第3話 勇気を

 日曜日だが鉄は学校に出勤していて溜まったテストの採点などを行っていた。そしてテストの採点が矢川のクラスに差し掛かった時、やはり毎回頭に浮かんでしまうのは犬飼の事だった。どうしても採点をする手が止まってしまい、鉄は手近にあったタオルを目の上に載せ、椅子にもたれかかるようにして後ろに体重を掛ける。かくんと首を後ろに投げ出した状態になるので鉄はいささかこの無防備感が苦手だったが、やるせなく物事を考え、憂(うれ)う時はこの姿勢はぴったりだった。そのまま少し考え事をしながら眠りに着こうかと思ったが、隣の国塚の席で夜のイベントをした後であるかのごとくハァハァ言っている日向がとりあえず耳障り極まりないため、とりあえず彼女をどかすという作業から始めることにした。

「日向先生、はあはあ言ってないでどいてもらえますか」

「なんですかその雑なはあはあは。ハァハァなんですけど」

「はあはあのリアリティとかどうでもいいんですよ! ていうかむしろ女性がそのリアリティ追求しちゃだめですよたぶん」

 至極まっとうな指摘、あるいはこの場面でもっともまっとうな指摘はもっと穿(うが)って「公共の場で女性がハァハァとかいうな」という事であったかもしれないが、相変わらずの日向の国塚ラブさ加減に呆れてしまう鉄。

もちろん自分自身国塚の事を尊敬しているが、ある一点において彼女とは明確に相容れない心構えがあることに鉄自身は気付いていた。

 国塚は基本的に面倒くさがり屋なところがあると鉄は感じていた。事務処理もせっせとこなしてはいるものの、面倒になってくると積極的に鉄にその仕事を押し付けてくる。控えめに言ってだいぶパワハラである。だが、鉄自身実は事務処理はなかなかうまく、ひょっとすると国塚よりも処理能力自体は高いのではないだろうかと考えてもいいぐらいだったので、鉄にその仕事のお鉢が回ってくるのは不満がないわけではないが、不自然ではない。適材適所という奴だ。

 まあ今は事務処理能力の事はどうでもいいのだが、国塚はその面倒くさがり屋のせいなのか、鉄に毎回「犬飼君のいじめに関して下手に手出しをするな」と釘を刺してくるのだ。面倒なことに巻き込まれるのが嫌なせいではないかと鉄は勘繰(かんぐ)りをしていたため、そこがどうにも気に食わず彼女とは唯一意見が食い違うところだと感じていた。

 鉄は国塚の生徒指導教員としてのとても模範的な態度を尊敬しており、生徒指導室に休日も足しげく通う彼女の様子を見る時は毎回彼女が聖母か何かではないかと見間違えそうにもなる。だからそんな彼女が面倒臭いという理由ひとつでいじめの問題を一蹴(いっしゅう)する訳がないとも感じているのだが、いかんせん彼女が犬飼のために何かをしているような素振りは見せないため、鉄は国塚に全幅の信頼を寄せ兼ねていた。

 だからこそあたかも、肯定的に見れば国塚に対して全幅の信頼を寄せているように見え、否定的に見れば全身全霊を持って求愛しているようにしか見えない日向が不思議に思えたのだ。

 鉄はここに至ってふっと、自分が与(あずか)り知らない国塚の真実を日向は何か知っているのではないかと思った。

「日向先生はなんでそこまで国塚先生を信頼しているんですか?」

 日向はいつの間にかさっきまでとは打って変わって国塚の席で真剣に自分自身の業務を進めていたが、その質問を聞くと顔を上げてきょとんとする。

「鉄先生も国塚先生を信頼してますよね? 分かりますよ」

「ああ、もちろんですもちろんです。信頼も尊敬もしてますよ。休みの日に生徒指導室とかにいるなんて生徒指導者の鑑(かがみ)だと思います。でも、俺は一点だけ国塚先生と意見が合わないなって感じることがあって」

