第2話 休日の

 鉄が昼食を取りながら忙しくテストの採点を行う。今日は回収したテストの量が多かったため、普段は生徒を見ながらクラスで給食を食べるのだが、仕事に集中するために職員室の自分の机に赴いていた。今日の給食であるパンとジャムだけを異常に偏って確保し、ジャムパンを三枚ほど自身の机に置いてある。さらにそれに加えて口にくわえてもきゅもきゅしているパンがあるため合計四枚。パンだけでよく飽きずに食べられるな、と隣でその様子を見ていた国塚が憐れんで弁当の中の湯で野菜をいくつか差し出す。鉄は向かっているテストからちろっと横を見てかくりと首をひとつ縦に動かして謝意を示す。

 赤丸をプリントにうつ時のごりごりという凶悪な赤ペンの音が連続し、たまにシュッという寂しげなスラッシュの音色がなる。そのような採点の音に意識を傾けながら、鉄は少し気分が下がるのを必死に堪えようと無心で丸付けを続けた。

 鉄は次の授業は矢川のクラスに行かねばらならないのだ。一体何がクラスで行われているのかを見るのが嫌でしょうがなく、頭の中に次から次へと浮かんでくるあの教室で行われている悪い行為へのイメージを振り払う。本来なら振り払わずに向き合うべきなのだが、業務をおろそかにすることもできない。この地味な忙しさと向き合いながらも世間の学校は対応の難しいいじめと戦っているのだと思うと、いじめに直面して初めて味わうその厄介さに頭が痛くなる。

 もきゅもきゅしていたパンを食べ終わったので新しいジャムの塗りたくられたパンに、国塚からもらった湯で野菜をオンして口に放り込む。国塚が「え、その食べ方おいしいの……」みたいな視線を向けてくるが鉄は「おいしいですありがとうございます」と心の中で答えてその視線を無視した。

 そうこうしている内に時間が経ち、鉄は同じ姿勢をし続けて疲れた体のためにぐーっと体を伸ばして立ち上がる。そろそろ昼が終わって次の授業が始まる頃だ。国塚も教科担当ではあるため、授業には普通に出ている。彼女は先に食事を済ませて次の授業の部屋に向かっていたようで、すでにその場にはいなかった。鉄も緩慢な動作で立ち上がり、重い足を引きづりながら矢川の教室に向かった。

 教室につくとそこは大した状況になっておらず、皆が席について周りの生徒たちと喋っている程度の状況であり、鉄はほっと一息ついた。そしてちらっと犬飼の方に視線をやる。そこには犬飼が本来はそんな色ではないはずの教科書と思わしき黒々としたものを机に置きながら、机の落書きを消している最中だった。昼休みにきっと犬飼は教室を抜けて別の場所でご飯を食べていたのだろう。そしてその間に机に何かしら落書きをされた。犬飼の机にはすでに消しカスの山ができているため、かなりの量の落書きだったようである。小杉たちは敢えて消しゴムで消せる落書きを机に残し、毎回消させて、そして真新しいお絵かき帳を与えられた子供の様に再び綺麗になった机に汚いメッセージを書くというのを繰り返しているらしかった。消えない落書きも困り者だが、消せば消すほど別のアプローチで心を抉ってくる落書きボードとしてしか机が機能しないのは、また別の辛さがあるに違いなかった。以前気付いたことだが、犬飼のただ黙々と消しゴムを消す手は、消しゴムを握りすぎたせいか豆が大量にできているようだった。

 鉄はそんな犬飼の様子から目を逸らすことを申し訳なく感じたが、ずっと眺めていれば注目の的になってしまう犬飼にも迷惑なことは違いないため、さっと教壇に立ち足早に授業に入る。

 これは聞いた話でしかないが、授業中も犬飼へのいじめは続いていて、犬飼の背中をゴミ箱に見立てて消しカスを服の中に投げ入れるゲーム、という物が流行しているらしく、教員の目を盗んで行う背徳感が堪らないんだろう、と国塚は目を怒らせて言っていた。

