七 白峨七年秋―同八年初夏


 秋の初め李宋いそうと東側の小国を攻め落とすための軍議の途中、かく将軍が血を吐いて倒れた。肺の病らしく、もう先が短いだろうということだった。

 しかしながら今回の戦は左軍に任されたものなので、そのことにえんは気を落としてはいられなかった。隊将らは将軍の補佐官を中心に準備を進め、秋が深まる頃にはどうにかまとまった。

 そしてようやく体が空いて後宮へ向かった湲だが、呂淳りょじゅんはおらず書庫にいるということで引き返してそちらに向かっていた。

「こんにちは。久しぶりだね。今日も書庫? 呂淳いるよね」

 途中の廊下で柚凛ゆうりんを見かけ挨拶をする。今日も今日とて王宮で暇つぶしをしているらしい。

「……ええ。いらっしゃいましたわ。少しお話もお聞きしたのですけれど大変そうですわね。湲様はまた戦に行かれてしまいますの?」

「いや、今度はいかない。湍茜たんせん攻めに出た奴らは今回は残ることになってる。そう難しい戦でもないし、雪が少ないところだから春ごろまでには決着つくかな」

「そうですの。なら鴻羽こううも寂しくありませんわね」

 含みを持った柚凛の笑顔に、湲は言い逃れできそうにないと愛想笑いをひっこめる。

「最近忙しくてろくに会ってないけどね。気づいてたんなら早く言ってくれればよかったのに」

 鴻羽の元に通っていることは噂になっているので、実際本人に詰めよってみたのだろう。柚凛ならばそう上手くはない鴻羽の嘘ぐらい見抜いてしまったに違いない。

「鴻羽は秘密にしたがっているみたいだし、邪魔になってはと思って我慢してましたのですけれどねえ。この間、鴻羽がいつまでたっても縁談を断り続けるものだからお父様が勝手に話をまとめようとしましたの。あんまりだと思って鴻羽に告げ口したらお父様と鴻羽が大喧嘩してしまいまして……」

 呂淳の縁談に関してはなおざりだというのにとなんとも呆れた話である。

「家のためにはワタシに身をひいてほしいってことかな」

 人通りは周りにないものの、ふたりの声は自然と潜められていく。

「いいえ。わたくしはね、女が自分の幸せを犠牲にしてまで家名だの血統だのくだらない男の自己満足に付き合ってあげる義理はないと思っていますの。もし、あなたの幸せが鴻羽と共にあることならそうしていただきたいわ」

 慈愛に満ちた柚凛の表情の裏に、出会った時のやつれて蒼褪めた顔が見えた。

 男に産まれたかったのかもしれないと、いつか言っていた彼女にとって血統や家名は女を不幸にするものでしかないのだろう。

「……嬉しいけど、無理だろうね」

 そのために母たちは幸せを得られなかったかもしれないが、自分はくだらないとは言えない。

 それを守るために命を賭した者たちがいた以上は。

「でも、鴻羽のことは愛していらっしゃるのでしょう?」

 湲は首を縦に振らなかった。

「感情を優先出来るならすごく、楽だろうな。こんな半端な体だしね」

 皮肉な物言いに柚凛が憐れんでか眉をひそめる。

「あなたも、とても窮屈そうですわね。答はゆっくり考えていただきたいけれど……」

 思わせぶりに一度目を伏せて柚凛が言い淀む。何、と首をかしげると、その視線が躊躇いがちに合わされる。

「陛下の癖、湲様なら知ってらっしゃるでしょう。女官がこのごろ陛下の衣装によく血の染みがついていて落とすのが大変だって言っているのを聞いてしまって……。嘘というのは時を置けば置くほど悲しいものになるのではありませんか?」

 すがりつく視線に湲は顔を曇らせる。

 呂淳が不安を感じたり心が疲れている時に、自分の腕をひっかいてしまう癖は知っている。あれだけはやめさせたいが、いまだに術が見つからない。

「もう少しだけ、内緒にしてもらってていいかな」

 果たしてこれは何度目のもう少しだろうか。

 答を見つけられぬままずるずると先伸ばしていくうちに、恋に溺れていく自分がいる。

 しかし呂淳が勘付いているなら言うべきだろうかと悩めど、最後にはもう少しと言ってしまう。

「ええ。では、わたくしはこれで」

 会釈して柚凛は足早に去っていった後、湲はため息を落とす。動かそうとする足はずいぶん重かった。

 それでも書庫に入り奥へと向かうと呂淳が驚いた顔で立ちあがった。

 その卓の上に広げられた紙に湲は眉宇を曇らせる。印がつけられた地図と、いくつかの名前が並べられた紙。名前の上には線が引いてあって消されているものもある。

「呂淳の字じゃないね。あ、柚凛か」

 どこか奔放さを思わせる流麗な字は見覚えがあってすぐに思い出した。

「……はい。あの、鴻羽の縁談相手と伯父上と親しい官吏らを教えてもらっているんです」

「そうか。ワタシは軍にかかりきりでこういうのは把握しきれてないからなあ。柚凛はどうして知りたがっているかとか聞かなかった?」

 目の付けどころがいいと感心しながらも、湲はどこか腑に落ちないものを感じていた。

「先に、父上の周囲のことをちゃんと把握しておきたいと頼んだので……」

 呂淳の目が泳いでいるのに嘘だとすぐ分かったが、湲は自分のこともあって指摘できなかった。

「……凄いな」

 気まずい沈黙をごまかすように書面に目を落とした湲は思わず目を丸くする。

 ざっと眺めただけでもきちんと枝葉まで人間関係が、整理されていることがわかる書面は実に便利そうだった。

 ただ退屈しのぎで王宮をふらついているだけならこうはいかない。父親の人脈を把握しておこうという明確な意思がなければ。

 しかしながら目的が見えない。さきほどの会話とこの行動がうまく噛み合わないのだ。

 湲は思案しながら警戒するにこしたことはないと結論づける。

「あんまり頼りすぎるのも危ないな。斎家の人間であることは変わりないしもうこのあたりで距離を置いたほうがいい」

 そう言うと呂淳が不服そうな顔をした。

「鴻羽も、斎家の者だ」

 小さいながらも責め立てる声が胸に重く響く。

「うん。そうだね。でも、ワタシももう左軍にいるから……」

 言葉はもたついて呂淳の表情が不安に曇る。その手が腕を組むように動くのを慌ててとどめる。

「なにも、心配することはないよ」

 おそらく腕をひっかこうとしたのは無意識だっただろう呂淳は、自分の腕をぼんやりと見たあとうなだれてすまないと言った。

 それに対してごめん、と湲は口だけ動かした。

 

 ***

 

 年の瀬、湲は郭将軍の邸宅に招かれていた。

 喀血してからは軍舎には顔を見せず見舞いも受け付けなかったのに、呼びつけられていよいよかと覚悟はしていたが、実際に郭将軍の姿を見ると胸が押しつぶされそうにる。

「こんなところで悪いな」

 掠れた声で言って寝台から半身を起こす郭将軍は一回り小さくなっていた。屈強な岩のようだったのに、すっかりくしゃくしゃに丸めた紙になってしまっている。

「いいよ、寝てて。話って何?」

「一局相手してもらおうと思ってな」

 寝台の脇の卓に軍盤があって、湲はいいよと静かに答えた。

「あんまり無茶しないでよ」

 郭将軍が寝台にいても出来る位置に卓はよせられていて、椅子は一脚だけありそこに湲は腰を下ろす。

 静かな、対局だった。

 時折ひゅうひゅうと郭将軍の喉から漏れ出る呼吸音と駒を動かす音しかない。

 互いの駒が半分ほどに減った頃、郭将軍がおもむろに口を開いた。

「儂の跡を引き継げ」

 湲の指が一瞬止まる。

「ワタシじゃまだ若すぎるし、この間隊将になったばかりだよ」

 次に据えるなら郭将軍の補佐官を務めている者がいいと促すと、郭将軍はその補佐官と彭門下生である隊将らの名をゆっくりとあげて言った。

「皆、すでに同意している」

「なんだ、みんなここに来てたのか」

 自分がいちばん最初だと思っていた湲は、盤上の駒を行き場を探りながら吐息を洩らす。

「……ワタシが、爺様の孫だからかな」

 彭吾准ほうごじゅんという人は本当に慕われていたらしいと、改めて思い知らされて誇らしくも思う。

 同時に嘘をついていることに気がとがめた。

「隊将たちはおおむねそうだ」

「将軍はそうじゃないの?」

「……ずっと気にかかっていたことがある。陛下のお顔はどことなく露白ろはく殿に似ている気がするのだ」

 露白。呂淳の実の父親の名だった。

 湲は初めて盤から顔を上げた。

「特に特徴のあるという顔でもないので気のせいかと思っていたのだがなあ、苑昭えんしょう様に瓜二つのお前が現れた」

 そこまで言って小さく郭将軍がむせ込み湲は人を呼ぼうとしたが止められる。

「……この程度の咳はよくある、気にするな。お前の軍略の知識は先生からのものだった。そのうち彭家の生き残りと明言した。思い返せば先生の訃報が届いたのは稜明りょうめい殿下がお隠れになったあとそう間をおかずにだった」

