幕間(3):約18枚
ピアノと少年の場合
about 16 years ago……
鍵盤から弾き出される音階が、ことごとく滑稽な惨殺体になって踊っていた。どんな素人でも、このピアノより酷い演奏は中々出来ないだろう。外で合唱している蝉の方が、よっぽど音楽している。
懸命にピアノを弾く少年の背後、教師は渋面を隠そうともせず、忍耐強くそれに耳を傾けていた。少年はたどたどしく楽譜を追いかけるが、鍵盤をしょっちゅう踏み外しては、リズムとメロディが迷子になっていく。
少年の右手、その甲には二次元コードのようなモザイク模様が、四角く刻印されていた。半年前までは無かった物だ。
「……よろしい」
曲が終わり、教師はようやく、何度も口にしかけた一言を出す。途中で演奏を止めさせるべきか否か、彼はずっと迷っていた。
「
初老の教師はその部分を強調した。窓から差し込む夏の日差し、それが厳しい顔付きを照らしている。
「ピアノが、好きじゃないだろう?」
見透かした言葉に、サイゴ少年は図星を突かれ、唇を噛んだ。教師は深く、大きく、憂いも露わに溜め息をつく。
「若い才能を見ること、それを育てられることは、私の何よりの幸せだ。だが、君の場合、その才能も情熱も、彼と一緒に消えてしまったんだね?
彼は君で、君は彼だった。同じ体なら、才能も同じだろうと思ってこの数ヶ月見てきたが、やはり君は完全な別人なんだな。あの彩呉君ではない。
……もうこれ以上、レッスンを続けても意味は無いだろう」
サイゴは力なく、「はい」と返すしかなかった。教師の苦しげな声音、失望の溜め息、それは少年がこの半年間、周囲の人間から聞かされ続けたものだ。
やっとこの人も諦めてくれたんだな、と安堵とも悲哀ともつかない何かが、静かに胸を浸していた。レッスンは終わる、そして次はない。
「彼にはピアノがあった。君には何かあるかね、世界を愛しいと思える、心から大事にしたい何かが。もし無いなら、ピアノでなくても良い、探してみなさい」
「はい」
教室を出れば、そこは生徒のための待合室だ。同世代の少年少女数名、会釈するサイゴに誰も目を合わせようともしない。ただ、彼の背後に見える教師の姿に、さっきまで続けていたくすくす笑いとひそひそ話を取り止めただけ。かつてのライバルたち、今はサイゴがまるで相手に、いや話にならないと知っている。
「だが、もし……君が君として、心からピアノをやりたくなったら。また来なさい」
「ありがとうございました」
少しだけ教師へ感謝の意を込めて、サイゴは別れの挨拶を終えた。
レッスン場、兼、教師の自宅を後にしようとすると、乗ってきた自転車が誰かにパンクさせられていた。彼はもはや、それを嘆く気にもなれない。
どうせ〝よみがえり〟に居場所はないのだ。サイゴは何でもないような顔をして、自転車を押し歩き出す。
昼下がりの住宅街、きらきらした木漏れ日と蝉の声。世間の学生は、残り少なくなった夏休みを満喫している頃だ。平和その物の景色の中、己の存在だけが異物のように思える。本来ならばサイゴも高校に通い、何の気兼ねもなく自由な時間に身を浸しているはずだった。
だが不本意ながら、彼は進学を取り消され、就労も許されないまま、飼い殺しのような無職に甘んじている。ここ数ヶ月は、ピアノ教室に通うことだけが、彼の唯一社会的と言える活動だった。それすらも今は過去形だ。
……だがこんな自分にも、帰る家というものはある。今は、まだ。いつかそれも終わるだろうと思いながら、サイゴはささやかながら自身を励ます。
(僕がよみがえってきた時は、あの母親も結構喜んでいたっけ)
半年前、サイゴは交通事故で死んだ。そして数日後に、死体用冷凍庫の中で目を覚ました。死の淵からの生還ではない、完全な死亡からの復活だ。
目覚めた時は訳が分からなくて、ただただ怖かった。人一人がぴったり収まる狭い空間、何も見えない暗闇の中、自分は裸で、凍えるように寒い。苦労して腕を曲げながら天井を叩き、泣き喚いた。そこから出られたのは、何とか呼び出しブザーに手が触れたからだ。死体が生き返った時のために、あらかじめ用意された物。
