過去三様、そして現在
フィティアンの診察室は、整理整頓という言葉からかけ離れたカオスと悪趣味の吹き溜まりだった。壁一面はくしゃくしゃの張り紙とメモに埋め尽くされ、ネズミや猫の小動物ワイトが走り回る。そこにサイゴとミリヤ、着替えたニフリートが集められていた。部屋の主の傍らには、半人半猫のナースワイトが一体。エヴァネッセンス49は、現在もオーバーホール中。
「ロトボア博士の名前と、ハーネラくんの体を調べてみて、こいつを思い出したよ」
フィティアンは自分が使っているスチール机の上に、古びた医学雑誌を置いた。
「一九七八年の夏号、これにロトボア博士の論文が載っている」
フィティアンが開いて示したページには、確かにロトボアの顔写真があった。サイゴが知っているのは八十手前の顔だけだが、確かに面影がある。写真の下には、ラップランド大学助教授、をはじめとした肩書きや経歴が添えられていた。
「
「で、拡張型ってのはどう凄いんだよ」ニフリートが先を促す。
「要は、超高密度のフィラメント体なんだが、更にそのフィラメントを体外へ伸長する〝ベクター〟を持たせたワイト、だね。かなり乱暴な説明だが……あー、一応フィラメントについて説明しよう」
「手短にお願いします」サイゴはあらかじめ釘を刺した。
「超便利な万能神経、以上」
サイゴはチョップの手を構えた。
「先生、もう少し適度に易しくて詳しいと僕は嬉しいですね。難解な専門用語とか全撤廃で」
「注文の多いヤツめ。そう急かすんじゃない」フィティアンはぺろりと舌を出した。「フィラメントとは、
「いきなり良く分からないわ……」ミリヤはしょんぼりと眉根を寄せたが、フィティアンは構わず、ぺらぺらと舌をふるった。
「フィラメントの密度とはそのまま、思念体の細胞数と、ネットワークの複雑度を指している。分かるかな? ワイトというものは、指の先で、骨の髄で、臓腑で、いやいや全身が脳になったように、思考することが出来るのさ。フラクタル・ブレインだよ。身体制御モジュールや、各種プラグイン、そしてマインドならその意識や自我が、ネットワークによって保存されているというワケだ。おかげで、頭を潰されようが首を落とされようが、〝この自分〟は継続する! まあ、脳は思考の補助として重要だから、ボクのような第二世代は頭を潰されると死ぬがね」
「先生」
とうとう側頭部にチョップを受け、フィティアンは咳払いした。
「ともあれ、これがワイトの体を動かす、現代最高峰のスーパーコンピューターさ。誕生から半世紀も経つのにね! このため、ワイトの肉体は一つの生態系を成し、還死剤を取り込む以外での排泄を必要とせず、ヒトからヒトへフィラメントが感染することもない。それに」流れる言葉はとどまる気配がなかった。
「それで、拡張型だとどう違うんですか」ミリヤは理解しようと必死な顔だ。
「うむ。さっきベクターと言ったが、これはフィラメントが細胞を再構築して生み出す、新たな肉体器官の総称だ。稀に報告されるワイトの外傷自己治癒は、このベクターによって行われるんだが……ほとんどは偶然発生したもので、狙ってそれを行う技術は現在も確立されていない。あー、つまり拡張型ワイトは、ベクター生成能力を持たせたワイトなんだよ!」
「革命的ですね」
サイゴはよろずワイト請負業者であり、還死学やワイト工学の専門家ではない。だがベクターのことは、一度ならず耳にした覚えがあった。
「アンニヒラトルという名称、そして超高密度のフィラメント。おそらく最初の用途は第四世代型ワイト兵器だろうね。彼と、ベムリ・リンドが、マインドと化しているのは、フィラメント密度が高すぎて、容量に空きがあったためだろう。自我や記憶を、思念体たちが保持しているんだ。フィラメント導入後のマインドなんて、狙って造らなきゃまず生まれない物なんだから」
「兵器としちゃ欠陥だろうな」
ニフリートの発言に、フィティアンは神妙な顔付きで繰り返しうなずいた。
「ああ、欠陥品さ。知ってるかね? 神経細胞が異常な増え方をする稀病がある。患者はその影響で幻覚に悩まされて、精神が破綻するんだ」