 痩せこけた指で郭将軍が駒を動かす。湲はその動きをまともに追うことが出来なかった。

「将軍としての地位は、必要だろう」

 明確な答えは出さずに郭将軍は黙々と駒を進めていく。逃げ切れず、将は取られてしまった。

「ふむ、少々卑怯だったか」

「……すごく卑怯だよ、次は正々堂々と勝負してよね」

 そうだなと笑う郭将軍が再び咳きこんで血を吐く。さすがに今度は人を呼んだ。

 荒い呼吸に体を震わせながら、郭将軍はかつてと変わらぬ鋭い眼光を宿した瞳で湲をしっかりと捉えていた。

「陛下、どうあってもあの男を許してはなりませぬぞ」

 それが、湲の聞いた郭将軍の最期の言葉となった。

 これより三日の後、年が明ける間際に郭関牙は静かに息を引き取った。

 葬儀は身内のみで密やかに行われ、その日軍は全ての訓練を取りやめ喪に服して沈黙しただひたすらに悲しみに浸った。

 そうして喪が明ける頃、湲は二十四になる年、建国以来最年少の将軍となった。


***

 

 春を目前にするころには昨年から始めていた戦は相手国の降伏で終戦を迎え、李宋と領土の折半も確約通り進められていた。

 左軍も湲を中心にした体制が整いつつあった。そんなさなか軍議の後将軍ふたりに残るように言われ、将軍から突然の引退を告げられた鴻羽は困惑していた。

「急に、というわけではないんだよ。本当は去年のうちにと思っていたんだけどね、関牙かんががああなってしまって残らざるを得なくなっただけなんだ。もう、右は見えない。左もずいぶん悪くなってきたし何も見えなくなる前に領地に戻ってゆっくり子供や孫の顔を見ておきたい」

 目が悪いとは聞いていたが、まさかそこまで進行していたとは思わなかった鴻羽は引きとめる言葉を飲みこんだ。

「それで、後任は君に任せたい」

「……私には無理です。他の隊将方もいい顔はしないでしょう」

 経験も足りなければ、父のこともある。

 鴻羽は夏将軍の隣にいる湲に戸惑いの視線を向ける。

「左軍のほうはワタシを将として丞相と対立する意思を固めていく方針だよ。丞相側と軍側が完全に割れてしまうのはまずいというのはわかってるんだけどね、いろいろと面倒なんだよ。本来なら呂淳が間に立つのが一番だと思うんだけどね……」

 実質の軍の長は呂淳であるが、丞相側に偏り気味というより逆らえない。しかしここ数年は湲にとかく甘く、ゆえに左軍側としても湲を通じて王を味方につけてしまおうという意図が見える。どちらにしろ呂淳が中間に立つというのは難しいだろう。

「しかし、私が将軍となったらむしろ軍が割れるのでは」

「その懸念はあるんだけどね、まあ彭殿ともこれまで上手くやってこれたし、君は若い子たちに特に支持されているし、他の隊将がたも信頼に値するって言われてるしね、大丈夫」

 夏将軍の自信はどこから来るのだろうと他人事のように鴻羽は思う。

 彭軍師の影響の強い軍において郭将軍を将軍という地位に置きつつ、丞相側と完全な対立に及ばなかったのは夏将軍がいるからこそである。

 軍にも信頼が大きく丞相に対しても平静にかつ、偏りなく接することのできる人格者の彼の後釜というのは重荷だ。

「少し、考えさせてください」

 残念がる様子もなく仕方ないといった態で微笑む夏将軍に、すみませんと鴻羽は小さく付け加えた。

 一礼して退室した途端に思考が止まって長いため息が漏れ出る。

 話している間は冷静に受け止めているつもりだったが、今は頭の中で嵐が吹き荒れていた。

「鴻羽」

 湲が追いかけてきて、鴻羽は歩調を緩める。

「……驚いた」

 そう零すとふっと湲が笑った。

「だろうね。夏将軍から話された時ワタシも驚いたよ」

「お前は、俺が将軍につくことには抵抗はないのか?」

 幾分かの沈黙にそれはそうだろうと鴻羽は眉根を寄せた。

「面倒だよなあ。ワタシとしてはお前とのほうがやりやすいんだ。迷ってる理由はそのことだけ?」

 演習場を見渡せる回廊にさしかかって湲が立ち止まり、欄干に浅く腰かけて問いかける。

「ああ。自信はそんなにないが託されたならやってみようとは思う。……最後に決めるのは呂淳だがな」

 いずれにせよ、呂淳が認めなければ始まらないのだ。認めてもらえるとは到底思えないが。

 どうだろうな、と湲は風にかき消されそうな声で言って演習場に目を向ける。今は休憩中らしく皆汗だくで地面に座り込んでいる。

 一緒に眺めながら鴻羽は普段より高い位置で揺れる馬の尾のような、湲の髪にふと違和感を覚える。

「……髪、切ったのか?」

 単に結び目が高いからかとも思ったがやはり短い気がする。

「切った。なに、もうちょっと長いほうがいい? お前そういうのにはこだわらないと思ってたけど」

 湲が瞳を鴻羽に向け、小首をかしげる。

「別にこだわるわけじゃないが、長ければ長いことにこしたことはない」

 そんなに自分は不服そうな顔をしていたのだろうかと思いながら、抑揚なく答えると湲が肩を揺らして笑った。

「じゃ、元の長さになるまで切るのはよしとくよ。短くしたいわけじゃなくてただの気分転換だからさ」

 湲の笑顔の中に疲れを見つけて気詰まりしているのだろうと鴻羽は思う。

「将軍は大変か」

 そう深刻そうに訊くつもりはなかったが、自然と口調は重々しいものになってしまった。

 湲は視線をまた演習場に投げてうん、とうなずく。

「……ワタシはこんなだから認めてくれない奴もかなりいる。爺様の教えを受けてる奴でも、お前と仲良くしてるのが気に入らないっていう反発もある。左軍に移ってからも鴻羽のところに行ってるのはどうしたって隠しきれないしね。もっともお前とのことを勘ぐられるのは昔からだし、いまさらって気もするけど。そっちは何か言われないの」

 確かに湍茜たんせん攻めの前から上官に揶揄されたりすることは多かった。あの頃は事実無根であったものの今は違う。

 しかしながら揶揄の言葉を聞くことは減ったと思いながら鴻羽はああ、とうなずく。

「……最近やたら花街に誘われたり子を持つことのよさを説かれるのもそういうことか」

 特に年上の兵から真面目であることはいいが、羽目を外すことも大事であるという趣旨のことはよく言われ、最終的に花街に連れて行かれそうになる。

 年の近い者たちは一様にいかに子供が可愛いものかと語ってくる始末だ。補佐官の娘自慢に関しては含むものはないだろうが。

「みんなお前のことが心配なんだなあ。相手には困ってないんだろうからさっさと決めたほうがいいんじゃない?」

 冗談でもなく気易く進めてくる湲に鴻羽は不貞腐れた顔をする。

「俺はそう簡単に割り切れない」

 貴族にとって婚姻とは家名を上げよりよい血統を残すためのものである。個人的な感情が反映されることは稀だ。想い人に身分差がある場合、たいてい外に別邸を用意したりするのだ。