人が死ぬ、そして損傷の少ない死体に限り、稀にだがよみがえる。そんな現象が世界中で確認されるようになって、既に一世紀が過ぎていた。
「……そうだよ、ピアノなんて好きじゃない。聴くのはまだいいけど、自分でやるのは本当にきつい。教室のみんなだって、ライバルが居なくなってラッキーじゃないか。どうせそろそろ、母さんだってこうなると思っていたんだろうけど……教室辞めること、何て言おうかなー。あーめんどくさいなー」
一度過去のことを思いだし始めると、サイゴは流れ出す記憶を止められない。出来るだけそこから意識を逸らすように、彼は独り言を始めた。
「あいつ、ピアノの才能だけは、僕に渡したくなかったんだろうな」
自分自身のことだというのに、他人事のようにそう思う。
サイゴは決して不器用ではなかった、大抵のことはそつなくこなせる。けれど、ピアノだけは呪われたように上達しない。
以前の記憶が無い訳ではない。だが、それは渡された台本や他人のプロフィールのように、まったく実感を伴わない情報だ。ただの純粋な知識。
それでも、サイゴは自らの過去に従おうとは努力した。レッスンの記憶をたどって、ちんぷんかんぷんの楽譜を何とか読んだ。戸惑いながら鍵盤を叩いた。前生の自分が好きだったピアノのCDを何枚も聴いた。
「あーもう、終わりだよ終わり。これっきりピアノなんてやらなくていいんだ。せいせいするね」
サイゴは空元気を振り絞り、「わっはっはっは」と笑い声を上げてみた。が、どうにも虚しい。響く蝉の声が嘲笑うようだ。
冷凍庫から出された後、サイゴは死体置き場の職員から毛布とホットココアをもらった。人心地ついたと思ったら手首を掴まれ、機械に突っ込まれて、電気のようなショックがあった。それが、今手の甲にある刺青だ。
国際基準のゾンビ証明印。「この人は一度死にました」……父親はそれを見て、差別的だと職員に食ってかかった。その時は。
「……そういえば最近、いや一ヶ月か、もっと。父さん口きいてくれないな」
迎えに来た両親は、泣いて自分を抱きしめてくれたものだ。この人たちが親だとは知っていても、実感はなく不安だけがある。それが、どれだけ慰められたか。
「おっ」
サイゴは気配を感じ、ふと足を止めた。
「死ねー!」
軽く首を傾げ、飛んできた物を避ける。地面に当たり、転がったのは親指ほどの石ころだ。
「毎回毎回当たるか、バーカ」
振り返り、襲撃者に声をかける。今通り過ぎた公園で遊んでいた、小学生二人組だ。以前は何度かヒットしたが、所詮相手は子供だ、事前に警戒していれば避けられる。公園には保護者らしき老人がいたが、叱ったり止めたりする気配は微塵も感じられなかった。サイゴも別に期待してはいない。彼は自転車を押す手に力を込め、出来るだけ早く立ち去ろうとした。
「バケモノのくせに!」
その、背後から。頭に重い一撃。一瞬気が遠くなりかけながら、サイゴは「ザマーみろー」と笑う子供の声を聞いた。地面に崩れ落ちる。
「……お前らなー、覚えてろよー」
本気で仕返しするつもりはないが、口だけでも言わなくてはやってられない。犯人たちはとっくに逃げている。ゆっくり身を起こしながら確認すると、少し血が付いた拳大の石が、傍に転がっていた。痛みは無視できるが、頭を打ったならあまり動かない方が良いかもしれない。が、自分が這いつくばっていれば、通行人は遠慮なく踏んでいくだろう。サイゴは立ち上がった。
「新記録だね、このサイズ。まったく、化け物で悪うございましたっ……と」
倒れた自転車を起こし、再び帰路に就く。やれ、ゾンビだよみがえりだというだけで、人はあらぬ噂を立てるものだ。人を襲って血を吸うとか、触ると呪われるとか、実は道連れが欲しくてあの世から戻ってきただとか。根も葉も無くとも信じれば、イワシの頭だって花が咲く。家族もとばっちりで肩身が狭い。
ピアノ教室も、自分が通っていることで良くない噂が立っていたらしい。何人かの生徒も、それが元で辞めている。まるで疫病神だ。
この手に付けられた刺青さえ無くなれば、一目でゾンビと見抜かれることもなくなる。何度も消したい衝動に駆られたが、そんなことをすれば逮捕され、即座に実刑判決だ。ゾンビに少年法は適用されない。