サイゴは机の上、フィティアンが出した検査結果の束を見やった。さっき手にとって軽く眺めた所、ニフリートのフィラメント密度は一般的な戦闘型に比べても異常に高い。人体は六〇パーセントが水分と言われるが、この検査結果が間違いでなければ、ニフリートの体は七割方フィラメントで構成され、更に伸び代がある。
「同じようなことが、自我を持つワイトには起きる。体が以前と変わりすぎているから……記憶や、認識や、その他色んな物が歪んで行く。死の瞬間を記憶しているなら、フラッシュバックやPTSDが襲う。そして、先も言ったようにキミは……アンニヒラトルは超高密度のフィラメント体だ。つまり、過去知られてきたどのマインドよりも、自我崩壊の危険が高い」
しん、と部屋の音が冷え切った。ミリヤが息を呑む音も、圧縮されて消えるような。何か言いたげな彼女の表情を察し、フィティアンは付け加える。
「現代まで生き残っているマインドの多くは、ボクのような第二世代型が大半を占める。フィラメントが開発されだした頃の物だから、密度が低いんだ。フィラメントよりも、自分の脳神経で思考している分の方が多いぐらいだろうね。だからかなり事情は違うと思ってくれ……ところでハーネラくん、何か兆候はないかな。居ないはずの誰かが見えるとか、おかしな声が聞こえるとか」
ニフリートは無言で首を振った。
「仮にそうなることが確定しているとして」サイゴは硬い空気を押しのけるように声を出した。「進行を遅らせる、または状態を回復する手段はありますか?」
「そんなもん、彼を死体置き場で冷凍しとけ、としか言いようがないね」
つまり、お手上げだ。
「彼を活動状態に置けば置くほど、時限爆弾の針は進むと思っておくことだ」
「なら、残り時間はどのぐらいだ?」
ニフリートはぼりぼりと頭をかきむしって言う。さすがに、落ち着かなさげな仕草だった。フィティアンは匙を投げるジェスチャーをする。
「悪いが、前例が無い。キミがどの程度キミでいられるのかは未知数だ。……ああ、ベムリ・リンドはキミと同型だったね。しかも既に二年活動している。彼を捕獲して、サンプルとして解析できるのなら何か分かるかもしれない。他はまあ、ベクターの作り方を自分で分かるようになっても、決して使わないことだね。それがキミの自我を蝕むことだけは予想出来る」
ミリヤは喉を引き絞るように唸った。あの、とかそんな、とか。切れ切れに言葉を吐き出し、何かを言おうとしても、言うべき何かが見つからない様子。ただ、代わりに涙を出してしまわないよう唇を噛み、歯を食いしばり、やがて彼女はしゃべらなくなってしまった。フィティアンは、心なしか声のトーンをやわらげて、補足する。
「キミは狂うかもしれないし、そうじゃないかもしれない。マインドの精神破綻なんて、ごくわずかな例が発見されて、慌てて研究自体禁止されてから、ほとんど確認されてないんだ。だから、マインドが増えれば、いつかは発狂しない、完璧なヤツも出てくるかもしれない。ボクは違う。だが、キミがその一例になることを祈るよ。……多大な幸運を」
「気休めのつもりかよ」
吐き捨てて、ニフリートは診察室を後にした。ミリヤはそれを追うかしばらく迷ったが、サイゴに後押しされて退室する。診察室は二人とナースワイトだけになった。
「先生、あの二人大丈夫だと思いますか」
「さあねえ」フィティアンはにべもない。「ボクが言えることはほとんど何もない」
「正直、僕もちょっと自信がないんです」
サイゴは目を閉じ、わずかな間、眉根を寄せた。
「ミリヤさんの希望通り、ニフリートさんと暮らせるよう足場を固めるとして……その後、彼の精神が破綻したらどうなるか。彼女は自分の父親に殺されてしまうかもしれない」
「悲観しすぎは良くないぞ。だいたい、依頼を一度達成した後のことまで気にしてちゃ身がもたんよ」
あっけらかんと返すフィティアンに、サイゴは少し語気を強めた。
「アフターサービスってのもあるでしょう。明らかな爆弾を残したまま、依頼完了とは言いたくありません」
「キミは責任ってヤツが好きだな」
フィティアンは、「しょうがない子だ」と言うように、フンと鼻を鳴らす。
「多少、気持ちも分からなくはないが、なんでそんなに肩入れするね?」