 鉄はこうして犬飼に対して罪悪感を感じながら毎回の授業を重ねていた。たびたびチョークをぱっきりと真ん中で追ってしまって、小杉たちに恐怖感を与えたり、あるいはチョークを投げつけたくなったりしてしまう。

 鉄は浅黒い肌の持ち主だが、その見た目通り自他ともに認める血気盛んな教師で、前務めていた学校では三年間クラスを受け持ったことがある。そこでは持ち前の熱い魂で合唱コンクールに向かう生徒たちの心を一つにするのに一役買ったこともあった。合唱担当の子がみんなをまとめるのに困っている、という相談を持ち込んできたとき、結局最後にみんなの心をまとめることができるのは生徒だと思っていたので、自分が直接生徒に語りかけるのではなく、彼女のみに思いのたけをぶつけてしまったのだが、その熱さやそこで使ったフレーズなどが合唱担当の子がクラス全体を説得するときにそのまま使ってくれたらしく、人に自分の想いが伝播していったのを素直に嬉しく思った。結局そのクラスは合唱で全校三位となり、鉄にとって本当にいい思い出になってくれたのだ。そういう経緯もあって、鉄は自分が他人の心を奮わせるだけの熱さを自身の胸の中に宿しているという自負はあった。

 だからこそ、何もせずにただ指をくわえて見ているこの状況を歯がゆく思い、迂闊(うかつ)にも力をこめすぎたせいでばきりと黒板と手の間でチョークを折ってしまった。

 こうしていつもの鉄の授業は粛々と進んでいく。



*            *



 とある五月も終わりが近い土曜日。国塚は学校に来ていつも通り事務処理を行っていた。他にも教員は何人かいるが、その中でも国塚の最寄にいるのはいつもの鉄。ではなく、日向だった。最寄というが、それは席という概念の話ではなく、文字通り距離という概念であり、つまり文字通り距離において最寄ということはゼロ距離という事であり、端的に言って国塚は日向に抱き着かれていた。相変わらずいつも通り純白のブラウスで、袖口に控えめなフリルがついており、下は紺のスキニージーンズをまとった国塚。フロントフリル付きの白ブラウスを上にまとい、その常に実りの秋状態の胸を存分に強調しながら、下は膝丈のベージュのスカートを着た日向。

 日向(ひなた)は眼鏡をかけているがその上からでも分かるほどくりくりとした瞳が可愛らしいく、幼げな顔だちをしているので、可愛い美少女が美しい美女に抱き着いているというレズ愛好者垂涎(すいぜん)のシチュエーションがそこに爆誕していた。ちなみにここまでしているが日向は別にレズという訳ではなく、彼女の言い分では「国塚先生をレズペク――リスペクトしているんです!」という事らしい。言いかけられた不穏な言葉に国塚は体から冷や汗が流れるのを禁じ得なかったのはまだ記憶に新しいことだった。

「あのー、日向先生、業務が進まないんですがどうにかなりませんか?」

「私が国塚先生を好きすぎてどうにかなっちゃうことならできますが?」

「どうにもならないでくださいね、一線を踏み越えず忍んでくださいね」

 そうして日向がどうにかなってしまわないように極めて優しく、しかし心の面ではもう二度と近寄るなと言わんばかりに暴力的に日向を引きはがし、彼女を自身の席に連れて行って座らせた。彼女はくりくりとした瞳をさらに見開いて、意識が飛んでしまったかのように白目を大きくした恍惚(こうこつ)の表情でそのまま動かなくなったので、辛うじて業務の遂行には支障は出なさそうで何よりだった。国塚は胸を撫で下ろして自身の席に戻る。

 そしてもう一度事務的な業務に戻る。そしてふと、生徒指導室の方でやれば集中できるかもしれない、と感じて身支度をして生徒指導室へと向かった。

 生徒指導室は木製の長机が中央に鎮座しており、そこに椅子が四つほど用意されている程度の簡素な部屋だった。季節はまだ五月下旬だが、少し暑く感じて国塚は三十度の冷房をつけた。ふうーっというエアコンが風を吹き出す音が涼しく感じられて、国塚は気分だけでもどんどん涼しくなっていくのを快く思いながら、先ほどの事務作業を続行する。