社会のありとあらゆる場所で、死者は排除される。だから彼は、いつでもどこでも居心地が悪い。
「うん、だから、いいさ、そんなことだろうと思ったんだよ。いつか、どうせね」
自宅の前に来て、サイゴは乾いた声で呟く。門前には、白と黒の花輪が置かれていた。輪の下に書かれた送り主の名は、母方の叔父。
それに、立て札……『向良家葬儀式場』。祖父も、四歳の妹も、父も母も、今朝家を出た時にはぴんぴんしていた。この家に死人など、自分一人しかいない。
「ひゅ~どろどろ~。幽霊のお帰りですよ~」
サイゴは玄関前で立ち止まると、乱暴に自転車を投げ出した。自然と足は玄関ではなく、庭へと向かい、それを見つける。開放された居間にしつらえられた、祭壇と棺桶。その前には読経する僧侶と、喪服姿の母親が。そして黒い服を着せられて、何も知らず退屈そうに座る妹。祭壇に飾られた遺影、その顔はサイゴ自身のものだった。
「おにいちゃん、おかえり」
お気に入りのぬいぐるみを抱えた妹は、無邪気に挨拶した。きっと、ここで何をしているのか分からないのだろう。母親は一言、「静かにしなさい」と妹をたしなめて、サイゴの方を見向きもしない。
「何やってるんですか、母さん」
サイゴは顔が、唇がしびれるような感じを覚えながら言った。血流が荒れ狂っているのだ。僧侶が一瞬、ちらりとこちらを見やる。だが読経は淀むことなく続いた。
「静かにしなさい。これは
母親は帰ってきた息子を見ることもなく、無感情に言う。サイゴは虚をつかれた。
「……僕の?」
「あなたじゃないわ。あなたじゃない……私が生きてて欲しかったあの子よ。邪魔をしないで」
サイゴはぼんやりと室内を見回した。白と黒の横断幕で覆われた部屋が、四方八方から自分を押し潰そうとするようだ。
位牌や、燭台や、花に囲まれて、自分の顔写真が飾られているのが気持ち悪い。この場に居る自分自身の異物感、違和感が、暴き立てられているようで。死んだはずの人間、有り得ない存在、許されない間違いが、ここにいるぞ! と。
「参列しないなら、部屋へ行って。もうあなたは、うちへ置いておけない」
母親はぐっと唇を引き結んだ。その後に続く「だって息子じゃないもの」という言葉を堪えたのだろう、彼はそう思った。
「そうだね」
サイゴは、浅く張った氷を割るように、薄く笑った。
「いつか、こんな日が来るとは思ったんですよ」
「おにいちゃんー、お・か・え・りー!」
妹が立ち上がり、サイゴの袖を引っ張った。無視されてすねたように、再度再度の挨拶をしてくる。
「ああ、
サイゴがぽんぽんと軽く頭を叩くと、妹は満足したのか、にっこり笑った。座布団の上へ戻り、ちょこんと座る。兄が居なくなるなど、思いも寄らないのだろう。
「……父さんは参列しないんですか?」
「役場よ。彩呉の死亡届を出しに」
つまり、サイゴの戸籍をこの家から抜く、ということだ。例え未成年であろうと、ゾンビとの法的絶縁は、遺族の権利として認められている。
「今までお世話になりました」
深々と、サイゴは体を折り曲げてお辞儀した。石を投げつけられ出来た、後頭部の傷を思い出し、少し焦るが反応は無い。
「ピアノ。辞めてきたんでしょう?」
庭の出口、立ち去りかけた背に言葉が刺さる。無言でうなずくサイゴに、母親は「やっぱりね」と冷ややかに言った。
「あなたは、あの子みたいに、ピアノなんて好きじゃないものね……」
夏の太陽が暑く照る中、足元に霜が降りるような、底冷えのする気分がした。こんなにも汗が浮いてくるのに、体は凍えきって震えている。冷凍庫の中で目覚めたあの時のように、痛いほど寒い。サイゴは夢遊病者のようにふらつきながら、門をくぐった。自分が放り出した自転車の横を通り過ぎて、発作的に走り出す。
陽に焼けたアスファルトの路面が、どこまでも伸びていた。あたりは蝉がざわめく田園地帯、人の姿もない昼日中。陽炎に包まれたその景色を、サイゴは息せき切って横切っていく。どこへ行こうという訳でもない。汗を流し、心臓を動かして、肺の酸素を入れ替えながら、自分自身の肉体を強く、確かなものと意識したかった。
「生き返ってごめんなさい、ぐらい言っとけば良かったかな……」