 日向は鉄に向き直り、少し体を前かがみにしながら話を聞く体勢になった。

「意見が合わないところとは?」

「ええとですね。……犬飼君のいじめの件なんですけど」

 国塚や鉄が犬飼のいじめの件について話すときは決まって声を潜めるか、職員室を出て話をしていたものだった。この学校は職員同士の仲が良好であり、職員室の雰囲気はほくほくとした料理から漂ってくる煙の様に温かく心が安らぐような物だったが、ことこのいじめの問題に関しては多くの人間が他の良からぬ対応を行う学校と同じように、臭い物に蓋(ふた)をするような、まるで実際には発生していないように振る舞えと教員たちに刷り込まれているような嫌いがあった。だからそんな中で積極的にその件について言及している方の国塚も決して悪人的な教員ではないのだが、その対応の仕方が周りの人物たちと同じなので鉄は違和感と不服を感じざるを得なかった。

 日向がいじめの話を聞くと、ふっと口から息を抜いて腕時計を確認した。時間は正午といったところだ。

「昼ご飯にはちょうどいい時間ですね。一緒に昼ご飯を食べませんか?」

 日向は言外に話はそこでしましょう、という意味合いを込めて鉄に言った。鉄もそれに納得したらしく、「ちょっと最寄りのコンビニでご飯を買ってきますね」と財布を持ってその場を立った。日向は「私はお弁当があるので大丈夫です」と鉄の背中を見送る。



 鉄は近くのコンビニでパスタを購入してきた。「それコンビニにしては美味しいですよね」と日向が話を振ってくる。

 鉄と日向は学校の屋上に来ていた。鍵がないと入れない場所だが、日曜日で教員も少なめだったため難なく鍵を持ち出すことができた。屋上は広々としていて所々に謎のパイプが走っており、そういうような場所は足場が奪われてしまっていた。椅子として作られたのかよく分からない、テトリスの横四つの棒がそのまま床から出っ張ったような無骨な着席可能スペースに二人は距離を開けて座る。日向は自分の鞄を持ってきていたが、貴重品の盗難でも心配したのだろうか、と鉄は何となく思った。

「さて、鉄先生は国塚先生と意見が合わない所があるといっていましたね。そしてそこが犬飼君のいじめに関わる部分だと」

 鉄は場所を移動したこともあって、前よりも大きな声で話せるようになって素直に感謝し、いつもの声量で話し始める。

「はい。意見が食い違っているというかなんというか……。俺は犬飼君のために何かしら行動を起こさなきゃいけないと思っているんですが、国塚先生は『犬飼君のいじめに関して下手に手出しするな』と止められちゃっていて。普段からあんなにいい生徒指導の先生なのに、ここに関して手を抜いたりしているのか、面倒くさがっているのか、あるいはもっと別の理由があるのか分からないんですが……。とにかくそこが俺と国塚先生で致命的にずれている気がするんですよ」

 日向は鉄の話を黙って聞きながら弁当の中身をつついていた。普段奇行を繰り返している割には、日向自身が作ったと思われるその弁当の中身は実に美味しそうで、キャラ弁でないにも拘らずキャラ弁を彷彿(ほうふつ)とさせるような鮮やかな彩りで食べ物が配置されていた。

 そして鉄が話し終わると一言。

「鉄先生は勘違いをしていますね」

 とだけ伝えて弁当箱の中のタコさんウインナーを口に含んだ。鉄はその言葉の真意が分からず、ただもそもそと食事を続ける日向に視線を注いで先を促した。人が真剣に話しているにもかかわらずご飯を食べながら話を聞くのはいかがなものかと鉄は思ったが、そもそも昼ごはん中なにもかかわらずそんな要求をする自分の方が妙なのではないかと思い、レンジで温めたパスタを一口かき込む。

「たぶん国塚先生の『犬飼君のいじめに関して手出しするな』というのはそういう意味ではないんだと思います。つまり犬飼君をサポートすることを全面的に禁じるような意味合いではないと思います」

 そう言って日向は弁当を置いてごそごそと自身の鞄の中を漁る。そして、まるで自分の家で金庫に入れながら保存しておくような物を他人に晒すかのように、本当に惜しい表情で鞄の中から一つの物を引き抜いた。日向が鞄から取り出した物は手のひらに乗りそうな可愛らしい小さなデジカメだった。

