第8話 愛しか

 田中はただただ当てもなく歩き続けていた。向かう先についての考えなんて特になかった。もし自分だったら、という適当な基準でその辺を歩き回っているだけだった。だが、具体的にもし自分だったらどこへ行くかという発想があった訳でもなかった。

 何となく無駄に歩を重ねているだけのような気がして田中は立ち止まる。本当にもし自分があのいじめを受けていて、それから逃げ出したくなったらどうするかを考えてみた。少なくとも学校の傍にはいたくない気がする。ならば学校からはできるだけ離れようとするだろうなあ。そのあとはぶらぶらと歩きまわって気を晴らすぐらいの事をするしかできないか。歩いて回ってもつまらなくならないのはやっぱり街中とかだが。あるいは一か所にとどまって静かに何も考えずにぼうっとしているだけか。もしそうやって静かに過ごすなら、どこか人が来ない場所へ行くな。ただ、まあ普通に考えて街中を動き回る相手を探すよりは、一か所に相手が留まってくれていると考えた方が楽観的だが探しやすいな。歩き回っていた場合は会えなかったからしょうがないという事で済ませてしまおう。

 田中は自分の恐ろしく雑な発想に苦笑いが浮かぶのを禁じ得ないが、所詮犬飼や柊との二人の繋がりに比べれば自分はその程度の努力しかする資格はないだろうと思った。犬飼とも柊とも深い交流はなかった自分がこうやって歩いて探しに出ていることさえ少しおこがましい気がする。それに犬飼のヒーローに柊がなった後に、今更相棒面を下げて犬飼に接触しようというのも大層虫がいい話だ。遅れて登場しても許されるのはヒーローであって相棒ではない。

 そんなことを考えながら学校からは遠くにあって人が来ない所を頭の中で思い浮かべる。田中は遠出をする方ではなかったので、遠い場所に何があるかあまり把握はしていなかった。なのでふっと思い浮かんだ場所に適当に向かう事しかできないだろう。

 そんなこんなで雑に探し始めてもうかれこれ二時間程度は経つ。時間で言えば午前十一時を回った頃だ。いつの間にか七月に入っていたせいでその暑さは一級品で、所々の自販機で水分を補給しながら歩き続けていた。と言っても疲れたらすぐにそこらに設置してあったベンチに腰かけて休憩したりもしていたので、実質歩き続けていた時間は一時間三十分程度だろう。セミが鬱陶しいだけのオーケストラを喚き散らすように奏でていて、行く先に立ちはだかる巨大な音の壁になっているようで、歩こうという気持ちをじわじわと削いでくる。

 そうやってセミに当てられながらも歩いていると、ふと蜃気楼のように見覚えのある人の顔が前方の木陰に見えた気がした。視線の先には古ぼけてセミがべとべと張り付いてしまっている神社と、その神社を囲むように生える木々、そしてその木陰で佇む一人の女性。

 近づいてみると遠くで見て分かった通り、それは国塚だった。田中が国塚の方に気付くのとほぼ同時に、国塚もふっと動かした目線の先に田中がいるのを発見し、目をぱちぱちさせてから静かに口に人差し指を当てる。どうやら静かにしろという意味らしいので、田中はあまり音を鳴らさないようにゆっくりと国塚の方に近寄っていった。

 国塚は木に身を預けながら時折ちらちらと別の方向に目をやる。田中もそっちを見やると、そこには犬飼と柊の姿があった。斜面になっている場所のちょうど下のあたりで二人が遊んでいるのが見える。今はブランコで靴飛ばしをやっているらしい。どっちの方が遠いだのという口論を起こしている最中で、その声はこちらにも少し届いてきた。

 田中はまさかこんなところで二人を発見できるとは思っていなかったので、今まで歩き続けて溜まった疲れを取るためにも木に身を預けてふう、と一息ついた。学校からとてつもなく遠く、いくらなんでも一時間三十分歩いた所に来ることはないだろう、と若干呆れそうになるが、冷静に考えれば田中はかなりの回り道をしていたため、ここまでの時間がかかってしまっただけということに思い至る。田中はこの辺りに来たことはなかったが、ここが高台になっているという事もあり、自分の見覚えのある建物も発見できたので、学校からの距離を軽く見積もって歩く時間を考えると、それでも三、四十分はかかりそうな場所だった。

