八 白峨八年夏―同九年秋
禁軍の三倍にあたる兵を預けられるその役目は一見栄誉職にも見られたが、
母と姉は王都の屋敷にまだいることは許されていた。
出立の頃はぼんやりとしてほとんど会話を成すことが出来なかった、母の
次の将軍かと思われるはこの人かと思われていたが、なぜか隊将に降格され今の将軍とその補佐官は少々問題のある人物だ。それだけでなく左軍のほうも、湲がいつだかろくなものではないと愚痴を言って男が就いている。軍も揉め事が増えさらに文官たちも内部で対立がおこり大変らしい。
湲は一体これをどう収集するつもりなのだろう。
嫌な予感だけが胸を焦がしていく。
そして王都より長い冬を越えて春を迎える頃には文の数はは増えていった。父の側近やら昔自分の下にいた者や、旧友らである。
朝議に王はおろか丞相すら姿を見せることが少なく、たまに来れば私欲に走る官吏の味方をするばかり。派閥の対立も激しく、どこが主導権を握るかのいがみ合いが露骨になって朝議がまとまらないとどの文にもあり、皆一様に一度戻ってはこれないかと最後に書き加えられていた。
父が死んでわずか半年である。
こうもはやく歪が産まれているのは異様だった。意図的に、としか捉えようがない。
鴻羽はそこで帰郷を決意した。
***
花の散った禁苑の桃花楼を見上げる東屋に、その日ふたつの花があった。湲と柚凛である。
「鴻羽とはお会いになりませんの?」
「会わないよ。分かってるくせに。本当に意地悪だね、あなたは」
湲は肩をすくめて柚凛が持ってきた茶菓子をつまむ。鴻羽が帰郷してきて呂淳に謁見を求めていることはすでに耳に入っている。やはりじっとはしていられない性分らしい。
「別に意地悪するつもりではありませんけどね」
柚凛が不服そうにつぶやいて空になった茶杯に新たに茶を注ぐ。柔らかい日差しが降り注ぎ緑が煌めく中、向かい合う美しい容姿のふたりの様子は春そのものである。だが流れる空気は冷え込んでいる。
「……余計なことはいいから、とにかく尚書連中上手く煽っておいてよ。鴻羽はまだ帰る気なさそう?」
「だから、あなたが直接帰りなさいと言えば済む話ですわ。会ったらついて行きたくなる?」
湲が椅子の背に深くもたれかかりため息をつく。
「ああ、もう本当に猫剥ぐときついなあ」
柚凛が入れ替えのことまですべて知っていることは本人から聞いている。どこまで絡んでいたのかまでは問いただしてはいない。
まかれた種に水をやっただけだと言われれば、種をまいた本人としてはこれ以上聞く気にはなれなかった。
「なら、これはお読みにならないほうがよろしいかしら」
柚凛は胸元から一通の文を出す。うっすらと透けて見える中の几帳面な文字は見慣れたもので、湲は泣き笑いのような顔をした。
「中、読んだ?」
柚凛がゆったりと微笑む。
「弟には恋文を書く才はありませんわね。残念ながら普通の嘆願書」
「だと思ったよ。なら中身もだいたい分かった」
予想した内容をかいつまんで言ってみせると、柚凛がくすくすと笑い声をあげる。
「お見事ですわ。あなたはこんなにも鴻羽を理解しているのにあの子は駄目ね」
鴻羽のことを語るときは柚凛は辛辣だ。これが彼女の行動の理由のすべてだろう。
「それでいいんだよ、鴻羽は。だけど先のことを考えると、あなたにはしっかり鴻羽を裏で支えておいてほしいな。あんまり意地悪はしないであげて」
ただただまっすぐで、だからこそ彼から注がれる愛情は簡単に胸に入り込んできた。
今でもまだ会いたいという気持ちはある。しかし想いを遂げることはできずとも、代わりに彼に残せるものがあると思うと波立つ心は穏やかになる。
どうしようもない我儘をきいてくれた呂淳は、嘆くこともなければ自分を傷つけることもなくむしろ陰鬱さが消えて穏やかな表情でいる。。
宮中は騒がしいけれど、自分たち主従は毎日は静かで平穏だ。
「ええ。出来うる限りは。今日でお会いするのは最後がよろしいかしら」
柚凛が言うのに湲はうなずく。
そして彼女が帰った後、桃花楼を眺めながら今日も自室でのんびりと書物をめくっているだろう呂淳の元へと帰った。
***
後宮を出た柚凛はまず父の側近であった初老の男に声をかけられ、悲しげに微笑む。
