第三話 追っているはずが離れて消えて
朝日が眩しく感じられる時間、鳥たちは囀り、風は木々を鳴らし、水面を鳴らす。世界には音が溢れ、彩る。
そんな世界をアルフォースは綺麗。だとは思わず、ただ一つの現象として眺めていた。
世界が綺麗だと謳うのならば何故、綺麗であるはずの生命が自らを隠さなくてはならないのか、景色が綺麗。つまり、人で言う外見。いくら外を飾ったところで、中身と言う物は付いて回る物であり、どこかしらで露呈する。
アルフォースはフッと鼻を鳴らす。
世界、世界だと責任を押し付けてはいるが、景色も中身も生命がいて成り立つ物。景色も、その景色を認識しなければ景色にはならない。所詮『作り物』でニセモノ。中身も、生命が世界を唆すから歪んで見えるだけなのである。
故に、どれだけ歪んでいようとも世界を憎むことは生命がしてはいけないのである。
生きとし生きる森羅万象、花や木々、虫や動物、思考、話すことの出来る人や人以外の種族。それら全てがこの世界にはおり、世界を蹂躙しながら生きている。『本当』の景色など、きっと生命である内は見ることが出来ないのだろう。と、アルフォースは『美しい』はずの朝日を細めた目で眺めた。
ふと、アルフォースは池の方から気配を感じ、首を傾げてその場所まで歩く。
母屋に面している藤が植えられている場所、その岩の畳の上で浴衣姿のリリーが水を掬って、きっと景色よりも綺麗な微笑みを浮かべていた。
「……」アルフォースは足を止めた。
誰よりも世界を愛しているはずの少女、皮肉な物である。
錬金術師とは世界から力を借り、世界の一部を使用する。
アルフォースは錬金術について詳しくはないが、世界にある物を素材にし、世界の残り香で色を付ける術。だということは理解している。だからこそ、錬金術師は世界を知らなくてはいけないし、世界を愛していなければいけない。
あまりにも惨い仕打ちではないだろうか? 世界からどれだけ嫌われたとしても、あの錬金術師の少女は世界に愛されるために、世界を愛すのだろう。それがどれだけ困難な道であろうとも、少女は進むだけなのである。
アルフォースはため息を吐き、世界とともにある背中に近づく。
「……」
「……」
リリーの真後ろまで近づいたアルフォースなのだが、気付かれる気配が一向にない。気配を消しているわけでもなく、リリーがただ鈍感なだけなのだろう。
「……」アルフォースはリリーの耳元に口を近づけ、囁くように挨拶をする。「おはよ――」
「みゃぁぁぁぁ!」リリーが叫び、驚いた拍子に体勢を崩し、池に落ちそうになる。「わ、わ――」
「――ッ!」アルフォースは咄嗟に手を伸ばして、リリーの腕を掴み、思い切り引っ張る。「っと、驚かせてごめんね」
引っ張った拍子に抱きしめたリリーの身体、カナデは大きいと言っていたが、女の子らしく華奢であり、か弱い。こんな身体で背負える物は多くはないだろう。
「わぅ。えっと、おはようアルちゃん」
「うん、おはよう」アルフォースはリリーを身体から離すと、近くに座るには丁度良い岩があり、それに彼女を座らせる。「よく眠れた?」
「うん。フカフカのお布団が気持ち良かったよぉ」リリーが大きく伸びをする。「あ、でもカナデちゃんが『お母さん』って言いながら抱きついてきたのにはびっくりしたかも」
「カナデが?」
「うん。アルちゃん、あたしって老けてるのかなぁ?」
「そんなことないよ。カナデはヴィルと一緒に寝ていてもお父さんって言いそうだし、あの子が寂しがり屋なだけだと思うよ」アルフォースはどこか気を張ったように見えるカナデを寂しがり屋と称し、小さく笑った。そして、ふとリリーはこの時間から何をしていたのかと考え、それを口にする。「俺は朝の空気を吸いに来たんだけど……リリーは考え事?」
「みゅ? うん、えっとね」リリーが身体を屈ませ、庭にある土や水、葉っぱを手に取る。「ここにある子たちは錬金術の素材、しかも良質な子たちばかり。きっとマナが多いのもあると思うんだけど、何て言うかな……みんな、この場所が好きなんだと思う。ううん、この大地も、風も、木々も、アルちゃんたちが好きなんだよ。事象現象が、この場所を宿り木にしている感じ。素敵だよね」
「素敵なんだ?」
「そうだよぉ……」リリーが一度顔を伏せ、土や水、葉を撫でながらも空いている手では握り拳を作る。「羨ましいな」
「リリー……」アルフォースは一度だけ目を閉じ、2、3度息を吸うと、リリーに見えるように身体を指差す。「リリー、浴衣肌蹴てるよ?」
「みゅ?」
座ったり立ったりしていたからだろうか、リリーの浴衣が肌蹴、その健康的な肌を朝日に照らさせていた。カナデではないが、大きな胸の上半分が外に出ようとしており、これは注目を浴びるな。と、外に行く時は着替えさせようとアルフォースは決めた。
「うみゅ?」リリーが肌蹴た浴衣を見て、驚いた声を上げる。「わ、わぁ。アルちゃ~ん、結んでぇ」
「はいはい」
アルフォースはそんなリリーに笑みを向け、背中に周り帯を締めるのだが、内心『羨ましい』と、言ったリリーの言葉を頭の中で反響させていた。
木々や水、土と風が世界の一部だと言うのなら、それ即ち、世界に好かれているということになるのだろう。それらに好かれることをリリーは羨ましいと言ったのである。自分は嫌われている、そう知っている。アルフォースは、きっと笑みを浮かべているだろうリリーとは正反対に顔を歪ませた。
そして、そんなことを考えていたからか、アルフォースは近づく者の影に気付くことが出来ず、ゆっくりと顔を上げた。
「いや、リリー殿の反応はおかしいぞ?」
朝から剣を振っていたのだろう。ヴィルナリアの額には汗が張り付いており、朝日がそれを照らし、光っていた。
「わ、わぁ、ヴィルちゃん女の子の肌をそんなに見ちゃ駄目だよぉ」
「いや、その反応も大概だが……」ヴィルナリアがリリーに視線を向けず、池に近づく。「昨日から思っていたのだが、リリー殿は天然の気があるな」
「……そもそも、女の子の肌を見て無反応な俺たちも大概なんだよなぁ」アルフォースはリリーに耳打ちをする。「あの兵士の鑑はね、俺と違って真面目にああ言ってるんだよ。俺は流れに任せているけど、ヴィルは本気なんだよ」
リリーが顔を赤らめるのを見て、アルフォースは苦笑する。
「二人とも、おはよう」ヴィルナリアが池の水に、魔法陣が描かれた籠手ごと、手を浸ける。「アルはいつも寝ているのに寝起きだけは良いな?」
「え? あっ」アルフォースはジリジリと後退する。「お、おはよぉ、ヴィル――」
「アル、たまには相手をしてくれないか? 起きた瞬間、俺と出会わないように逃げ回っているお前と、早朝からこうして顔を合わせる機会はあまりない」ヴィルナリアの籠手が光り出し、それと同時に彼が呟く。「我が紡ぐは水の加護――繋がり紡いでその姿を現せ」
「ヤバ――」
「使わなければ錆びるぞ!」
池の水がヴィルナリアの手元に集まり、一本の刀へと姿を変えた。さらに、飛沫は宙を舞い、ヴィルナリアの周りを踊るように回る。
ヴィルナリアの魔法、属性を武器へと作り替える魔法。武器を持つ必要がないその魔法を使う故に、早朝どの瞬間であろうとも襲ってくることを知っているアルフォースは普段から、彼に会わないように逃げ回っているのである。
「ちょ、ちょっと待って! 俺、武器持ってない――」
「ならば避けろ!」
ヴィルナリアが放つ確かな殺気に、アルフォースは咄嗟に足を動かす。そして、リリーを横抱き――所謂、お姫様抱っこで持ち上げると、ヴィルナリアから放たれた激流を屋根に上ってかわす。
「わぁ、兄弟喧嘩だぁ。あたし、兄弟喧嘩って憧れるんだぁ」リリーがのんびりとした声で言う。「やっぱり、お兄ちゃんっぽいヴィルちゃんが主導なの?」
「いやいや、程度によると思うよ? ヴィルの喧嘩は本気だかんなぁ」アルフォースはゲンナリとして、首に手を回すようにリリーに言う。「リリー、ちゃんと掴まってて。それと年的に言ったら、兄は俺だからね?」
「弟に勝る兄などいない?」リリーが間延びした声で、背後から追ってきている水に乗ったヴィルナリアを指差す。「ヴィルちゃん、楽しそう」
「楽しみ過ぎなんだよなぁ。手合わせが死合いってどういうことなのさ。朝から命の削り合いなんかしたくないよ」
「アル、敵に背を見せるとは何事か!」ヴィルナリアの周りの飛沫。と、いうには大きすぎる雫が、形を大きな棘に変え、アルフォースの背中に向かって放たれる。「避けろよ? 朝からお前の手当てはしたくないからな」
「なら撃つなよ!」アルフォースは舌打ちをしながら、今日はダラける時間を増やして過ごそうと決める。「朝はダラダラする時間なんだぞ!」
「朝までダラけていたら、お前は常にダラけていることになるぞ!」
「それの何が悪いかぁ!」
「悪い! それは俺が許さん――ッ!」
ヴィルナリアの息を飲む音が聞こえる。ヴィルナリアの放った棘がアルフォースの背中に刺さる直前、アルフォースは身体を反転させ、そのまま加速――まるで、棘が飛んで来る軌道を初めから知っているように、寸でのところでかわし、ヴィルナリアとの距離を詰める。
そして、全ての棘を避けたアルフォースはヴィルナリアの背後に周り、リリーを抱き上げたまま、その足をヴィルナリアの喉元に突きつけた。
「詰みだよ?」
「……」ヴィルナリアが魔法を解き、剣だった水が飛沫になって屋根に落ちると肩を竦める。「まったく、お前は常にそうやってやる気を見せていれば、誰よりも輝き、将来的にはおじい様の跡を継げるほどだと言うのに――」
「いや~、買被り過ぎ」
「そもそも、お前は気分で一日が左右され過ぎている」ヴィルナリアが何度もアルフォースの額に指を弾く。「訓練は10分も続かず、皆で勉強会を開けばいつの間にかいなくなり、おじい様や他の騎士、別の国から来た商人や偉業を成した方が開いた講演会では爆睡――」
「あ~あ~、き~こ~え~な~い~」
「俺とおじい様はお前の可能性を知っているからこそ、アルが問題を起こそうとも周りを説得して、お前を守ろうと――」
「逃げるよリリー!」アルフォースは身体を屋敷の外の方向に向け、リリーを強く抱く。「ちょっと急ぐよ!」
「うみゅ!」
アルフォースは屋根を伝い、屋敷の外まで駆けだすと、そのまま市場がある方に向かう。ヴィルナリアが背後で何事かを叫んでいるが、一切振り返ることなく、アルフォースはリリーを抱えたまま、その場から立ち去った。
【その想いは狂気に重なる】
「う~~~~ん、ここまで来れば大丈夫かな?」アルフォースは市場に向かう前に、休憩がてら公園に立ち寄り、抱えていたリリーをベンチに下ろす。「リリー、ごめんね。流れで連れて来ちゃったけど、舌噛んでない?」
「うん、大丈夫だよぉ」リリーが満足そうに頷く。「それにあたし、兄弟がいないからちょっと新鮮だったかも」
「こっちは命がけだったけどねぇ」アルフォースはふと、疑問に思う。「リリー、家族は?」
「みゅ? うん、物心ついた時にはお父さんもお母さんもいなかったよぉ」
人ならざる者がいるこの世界、親なしの者など珍しいことではない。金がなく、貴族に売り渡す者もいれば、自らの危機を察知し、どこかに置き去りにする者。様々な理由があり、一概に悪とは言えない。
「そっか……」しかし、そのような境遇であろうとも、人に笑顔を向けることの出来るリリーを眩しく思い、アルフォースは柔らかくした声色で話す。「でも、リリーって愛情の真ん中で育った感じがするよね?」
「愛情の真ん中かぁ」リリーが思案顔を浮かべ、遠くの空を見るように視線を投げる。「うん、それは間違ってないよぉ。あたしは運が良かったの、今まで生きてきて愛されなかったことなんて一度もないんだよぉ」
「……」アルフォースは、それは身近な人。と、付くだろうそれに顔を伏せたが、すぐに顔を上げ、周りだけでも彼女を愛していたことに安堵する。「そう――」
「あたしの弟子、というより最初はあたしが弟子だったんだけど、技術を超えちゃって。あたしが捨てられた場所に住んでいた人たちが錬金術師だったの」
「それでリリーは錬金術師になったんだ」
リリー曰く、置き去りにされた場所が行くあてのない錬金術師の集まるアトリエであったこと。生きる術を持たない自分は錬金術にすがり、周りの大人たちに厳しくも優しく教わったということ。職人気質なのか、錬金術以外には無頓着であり、何年も使っていた、そのアトリエの住人からプレゼントされた大事なジョウロをどこかに忘れてしまった時も、作れば良いだろう。と、言って子ども心を踏みにじられたこと。食事が雑草や薬草だけの時もあった。そして、愛されているということ。自分とそれを取り巻く者たちについて話すリリーは、置き去りにされた世界を恨むこともなく、朝日に負けないほどの笑顔でアルフォースに語った。
「あたしが一人前になるまでは、命の研究をしていた錬金術師だったんだけどねぇ。今ではみんなで野菜作り」リリーが口を手で覆って目を細めてと笑い声を漏らす。「人生なにがあるかわからない。って、最近は嘆いてるよぉ」
「命の研究から土弄りに変わった過程が知りたくなるね」
「野菜だって命なんだよぉ」リリーが公園の土に手を伸ばすと、それをアルフォースに見せ、それと飛んでいる鳥を指差す。「命は命を育む。あたしにとって、育んでくれる命が野菜だっただけなんだよぉ」
「リリーったら、錬金術師みたいだねぇ?」
「錬金術師だもん」膨れながら言ったリリーが、すぐに頬をしぼませ、手足と背中を伸ばす。「それに、出来ることが限られてるあたしは野菜作りが性に合ってたんだよぉ」
「出来ることが限られてる? リリーって、意外と何でもこなせるよね?」
「意外とは余計だよぉ。それに、そういうことじゃなくてね」下唇に人差し指を添えたリリーが、説明の仕方を考えているのかゆっくりと話しだす。「分不相応――錬金術や魔法じゃ、到達できない領域っていうのがあるんだよぉ。命は営みの中でしか生まれないし、あたしの野菜作りだって育みを助長するだけで、根底を一から作ったことはないんだよぉ」
「ん? ん?」アルフォースはリリーの言う『根底』が理解出来ず、首を傾げる。自分で言うほどではないが、ヴィルナリアよりは理解力があると確信しており、そこまで頭が悪いとも思っていない。しかし、リリーの話した内容について行けず、多少は本でも開こうかと、錬金術に関する知識を得ようと考える。「リリー先生? 出来れば、もう少しわかりやすく。特に根底ってところを」
「わぅ、先生っ」頬に両手を当て、照れたように復唱したリリーが咳払いを一つ。「エッヘン。えっとね、もっと簡単に言うとお魚味の野菜は作れるけれど、お魚の野菜は作れないの」
「あ~、なるほど。野菜は海を泳いで、網にかからないもんねぇ」
「う~ん?」リリーが首を傾げる。「水で『着火』する火薬の特性を取り出して作った野菜なら、捕まるどころか、縄を突き破れるよぉ」
「……うん?」アルフォースは混乱している頭を整理し、頭を掻きながらリリーに尋ねる。「野菜は魚にならないんだよね?」
「ならないよぉ」
「でも泳ぐの?」
「みゅ?」
「……」アルフォースはリリーの額をいつもヴィルナリアにやられているように弾く。「わかった……リリーは教えるのが絶望的に下手なんだね」
「え~、そんなことないよぉ」
まるで、理解しない方が悪いと言いたげなリリーの頬を摘まむアルフォースは何となくだがそれを理解していた。つまり、『土に種を植え、水を与え、日の光を浴びせても魚は生まれないのである』そして、逆に『魚から野菜は産まれない』と、いう結論に辿りついていた。
「まぁ、リリーの教え方が下手なのはどうでも良いや。それより」アルフォースはその話を区切ると、先ほどの育ててくれた錬金術師の話の続きを促す。「さっきの続き」
「むぅ」リリーが諦めたように息を吐く。「えっと……どこまで話したかなぁ?」
「分不相応」
「あ、そうそう。えっとね、命の研究って言うのは生命には分不相応なんだよぉ。だから、きっとみんなが研究していたそれは、成就しないと思って――」
「だから、その人たちを野菜作りに誘ったの?」
「うん。命を知ることでその助長も成せるんだけど、ホムンクルス――ううん、違うね。人と同じものは作れないんだよ。感情、心、命のないホムンクルスだったら理論上幾らでも作れるけれどね。でも、それは人形なんだよ」彼女はスウっと息を吸い、いつもの抜けたリリーとは違う、どこか達観した表情を浮かべる。「心や命、それは分不相応を超えた時、初めて成せる『業』なんだよ。あたしは、みんなにそれを超えてほしくなかったの」
「えっと……」何度も話の腰を折って悪いと思いつつ、アルフォースは片手を上げ、質問する。「ホムンクルスって?」
「ホムンクルスはねぇ、錬金術師が目指していたその1、だよ。人を真似て、人ならざる者を作る術――」リリーが困ったような表情を浮かべる。「今はもう、それは不可能とも言われてるから、研究する人も少なくなっちゃったんだけど、あたしの周りの人たちはそれを研究していたんだぁ」
「う~ん、錬金術については今度本でも読んでみようかなぁ? それかリリーの師匠兼お弟子さんに聞こうかな」
「あたしに聞いてよぉ」