 木から少しだけ顔を出して改めて二人を見やる。よくもまあこんな馬鹿みたいに学校の遠くなのにもかかわらずお互いを発見できたもんだ、と二人の繋がりの強さに感心を禁じ得なかった。やはりヒーローと相棒を兼ね備えている奴は格が違うな、と心底感じて肩から力が抜けていくのを感じる。別に柊に勝とうと思っている訳ではなかったが、ここまで関係の深さを見せつけられると心に来る物はあった。ひょっとしたら自分が助け舟を出すことさえもこの二人にとっては邪魔立てに過ぎないのではないか、と思えてくる。現に今遊んでいる二人の声からは何の不安も感じられず、いじめなどいつの間にやらゴミ箱の中にでも捨てられてしまっていて、どこにもないかのように思えてくるのだ。もちろん実際の現場から離れているからこそ生じるただの安心によるものなのかもしれないが。

「田中君、よくここが分かったね」

 不意に国塚が声を掛けてくる。田中はそちらの方に視線を向けると意外そうで、どこか嬉しそうに頬を緩めている国塚がいた。

「別にわかった訳じゃないんです。なんかその辺を歩き回ってたら辿り着いたみたいな」

「ふうん、自習もろくにせずに歩き回っちゃったんだ?」

「う、そ、それは……」

「国語の勉強をできるせっかくのチャンスだったのにねえ……」

「いや、大丈夫ですよ平均で五十点も取れてるじゃないですか!」

「それ大丈夫じゃない奴だから。補習必須の奴だからね」

「補習……。また夏休みの宿題が増やされるのか……」

「去年もそうだったよねえ、確か。全く、これだから他人想いの子は……」

 国塚はやれやれといった様子で顎に手を当てる。物を考える時の仕草だが、単純に今は感慨に耽っているのかもしれない。

「さて、じゃあ補習をちゃっちゃとすませちゃおうか」

「え? ここでですか?」

「そう。この前田中君が何か訊きに来たとき、私はかなり意味深なことを言ったような覚えがあるんだけど、どう?」

「意味深なこと言ってました。……それにどう答えるか、が今回の補習ってことですか?」

「正解。テキストのどんな漢字が田中君に読めるのか知らないけど、私の心象は読めたかな?」

「先生の心は黒く染まってなかったんで大丈夫です」

「ふふ、よくもあの台詞にそれらしく返すことができたね。さて、じゃあその答えを聞かせてもらおうかな。正解なんて特にないしね」

 田中は「正解なかったんですか……」と露骨に凹んで見せてから、すっと国塚に向き直って言葉を紡ぎだす。

「そうですね……。柊は今犬飼と一緒に立ち向かっていて、たぶんこれは先生が言っていた一握りのヒーローって奴なんだと思います。でも俺はそうなれないな、ということは二人を見ていてすごく実感しました。そして一時期は先生の言っている相棒っていうのもヒーローとどう違うのかさっぱりわからなかったです。――でも敢えてヒーローと相棒を分けるなら、ヒーローは学校の中でさえ、つまりいじめている側に監視されながらも仲良くするということ、そして相棒は学校の外でだけ、つまりいじめている側には見つからない所で、俺はずっとお前の味方だ、と伝えてあげる人なんじゃないですか?」

 国塚は、まるで毎回テストで零点を取るようなダメダメ劣等生がテストで百点を叩き出したかのように、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「百点花丸大正解」

 そう言って国塚は田中の方に歩み寄って頭をぐりぐり撫でる。田中は恥ずかしくなってもじもじとしているが、そのぐりぐりから逃げようとはしない。

 国塚はひとしきり田中を撫でると、ふっと手を放してまた別の木の陰に戻って行き、犬飼と柊の事を眺める。

「でも、そうやって私たちがやってることがそもそも本当に百点の行いなのかはちょっとわからないんだけどね……。誰に対しても中途半端……」

 無邪気に遊んでいる二人を眺める国塚の目には、光の差し込まない深海でどちらへ進むべきかさえ迷ってしまっているような暗い悲しみが宿っていた。

 田中には国塚がその言葉の外から伝えたいことがひしひしと伝わってきている気がした。犬飼たちが傷つくのを止めてあげたいが、何をすればいいのかわからない。さらにそれだけにとどまらず、小杉たちが間違うのもまた止めてあげたい、という思いもその中には含まれている気がした。教師として、間違える子供たちと傷つけられる子供たち、両方に優しさを向けようとするその姿勢は田中の心を打った。実際本当にそんなことを感じているのか分からないが、少なくとも田中にとってはこの瞬間から、小杉たちも犬飼たちと同じぐらい何とかしてあげなければならない存在になった。

