があった。夜見ているせいか、その招き猫の笑い方も頬を右から左に裂き切るような不気味なほほえみであるように見えた。

「これは悪趣味な招き猫ですね」

「なかなかはっきりと言いますね。そうです、とても悪趣味なんですが妻が好きなんです」

「……奥さんは変な趣味をなさっていますね」

「当人曰く『気持ち悪くて可愛い』という事なんですが、言ってることがまるで真逆で意味が分かり兼ねます」

「世間で流行っているかもしれない『きも可愛い』という奴ですね。私も矢川先生同様全く意味が分かりません」

 国塚は矢川と妙なところでシンパシーを感じて親近感を覚えながらも、まじまじとその不幸を目ざとく見つけて招いてくれそうな招き猫を見る。はて、気持ち悪いだけであの招き猫がどうしたのだろうか、と国塚は首をひねる。まさか妻の趣味をちゃんと教室に取り入れている矢川の夫力の高さのアピールであったのだろうか、と国塚はさらに逆向きに首をひねって難しい顔をした。

 そうしていると矢川が「まあ、ここからは分からないと思います」と口にして、ずいぶん手慣れた様子でロッカーの群れになっている部分の上に上り、そこから手を伸ばして掃除道具入れの上の招き猫を持ってきた。

 改めて招き猫を前にして、国塚には何か違和感があってギョロ目の部分を下から覗き込む。そして国塚はその違和感の正体に気付いた。ただのギョロ目だと思っていたが、そのギョロ目の黒い目の部分の奥、直径は一センチ程度だろうか、そこにはどうやらカメラのようなものが中に設置されているように見えた。中からしか外が見えないタイプの素材でできているのか、じっくりと覗きこまないと発見できないような代物だった。そしてよく見るとカメラに意識が向いてしまっていたが、逆の方の目には穴が開いており、何やら録音機らしきものが設置してあった。

 国塚は驚いて顔を上げて矢川の方を見る。懐中電灯のせいか矢川の顔が眩しく見える。矢川は特に変わった様子もなく、「そこにはカメラと録音機が仕込んであります」と平然と伝えた。国塚はあんぐりと口を開ける。

「これは……盗撮か何かに当たりそうじゃないですか?」

「私はもう老いぼれで定年退職までそう遠くはありませんしね。まあちょっとぐらい危ない橋を渡っても大丈夫なんですよ」

 そういう矢川の顔は暗闇に紛れることもなく相変わらず朗らかに笑っていた。

 この招き猫の視線の先には犬飼の席があった。つまりこの招き猫はずっと犬飼の、ひいては犬飼の席の周りで起きている出来事を余すことなく記録していたことになる。いじめなどを警察に通報しても動いてもらえないことが多いが、その大半は証拠不足だからだと国塚は聞いていた。もし犬飼のいじめを警察に通報しても、その話が正しければ証拠が全く足りずに警察は動くことができないのだ。だが、このように実際のいじめの現場の状況を把握させるための手段を持っていれば、警察に動いてもらえる可能性も出てくる。実際はこれに加えてさらに周りの生徒たちへの聞き込みを行いさらに証言を集めるとよいらしいのだが、恐らくいじめの現場を押さえることの方が難易度的には高いだろう。

 そして、その高難易度の任務が今ここで果たされている。国塚は矢川に対するイメージを百八十度完璧に改めた。自分が犬飼にしていたことはかなり消極的な対処で、いじめをやめさせるという結果には至れない可能性が高い。だが矢川がしていることはいじめという物を止めにかかるに足る対処だった。矢川は自分のクラスの生徒のために何もしていないと思っていたが、さらりとそんなとんでもない覚悟と手法を見せられたらむしろ、自分が生徒指導教員として犬飼に何もできていないような気分だった。

 こんな強引な手もあるのか、と国塚は顎に手をやってしきりにふむふむやっている。自分が思いつかない発想を目の当たりにして、新しく知識のレパートリーに叩き込んでいるようだった。