「これは国塚先生の活動を克明に記録したデジタルカメラです。正直誰かに見せるつもりは微塵(みじん)もなく、私の墓の中まで持っていくつもりの物でしたが」

「国塚先生の活動を記録? 日向先生普段そんなことしてましたか?」

「まあ普段はあまり。休日の日とかにたまに国塚先生を尾行して撮影しているだけなので」

「今回はまじめな話なので突っ込みはなしで。ただ犯罪だと思うのでくれぐれも注意してください。それに何が写っているんですか?」

「捕まらないようにします。そして、何が写っているかについてですが」

 日向は国塚を盗撮したデジカメのムービーを鉄に見せる。そこに写っているのは――国塚と犬飼がファミレスらしきところで談笑する姿だった。鉄は思わず食いつくように眺めてしまう。音声もどういう訳か非常に綺麗に拾えており、何を話しているのかが時々聞こえない程度でしっかり理解できた。と言っても話していることと言えばごく普通の雑談となんら変わらず、殊更いじめについて話している訳でもない。つまり相談という何かではないと思えた。日向は驚いてムービーを眺めている鉄の視界から一度デジカメを外し、また違うムービーを用意する。すると画面に表示されている日付は違うがまた同じ席で楽しそうにおしゃべりをする二人の姿が写っていた。この映像の中の犬飼はいじめを受けていると言われても信じられないほどごく普通に明るく、国塚もいじめを受けている生徒を慰めるような雰囲気を出している訳でもなく、ただ対等に話を交わしているだけだった。

 デジカメのムービーから雑多な情報や感情が洪水のように自身の中に流れてくるのを鉄は感じた。国塚は一体何をしているのか。まあ実際このムービーを見れば何をしているかは一目瞭然で、犬飼と話しているだけなのだが、一体それは何のために話しているのか? そもそもこれは日曜日の表示になっているが、休みの日にわざわざこんなことをしているのか? いや、いつの間に犬飼と知り合いになり、一体いつからこんなことをしていたのか?

 様々な疑問や思いが鉄の中で雷鳴の様に轟くが、実際そんなことはどうでもよかったのかもしれない。

「ね? 私の言った通りではないですか? 鉄先生は言葉の意味を勘違いしていただけですよ。国塚先生自身がこうやって犬飼君の心のケアのために休日を惜しんで活動しているんですから。多分先生が言いたかったのは、小杉君、いじめてる側ですね。彼の神経をあんまり逆なでするような事はするな、という事だったんではないでしょうか。鉄先生熱くなりがちで熱血教師みたいなところがあるので、国塚先生はそういう事を心配したんじゃないですか?」

 鉄はただただ日向の言葉に聞き入っていた。その言葉のどれもこれもがすとんと腑に落ちた。自分の事をそこまで考慮に入れて、犬飼を守ろうとしていたのは素直に感服した。

「日向先生、ありがとうございました。やっと国塚先生の想いを汲み取ることができました」

 鉄は日向に深々と頭を下げた。日向はいえいえと手をぱたぱたと振って答え、「鉄先生パスタさっさと食べないと冷えてくどいだけの化け物になってしまいますよ」とすでにコンビニで保存されている状態よりちょっとぬるいぐらいかな? 程度まで冷めてきてしまったパスタを指さしながら言った。鉄はパスタを素早くかき込み、その後日向と少しばかり談笑した後「自分はもうちょっとここに残ります」と伝えて日向を先に職員室に返した。

 日向がいなくなったことにより横たわることができそうになったので、鉄はそこに横になることにした。空は白い雲が迷子になったようにふわふわと浮かんでいるが、晴天と呼ぶにふさわしかった。

 鉄の心の中に沸々と新しい感情が湧きあがっていた。牢獄に囚われていた熱意がばっと解き放たれて暴れたがっているようだった。今鉄の心の様子を覗いたら牢獄の壁は壊され床は抉られ看守は跡形もなくなり、彼の足元には血の池が広がっているかもしれない。それほど獰猛(どうもう)な熱意が鉄の方をじっと見つめている気がした。

 国塚の考えていることは至極まっとうであり、鉄も大賛成できることだった。だがそれと同時に、また別のアプローチもあるかもしれないと鉄は思った。つまり積極的に小杉たちに、訴えるべきことを訴えるという事だ。ただ、これを通じて犬飼へのいじめが酷くなっては元も子もない。あくまでただの脳筋野郎が鬱陶しい正義感に囚われて独断で行動していて、犬飼とはあまり関係がないというのを小杉たちに明確に意識させる必要がある。逆に言えばその要件さえ満たしていれば、恐らく小杉たちからの犬飼へのいじめがエスカレートすることはない様な気がした。それにもし万が一少しエスカレートしても、国塚先生という力強い支えが犬飼をフォローしてくれているのも大きかった。休日で学校に出勤してこない日はちゃんと国塚が自身のために体を休めているんだと思っていたが、そう思っていた自分はまだまだ国塚の事を把握できていなかったんだなと、鉄は心底国塚という人物の深さに感動した。