 そしてそこまで考えて田中はふっと一つの考えを思いついた。正直非常に稚拙で馬鹿馬鹿しいが、その策を講じることで生じるデメリット自体はないに等しいような気がしたので、行ってみる価値はある気がしたのだ。

 やることが思いつけばもう気分の高揚は抑えきれなかった。それがもしも素晴らしくうまくいってしまえば、ヒーローなんてものでは収まらないほど格好よく、かつ平和的に物事が解決される。実際の所うまくいく確率は低いんじゃないかと何となく思うが、何もしないよりは随分マシに思えた。国塚は恐らく学校の外で犬飼に対して献身的にサポートをしてきたのだろう。そのサポートにこれから自分も加わっていくことは当然として、もう一個の田中の目標を果たすため、田中はやっと見つけた己の道を歩み出す。

「国塚先生、先生は犬飼を助けるために学校の外で何かしてあげてるんですか?」

「そうだよー。と言っても時々話し相手になって、鬱憤(うっぷん)を晴らせる場を作ってあげてるだけなんだけどね」

「それ、俺も今度から行ってもいいですか?」

「犬飼君と柊君が特に何も言わなければたぶん大丈夫だと思うよ。その辺また今度確認しておくから、その結果が分かったら伝えるね。ライン交換しておこうか」

「お願いします」

 田中はせかせかと国塚とのラインの交換を済ませる。あまりにも忙しそうに田中がラインを交換するので、国塚は首を傾げていたが、田中はそんな国塚の様子を気にも留めず今にも走り出しそうなほどうずうずしながら国塚のIDを検索する。ちなみにこのうずうずがちょっぴりだけ、そう、ほんの九十パーセントほど美人の先生とラインを交換できる喜びに由来しているのは田中の心中の黒歴史の一つである。

 連絡先を交換し終えると田中は「俺、相棒とは違う方向でもこのいじめに立ち向かってみます。そのために今日はちょっともう帰ります。国塚先生熱中症に気を付けてくださいね」と言い残して走り出した。国塚は最後の田中の言葉に目を丸くしたが、その意味を問う間もなく物凄い勢いで田中は走り去ってしまった。国塚はその背中を見て困ったように苦笑しながら、もうしばらく犬飼と柊を見つめていることにした。

 田中は今しがた交換してもらい友達の中に入った国塚のアカウントを見てにやつきながらも、さっさと己のするべきことのために同じクラスのみんなに片っ端からメッセージを飛ばしだした。



*            *



 国塚は田中と別れた後もずっと犬飼と柊の様子を見守っていた。公園で遊ぶ二人の姿はまさしく子供そのもので、国塚も見ていて微笑ましくなる光景だった。まだまだ何も分かっていない子供だからこそ、間違うのは当たり前、という点では小杉の事も国塚はあまり悪いとは思っていなかった。もちろん完全にやってはいけないことをしているので、みっちり叱る気はあるのだが、それでも小杉を許してしまうだろうなあ、とつくづく甘い発想をした自分に苦笑しかできない。

 そしてそのまま適宜水分補給をしつつ熱中症と戦いながら彼らの様子を見ていると、どうやら彼らが公園を出る様子を見せた。時間は午後一時。ご飯の時間という事なのだろう。

 手短に話を済ませてあげようと決めて犬飼と柊に呼びかける。二人は素直にその公園の傍の民家の塀の傍にしゃがんで待ちだした。何とか日陰に入りたかったのだろう。塀が作り出すわずかな日陰に縮こまって入りながら、お互いに押しくらまんじゅうをするように押し合って、影がより大きい領域を確保しようと争っていた。