 だが、いじめが始まった途端唐突にこの招き猫を掃除道具入れの上に置きだしても、皆の注目を浴びてしまってすぐにカメラや録音機が中に仕込まれていることがばれてしまう。ただ、矢川の場合は毎年のようにこの招き猫を、幸運を招くためと自身のクラスに置いていた。ひょっとするとこういう事態を想定していたのだろうか? だとすればそのためだけにその用途にあった招き猫を調達している手際と言い、そういう事態に備えて何年間も招き猫を置き続けて、招き猫が置かれている状態こそ自然な状態であるという認識を予め構築してあるところといい、流石と言わざるを得なかった。

「矢川先生をこういう事態を想定してこの招き猫を置いていたんですか?」

「まさか。妻の趣味がたまたま役に立っただけですよ」

 そう言って優しい笑顔を浮かべて招き猫を眺める矢川。矢川には否定されたが、国塚は密かにこの招き猫はこのような事態も想定して置かれたものだと思った。中にカメラが設置できるような空洞がある招き猫などそうある物ではない。恐らくゲテモノもいいところの代物のはずだ。月刊で組み立てるためのパーツが送られてきて、前部分と後ろ部分をくっつけたらはい完成、程度の招き猫でしかないだろう。それを敢えて中の空洞を利用してこんなことをしてしまうとは。国塚は素直に感服を隠せなかった。

「矢川先生、凄いですね……」

「いえいえ、凄いのはこんな距離からでも頑張って仕事してくれている彼らですよ。さっきはちょっと彼らの中身を確認しに来ていたんです。毎週終わりには情報も回収しているんですが、毎日確認しないとデータが飛んでたりしているんじゃないかって気が済まなくて」

「じゃあ毎日データを移せばいいと思いますけど」

「面倒じゃないですか?」

「毎日中身確認するだけの操作なんてカメラのまま行うより、パソコンとかで操作した方がやりやすいと思いますが……」

 矢川はふーんと納得なのか考えているのか分からない声を上げて、「そうかもしれないですね……」と呟き、これからはそうすることにします、と国塚に伝えてきた。国塚自身も毎日矢川がその情報を持ってきてくれれば犬飼の実際の状況も掴みやすくなり、非常にありがたかった。

 国塚は矢川を疑っていたことを素直に反省し、矢川に対して握手を求めた。共にいじめに立ち向かっている仲間としての意識の芽生えを形として確認するためだ。矢川もそれに快く応じて国塚の手を握り返す。そしてお互い力強く手を上下に振って、「これから一緒に頑張りましょう」と口に出して確認し合った。

 職員室での帰り道では、国塚の矢川に対する信頼が突然高まったせいか、矢川の教室に向かっている時よりも話が弾んだ。と言っても矢川の教室に向かっている時からすでに十分話は弾んでいた気がするが。帰り道は矢川から執拗(しつよう)に国塚が夜の学校で何を恐れていたのかを尋ねられ、国塚がしぶしぶ先ほど考えていた学校の七不思議について語るという展開になってしまい、最終的にその話を聞いた矢川は、やはり愉快な方ですねえ、と声を大にして笑っていた。対して国塚はふがいない様な申し訳ない様ななんとも言えない闇鍋のような感情を抱きながらしゅんとして歩いていた。

 そして職員室に戻った頃、話が途切れたあたりで国塚はなんともなしに矢川に尋ねた。

「矢川先生も犬飼君とのおしゃべり会に来ますか?」

「緊張感が全くない名前ですねえ……。何かお菓子でも差し入れるべきでしょうか」

「ファミレスなのでお菓子いらずですよ。ただ財布は持ってきてください。犬飼君におごるのは私か矢川先生でじゃんけんで」

「いえ、結構です。お若い方たちに交じっても『最近の若い者たちは……』うんぬんという文句しか吐かないでしょう」

「矢川先生はそういうタイプではない気がしますが……。分かりました。別に無理は言いません。気が向いたらまた言ってくれれば」

 そう言って国塚は先ほどまとめた荷物を持って、矢川にお疲れ様ですと伝えて職員室を出た。帰り道、国塚はスマートフォンを眺めつつ、盗撮用のカメラと録音機を黙々と調べ続けていた。

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