 横になっていた鉄は勢いよく立ち上がり、大きく背伸びをした。そしてさらに大きな深呼吸を一つ。

 鉄はくつくつと煮えたぎる正義感をどう調理すべきか頭の中でレシピを考えながら屋上を後にした。



*            *



 授業の終わりを告げる鐘が鳴り、多くの生徒が教室で帰る準備をしている頃。鉄は校門付近で生徒たちの帰りを見送るという名目で立っていた。本来の目的は小杉たちを掴まえて説教染みたことをするためだが、そんなことは誰かに言えるはずもなく、自分のクラスのホームルームの後こそこそとしながら校門の前まで来たのだった。しばらくすると帰宅部の精錬されたメンバーたちが校舎から弾丸のように飛び出していくのが目に入る。適当にさようならという声を掛けながら鉄は小杉たちが来るのを待った。実はここ数日このようなことを繰り返して小杉たちを見つけようとしているのだが、神が鉄の下衆(げす)っぽい行いを見咎めているのか、小杉たちに巡り合うことはなかった。小杉たちがやたら長々と教室に滞在しているのか、あるいは大量に出てくる生徒の波の中に、小枝の様に紛れながら小杉たちが先に行ってしまっているのかは定かではなかったが。あるいは、今まで特に気にはしていなかったが小杉たちのグループがそれぞれ別の部活に所属していて、ばらばらと帰ってしまっているのだとすれば、それもまたキャッチするのが難しくなってしまうと鉄は気付き、はあという固い溜息を吐いた。鉄はこの際グループ全員でなく小杉だけを掴まえてもいいような気もしていたが、それは生徒たちの雪崩の中に小杉グループを見つけることができるか、小杉一人が歩いているかによるだろう。

 生徒たちへのさようならの挨拶を忘れずに行いながら、鉄は森の木々の様に溢れる生徒たちの中を見る。こうして見ると生徒間の違いはよく分からず、ただ雑多な人の群れがわらわらとしているだけであり、この中から小杉を見つけるとなるとやはり難しいのだろうか。それに見つけたとしてもどうやって声を掛けるべきなのか。鉄は色々な疑問が頭の中に浮かんできて目が回ってくるのを感じつつ、必死に生徒の流れを薙(な)ぎながら目的の人物を探し続けた。

 そうしてどれ位の時間が過ぎただろうか。生徒はぱらぱらと学校から出てくる程度になり、先ほどの探しにくさはなくなったが、同時にもう小杉はいなくなってしまったのではないかという思いが鉄の頭をよぎる。仕方がない、あと数分したら今日も職員室に帰るか、と思って諦めの溜息を吐いた時、奇跡が起きたのか、校門から小杉たちのグループがスマホをいじりながら出てきた。五人一緒にいることが多いと鉄は感じているが、今回は三人しかおらず全員が揃っている訳ではないが、グループの恐らくトップである小杉がいればこの際大した問題ではない。鉄は周りに人がいないことを確認し、「おい小杉ー、島田ー、岩月ー」と務めて平静に呼びかける。その呼びかけに気だるげに反応したのが小杉だった。スマホからちろりと横目を鉄に向けて、スマホをしまって鉄に応える。

「何、鉄先生」

 思いの外素直に応じた小杉に鉄は若干不思議だと感じたが、まあ相手が素直であってくれるならそれ以上に嬉しいことはないと小杉に駆け寄る。少しお前たちに話があるんだ、と伝えると小杉はつまらなさそうにはっと鼻を鳴らしながらも、行こうぜ、と周りの二人に呼びかけて鉄に付いてくる。

 鉄はそのまま三人を周りに誰もいないであろう校舎の陰になる部分に連れて行った。付いてくる間も三人は黙々とスマホをいじっていて、早く終わらせてくれないかなという意思を示すように、心なしか画面をタッチするスピードも速くなっている気がした。