 国塚はそのまま整備された道を彼らの元に向かって歩いていく。

「二人とも、ずいぶんと遠くまで来たね」

 二人の元まで近づいた後、国塚も日陰になっている所にしゃがんで口を開いた。

「国塚先生も知ってますよね、ここが思い出の場所だっていう事」

「知ってるよ。だから真っ先に探しに来たわけだしね」

「こんな暑い中マジで迷惑かけてすみませんでした……。うちの柊が本当にもう豆腐メンタルで……」

「漂う保護者感がうざいな……」

「まあまあ、別に何で悩んでいたかなんて今回は気にしないよ。聞いてほしいならいくらでも聞くけど、そういうのは野暮(やぼ)じゃない?」

「まあ、別に聞いてもらわないでも大丈夫です。今回は普通に解決したので」

「うん、それは素晴らしい。百点満点だよ」

 そこで犬飼は首を傾げながら問う。

「ところで先生はなんで俺たちを呼び止めたんですか?」

「まあ教師だから逃走中の生徒を見つけたらそりゃ呼び止めるよ」

「それもそうか……。でも案外見つけるのに時間かかりましたね?」

「そうかなあ? 今来たところだと思ってる? たぶん二、三時間ぐらい前からずっと見てるけど」

「そうだったんですか……」

「国塚先生、日向先生の盗撮癖が移ってきてるんじゃ……」

 柊は若干引いてしまいながら、犬飼は国塚が誤った方向に進んでしまわないか心配に思いながら言った。国塚もその話を聞くと露骨に眉根を寄せて「それはまずい……」と深刻に頭を抱え始めた。

 ひとしきり国塚がうんうん唸(うな)り終わった後、国塚は疲れた顔を上げながらどこか遠くを見ながら言葉を吐いた。

「ううん、まあそれについては今は目を逸らそう……」

「玄宜しく現実逃避し出したぞ……」

「いや俺のは現実逃避じゃないから。自己嫌悪だから」

「あ、そう……」

 隣で話を聞いていた国塚は二人にばれないように薄く笑って、その顔を直すようにこほんと咳払いを一つする。そこに先ほどの疲れた顔はなく、敵の根城を草陰に隠れながら見据えるような、鋭い眼光を宿した瞳があるだけだった。

「今回の学校からの脱走、というか登校拒否? の理由なんだけど、まあ柊君の意思は置いておいて、いじめが嫌になって逃げだした、ということにさせてもらってもいい?」

「え、別にいいですけど、それで何かなるんですか?」

「流石に生徒が登校拒否するような状態になったら、いじめっ子の親を引っ張ってくる理由には十分だからね」

 そう言って国塚は立ち上がる。その眼には確かな思いが宿っていて、犬飼と柊は下から見上げながら国塚の顔に見惚れてしまう。

 それ以上特に国塚から言いたいことはなかったので、国塚は「ご飯食べに行くの? せっかくだし一緒に行っていいかな?」と尋ねる。犬飼と柊は目を見合わせて示し合わせたように頷き、黒い微笑を浮かべながら言った。

「「先生のおごりですね」」

「ハモるなっ。そしてそんながめつい所はお互いに似なくてもいいの」

 国塚は二人に頭の上から軽くチョップを食らわせ、二人を引き連れて出発する。

 国塚にとって子供は間違えて当然の存在だった。もちろん様々な考え方があってしかるべきで、子供も間違えるべきではないというのはごく普通の考え方だ。現に国塚も子供の殺人なんてものは到底許容する気にはなれない。

 そして国塚の理念にはこうもあった。子供が間違ってしまえばその責任は多かれ少なかれ親にもあるだろう、と。端的に言って国塚は子供の責任の所在を親に求めるタイプの人間だった。だからこそ向き合い、問い詰め、導く必要がある。親が間違えていればきっと子供も間違える。小杉もきっとその負のサイクルにはまっているだけなのだろうと、国塚は考えていた。どういう育て方をしたのかはさっぱり謎だが、小杉はなんだかんだでそういう子どもになってしまった。その責任は親にも割り当てられてしかるべきだ。

 国塚は少し口を引き結ぶ。来たるべき決戦の日に向けて、下らないが愛すべき理想論を振りかざすための英気をしばし養う事としよう。



*            *



 柊脱走事件が起きてから初めての土曜日。職員室には何人かの職員が一堂に会していた。全員がスーツをまとい、これから行われることに対して緊張の面持ちを浮かべていた。中には緊張によるものか、吐き気を催(もよお)すものもいたらしい。頻繁に手洗いへ行く教師も一人二人いた。