 かといって本妻、妾と分けへだてる器用さは自分にない。出戻ってきたときの生気の欠けた柚凛を思い出すとことさらそういうことはできそうになかった。

「真面目だな」

 湲が困ったように言ってお互い言葉を失う。

 もう一年以上続く関係も行き詰ってしまって、足踏みするどころか後退している気がする。互いにしがらみが多すぎるのだ。

 休憩の終わりを知らせる鐘が鳴る。

 戻るか、と鴻羽が言うと湲も同意した。そして廊下の向こうからやってくる人物にまた足を止められた。

「……父上。どうされました」

 渓雁は鴻羽の隣にいる湲を不快そうに見やってから口を開く。

「お前が将軍を引き継ぐことについて夏将軍と話をと思ってな。外堀はきちんと埋まっているかの確認だ」

 要するにまだ将軍となることに父としては若すぎることや、確執などが気になっているということらしい。

「……ワタシは仕事に戻るから」

 一礼もせずに渓雁の横を通り過ぎていく湲の背中に、鴻羽は苦いものを感じながら父親と向き合う。

「あまりあれに気を許すな。腹の底ではなにを考えてるかわからん。あのような出自すら怪しい者を将軍に取り立てることは許してはならんかったというのに」

 忌々しげに毒を吐く父親に腹の奥が熱くなる。

「彭殿は将軍として相応しい実力も兼ね備えていますし、彭軍師の孫であることは郭将軍をはじめとして皆認めていました」

 自然と声は刺々しいものになってしまっていた。しかし渓雁は取り合いもせずに鴻羽を見据える。

「あまりあれを庇いだてしても身のためにはならんぞ。李宋の丞相の娘との縁談の話がある。妙な噂を立てられぬよう気をつけろ」

 また、なぜと鴻羽が口を挟む間もなく渓雁が続ける。

「これは外交だ。李宋が同盟を強固にするために互いに貴族の娘を何人か嫁がせることを提案してきた。それをこちら側は呑むつもりだ」

 互いに姫のいない王家同士が縁戚になれない代わりに血の近い自分がということだろう。

「国のためとあらばお前も身を固める気になれるだろう」

 そう言い残して渓雁はその場を後にした。

 国のため。

 つまり呂淳のためでもある。だがそう簡単に受け入れれる事ではないものの、自分が異議を唱える権限はない。

 悠然とした父の後ろ姿に覚悟を決めなければならないのかと、悶々とする鴻羽だったが、その縁談は形を成すことはなかった

 呂淳が強固に反対したのだ。

 それは鴻羽の縁談のみだけに限られていた。かつてないほど王と丞相の意見は分かれ、王宮は揺れ動き始めていた。

 

***


 縁談の話からひとつき、呂淳の意思は通り鴻羽の縁談のみが白紙にされ他の縁談についてはつつがなく執り行われることになった。

 さすがに鴻羽の縁談相手が外交にかかわる人物ではまずいのだ。

 肝心の斎家の婚姻をさしたる理由もなく断ることはよいことではないが、これで呂淳が渓雁にしっかり反論できることが周知されたことを考えれば、判断は間違っていなかっただろうと湲は思う。

 いつものささやかな呂淳の反抗かと、初めは周囲も冷めた思いで渓雁と呂淳の対立を見ていたが、一歩も引く気がない上に外交上の重要な案件であることもあって王の丞相離れかとざわついている。その一方で鴻羽が将軍に任命されますます混乱し、官吏らはどちらにつくべきか迷っているらしかった。

 これでもうひと踏ん張りすれば、強いほうへ日和見してきた官吏らは呂淳につくだろう。渓雁の側近らはさすがにまだ手強そうだ。

「わからないな」

 傍らで夏将軍から教えてもらった、軍内の事細かな人間関係を記したものを読んでいた鴻羽がつぶやく。

 鴻羽は将軍に任命されたもののまだ引き継ぎの途中で、夏将軍が退役するまでまだ五日ある。今日もつい先ほどまでこの資料室で夏将軍は鴻羽にあれこれ教えこんでいたが、後を湲に任せて帰郷の準備に行ってしまった。

「なら、将軍に訊きに行ってくればいいよ。そういうことはワタシより将軍のから直に訊いたほうがいい」

 雑務に関しては教えられることはあるが、右軍の人間関係となるとある程度は把握しているものの将軍ほど深くは知らない。

「いや、このことではなく呂淳のことだ。俺の縁談を阻むのは斎家を俺で終わらしたいのかとも思ったが将軍になることは認めた。呂淳が俺をどうしたいのかわからない」

 核心を突かれて湲は言葉に詰まる。

「……呂淳が望む償いは斎家の断絶かもしれないね」

 本音をひとのものにしてその白々しさに自嘲したくなった。

「それならそれでいい。どうせ俺には父上の地位を継ぐ気はないからな。生涯軍を守り育てて国の盾なり剣なりなれればいい。でも、こういうのは苦手だな」

 書類に視線を落として鴻羽が苦笑して、湲も相好を崩した。

 身内の腹の探り合いをするのは鴻羽には似合わない。夏将軍も分かっていて自分にも情報を漏れ聞こえさせ、時折助言をすることが出来るようにとしているのだろう。

 しかしその中で折れることのない信念を持った剣は強く人を惹きつける。

 そこはやはり父親に似たとこがあると思うと複雑ではあったが嫌悪はなかった。

「まあ、ある程度頭に入れとけば人は動かしやすくなるから、ちゃんと覚えておいたほうがいいよ。柚凛はこういうの得意そうだよなあ。あの人ってさ、昔からああなの?」

 今回は呂淳を丞相に捕まらないうちに、後宮へ逃げ込めさせて庇ってくれたらしい柚凛は、人のことはよく読んで自分の胸の内は悟らせない。家を潰したいのだろうかとは思うのだが、確信は持てない。

 いまのところは警戒心は残しつつ、呂淳を介して伝えられる情報は貰っておくことにしている。

 今日も非番であるが軍舎から出ることと、ひとり歩きは控えたほうがいいという柚凛の警告に大人しく従っている。

「昔から、かな。そういえば叱られた時の対処方法を教えてもらったことがある気がする。古参の侍女のひとりが説教が長かったんだ。話をきちんと聞いて山場辺りで泣いて、聞いた話を踏まえた反省の言葉と感謝を述べろって。よっつの俺には難しすぎてわからなかったがな」

「それは無理だな」

 顔を見合わせてふたりは忍び笑いをもらす。

 そうしてどちらともなく顔を寄せて唇を重ね、交わる吐息のぬくもりを惜しむようにしてゆっくりと離す。

「俺たちはこのままでいいか?」

 視線は絡めたまま鴻羽が申し訳なさそうに言う。

「うん。このままでいいよ。誰かに知ってほしいなんて思わないから」

 斎家の断絶は叶う。もはや鴻羽に真実を告げる必要などありはしない。

 そうなれば渓雁を追い落とした後には呂淳だって重石が取れて楽になるはずで、自分たちの関係さえ上手く隠し通し誤魔化しきればもう誰も傷つくこともない。

 心のどこかでそう都合よくいくはずがないと思いながらも、そんな夢を見ずにはいられなかった。

 

***


 ようやく目の前の皿から硬めの粥がなくなり、寝台で食事をする呂淳はため息をつく。まだ薬湯の入った椀が盆の端で鎮座していて、漂ってくる匂いをかいだだけで口の中が苦くなってくる。

 しかしいつまでも睨みあったところで消えてくれないのでひと思いに飲み干し、すぐに水を飲んで口をすすいだ。

 薬の味はともかく胃痛はずいぶんよくなった。

 呂淳の縁談を阻んで五日もするとしくしく痛んでいた胃は、ついには鋭い痛みに変わって三日ほど寝ついてしまったのだ。

 盆を寝台の端に置いて横になっていると、盆を下げに来た侍女が柚凛が来ていることを告げた。

 呂淳は入れるよう即答した。

 どうしても吐き出したいことがあった。

 昨日湲は鴻羽が斎家を継ぐことを放棄しもう真実を告げる必要はないと言った。確かに目的は果たされるのだろうが、胸の中では灰色の雲が立ち込めていた。時折雪が降る前の冷たい風が胸を吹き抜けていき心細くなる。

「こんな恰好で申し訳ありません」

 先に椅子に座って柚凛を待っていた呂淳はまず寝衣であることを詫びた。

「いいえ。寝ていらっしゃらなくて大丈夫ですの?」

「もう、ずいぶんよくなりましたから……あの、鴻羽のことですが」

 しどろもどろに言うと柚凛が聞きましたわと言葉を続ける。

「これであとはお父様さえ引きずり降ろせばよろしいのですのよね。でも鴻羽はずっと軍に置いておくおつもり?」

 縁談破棄のあとに将軍任命をしないでいたら、渓雁派との間に角が立ちすぎるということで今のところは将軍として置いておくことになった。落ち着いたら僻地に飛ばすつもりとはいえ、それも不服だった。