「……申し訳ありません。丞相様にもう来るなといわれてしまいました。遠方へ追いやられた弟や、志半ばで亡くなられた父のために少しでも出来ることがあればとは思いましたが、所詮は女の身。なにも成果を出せずに情けなく思います」
男は瞳を潤ませて何度もいいえと言う。
「お嬢様のそのお優しい心を分からぬあの者が悪いのです。……若君はどうされるおつもりでしょうか」
「いまから返答を持って行くつもりです」
けれど、と柚凛は愁いを含んだ瞳をそっと男からそらす。
「弟はやはり陛下と争うのには出来るだけ避けたいと思っていますが、このまま時を置いても変化がなければいずれは……その時は力になってくださいますでしょうか」
男が神妙な顔でもちろんとうなずき頭を垂れて廊下の奥へと消えていく。彼に話が通ればば、他の父の側近にも言葉は伝わるだろうと柚凛は口元に淡く笑みを浮かべる。
「姉上」
そして男の消えた反対側から鴻羽が硬い面持ちでやってくる。
「あら、待っていてと言ったのに来てしまったのね。お二方ともお前に会われないそうよ。わたくしも二度と来るなと言われてしまったわ」
「……そうですか」
固く閉じられた後宮への扉を見つめ、鴻羽がため息をつく。初めからあまり期待していなかった顔だった。
それから姉弟は静かな回廊を並んで歩く。
「もう戻ってしまうの?」
「……姉上は俺がいない方がいいでしょう」
「そうでもないわ。お前のそういう顔が見られないのはつまらないもの」
微笑みかけると鴻羽の表情が強張った。だが彼はなにも言わなかった。
「本当に、つまらない子」
つぶやいて柚凛は足を止める。鴻羽がその数歩先でようやく立ち止まり振り返る。
「……俺はこのまま戻ります。母上のことはよろしくお願いします」
憐憫する顔でそう言って鴻羽が先を行くのを、柚凛は立ち止まったまま見送った。
他に回廊を行き交う人はなく、木々の葉擦れがやたら大きく聞こえてやけに孤独を側に感じた。
***
夏に鴻羽は剣ではなく鎌や荷車を持って、村の近くの山を兵や住民と共に登っていた。
国境警備、とはいえども攻めてくる敵もおらずここ一年近くは開墾に力を費やしていた。このあたりは土地が痩せてあまり食糧が取れないが、稗畑ぐらいならどうにかなるだろうと開墾を始め、気がつけば似たような環境の近隣の村のあちこちに兵を割いている自分がいた。
畑を増やしたところで人手が足りないのでこれまで手はつけられていなかったが、先のことを思えばやるにこしたことはない。
兵の中には近隣の国より流れてきて傭兵として雇われている者も多い。すでに戦が少なくなった今、彼らが国に腰を据えるのに働き食っていく場所は必要である。
帰郷したものの結局呂淳にも湲にも会えず、為すすべもなくここに戻ってきた鴻羽にとっては打ち込めることのあるこの環境はありがたいものだった。
「いや、いや、さすが斎家のご子息ですなあ。お父君を思い出します。昔は食糧が少なくて食いっぱぐれて死ぬもんも多くいたんですがね、お父君のおかげでそういうこともなくなって感謝したもんですよ」
何度も同じ話をする老人に苦笑しながら鴻羽は実った稗を眺める。
いくつか村を巡るうちに渓雁に感謝する者の多さに驚かされた。
確かに立派な人であったのだろう、父は。それがいったいどこで間違ってああなってしまったのか。
考えたところで本当のところを知る本人はもういない。
もういっそこのまま農夫にでもなってしまおうかとも思うが、そういうわけにはいかない。
すでに王都周辺の州にまでとある噂が広がり始めている。
王は宦官を重用し他の者の言葉など聞かずその宦官も政務をこなさず、王とふたりで自堕落に過ごしている。この宦官は傾国の美姫さながらの容色で、王はすっかり入れ上げており世継ぎをもうける気配すらない。これまで国が保たれていたのはすべて前の丞相の力によるものであり、その嫡男は有能であるが王を窘めために閑職に追いやられたのだ。
などという噂である。
これを聞いたとき鴻羽は頭を抱えた。事態は悪化の一途を辿っている。
湲がなにを狙っているかは明白だった。
国の先を憂う一部の文官と武官はしだいに結束を固め、自分にもう一度王都に戻って欲しいという文がこの間届いた。血の気の多い者は湲を始末すべきだなどとの声まで出ているらしい。