 国塚もこの日ばかりは遅刻する訳にもいかず早々と学校に来ていた。

 この日は国塚の提案により小杉と小杉の母のみが学校へ呼ばれていた。と言っても今日行われるのは、いじめの事実について親は知っているのか、という事実確認や謝罪意識の涵養などではない。柊脱走事件の翌日に生徒指導室の国塚の元を訪れた二人の生徒によりもたらされた情報に基づき、もっと趣旨の違う対話が行われることになっていた。

 国塚は一つ溜息を付いて静かに顎に手を当てる。この前生徒指導室に訪れた二人の話はにわかには信じがたいものだった。突拍子などまるでなく、今まで信じていたものがすべて瓦解していった。とは言っても、瓦解して見えた先の世界が春の太陽の日差しのように思いの外温かかったのは国塚にとって非常に嬉しいことだった。中学生はやはりまだ子供。間違えることも往々にしてあるが、まさかこんな変わった方向に突っ走るなんて、国塚も予想外だった。やりたいことは分かった。でももっとスマートな方法があったんじゃないか? と声高らかにして言いたい気がした。それでも生徒たちが自分たち自身で頑張って土台を作り上げたのだから、これに協力するのが教師の仕事なのだろうと素直に思った。

 小杉とその母親の裕子が学校に到着した。二人は客間ではなく生徒指導室に通された。生徒指導室の方には来客用の長いソファが即席でしつらえられており、二人をそこに座らせる。裕子はただ困惑している様子でおろおろと視線がおぼつかない。一方の小杉は苦虫を噛むような顔を浮かべていた。

 その様子を見て国塚も本当に苦々しい笑いを浮かべた。当然だった。こんなことをして罪悪感が湧いてこないわけがない。まして年の割に大人びて見えるとはいえただの中学生。その罪悪感はその小さな背中には少し大きすぎるかもしれない。その巨大な罪悪感の責任の一端は、早く違う方法で助け舟を出してあげられなかった私自身にもあるのかもしれない、と国塚の負の思考が頭の中に駆け巡る。

 裕子の方を見ると、芯は細い人だったが、痩せこけているというほどではなく、小杉と同様に小柄な人だった。急きょ用意してくれたのだろうか、洗濯に出したてのようにぱりっとした仕上がりの白いブラウスと黒いスラックスを着てくれていた。カジュアルなスーツの着こなしが似合うすっきりした顔立ちだった。

 視線こそ最初は彷徨(さまよ)っていたものの、裕子はもっとも偉いと思わしき高齢の校長に目をやると、背筋を伸ばしながら校長を見て言葉の続きを待った。大雑把にいじめに関しての話はしてあるが、いまだ信じられない気持ちが強いに違いない。校長はいじめの件について何か対策をすることもなくどんと動かずにいただけなので、何から話すべきなのか、そもそも話すことは何があるのかなど、全く分かっておらず、ただおろおろとしながら視線を矢川や国塚に送ってきた。このいじめに一番深くかかわっていたのは君らだろう? という皮肉めいた意味合いも籠(こも)った視線に国塚は多少の苛立ちを覚えながら、やはり矢川に視線を投げる。矢川はその二つの視線を受けて静かに頷いて一歩前に出る。

生徒指導室は普段とは違う一つの背の低いガラス張りの机を隔てて、ソファに座る小杉の家族と直立している教員陣が向かい合う形になっていたので、一歩の前進は案外目立ったらしく、小杉の母親はすぐさま視線を矢川に向ける。

「小杉さん。電話で少し話してはいると思いますが、お子さんの小杉君が同じクラスの子に対して悪質ないじめを行っていました」

「聞きました。証拠を見せてもらいたいです」

 言い方も非常に丁寧で、敵意もあまり感じさせない。ただ静かに不当不正がないかを厳正に見極めようとしている辺り、なるほど、小杉も怜悧(れいり)な性格だが、それは母親譲りなのかもしれない。

一応小杉の母は証拠がある体で話を進めてくれているが、その眼にはやはり 自分の息子がそんなことをするはずがない、という確信めいた自信がちろちろと見受けられる。矢川も国塚もその瞳の中の想いをひしひしと体に感じていた。