サイゴは「さあ」と曖昧に笑った。少しだけ昔を思い出す、ゾンビ回収船を降りて、インゴルヌカに辿り着いたばかりの少年時代。
あの時、サイゴは長旅で体調を崩していた。熱で朦朧としていたばかりに、間違えて人間の医者ではなく、ワイト専門の医者にかかろうとしたのが、フィティアンとの出会いだ。間違いに気づいて去ろうとしたサイゴだが、その場で倒れ、「人体を扱うには変わりない」と介抱された。その上、フィティアンは回復したサイゴを、クリニックの雑用として住み込みで雇ったのだ。
「十六年前、あなたがなぜか僕を拾ったのと、同じようなことかもしれませんよ」
十一の子供に、十六の子供が面倒を見られる図は長らく奇妙に思えた。しかしサイゴがフィティアンの年齢を信じられるようになる前も、後も、彼はインゴルヌカにおけるサイゴの保護者的存在だったのだ。
そのフィティアンがマインドならば、なぜ見も知らぬ自分を助けようなどと思ったのだろう。彼の正体をサイゴが知ったのは、ごく最近のことだ。
「……その例を持ち出すのは卑怯だ」フィティアンは鼻白んだ顔になった。「よって論外。雑談は終わりだ、仕事の話を続けよう」
それ以上有無を言わせず、フィティアンは検査結果について説明した。後は一通り、サイゴが父子にこれを聞かせなくてはならない。
サイゴが待合室に戻ると、ミリヤとニフリートはどちらもほっとした様子だった。あれから、ろくに会話を交わしていなかったらしい。サイゴが治療の終わったエヴァ49を受け取る間も、父子は言葉少なだった。ようやく、ミリヤがしゃべり出したのは、クリニックを出ようとした時だ。彼女は出入り口で立ち止まると、ニフリートの両手を取り、包み込むようにそっと握った。
「ね、お父さん。私たち、きっとやっていけるわ」
「ああ……鎮伏屋への依頼、決めたのか」
ニフリートの声音は、どこか心ここにあらず、といった響きがある。それはサイゴの気のせいかもしれないが、ミリヤが気づいた様子はなかった。
「私、弱虫で、泣き虫で、情けない娘かもしれないけど。頑張るから。お父さんと、この町で。ね? 私、お父さんがどうなっても、ずっと傍にいる」
淡々とした口調の中に、熱情を込めてミリヤは語る。
「お父さんを一人にしたりしない。……だから、私を一人にしないで」
「バカ野郎、親は子供を置いてくもんだ」
瞳を潤ませる娘とは対照的に、ニフリートは冷めた笑いで手を離した。父親と同じ、翡翠色をしたミリヤの瞳が、一瞬前とは別の感情で濡れる。その決壊を思い留まらせるように、ニフリートは「まあ聴けよ」と、彼女の肩に手を置いた。
「お前に話すかどうか迷っていたんだがな」
意地の悪い微笑、次に迷いを飲み込んで苦々しい顔、最後に、観念したような無表情を順々に作り、ようやく口を開く。
「俺は人殺しなんだ」
サイゴは黙って、ミリヤの横顔を見つめた。彼女はぽかんと、今一つ理解し切れていない顔をしている。ニフリートは構わず続けた。
「七つの時、家に三人の男が押し入って両親を殺した。俺は殴られ、ベムリは撃たれ、怪我が治った後で施設に入った。ロトボアの爺さんが経営してた、グラナッティオメナにな。ま、ここまでは鎮伏屋からも聞いたよな……その後だ。俺たちは復讐してやろうと思っていた。逮捕された三人を、いつかこの手で殺してやるってな。
ある日、爺さんは俺たちの企みに気づいて、手伝ってあげようと言い出した。俺たちに銃の撃ち方や、格闘技や、人の殺し方を教えてやろう。その代わり、大人になったら自分の仕事を手伝ってくれ、とさ……俺たちは二つ返事だ。爺さんの目的は、俺たちに人を殺させて、後戻り出来なくなった所で、子飼いの殺し屋に仕立てることだった。それから何人、殺したと思う?」
半歩、ミリヤは後ろへ下がった。父親の大きな手が外れる。サイゴはその小さな肩をそっと誘導し、ミリヤを受け付け前のソファに座らせた。
「最初の一人、俺を銃の握りで殴った男を殺した時は、さすがにショックだったもんだ。でも、その後は、なんだ」頭を掻いて、ニフリートは一瞬記憶を探ると、微かに口角を吊り上げる。「悪くなかった。俺とベムリは復讐を楽しんで、やり遂げて、その後も爺さんの元で働き続けたんだ」
娘と同じ色をした瞳が、底なしの暗い光を湛えて、少女と鎮伏屋を交互に見た。