「また膨れた、ごめんごめん。でも、リリーは家族に危ないことをしてほしくなかったんだね?」
今までリリーの話を聞いていて、リリーは一度も家族と言う言葉を使わなかった。それは意図的でないにしろ、その人たちを想う気持ちや模っている関係は明らかに家族と言う言葉が似合い、自分とレイブン家と似ているのではないだろう? と、幼い時に両親を亡くし、ヴィルランドに引き取られた時のことを思い出す。
「家族……」リリーが呟く。「家族――うん! そうだよ! 最近じゃ、あたしがいないとご飯も食べられないからねぇ。うん、家族。しっくりくる」
やはり意識していなかったのか。と、アルフォースは苦笑いを浮かべ、喜んでいるリリーの頭を撫でる。
「ご飯も作れない。って、大丈夫なの? もしあれならリリー、家に呼びなよ? 部屋はたくさん余ってるしさ」
「う~ん、大丈夫だと思うよぉ。バル――長的な人もいるし、友だちの家に行くだけって言ってたから、多分、食事くらい出ると思うし」すると、リリーが首を傾げる。「でも、一昨日出て行ったんだけど、家の外に出たのはいつぶりだろぉ? あたしが知ってる限り、十年近く前だったような気がする」
「どんだけ出不精なのさ……」錬金術師や魔法使いの研究者は生のほとんどの時間を研究に捧げると言うが、それでは頭にカビが生えないのだろうか? と、心配するアルフォースはリリーの言った『長的な人』が気になった。長的な人、ということは長く研究もしていただろうし、本当にカビが生えて、動くのが億劫になっているのではないか、アルフォースは病院に行くことを提案する。「ねぇ、リリー、その長的な人って――」
「みゅ? うん、やりたい放題のみんなを纏める人がいるんだけど、あたしの錬金術の基礎は全部その人の教えなんだよぉ」リリーが腰に手を当て、胸を張る。「零を知ってこそ一があり、一を理解して初めて二が見える――」
リリーがそう話し出すと、その声に重なるように、優しげな声が聞こえてきた。アルフォースは声のする方に視線を向ける。
「零を知らぬ者に百など語れない。一つ一つの数字を進んで百に辿りつく――簡単に言うと近道やズルはいけない。零や一、百より下の数字に真剣に向き合った者が真理に辿りつくということだよ」
「うみゅ? バルド?」
「朝の空気を吸うために適当に散策していたら聞き慣れた声が聞こえたものでね――お嬢はこんなところにいらっしゃいましたか」色素の薄い肌に痩せ細った四肢、どこか命を感じさせない雰囲気の男が薄く笑い、アルフォースとリリーの座るベンチを指差しながら喋る。「しかしお嬢、年端も行かぬ娘がこんなベンチなんかで寝泊まりしていたら品性を疑われますよ? 服まで売り払って布だけとは――わたくしは悲しゅうございます」
「ねぇ」見た目や雰囲気などからは想像できないような饒舌さで喋るリリーの保護者、バルドにアルフォースは苦笑いを浮かべ、リリーに尋ねる。「お嬢? この人がお嬢の言っていた人?」
「お嬢じゃないよぉ」
「おや、お嬢さん、あなたは……もしやこのベンチの主ですか? ジャージ姿でありながらどこか気品のある物腰、お嬢がお世話になっています。何か粗相はありませんでしたか? 箱庭で育った故に物事には疎くて」
「いえいえ、確かに天然だけど持ち前の愛嬌と好奇心旺盛な姿勢は見ていて面白いよ」
「それは僥倖です。しかし、お嬢の天然さの全ては見ていないはずですよ。何せお嬢は――」
「バルド! それにアルちゃんも!」リリーが口いっぱいに空気を溜め、朱が落ちた頬と瞳いっぱいの涙を携えた表情で二人を睨みつける。
「少しお遊びが過ぎましたか」バルドがわざとらしく肩を竦ませ、リリーに手を振り、おちゃらけな表情で身体を揺らす。「ほ~らリリー、一番弟子のバルドさんですよぉ」
「……ここまで姿と言動が一致してない人も珍しいなぁ」アルフォースはバルドと同じように身体を揺らしてみる。「でもリリーってば、からかい甲斐があって飽きないよねぇ」
「えぇ、まったくです。君は、アルちゃん君だね?」
「惜しい。アルで止まっていれば花丸満点をあげていたんだけど、ちょっと余計なものが入ってる。アルフォース=ルビー、アルで良いよ。えっと、バルド、で良いの?」
「はい、リリーが話していた長的な者、バルド=プリズ――いや、バルドです」
吹き出してしまったアルフォース。咄嗟に出た言葉とは言え、まさか自分でギリギリを通り抜けると誰が思うか。アルフォースはそんなリリーに似ている部分があるバルドのことを好ましく思い、これからは外に出て、自分と交流してくれないだろうか。と、考えた。
「リリーが抜けているのはバルド譲りかな? あ、ちなみにリリーは俺たちの屋敷に泊まっているから安心だよ」
「そうですか……アル君、もしよろしければリリーをもう少し泊めてあげてはくれないかい? 私たちはまだやらなくてはいけないことがあるんだが、リリーがいては甘えてしまうからね。たまには自分たちの力で成してみたいものさ」
「うみゅ? でも、あんまり泊まっていると迷惑をかけちゃうよぉ。邪魔はしないよ」
「リリー、お前はもう少し外を見た方が良い。『みんなが幸せになる野菜』を作るにはまずは人を知らなくてはならない。私たちではそれを学べないだろう」
「むぅ、そう言われるとそうなんだけど――」リリーがアルフォースの顔をチラチラと見て、可愛らしく唸った。
「大丈夫だよ。それにカナデも帰らないだろうし、誰も迷惑なんて思わないよ」
「ありがとうアル君。それでだね、リリーの扱いなんだがフワフワの綿が敷き詰められた箱に寝かし、上から最高級シルクを――」
「バルド! もう知らない! 行くよアルちゃん!」
膨れ顔のリリーをクスクスと声を漏らしながら眺めたバルドが、わざとらしく肩を竦め、アルフォースに視線を投げた。
「ありゃりゃ『菜園』のお姫様はご立腹みたいだけど、追い掛けなくて良いの?」知っているということをこのバルドには知ってほしいと思い、アルフォースはバルドに聞いた。
「……いつものことさ。この歳になると――うん、娘にはめっぽう弱くなってしまって、弱みを見せないためについ意地悪をしてしまう。このように私は絶望的に女心がわからなくてね、未だに独身」バルドが反省しているのかが定かではない相変わらずの表情で話す。「ただ、リリーの幸せだけは願っている。これだけでは駄目なのが父親の辛いところなのだが、これ以外を見つけることが出来なくてね」
「子ども目線だけど、立派に父親をやっていると思うけどね。リリーは愛情の真ん中で育てられたって言っていたし、幸せを願ってくれているだけで十分じゃない?」
「そうだろうか……しかし、リリーが嬉々として君のことを話していた理由がわかったよ。アル君は優しい子だね」バルドがおどけた表情を止め、真っ直ぐとアルフォースを見つめながら尋ねる。「君は……知っていたのかい?」
尋ねられた問い――アルフォースは目を閉じ、思考を纏める。
言葉にするだけならば簡単である。しかし、バルドは錬金術師であり、リリーの『父親』である。ただの言葉だけでは意味がないだろう。
そこでアルフォースは思いつく。確かにバルドには知っていてほしいが、兵士と言う立場上、それを宣言することは憚られる。言葉にしてしまえば、それは自身の意思ではなく、兵士共有の意識に変わってしまうからである。だからこそ、アルフォースは一言一言、言葉を選ぶ。
「何が。が、抜けている問いにはわからない。何かを知っていたとしても、問いのない答えには答えられないよ。ただ、俺が言えるのはリリーは俺の友だち――世界がどうこう言おうとも、きっと俺には関係ないよ。俺は世界さんを知らないからね」パラパラと人の数が増えてきた中、アルフォースとバルドの間に流れる空気は異質なものであった。それは、勝利の余韻にも悪事を働いた者の雰囲気にも似ていて、曖昧であり、口元を歪めるバルドの表情には狂気すら感じる。アルフォースはバルドが問いの答えに満足してくれたのかと思ったが、それは誤りであり、ただ『安堵から湧き出た想い』であると予想する。「……何かを成そうとしている者の顔だね。一体何を――」
「アル君、リリーを……今後何があってもリリーを泣かさないであげてくれるかい?」
「さっき泣かしていた人が何を言っているの?」
「あれはあれだよ。私が言っているのは『本物』の涙のことだよ。あれはなかなか不器用でね……本物を隠すためにニセモノを演じていた。今では癖になってしまっただけだが、あれが本当に泣くことはあまり多くはないんだよ」バルドが、もの思いに耽りながら呟く。「出来れば、私たちが背負いたいものだがね――」
「ホンモノになりたい人もいるって言うのに……あとでお仕置きだなぁ。あ、そうだ! 家の場所を教え――」
「頼んだよ」
アルフォースの言葉を最後まで聞くことなく、バルドはリリーが歩いて行った道とは反対を進んでいった。
バルドの表情、雰囲気。アルフォースはその全てに違和感を覚えていたが、今日初めて出会った故に、それを確信づける証拠がなかった。しかし、それでも良いとすら思っており、出来れば、日を改めてゆっくり茶でも飲んで話をしたい。そう、考えていた。
アルフォースは公園入り口ではち切れんばかりに頬を膨らませているリリーの下まで駆け、とりあえず、鳴ってしまったお腹の音を何とかしたいと言葉にする。
「リリー、とりあえず、どこかで何か食べてこうか?」
「みゅ? うん、あたしは良いけど、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。残ってもカナデが食べるだろうし」アルフォースは昨日のカナデの食べっぷりを思い出し、自分たちの食事があったとしてもカナデが食べてくれるだろう。と、確信し、そのままリリーの手を引く。「さ、行くよ」
「うん。あ、バルド、何か言ってなかった?」
「ううん。ちょっとリリーの扱いを聞いただけにゃぁ」
「もう!」力強くアルフォースの手を握るリリーが、ハッとした表情を浮かべる。「あと、お嬢でもないからね!」
「わかってるわかってる」
【思考の海には八つ当たりを添える】
「で? アルとリリーは二人でランデブー?」
「リリー殿は巻き込まれただけだがな」
昨日、夕食を食べた場所で、カナデはアルフォースとリリーがいないことをヴィルナリアに尋ねていた。
二人がいない理由を聞いた時、確かに早朝に騒がしかったのだが、そんな理由で一度起こされたのかと思うと、多少の怒りをカナデは感じずにはいられず、この怒りをどこにぶつけようかと考えていた。
すると、扉から壁とも思える巨体、ヴィルランド=ロイ・レイブンが顔を出した。
昨日は酒の席であり、言いたい放題だったカナデであったが、やはり恐ろしく思う。魔法使いでもないのに、魔法使いからも認められ、それだけではなく『普通の魔法使い』とは違い、魔法による戦闘のプロなのである。それ故に、騎士王などと言われ評価されているこの老人が恐ろしくないわけがない。
「ふむ、二人ともおはよう」髭をさすりながら、ヴィルランドが挨拶をする。
「おはようございます」ヴィルナリアが立ち上がり、すぐに挨拶を返すと、申し訳なさそうな表情を浮かべる。「今朝は申し訳ありませんでした。少し、はしゃぎ過ぎたようです」
自分にその言葉はなかったのは贔屓ではないだろうか? カナデは一度頬を膨らませたが、ヴィルランドがいることを思い出し、言葉を飲み込む。
「……おはようございます」
「うむ――」カナデを見て笑みを浮かべたヴィルランドが首を傾げる。「結局、アルとリリーは外に行ってしまったのかぇ?」
「ええ、後で引きずって城に向かいます」
「良い良い」ヴィルランドが座ると同時に運ばれてくる朝食。それを見て、瞬時に表情を歪ませたが、すぐに戻す。「今日は二人とも城には来なくても良い。そのかわり、ちと頼まれてくれんかの?」
「はい」
アルフォースが朝食の準備をしていったのだろうか。パンにスープ、果物とサラダ――そして、サラダと果物には少し可愛らしいと思える文字で、『じいちゃんとヴィルは残さないように』と、書かれていた。
「抜け目ないのぉ」
「ええ、まったくです」ヴィルナリアが茶を一口すすり、ヴィルランドの言う用事について尋ねる。「御用と言うのは?」
「ふむ……お主らには、勇者殺害の犯人について調べてほしいのじゃ」
「おじい様――」ヴィルナリアがカナデに視線を向けながら、首を振る。
あの時、ヴィルナリアは外におり、すでにアルフォースから聞かされていたことを知らないのである。ここは驚いたふりをするべきか、カナデは考えたが、ヴィルランドが笑みを浮かべていることに気が付き、黙っていようと決めた。
「すでにアルから聞いておるじゃろ、そうじゃろ?」
「……ええ、昨日聞いたわ。僕が無理やり話させたわ」
「良い良い、アルはどうせ話すつもりじゃったじゃろうし、お主は無理矢理ではなく、アルを納得させた上で聞いたんじゃろ?」
「……」
年の功、もしくは親の勘。どちらにしろ、及ばないだろう思考の羅列を想像することをカナデは止め、静かに頷く。
「それと、一応撤回しとくがの、勇者はまだ死んでおらん」
「――? どういうことですか?」
それは初耳である。勇者が死んでいない? ならば何故、門を閉じたのだろうか。カナデは不思議に思ったが、およそ、犯人に目星が付いているのだろう。故に門を閉じたと予想するが、それにしては大がかりのような気もする。さらに気になったのが、生きているというのなら、あの勇者は閉じこもっていないで出てくるのではないだろうか。カナデは確信に至ることが出来ず、ヴィルランドの言葉を待つ。
「――とはいえ、時間の問題じゃがの」ヴィルランドがパンをかじり、どこか面倒そうな表情を浮かべる。「カナデ」
「は、はい」
「お主は、人が人でなくなった時、それを『生』と呼ぶかえ?」
質問の意味がよくわからなかった。生命と言うのは人だけではない。仮に、魔法や何らかの力で身体が変異し、それを生きてはいない。と、斬り伏せるのは些か、無理がある。しかし、ヴィルランドのニヤけ面がカナデは癪に思い、思考、脳の全てを総動員させ、求められている答えを導き出そうとする。
「……仮に」カナデは呟く。「僕が、感情も思考も失くしてしまったのなら、それは人形と同じよ。だけれど、人と言う括りであるのならきっとそれらを失くしても鼓動は止まっていないだろうし、血も流れるわ……つまり、僕は確かに『生きている』ことにはなるわ。もっとも、それに意味があるかどうかは別問題だけれど」
「ふむ……」ヴィルランドが首を傾げているヴィルナリアの頭を撫で、満足気に頷く。「お主、兵士にならんかのぉ?」
一日も経たない内に、二回も兵士に誘われたカナデは才能があるのかと思ったが、兵士に興味はなく、首を振る。
「昨日、アルにも勧誘されたわ」
「ほ~かほ~か。それで?」
「お断りよ」
「残念じゃのぉ」ヴィルランドはそれほど残念に思っていないかのように笑い、話を続ける。「ならば、やはり勇者は生きておるのぉ」
つまり、序列一位・魔狩りの英雄ヘイル=プリーシアは、動けず、最早『意味のない者』になりながらも、呼吸はしており、血を身体に巡らせているのだろう。
しかし、カナデはここで疑問を持つ。それが何なのか。と、いうことである。序列一位ともなれば、隙を突くのも難しく、倒すのなどさらに困難だろう。だが、現にそれが起きており、そんな『ヤバい奴』が街に潜んでいるということにもなる。
そもそも、意味もない者というのは、それほどまでにパターンがあるわけではない。先ほど言ったように、感情や思考を失くしていたり、もしくは、脳だけで生きていたりしているかもしれない――などなど、思いつくだけでも十もないだろう。しかし、勇者は強い、そこまでに追い詰められる者など、ここにいる騎士団長や同じく勇者、もしくは魔王だけである。
「……もしかして、捜しているのは魔王?」
「何故、そう思うんじゃ?」
「騎士団長は当然ながら除外。ここまで大事にはならないわ。次に勇者同士、これも除外ね。国が関わってもメリットがないもの。なら、残ったのは魔王か、今回で魔王になった奴だけよ」
「一度国の会議に、わしの代わりに出てくれんかのぉ」ヴィルランドがサラダの盛られた皿を端に避ける。「名を言っても良いが、魔法使いの十八番を取るのは忍びないからのぉ」
「情報が少な過ぎるわ。でもそうね、自分で考えた方が面白いもの」
「ヴィルナリアはここまででなくとも良いが、見習うべきじゃなぁ」
「うぐ――善処します」
およそ、判断のほとんどはアルフォースだったのだろう。どこか堅物な雰囲気のあるヴィルナリアは考えることが苦手らしい。
「まぁ、そうじゃな。ヒントじゃ、ヘイルは生きておる。しかし、それは人の思い込みであり、人ではあり得ないものじゃ。思い込みなどと言ったら、お主らの身近の者が怒るかもしれんがの」
抽象的すぎる。しかし、カナデは笑みを漏らした。それで充分なのである。
「あれが考える者の顔じゃぞ」
「俺には獲物を目の前にした狩人にしか見えません」
「そういうもんじゃよ」
カナデはサラダを頬張りながら、思考の海に潜る。しかし、ふと、視界の端で、ヴィルナリアとヴィルランドがサラダを徐々に端にやっているのが目に入り、その少しの動きが気になったカナデは青筋を立てる。