 矢川がスマートフォンを取り出す。ただしそれは矢川の物ではない。ちりばめられたきらきらとした星の輝きが、そのケースを選んだ人間の清らかで澄み切った心を連想させるような、そんなスマートフォンケース。小杉はそのスマホから目を背けるようにして下を向き、小杉の母はそのスマホと小杉を交互に見ながら徐々に目を見開いていく。

「それは……!」

「そうです。小杉君のスマートフォンです。この中に問題の動画はあります。証拠としては十分すぎるほどでしょう」

 そう言って矢川は沈痛な面持ちで問題の動画を再生させる。結局矢川が盗撮してまで手に入れたいじめの現行犯映像より、こちらの方が鮮明で分かりやすかったため、今回は証拠としてこちらを突きつけることにした。このスマホには椅子に糊を塗りたくりながら悪口雑言を吐きあっている様子や、遠巻きから犬飼に言葉を突き刺しに行っている友の雄姿などを収めた物など、矢川の映像ではどうしても捉えきることができなかった至近距離での様々ないじめの現場が克明に記録されていた。

 実は例の二人が与えてくれた情報の一つはこれだった。小杉のスマートフォンにいじめの詳細な映像が残されていること、そして二人がそのスマートフォンを手に入れることに成功したこと。

 小杉の母はその映像をただ食い入るように見つめていた。スマホが小杉の物なのだから、小杉が映像を撮影しているのは明らか。音源として含まれる下衆っぽい笑い声の中にも小杉の物が混じっているのは明らかだった。あくまで撮影者本人は写り込まないため、言い逃れしようとすればできるかもしれないのが非常にたちが悪く思えてくる。

 いったん一つの動画が途切れると、小杉の母はおもむろに小杉のスマホを手に取り、驚くべきことに自ら率先して次の映像を再生させた。その様子を見て小杉も矢川も国塚も、その場にいた全員がどういう訳だが息を呑んだ。小杉の母の顔に目をやると口がわなないていて、瞳はすでにどことなく湿っぽくなっていた。

 その後も困惑する周りをよそに小杉の母はどんどんと映像を見進め、途中からは完全に嗚咽(おえつ)を交えて泣き咽(むせ)びながらもその映像を眺めていた。

 そしてここまで何も口にしていなかった彼女が堰(せき)を切ったように言葉を口にした。

「ごめんなさい……っ! ごめんなさい……っ!」

 開口一番口にされた言葉は、ごくごく当然の、ただ誰もの予想を裏切るものだった。

 ここに来て国塚は彼女が何をしているのかに思い至る。彼女は息子の罪をその目に焼き付けているのだろう。そして間違いなくいじめてしまった相手に対して罪悪感をもって涙し、誠意をもって息子がした行為を受け止めようとしているのだ。

 だがこれは相当の痛みが伴う。

 相手がどれほどの痛みを持ってこの状態を受け入れたか思考しなければならないから。

 いじめをするような子供にしまった自分に責任の一端はあると考えざるを得ないから。

 醜い心を与えられてしまったせいで、子供の将来は台無しになってしまうかもしれないから。

 それは翻(ひるがえ)って自分自身の否定にもつながるから。

 育て方の否定に留まらない。己が心をも喰い潰しかねないほどの自己嫌悪が生じるから。

「ごめんね若則……っ!」

 いつの間にか映像の再生はすべて終わっていて、ただ裕子の嗚咽のみが響いていた。

 二日前に来た二人の生徒、つまり小杉と犬飼のことを国塚は思い出していた。二人はお互い了承のうえであのような関係を構築していたという衝撃の告白から二人の話は始まった。そして小杉はなぜそんなことをしたのかを語ってくれた。

 裕子は夫を喧嘩が遠因で亡くしていた。そして父親が亡くなった後、誰かと意見を衝突させるのを避けたり、物腰を柔らかくするようになった。だが最近は年も重なって疲れやすくなってきたせいか、誰かといさかいを起こしたり、前のように謝るのが苦手になってきていたらしい。誰かといざこざを起こしても彼女はずっと意地を張っているのか単純に悪気を感じていないのか、相手が謝るまで自分は何もしないらしいのだ。

 夫が亡くなった時に心に宿したはずの謙虚さがなくなってしまった。だからその謙虚さを取り戻すことができた方が、きっと母親のためになる、と小杉は言っていた。そしてそのために、素敵で立派な大人に母親を叱ってもらいたい。多分小杉自身では母親は言う事を聞いてくれないだろうからその白羽の矢が国塚に立てられた。