 彼女は土日も基本的に学校へ来て事務を行っているが、その際に生徒指導室でこのように一人でいることも多い。その話を知っている学生や親は時々、誰にも聞かれたくないような用事を持ってここに来ることがある。国塚はそういう生徒や親との対話を大切にする人物だった。なので生徒や親からの評判も生徒指導担当としてなかなか高い物があった。

 彼女は今日もそういう道に迷ってしまった人が来るかもしれないと感じて、そして日向というちょっとかなり怖いお方から離れる隠れ蓑として生徒指導室へやってきていた。

 そこへこんこんという生徒指導室の扉を叩く音が聞こえた。非常に丁寧で遠慮がちのその叩き方は、時折生徒指導室まで強襲してくる日向のそれと同様の物だったが、国塚は毅然(きぜん)とした態度で「どうぞ」と伝えた。恐らくさっきの今でエクスタシーからのリカバリーはできないはずだと国塚は高をくくったが、その希望的とさえ言える予測は実際に当たり、来訪者は一生徒だった。

 彼は……と国塚は記憶を巡らせて一つの答えに辿り着く。矢川の教室の田中という生徒だった。特に話に上ったりする生徒ではないが、何か悩みを抱えているのだろうか。彼の顔を窺(うかが)うと視線が泳いでおり、強い決意を持って何かを相談しに来たというより、手を差し伸べてもらいに来たような、そんな印象を受けた。

「田中君だったよね。私の隣へどうぞ」

 そういって国塚は自身の隣の椅子を引き、手をすっと椅子に向けて差し出して座るよう田中に促した。田中はこくりと頷いて国塚の隣の椅子に腰かける。

 人は机を挟んで向かい合ったら、教師と生徒の関係になってしまうという話を国塚はかつて聞いたことがあったので、そのような距離感を感じさせないよう生徒指導室に来る生徒たちには毎回国塚の隣に座らせて、机を挟まずに向き合うようにしていた。

「今日は何か相談かな?」

 まだ目を下に向けて泳がせたままの田中に優しく問いかける。するとその声に安心したのか、ふっと固まっていた息を吐き出して田中が顔を上げて国塚に向き直る。国塚の姿勢がぐっと握った拳を腿(もも)の上に置くという思いのほか改まった格好であったため、田中もその姿勢を真似て拳を腿の上に置く。

「俺のクラスでいじめがあるんです……」

 言いにくそうに切り出した田中の言葉は国塚を驚かせた。もちろんあのクラスでいじめが起きているのは国塚自身も知っているが。だが、いじめが始まってからもう一カ月ほどが経ったが、今までそれを教員に対して切り出してくる生徒がいなかったのだ。このまま誰も教員に言わないまま、傍観者として心にしこりを残したまま、生徒が時を過ごしてしまうのは少し気がかりであり、悲しくもあった。だが今回一カ月経ってやっと誰かが言いに来てくれた。この事実はもう誰も言いに来ないのではないかと悲しみを抱いていた国塚に新鮮な驚き、あるいは感動を与えたのだ。

 国塚は言葉を選び違えないように慎重に考えを巡らす。考え事をする時、国塚は目を細めて顎に手を当てる癖があるため、ここでもその様な仕草をし始めた。

「私もそれは知ってる。そして私なりに犬飼君にしてあげたいことはやっているね」

 一言目だけでこの言葉を打ち切ってしまうと、生徒たちに「知ってたのに何もしてくれていない」という印象を与えてしまい、国塚だけでなく学校全体の信用を落としかねない。国塚はそれを避けるために色々と内容をぼかしながら彼女が犬飼に手助けをしていることを伝えた。もっとも、この言葉選びが最善の選択だったのかは国塚自身には分からない。先ほどまで泥沼の様に輝きを奪われていた田中の瞳に何かの光が宿ったのを感じたが、それが事態を何も公転できていない憎悪などについてなのか、それとも別の何かなのか国塚にはまるで分らなかった。