そうして秋を迎える前、
左軍将軍の発案だったようだ。これによって反対派と賛成派で大きく割れた。
蒼魏はすでに安定を取り戻し始め、攻め込むにはあまりにも危険が大きい。先走った者が勝手に李宋に蒼魏攻めを促したが、さすがに向こうも明確な勝機が見えねば協力はできないと情勢を訝しんでいる。
李宋との間にまで亀裂が入ってしまうのはどうあっても避けねばならない。
王にこの事態をおさめてくれと何度訴えても、国の行く末を左右する事態だというのにまるで無関心な様子についに先を思いやる官らは王を見限った。
「どうかご決断を」
元補佐官が自ら宿舎である小屋に来訪してきて現状を告げたのち、告げられた言葉に鴻羽は眉根を寄せる。
「反乱の先導に立てということか」
「そうです。譲位をお求めください。軍の皆はあなたに仕えることを不服としない。文官らも斎家の当主であるあなたならば相応しいと」
父の思惑通りに事が進んでいくのに鴻羽は瞳を伏せる。
「……王陛下はどこへ追いやるつもりだ。彭も、もう置いてはおけないだろう」
譲位させた後はふたりとも王都に留めておくわけがない。
呂淳はそれでいいのだろう。王位は彼の心に重すぎる。すべてを棄てて湲さえ側にいれば心安らかにいられる。
これが呂淳の自分への復讐なのかもしれない。
「
鴻羽は静かに愚かでないなら、この情勢の中で何をすると元補佐官に問いかける。
しばらく思案したのち元補佐官は顔を蒼ざめさせた。
「まさか。あの方は……」
湲は渓雁の策を利用して官吏の浄化を行う気だ。
反目する武官と文官は国の危機というひとつの試練が放り込まれれば、まともな者はいがみ合っている場合ではないと結束する。
私欲にしか頭が回らなかったり先の見通しがろくにできない者は、王の無気力につけいってただ好き放題し右往左往するだけ。
そして水と油のように優秀な者とそうでない者が綺麗に分離される。
余計な火を起こす油を取り除けば澄んだ水が残る。
その危機を乗り越えた後も文官と武官を結束させるのに、広く名が知れ畏敬をもたれる斎家の当主であり、十数年武官として軍に属した自分は態がいい。
湲が君主として国の繁栄を望ものならば。
「……俺はその意思を無為にするわけにはいかない」
鴻羽の声は悲愴なものだった。元補佐官はその様子に言葉もなくうなだれた。
そうして三日の後、鴻羽は王都に向けて足った。
***
反乱軍が王都へとの報告が入ると一気に王宮は騒然となった。
始めわずか五十の兵のみの軍勢は王都に近づくにつれ、各地の兵が尽き従い三千まで膨れ上がっていた。
すでに鴻羽につくつもりの者達は息をひそめて今か今かと待ちわびている。
朝議が開かれこの事態になっても玉座は空のままだった。
これは王を見捨てるべきかどうか、立ち向かうべきかと決めかねている者達は不意に現れた丞相の姿に口を閉ざし静まりかえる。
纏う衣装の色は紫。
王のみに許されたはずの禁色だった。
「敵の数は三千。我らが三万の軍勢が負けると思うか」
玉座の前に立ってさも自分が王であるかのようにふるまう湲に、誰もなにも言わなかった。
ただ圧倒されていた。
柳眉、長い睫毛に縁取られ黒曜石の嵌った切れ長の目、通った鼻梁、花弁に似たな唇。
完璧に配置された顔に浮かぶ傲岸な表情は天上の神に思えるほどだった。
「兵は全員正門に集まれ。策はいらない。迎え討て!」
高すぎずかといって低いわけでもない声は、衣擦れの音すらない場内でよく響いた。
余韻が消え静寂の後に人々がそれぞれの道へと動き出す。
湲は人が消えてから玉座に腰を下ろす。
空になった部屋を見渡し、なにかを想起するように瞳を閉じてしばらくしたのちに静かにその場を去った。
***
王都の門は待ち構えていたかのように開かれ、王宮の正門へと続く大通りを鴻羽は兵を引き連れゆるやかに進む。何事かと不安とともに様子を見る住民らは、先導に立つ鴻羽の姿に表情を期待に満ちたものに変える。
門が緩やかに開かれ、広場にはぎっしりと兵が詰めていた。しかし彼らは腰に下げた剣を引き抜くことはなく、道を開け前の者が跪く。それにならって後ろ者がと地に膝をつく者は増えていき、鎧の奏でる音がさんざめく。