元々、何もない部屋で一人、考えることが多かったカナデはあらゆる動きや音、それどころか、現象全てが気になってしまい、一つのことに集中出来なくなる。
カナデは息を吐き、ヴィルナリアが退けているサラダの皿を手に取る。
「うん? カナデ――ッ!」
「鬱陶しい! さっさと食いなさい!」
「むぐ――」
サラダを鷲掴みにしたカナデは手ごとヴィルナリアの口に突っ込む。そして、手足をバタつかせるヴィルナリアの腹部に小さな爆発を起こす炎を何度も当て、次々と野菜を口の中に放り込んでいく。
「ふしゅぅぅぅ~~」
「ほ、ほぅ?」ヴィルランドが困惑の声を上げる。
「横でチラチラ鬱陶しいのよ。気が散る。考えられないわ!」カナデはヴィルランドの皿も掴むと、後退するヴィルランドをジリジリと追い詰める。「僕と食事を共にして残すのは許さないわよ? 今日の食事すら見つけるのが困難なのに、それを残すとかあり得ないわよねぇ?」
「ま、待っとくれ! わ、わしはあれじゃよ――そうじゃ!」手を叩き、ヴィルランドが従者に向かって叫ぶ。「お、お~い! わしは飯を食ったかのぉ? 食ったじゃろう? 下げて良いぞぉ――」
「あら、ボケたのね? しょうがないわね」
安堵の息を吐くヴィルランドを横目に、カナデは着ている浴衣の帯を解き、端を口に咥える。そして、前開きなった浴衣も気にせず、熱を込めた視線で、ヴィルランドの後ろに移動する。
「ま、待て! 女子(おなご)がそんなはしたない――」
「ボケちゃったのよねぇ? おじいちゃん、覚えている? おじいちゃん、ご飯を食べた後、縛ってほしいっていつも言っていたのよ?」
「ほ、ほぅあ?」
椅子に座るヴィルランドを後ろから帯で縛るカナデ。そして、思い切り縛られた帯に、ヴィルランドがジタバタと動くのだが、カナデは後ろから手を伸ばし、サラダ――特に大きく切られたニンジンを中心に手に持ち、それをヴィルランドの目の前に持ってきた。
「ま、待て、何をする気じゃ――」
「あら、忘れちゃったのね。おじいちゃん、僕を背中に乗せて、お馬さんごっこをしてくれるじゃない――」背中から抱きつくようにヴィルランドに乗り、空いた手でヴィルランドの顎を上げる。「馬は馬らしくニンジンでも食ってなさい!」
「むぐぁ!」
ヴィルランドの口に詰め込むカナデは、自然と笑みをこぼしていた。そして、アルフォースとリリーがいない一件のうっ憤もここで晴らそうと思い、厨房まで急いだのだった。
【天然系野菜売りは阿呆に昇格】
「――今、悪寒が」
「あっ、あたしもぉ」
一度、身体を震わせたアルフォースは何でもないような表情を浮かべるリリーの頭を撫で、今しがた走った身体の震えを癒し効果があるだろうリリーの笑顔で抑えた。
「さって、ご飯を探しに来たんだけど……」
アルフォースはバルドと別れた後、市場にやってきたのだが、この時間に市場に来ることは多くなく、どこで食べ物が買えるかを把握していなかった。それ故にここで店を構えているリリーに、どこで朝食が食べられるのかを聞いたのだが、案内された場所には店どころか人もいなかった。
「あれぇ? いつもはここでやってるのに……」
「ここ、ヤオヨロズの隣?」
アルフォースはこの場所に見覚えがあった。それは普段、リリーが店を構えている場所であり、確かに、パンに野菜、燻した肉や焼いた魚を挟んだ物が売っていた記憶がある。
「そうだよぉ」リリーが首を傾げ、辺りを見渡す。「むぅ、何だかお店が少ないかも……風邪でも流行ってるのかなぁ?」
リリーの言う通り、店が少ない。しかし、それは朝だからだと思っていたアルフォースなのだが、考えてみれば、朝食でも食べられるような物を売っている屋台が多く、朝から店を出さないのはもったいないはずである。
しかも、この場所に店を構えているリリーがそう言うのだ。実際に少ないのだろう。
だが、理由も何となくだがわかる。門は閉じられ、食材を仕入れることが出来ていないのだろう。しかし、それにしては少な過ぎである。特に飲食関係、魚や加工された肉は売っているのだが、調理された物が極端に少ないように、アルフォースは思えたのだった。
「むぅ、心配だよぉ」
「まぁ、昨日の今日だからね。しょうがないよ」
「だねぇ。ここのお店はね、いつもあたしのところで野菜を買って行ってくれるんだよぉ」
「……ん? それって――」
リリーに朝食に良さそうな店を聞いた時、「あたしの庭みたいなものだから」と、したり顔で話していたのだが、この状況で混乱しているのか、あちらこちらを指差し、その先になにもないことに気が付くと肩を落としていた。
「むぅ」
「ねぇ、リリー、ここで屋台を開いている人って、リリーのところで野菜を買ってくんだよね?」リリーが頷いたのを確認したアルフォースは、ため息を吐く。「何時ごろ買って行くの?」
「みゅ? えっと、朝早いよ。あたしが店を開いたら買って行ってくれるし」
やはり。アルフォースはリリーの頭を一撫でする。すると、背後から声がかけられる。
「ん? アル坊とヤオヨロズの嬢ちゃんじゃねぇか」
「お? あ、おっちゃんだ。おはよう」
「わぁ、和心のおじさんだぁ、おはようございますぅ」
「ほぃ、おはようさん」
そこには甘い物などの近くではあまり見ない菓子類を売っている屋台、和心の店主がいた。
「こんな時間にいるなんて珍しいな?」店主が、アルフォースとリリーを見ながら言う。
「みゅ? あたしは大体ここにいるよぉ?」
「リリー、おっちゃんは俺と一緒に朝からここにいるのが珍しいって言ったんだよ。リリーは朝から野菜を売っているんだし」
「そうそう。ってそうか。ヤオヨロズの嬢ちゃんはこの街に住んでいないんだったな。今はアル坊のところで厄介になってんのか?」
「うん! アルちゃんの家、大きいんだよぉ」リリーが満面の笑顔で言うのだが、すぐに萎れる。「……でも、家に野菜を取りに行けないから、お店を開けないんだよぉ」
「ああ、だからか――」店主が辺りを見渡しながら呟く。「朝飯食おうと思ったんだがな」
「うみゅ? あ、そうだ。おじさん、あたしの店の目の前でパンに野菜と燻製したお肉を挟んだ物を売っていた店主さんは病気で休んでるの?」
「は? あ~……嬢ちゃんは謙虚なのか、天然なのか俺には計り知れないな」店主が愉快そうに笑い声をあげるとアルフォースに視線を投げた。
「天然だよ。それだけは即答できる」アルフォースはリリーの頭に数回優しく触れ、リリーについて店主に話す。「紙一重のところでアホと競い合ってるのがリリー、逆に貴重過ぎて檻に閉じ込めておきたくなるよねぇ」
「みゅ! アルちゃん、それはどういう意味なのかなぁ?」
「言葉通りの意味だよ」リリーがアルフォースの胸に顔を埋めながら首を揺らすのをアルフォースは微笑みながら受け止め、揺れる髪の毛を押さえつつ尋ねる。「リリー、その店の食べ物は美味しいの?」
アルフォースが予想した通りなら、この抜けている商人は大事なことを忘れているのだと思う。自分がどの程度、この市場に影響をもたらしているのかを理解していないのである。
「美味しいよぉ。だって、あたしのところで野菜を買っているんだもん」
「ふむ」アルフォースは思った通りだ。と、店主と顔を見合わせる。「天然でしょ?」
「だな」
「みゅ? さっきからどうしたのぉ?」
「ねぇリリー、ちなみに今日は野菜が売られているのかな?」
「アルちゃんボケちゃったの? 今日はずっとあたしと――みゅ……?」
ボケているのはどちらなのかと問い詰めたいところだが、コロコロと変わる表情は見ていて面白く、アルフォースはニヤけが止まらない締りのない表情でリリーを見つめる。
「あぅ、えぅ……」顔を真っ赤にしたリリーが首を横に振りながら、アルフォースの胸を何度も叩く。「ち、違うんだよ! えっと、そう! 知っててやったんだよぉ」
「それはそれでどうなのさ。やっぱりリリーはアホだなぁ」
「さっきまで天然って言ってたよ! それで良いからアホは止めてぇ!」
「ついさっき天然はアホに張り倒されたから、撤回するにはアホを張り倒すしかないねぇ」
「あ、アホを……えっと、王様さんの家臣さんのことだよね! ちょっと殴ってくるよぉ!」
「それには同意だけど、ちょっと落ち着こうか。そういえばおっちゃんはこんなところでサボり? サボり連盟組んで労働組合に殴り込みかける?」
「お前さんと一緒にすんじゃねぇ。俺が売っている物はデザートだぞ、朝っぱらより昼の方が売れるんだよ。アル坊はあれか? レイブンの坊主にでも追いかけられたか?」
「おっちゃんは美味しいおやつを作るだけじゃなく、読心術も使えるのかぁ……憧れるわぁ」
「この場所にいないことを考えるとそれしか思いつかなかったからな。そんで、お前さんたちも朝飯探してぶらついていたのか?」
「そうそう、そのつもりだったんだけど、リリーに聞いたのが間違いだった。おっちゃん、何か軽く食べられる場所、知らない?」
そう尋ねられた店主が額に指を当て、数秒間考え込むと首を振る。「市場にあるファーストフードを出してる出店のほとんどは嬢ちゃんのところで野菜を買うこと前提でメニューが作られているからなぁ……」店主が腹を押さえ、困ったように笑う。「俺も腹ん中に何か入れようと思ってたんだがなぁ」
店主の言葉にリリーが口元を緩め、嬉しそうな表情で「えへへ」と、笑みを浮かべており、アルフォースはそのおかげでこの状況を招いたことを理解していないリリーに皮肉を一つ。
「そうか……リリーのせいで俺は朝飯に辿りつけなかったのか」
「うみゅ! ち、違うでしょ! 勇者さんをころ――むぐぐ~」
アルフォースはリリーの口を塞ぎ、店主の顔をチラリと見ると「あはは……」と、苦笑い。一応、秘密にしなくてはいけないことであり、特に商人や冒険者、勇者には言わない方が良いことであろう。
「……まぁ、そんぐらいのことじゃなきゃ、街を封鎖するわきゃぁないからな。道理で兵士に聞いても煮え切らない答えが返ってくるわけだ。上の奴らしか知らんのか?」
「あ~、その、おっちゃん?」アルフォースは頭を掻きながら、店主に口止めをしようとする。
「心配すんな。俺は口が堅い、それに事が事だし、誰に聞かれても喋んねぇよ」
「おっちゃんあんがと。ほら、リリーもお礼言って!」
「あひはほうほはいはふ」口を塞がれたままのリリーが、ふがふがと言葉を発し、店主に向かって頭を下げた。
「アル坊……せめて離してやれ」
アルフォースはリリーの口から手を離すとお腹を鳴らして、餌を待つ子犬のように店主を見つめる。
「そんな顔で俺を見られてもなぁ……ないことはないが、少し歩くぞ?」
「そんくらい大丈夫! リリーに任せるよりずっとマシ!」
「アルちゃん、さっきからひどくないかなぁ?」リリーが涙目になって頬を膨らませた。
「お前さんたち仲が良いなぁ。とりあえず市場から出るぞ。冒険者や下級の勇者たちが使う宿で、この時間に空いているところがある。味も悪くはないぞ」
「おぉ、そういう店って行ったことがないんだよねぇ……武器、持ってくれば良かった」
「お前さんは何をしに行くんだ……ちなみに喧嘩なんかすりゃぁ、店主にボコられるぞ」
「え? あ~、違う違う、移動手段的にあったら良かったなぁってだけだよ。俺の魔法は移動するのに便利だから、速く行きたかったってだけ」
「アルちゃんの魔法? ヴィルちゃんとは違うの?」
「うん、ヴィルの魔法はあんな感じでしょ? じいちゃんも似たような魔法を使ってるんだけど、俺には合わないみたいなんだよねぇ」
レイブン家の二人が使う魔法は、今朝、ヴィルナリアがやったようなマナからの武具生成であり、あらゆる属性の武具を作り出すことが出来る。アルフォースももちろんヴィルランドに習ったが、剣や鎧の形にはならず、結局諦めた。と、いうより、訓練に飽きてしまったのである。
「あんな特殊な魔法を教えてもらって、少しでも使える時点でおかしいと俺は思うんだがな」
「ヴィルだって使えるよ。どうやったら剣とか鎧とか足袋とかになるのか、考えるのが面倒になるよ。だから俺は精々、単純な形、丸とかの形しか出来ないんだぁ」アルフォースはヴィルナリアが幼い頃から訓練に打ち込んでいる姿を思い出す。「ヴィルは凄いよねぇ」
「あの坊主は努力家だろう? お前さんが見てないところで散々苦しんだ筈だぞ」店主がアルフォースの額を指で弾き、苦笑しながら話す。「天才と凡才を同じ括りで見ちゃいかん」
「誰が凡才だぁ!」
「お前さんのことを言ったんじゃねぇよ……」
「だから怒ってるんだよ」
「仲の良いこった」店主が呟いて、アルフォースの頭を撫でた。
「う~ん、アルちゃんに錬金術を教えたらすぐに越されちゃうかなぁ?」
「教える気だったの? リリーが教えてくれるんならやってみても良いけど、まったく知識はないからなぁ……うん、ちょっと興味出てきたかも」
「ふふふ~ん、これでこんな事態になっても大丈夫なように、アルちゃんのお家に畑二号が作れるよぉ。師匠って名目ならきっと許されるはず!」
「……嬢ちゃん、意外としたたかだな」
城から街の入り口まで続いている大通りに出たアルフォースは、欠伸をしている冒険者たちを尻目に、店主の案内で目当ての店に歩いて行く。
「何か、みんな暇そうにしてるなぁ……俺もああやってグータラしたい」
「お前さんはいつもグータラしているだろう。街の外に出られないからやることがないんだろうよ」店主がガラの悪そうな冒険者の視線から、アルフォースとリリーを庇うように歩く。「まぁ、お行儀よくぶらついてくれているだけマシだ。兵士や城に抗議されても面倒だろうし、そんな不祥事をわざわざ言うとは思わねぇしな」
国で起きたことは国の問題である。例え、その国に関係のない者たちが被害者であり、加害者であろうとエルジェイムで起きた事件はエルジェイムの責任というわけであり、勇者という社会的に強い立場、さらに序列一位というヘイルが死んだことは普通の国であるなら、隠さなくてはいけない真実である。
アルフォースは勇者と魔王と言う制度を改めて面倒だと思い、今朝の話ではないが、それをなくすために騎士団長になるもの良いかな。と、考えたが、すぐに頭を振り、店主の後を歩く。
「じいちゃんも大変だなぁ」
「あのじい様なら気にしねぇと思うがねぇ。まぁ、俺たちが考えても仕方がねぇだろ」
「そうだねぇ……それより、お腹空いてそろそろ辛いんだけどまだ歩くの?」
「あ? もうそこだよ。ほれ、あそこのクソボロいオンボロ宿。店主の口はワリい、愛想ワリい、物が古いの三拍子だが、慣れりゃあそこそこ」
「何か厳ついのが出入りしてるねぇ」
「まぁ、店主がそういう性質な奴だからしょうがねぇよ。取って食われることはないと思うが、弱みを見せねぇ方が無難だな」
アルフォースは店主に案内された宿屋『隻眼の黄昏』を見上げた。
カナデの家よりオンボロではないが、所々、木が古くなっているのか、黒く変色しており、出入りする者がいると、扉が軋む音がした。
アルフォースはそんな宿屋を見つめ、頭に走る直感。途端に、口角を吊り上げ、笑みを浮かべる。
「みゅ?」
【黄昏に向ける確かな敵意】
「ん? 和心か。随分と綺麗な餌を連れてきたじゃないか」
店主に促され、店の中に入ると一斉にこちらに視線を向けてくる客と、この宿屋の店主らしきテーブルに立つ男。その男の身体は鱗で覆われており、大きな尻尾、牙を携えた口の竜族の男。
その竜族の男が、アルフォースとリリーを餌と呼び、大きな口から見える牙を向けてきた。アルフォースはそんな竜族に対して、一瞬青筋を立てるのだが、店主が先に前を歩き、呆れたような口調で、その男を睨む。
「店の名前を俺の名前みたいに呼ぶんじゃねぇ」店主がアルフォースとリリーにテーブルに座るように招くと、竜族に対して警告する。「ただ飯を食いに来た客だ。アギト、あまり変なことはするなよ?」
「相手次第だな」アギトと呼ばれた隻眼の竜族が、牙をむき出しにしながら、周囲にいるガラの悪い連中に一瞥を投げる。
「――ッ! お前な――」
店主が舌打ちをしたことで、アルフォースはこの店にはこの店のやりかたがあるのだろう。と、察知した。しかし、それを素直に聞くような性分ではないため、リリーの手を引き、テーブルに座るアルフォースはアギトを一度鼻で笑い、周囲をどこか小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「リリー、あの竜族、絶対に『うっ、落ち付け! 俺の右目』とかってやるよ。リリーはどう思う?」
「みゅ? えっとねぇ……」周囲から向けられる敵意を気にした様子のないリリーが、思案顔を浮かべた後、手を叩く。「竜の爪とか皮膚って、錬金術でも凄く貴重なんだよぉ。くれないかなぁ?」
緊張感のない幼い声が宿屋に響き、周囲の客が呆然としたのをアルフォースは感じとった。このような場所で、アギトの言う『餌』になることはあまり良くはない。何故なら、それで足を掬われてしまった場合、きっと抜け出せなくなる。もっとも、このアギトと言う男、そこそこ厄介な相手なのである。
「ねぇ、竜族のおっさん、ちょっと右目を押さえながら蹲ってみてよ。客が喜ぶぞ」アルフォースはアギトを挑発的な表情で睨み上げ、注文をする。「牛乳ちょうだい」