「先生は一体犬飼のために何をしているんですか? 犬飼のために何かしているにもかかわらず犬飼はまだいじめにあい続けていますが……」

 田中は口に物を詰め込みながら話そうとしているかのように言いにくそうにして伝えてきた。国塚も非常に悔しく思っている点を的確に突いている質問だった。

 国塚は目を細めて務めて真剣な顔をして田中に話しかける。下手に力なく笑うとそれこそ教師でありながら無力さが露見してしまうような気がしたからだ。

「私が犬飼君に対してやっていることはいじめを明確に回避しようとするサポートじゃないからなんだ。本当に悔しいことだけど、私はまだいじめを直接的に収束させるだけの方法を見つけ出してないの。いじめの問題の根幹に何があるのかによって対処の仕方とかも変わってきちゃうしね。だから今回のいじめに対して、まだそれを断つ何かは私から仕掛けることができていない、という状態だからかな」

 国塚の鋭い切れ目から、どんな意見も切り捨てられてしまいそうなほどの鋭利な意思が垣間見えた気がして田中はうっと後退する。実際には椅子には固い背もたれがあるので後ろに下がることはできなかったが、顔は少しばかり国塚から離れたかもしれない。

 田中は後ろに引いてしまって離れた国塚との顔の距離を少し詰め直した。あるいは少しでも国塚という人物がどんな世界を見て、犬飼のために何をしているのかを知ろうと、彼女の傍に寄って行ったのかもしれない。

「国塚先生は犬飼のために何をしているんですか?」

 田中はもう一度それを問う。さっきからずっとはぐらかせれているように感じる国塚の手助けを田中は訊きだしたかったのだ。

 さらに問われて国塚はどう答えるべきか少し考えるために顎に手を当てた。国塚自身が今犬飼に対して行っていることは本当に些細(ささい)なことでしかない。話を聞かされれば、そんなこと? と言いたくなってしまうような物だ。そして、その行為は手伝ってくれる人物が多ければ多いほど都合がよかったりする。いじめに立ち向かうにはそういう支援者がたくさんいる方がいいのだ。だが同時に国塚は、田中自身が考えてその結論に達してほしいと思った。田中が考えて国塚と同じ方法に田中だけで辿り着き、国塚が行っているのと同じことをしよう、あるいはもっと別のこんなことをしよう、と自分自身で考えて何をすべきか導き出してほしかった。それはきっとこれからの人生において、同じように人のためを思って行動するときに必要な力だと思ったからだ。幸いなことに、国塚から見て犬飼はまだ崩壊寸前という危うい状態ではなく、むしろかなり安定していると思えた。これは間違いなく犬飼自身の生来(しょうらい)の心の強さのたまものだが、自殺などという考えはまだ毛ほどもないように思えた。

 国塚はそのようなことを考えて、いじめという物に向き合う教師でありながら、いじめられる側に第一に寄り添ってあげなかったことに罪悪感を感じながらも、田中に一体国塚が何をしているか、についてのヒントを出した。

「田中君はヒーローになろうとしているように私は思えるね」

田中は目を皿にしてその言葉に続きを促した。

 国塚は穏やかに優しく笑いながら伝える。

「犬飼君を救いたい、みたいなそういう感じ。その気持ちは大切なんだけど、少し前のめりすぎる気がするかな。ヒーローになんてなれる人は本当に勇気がある一握りの人たちだけだから。私も正直ヒーローにはなれない。でも、私は犬飼君の相棒になれば、それはそれで犬飼君の助けになるんじゃないかなと思ってるんだ」

 そして国塚はすっと立ち上がり、田中の視線もそれにつられて国塚の顔を追う。その顔は下から見上げているせいか、天上の天使の様にも見えた。

 国塚は一歩田中に歩み寄り、そして田中の額を人差し指ですっと押した。

「これでヒントは終わり。考え続けても分からなかったからまたここに来なよ」

 田中は少し気恥ずかしくなったのか顔を上気させながらも、国塚を見据えて「分かりました、考えます」と伝えてその部屋を後にした。その背中に「いつでもおいで」と国塚が微笑みながら言って送り出した。