足を止め、吐き出した言葉に自分で驚き、彼はちぎれんばかりに首を振った。そんな罵迦な。絶対に謝ってやるものか。
実の所、サイゴは自分が死んだことも、生き返ったことも信じてはいない。ただこの世に生まれてくる時に、もらった体が他人のお古だっただけだ。
彼は荒々しく地面を蹴って、再び走り出す。
葬儀式場を見た瞬間、暴れてやろうと思った。僧侶を突き飛ばして、祭壇を壊して、中身のない棺を暴いて。死んだのは自分じゃない、まだ生きてる人間の葬式を勝手に出すな、と喚いてやるつもりだった。けれど、そうじゃない。違うのなら邪魔は出来なかった。いや、それでもやっぱり、暴れてやれば良かったのかもしれない。
「……母さん、葬式なんて茶番だよ。消えて、居なくなって欲しいなら、僕は僕で勝手にやる!」
吐き気にも似た嗚咽を堪え、走りながら叫ぶ。今日まで抱えてきた物を吐き出し、重荷を捨てなくてはと、どこか強迫的な思いがあった。
「あんたたちが勝手に、あいつの幽霊を僕に押しつけてきただけだ、ちくしょう!」
あの母親は、前生の自分だけじゃなく、今生の自分も、一緒に葬るつもりだった。その証拠に、もうあの家には居られない、居たくもない。
ならば、どこへ行こう――どこへ行きたい?
自分のようなよみがえりが、安心して暮らせる場所。
化け物退治を気取った子供や、見知らぬ人間に、突然罵声を浴びせかけられたり、塩や石を投げつけられない世界。
不意に、らしくもなく足がもつれた。前生と違い、運動神経は良いのに。無様に転び、熱い路面に倒れ伏す。そのまましばらく、彼は何もかも諦めたように動かない。
「……インゴルヌカ……」
やがて、サイゴは乱れた息の中、奇妙な響きの名を口にした。
人種も性別も性嗜好も出自も門地も、人が生得的に持っているどうしようもないあらゆる条件による差別が、ほぼ排除された場所がある。そこは、一度死した者のための地であるがゆえに。死者にかつての人生など無いのだから。
世界最初にして最大の、『死者のための都』ネクロポリス・インゴルヌカ。
サイゴからすれば地の果ての、北極圏にほど近い異国の都市。そこでは市民の八割近くが、自分の同類だ。生ける死者と動く死体が集う、おおいなる霊園……。
サイゴははたと、アスファルトの熱をまるで感じないことに気がついた。無意識に行っていたゾンビの特権、痛覚の消去。その気になれば空腹でも睡眠でも性欲でも、どんな生理的欲求でも消し去ってしまえる。何しろ一度死んだ身なのだから……これこそ、半分は生きていないことの証拠でもある。
「それでも、僕は生きたいんだ」
サイゴは声に出して、自分自身に言い聞かせた。例え殺されたって、何度でも生き返ってやる。誰にもこの命は奪わせない。
――僕はお前じゃない、他の誰でもない、僕自身として生きる。幽霊は消えろ。僕は絶対に、二度とピアノなんてやらない。
誰に必要とされなくても、罵られても、どれだけ否定され、傷付けられても。自分は確かに、この世に存在している。それが醜くかろうが、汚かろうが、この自分だけは、己が生きていることを許したい。
でなければ、死にたいと思うことこそ何よりも惨めだ。……もちろん、生きていることは苦しい。体の痛みは消せても、心の痛みは消せない。
けれど、この苦しい気持ちこそ、半分は生きてることの証拠だった。
――だから、お前の分まで僕は苦しんでやるよ。一生かけて。
自らの内面に語りかけるように、サイゴは胸中ささやいた。記憶の中に見える前生の彼は、繊細で、神経質で、いつも母親のプレッシャーに苦しんでいた。その辛さそのものをサイゴは実感出来ないが、共感は出来る。ただ、前生の彼はピアノその物が好きだったから、彼女からの期待にも押し潰されなかった、それだけのことだ。
「出来れば……僕に、お前にとってのピアノみたいなものが見つかるよう、祈っててくれよ」
サイゴは立ち上がった。入道雲のそびえる青空、見上げれば一陣の風が吹く。彼の決意を後押しするように。風の中で、サイゴはつぶやいた。
インゴルヌカへ行こう、と。自分のピアノを探しに。
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