「あのぉ、ちょっと爪を切ってきてくれると嬉しいなぁ? ゴミになるのならあたしが貰うよ」リリーが頬を赤め、両手をアギトに向け、おねだりする様な声色で言う。「あ、あたしは野菜なら何でも良いよぉ」
「……」アギトが頬を引き攣らせ、アルフォースとリリーに視線を投げた後、店主を睨みつけた。
「俺は悪くねぇぞ、最初に喧嘩を売ったのはお前なんだからテメぇで対処しな」
「……おいガキども、ここでは俺がルールだ。覚えておけ」
「ガキでも餌でもない、アルフォース=ルビーだ。覚えておけ、おっさん」アギトがアルフォースの頼んだ牛乳を机に叩きつけるように置くと、アルフォースはそれを呷り、同じようにカップを机に叩きつける。「不味い!」
相手を小馬鹿にした笑みを浮かべるアルフォースは鋭く重い視線で睨みつけるアギトを鼻で笑う。すると店主が頭を抱え、ため息を吐くと別の客が飲んでいた水のコップを手に持ち、アギトに向かって水をかけた。
「……何のつもりだ?」
「大人げないぞアギト。アル坊も相手を量るために挑発するんじゃねぇ。とりあえず、軽く摘まめるもんを三つ、宿屋の主ってんなら愛想良く飯くらいは持ってこい」
「……クソが」アギトがそう悪態吐きながら調理を始めた。
「まったく。アル坊、ここでは大人しくしていてくれ。お前さんに何かあったら、実質トップのじじいとその孫が俺を殺しに来ちまう」
「は~い。ごめんよぉ、えっと、アギトで良いんだよね? よろしく」あっけらかんとアルフォースはアギトに手を伸ばし、握手をするように求めた。
「……食えん奴め。アギト=クオンだ。アルフォース=ルビー、噂はかねがね。レイブン家の片割れ。聞いていた通りにガキだな」
「それはどうも、黄昏の情報屋さん。聞いていた程、大したことないね」
アルフォースはアギトを黄昏の情報屋と呼んだ。
「……」
「……」
「止めろっつってんだろうが! ったく……それよりアル坊はアギトのことを知っていたんだな。まぁ、この口の悪さとやっていることを考えれば当然か」
「俺の管轄じゃないから見逃してあげるけどね」
「うみゅ? アルちゃん、アギちゃんは悪い人なの?」
「うん? じいちゃんは問題視していないようだけど、どこからともなく極秘情報や国家機密を調べて、金さえ積めば誰にでも情報を売っちゃうような、一部には迷惑極まりない竜族だよ」
黄昏の情報屋。欲しい情報を欲しいタイミングで売りに来る情報屋、一部の者にしか顔を見せず、それ以外にはまるで歪んだ水面のように無貌の姿で現れる。故に黄昏、誰も彼もがわからない曖昧な名を付けられたのである。
「じいちゃんがわかりやすく特徴を言っていたから、一目見ただけでピンときたにゃぁ」
「あのじじい……普通、孫に話すか?」
もちろん、アルフォースはヴィルランドから聞いたわけではない。ただ、竜族というのは以前、ヴィルランドが話していたのを聞いてしまったこともあり、それだけは知っていたのだが、確信。と、いうより、そう予想した理由は勘であったが、祖父の名前を出すことにより、アギトが折れたことで、確信に変わった。
アギトが頭を抱え、野菜のスープとバゲットをアルフォースたちの目の前に置いた。
「まぁ、じいちゃんからは『何かしたならしょっ引いて良いから』って言われてるんだけど、どうしよっかにゃぁ」アルフォースはスープを口に運び、ニヤニヤとしながら呟く。「おぅ……案外美味い」
「……小僧、何が望みだ?」
「勇者を殺った奴の特徴。誰って聞くわけじゃないんだから格安で良いよね?」
「アルちゃん、話しちゃダメって言ってなかった?」
「もう知られてるでしょ。いやぁ、まさかおっちゃんにこんな良いところに連れて来てもらえるとは思わなかったよ。まさに棚から牡丹餅だねぇ」
アルフォースの言葉にアギトがさらに機嫌を悪くしたのか、青筋を立てて、店主に殺気にも似た雰囲気で睨みつけたのがわかり、アルフォースは店主の肩を叩く。
「……俺は被害者じゃねぇか?」
「貴様が連れてきたことには違いないだろう」アギトが店主に出すはずだった料理に、唐辛子の粉を大量に入れる。「良いだろう。しかし、いくら特徴といえ、貴様が求めている情報を格安で売ると思うか? 足元を見るのが仕事なんでね」
「しょっ引くぞ? じいちゃんが言ってたんだけど、不法侵入当たり前、何度も見逃したって。次は捕まっちゃうかもね。じーちゃんが『しょっ引いたらしょっ引いたで、わしの直属の部下にして飼い殺す』って言ってたよ」
「……貴様、曲がりなりにも兵士だろう。悪人を恐喝するとは何事だ?」
「個人的なことだからねぇ。ちゃんとした仕事で動いている時は幾らでも払うよ。せっかくの新規顧客なんだ、お互い腹ん中っていうか、切り札をぶちまけちゃおうよ」
「……」アギトがため息を吐くと両手を上げ、諦めたようにため息を吐く。「わかったわかった。良いだろう。俺にとってマイナスになるような話をじじいにしないと誓うんであればタダで教えてやる」
「やた~、言ってみるもんだねぇ。良いよ、アギトにマイナスになるような話をじいちゃんにはしない! 俺は嘘を吐かないことでヴィルの次に有名だからね」
「貴様が嘘を吐かないかどうかはこれから見定める」アギトは知っている情報を話し出す。「良く聞け。犯人は複数、しかし、実行したのは一人の男性。理由は勇者の泊まった部屋にあからさまに残された土に男の物と思われる足跡と部屋の外には同じように残った土と複数の足跡。騎士が調べる前に掃除されたがな」
抽象的な話ばかりに違和感を覚えたアルフォースだが、知りたかった情報が手に入り、特に考えることもせず、アギトの話を聞いた。
「……うん、それだけ聞ければ満足かなぁ。アギト、ありがと――」
「まだあるだろう? 貴様がもっとも知りたいことを俺はまだ話していないぞ」アギトが牙をむき出しにしてアルフォースを挑発するように言葉を放つと、視線をリリーに一度向けた後、愉快そうに笑う。「誰かに売ることもあるかもしれんから名は出せんが、どこかの小娘は一切この件に関わっていないぞ」
「……そう」
情報の出し方に違和感を覚えた理由、それはアギトがアルフォースの欲しい情報を知っていたからである。故に、実行した犯人を『見て』いようとも、それを口にはしなかったのである。でなければ、足跡だけで実行した者が一人とはわかるはずもない。
アルフォースは、危険だ。と、思考を臨戦態勢に移行した。そして、リリーの腕を掴み、立ち上がらせると空いた手の骨を鳴らし、顔を伏せ、息を吐く。失くすわけにはいかない。渡すわけにもいかない。アルフォースは普段、見せることのない戦いの気配を纏う。
「みゅ?」
「アル坊――?」
アルフォースは店主に短く「ありがと――」と、声をかけ、歩き出し、リリーを店の外にやると、振り返る。
「――ッ!」アギトが持っていたカップを落とすと、店内にはその陶器が割れた音が響き、静まり返った。
「アギト……」アルフォースは囁くような声で、アギトを呼ぶと目を見開き、言い放つ。「お前がどこまで知っているかは聞かないでやるけど、もしも俺の身近な奴の幸せに関わるようなことを商売の道具にしたら……殺すぞ」
空気は一瞬にして刃となり、アギト、店主を除く生物が重く鋭いアルフォースの放つ空気に恐れを抱いたのがわかる。
ある者はカップをカタカタと揺らし。ある者は腰に携えた剣に手を添え、脂汗を流しながら剣の抜き方を忘れてしまったかのように動きを止め。ある者はパクパクと口を動かし、水の入ったカップに手を伸ばしたのだろうが、空を切り、何もない場所で手を振っている。
「……道化め」アギトが引き攣った表情で呟き、姿勢を低くしてアルフォースと同じように、戦いの気配を纏う。
アルフォースはアギトの下まで、無言で、一歩を重く踏みしめながら向かって行く。すると、頭を抱えていた店主が、大きく息を吸ったのが見えた。
「馬鹿者ども!」
その声は静寂を切り裂き、宿全体を覆うような喝の入る怒声。アルフォースはそんな店主に首を傾げながら視線を向けると、ハッとした。
今まで、見たこともない哀しそうな表情の店主、アルフォースは自分が放った言葉と、やろうとしたことを後悔する。
「アル坊、こいつの何に怒ってんのかは話の流れで理解出来た。ったく、安い挑発に乗るんじゃねぇよ。でもま、心配すんな! こいつには一切そのことを喋らせない。俺が保証する……だからよぉ、俺が作った菓子を食った時みたいに笑ってろや」店主がそう言ってアルフォースに近づき、頭を乱暴に撫でると、ポケットから大福を取り出し、アルフォースの手に乗せる。「デザートで食うつもりだったんだがな」
「……あぅ」 アルフォースは手に乗せられた大福と店主の顔を交互に見つめた後、ビニールで包装されていた大福を取り出し、口の中に放り込み、笑顔を浮かべる。「美味しい……」
「アギト、お前さんもいい歳だろう? 少しは考えて発言しろ」
「……」アギトがどこか落ち着かない様子で、店主に頭を下げる。「少し、調子に乗り過ぎたな」
「ごめんね、おっちゃん。それと、アギト……ちょっと頭に血が上った、ごめん」
「……俺は、まだこの街に住んでいたいからな。良いだろう、その内容について、俺は何も知らないし、調べることもないだろう。こちらも戯れが過ぎたようだ。すまん」
アルフォースはアギトの言葉に頷き、手を振るとそのまま宿の扉に触れる。出る間際、店主から「後で菓子買いにこいよ。おまけしてやるから」と、言葉を投げられると今日一番の笑顔を浮かべる。
【選択を果実酒とともに流す】
カナデは周囲からの視線を意に介さず、片手で大きな『塊』を引きずりながら、冒険者たちが集う宿屋や冒険者たち用の武器屋などが並ぶ場所を歩いていた。
通行人がカナデの顔を見てギョッとした表情を浮かべているのにも気が付いているが、カナデの頭の中はそれどころではなく、舌打ちするのも忘れ、ただただ、その二つの目標を見つけるために、重いと感じながらも『それ』を引きずっているのである。
ふと、その片割れが宿屋から出てきたことに気が付く。
カナデはその場に『塊』から手を離し、宿屋の名前も見ることもせず、その片割れが呆けた表情をしているために、背後から近づき、口角を吊り上げ、最早、憎んでいるとも言っても過言ではない片割れの二つの大きな『山』を鷲掴みにする。
「ひゃぁぁ!」
「リリーぃぃぃ……」カナデはリリーの胸を掴むと、そのまま引きずり、宿屋の傍の物影に移動する。「リリーぃぃ、僕が大変な時に、良い御身分じゃないの」
「みゃ! か、カナデひゃん!」
カナデはリリーに馬乗りになると、両指を忙しなく動かしながら、リリーの耳、頬、首、腹、足の付け根――と、順番に触れていき、最後にニヤけた表情で、胸を揉む。
「ひゃ――みゃぁぁぁぁぁぁぁ!」リリーが可愛らしく叫んだ。
ぐったりとしながら、身体を震わせているリリーに、満足気に頷くカナデ。すると、今のリリーの叫び声を聞いてやってきたのか、もう一人の目標が、顔を引き攣らせ、こちらを見ている。
「……」
目標、アルフォースがこちらの視線に気が付き、回れ右をして、その場から去ろうとしており、カナデは右手にリリー、左手に塊――ヴィルナリアを掴みながら、ゆっくりと身体を立ち上がらせる。
「あ~る~ふぉ~す~」
「ちょ、ちょっと待って! 話をしよう」アルフォースが肩を竦め、相変わらずの余裕顔で言う。「俺が何をしたのかはまだ定かではないけど、それはきっと誤解だよ。だから、ちょっと落ち着こう? せっかくの可愛い顔が絵本にあるような魔王みたくなって――」
カナデはアルフォースが言い終わるより先に、右手に魔力を込め、生成した炎の鳥を投げつける。
「……いやぁ、カナデちゃんは今日も可愛いにゃぁ、世の男たちはその可愛さにもう骨抜きだよぉ。よ! 世界一可愛いカナデちゃ――」
「ぶっ殺す!」
わざとらしい表情と声色、思ってもいないことを言っているアルフォースに、カナデはさらに怒りの炎を滾らせ、周囲に人がいようが、建物があろうとも、炎の鳥をあちこちへと投げる。
しかし、アルフォースがそれを難なくかわしており、カナデは一瞬、大きな魔法を使おうと思ったが、アルフォースに背中を「どーどー」と、さすられ、両手に込めた魔力を引っ込める。
「ふぅぅ~……僕は馬じゃないわよ!」
「暴れ馬の方が可愛げがあったよ?」アルフォースがカナデの背中から抱きつき、頭を撫で、カナデの機嫌の悪い理由を尋ねる。「それで? なんでそんなに機嫌が悪いのさ?」
「何で。ですって?」カナデは今朝のことを思い出しながら、アルフォースが首に回してきた手を抓る。「あんたがリリーとランデブーしている間、僕は大変だったのよ? ジジイとクソガキの世話、ちゃんとしなさいよね?」
首を傾げるアルフォースにカナデはため息を吐き、ぐったりとしているヴィルナリアを指差す。今朝のことだが、ヴィルナリアとヴィルランドが一度目に突っ込んだ野菜を飲み込んだ後、カナデは屋敷中の野菜を集め、従者に止められるまで延々と口の中に野菜を詰め込んだのである。その際、無心になれたことで、頭が冴えたように思えたカナデは、今後、考え事がある時はストレス発散を兼ねて、ああいうことをしながら考えようと決めたのだ。
「……カナデ、顔が怖い」
「っと、失礼」
顔に出てしまっていたことをカナデは恥ずかしく思い、すぐに普段通りの顔になろうと、笑顔を浮かべてみる。
「……怖いって」
「失礼ね。これでも笑っているのよ?」
「狩りを終えた狩人が、夕飯の献立を考えている時みたいな顔してたよ?」
「今夜は鹿鍋よぉ。って?」
「諸行無常……」
アルフォースがどこかの言葉を呟いていたが、カナデは気にせず、リリーの頬を数回叩き、アルフォースを手招く。
「見てみなさい。あんたたちの勝手な行動のせいで、苦しんだ人がいるのよ」
「え? これ、俺のせいなの? リリーに至ってはとばっちりだよね?」
「うるさいわね。リリーがアホみたいに呆けた表情で山を揺らしていたから、我慢出来なかったのよ。というか――」カナデはアルフォースとリリーが出てきた宿屋の名前を見て、表情を歪める。「あんた、リリーをこんなところに連れてくるなんてどういうつもりよ?」
「え? ここって、そんなに危ないの?」
カナデはその宿屋に入ったことがあるわけではないが、ここを通る度に、人相の悪い男やリリーのような一般人が近づくのを躊躇ってしまうような者たちが多く入って行くのも見たことがあり、そんな危ないかもしれない場所に、アルフォースはまだしもリリーを連れていくのは危険だと話す。
「リリーは見た目で鴨だと思われるんだから、気を付けなさい」
「う~ぃ。でも、おっちゃんに連れて行ってもらったから大丈夫だったよ」アルフォースが宿屋、隻眼の黄昏について話しだす。「……うん、確かに人相は悪かったけど、普通にしてれば何もされなかったよん。店主も見た目で損してるタイプだと思うほど、話のわかる竜族だったし、俺にとっては普通の宿屋だったにゃぁ」
「……」どこか含みのある言い方にカナデはジッとアルフォースの顔を見つめる。しかし、苦笑いを浮かべており、カナデは追求するだけ無駄だと判断する。「そう」
「えっと……っと、そうだ」アルフォースがヴィルナリアの頬を叩く。「お~い、ヴィル、今日の仕事をサボる気? 俺はもう面倒だからサボるけど――」
「サボらせるわけないだろうが!」ヴィルナリアが跳ね起き、アルフォースの頬を摘まむ。「お前がいなかったおかげで、俺とおじい様がどんな目にあったか」
「いふぁいいふあぁい」アルフォースがヴィルナリアの手を振りほどくと、半目で睨む。「そもそも、ヴィルとじいちゃんは野菜をだね。まぁ良いや。こんな時間に行っても怒られるだけなんだから、今日はサボろうよぉ」
「……おじい様からの伝言だ。『今日は訓練の方は良いから、勇者の件の調査、任せた』だ、そうだ」ヴィルナリアがアルフォースの手を掴むと、そのまま引きずって行こうとする。「お前が何を考えているのかはわからないが、おじい様からの指示だ。逃がさんぞ?」
「や、やだぁ! 今日はのんびりするんだぁ!」
ヴィルナリアが暴れるアルフォースを引きずり、去っていくのを眺めたカナデはリリーと顔を見合わせ、その背中について行こうと、歩き出す。
兵士としてのアルフォースとヴィルナリアを見たことがないカナデだが、あの様から察するに、あまり普段と変わらないと予想する。
「ヘイルが泊まっていた宿を調べるぞ」
「ヤダヤダぁ、宿屋ってあそこだろう? 絶対に何も残ってないから」
ヘイル=プリーシアが泊まっていた宿屋、即ち殺害現場である。もっとも、それは予想なのだが、そうでなければ今ごろ『誰かが死んだ』もしくは『何かしらの意味のない人がいた』などの噂が立っているはずである。
しかし、幾ら宿屋だろうと、噂と言う物は風よりも速く、周囲の人々の耳を撫でる。それすらないということは――カナデは噂程度で聞いたことがある宿屋を思い出していた。
「それでも探す」ヴィルナリアが固い意志を込めた瞳で、アルフォースから手を離す。「おじい様が、この件は俺たちで答えを選択しろ。と、言ったんだ。きっと、お前が何かを嗅ぎまわっていることに対してなのだろう? それならば、最後までやり通すべきだろう」