 田中は生徒指導室を出ると、国塚からのアドバイスを大雑把にまとめながら記憶の中に刻み込んでいた。「ヒーローではなく相棒になってあげればいい」ということらしいが、その言葉の真意はいまいち掴めないままだった。田中の想いが前のめりすぎるとも言っていたが、つまり相棒はもっと物静かに助力をするという事なのだろうか。その答えを導き出すためにはまだ言葉を預かってから時間が経っていなさすぎるような気がした。

 そして廊下を歩きながら、田中は昔のことを思い出していた。思い出したくはない話だが、覚えていなければならない大切な話であるとも感じていた。

田中は小学校の頃もいじめを傍観していたことがあった。加害者という立場ではないから自分はいじめなんてしていない、と思っていた田中には、どこかで拾ってきた「傍観者もいじめている」という考え方に深く心を打たれて、同時に抉(えぐ)り取られた。結局小学校でいじめられていた子は不登校になり、自殺という最悪な結果にはならないままうやむやになってしまったが、田中は彼を不登校にした責任の一端は確かに自分にもあると感じるようになっていった。

 そしてこのタイミングでいじめを目前にして、田中はまだ何も動けずにいた。だからどう動くべきなのか、自分自身も好きな生徒指導の先生である国塚に訊けば分かるかもしれないと思ったのだ。

 田中はもう一度口の中で国塚からの言葉を繰り返した。



*            *



 次の日の日曜日。国塚はやはりというべきか体の前面に雪原を張り付けたような白ブラウスと、黒いキュロットスカートという格好で街を歩いていた。その生まれ持っての美貌のせいか、風が吹き抜けるように街を歩いていく様は、新商品をまとってそのプロモーションビデオを撮影しているかのようにも見える。

彼女がいるのは学校からもっとも近い市街地であるが、現在歩いているのはその市街地では少し端の方だった。

スマホをさくさくいじりながら時折辺りに目を配り、せわしない視線の動きだったが、彼女が普段歩いている時は大体こんな感じであった。

 適当に歩いていると彼女の目的地であったファミリーレストランに着いて入店する。そして入店前に、まるで泥棒に入る前の下調べの様に入念に周囲の様子を確認する。最近国塚は怪しげな寒気と視線を外出時に感じるようになっていた。これから暑くなりそうな時期に寒気を感じるなど嫌な予感しかしないのだが、ストーカーだとしても今現在まで実害は出ていないのでとりあえず放置していた。幸いにも今日は視線を感じることもなく、ほっと一息ついてファミリーレストランに入っていく。

そして辺りをきょろきょろと見渡したのち、やってきた店員に先に入店している待ち人がいるはず、ということを伝えてみると店員に連れて行ってもらうことができた。時間は開店後に十分程度、さすがにこの時間から来店している人は少なめで、どうやらいつもの端っこの席に待ち合わせの相手が腰かけていた。

 そこにいたのは彼女の男――などではなく犬飼だった。何やらよく分からない英語が大量に書かれているTシャツを着て、ねずみ色の半ズボンに両手を突っ込んで窓の外を見ていた。

 犬飼は国塚の接近に気付くと振り向いて「おはようございます」と挨拶した。

「先生相変わらずラフ可愛い格好してますね……かなり似合いますけど」

「お世辞がうまくなったねえ犬飼君。ほれ、そこのシュガーを一本おごってあげよう」

「完全に無料配布の物をおごられてもこれっぽっちもありがたくないんですが」

 この犬飼との会談は最近彼女の業務の一つとして組み込まれているものだった。学校内で教員から目を掛けられて優しくされるとまた小杉からの反感を買いかねないため、学校外で日ごろに溜まりに溜まった愚痴を吐き出してもらいつつ、ちゃんとした居場所がそこにあることを認識してもらうことを一応の目的としている週二回、日曜日と水曜日に設定されている会談である。これのおかげなのか犬飼自身が素晴らしく強靭(きょうじん)な心を持っているせいなのかは定かではないが、今のところ国塚の目から見て犬飼は安定しているように見えた。