「仕方ないと思います。湲も軍には必要な人材であるし、害にもならないだろうと。真実を話す必要すらないとのことです」

 諦めきって言うと、柚凛が眉宇をひそめた。

「あなたはよろしいのですの? なにも知らない鴻羽がのうのうと湲様を奪って、あなたはひとりここで我慢させられて本当によろしいですの?」

 ぎゅっと胸を握り潰されるようだった。

 報復が終わっても自分は解放されない。それなのに、鴻羽は自分の苦しみなど永遠に理解せずに地位も名誉も手に入れる。

「しかし、湲が鴻羽を選ぶことなどありません。母上を見殺しにしたのに」

 呂淳にとってその事実が唯一縋れるものだったが、もはや藁よりも頼りない。

 湲にとっても鴻羽は『敵』ということに違いないはずであるのに、鴻羽に罰を与える素振りが見えない。

「そのことを許してしまえるほどに鴻羽のことを愛しているのかもしれませんわね」

 今まで必死に否定してきた可能性を口にされ呂淳は唇を噛む。

「……もうずいぶん深い関係だそうですわ」

 軽く淡い柚凛の言葉は何よりも鋭利なもので、呂淳の唇から血が滲んだ。

 さきほどまで凍えそうだった胸の内は、炎に舐められているかのように焦げついていた。それを嫉妬と呼ぶことを呂淳は知らない。

「少しぐらい、あなたの思い通りにしてもよろしいのではありませんの? 湲様だって許してくださいますわ。あの人はとてもお優しいから」

 鼓膜を伝い意識の奥深くへ言葉は忍び込んくる。

 これ以上の話をやめて柚凛が出て行ったあとも、寝台の上で寝がえりを繰り返し、寝衣を血に染めながら呂淳は考え続けていた。

 このままでいいはずがない。湲もわかってくれるはずだ。

 そんな言葉をこの日から何度も反芻した。だがなかなか決心はつかなかった。

 そして十日目のこと。

 何のきっかけがあったわけではなかった。ただ今なら鴻羽に面と向かって言えるかもしれないという前向きさが急に現れ、決心が鈍る前に呂淳は鴻羽を呼びつけた。

 

***

                     

 鴻羽は後宮にひとりで入り、重たい足取りで呂淳の部屋へと向かっていた。

大事な話があるので急いで後宮へと言伝が来たのは昼を過ぎた頃だった。もう二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた廊下は長いようで短かった

「失礼します」

 緊張した面持ちで部屋に入り、呂淳と向かい合いになる。

「急にすまない」

 書棚の影が一番濃い場所に佇んでいる呂淳がそこから微動だにせずに言う。

「いや、話は何だ?」

 重たい空気に背をぴんと伸ばしながら、鴻羽は呂淳が口を開くのを待つ。夏はまだ少し遠く窓から流れ込んでくる風は涼しいのにじっとりと汗が滲んでくる。

 遠くに聞こえている女官らの衣擦れすら聞こえてきそうなほどの静寂に、ひとつの足音が混ざる。

 それはどんどん近付いてきて扉が開かれた。

「呂淳、なにかあっ、た……」

 言葉を紡ぎかけたまま湲が鴻羽の姿に硬直する。驚いたのは鴻羽も同じだった。

「ひとつだけお聞かせください陛下」

 呂淳がふたりの驚愕など素知らぬ顔で重たい口を開く。その言葉と視線の先で悲しげに視線を落とす湲に鴻羽は困惑した。

 強い風が吹き込む。背中が冷たい。

 風に髪を揺らされる湲に叔母の姿が重なる。これほど似ている他人がいるだろうかと思えるほど重なるのその姿。

「……すり替えられていたのか」

 鴻羽は呆然とつぶやくのに応えるように湲が小さくうなずく。 

「父上か」

 誰が何のためにと疑問が浮かぶと同時に答は出た。

「そう。全部渓雁がやった。兄上も、母上達も爺様もみんなあいつが殺したんだ。訊きたいことって何?」

 投げやりともとれる平坦な口調で答えて、湲が腕組みしながら呂淳に顔を向け小首をかしげる。

 呂淳は幾分か躊躇いを見せそろりと言葉を吐きだす。

「鴻羽と関係を持ったのは斎家の断絶のためですか?」

 湲が一度目を伏せ、そしてゆっくりとまた持ち上げる。

 その漆黒の瞳はただ呂淳だけを見ていた。

「違う。ワタシが身勝手な感情を抑えられなかった。それだけだよ」

 ふたりの視線に挟まれた鴻羽は、自分がひとつに繋がっていなくてはならないものを断ち切ってしまった事実に拳を強く握る。

「なぜですか。鴻羽は母上を見殺しにしたのですよ。もう、あなたにとってどうでもいいことなのですか。伯父上のことも、斎家への報復も全部どうだっていいのですか!?」

「そういうことじゃない。そうじゃないんだ……」

 湲が首を横に振る。その表情が酷く苦しげだった。

「呂淳、もういい」」

 鴻羽は思わず咎めるように呂淳の名を呼んでしまう。

 呂淳が眉根を寄せうつむいて何も言わずに、書棚の後ろへと歩みだす。誰も引きとめる言葉をもたない。

 左の壁際と書棚の端の間、光の降り注ぐその場所さしかかったとき、やっと鴻羽は深藍の呂淳の左の袖の一部に黒い染みがあることに気づいた。

 過去のことを思い出し、さっと血の気が引いた。

「呂淳、お前また……」

 鴻羽は慌てて駆け寄り呂淳の腕をとる。拒まれたが傷の具合が気になった。

「鴻羽、やめて!」

 湲の制止の声が耳に届いたときには、鴻羽はその袖をめくっていた。そして凍りついた。

 顔をそらして唇をわななかせている呂淳に気づいて、鴻羽はまだ半分思考を停止したままその腕を離す。その隙に呂淳は寝台のほうへと逃げて行った。

「……後でまた来るから。会いたくなかったら会わなくていい。出よう」

 湲に呼ばれて呂淳がさっきまでいた場所を見つめたままの鴻羽は、一度下を向き目を閉じゆっくりと身をひるがえす。

 部屋を出るさいも声がかかることはなかった。 

 

***

                    

「そんな……」

 翌日後宮を訪れた湲は扉の前で自分を待っていた柚凛に耳打ちされたことに愕然とする。

「もう話せる状態にあるそうですから行ってさしあげて。今、あの人に必要なのはきっとあなたですわ」

「……会ってくれはしないと思うけど、一応行ってみるよ」

 湲に関しては呂淳から許可を取らなくとも入れろ命じられている衛兵が扉を開く。

 そして慌てて中に入った湲は柚凛に、鴻羽には言わないようにと口止めをすることを言い忘れたことを思い出し後ろを振り向く。

 しかし扉は閉まりかかっていて諦めて呂淳の部屋に急ぐ。

「あの、陛下は今体調がすぐれないので……」

 蒼褪めた顔の女官のひとりが止めに来るのに、湲は柚凛から聞いているとだけ答えて進んだ。

「呂淳、入っていい?」

 扉越しに声をかけるが返事はなかった。沈黙が不安になって湲は躊躇いながらも部屋に入り奥の寝所に足を向ける。

 窓の帳が下ろされあたりは薄暗かった。深い影を落とす書棚に異様な圧迫感を覚える。たっぷりと陽光を抱え込んだ玻璃を透かす帳ばかりが仄白い。

 最初に目を向けた寝台に呂淳の姿はない。その奥、影が溜まる壁と寝台の間に頭を見つける。

 湲は安堵しながら緩やかに空気を振るわせて声を出す。

「呂淳……」

 寝台にもたれかかって座り込んでいる呂淳は、抱えた膝にうずめた顔を上げることなくさらに縮こまる。

 わずかに覗く左手首に見える新しい包帯に湲は苦悶の表情を浮かべる。

 分かっていたはずだった。呂淳は他者を責められない代わりに自分を傷つける。

「いいんだよ。悪いのは全部ワタシなんだから、ワタシを責めたっていいんだ」

「……臣下は王に忠実であるべきだ」

 いつかどこかで聞いたような文句を顔を上げないまま呂淳がぼそりとつぶやく。

「間違いを正すのも臣下の務めだ」

 そう言いながら湲は自分の胸が軋むのを感じていた。

「……間違い」

 呂淳が顔を上げてどこか虚ろな瞳を湲に向ける。

 反復された言葉にさらにきつく胸が締めつけられる。

「そう、間違いだ」

 口にするのは肯定。だが感情は否定している。

 それでも湲は感情をねじ伏せ呂淳の瞳を覗きこむ。光が差し込む呂淳の目の中央に自分の姿が写りこんでいるのを確認して湲はうなずく。

 呂淳が求める主君の顔をちゃんとできている。

「少し、ゆっくり休んで、また始めよう」

 そろりと手を伸ばして白い包帯のまきつく左手首を撫でる。そして己のしでかしたことの重大さをしっかりと指先に覚え込ませる。

 押し殺した嗚咽が聞こえ始める。

 湲はそのまま無言で立ち去ろうとするが袖を引かれ立ち止まる。あとは抱きしめるわけでもなく慰めるわけでもなくただその声を聞いていた。

 