「貴様ら何のつもりだ!」
宮殿の入口に立つ鴻羽よりも背丈も胴周りも一回り大柄な、壮年の左軍将軍が唾を飛ばし罵声を浴びせかける。彼を冷ややかに見ながら馬から降りた鴻羽は、道の真ん中を悠然と進む。
金属音が跳ねる。
曇天の隙間に残る陽射しを切り裂いて刃が交錯する。
「通してもらわねば斬るしかありません」
間合いを置き鴻羽は淡々と言いながら、音もなく燃えさかる蒼い火を灯す瞳を左軍将軍に向ける。
「若造がっ!!」
上から振り降ろされる刃を交わし、鴻羽はそのまま流れるように剣を操る。
銀の煌めきに深紅が尾を引く。
地面に伏した左軍将軍の巨体には見向きもせず鴻羽は前へと進む。立ち向かうつもりで剣を握っていた兵らも一斉にひれ伏した。
仕掛けられた変革の筋書き通りに動いている自分は滑稽だ。
そんな空虚を胸に抱きながら先に進むと、尚書らが自分たちを迎えた。その傍らには見覚えのある左軍隊将がふたりいた。このふたりは湲が信を置いていたはずだ。
「陛下と彭丞相は?」
戦う気はないとみて安心し剣を納め、鴻羽は彼らに問いかける。
「譲位なさるよう説得したのですが……」
もとより権力の固執するそぶりを見せない気弱な王だ。多勢に敵にまわれれたら大人しく譲位すると踏んでいた尚書らは、頑として譲らない王に困惑していた。しかし鴻羽も同じだった。
ここで譲位すれば全てが終わるはずである。なぜ拒む必要があるというのだろう。
「斎殿、彭丞相よりの預かりものです。本来ならば全てが終わったのちにと言われたのですが」
苦しみに耐える顔をして隊将のひとりがそっとひとつの包みを袂から出し、鴻羽に渡す。
白い絹の布で包まれたそれを開いて体の芯から熱が消えさった。
「ふたりはどこに!」
声を張り上げると尚書が肩をすくめて後宮のほうにとか細い声で言い、鴻羽は駆けだす。
湲が託したものは腕輪だった。艶やかな黒真珠と瑠璃真珠の、伯母の形見であるはずのもの。
後宮に飛び込み、呂淳の私室へ走るが誰もいない。脅える女官に問いただせばふたりは禁苑へと出て行ったということだった。
鴻羽は方向を定められず苛立ちながら広い禁苑をあてどなく駆ける。
ふと、木々の向こうに頭を突き出す桃花楼が目に入る。
根拠はなかった。だが確信はあった。
「早まるな……」
祈りながら鴻羽は楼閣へと向かった。
***
「雨、降りそうだね」
高楼の二階の小部屋で座りこむ湲は窓の外の空を見る。少しばかり覗いていた薄青も灰色へと変わっていた。
土と緑の匂いをたっぷりと含む湿った風が湲の髪を揺らめかす。
「湲……」
呼びかける呂淳に淡い笑みを浮かべて湲はその手を取り両手で包みこむ。
壊れやすい物でも扱うようにそっと。
「お前は、後は好きに生きていいよ。鴻羽なら何とかしてくれるだろう」
すべてを鴻羽に託すことを許してくれた呂淳を、最後まで付き合わせる気はさらさらない。
湲は彭軍師の形見である短刀をゆっくりと引きぬく。刃に映る自分の顔に恐れはなかった。
「呂淳?」
刃を首へとあてがおうとしたが、止められて湲は訝しげに刃を握る手首をしっかり握る呂淳の顔を見る。
泣く寸前の顔をして呂淳が短刀を奪い取る。
「返して。もう、ワタシは、呂淳……」
がたんと一階で扉が開く音がする。
鴻羽だ、と湲が思うそばで呂淳が己の首に刃を当てていた。
「駄目。呂淳、やめて」
呂淳が死ぬ必要などありはしない。
「先に逝って、お待ちしています」
階段を駆け上がる足音。
湲は立ち上がり手を伸ばす。だがそれより早く呂淳が喉を掻き切った。
「呂淳っ!!」
かしぐ体を受け止めて自分の視界の端で噴き出す血を呆然と眺める。短刀が床に落ちて呂淳がしがみついてきた。
「…………れ」
かすかな声が耳に届いて湲は目尻から雫を伝わす。
精いっぱい母の代わりに呂淳を幸せにしてあげるつもりだった。なのに結局王位という重圧を背負わせ裏切りに脅えさせ、なにひとつ喜びを与えることができなかった。
ここでようやくしがらみから解放してやれると思ったのに。
どうして死を選ばせてしまったのだろう。
足音が近づいてくる。
半ば放心していた湲は我に帰り呂淳の体を横たえて床に落ちた短刀を拾い上げた。