 国塚と犬飼は国塚のおごりということで各々好きな物を注文する。と言ってもドリンクバーを注文してそれで終わりという感じだが。

「ここ一週間の調子はどう?」

「そうですね……。俺の背中に消しカスを投げ入れるゲームがあるんですが、あれが結構こそばゆくて気持ちいいって分かったことですかね」

「ドMじゃん……。もう私の助けがなくても立派にいじめられることができそうだね、先生は悲しいよ」

「立派にいじめられるってどういう事ですかね……」

「いじめられて快感を感じられるとか?」

「目覚めちゃってますねそれ完全に」

 こういう他愛(たわい)もないが、いささか問題があるような気がするブラックジョークも交えつつごく普通に会話するというのがこの会談の実態だ。人はおしゃべりするだけで気が少し楽になるのは国塚自身も感じていたことなので、ちゃんとこれが犬飼の役に立っていると思わせていただいている。

「そういえばこの前の漢字の小テスト覚えてる?」

「漢字の小テストですか? ソンナノナカッタデスヨボクシラナイ」

「棒読みになってるねえ……。もうちょっと頑張れない? 『しゅうかく』を『harbest』とか書いちゃって中二病にでも目覚めたの?」

「いや、漢字が分かんなかったけど英語なら分かるよっていう聡明さのアピールですよ」

「もしそうなら本当に嬉しい、いや嬉しくはないけどまだそうならましなんだけど、ハーベスト綴(つづ)り違ったからね……」

「あれ、マジっすか?」

「うん。あと流石にマジっすかは無礼すぎるかも」

「すみません」

「うん、気を付けるべし」

「なんか今週のテストでは珍解答なかったんですか?」

「まあない訳がないよねー……。この年頃の子、なんか分からない問題に対していかに面白い回答を書けるか争ってるところあるしね」

「俺もそういうの好きですよ。どんな答えがあったんですか?」

 国塚はごそごそと自分の鞄を漁って例のテストの答えを取り出す。問題と答えが一括掲載されている物は生徒たちに配布してあるが、国塚はそれに加えて自分用の、この会談でも用いることができる特別なプリントを毎回用意していた。問題と答えと珍解答が同時に載っているその紙を机の上にぱさりと置く。

「例えばねー、この『しょうめい【名詞】光で照らして明るくすること。特に、電灯などの人工的な光で明るくすること。また、その光。』を漢字に直して、照明を含む例文を書いてくださいという問題を出したよね?」

「あー、あの意味の説明の文章中に露骨に答えが入ってるっていうお転婆(てんば)問題ですね」

「うっそ、どこッ?」

 田中は気付いてなかったんだという色濃い呆れを含んだ目を、泣きそうになりながらプリントを読み返している国塚に向けた後、問いの最初の部分を指さす。「光で照らして明るくすること」と、丁寧にこの部分をくっつけてと言わんばかりに隣接して「照」と「明」が存在していた。

「うわー、ネットからそのまま取ってきたのを使っちゃったからなあ……」

 がっくりと国塚が肩を落とすのを見て、田中は「こういうことよくありますよ」という追撃をするのは気分的に進まなかったので、ぐっと言葉を堪えた。彼のその優しさの裏には今後のテスト問題の難易度が一段階上がっても困るから、という小賢(こざか)しい策略があったのは言うまでもない。

「でも、こんな間違いようのない問題を間違える人間がいるんですね」

「一番間違えちゃったのは私だけどね……」

「気にしなくても多くの生徒たちは『国塚先生本当に可愛いなあ』と好感度がうなぎ上りするだけなんで大丈夫だと思います」

「天然ボケてる大人って社会であんまり需要ない気がするんだけどね……」

 犬飼は、長い社会の海原を小さな船に乗って漕ぎ進んできたような国塚から、また一つ社会の闇を垣間見た気がした。国塚の意識をこのまま社会の荒波の中に放置しておくのも忍びなかったので、プリントを覗き込みながら「それでどんな間違いがあったんですか」と素早く話題を切り替える。