***


 湲を見送ったのち柚凛が向かったのは丞相の執務室だった。今まで宮のあちらこちらを歩きまわったがそこへ行くのは初めてだった。

「様子はどうだった」

 部屋に入ると書面を確認し判を押し、あるいは修正を入れという作業を止めずに渓雁が問いかけてくる。

 呂淳が手首を切ったと知らせがあったのは今朝。渓雁にだけ侍医から報告があった。そして様子を見てこいと言われたのが柚凛だった。

 鴻羽に打ち明けるのに十日はかかるという読みは当たったが、さすがに手首を切るなど想像できなかった。

 十中八九死ぬ気はなかっただろう。

 以前より傷が浅く、女官が起こしに来る直前に切ったのだ。ただこんなに傷ついたんだと見せつけて、湲を引き止めようとしていることは容易に想像がつく。

「起きたあと、少しお話は出来ましたけど特にこれといったことは。女官によると昨日鴻羽が呼び出されてそのすぐ後に湲様もいらしたそうですわ」

 渓雁が眉をひそめて筆を止める。そして再び手を動かし書き終えた書類を脇に置き、新たな書類を自分の前に置いてから顔を上げた。

「喋ったのか」

「おそらくは。それと、湲様に問いただしたのではないでしょうか。なぜ鴻羽と関係を持ったか」

 たっぷりと余韻を持たせて言いながら柚凛は渓雁の顔を見る。忌々しげにあの娼婦めがと呟かれた声は小さかったがききとれた。

「あの方はひどくつらい答えを湲様から聞かされたに違いありませんわ。お父様、今なら湲様を陛下から引き離すいい機会だと思いませんこと? 鴻羽は真実を知った以上けして斎家を継ぐなんて考えませんわ。それどころかお父様がこれまで築き上げてきたものを全部壊すだけ。幸いお姉さま方の所に男児は二人ずついますし、鴻羽を廃嫡して誰かを養子に迎えればいいでしょう。湲様が鴻羽を選ぶような後押しも、呂淳を上手く扱う方法もわたくしならできますわ」

 そう、鴻羽など必要ない。自分さえいれば斎家は保たれる。名目上は甥が家名を継ぐことになるだろうが、実権は自分のものだ。

「……そうまでして鴻羽を廃したいか」

 渓雁がねめつけてくるのに脅えもせず柚凛は顎を上げ不遜な笑みを浮かべる。

「いいえ。お父様の大事なものを護ってさしあげたいだけですわ。お父様にとって大事なもの家名でしょう」

 渓雁は娘から書類に視線を戻し判を押す。

「鴻羽以上に斎家の跡目にふさわしい者はいない。斎家の名に恥を塗るのはお前だけだ。石女で役に立たんだけでなく、子供に手を上げる女には後妻の話すら上がってこん」

 煩わしげな父の声に柚凛の頬に血が昇る。

 継子をぶったことは夫とその場にいた者以外は知らないと思っていた。よもや父の耳にまで入っているなど思ってもみなかった。

 柚凛はここを出たらあとでこっそり返しておこうと思っていたものを、震える手で取り出す。

「……呂淳が眠っている隙に持ち出してきました。これをお父様に渡すことは万にひとつぐらいはあると思いまして」

 ゆるりと歩み寄って柚凛は渓雁の卓の上に短刀を置く。彭軍師の形見である短刀を。

「どうぞ、ご有意義にお使いになってください。お父様の大事な鴻羽のために」

 言い捨てて柚凛は身を翻し部屋を出る。

 彼女を引き止める声はなかった。

 

***


 柚凛から呂淳のことを聞くなりすぐに向かった左軍将軍に湲はいなかった。補佐官に無理を言って応接間で待たせてもらえることになったが、座っていることが落ち着かず部屋をうろうろし三度窓辺に立ったところで湲が戻ってきた。

「呂淳の容体は?」

「そんなに深い傷じゃなかった。だから何の心配もしないでいい。別にお前が悪いわけじゃないんだからそんな顔しないでよ」

 無理に作られた湲の笑顔は歪で焦燥と後悔が透けて見えてしまっていた。

「俺にも責任があるだろう」

 歩み寄って顔を覗きこもうとすれば湲はうつむいて素顔を見せない。

「ワタシは全部分かってた。呂淳がお前を嫌いなことも、自傷の癖も、自分が為すべきことも。本当の母上がお前に見殺しされたって聞いたって、お前との関係を断とうとしなかった。どうせ渓雁には今回のことは伝わって側近にも伝わる。六年かけてようやく呂淳が認められ始めたっていうのにこまた最初からやり直しだ。これがワタシの責任じゃなかったらなんだっていうんだ」

 吐き出される自責の言葉に鴻羽は無言で湲を抱き寄せ、小さな背中に背負っているものをすべて払い落とそうと背をなでる。

「俺は、お前のためなら今持っている全部捨ててもいいと思っていたが、違った。捨てなければならないんだ。……お前への想いも」

 湲が体を強張らせるのがわかる。

「許されるのなら、お前の側にいたい。だがお前を苦しめてまで我を通したくない。湲、今のお前に俺は必要か?」

 離してしまわないように腕の力を強めてしまいそうになるのをこらえて問いかける。

 ここで時が止まってしまえばと矛盾する想いを抱えながら、じっと返答を待っているとそっと胸を押された。

 言葉はない。だが答は明確だった。

 鴻羽は奥歯を強くかみしめ腕を解く。

 離れていくぬくもりは余韻もなく雪が解けるより儚く消え去っていく。

「呂淳から命が下るまではこのまま軍にいて大人しくしていればいいんだな」

 湲の表情を確認することもせず鴻羽は抑揚なくそう言いながら扉に向けて歩いた。

「それでいい」

 返事が聞こえて視線を背中に感じたが、鴻羽は気のせいだと言い聞かせて退出する。

 あるのは喪失感だというのに胸はひどく重苦しかった。


***


「左軍将軍に呼ばれているので行ってくる。すぐ戻る」

 呂淳が手首を切って五日後、渓雁はそう言って部下の不安と訝りの混じった顔を確認し部屋を出る。

 そして廊下を伝いながらゆるりと自分の歩んできた道を辿っていく。

 時代遅れの軍国主義者である彭吾准を追いだし、国土を穀物で満たし内政を手中に収めそのうえ妹が王の寵愛を受け何もかもが順調だった。

 ただひとつ問題だったのは世継ぎである。第一王子が公表しているよりもずっと重篤な病を繰り返していて、年を重ねるごとに悪化していることは侍医と王と渓雁のみが知っていた。

 成人するまで持つかどうかもあやうい上に、この先に王が子を授かる可能性も低く血が絶えるのではと危ぶみ始めたころ苑昭が懐妊した。

 子供はできるなら男児が望ましかった。

 そして夜明けに産声があがったとき、その力強さに初めは喜びが沸いた。しかしそれは一瞬で絶望に変わった。

 よりにもよって半陰陽などとは思わなかった。いくら薄くなっているとはいえ、王家の血が混ざっている以上、妹は健康な男児を産めないとみなされるに違いない。いっそ死産としておいたほうがと思ったが結果は同じだ。

 このまま王家の血が絶えるとなれば、内乱がおこるやも知れない状況だった。ここまで積み上げてきたことを無為にするわけにはいかないと思った。

 そして鴻羽の泣き声が聞こえて入れ替えを思いついた。しかし赤子というのは半年と生後間もなくでは違いすぎる。それに鴻羽は産まれた頃より普通より大きかったのもあった。

 そして彭家の子供を思いつき、一家を苑昭が会いたがっていると言って呼び寄せた。

 第一王子の病状などを包み隠さず話したが、いかんせん信じなかった。そこで諦めることはできず、彭家が赤子を入れ替え連れ去ろうとしたとうそぶいて外を私兵で固めさせ強行した。

 吾准がどう申し開きしても王は信じないことを分かった上だった。

 湲は殺すつもりだったが、苑昭がそんなことをそすれば呂淳も殺すとわめいたために仕方なしに生かした。そして彭一家を遠方へと追いやった。向こうも王の子を護らねばという使命に駆られ大人しくしていた。