「分かるか? ミリヤ。ある日俺は弁護士の男と、そいつの十七になる息子を殺した。次の週末、俺がその金で買ったのが、お前の誕生日プレゼントだ。あの、おもちゃのピアノだよ」
しゃっくりのような声、潰れて形にならい叫びがミリヤの喉から漏れる。その顔色は、よく掃除されたクリニックの床よりも白く、ワイトのように血の気が無かった。
「お母さんは……」ミリヤは言いかけて、大きく息継ぎをし、もう一度口を開く。「お母さんは、それ、知ってたの。うすうす感づいていたとかじゃ、なくて」
ニフリートは淡々とうなずく。
「あいつとは、グラナッティオメナで出会ったんだ。あまり長い間は一緒に居なかった、里親に引き取られて、施設を出て行って……それから七年生の時にまた、だ。ベムリと二人で住んでいたアパートに、よく出入りした。銃を見つけられた。俺が人殺しだって話した時、あいつは、じゃあ自分を助けてくれって言った……殺して欲しい奴がいるってよ」
「嘘よ」ぜいぜいと苦しげに息をしながら、ミリヤは叫んだ。「お母さんが、そんなこと頼むなんて」
「あいつの里親はな、クオナを引き取ってしばらくした後に離婚した。その、再婚相手の男が標的だ。そいつはクオナの体が目当てだった。後は分かるよな? ミリヤ。俺はあいつの見ている前で、クソ野郎を殺した。あいつにも一発撃たせて、共犯者さ。それから付き合ったり別れたりして、お前が出来て、結婚した。ベムリの野郎は言ってたな、〝嗚呼、この世は血と精液まみれ〟……ハハッ、俺もベムリも、血で潤っていた。恨みも何もない連中を痛めつけたり、殺したりすることを、何とも思わねえ人間になっていたんだ。こうなったのも、何かの報いって奴だろうさ」
言って、ニフリートは大声で笑った。ミリヤが耳を塞ぐ。頭を振り、体を折り曲げて縮こまろうとするのを、ニフリートは制した。両の手首を掴んで耳を開かせる。
「だからお前は、俺のことはもう忘れろ。こんな、いつ頭がおかしくなるかも分からねえ、人殺しが大好きなロクデナシのことなんざ。俺のことがバレちまう前にな」
サイゴが何か口にする前に、ミリヤは言い返した。一息に、呼吸を全て言葉にしなくては、涙に崩れて戻らないと知っている、必死な声音。
「バカなこと言わないで! 私、お母さんのそんな過去知りたくなかった! 言うだけ言って後は忘れろとか、自分は消えるなんて無責任よ!
……ねえ、あなたは必死に生きてきた、その上でたくさん酷いことを、悪いことをしてきた。それは償わなくちゃいけないことだと思う。でも、その前に、お父さんはどこまでも、私のお父さんなのよ?」
「俺と居ても、お前は駄目になるだけだ」
「どうしてそう決めつけるの! 人殺しでも、ワイトでも、あなたは、私にとって生きる希望よ!」
傍らでミリヤの叫びを聞きながら、サイゴは胸が締め付けられる息苦しさを覚えた。ミリヤが死者であるニフリートにそこまで言えるのは、父親があくまで生前の人格を残しているからだろうか? だが、三歳だった彼女には、ニフリートの人物像などほとんど記憶にないはずなのだ。生ける死者をこんな風に受け容れるモータルが、この世にどれほどいるものなのか。
「だから、それが駄目なんだよ! 俺はお前の未来を喰い潰す、父親なんざなれやしねえ、ただの悪霊だ! 死人にすがるな!」
ぼそりと、サイゴは「幸せ者ですねえ」と口を挟んだ。「貴方の言うことも分かりますが、死してなおこんなに求められているのに。それを捨てるんですか」
「私は……私は……」
ニフリートに冷たく切って捨てられ、ミリヤは唇をわななかせる。嗚咽に喉を震わせ、言葉を無くしかけて立ち上がった。父の胸に頭から飛び込み、拳を叩き付けて、一際声を張り上げ、叫ぶ。
「私はインゴルヌカに死にに来たの! お母さんの心残りを片付けて、お父さんの体をきちんと弔って、自分も綺麗さっぱりこの世から消えちゃおうって! ……でも、お父さんが生き返って、やり直せるかもしれないって思ったのよ。生まれ変わろう、もっと強い自分にならなくちゃって、初めてそう思えたの」
サイゴとニフリートが動いたのはほぼ同時だった。
ソファが粉砕され、ミリヤの体はサイゴの腕に収まる。彼女の命がまだあったのは、ニフリートがどうにか思い留まったからだ。