「うん、まあこんな状態で間違えられてもなんかもやもやするだけなんだけど……。例えば『君が間違っていないことを証明してみせる!』とかあったよね」

「うわー、完全に意味とかそいつ見てないじゃないですか。もう完全なバツですね」

「いや、丸だよね。感動的だから」

「ええッ?」

「次はねー」

「あれッ? 俺が何か疑問に思ったことを華麗にスルーされたっ?」

「何でよー、まあ照らす照明とこっちの証明と書く難しさ同じくらいだから正解でいいよー、使い方もあってるし」

「相変わらず雑ッ! ていうか雑っていうかもうえこひいきの領域にさえ足を突っ込んでいるような……」

 国塚は心が広いのかストライクゾーンが広いのか知らないがこのような謎回答を丸にしてくれることが多いのも評判である。定期テストではこのような回答はバッサリ落とされるのだが、小テストクラスだとむしろドラマチックな回答は積極的に丸にする傾向がある。そしてちゃっかり成績にはその丸が反映されていないのが国塚の腹黒い所、あるいは教員として最低限のすべきことは弁えている所なのだが、誰もその成績に反映されていないという事実は知らないので分からない問題は積極的に珍解答が乱発する傾向にあるのだ。

 また、国塚もちゃんとその手の珍解答を見ながら楽しませてもらっているので、しっかりコメントを返しているのも人気のポイントである。

「ちなみにこれにはどういうコメントをあげたんですか?」

「君のような生徒に私の無実を証明してもらう時が来てほしいなみたいなことを」

「国塚先生、国塚先生は男子生徒に人気が高いんで生徒の淡い恋心を弄(もてあそ)ぶような行為は慎んでください」

「まあ次のコメントにでも勘違いはしないでねって書いておくよ」

「一週間ぐらい悶々(もんもん)とさせた挙句ばっさりと切り捨てますね……」

 その後も珍解答に対する珍返答の応酬で、それについて犬飼が死力を尽くして突っ込みをしており、ファミリーレストランを出るころには皮肉にも犬飼は犬死してしまいそうなほど疲労していた。「犬飼君大丈夫? 凄い疲れてるみたいだけど」と国塚が声を掛けるも、あんたのせいだと言い返すことはできずに犬飼はただこくこくと頷いていた。その様子を見て国塚も安心したようで、「じゃあまた学校で。来週もこの時間でいい?」と尋ねて、犬飼も「はい、お願いします」と答えた。そして国塚が何ともなしに「この後はどうするの?」と尋ねると、犬飼は「ああ、ちょっとその辺で買い物をします」と適当な様子で答えた。その可愛くない反応を見て国塚は少しからかってやろうと、にやにやとしながら「おやおや、彼女さんとのデートとかかな?」と鬱陶しく訊くと、これ以上先生に付き合うのは疲れますというのを視線と深々とした溜息で伝えられ、無言で犬飼に帰られてしまった。

「酷いッ!」

 犬飼の背中に向けた国塚の魂の叫びは届いたのかどうか微妙なところである。

 犬飼とは別れたが、時間はまだ日曜日の十二時頃だったので、国塚は学校へと向かう。相変わらずなぜ土日に出現するのかという事務処理が学校に残っており、それに加えて誰か学校への来訪者も今日はあったはずだ。学校関係の話は何でも耳に入れておく価値があるというのは国塚の教員としての認識なので、ファミリーレストランの近場に止めておいたお気に入りの自転車に乗って学校へと漕ぎ始めた。