 下手に騒ぎ立てれば門下生らもそれに呼応し、反逆の意図ありとみられ処罰される可能性も十二分あることも重々承知していたのだろう。

 例え第一王子が死んだ後に吾准が真実を話そうと誰も信じまいと思っていた。

 しかし、時折様子を見に行かせている手の者から、湲が苑昭に瓜二つだと報告が入り始末することを考えだした頃、第一王子が死んだ。

 成人は迎えたものの濃すぎる血はやはり毒としかならなかった。

 当然疑いの目は自分に向いた。あろうことか苑昭までもが疑いはじめていた。

 そうして、彭家へ刺客を放ち苑昭も騒ぎを鎮めるのに殺した。

 その頃には呂淳がたまらなく煩わしくなっていた。精神が脆弱なところは血も繋がってもいないのに王と似ている。

 ただ王のように出来ないことは人任せにして、自分は遊んでいればいいと考えるほどの阿呆でもなく、無駄な努力をする頑なさがどこか彭吾准を彷彿させて苛立った。

 その一方で息子の鴻羽はなにをしても人よりもひとつ飛びぬけていた。少々真面目すぎて堅苦しいところもあるが、面度見もよく周囲の評価は上々で整った容姿も相まって人目を惹いていた。

 もし、鴻羽が後半年遅く産まれたらと何度思ったことだろう。

 気がつけば鴻羽を玉座に立てることばかりを考えていた。

 この頃に自分が築いた地盤は確固としたものとなり、あの鴻羽の天性の才があれば可能であると確信すら持ってしまっていた。

 そうなれば呂淳はもはや邪魔でしかなく、愚王であってもらわねばならなかった。

 しかし、まさか湲が生きてここまで戻ってくるとは思わなかった。生死は不明だったが所詮子供と放っておいたのが裏目に出たのだ。

 初め姿を見たときには本当に妹と瓜二つで唖然とした。

 苑昭が呂淳に真実を告げてしまい、信じて待ち続けていたのも誤算だった。

 鴻羽が湲のふざけた態度に反発を覚えていて安堵していたがそれも束の間のことだ。

 そして、呂淳は全てを鴻羽に告げてしまったと柚凛が言ってきた。

 あれもなにを考えているか分からない娘だ。

 渓雁にとって上ふたりと違い利発すぎる三女は不可解だった。故に適当なところに嫁がせたが、出戻って来てしまい嫌な予感はしていた。

 鴻羽を斎家に置いておく最後の手段を柚凛も同じく考えていたことで気づいた。

 自分と一番似ているのは他の誰でもなく柚凛だ。欲しい物を手に入れるためなら身内だろうと蹴落とし踏み潰すことを躊躇わない。

 柚凛の目論見はまだわからないが、鴻羽が真実を知ってしまった以上は急ぐしかないだろう。

 渓雁は袂に隠した短刀の感触を確かめ軍舎に足を踏み入れた。


***


 仕事があらかた片付き湲は補佐官の入れたぬるい茶をすする。曖昧な温度が胸にたまって思わずため息がこぼれる。

「おつかれですね」

 それを目に止めた補佐官の苦笑に湲はみたいだねと他人事のように返す。

 あれから五日。

 呂淳が気を取り戻すのは思っていたよりも早く、三日前には朝議に出られた。むしろ湲のほうが気鬱から立ち直れずにいた。

 呂淳の自傷に対する後ろめたさと胸を穿つ喪失感。

 静かに去っていく鴻羽を引き止める言葉は、課せられた責任で押しつぶした。それでもしばらく部屋で立ち尽くしたま、最後に自分の背を撫でた鴻羽の掌を思い出そうとしていた。

 自己嫌悪にどうにもならない寂しさが絡んで、ぐるぐると螺旋を下って行くように気分は深く沈んでいく。

「あの、丞相が将軍とお話がしたいと中央の応接室に……」

 再び茶を口に含みゆっくりと嚥下していると扉が叩かれ、入ってきた兵卒はそう告げた。

「ワタシと?」

 今までさんざん避けてきたのにいったい何のつもりか。考えても仕方ないので行く、と湲が怪訝な表情で答えると補佐官が不服そうな顔をした。

「無視するわけにもいかないだろ。さっさと終わらせてくるよ」

 補佐官にそう告げ湲は応接室へとひとり向かう。そして部屋の前にいた緊張した面持ちの兵卒が明らかに安心した顔を見せるのに苦笑して、持ち場に戻っていいと言って入室した。

「珍しいね。なんの用?」

 長椅子に腰を下ろし湲は正面に座る渓雁を見据える。いつもながらふてぶてしい男である。

「呂淳を大人しくさせろ。朝議が滞る」

 どうやら呂淳は渓雁が文句を言いに来るほど気を持ち直して、積極的に朝議で発言しているらしい。

「王が国を想っての発言をしてるなら話を聞くぐらいかまわないだろう。それとも偽物には従えない?」

 自分で据えたくせにと湲が鼻で笑う。

「……それほどまでに玉座が欲しいか」

「別に。ワタシは呂淳に任せるつもりだよ。自分がやったことを素直に認め全権を呂淳に委ねろ。そうすれば全ては奪わない」

 せめて一言でもこの男の口から、自らの罪を認め許しを請う言葉が聞きたかった。

 しかし渓雁はまるで動揺を見せない。黒々とした眼ですごむわけでもなく淡々と湲を見ている。

「私は何もしておらん。呂淳も貴様と産まれてすぐ入れ替えられたなどと戯言を言っていたが、だれもとりあわんだろうな。そんな思い込みで娼婦まがいを将軍職につけるなど恥さらしな真似をする者に国がまかせられると思うのか」

 やっと感情が湛えられた渓雁の表情は、汚物でも見るかのような侮蔑したもので湲は奥歯を噛む。

 なんとも汚らしい子供だ。

 もう、忘れたと思った嘲笑が耳奥で響く。

 買われた貴族の屋敷で事がすんでまともに服を着る間もなく閨から放り出され、床に散らばる報酬の玉を這いつくばって拾い上げているときさんざん自分を弄んだ男は笑った。

 惨めで、悔しくてそれでも歯を食いしばるしか出来なかった。

「……自分の欲のために兄上を殺したお前なんかに馬鹿にされる筋合いはない」

 安い挑発とわかっていても怒りを抑えることもできずに湲は渓雁を睨みつける。

「ひとつ、言っておくが第一王子は病死だ」

 視線を受け流し渓雁が静かに告げる。

「嘘だ。そんなこと、誰が信じるっていうんだ」

 時期があまりに都合がよすぎる。ちょうど婚姻が整いかけていた頃に没するなど、後継ぎが出来ぬ間に殺したとしか思えない。

「好きにとればいい。ただ殺そうと思えばいつでもできたというのに成人した後からというのは不自然ではないのか」

 反論の言葉は出てこなかった。だが湲は頑なに渓雁の言葉は嘘だと思っていた。

「国のためを思うなら、大人しくしていろ」

 吐き捨てて渓雁が立ち上がる。遅れて湲は腰を上げ待て、と言ってその足を止める。

「そこまで権力にしがみついてもお前で終わりだ。もう鴻羽は斎家を繋ぐ気はない」

 切り札だった。

 そう、それさえなければこの男のやっていることなど意味を失う。

「……身に沁みついた汚さは変わらんな。お前が鴻羽を籠絡した目的はやはりそうか」

 ようやく渓雁の顔に蔑み以外のものが浮かんで、湲は乱雑な足取りで彼に歩み寄る。

「だったらなんだって言うんだ。どっちにしろ鴻羽は呂淳に従う。さすがに自分の息子の性格ぐらいはよく知ってるだろ」

 笑って言いながらも真白い絹に自分で泥を塗って汚しているようで気分はよくなかった。

「そうだな。よく知っている」

 そう言い渓雁が袂から短刀を取り出し湲は言葉を失う。

 祖父の形見だった。

「どうしてお前が持っているんだ」

 上擦った声で問いただしながら湲は手を伸べるが、露わになった刀身を突き付けられて身を退く。

「後宮に私の手の者がひとりもいないと思ったか? どうせ殺されるならこれのほうがいいだろう」

 勝ち誇った笑みだった。

 湲は歯噛みして腰にある自分の短刀に手を伸ばしながら渓雁の意図を探る。

 こんなところで自分を殺してなんの得もないはずだ。破れかぶれなどということをこの男がするはずがない。わざわざ、呂淳の部屋を探らせてまで。

「ま――」

 待て、と言葉を発するより早く刀身は心の臓に到達していた。

 湲は呆然と見る。

 刃が引き抜かれ短刀は床へ投げ捨てられて、戦場の匂いが鼻をつく。

 鮮血にずぶ濡れになりながら湲は血だまりに落下する体を見る。そして視線を下ろすと渓雁の薄く開かれた目とかち合う。

 その瞳にもはや光はなかった。

 死んだのだ。

 斎渓雁は自ら命を絶ったのだ。

 湲は呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

 