 そして鉄がここでいいと判断した場所まで連れてこられると、最初に口を開いたのは小杉だった。

「鉄先生何の用? 俺暇なんだけど」

「忙しいんだけどじゃなくてか?」

「いや、鉄先生と話すのが暇で暇でしょうがないだろうなって思ってさ」

 これである。特に不気味な笑みを浮かべてこういう事をいうわけでなく、しんと澄ました顔でさらりと言い放つ小杉の様子を見ると、他人を低く見すぎであるが、普通に賢い子なんだろうと思われた。さらに、教員としてこのようなことを考えるのはどうかと思うが、耳にうるさくないピアスなどを付けて髪の格好を整えて、髪を薄く茶色で染めたりすれば、背伸びなどではなくシンプルに似合うだろうなと思うほど綺麗な顔立ちと、超然とした態度をしているのだ。実際鉄のテストでも小杉は点数がよく、学業においては割と上位に入るような子だったりする。確かに鉄自身が、少し気取って悪者っぽい格好の方が似合いそうだと思う小杉ではあるが、学業も優秀であり聡明そうなこの子を一体何がこんなことにしてしまったのか、鉄には分からなかった。それでも犬飼に対していじめをしているという事実は変わらないため、ここはしっかりと自分がやろうとしたことをやり遂げようと思った。幸いにも小杉はこのように態度自体は小賢しくも紳士的な方であるので、鉄が激情的になってしまい無駄に熱く語りすぎたりはしないと思われた。

 鉄はゆっくりと話し合いをするつもりで優しい声音で話し始めた。小杉はつまらなさそうなあくびをかみ殺している。

「これは俺がつまらない正義感に動かされて馬鹿をやっている物だと思ってくれ。暑苦しいかも知れないが聞いてほしい」

「それ言ったらますます聞く価値が見出せなくなっちゃったけど? まあ話だけは聞くよ。どうせ信司の事だろうけど」

 鉄は以前も聞いたことがあるのだが、小杉が犬飼の事を「信司」と呼ぶのが本当に不思議だった。何度聞いてもいじめる側がいじめられる側を名前で呼ぶなど慣れる気がしない。どういう意図をもってそう言っているのかもさっぱりわからなかった。だが、とりあえず今はそんなことは置いておき、鉄は話を続けた。

「ああそうだ。正直言って俺は小杉たちは犬飼をわざわざいじめなくても、ごく普通にクラスに馴染めると思っている。むしろ今の状況の方がお前たちがクラスに馴染み辛くなっている気さえする。だから、お前たちのためにも犬飼をいじめるのはもう止めにしないか?」

 鉄は自分自身の体の中の煮えたぎる血がいつの間にか冷まされているのを感じていた。それはあるいは、目の前にいる小杉のある種の冷血さとの中和の結果なのかもしれない。小杉はその話を聞くとはっとつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「別にそういうののためにやってる訳じゃないから。話はそれだけ?」

 あまりにも呆気なくそう言い放たれて鉄は驚きを隠せなかった。彼の中ではごく自然にいじめが許容されているかのような、あまりにも乾いた口ぶり。鉄は本当に何を考えているのかさっぱりわからない奴だと思った。

 正直手詰まりだった。相手の事を思っての発言を鉄はしたつもりだった。ちゃんと相手目線に立てていたかどうかは分からないが、少なくとも「お前らのやっていることを間違っている」という堂々とした否定はしないでおこうと思った。彼らにも彼らなりの理由があっただろうから。そして鉄は心のどこかでその理由はクラスの中に立場を作ることだと思っていた。居場所よりももう少し上下関係を意識した立場という物を、よく分からないが彼らは獲得したかったのではないかと思ったのだ。だが、それが真っ向から否定されたように鉄は感じた。彼らが求めているのはそんなものではないと、明確に却下されたように。

 下を向いて黙り込んでしまった鉄を見て、小杉はつまらなさそうに溜息を付いて、もう話は終わったとばかりに「行くぞ」と二人に言ってその場を立ち去ろうとした。

 遠ざかって行こうとする足音の方を鉄が見やると、相変わらず澄ました態度で小杉は前を向いていた。その背中に何を言えばいいのか鉄は分からなかったが、それでも伝えなければならないことがあった気がして小杉を呼び止める。小杉はいったん体を止めて振り向くかどうかを吟味(ぎんみ)したような間を挟んで鉄の方を見る。

「小杉、お前がやっていることは悪いことで、明らかに間違いだ。どう考えてもな。それを肝に銘じておいてくれ」

 少し攻撃的な言い方になってしまったかもしれないと鉄は言った後に反省した。だがこれはどうしても伝えておかなければならないことだ。小杉が間違い続けるのを止めることができなかった無力感が早くも湧き上がってきて、鉄はその言葉を伝えたらうなだれるようにして地面に視線をやった。辺りの花に水を撒いた後なのか、黒いアスファルトが湿り気を帯びていた。