 学校へ向かいながら国塚はふと以前犬飼と話していた時に話題に上っていたことを思い出していた。犬飼には親友だと感じていた生徒がいたという話だった。柊玄という生徒の事だ。犬飼が「親友だと感じていた」と恨めしそうに、下唇を噛みながら呟いた姿を、まるで今さっき聞いたかのように鮮明に思い出すことができる。それだけ犬飼にとって柊の裏切りは巨大な喪失だったという事だが。その時に犬飼は柊を友達ではなく親友だと思っていた所以(ゆえん)を話してくれた。彼らは蔵添中学校からは程遠い所のとある公園で、小学校時代に「親友だな」とはっきりお互いに認め合ったらしいのだ。彼らにとってはその遠い地が特別な秘密基地のような、隠れ家のような神秘的な魅力があったんだと国塚は感じていた。そうやってあまり多くの人間が経験することはできない深い友情を感じる瞬間があったのに、裏切られてしまった。国塚には正直、いじめられている人間に近づくと危ないという理由で友達にさえ近づけなくなってしまう心苦しさや罪悪感が納得を持って理解できるが、やはり中学生の犬飼にとって、その裏切りは大きな意味を持っているのだろう。願わくは、次は田中ではなく柊があの生徒指導室に訪れてほしいと思うが。国塚がたまに柊を見る感じでは、彼は明らかに犬飼に対して申し訳なさを感じて何かをしようとしているように思えるのだが、一体彼が何かをしようとしているのか、あるいは行動を起こそうとしているように見えるのは国塚の見当違いで、徹底的に傍観を決め込もうとしているのか、どちらなのかは国塚にも分からなかった。

 国塚はそんなことを考えながら学校への道を行くが、その途中、道路の前方から矢川夫妻の姿が見えた。古めかしい文房具屋やら何やら、昔からの建物が並び、地域の環境保全という目的で街路樹が申し訳程度に植えられているこの通りはあの夫妻の散歩コースにもなっているという話は以前に聞いたことがあったので、特に驚きもしない。それにここは学生の一般的な登下校路にもなっているので、普段矢川の妻は学生の登下校時間にその行きや帰りを見送るためにこの辺りを散歩してくれているらしい。そのような努力は町の子供たちの事故や事件の減少にもつながるため、素直に国塚は感謝していた。

 そのまま夫婦との距離が詰まっていったので、矢川と話すのは多少気が進まなかったが挨拶はしておこうと国塚は「こんにちは」と自転車を止めて声を掛ける。矢川夫妻も国塚には気づいていたようで、「こんにちは」という挨拶を返してくる。

「今日も散歩ですか。健康に気を遣っているようで、私も見習いたいですね」

「まあ習慣みたいなものになってしまいましたから。ねえあなた」

「そうだね。国塚先生は日曜日ですがどこへ行っていたらしたのですか?」

「少し市街地の方に。買いたいものがあったので」

 矢川はそれを聞いて愉快そうにほほうと返事をする。矢川妻はなぜそこで愉快そうになるのか分からないという目で夫の方を見るが、矢川自身は特に気にしていないようだ。国塚も何故そんな風に感じられたのか疑問だったが、特に突っ込んでもしょうがない様な事なので放置しておくことにした。

 そして矢川は意味深に頬を緩めて国塚に言った。

「まあ国塚先生もたまには休日にしっかり休息を取ってくださいね」

「あなた、女性にとっては買い物も立派な休憩ですよ。それとももう買い物をしたというのを聞いたのを忘れてしまったのかしら……」

「ああ、ぼけてしまったのかなあ……」

 矢川妻は記憶がもうろうとしている老人を看病するようにおろおろと矢川の肩やら頭やらをさすり、矢川自身はまた愉快そうににこにこ微笑んでいた。その光景を見ていると国塚自身もつい微笑が漏れてくる。こう見ると改めて矢川は根っからのいい人間なのだろうなと感じるのだ。それだけにこれほどの良い人がクラス内のいじめを野放しにしているのが非常に悩ましくもあるのだが。

 こうして言葉を交わしたのち、また夫婦と別れて国塚は歩き出した。数歩歩いて自転車にまたがろうとすると、後ろの夫婦からうっすらとした話し声が聞こえてくる。

「そういえ――ぎくんのうし――らぎくん――ついて――」

 何を言っているのか非常に断片的にしか聞こえなかったが、まあ他人の話に耳を傾けるのも無粋というものなので、国塚はまたがった自転車を漕ぎ出しつつ後ろに振り向く。肩がくっつきそうなほど隣り合って歩いているおしどり夫婦の背中を見送りながら、彼らを見つけて学校に近づいてきたことを実感しつつ、さらに踏み込んで学校への道を走り続ける。

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