「むぅ~。でも、俺はもう満足したんだもん。調べることもなくなっちゃったし……」アルフォースが不貞腐れたようにカナデとリリーを指差す。「そもそも、後ろで興味深そうについて来てる一般人も連れていくつもり?」
やはり、仕事中に邪魔するのは迷惑だっただろうか? と、カナデは考えたが、今さらだろう。と、リリーに高い声で話しかける。
「兵士の仕事を間近で見ることが出来るなんて、あまりない経験よね?」
「だよぉ。何だか、緊張してきちゃったよぉ」
「……二人とも、今から仕事なのだが」
「高い給料をもらっていて、無能な働きぶりだったのなら、どうしてくれようかしら?」
ヴィルナリアの言葉を遮り、カナデは畳みかけるように早口で言った。実際、兵士の仕事に興味がないわけではない。普段は街を散歩しているか、自身の研究の邪魔をしたいのか、何度も扉を叩くことしかしていない兵士が、どのような仕事をしているのか、気にならないわけがない。もし、大したことをしていないのなら、今日の晩御飯で、ヴィルナリアとヴィルランドに地獄を見せてやろう。と、カナデは薄く笑う。
「――ッ!」ヴィルナリアが身体を震わせた。そして、諦めたようにため息を吐くと、了解しながら歩き出す。「……くれぐれも邪魔はしないようにな?」
リリーならまだしも、自分がそのように他人の邪魔をするようにヴィルナリアには見えているのだろうか? と、カナデはむっと顔を浮かべた後、ため息を吐きアルフォースの脛を蹴る。
「何でさ!」
「そもそも、あんたが朝いればこうはならなかったわ」
「それは一理ある」ヴィルナリアがアルフォースの頬を摘まむ。
「う~、う~」アルフォースが腕を回しながら、ヴィルナリアから離れた。
ヴィルナリアについて歩いて行くと、そこは貴族街寄りにある商業区の一角――その宿屋を超えて先を見ると、大きな屋敷や特に必要のない門番を置いている門がある屋敷などなど、カナデにとっては癪でしかない場所が見える。
噂で聞いたことがある宿屋。曰く、金持ちが集まる。曰く、宿屋内では私闘を禁じる。曰く、いかなる事柄が起きようとも一切を公開しない。などの噂があるのだが、今回の出来ごとで、カナデはその噂を確信した。そもそも、私闘を禁じているにも関わらず、一切を公開しないというのは如何なものだろうか? カナデは呆けているリリーと普段通り気難しさを顔に張り付けているだけのヴィルナリアを眺めた後、アルフォースと同じように、顔を歪める。
「この高級そうに見えない外観が胡散臭いんだよねぇ」
アルフォースがそう呟いたのだが、カナデも概ねその考えを持っている。しかし、違うところを挙げるとするのなら、外観ではない。と、いうことである。外観などと言う物は見る者。つまり、千差万別。胡散臭いことには同意だが、カナデはそれ以上に、この場所に、基本的に冒険者が利用する宿屋があることに胡散臭さを感じずにはいられなかった。
貴族街のすぐ傍、貴族の客相手の商売だとしても効率が悪く、そもそも貴族が呼んだ客ならば、自宅に泊めるのが一般的である。しかし、そうではなく、金持ちの冒険者や勇者、およそ、この場所で成されることもあると考える。貴族でもないカナデにとってそれは想像でしかないが、訝しむには十分の理由である。
そして、その胡散臭い宿屋でヘイルは死んでいたのである。アルフォースが言ったように、すでに証拠は何もなく、もしかしたらヘイルが泊まっていたという事実さえも隠されてしまったのではないだろうか? カナデはこの場所についてきたことを後悔し始めるが、ヴィルランドから出されたどの魔王か、という問いを知りたいがために、回れ右したくなる衝動を抑える。
「外見より中身と言うことだろう。従業員は一流だと聞いたことがあるぞ?」ヴィルナリアが感心したように言う。
「ああ、なるほど、自分の身の回りのことも出来ない奴が泊まる宿なのね」
「特にヴィルとじいちゃんは、野菜も出なくて喜ぶかもねぇ」
カナデの皮肉に、アルフォースが皮肉を被せた。
「う~ん?」すると、リリーが首を傾げた後、笑みを浮かべるアルフォースと顔を引き攣らせるヴィルナリアを見る。「案外、小さいんだねぇ。アルちゃんとヴィルちゃんのお家の方が大きいし、従者さんはみんな良い人だよぉ」
リリーの言葉に、アルフォースが声を上げて笑う。
カナデもそれに続くように腕を伸ばし、リリーの頭を撫でた。まったくもってその通りである。ヴィルナリアの言う通り、従業員は一流なのだろう。しかし、周囲から見たら一流である騎士団長の家がこんな宿屋より優れていないわけがない。カナデはそんな家に泊まったのだ。この程度の宿屋にどんな想像を馳せようとも、それが覆ることはない。リリーは少し抜けているが、シンプルな考えを口に出来る分、案外、本質を見ているのかもしれない。と、カナデはリリーが錬金術師であることを思い出した。
「……まったく」ヴィルナリアが咳払いを一つ。「今からヘイルが殺害された現場に行くんだぞ? もう少し、気を引き締めてだな――」
「先生、お菓子はいくらまで?」アルフォースがニヤけて言う。
「薬草はご飯に含まれるわよね?」
「スイカは野菜だよぉ!」
「……お前たち」ヴィルナリアが頭を抱えたが、すぐに諦めたように、宿屋に向かって歩き出す。「アル――と、カナデ。ここはどんな意味でも平等な場所だ。くれぐれも、短気な真似は起こさないように」
何故、自分も名指しで呼ばれたのか、カナデはそれを考えようとしたが、形式的なことなのだろう。と、ヴィルナリアの膝を一度蹴り、後に続いて宿屋に入る。
宿屋の中に入ると、外観とは違い、高級そうなシャンデリアが出迎えてくれ、汚れとは一切無縁と言うような光沢のある壁。そして、無表情を張り付けたまるで人形のような従業員。
確かに、こんなところに宿泊したのなら、意味のない者に成り得るだろう。と、カナデは感想を抱いた。
「ご宿泊でしょうか?」色のない声で、色のない表情の男がヴィルナリアに尋ねる。
「いや、見ての通り俺たちは兵士だ。これだけで察してくれると助かるのだが?」
「……申し訳ございません。この場所は、如何なる者だろうと、介入を許されては――」
「ヴィルナリア=ロイ・レイブン、俺の名だ」
「……」
男の表情が一瞬曇ったように見えた。如何なる者、そう自分たちのルールを作ったところで、絶対的な物は存在する。それが、騎士団長なのである。
カナデは、ヴィルナリアも人が悪い。と、思ったが、このような場所なのである。強制力を働かせでもしない限り、首を縦に振ることはないのだろう。
男が渋々とヘイルが泊まっていただろう部屋の鍵をヴィルナリアに手渡した。そして、さっさと奥に引っ込んでしまった男に、ヴィルナリアがため息を吐き、振り返る。
「まったく、おじい様でもない限りここの連中は協力してくれそうにないな」すると、ヴィルナリアが視線をあちこちに彷徨わせ、頭を抱え、リリーを見つめる。「……リリー殿、アルは?」
「みゅ?」
カナデはヴィルナリアの視線を追い、リリーを見る。そして、気が付くのだが、リリーの手には『ハズレ』と、書かれた紙を持たされており、先ほどまで一緒にいたアルフォースの姿がなかった。
「えっと、アルちゃん、お手洗いに行くからこれを持っててって。って、ハズレ?」小首を傾げるリリーが、持たされた紙の裏表を意味もなく眺める。
いつの間にかに用意していた紙から、アルフォースは最初からサボる気だったことが窺える。カナデは慣れているそのやり方に、肩を落とすヴィルナリアが相当苦労したのだろう。と、肩を叩いてやる。
「あんたも大変ねぇ」
「……そう思うのなら、俺に優しい言葉の一つでもかけてくれ」
頭を掻きながら煙草を取り出すヴィルナリアに、カナデは指から炎を出し、それを近づけてやる。
「……ありがとう」
「それは良いけれど、あなた、数年経たない内、絶対に禿げるわよ?」
「カナデの優しさは厳しいな」ヴィルナリアが煙を深く吸う。
「現実を教える優しさっていうのも必要だと思うのよ。そういう言葉はリリーが担当、殺意と元気が湧くわよ」
「うみゅ! え、えっとぉ――ヴィルちゃん! きっとあれだよ。獣みたいにフッサフサ。アルちゃんにお手って芸を仕込まれるよ!」
「……ありがとう。確かに元気プラスに行動意欲が湧いてきたな」
「えへへ~」
ヴィルナリアはおよそ、アルフォースに『お手』と、される場面を想像したのだろう。青筋がその表情に一瞬、浮かび上がったのをカナデは見逃さなかった。
ヘイルが泊まっていたという部屋は二階らしく、カナデは煙を携えながら進むヴィルナリアの後をついて歩く。その際、カナデは周囲を見渡すのだが、通路にも金持ちが好みそうな如何にも高級そうな絵や壺などが並んでおり、ヘイルの底が知れる。と、カナデは冷笑を浮かべ、心底、ヘイルが誘いを断ってくれたことに感謝をする。
「ここらしいな」
部屋の前で立ち止まったヴィルナリア。そして、鍵を回し、中に入るのだが、まるで新築の家のような、誰かがいた。という形跡が一切ないように思える部屋である。
「ここまで綺麗にしていると、感心を通り越して不気味ね」
「そもそも、ここで人が死んだのだぞ? 普通なら、改装するか、閉鎖するはずだと思うのだが……」
「なかったことになっているのね。ここの宿屋、どうかしているわよ」
「そうだな」すると、ヴィルナリアがカナデとリリーの正面に立ち、手伝いをお願いする。「さて、ここに来たからには手伝ってもらうぞ。そこで、錬金術師と魔法使いの二人、是非その知恵を貸してほしい」
これこそ形式的なものだろう。ヴィルナリアの表情が、先ほどとは違い、さらに厳つくなり、真っ直ぐと見据えてきた。
「みゅ?」
「特にリリー殿の考えが知りたい。アルは俺たちが思っている犯人とは別の者を追っているようだが、俺的にはおじい様とインペリアルガードを尊重したい」
アルフォースが別の犯人を捜している? カナデは不思議に思ったが、口に出さず、ヴィルナリアの言葉に耳を傾ける。
「どんな小さなことでも良い、少しでもその証拠があれば、俺はおじい様にそれを通してもらうように頼もうと思う」
ヴィルナリアは最初から決めてかかっているらしい。インペリアルガードを尊重する。と、言っておきながら、そうであってほしいのはヴィルナリア自身なのだろう。ふと、カナデは何故、リリーなのか。それについて考察する。
リリーである必要、先ほどヴィルナリアが言ったように錬金術師、カナデはそれだけで察した。あまりにも簡単過ぎる。しかし、聞いたことがあるそれは、このようなことをするとは思えない。アルフォースはそれを汲んだ上で、犯人が別にいると言っているのだろうか?
「みゅ? あたし?」
「ああ、錬金術の知識がいる。頼めないだろうか?」
「ううん、あたしで良かったらいくらでも協力するよぉ」頼られたことを喜ぶように、リリーが声を跳ねさせて答えた。そして、手を叩き、思い出したように口を開く。「あ、だからかぁ、アルちゃんがアギちゃんにあんなことを聞いたのは」
「アギちゃん?」
「うん、さっきあたしとアルちゃんがいた宿屋の店主さん」
「……アルがその人に何を聞いたんだ?」
「みゅ? えっと、勇者さんを殺した人の特徴を――」
「何故、宿屋の店主にそんなことを」
それはもっともである。そもそもこのことは他言無用のはずである。アルフォースが何も考えなしにその情報を提示するとは思えない。ならば、その者はそれについて確かな情報を持っている。と、アルフォースが知っていなければならないはずである。
「カナデ、あの宿屋のことを物騒だと言っていたが、何かあるのか?」
「隻眼の黄昏、店主は竜族だったはずだけれど。何でも国の偉い人と話しているのを見たって人がいるのよ。それ以外では、ただ単に人相が悪くて口が悪い、宿に集まる者の人相も悪い。近づかないのが無難でしょう?」
「えっとねぇ」リリーが顎に指を添えながら、手を上げる。「アルちゃんはねぇ、アギちゃんのこと、黄昏の情報屋って――」
「なるほど」ヴィルナリアが一人納得したように頷く。
「僕は納得出来ていないのだけれど?」
「情報屋だ。しかも、重宝されているらしい。それでどんなことを話していたんだ?」
「う~んとね、アルちゃんが関わってほしくない人は関係なくて、犯人は複数、男性らしいよ」
複数。カナデが推測している通りの魔王であるのなら、仲間がいるとは聞いたことがなかった。もっとも、その魔王は情報が少な過ぎ、全てが推測になってしまうのだが、アルフォースの勘が正しかった。と、いうことだろう。カナデは途端に飽きてきて欠伸を一つ。
「ん? カナデ、どうかしたか?」
「飽きた」
「……それは何故だ?」
「あんたたちが追っていた者とは違うのでしょ? なら、知識も何も役に立たないわ。ゼロを考えるほど、暇じゃないのよ」
何もない状態、その犯人の情報と言ったら、ヘイルを価値のない者に変えた。という事実だけである。魔法にしろ、錬金術にしろ、すでに出ている技術でないのなら、どうしようもないのである。
「確かにそうだが……。うん? カナデはもう誰がやったと思っているのかわかっているのか?」
「そりゃあ、ここまで情報が出ればね」
「みゅう? カナデちゃん、犯人がわかったのぉ?」
「犯人はわからないわよ。ただ、ヴィルや騎士団長が誰を追っていたのかはわかったわ」
「えっと、誰なのぉ?」
リリーはそういう話を一切していない。アルフォースからも聞いていないのだろう。それならば、カナデは暇つぶしがてら、リリーにその者について聞いてみようと考えた。情報がないのは魔法使いだからであり、同じ錬金術師のリリーならば、何かしらの情報は持っているだろう。
「ねぇリリー、菜園の魔王について何か知らない――」
「みゃぁ!」今まで聞いたこともないような声でリリーが叫ぶ。
「……どうしたのよ?」
「え、あぅ、えっと……あぅ」
「当然だろう」ヴィルナリアが、リリーの背中をさする。「菜園の魔王とは、それほど恐ろしいということだ。リリー殿は錬金術師だ。尚更、奴の恐ろしさがわかっているのだろう」
「あんた一度、道徳の勉強をしてきたら?」
村を救う魔王など聞いたことがない。それよりもリリーの反応が気になりカナデは考え込む。
「え、えっと……で、でも! 勇者さんを殺した人は男性なんだよね! それなら菜園の魔王がやったんじゃないよねぇ」安心したように息を吐くリリーが、ヴィルナリアの手を掴み、飛び跳ねる。「無実だよぉ!」
「あ、ああ」ヴィルナリアが困惑したような表情を浮かべる。
「……なるほど」
カナデはクスりと声を漏らし、リリーの額を一度指で弾く。そもそも、カナデは菜園の魔王が『男だとは知らない』リリーが錬金術師であるが故に、その情報を持っていたことも否定は出来ないが、男であることを全力で否定すると言うことは最低でも菜園の魔王を知っており、あの慌てようから身近な者であることは容易に想像が付く。それだけではなく、リリーは騎士団長に出会った時、人生最大の脅威とも言った。アルフォースが持つ一方的な秘密と彼が関わってほしくないと言った相手、これだけの情報が揃っており、確信しないと言うのもおかしな話である。
そこで、カナデは昨日、リリーに問われた『友だちでいて』という問いを理解する。およそ、苦しんできたのだろう。そして、それをアルフォースは知っており、ヴィルランドも気付いた。その上で、ヴィルランドは『答えを選択する』ように言ったのである。もちろん、カナデが選択する答えは決まっており、それを決意した上で小さく笑い、忙しなく視線を投げるリリーの頭を掴み、カナデは胸に抱き寄せる。
「みゅ? みゅぅ~?」リリーが戸惑った声を上げる。
「あんたは心配症ね。もう少し、胸を張ってなさい。揺らすのは許さないけれどね」
「あぅ? えっと……カナデちゃん?」
「何でもないわ」カナデはリリーを身体から離し、背中を思い切り叩く。「ほら、さっさと調べちゃうわよ」
「……飽きたんじゃなかったか?」
「犯人捜しは飽きたわよ? ただ、僕はそこまで冷たくはないのよ」首を傾げる二人に、カナデは笑みを見せる。
カナデはそう言ったのだが、もう一つ気になっていることがあった。そもそも、何故、騎士団長とインペリアルガードとヴィルナリアが菜園の魔王だと決めつけていたのか。カナデは今朝のヴィルランドとの会話を思い出す。
意味のない者。だが、生きている。さらに菜園の魔王だと思われていた。植物、ヴィルランドが言った。生命の思いこみだと……それは即ち、一般的に生命以外の生命を指しているのではないだろうか、それならば植物の人間にヘイルがなっている。そう考えるのが正しいのではないか。つまり、ヘイルは何らかの方法で植物になってしまい、鼓動も聞こえ、身体には血が流れている。と、いうことになる。
ここまでは理解出来た。しかし『誰が』『どうやって』の肝心な部分がわかっていない。しかも、誰がやったかに関しては振り出しに戻ったのである。今、理解出来ているのは、『何故』と『誰を』である。殺害理由に関しては想像が付く。無論、想像でしかないのだが、魔王が勇者を倒すのは極々自然なことである。例えるのなら狩人に反撃する獲物、それだけのこと。次に誰を、だが、ヘイル=プリーシア、あまり評判の良くない勇者が植物にされた。