 もうこれ以上言う事はないという様子で鉄が静かにしていると、驚いたことに今度は小杉の方から声を掛けてきた。

「鉄先生。最初、俺の事を思いやって優しい言葉を掛けてくれたんだと思いますけど」

 そうして彼はどういう意図か知らないが静かに鼻を鳴らす。前のような面倒くささがにじみ出た鼻の鳴らし方ではなかったが、鉄にはその音の出し方の違いに如何(いか)ほどの意味があるのかはわからなかった。

「俺の性格を読み間違えましたね。後から言ってくれた言葉の方が、まだ俺の心には響きましたよ。別にだからと言って止めたりするわけじゃないですけど」

 そう言って小杉は不敵に笑ってそこを去って行った。鉄にはその台詞が本当に意味することを考えれるほど心の余裕はなかったが、とりあえず自分は選択を間違えてしまったのだろう、という事だけは納得がいって、空を見上げながら少しの間濡れたアスファルトの上で立ち尽くしていた。そこは学校の校舎の陰になる部分であるせいか、赤く燃えるような夕焼けの空もすすけたように少し黒がかっているようにみえた。



 小杉グループと鉄が離れていくのを見て、少しがっかりするのと共に鉄に熱い視線を注いでいる人物がいた。柊だった。彼は先ほどのやり取りのすべてを、鉄たちがいた場所からほど近いトイレの窓をうっすら開けて聞いていたのだ。窓がうっすら開いていたとはいえ、トイレ独特の異臭が混じった熱気が柊の体を包んでいた。と言っても、その熱気の発生源は柊本人だったのだが。

 柊は静かにトイレの窓を閉め、帰るための荷物をすでに突っ込んである鞄をしょい直し、教室に戻らずにそのまま帰路に着く。

 彼は犬飼が小杉にいじめられ始めて二週間ぐらいたった頃から、小杉たちが下校する時など、その後ろに張り付いて、稚拙(ちせつ)ながら尾行をするようになっていた。誰かをいじめて傷つけるような輩なので、煙草の一本や二本吸うほどの不良ではないかと思ったのだ。それ以外にも何かしら悪事を働いた場合、その瞬間を遠くから写真に収めて、小杉たちに犬飼のいじめを止めさせる説得材料として使えるのではないかと考えたのだ。

 それは柊が自分なりに考えだした犬飼を助け出すまでの道筋だった。柊自身犬飼を裏切ってしまったことに対して、海底まで続く渦潮に飲み込まれていくような深い罪悪感を感じていた。そして同時に、犬飼ともう一度親友として一緒に過ごしたいという気持ちもとても大きかった。

 しかしその気持ちの大きさとは裏腹に、柊の度胸は他人のそれとあまり変わらず、どうしても大きな行動に出ることはできなかったのだ。例えば、犬飼と一緒にいじめに立ち向かうという選択。犬飼が許してくれるかどうかというのも心配だったし、加えて犬飼と同レベルのいじめを自分自身が仕掛けられて柊は耐えられる自信がなかった。むしろ犬飼がなぜあそこまで耐え続けることができるのか。同い年なのにもかかわらず本当に凄いと心から尊敬していた。

 そしてそのような気持ちを抱きながらも、結局何も小杉たちの問題行為を捉えられないまま今日に至り、いつもと同じように小杉たちの尾行をしようとしていた時。小杉たちが鉄に呼ばれるのを聞きつけ、何とか彼らがどこで会話を始めるのかを尾行して突き止め、そして素早くトイレから会話を聞きに行った。

 柊はその話を聞いて、小杉の相変わらずのクールさも鼻につき印象に残ったが、それ以上に鉄のような、いじめに立ち向かってくれる先生がいるのか、ということに素直に感激した。この学校で恐らく一番の信用を勝ち得ているであろう国塚でさえ手を出してこなかった問題に、ちゃんと手を出してくれる教員がいたんだと柊は嬉しく思ったのだ。それと同時に、その鉄の振る舞いは柊に一つの勇気を与えた。自分も鉄の様に体を張った何かを犬飼のためにしたいという勇気を。

 その日の柊の帰り道はいつも通りの経路ではあるがいつもより綺麗な夕焼けが見えた。

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