「ごめん、ごめんね。すぐ行くから」
血にぬめる呂淳の頬を撫でて湲は今度こそ短刀を持って自分の首へと持っていく。
その時、扉は開かれた。
「湲っ!」
誰よりも会いたかった人が自分の名を呼んでそこにいた。
湲は顔を歪め、刃を首にあてたまま愛おしい人を両の目に映した。
***
急に湲が死んでいくのを見るのが恐ろしくなって短刀を奪った。
死なせたくない、とは不思議と思わなかった。下の扉が開く音はたぶん鴻羽だと気づいて、ふと自分の感情の真実が見えた。
共に生きたところでもはや湲の心は鴻羽の元にあり続ける。それが嫌だった。ならばいっそ湲が死んだらなんの心配もいらなくなる。けれど湲を失くしてひとりで生きていくこともできないから、共に死ぬつもりだった。
困った顔で自分を見上げる湲の顔に、ふとずっとこんな表情ばかりだと思い出す。
湲の笑顔が好きだった。
鴻羽と引き離してからはずっと寂そうで、笑っていても瞳の奥は悲しげだった。
自分がここで死んだら湲は昔のように笑えるのだろうか。けど鴻羽の隣にいる湲は見たくない。
もしかしたら後を追ってきてくれるかもしれないけれど、自分が選ばれることはやはりないかもしれない。
どっちにしろ死んだら何も見なくてすむ。
それが楽だろう、と気軽に己の首を切った。
抱きとめてくれる湲の声が遠くて寂しくなってくる。
どこにも行かないでくれ。
最期に喉を震わした言葉に呂淳はやっと気付く。
自分はただ湲を愛していたんだと。
***
鴻羽は喉に刃をあてているもののまだそこにいる湲を見つけてまず安堵した。
「どうして……」
しかし、その傍らの血だまりに横たわる呂淳の姿に呆然とした。そのあと幼い頃の日々が頭を巡って目頭が熱くなる。
「鴻羽、あとはたのんだよ」
だが湲が首に刃をあてたままそう言って悲しみに沈む間はなった。鴻羽は首を横に振り覚悟を決めた顔に焦燥に駆られた声で呼ぶ。
「よせ。ここで死んで何の意味がある」
剣を下ろせと懇願しても湲はしっかりと柄を握りしめたままだった。
「ワタシだけ生き残るわけにはいかないんだよ。むしろ生き残ったら何の意味もなくなる。呂淳の死も何もかも無駄になるんだ」
湲は冷たくなった呂淳を見下ろしている。その滲んでいる瞳から涙がが零れ落ちていた。
そうしてその首筋からは薄皮が破れ血が伝い始めている。
「罪なら俺も共に背負う。ひとりで全てを背負おうとするな。だから、生きろ。一緒に生きてくれ」
心のどこかで、傲慢な自信があった。
すべてを終えて手を差し出したならば、湲はその手を取ってくれると。
だが目の前の湲は短刀から手を離そうとしない。ほんの一歩ほどの距離ならば力づくで刃は奪えるだろうが、この距離では手を伸ばすより刃がその喉を裂くほうが先だ。
どうすればいい、と鴻羽は自分に問う。
しかし問いかけだけが頭の中を延々と周り答に辿りつけない。
「お前に託したいんだ。お願い。王としての責務を果たせないワタシの代わりに、国を先へ繋いでいって」
湲はまっすぐに自分を見ていた。
「お前なら、果たせる。湲、まだ終わりじゃない」
どこまでも深い闇色の瞳が涙で煌めいていて、その目が細められる。
口づけの後によく見せるはにかんだ愛おしい笑顔。
鴻羽は抱き寄せようと手を伸べる。
「ありがとう。幸せだったよ」
視線を合わせたまま湲は刃を引いた。
白い喉元から深紅の花が風に散らされ舞い飛ぶかのごとく血が噴く。
その体がゆったりと前のめりに倒れて、その場で凍り付いていた鴻羽はのろのろと前に進む。
湲を抱き上げて、血の溢れる首筋を押さえるが止まらない。
「湲」
頬にかかる髪を取り払って名前を呼びかける。
閉じられた瞳の長い睫毛は震えない。薄く開かれた唇から吐息はこぼれない。
愛していたすべてが温度を失くしていく。
「どうしてだ。どうして……」
額を合わせて、鴻羽は嗚咽もなく泣いた。
その涙と湲の頬を濡らす涙と血が混ざり合い溶けていく。
降り注ぎ始めた雨の音は遠いようで、とても近い胸の内で鳴り響き続ける。
彼が永遠の眠りにつく日まで。
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