これだけしかない情報では何も得られない。流れではただ魔王が勇者を返り討ちにしただけなのである。ここから人物に繋がる情報は一切ない。しかも、候補であった菜園の魔王の可能性が消え、菜園の魔王並みに植物を扱える。という情報しかないのである。カナデはそんな魔王を聞いたことがない。
やはり、犯人捜しは最早、無意味であろう。わからないことを延々と考えて時間を潰すより、わかること、優先させたいことに時間を割く方が有意義である。
「僕は水道周りでも調べるわ」カナデはヴィルナリアの返事も聞かず、台所に入る。「リリーは入り口周辺、ヴィルは殺害された場所とベランダ、その他は無意味でしょう?」
ヘイルほどの実力者が早々隙を見せるわけがない。ならば、戦いは一瞬だっただろう。それ故に入り口、もしくはベランダを通り、ヘイルが死んでいた場所まで移動したのではないかと推測する。ちなみに、台所は他から見え難く、隠れていた。という可能性が否定できない。と、いうのを建前に、カナデはヴィルナリアとリリーが探索を始めたことを確認すると、台所の床に座り、欠伸を一つ。そして、水道の傍にある飲み物を入れる箱に手を伸ばし、中に入っていた果実酒のコルクを抜く。
瓶に口を付け、果実酒を呷るカナデ。葡萄の香りが鼻を抜け、アルコールが喉を通り、血の廻りを早くする。ふと、疑問に思う。これは錬金術師の仕業なのだろうか? 犯人はわからない。しかし、人を植物に、もしくはそれに準ずる状態にする術を持っているということになる。リリーが話していた狂人ではないが、人を超えた者の仕業なのだろうか、魔法でも人体に影響を及ぼすことの出来る魔法も存在する。しかし、それらは『噂』や『机の上』でしか存在せず、実際を目にしたことはない。ならば、犯人は何者なのだろうか? 噂と机の上の理論を実現し、魔法使いとしても、錬金術師としても高みにいるのは確かなのである。しかし、その高みにいる者の話が一切聞こえない。と、いうのも不気味な話なのである。それほどまでの実力、何故、隠すのか、何故、世に出そうと思わないのだろうか? 人間性の問題? その術自体、偶然の産物? 理論が出来あがっていない? 挙げだしたらキリがないが、魔法使いとして大成したいと考えているカナデにとって、癪であった。
現在のヘイルの状態がどのような物かはわからないが、ヴィルランドの表情から察するに、相当面倒なことになっているのだろう。
植物は生命。しかし、それは人の思いこみであり、植物の基準である。植物が人のように生きている。それはあり得ない。言葉もなく、人と感情を通わせることもしない。リリーは植物が生きていると言うだろう。しかし、生きているだけなのである。人で言う意味のない生、人にとってはまったくの別物なのだ。
そして、犯人はそれを躊躇せずに行なったのである。
カナデは深くため息を吐き、魔法陣が描かれた右手を眺める。
「……そうはなりたくないわねぇ」
「何がそうはなりたくないんだ?」
頭上からヴィルナリアの声が聞こえ、カナデはゆっくりと顔を上げる。すると、青筋を立てたヴィルナリアが、カナデの持つ酒瓶と顔を交互に見ていた。
「……酒を飲むと、頭が冴えるのよ。ちょっとした心理について思考を馳せていた。ヴィルは真似できないわよね?」
「出来たとしても俺は酒を飲まないな」
「あら? あなたは飲んだ方が良いわ。ガチガチに固まった頭をアルコールが柔らかくしてくれるわよ? あなたは、しがらみや感情で思考を支配され過ぎよ。何もない真っ白なノートに、ただ考えだけを書いてみなさい」
「……お前もアルと同じことを言うのだな」ヴィルナリアが肩を落とす。
「親友に感謝しなさい。あなた、想われているじゃない」
「それは、カナデが俺を想っている。と、言う解釈で良いのか?」
「図に乗んな。思考回路がお子様なヴィルナリアちゃん、僕のは優しさと警告よ」傍にやってきたヴィルナリアの額に手を伸ばし、カナデは思い切り指を弾く。「アルや『おじい様』に頼ってばかりじゃ、立派にはなれないわよ」
「……」
「何か見つかった?」
「……いや」
「ったく」カナデは立ち上がると、ヴィルナリアの頭を数回はたき、ヴィルナリアが調べていたヘイルが殺されただろう場所まで移動する。「拗ねないの。その気がない奴にこんなことは話さないわ、言われる内が華ってね」
「……善処しよう」
パタパタと音が聞こえてきそうな足取りで駆けてきたリリーを一撫でし、ふと、カナデはベッドの傍にある花瓶を見た。使った形跡がある。薄くだが、水垢が残っており、従業員が取りかえ忘れたのだろうか? と、カナデは花瓶を手に取る。
「これ、替えられていないわ」
「なに?」
傍に寄ってくるヴィルナリアを横目に、カナデは花瓶をひっくり返す。すると、中から植物の種のような物が出てきた。
「……種、かしら?」
「うむ、おじい様に渡すべきか」ヴィルナリアが思案顔を浮かべる。
すると、横からリリーが背伸びをしながらその種を覗きこむ。
「みゅ? ちょっと見せて」種をカナデから手渡されたリリーがじっくりと種を眺める。「これ、錬金術かなぁ? 普通の種じゃないっぽい」
何故、錬金術で出来た種が? カナデはこの犯行が錬金術のものなのだろうか、とも考えたが、ヘイルの前に泊まっていた者の物かもしれない。と、確信はしない。
「ふむ、リリー殿、その種を調べてはくれないだろうか? 錬金術で出来た物だと言うのなら、錬金術師に調べてもらうのが道理なのだが、生憎、俺の知り合いに錬金術師はリリー殿しかいない」
「う、うん――」リリーがその種を眉間にしわを寄せて眺めており、何か考えている。「この種……見たこともない種。ううん、どこかで――それに、失敗作? 中身がすっからかん」
呟くリリーの言葉をカナデは聞くのだが、失敗作、ならば尚更、今回の事件には関係ないのではないだろうか? 勇者を殺したほどの者が失敗作を持っているとは思えず、カナデは手を叩く。
「さっ、こんなもんでしょ。これ以上ここにいたって無意味――」カナデは途端に表情を好戦的な物に替える。「アルフォースを捜しに行くわよ」
「ああ、それは良い案だ」
「僕にこんな面倒なことをやらせといて、自分は何もしないなんて許せないわよねぇ」
「アルには少しは反省してもらわなくてはな」
「さぁ、行きましょう――」カナデはリリーが怯える程の表情で笑った。
【違和感憤怒絶体絶命】
「でさぁ~おっちゃん、俺は思うわけだよ」
場所は和心、店主が使っていた椅子をアルフォースは借り、まるでカウンター席のように店の縁に肘を置き、うな垂れていた。
「……ここはバーじゃねぇぞ?」
「酒でも出してくれるの?」
「そう言う意味じゃねぇよ」
そもそも、この店は甘味を扱っており、アルフォースは酒に合う物とも思っていない。しかし、出されると言うのであれば、喜んで飲もうとも考え、店主を見つめてみたが、ため息を吐かれるだけである。
「おっちゃん、俺は愚痴を吐きだしてるんだよ? そんな辛気臭い顔をされると、テンションが下がるよ」
「愚痴を聞かされる俺の気分もだだ下がりだがな」店主が縁に紙を敷き、その上に大福を乗せる。「確かに俺は後で来いと言ったが、アギトんところから帰る途中の俺を捕まえて、おやつくれとはいきなり過ぎはしねぇか?」
「しょうがないもん。俺は今日、のんびりしたいの」
ヴィルナリアたちの元から逃げてきたアルフォースは途中、店主と出会い、そのまま一緒に移動したのである。しかも、まだ店を開く時間としては早いらしいのだが、店主が店を開いてくれ、こうやってのんびりすることができ、アルフォースは程々に感謝をしている。
「……そういやぁ、今日は城に行かねぇのかい?」
「この状況から察しておくれよ」
「察してはいた。だが、それを容認して甘やかすことはしねぇぞ?」
「甘いのはこの大福だけでしょ? おっちゃんはヴィルが来たら匿ってくれるだけで良いんだよ」
「それを世間一般で甘やかすって言うんだよ」
「それは世間の意思で、おっちゃんの意思ではないってことで良いんだよね?」アルフォースは大福を半分口に運び、呆然としている店主の口にもう半分を投げ込む。「おっちゃんのお菓子が美味しいから、サボってまで食べに来ちゃうんだよ」
「……ったく、調子の良いことばかり言ってやらぁ」
「嬉しい癖に」
どこか照れ臭そうに視線を逸らしている店主に、アルフォースは笑みをこぼさずにはいられず、落ち込んでいる時や一人で考えたい時に、そっとお菓子を手渡してくれる和心の店主をヴィルナリアやヴィルランド、屋敷の使用人たちと同等のような。まるで、家族のように思っていた。
「……ねぇ、おっちゃん」
「うん?」
「おっちゃんってさ、家族はいるの?」
仲が良いと言っても、線引きはしなくてはならない。初めてこの和心の店主と出会って約5年、その年月の中で、この店主は一切自分の身の上を話したことがなかった。そのような話題にならなかった。という理由もあるかもしれないが、アルフォースは聞いてはいけないことだと思い、今まで聞いたことがなかったのである。
「……いきなりどうした?」
「ううん。ただ、俺にはその家族――特に、親の感情っていうのがわからないからさ」
ヴィルランドが言った、自分とヴィルナリアのためならば、何をやらかすかわからない。や、バルドが父親は幸せを想うだけでは駄目。などなど、親と話す機会が多かったのがこの思考を呼び寄せたことは理解しているのだが、それは発端であり、中身ではない。
自分にとって、家族は大切である。だからこそ、自分の咎や勘違いに巻き込みたくはない。しかし、親はそれを無視して想ってくれ、それを覆そうとしてくれる。アルフォースはそう想ってくれていることに感謝はしているが、同時に勝手とも思うのである。
「俺には、本物がいない。だからこそ、ヴィルとかじいちゃん、従者のみんな、それにおっちゃんを本当に大事に思える。血縁とかを抜きに、愛されてきたからね」
「……」
「どんなに考えても言葉に出来ないんだ。じいちゃんやバルド――リリーのお父さんの感情が」理解出来ないものが恐ろしい。故に言葉には『名前』がある。どんなにそれが『当然』だとわかっていても、納得することは出来ない。もしかしたら、ニセモノなのかもしれない。だから、名前を認識することで安心したい。両親がすでに他界しているアルフォースの傷、誰にも見せないそれをアルフォースはこの店主に聞いてみたかったのである。「愛なんて名前は前提、その後にはなんて続くの?」
「……アル坊は難しいことを聞くな?」店主が腰に手を当て、伸びをしながら反り返った。そして、歯を見せて笑うと、その大きな手をアルフォースの頭に押し付ける。「知らん!」
「ええ~」
「それは子と親の関係によって変わる名前で、子から見た視点でも変わり、親の視点でも変わる。お前さんは前提だと言ったが、愛だと思ってる奴もいりゃあ、束縛だと嘆くガキもいる」店主が大人らしい笑みを浮かべる。「だがよぉ、それで良いじゃねぇか。お前さんのじい様は、アル坊が言った不安を感じようとも、お前らを手放すことはしねぇ。そういうもんだ」
「むぅ、だからぁ」
「なら、信頼って名前でも付けとけ」
「え?」
店主が取っ手の付いていないカップに緑茶を淹れ、それをくすぐったく感じる笑みをこちらに向けながら手渡してきた。信頼、アルフォースは理解が出来ておらず首を傾げる。
「そういう問いで、お前さんが気にしなきゃいけねぇのは名前じゃなくて、誰が。だ。不安に思うんなら、想ってくれてる相手を思い出せ。受け取った想いそのままで考えりゃあ不安にもなるさ」
「……難しい」
「まだまだガキだってことだ。じじいにひ孫でも見せることが出来りゃあ理解出来るかもな」
「……それも難しい」
今まで、ガールフレンドがいなかったわけではない。しかし、今まで付き合ったどの女性も最後には、理解出来ない。と、言って去っていくのである。人が人を理解するなど、どう足掻いても無理。何故なら、自分自身全てを理解しているわけでもないのに、それを他人に理解などされるのだろうか? さらには、その他人によって受ける印象は違い、間違った名前を付けられることもしばしば、心は空より深く、地よりも広い。心の全てを読む術のない人々には、理解することなど出来ないだろう。
「みんなもっと単純な思考なら良いのにね」
「お前さんがそれを言うか」店主が苦笑いを浮かべた。
「思考が妨げになるのなら、はいといいえだけで考えられる生物はどれだけ楽なんだろうなぁ」
「……そんな世界が良いのか?」
「まさか」アルフォースは一度鼻を鳴らすと、店主にウインクを投げる。「そんな世界になることが出来るのなら、今ごろ俺はこんなことを考えてはいないよ」
はい。と、いいえ。だけの思考。そこには嘘も何もなく、背景など存在しない。今回起きたヘイルの殺害もそうである。理由があるから殺した。そうでなければ 序列一位の勇者を誰が殺そうと思うのか、二択しかない問いだけで世界が成り立っているのなら、このようなことは起きないだろう。先ほど考えた通り、他人を理解することなど出来ない。だからこそ、この思考は無駄であるのだが、どれほどの恨み、どのような道を通って世界を歩んできたのか、返り討ちに遭うかもしれない相手に、犯人は向かったのだ。いや、成し遂げた。そう、成し遂げてしまったのである。犯人が誰かもわからず、およそ、興味もない。だが、それほどのことをした者の思考、気にならないわけではない。しかし、アルフォースは首を振り、大福を口に運ぶ。
ふと、見覚えのある横顔が通りの向こうに見えた気がした。
「あれは――」アルフォースは立ち上がると、その横顔に声をかけようとする。「ありゃ?」
その横顔、バルドがまだ昼時にも関わらず、真っ黒なローブを羽織り、背後には数人を引き連れ、まるで光を避けるように歩いていた。
「何じゃありゃ?」店主がアルフォースの視線を追い、バルドを眺める。
「知り合いなんだけど……おっちゃんにも紹介――ッ!」
アルフォースは気が付く。背筋を凍らせるほどの直感。そして、いきなり湧き出る脂汗に、震える身体。首を傾げる店主の袖を掴み、バルドが進んでいった方向とは反対の道を凝視する。
「うん? アル坊、どうした――」
「おっちゃん匿って! ヤバい、来る。カナデもいたんだった!」
「お、おい――」
アルフォースは店主を和心の屋台まで押し、足元に身体を丸ませて隠れる。今回は本気だと直感が告げている。カナデがこの店ごと燃やすかもしれず、アルフォースは店主をチラリと見、もしカナデが怒っていたのなら、店主を置いてこの場から逃げようと考えた。
【行なわれた焔の祭】
「アルはここにいるはずだ。サボる時、大体は菓子を食っているからな」
「へぇ~、僕たちが頑張っていたのに、菓子とはね」
「あ、あはは」
リリーは場を和ませるために「それは『おかし』いね」と、言おうとしたが、前から歩いてくる人々がヴィルナリアとカナデの顔を見て、道を開ける様があり、そんなことを言えば、カナデから胸を揉まれることは確実だろう。
カナデは感情豊かだと思う。リリーはコロコロと変わるカナデの表情を絵日記にすればきっと素敵な一日が過ごせるのではないだろうか、と、小さく笑い、通りすがる人々に頭を下げ、前を歩む二人について行く。
これが命の感情。怒って、笑って、喜んで、泣いて、悲しんで……自分が目指す幸せ。きっと、何よりも命らしくある光景。今朝、バルドが話していた「私たちと一緒にいては命を学べない」確かに、バルドは言葉ではふざけているが頭の中には色々詰まっており、本物の感情を出すことは多くない。故に学べない。野菜で命を幸せにするということは、幸せの定義を言葉にしなくてはならず、それに名前を付けなければならない。そして、その名前を付加した野菜を作り、それを命に食べてもらう。抽象的なものだというのは理解している。しかし、それでも、リリーは命に、友人に、家族に――幸せになってもらいたいのである。
「ただのお仕置きじゃ許さないわよ。僕にあんな面倒なことを押しつけて、自分は悠々と菓子を食べているという平和的な光景を爆炎の楽園に変えてやるわ」
「カナデ、その楽園に炎の剣も降らせよう。俺の魔法はまだ完成形ではないが、魔法使いの魔力が籠った炎ならきっと俺の魔法も輝くはず」
「え、えっと――ふ、フハハハぁ、あたしのトマト祭りが始まるぞぉ」リリーはヴィルナリアとカナデの真似をしようと思ったが、何かが違く、首を傾げる。「こんな感じで良いのかなぁ? う~ん、じゃがいも祭りの方が、焼きじゃがいもをみんなで美味しくいただけるかなぁ? って、ありゃ――?」
ふと、リリーは和心の屋台を超えた先のローブを着た集団に見覚えがあり、そちらに駆けて行こうとするが、カナデに腕を掴まれてしまい、そのまま引っ張られる。
「……ここにアルがいることは間違いない」ヴィルナリアが指の骨を鳴らし、苦笑いの店主に聞こえるように言った。
この場所、そう和心である。あまり食べ慣れない菓子を売っており、女性はもちろんのこと、冒険者や勇者、それに城勤めの者にも人気の店。
そんな人気店に、人気とはかけ離れた表情の二人が立っている。
「店主、アルを出してくれないか?」