***


「将軍」

 卓に視線を落としていた鴻羽は補佐官に呼ばれて顔を上げる。

「これは、削って、こっちに回せませんか?」

 予算の示された文書を補佐官が卓に置き、指で示す。

「ああ、なるほど。それならこっちからも少し持ってくればちょうどにならないでしょうか?」

 とんとんと鴻羽が指を滑らすのに補佐官が大きくうなずくいた。

「間違っていますか?」

 探る視線に気づき鴻羽が首をかしげ問いかけると、補佐官は悪戯がばれた子供のような顔をする。

「いや、申し訳ありません。すこし将軍がぼんやりされていたのでつい意地悪をついしてしまいました」

「とりあえずはまだ頭は働いていますね」

 軽い口調で返しながらも、鴻羽はまだいろいろとわり切れていない自分に内心ため息をつく。気がつくとまだ湲や呂淳のことを考えてしまっているのだ。

 気分転換に茶でもと席を立とうしたとき、扉が叩かれた。返事をするとそろりと兵卒が中へ入ってくる。

「あの、斎将軍、御父君がこられていて、左の中央にある応接室にいらしてほしいらしいのですが」

 まだ若い兵卒の困惑した顔からして事情はよくわかっていないらしい。左軍側の応接室に父がいるというのは珍しく、もしかして湲と揉めているのだろうかと鴻羽は急いで部屋を出た。

 応接室に近い廊下にたどりつくと、見張りの兵がいて鴻羽はそのものものしさに胸騒ぎを覚えるが、兵はとにかく先へと促すばかりで答えてはくれなかった。

 部屋に近づくにつれて鉄錆た匂いが濃くなってくる。戦場に立っている錯覚を覚えそうなほどだ。

 血相を変えて入口に立つふたりの隊将に何事かと詰め寄ると苦々しい顔で部屋を示す。

「父君が自刃されたそうだ」

 そう言って隊将のひとりが開かれたままの扉の向こうを顎で示す。鴻羽は今聞いたことが信じられないままゆっくりと部屋の中に視線を落とす。

 血だまりの上でうつぶせに倒れ伏す男をみても、すぐに父だとは認識できなかった。

 視線を上げた先には血まみれの湲が腕を組み壁にもたれかかって立っている。その顔は表情がなかったが、目が合うとわずかに眉が動いた。

「なにがあった」

 部屋に入り、ぴちゃりと音を立てて足を進める。

 死体の顔は横向きでようやく父とわかった。すぐそばに転がっている短刀は見覚えがあった。

「いきなり自分の胸をついた。と言ってもこの部屋にいたのはワタシと渓雁だけで、そこに落ちているのは爺様の形見。ワタシが刺したっていわれてもしかたない状況だね」

 一瞬それを考えた鴻羽は渓雁と湲を交互に見て、自害だろうと鴻羽は断定する。どう考えたところでこれは湲にとって不利でしかない状況だ。

「どうやってこれを持ち出したんだ」

 短刀に視線をやると湲が不愉快そうな顔で近くに来るよう言い、声をひそめる。

「……柚凛だろうね。お前はとにかくこれ以上事態をひっかきまわすなって言っといて。ここまで来たらあの人は目的を果たしたのかもしれないけど」

「姉上はただ父上に言われてあれを持ち出したんじゃないのか?」

 確かに呂淳の部屋に自由に出入りできるのは姉しかいないが、特に意図などないかに思われた。

「あの人はお前が思ってるよりずっと頭のいい人だよ。考えなしに命に従うなんてことは絶対にしない。やっぱり一番警戒しておくべきはあの人だったな」

 悔しげな湲の呟きに鴻羽は困惑する。なぜ姉がこんな事をする必要があるのか分からなかった。

「……他に俺が出来ることは?」

「明日まで公表は控えて。呂淳にはワタシから伝える。あとは、この人、家に持ち帰って」

 鴻羽は改めて父を見やりそばまで行って屈んで目を伏せる。戦地で何度もそうしてきたのと変わらず特別な感情はなにもおきなかった。

 そして自分の感情を認識できたのは、急ごしらえの仮の棺に渓雁をおさめてからだった。

 あれほど軽蔑していたというのに、涙をこらえねばならないほど哀しかった。

 言葉はいくつも思い浮かんだがは脳裏に留まらず、母にどう伝えるべきかで頭がいっぱいになった。母はそう強くない人だ。回りくどいことはせず事実をそのまま告げるのがいい。

 姉は、本当にこの事態を予測しているのだろうか。

 そんなことを考えながら出兵の時にだけに開かれる軍舎の東の大門から外に出、鴻羽は棺を担ぐ数人の兵と共に家路をたどる。

 もう日暮れ時だった。

 茜が藍へと変わり漆黒がそっと四隅から忍び寄ってくる頃になって家に辿りついた。

 運ばれる棺に迎えた下働きの者らが蒼白になり、慌ただしく人が行き交いを始める。

「父上が自害された」

 何事かとやってきた柚凛は一瞬目を見開いたのち蓋の開けられた棺に歩み寄る。

「本当に亡くなられたのね」

 そして死に顔を眺めそれだけを言った。涙も浮かんでいない平然とした様子に鴻羽は姉への不信を抱く。その後すぐ侍女に支えられふらついた足取りでやってくる母に、柚凛が場所を譲り、鴻羽は侍女たちに変わりその背を支えた。

 棺の中を覗きこんだ花江かこうが両手で口元を覆う。そして肩を震わしぼろぼろと涙を零したかと思うと、その場で座り込んでその死を否定するかのように首を左右に振った。

 鴻羽はかける言葉も見つけられずそっとその両肩に手を置く。

「お母様のことはわたくしにまかせて」

 問いただしたいことはあったが鴻羽は柚凛に母を任せることにした。

 あとは自分でも不思議なほど冷静に葬儀などの準備に取り掛かっていた。

 嫁いだふたりの姉たちへ取り急ぎ文を出し、棺が担ぎ込まれるのを見た近所の邸宅から何があったのかと、慌ただしく使いをやってくるのにも全て明日にと自ら対応した。

 そして全てが終わったのち母の部屋を訪れる。薬を飲んで母は眠っているらしく柚凛は傍らの椅子に腰を下ろしその寝顔をじっと見ていた。

「お母様なら朝まで目を覚まさないと思うわ。おまえも少し休んだほうがいいわ。わたくしはしばらくここにいるから」

 穏やかで優しい柚凛の声は耳馴染みがいい。つい甘えて従ってしまいたくなるが、鴻羽は姉の横顔を見下ろしながら問いかける。

「短刀を呂淳の部屋から持ち出したのは姉上ですか?」


***


 柚凛は答える代わりに鴻羽を別室へと促した。母の枕元で話すにはさすがに気が引けた。

「気づかれたのは湲様かしら。わたくしにお父様が自害だとでも言わせたいの?」

 素知らぬ顔でそう言ってみれば、鴻羽は複雑な心境を隠しもせずに表情に浮かべていた。

「なぜこんなことを。父上が自害すると分かっておきながら」

「あら。お父様がわたくしの言うことなどきくと思うの? わたくしがやらなくてもきっと女官の誰かを潜り込ませていたはずだわ」

 なんとも心地よい気分で柚凛は微笑む。その一方で苦しげに眉根を寄せる鴻羽の表情は彼女を喜ばせるばかりだった。

「このままなら真実がどうであれお父様の配下は確実に湲様をを疑うわ。そして軍側は湲様を庇って文官と武官の間の溝が深くなる。これを収められるのは呂淳だけだけれど、あの子には無理よ。そうしているうちにお父様の後釜を狙って宮中は確実に混乱するわ」

 宮中を纏める糸はぷっつりと切れた。後は崩壊して行くのみだ。

「軍内でも湲様を疑う人は大勢いるだろうし、最終的には湲様を排除して丸く収めなければならなくなる。それに反論する彭門下生も軍要職からはずさなくてはいけなくなるわね。もとよりあの人が彭軍師の孫である確実な証拠も薄いし、彭門下生のほとんどは最後には利用価値がないとみなして離れるわ。でも呂淳は絶対に湲様を手放したりしないしできない、宮中の混乱も収められない」