 そして、国塚と母親を叱る側と叱られる側という構図で引き合わせるために、三年生になって間もなく、早々に仲良くなった犬飼と一緒に、犬飼に対するいじめという形に見える状況を作り出したということだった。小杉の見解では裕子は恐らく頑なに自身や小杉の咎を認めようとしないだろう、という事だったので、小杉は国塚が母親を叱る形でこの一連の事件を終結させることは難しくないだろうと考えいた。

 国塚はこれを聞いた時笑ってしまった。正直何故父親の死ということも絡んでくる問題に対して、家族事情にまるで関わりのない国塚を参加させようとするのか。小杉は自分自身の話では母親に聞いてもらえないと思っているようだったが、なぜ一度も試してみなかったのか。父親の死が関わっているのだから、家族同士の方がむしろ簡単に意思疎通ができたはずなのに。

 だが、国塚が笑った理由はそれらの少し的外れなのではないかという小杉の発想にではない。

 ただ純粋に、小杉の親を慕う気持ちが嬉しかったのだ。

 そして今目の前で、本当ならこんな傷つかずに良かったかもしれないが、何の因果か子供の優しさで傷ついてしまった母親が涙を流しながら小杉を抱きしめていた。

 ただ純粋に、裕子の子を思う気持ちが眩しいのだ。

 彼女は今もちゃんと子供のために素直に謝ることができる。強情さなんて程遠い彼女の泣き崩れる姿に、小杉自身も意外に思っているのだろう、ただ歯を食いしばってなされるがまま抱きしめられていた。

彼は母親の優しさと愛をあまりに過小に評価しすぎていた。

子供のために謝ることなんてしないはずだ、と小杉は思っていたようだが、子供のために謝るどころか泣いてしまっている。子供の咎はすべて己の物だといわんばかりに。

 国塚はその母親の姿を見て感傷に浸っている場合ではないことを思い出した。

 この心優しい母親の罪悪感をすぐにでも取り除かなければならない。小杉は今予想外の展開に何かを言える状況ではない。ならば国塚が何かを伝えるしかあるまい。

 国塚は裕子の後ろに回り込み、ハンカチを差し出しながら優しく声を掛ける。

「お母さん、小杉君はお母さんがきっと育てたかったように、ううん、ひょっとするとそれ以上に優しい子に育ってくれましたよ。この映像に映し出されているものはすべて、真っ赤な嘘です」

 裕子は泣きながらもこちらの話を聞いているようで、首を少しだけこちらに傾けてきた。

「色々と事情が複雑すぎて私の口から説明することは難しいのですが、小杉君はお母さんがお父さんが亡くなった時に心に留めていた、『謙虚に優しく』という思いを取り戻してほしかったようなんです。その方がお母さんがきっとうまくやっていけるだろうと思って」

 裕子は父親が亡くなった時に、という言葉を聞いて肩をぴくりと揺らした。そしてその後の言葉を聞いて大きくかぶりを振った。どういう意味合いを含んだ反応かはよく分からないが、国塚は続ける。

「だから最近お母さんがそういう心を忘れていると小杉君は感じてしまって、誰か別の大人に叱ってもらいたかったようなんです。……ですが」

 言いながら国塚は裕子の肩に手を置いて腰を折る。裕子は手を置かれた肩の方にそっとくしゃくしゃの顔を上げると、そこには母親の優しい顔を想起させるような国塚の笑顔があった。

「裕子さんのような素敵で優しい、子供想いの母親を叱る必要なんて、どこにもないですね」

 そういうと裕子はまたかぶりを振る。だが国塚はそれに対してかぶりを振り返した。

 裕子はきっと話がまだ全く呑み込めなかったのだろう、「ごめんなさい……」と呟きながらまた小杉をぎゅっと抱きしめていた。その様子を見ていつの間にか小杉の方も「ごめんなさい……」と言葉を返していた。と言っても彼らのごめんなさいは別に犬飼に当てられたものではないのだろうが。

 貴方のことを分かってあげられなくて、ごめんなさい。

 そのごめんなさいの裏に隠された、底なしの愛を眩しく思いつつ、国塚はこんな素敵な母親を一時でも傷つけてしまう選択をすることしかできなかった自身に、少しばかり胸が締め付けられる思いがした。

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