「……おう! そんな物騒な顔をしてどうした? 何があったかはしらねぇが、そう言う時は甘いもんだぜ」店主が、いくつかの菓子を取り出し、それをヴィルナリアに手渡そうとする。「ほれ、レイブンのところの坊主にも食べやすいような新商品だぜ? 甘さ控えめ、それでいて美味い――」
「店主、アルを出してくれないか? 十中八九ここにいる」
視線を逸らす店主にリリーは首を傾げる。今朝、自分は食事の料金を払ったのだろうか? アルフォースが払ってくれたのかもしれないが、自分が出て、すぐに出てきたはずであり、和心の店主が払ってくれたのではないだろうか? と、リリーは思い出す。
「あ、和心のおじさん、もしかして、今朝はご馳走になっちゃったぁ? 今、払ってなかったことを思い出したよぉ」
「あ、いや、それは別に良いんだがよ――」
店主の瞳がこの二人をどうにかしてほしいと言っていたが、リリーは首を横に振り、一歩下がる。
「アルを出しなさい。さもないと、店ごと火の海よ」
「ちょ! ま、待て! 俺は関係ねぇ――」店主の視線が、一瞬足元で止まる。
「そこね」カナデが火の鳥を生成し、店の周りをそれで囲む。
「……アル坊、すまん。店を壊されるのは勘弁なんだ。怒られてこい」
「ちょ。おっちゃん! 引っ張んないで――は、薄情者ぉ!」店主に襟を掴めれ、持ち上げられたアルフォースが暴れたのだが、すぐに動きを止め、盛大にため息を吐く。「しょうがないじゃん! 面倒だったんだもん! 俺は悪くないよ! こんな面倒事を押しつけたじいちゃんにこそ責任はあると思うね! わかった? だからさぁ、ここは落ち着いてお菓子でも――」
「フラム」
火という意味の魔法使いが好んで使う言葉をカナデが呟いた。火の鳥たちは一斉にアルフォースに飛びかかり、店主の「店で暴れるんじゃねぇ!」と、いう言葉も無視し、炎が踊る。
アルフォースが身体を揺らし、カナデの炎をかわしていると、ヴィルナリアが炎の鳥を一羽手に取り、それを握り潰す。すると、炎が手の中で形を変え、一振りの剣と成った。
「ちょ、ちょっとぉ、本気は良くないと思うんだ! もっとこう、危機迫った時に本気って出す物でしょ? もう少し、手加減をだねぇ――」
「アル坊! 早く店から出やがれ! 燃えるって!」
「えぇ~い、死なば諸共――」アルフォースが店主の腕に掴まり、離れないようにしている。
「巻き込むんじゃねぇ!」アルフォースを引き剥がそうと手を振る店主だが、一切離れず、迫りくる炎を避け続ける。
リリーは和心の周りと隣接する屋台の周りを飛ぶ炎と周囲の屋台から飛び出す店主たちを呆けた表情で眺めた後、ハッと我に返り、口角を吊り上げた表情で炎を投げるカナデと無表情で剣を振るうヴィルナリアを止めようとオドオドするのだが、それは止まらず、ため息を吐き、『小さな釜』を数個自身の周りに置き、事が収まるのを待つことを決めた。
【錬金術師は振り返らない】
「……」
背後が騒がしいが、ローブを羽織った男、バルドは振り返ることはしない。今朝は振り返りそうになってしまったが、ここまで進んできて振り返ることは出来ない。否、振り返ってはいけないのである。自身はホンモノ。そう、ホンモノなのである。故に、そのニセモノを想ってはいけない。故に、抱きしめることは二度と出来ず、頭を撫でることも、ニセモノの涙を見ることも出来ない。
背後のローブの集団からすすり泣く声、バルドはその泣いている男性の背中をさすり、首を横に振る。
「お前たちまでついてくる必要はない。これは、私の使命だ――」
しかし、他の男たちが顔を上げ、瞳に涙を溜めながら同じように首を振った。
「私の周りには、物好きしかいないようだ」バルドは薄く笑い、先頭に立つ。「命は成されない。と、言って野菜を作ろうとする『娘』とかね」
ウインクを投げて周囲を見渡すバルドに、男たちが笑う。
命を成すことは出来ない。それは、リリーが来る前からわかっていたこと。しかし、ここにいる自分を含めた面々はそれを否定することは出来なかった。全てを捨ててきたのだ。今さら、自身の居場所がどこにあるのだろうか。そう思い、ただ研究をしてきたのである。
だが、全てを捨てたバルドたちは、全てを手に入れてしまった。
もう、得られないと思っていた幸せ。そこで自分たちを繋いでいたピンと張った糸が切れてしまったのだろう。命を成すことを諦め、この幸せを謳歌したい。そう思ってしまった。ただ、それだけであった。
しかし、そんな幸せも世界によって壊された。
箱庭に閉じ込めておけば良かった。錬金術など教えなければ良かった。いや、違う。そもそも自身には分不相応な幸せだったのである。だからこそ、ほつれる。歪む……これは罰なのだろう。人知を無視した冒涜、それを繰り返してきた罰。
だからなんだ、バルドは空を睨む。我々の罪に、唯一無二は何ら関わりもない。激情が頭を支配するが、それを超えるほどの恨みで頭を冷ます。
バルドは前しか見ておらず、ふいに感じた足への衝撃に首を傾げた。
「うん?」すると、小さな女の子が涙目で見上げていた。そして、気が付く。バルドの足にはべっとりと氷菓子が付いており、女の子が足と顔を交互に見ていた理由を理解する。「あらら――」
「あ、あの、ご、ごめんなさ――」
バルドは女の子の頭を必要以上に撫で、色のない笑みを浮かべた。しかし、笑みを浮かべた瞬間、女の子が肩を跳ねさせ、先ほどより大粒の涙が、瞳に宿った。
「……私の顔、そんなに怖いのだろうか」
そこでふと、このようなやり取りを以前したことを思い出す。それは、リリーに初めて笑顔を見せた時のことである。あの時、彼女は食事を持って来てくれ、それに対し、バルドは礼を言い、笑顔を向けたのだが、リリーは持っていた食事と紅茶を床に落とし、別の者に抱きつきに行ったのである。その時、バルドは近くの者に同じことを尋ねたのだ。
「――」
怯えている女の子、バルドはあの時はどうしただろうか? と、考えるのだが、上手く思い出せず、頭を掻いた。
「ふむ」バルドは財布から氷菓子が買えるほどの金を取り出すと、それを女の子に握らせる。「氷菓子、ごめんね。それで新しいのを買うと良い」
「ひゃ! え、で、でも――」
「……ふむ、困ったね。それなら――」女の子が首を横に振ったために、バルドは考え込む。少し、小さな悲鳴を上げられ傷ついたが、それよりも女の子をどうにかしようと思い、懐から小さな植木鉢――釜を取り出す。「それならこうしよう。今から私は君にお願いをする。それの報酬が、その氷菓子代だ。どうかな?」
「うみゅ? 何をしたら良いの?」控えめな声で女の子が尋ねる。
「……この植物を育ててほしい」釜の中に、砂と種を入れ、それを女の子に手渡す。「これに花を咲かせられたのなら、君は錬金術師に向いている。大事に育てておくれ」
バルドは女の子を一度抱き上げ、向きを今女の子が走ってきた方向に向け、背中を優しく押す。
女の子がバルドをチラチラと振り返っていたのだが、転びはしないだろうか? と、バルドは心配になり、声をかけようとする。すると――。
「おじちゃん、ありがと!」女の子がそう言って手を振りながら駆けて行った。
「……」
思い出した。バルドはあの日、笑顔を見せた故に泣いてしまったリリーに、あの女の子のように、小さな釜にたまたま研究で使っていた植物の種を入れ、それを手渡し、同じ言葉を言ったのである。
その時のリリーが、今の女の子のように満面の笑顔で礼を言ってくれたのである。
現世への未練が、心の内から湧き上がってくる。ついて来てくれた者たちも奥歯を噛みしめ、身体を震わせていた。
バルドは頭を振り、大きく息を吸う。
「私たちは、成さねばならない。あの頃、成そうとしていた悲願よりも私たちは成さねばならない」バルドは歩き出す。「もう……これで最後だ。我らの宝、我らの唯一無二、そのために我らは喜んで逆らおう」
【魔法使いはパワー主義】
「――ったく。菓子でも食って落ち着け」
和心の前で騒いでいたアルフォース、ヴィルナリア、カナデ。騒ぎを聞きつけた兵士が苦笑いで事情を聴き、その場は収まったのであるが、カナデは納得できず、頬を膨らませていた。
「新作なんだ。食ってけ」店主がアルフォースに大福、ヴィルナリアに串に刺さったモチモチしていそうな見た目の団子に透き通った茶色のタレがかかった物、カナデとリリーは同じで、アルフォースの物より少し大きな大福を手渡す。「感想聞かせてくれな?」
カナデは店主の顔を見る。そして、何故こんなに馴れ馴れしいのかを考察するが、アルフォースとヴィルナリアの知り合いらしく、納得することにした。
そして、貰ったのなら全て貰う。を、モットーにしているカナデは受け取った大福を口に運ぶ。すると、柔らかく弾力のある皮に白い餡、その中に包まれた果物が舌に触り、甘ずっぱさと餡の濃厚な甘さが口の中で解けていった。
「あら、美味しいじゃない」カナデは素直に驚きを口にする。「あなた、中々良い腕をしているじゃない」
「何で上から目線なのさ」アルフォースが二つ目の大福を店主から受け取りながら尋ねる。
「僕は客よ? 上からじゃなくて、正当な評価だと思うのだけれど?」
「まぁ、言い方の問題は客と店の問題じゃねぇからな。間違った評価をされるよりはずっと良い」
「あら、随分自信があるのね?」
「これでずっとやってきてっからな」すると、店主がカナデを見つめる。「嬢ちゃん、アル坊たちと一緒にいたんだな?」
「ありゃ? おっちゃん、カナデのことを知ってんの?」
「ん? ああ、まぁな――」
店主がそう言ったのだが、カナデは店主とは初対面であり、所在を心配されるのもおかしな話である。
「僕は知らないわよ」
「カナデちゃん、和心って市場じゃ結構人気だよ?」リリーが横から言う。
「買えない物には興味ないわ」
普段、甘味を買う余裕もないカナデはいくら人気店だろうと興味を持たないようにしていた。それならば、買うこともなく、食べたいとも思わないのである。
「ほんっと、寂しい生活をしてるよねぇ」
「アル、カナデに失礼だろう」ヴィルナリアがアルフォースの頭をはたく。「すまん、カナデ」
「事実だし良いわよ」
「まぁまぁ。アル坊――と、いうかレイブンの家にいるんなら食いっぱぐれることはねぇだろうさ」
「なんでそこまで心配されなきゃいけないのよ」
どこか生温かい視線を向けてくる店主に、カナデは睨みつける。同情は敵であり、それを見ず知らずの人に向けられる謂れはなにもない。
「あ~、すまん。こういうのは嫌なんだったな」店主が頭を掻き、カナデに大福をもう一つ手渡す。「結構前の話だが、嬢ちゃんが大量の薬草を持って腹を鳴らしてたもんだから、俺が大福を持って近づいたんだよ。そうしたら嬢ちゃんが『他人の施しは受けない』とかって言って、すっげぇ顔で睨まれてな」
「まったく記憶にないわ」カナデは言い放ち、受け取った大福を頬張る。
そもそも、昔の話であり、そんな些細な出来事を何故、覚えていなければいけないのだろうか? と、カナデは考え、欠伸を一つ。
「覚えてねぇなら覚えてねぇで良いんだよ。その後で意地っ張りな変わり者の魔法使いだって知って、勝手に心配してただけだからな」
「カナデ……あんまり周りの人に心配かけちゃ駄目だよ」アルフォースが呆れたように言うと、三個目の大福をカナデに手渡す。「大きくなぁれぇ」
「ぶっ飛ばされたいのかしら? と、いうか、そっちが勝手に心配しているだけじゃない」
「そういうことはもうちっと形を大きくしてから言ってくれ。傍から見りゃあ、今にも死にそうなガキだったから、そりゃあ心配もするぜ」大福などの余った菓子類を袋に詰め、店主がそれをカナデに手渡しながら三角帽子の上から頭を撫でる。「ほれ、これでも食ってヤオヨロズの嬢ちゃんみたいに大きくなりな」
「まっ平らで悪かったわね!」
「そこじゃねぇよ……」
「まったく」カナデは横目で大福のようにモチモチしたリリーの胸を見て、共食いかと考え、八つ当たりと理解しながらその胸をはたく。ふと、先ほど暴れていた時、リリーが取り出した釜のことが気になり、それを尋ねる。「ねぇ、リリー、あの釜ってどうなっているの?」
「みゅ?」
カナデは暴れながらもリリーの釜を見ていた。あれは、自身が出した炎の鳥を釜の中に吸収し、植物が伸びていったのである。以前出会った男と同じことをしており、錬金術師は皆ああいうことが出来るのだろうか? と、疑問に思う。
「えっと、簡易錬金のこと?」
「そうそう、それ。僕の炎を喰っていたわよね?」
「モグモグしてないよぉ!」
「あんたじゃなくてね」カナデは盛大な勘違いをしているリリーの胸をはたく。「その釜は魔力を吸うのかしら?」
「みゅ? ううん、違うよぉ」リリーが懐から釜を取り出し、それをカナデに見せる。「あたしが吸ったのは魔力じゃなくて、『炎』っていう事象――ほら見て」
リリーに言われ釜を見てみると、所々にヒビが入っており、今にも割れそうであった。
「……ああ、つまりその釜はクッションなのね?」
「そうそう、炎や事象で育つ種をこの中に入れて魔力から種を守ってくれるのがこの釜なの。もっとも、釜が壊れちゃ、錬金術を行使出来ないんだけどねぇ」
「むぅ……」
カナデは膨れる。確かに自分が強大な魔法使いと思っているわけではないが、立て続けに自分が作った魔法を素材に使われて良い気はしない。
「みゅ? カナデちゃん?」
「僕の魔法……そんなに弱いかしら?」
「みゅ! ぎゃ、逆だよ!」咄嗟にリリーが叫び、カナデに釜を押し付ける。「初めて割れたんだよぉ! カナデちゃんこそ、どんな魔力してるのよぉ?」
「そうなの?」
「そうだよぉ。確かにこの釜は消耗品だけど、一回で駄目になったのは初めてだよぉ」リリーが釜をひっくり返し、底を眺める。「改良しなきゃなぁ」
「そ、そう――」カナデは髪を指に巻きつけ、クルクルと回す。「ま、まぁ! 僕の魔法だもの。当然よ!」
「……照れてる」アルフォースが「ニヒヒ」と、声を出し、カナデに近づく。
「べ、別に! リリーに褒められても嬉しくないわ!」
「そんなぁ」
カナデは魔法を褒められて嬉しく思ったが、素直に言葉に出来なかった。少し言い過ぎただろうか? と、涙目で膨れているリリーを見て思い、今日の風呂では手加減しようと考えた。
【何よりも深く、深い】
「……う~、今日は気分が悪いのぉ」ヴィルランドは青い顔をしたまま、机に散らばった書類を眺める。「収穫は、なし――かの」
「ランドおじい様――じゃない! 騎士団長殿、お疲れのようですね?」机の向かいから、ひょっこりと顔を出した幼い王。
「良い良い、ここにはわし以外、誰もおらんよ」
「あぅ……あの、それで、どうかしましたか?」
「む? ああ、今朝、ちと鬼とともに食事をしての」
「――?」
首を傾げる王の頭を撫で、ヴィルランドは書類に目を通す。インペリアルガード総出でありながら、一切有力な情報はなく、黄昏の情報屋も現れない。そもそも、何かを成した時、跡と言う物は必ず残る。しかし、今回の犯人はその跡すら残さず、今もまだ、この街にいると言うのである。ヴィルランドは頭を抱えずにはいられない。
「……あ、あの、ごめんなさい。僕が何も出来ないから――」
「そうではない、今回は相手が悪いとしか言いようがないからのぉ」ヴィルランドは王が運んで来た茶を口に運ぶと、肘を机に乗せ、顎を触り、呟く。「アギトが現れないということは、彼奴も知らん奴かの」
「ランドおじい様?」
「菜園の魔王と言う線は消した方が良いかもしれんのぉ」
「ふぇ? どうしてですか?」
「菜園の魔王は何かをするとしても、その跡を残す」ヴィルランドは昨日の夕食を思い出し、小さく笑う。「抜けた者なのかもしれんからのぉ。じゃが、今回の奴は如何せん何も残していない。こういう状況を作り出せるのは、あまり世界に露出せん奴か、世界の裏道を知っている者だけじゃ」
アギトが情報を持ってやって来ない理由。それは、アギトがその者を知らないからである。黄昏の情報屋、完璧であり全ての情報を金に変える。しかし、不明確なことに金は払わせず、その情報すら仕舞いこむ。しかも、およそアギトは菜園の魔王が犯人ではないということを知っている。あれだけの露出、情報屋であるあの竜族が知らないわけがないのである。
「えっと……」王が顎に人差し指を添えながら小首を傾げ、思案顔を浮かべる。「菜園の魔王が最後に出てきたのは、ここからそう離れていない村の畑に野菜を作った。確か、1年前でしたね」
「そうじゃ、どう考えても露出を好まん奴でもなく、裏道を知っているとも思えん」
「それじゃあ、模倣犯? ですか」
「模倣……のう」ヴィルランドは引っ掛かりを感じ、菜園の魔王について思い出す。「彼奴は確かに植物を扱う。しかし、ヘイルを殺したあの術、錬金術の域を超えているように感じるの」
「錬金術を超える?」
「錬金術は釜で成すものじゃ。しかし、釜などどこにあった?」
「え? でも、錬金術なら、人を植物に変える薬とか――」
「そんな物が作れるのなら、錬金術師は皆魔王じゃよ」
魔法使いの仕業だろうか? ヴィルランドはそう考えたが、錬金術より魔法の方が圧倒的に跡の残りやすい術であり、ここまで難航しないであろう。
それに何故、自分たちは菜園の魔王だと思ったのだろうか?