 自分の言葉に反論することもなく、鴻羽が歯噛みして最悪の事態を無言で受け止めている。弟も父の死を発端とした瓦解はとっくに見えているはずだ。

「後継もいないし、みんな斎家の当主である上に軍での信頼もある血統も才覚も誰よりも秀でているお前を養子に迎えさせて譲位を求めるわ。お父様は命を捨てでも玉座にお前を据えたいようね」

「そんなものは、ただの父上の自己満足です。俺は、そんなものは欲しくはありません」

 強い口調で誰もが欲しがるものを鴻羽は拒む。

「ええそうね。お前が欲しいのは湲様だけでしょう。でも湲様は、呂淳のためだけに王であろうとするわ。お前のことはけして選べない」

「……いつから入れ替えのことを」

 目を見開いて鴻羽が抑揚なく問う。

「二年前だったかしら」

 惚けた口調で柚凛が答えると、鴻羽は力なく近くの壁に背をもたれた。

「いったい、何をなさりたいのですか?」

 苛立ちが見え隠れする鴻羽の声に柚凛は少し考える。

「お前がいけないのよ。欲しかったものを全部持っていってしまうからわたくしは盤の上からほうりだされてらいらない駒扱い」

「そんなことを誰が」

「いらないでしょう。家督を継ぐ人間は嫡子だけだわ。そもそも三人も女はいらない。それに離縁された理由は知ってるでしょう」

 鴻羽が産まれた瞬間から自分から斎家の後継ぎという役割は消え、盤の上から放り出された。そして一度拾いあげられてまた盤に乗ったが、結局子を成せずに妻と言う役割を全うできずに捨てられた。

 鴻羽が何も答えられずにいるのに柚凛は微笑を浮かべる。

「……盤の上に乗れないならいっそ打ち手になったほうが楽しいわ。実際みんな駒のように自分に与えらられた役割を忠実にこなそうとしているのを見ているのは面白いものよ。わたくしの思うとおりに動いてくれたし、呂淳なんて本当に単純。でも、お父様は難しいわね。お父様に勝つかお前に勝つか、どちらかだから負けはないけれど」

 どう転んだって自分に失くすものなんてない。

 そう、なにも失くしてなんかいない。

「あなたは勝ってもいなければ負けてもいない。その対局は虚しいだけです」

 そう言い捨てて鴻羽が部屋を出る。乱暴に扉が閉まり頼りなく揺れていた蜀台の火がふっと消えた。

「本当はわたくしだって盤の上に乗っていたかったわ」

 暗闇の中でぽつりと柚凛はつぶやく。

 同時に喉がひきつり嗚咽がせり上がってきて、崩れ落ち床に座りこんだ。抱えた膝に顔をうずめてきつく歯を食いしばり、嗚咽が外に漏れるのをこらえる。それでもとめどなく零れた涙で膝のあたりはぐっしょりぬれていた。

 どれほど抑えようとしても涙は止まらなかった。

 

***


「さて、どうするかな」

 湲は血にまみれた体を洗い清め着替えたのち、呂淳の元へ向かう。

 渓雁は死んだ。

 状況を全てひっくり返して。

 この状況を好転させられる方法は思いつかない。いや、考えることが出来なかった。

 渓雁の自害の目的に気づいたと同時に負けたと思ってしまった。あの男は自分たちの苦しみを寸分たりと理解せずに逝ってしまった。それどころか罪さえ認めなかった。

 そうしてひとつだけ胸に引っかかっていることがあった。

 第一王子、兄の死についてだ。

 幼少期、体が弱かったのは彭軍師からきいて知っている。呂淳は頻繁に顔を合わすことはなかったが、会うときはいつも元気そうだったと言っていた。病死は誰もが疑念に思うほど突然のことだった。

 しかし古参の隊将に聞いてみると、溌溂としてどんな位の低い者とも話し聡明な人だという印象が強く残っているが、よくよく考えてみれば年に二、三度しか後宮から出てくることはなく、話をしたのはたった一度きりだったと今初めて気づいたという顔をして言った。

 もしや兄は小康状態の時に精いっぱい、自分が生きた証を人の記憶に刻みこもうとしたのではないかと考えて足元がみえなくなりそうでその考えを振り払った。

 真実はもうどこにもない。

 余計なことを考える必要はないと自分に言い聞かせたが、思考は雪に埋もれていくように消えて頭の中も胸の内も真っ白に染まってしまった。

「こんな時間にどうされたのですか?」

 書類に目を通していた呂淳が突然の来訪に首をかしげる。あれから責任を忘れさせないためか彼は言葉づかいを改めたままだ。

「渓雁が自害した。これ持ち出したのは柚凛かな」

 同じく洗い清めた彭軍師の形見を出すとびくりと呂淳が肩を強張らす。

「どうして、姉上が……」

「さあ。斎家を護るため、とは違うか」

 呂淳の視線が僅かにそらされて揺れる。彼には理解できているらしいと思いながら、湲はうだるげに椅子に腰を下ろす。

 柚凛のことはこれ以上触れずに、このままであれば鴻羽が渓雁の後釜に据えられ玉座すら持って行かれかねないだろうことを話す。

 呂淳は驚いていたものの、消沈するわけでもなくどことなく安堵したように瞳を伏せた。

 湲は終わりか、と思った。

 ずっと分かっていた。呂淳の繊細すぎる精神に玉座はあまりにも重すぎることには。いい加減ひびだらけの所へ自分の裏切りによって傷は広がり、これ以上耐えさせるのは難しい。

「もう、終わりにしようか」

 そう口に出すのは存外簡単だった。だが想像していた解放感もなかった。 

 呂淳はひどく不安そうに湲を見やった後、包帯の巻かれている手首を落ち着きなく触りながら言う。

「そうしたら、あなたは鴻羽の元に行くのですか?」

 湲は小さく頭をふり微笑む。

「行かないよ。ワタシのいるべき場所は鴻羽の側じゃない」

 いたい場所は彼の側であるけれど、望むのは自分だけだ。

 最後まで付き従ってくれた彭家の者が望んだのは正当なる王家の後継者であること。

「ひとつだけ、我儘言っていいかな?」

 湲が首をかしげると呂淳が椅子から腰を上げる。そしてその傍らに跪きその裾に口づけた。

「私はあなたのお側で永遠の……忠誠を誓います」


***


 渓雁の死から二十日余り。

 喪も開け、新たな丞相に湲が任命された。それと同時に鴻羽には新たに設けられた南側の国境である白線山脈沿い一帯に駐留されている各軍をまとめる、軍団長の役職に就くよう命じられた。実質の左遷である。

「納得がいきません!」

 その知らせを受けて声を荒げたのは鴻羽の補佐官だった。他にも右軍の隊将も将軍の執務室に集まっていて皆不服そうだ。

「彭殿ははじめから斎殿を陥れる気だったのではないか。父君は本当に」

「自害だ。父上は間違いなく自害だった」

 隊将の言葉をさえぎり鴻羽は断言する。

 渓雁の部下が左軍将軍に呼ばれたと渓雁が確かに言っていたと証言し、一方湲の補佐官は急に訪れてきたと証言した。柚凛は短刀を持ち出したとはけして口を割らず、宮中は混乱している。そこにこの人事だ。

 当然湲への疑いは濃くなり、鴻羽の左遷で右軍側も不信感を抱き始めている。そしてそれを命じた呂淳の今まで以上にあからさまな湲の重用に、文官、武官共々王への不信が募り始めていた。

「とにかく、彭がやるにしては手順が悪すぎる。話してくる」

 まだ湲は左軍側にいるはずだ。

 ひとりで行くのはよしたほうが、一応は帯剣しておいたほうがと心配する補佐官らの意見はすべて却下して鴻羽はひとり左軍側に向かう。

 そこはまさしく針のむしろだった。警戒心を孕んだ視線があちらこちらから刺さってくる。そしてちょうど湲が隊将ふたりと歩いているを見つけた。

「少し、話がある」

 湲を庇って立つ隊将が顔をしかめる。

「父君の仇討でもなさるおつもりですか?」

「違う。すぐに呂淳……陛下にこの無茶な人事を取りやめるよ進言しろ。このままだとお前の分が悪くなりすぎる」

 鴻羽が真摯に見つめる湲の二つの双眸は氷が張っているかのように冷ややかだった。

「これは勅命だ。従え」

 放たれた言葉も鋭く研ぎ澄まされたもので、その美貌もあいまって気圧される。

 鴻羽は唇を引き結んだ。

 湲は王として自分に命じているのだ。返答を考えているうちに湲は通りすぎていき、鴻羽はやるせない思いでその背を見送る。

 ふたりの距離は開いて行く。

 それは二度と取り戻せない距離の様な気がした。

 

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