「なんだよ、そりゃ。おい。ふざけてんのか、バカ娘」
ニフリートの顔からは、それこそ死者のように表情が失せていた。かろうじてバカ娘という言葉にだけ反応し、ミリヤはくしゃりと顔を歪める。
彼女はまだ何が起こったか理解していない。自分の父を怒らせ、反射的に振り上げられた拳で、殺されかけたのだ、とは。もちろんニフリートは即座に殺す気ではなかったのだろうが、ワイトの筋力は充分に致命的だ。
騒ぎを聞きつけて、フィティアンとナースワイトが診察室から飛び出した。
「うーるさーい! 何やって……ああ!? うちのソファが! 床が!」
わらわらと、それまで閑散としていた待合室にナースワイトたちが集合する。そして手際よく、陥没した床の欠片や、真っ二つにされたソファを片付けていった。サイゴらは部屋の奥へ移動してそれを横目に見やる。
肩を怒らせて、フィティアンは一行に詰め寄った。じろりと父子を睨む。
「何やってんだい、キミたち。ここはボクのクリニックだぞ」
サイゴは「お騒がせしてすみません」と言って頭を掻いた。ニフリートは「悪かったな」と憮然として一言。事態を理解したミリヤだけが無言で、ただ青ざめて震えていた。ショックが大きすぎて、泣くことすら出来ないでいる。
その様子に、フィティアンはただならぬ雰囲気を察したらしい。少年医師はつとめて明るく言ってみせた。
「早速、親子喧嘩かね。ボクはハーネラくんに、娘さんを大切にしろと言ったつもりなんだが、やれやれ」フィティアンは窓辺へ近寄り、ショーケースにもたれると、コンコンとそれを叩いた。
「ご覧の通り、ボクはこういうフェイクスイーツが好きだ。子供の頃、つまりボクがまだ人間だった頃、こういうのを食べる機会がなくてね。一度だけケーキを食べたのは、弟と二人、還死学者に買われた後だ。手術の前夜、最後の晩餐として。とても美味しかった……が、今、ボクは同じ味を知ることは出来ない。でも、思い出すんだ。記憶の中に、少しだけそれが残っている」
「何の話だ」
ニフリートが固い声で訊ねると、フィティアンは「黙って聞け」と言うように、手を振った。
「記憶は摩耗する。ボクは寒さも温かさも甘さも辛さも柔らかさも硬さも、どんどん忘れていく。それでも、人と話したり、食事したり、ベッドで横たわったりすると、おぼつかない記憶がよみがえるんだ」
ケースに背をもたれ、フィティアンはニフリートを真っ直ぐに見た。
「ハーネラくん、キミも覚えておくと良い。キミが失ったものを、決して忘れるな。夜はベッドに入り、朝は起きて、娘と食事の真似をしろ。ボクらはもう人間じゃない、それは確かだが、人間以外の何かになろうとするな。人間の振りをし続けなければ、ただのワイトと同じになってしまう。キミは物言わぬ死体じゃないだろう?」
――……DAISY SLAY……♪
「そんな問題じゃねえんだよ」ニフリートは牙を剥くように唇を噛んだ。「俺は元々人でなしなんだ」
――DAISY DAISY DAISY SLAY……♪
「少しは年寄りの言うことを素直に聞きたまえ。ソファと床、診療費と合わせて請求しておくよ……? なんだい、この歌」
一同がそれに気づくのと、クリニックのドアが蹴破られるのは同時だった。陽気な歌声が、耳障りな機械の音に乗って飛んでくる。
『デイジー・デイジー・デイジー・スレイ♪ 花の中に埋もれて死んだ♪ デイジー・デイジー・デイジー・スレイ♪ 花の力でよみがえり♪ デイジー・デイジー・デイジー・スレイ♪ 花を踏めばやって来る♪ デイジー・デイジー・デイジー・スレイ♪ お前の首も摘んでやる~♪』
朗々と歌い上げる人工声帯の主は、見せつけるように手にしたものを高く掲げた。サイゴは腕の中に抱えたままのミリヤの顔を覆う。
「お嬢さん、見ちゃ駄目だ!」
ぱたぱたと滴る赤黒い液体が、白く磨かれたエントランスを汚す。黒い涙のタトゥーを刻んだ顔にあるのは、底抜けの笑顔。
ベムリ・リンドが手にした物は、今し方ねじ切ってきたとおぼしき、人間の生首だった。
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