「……何か見落としているのぉ」
ヴィルランドは書類の一枚を手に取り、そこに書かれている文章を読んだのだが、そこには朝から晩までの食事のことしか書かれておらず、破り捨てる。
「……考えても仕方がないの」ヴィルランドは伸びをすると、王に帰ることを伝える。「今日はこれ以上考えてもどうにもならん。わしは帰るが、くれぐれもインペリアルガードの連中を甘やかさないようにの?」
「は、はい!」
【理想は朧気、現実は溺れ気味】
自宅へと戻ってきたヴィルナリアは、すぐに私室へと向かってしまったアルフォースを呆れたが、追いかける気力もなく、宿屋で見つけた種の調査をリリーに頼む。
「それじゃあリリー殿、よろしくお願いする」
「うん、任せてぇ」
「……リリーは調査があるのよねぇ。僕は書庫に籠っているわ」
「ああ、好きに使ってくれ」
リリーとカナデと別れたヴィルナリアは制服から着物に着替え、私室に戻ると、部屋の窓を開け、呆けた表情で煙草に火を点ける。
考えることは、アルフォースとカナデに言われた「もっと考えろ」と、いう言葉である。自分では考えているつもりである。今回の事件も、自分なりに考え、菜園の魔王だと判断した。今回は間違っていたかもしれないが、ただの一回のミスである。もちろん、ミスがないことに越したことはないが、どうせ自分の意見などアルフォースに覆されるだけなのである。失敗しても良い環境にいるのである。
そこまで考え、ヴィルナリアはうな垂れる。先ほど、カナデにアルフォースとヴィルランドに頼り過ぎと言われたばかりであり、嫌になる自分の頭を抱えながら、煙を深く吸う。
「……」アルフォースとヴィルランドの顔を思い浮かべるヴィルナリアは常に引っ張ってもらっていた人生に悪態を吐く。「俺とて、このままで良いとは思っていない」
誰かが言っていた偽物という言葉。このままインペリアルガードを目指しても、自分は偽物なのだろうか? ヴィルナリアは不安に思い、カナデに言われた通り、真っ白な紙を用意し、そこにペンを押しつける。
そして、大きな文字で『インペリアルガードになりたい』と、書いてみた。
「何かが違う――」
「達筆じゃのぉ?」
「うぉ!」ヴィルナリアは紙を丸め、ゴミ箱に向かって放り投げた。
「そんなに驚かんでも良いじゃろぉ。じいじ、ショック」
いつの間に現れたのか、ヴィルランドが部屋に入ってきており、普段から見せてくれるお茶目な笑みを浮かべていた。
「それで、抱負でも書いていたのかぇ?」
「い、いえ――」ヴィルナリアは顔を逸らし、どのように答えるかを考える。そして、諦めたように、今日カナデに言われたことをヴィルランドに話す。「実は、カナデにアルとおじい様に頼り過ぎだ。真っ白なノートに、考えを書いてみろ。と、言われまして」
「……それで、あれを書いたのかぇ?」
「え、ええ」
「ふふふ」ヴィルランドが声を漏らして笑う。
「……何か、変だったのでしょうか?」
「カナデは比喩で言ったんじゃと思うのだがのぉ。素直な子に育ってわしは嬉しいのぉ」
「……おじい様」ヴィルナリアはむっと顔を浮かべる。
「すまんすまん、そうじゃの。カナデが言ったのは、余計な情報を抜きに考えてみい。と、言うことじゃよ」ヴィルランドは横になり、寝そべったまま煙草に火を点ける。「例えば今回の事件、犯人が魔王であるということを抜きにして考えてみぃ」
「は? しかし、勇者を倒せるほどの者は魔王しか――」
ヴィルランドがニヤけており、そこでやっと意味を理解する。ヴィルナリアは最初から魔王というフィルターを通して事件を見ていたのである。今日までのことを思い返してみたが、アルフォースはもちろんのこと、ヴィルランドですら、犯人が魔王だとは言っていなかった。
「……俺は一体、何を考えていたのでしょうね」
「それが悪いとは言っとらん。偏見を失くすというのは中々に困難なことじゃ。それを自然に出来ているアルとカナデは稀なんじゃよ」ヴィルランドが遠くを眺める。「わしもヴィルナリアのように頭が固かったからのぉ」
「おじい様も?」
「うむ。昔のままのわしならお主と同じく、魔王を犯人だと思っておったじゃろうな」
「しかし、違う――」
「そうじゃ。今回の事件、もっと闇が深そうじゃの」
「と、言いますと?」
「考えてもみぃ。今回、何故犯人が菜園の魔王だとインペリアルガードが決めたのか、ヘイルが狙っている。と、訪れる街で豪語していたからじゃよ。お主も聞いたじゃろう?」
「え、ええ――」
「故に返り討ちに遭った。と、な。じゃが、まるで計ったようにこの街で殺害されたと思わんかの? 何故、この街なんじゃ?」
「いや、それは――」しかし、ヴィルナリアには反論する言葉が見つからず、疑問に思う。「何故……か」
わざわざ大きな街でやる理由が存在しない。しかも、この街にはインペリアルガードがおり、それを束ねる騎士王がいる。どう考えても犯人は不利な方に持っていっているのだ。しかも、案の定、外にも出られず、この街に閉じ込められているだろう状況に陥っているのである。
「さらにの、ここまで考えたのなら阿呆の仕業とも考えられなくはないが、序列一位じゃぞ? 何の準備もなしに勝てるとは思えん」
「……計画的?」
「そうじゃ――」ヴィルランドが犯人の目的がわからないと言う。「自惚れるつもりはないが、インペリアルガード。わしも狙われているのかもしれんしのぉ」
騎士団長であるヴィルランドのことを快く思っていないものは多い。何故なら、兵士の身でありながら大きな力を持っており、他の国に与える影響も多いため、邪魔だと思う者もいる。ヴィルランドから聞いた話では、以前、そう言う理由で命を狙われたこともあるのだと言う。
「……それが、この街でヘイルを殺した理由に――」
「かもしれん。じゃ。如何せん謎が多過ぎる。本腰を入れてアルと、それとカナデを交えて話をした方が良いのかもしれん。アギトが出てくれば早いんじゃがのぉ」
ヴィルナリアはアルフォースとカナデならば、何かしらの案を出してくれると思ったが、宿の調査をした時の出来事を思い出す。
「おじい様、そのことなんですが、アルはやる気がないそうです。そして、カナデも飽きた。と」
「む? それはまた、どうして――」
「アルは黄昏に会ったようです。そして、菜園の魔王でないと知ったカナデは飽きた。と」
「……そうでないと確信したかの。カナデはアルの隠し事を知った。と、いうことじゃろうな」
相変わらず、三人が何を考えているのかを理解していないヴィルナリアは何も考えずに今日の調査結果を話しだす。
「リリー殿によれば、黄昏はアルに『男性の複数、それと、アルが関わってほしくない人の犯行ではない』と、いうことだそうです」
「じゃろうな。しかし、男性の複数……のぉ」ヴィルランドが煙草の灰を受け皿に落とし、身体を起こすと、腕を組む。「奴は『そうであろう』情報を例えどんな取引をしようとも渡すとは思えん。つまり、犯人の顔を見ており、菜園の魔王でないと確信したわけじゃな。じゃが、犯人を見たにも関わらず特定できていないところを見るに、奴が知らん者で確定じゃな。面倒じゃのぉ」
「……」
ヴィルナリアはアギトと話すヴィルランドに表情を曇らせた。黄昏の情報屋という者は不法侵入や強請りなどなどの言わば悪党なのである。しかし、ヴィルランドは頼りにしているようで、それに納得していないのである。
「しかし、アギトが情報を一介の兵士に渡すとは思えんのじゃが……アルめ、わしをだしに使ったかの――む?」ヴィルランドがヴィルナリアを見る。「ヴィルナリア、お主がそんな顔をするなんて珍しいの? 運動会でアルがズルして勝った時以来じゃな」
「……ズルだと知っていたのなら叱ってやってください」ズルはいけない。そう考えているヴィルナリアはズルして褒められたアルフォースにヤキモキしていたのである。しかし、それを知った上で褒めていたと言うのであれば、誰を叱れば良いのかわからなくなる。と、ヴィルナリアはため息を吐き、心の中を言葉にする。「黄昏は、悪党です。俺たち兵士が捕まえなければならない者です」
「なるほどの」薄く笑うヴィルランドが天井を仰ぎ、煙を吐く。「あれが悪党であることは否定せん。事実、奴も悪党だと名乗っておるからの。じゃが、奴が悪党であるおかげで一つの可能性が消えたのじゃ。それだけで価値があると思うがの」
「……それは、我々兵士が頼りないからでしょうか?」
「そうかもしれんの。わしを含めたインペリアルガードのことも頼りなく思っておる者もいるかもしれん。生命には意思がある。誰しもが勇者のように、ヴィルナリアのようには生きられないのじゃよ。じゃから、力を持つと悪党になる」
「……魔王も、ですか?」
魔王は勇者になることを否定し、悪戯に力を付けた者であるとヴィルナリアは認識している。それは間違ってはいないはずである。何故なら、力を付けてしまったのなら、勇者になるなり、自身と同じように兵士になり、ヴィルランドの下でその力を存分に使えば良いだけの話。しかし、それをせずただ畏れられるだけの存在か、悪事を働くかしかしない。それが魔王。確かにアルフォースとカナデに言われた通り、菜園の魔王は救った記録がある。しかし、それならば、勇者になって救えば良いだけの話である。その選択をしない時点で、魔王は魔王として人々に畏れられなければならない。故に魔王を敵だと思うのは当然ではないのだろうか……ヴィルナリアはそう思っている。
「魔王もじゃ。お主は、勇者や兵士にならないのなら――と、思っておると思うが、さっきも言ったが、そのように生きられない者もおるんじゃよ」
「それが……菜園の魔王?」
「じゃよ。それにのヴィルナリア、もしわしが兵士を辞めたらどうなると思う?」
意地の悪い質問である。しかし、ヴィルナリアの答えは決まっている。
「賛美されます。おじい様は様々な功績を残しており、魔王になることはあり得ません。全ての人々はおじい様を賛美し、感謝しますよ」
「孫にそう言われるのは嬉しいのぉ。じゃが、わしとて悪戯に力を付けたただの人間じゃ。世界はわしを魔王以上の存在だと言うじゃろう」
「そんなことは――」
「ないとは言い切れん。この世界は歪んでおる。わしは、その歪みを作った一端じゃ。覚悟はしておるよ」
「……」
どんなに賛美されていようとも、その元――守られる。と約束されたそれがなくなった時、人は自分にない力を恐怖するだろう。故に魔王は畏れられる。力を付けた者は畏れられる。ならば、ヴィルランドが騎士団長でなくなった時、ただ力がある一般人になってしまうのである。それは罪なのだろうか? ヴィルナリアは頭を抱え、呆けた表情で煙を吐いた。
「む? ヴィルナリア、頭から煙が出ておるぞぃ。知恵熱かの?」
「……口からです」
ヴィルナリアは、この祖父ならば大丈夫だろう。と、思った。
【開戦直感】
ヴィルナリアが呆れた表情で出ていったのをヴィルランドは笑いを堪えて見送り、自分も私室へ戻ろうとした時、ふいに外を眺める。
「……騒がしいのぉ」
煙草を取り出し、窓から外を眺めるヴィルランドなのだが、身体に力が入るのを感じ、小さく息を吐く。
歳を取ってからというもの、理論や情報では証明出来ないものがあることを知った。それが、特にアルフォースに備わっている第六感というものであり、昔はただの直感では動けなかったはずなのに、この歳になり、自然と身体が動くようになった。
「わしの癒し時なのにのぉ」
この家はヴィルランドにとっての城であり、宝である。小さかったアルフォースとヴィルナリア。この場所で目を閉じれば、今もまだそこにあるように所謂、思い出。しかし、二人が大きくなって、それも重なっていく。ここは、この街は、守らなくてはいけないのである。
第六感が告げる。今宵、動きだす。と……。
「……」ヴィルランドは手を叩き、従者を呼ぶ。「ちと、頼まれてくれんか?」
影に話しかけるヴィルランド。すると、途端に頬に風が走り、その場所にあったはずの気配が消えていた。
「何も言わずにわかってくれるのは嬉しいが、もうちと会話もしてほしのぉ」どこか寂しそうなヴィルランドはハフッっと、息を吐き、空に向かって煙を吐く。「それは鬼か、それとも――」
呟いた声は茜色に消え、本物は獣のように笑った。
【あの時の妄想】
「あ~る~ちゃ~ん」
茜色が黒に染められた時刻、リリーは布団の上でアルフォースを揺らしていた。
すでに夕食時、リリーは宿で見つけた種の調査をしていたのだが、結果がわかるまで少し時間がかかるために、ダイニングへ足を運び、食事を待とうと思っていたのだが、ヴィルナリアにアルフォースを起こしてきてほしい。と、頼まれ、こうしてアルフォースの私室に訪れたのである。
「ご~は~ん~だ~よ~」リリーはアルフォースの肩を持ち、声に合わせてゆっくりと揺らす。「た~べ~ちゃ~う~ぞ~」
「……リリー」アルフォースがくぐもり声で言う。
「ひゃん!」リリーはアルフォースの頭から身を乗り出し、肩を揺らしているのだが、胸が丁度アルフォースの顔に当たり、いきなり動いたアルフォースにリリーは声を上げる。「むぅ~、いきなり動いちゃ駄目だよぉ」
「……」
「みゅ?」
アルフォースから動きがなくなったことに気が付き、リリーは首を傾げる。また寝てしまったのだろうか? そう思い、身体を離す。
「――プハッ!」アルフォースが青い顔で咳き込む。「リリー、窒息しちゃうって」
「みゅ~?」
「俺の口がリリーの胸で押さえつけられてたんだよ。息出来なかったんだから」
「あ~……」リリーはアルフォースの話を理解するのに4秒かかり、ハッとなり頭を下げる。「わ、わぁ、ごめんねぇ。まったく気が付かなかったよぉ」
「リリー、今後、男の人にどこかに行こうって誘われた時は、俺かヴィルかじいちゃん、それとカナデかおっちゃんを通してから受けるように」
「みゅ?」リリーは理解出来なかったが、アルフォースの提案ならば正しいのだろう。と、頷く。「わかったよぉ」
「バルドが心配するわけだよ」
「みゅ? バルド、心配してた?」
それは自分があの場を去った後なのだろうか? リリーはアルフォースと一緒に話した時、バルドにはそういう気がまったくなかったことを思い出していた。
「うん。バルドってさ、リリーの前だと素直――と、いうか、照れ臭くて本当を隠すんじゃないのかなって。詐欺師が嘘を吐かないのと同じでさ」
「えっと?」
「どんなにふざけて言っても、言葉の意味自体は同じってこと」
バルドの言葉を思い返してみると、確かに心配しているような言葉がチラチラと混じっていたことにリリーは気が付く。
「最後に言った最高級の綿っていうのも、それだけ大事にって意味でしょ?」
「そうなのかなぁ?」
「そうだよ。リリーのお父さんは優しいね」
「うん」
家族を褒められて嫌な気持ちになる者は少ないだろう。故にリリーはアルフォースがバルドを優しいと言ってくれたことを嬉しく思い、笑みを浮かべて、伸びてきたアルフォースの手に頭を向ける。
「今回の事件が終わったら、ちゃんとバルドと話したいなぁ」
「それは大歓迎だよぉ。みんな、身内同士でしか会話をしないから、そろそろ出てきてほしいんだよぉ」
「こう言う時のために数人、家で従者やる? 畑も作ってさ。じいちゃんもきっと気に入ると思うんだよね」
「あ~、それが出来たら嬉しいかもぉ」
この屋敷には土地もあり、畑を作る分には申し分なく、さらに落ちている物が良質な素材ばかりであるために錬金術の研究も捗る。ここに居させてもらえるのならば、バルドたちも喜ぶのではないか。それに、ヴィルランドは様々な知識も持っており、バルドとは気が合いそうなのである。
「今度、相談してみるよぉ」リリーはバルドたちにアルフォースたちをちゃんと紹介したくなり、早く解決することを祈りながら、ふと、今バルドたちが何をしているのかが気になる。「むぅ、バルド、ちゃんと食べてるかなぁ? よくよく考えたら、バルドのお友だちもバルドみたいに変な人なんじゃないかなぁ?」
「リリーは稀に毒を吐くよねぇ」
「鈴蘭?」
「随分綺麗な例えだことで」アルフォースがリリーの乱れた浴衣を直すと、ふにふにとリリーの頬を摘まむ。「大丈夫だよ。街なら食べ物もあるし、心配なら、明日捜しに行こ?」
「……アルちゃん、お城は――」
「バルドの方が大事!」アルフォースが叫ぶ。
きっと、またサボるのだろう。リリーはそう思ったが、アルフォースの提案が嬉しく、つい抱きついてしまう。
「うりうり」アルフォースがリリーの頭をつつき、涙目のリリーを見つめる。「これは本物かな?」
「みゅ?」
「何でもないよ」アルフォースがリリーから身体を離すと、立ち上がる。「さ、行こ――」
【ホンモノ】
宵闇に蠢くローブを羽織った男。闇に紛れてその姿は限りなく曖昧であり、ここまで歩んできた『本物』を脱ぎ棄て、『ニセモノ』へと変異する。
男は『偽物』ではなく『ニセモノ』理解している。どれだけ上から本物を被ろうとも、所詮はニセモノなのである。故に『残してはいけない』本物を残してはいけない。だからこそ、この場所を選んだのである。
魔狩りの英雄・ヘイル=プリーシアに菜園の魔王だと名乗ったこの男は、錬金術師が考察、過程、結果を決められた道順で廻るように、シナリオを頭と、そして、ここまで共に歩んできた者たちに刻みつけた。
「一を歩むから、二に辿りつく――そして、百まで辿りついた時、私たちは……」
呟く声は誰に聞かせるでもなく、ただただ、空気に解け、闇に消えていった。
菜園の魔王にとって、宝なのである。世界は宝。だからこそ、認めるわけにはいかない。例え、本物が認めても、ニセモノであり、本物を模倣する男は誰よりもそれを否定しなければならない。自分が与えられた役割だとか、罪滅ぼしだとか、そんなことは関係ない。男は心から守りたかった。そして、男は菜園の魔王となったのである。
理解している者たちにはニセモノと蔑まれるだろう。いや、最早、理解出来る者は本物だけであり、その宝もきっと失望してしまうだろう。それで良い、彼女は繋がりを消し、元々一人であったようにこの世界に在らなければいけないのである。宝が愛した世界とともに――。
この世界に未練がないと言ったら嘘になる。しかし、宝は恵まれているのである。『今朝』その宝には友人がいた。その友人は聡明であり、優しい子、きっと支えになってくれるだろう。見届けられないのは残念であるが、これ以上、先に進むことは出来ない。
「あとは、私だけか……」菜園の魔王は手に持った植物の種と土、そして、液体の入った注射器を眺める。「これで、超えられる」
この理論に辿りついたのは、まったくの偶然だった。
狂人の存在は知っていた。だが、それは机上の空論であり、実現など出来ない――はずだった。しかし、宝がそのピースを思いついたのである。
あれは幼い宝が、野菜を作り始めて数日経った頃、菜園の魔王とその仲間が外で起きた戦争で死んだ者の人数がどれだけかの話をしていた時、ふいに呟いた。
「人がこの野菜みたいなら、みんな喧嘩しないのかなぁ? 傷つけ合わないかなぁ」と、呟いたのである。最初はみんなで笑い、宝を撫で、人の愚かさを一から順に教えたのだが、納得出来なかった宝が菜園の魔王の研究していた『命』の資料を持ち出し、独自に編みあげた。
菜園の魔王は出来あがったそれを見て、人を超える行為は許されない。と、叱ったのだが、捨てることも出来ず、蔵の中に眠らせていた。
しかし、ある時、宝が世界に見捨てられ泣いている時、まるで示し合わせたように宝が編み出したそれが目の前に現れたのである。
菜園の魔王はそれを自らの手で書き変え、実現可能な術に昇華させたのである。
人を釜とし、人を植物へと変える。
植物が育つ環境は水と土なのだが、それは植物の特性によって左右される。故に男は作った。人を喰い、成長する植物を。
人に備わっている魔力、そして感情や意思、それらを喰うことで人という在り方から植物の在り方へとシフトする。
それらの準備にかかった時間は長く短い。最も困難であったのは、人の身体に入った植物を成長させるための『何か』であった。何故なら、人と同じで、食事にはペースがあり成長も物それぞれ、普段使う成長促進の土では環境が異なり、成すことが出来ない。しかし、男は『魔物』という存在でそれをクリアした。奴らは魔力の塊であり、幾ら数が減ってもどこからともなく増える。菜園の魔王は、長い時間をかけて魔物を植物に変え、その植物を粉砕し、それを土と混ぜることで、多大な魔力と成長を促進させる薬を人の中の環境に順応させるように作り変えたのである。
あとは自我をある程度保つための精神安定剤。もっとも、常人が使えば発狂間違いなしだが、植物へと変わるのだ。それくらい必要なのである。
「……」
そして、菜園の魔王は種を飲み、土を飲み込むと注射器を刺し、両手を広げた。
体中のあらゆる器官、部位から軋むような音が鳴り、植物が身体を突き破る感覚。しかし、痛みはない。それは薬のおかげなのか、それとも達成感から出る感情が痛みを抑えているのか……最早、その判断を下すことは出来ない。
「あぁ――やっと、やっと……お前は、本当にナケるのカ」喉を潰し、植物がその役割を模倣しだした。
ニセモノの菜園の魔王――否、バルド=プリズナーは、狂気と正常を纏わせた表情で笑う。
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