六 白峨六年冬―同七年夏


 紫秦ししん軍が帰国して三日になる頃には、王都はすっかり雪に包まれていた。

「熱は下がった?」

 ひんやりしたえんの手が額に触れて、寝台で背を丸めている呂淳りょじゅんはうなずいた。

 自分で思った以上にこの二年近くの湲の不在に気が張り詰めていたらしく、顔を合わせた翌日には発熱して寝込んでしまっていた。

 帰ってそうそう心配をかけている自分に嫌気がする。

「……すまない」

 ぼそりとつぶやけば肩をぽんぽんと優しく叩かれた。よく母がしてくれたことだ。

「別に、謝ることじゃないよ。しばらくは呂淳も休んでるといい。ひとりで大変だったろうし」

 いつもと変わらず優しい湲の態度に呂淳は戸惑う。

 本当にこのまま柚凛ゆうりんに秘密が知れたことを言わずにいていいものか。

「湲……」

 言い淀んで、呂淳は柚凛に言われたことを思い出し、後に続ける言葉をおそるおそる口にしてみる。

「もう、補佐官ではなく隊将にならないか? 左軍の隊将なら郭将軍の元だから、そのほうがいいだろう」

 先の戦で右軍の隊将がひとり戦死し、その補佐官も重傷を負い年齢もあって隠居を決めた。このまま隊将は鴻羽になり、その補佐官に引き続き湲がつくことはもう決まっているが正式には年が明けてからの任命になる。

 まだ時間も十二分あるので調整は可能だ。

「ああ、でも。空きが、ないからさ。それまで鴻羽の補佐官でいいよ」

 わずかに湲の瞳が揺らいだのを見て、呂淳は柚凛に知られたことを隠して置いておくことにした。

 柚凛は秘密が漏れたことを告げるなら、湲が戻ってきて鴻羽とは別の隊に入ろうとしないかどうか確認してから自分で決めるといいと言った。

 自分の判断はたぶん間違っていない。

 だけれど酷く虚しく思えた。

 

***

                  

 後宮へと続く漆黒の扉が開かれると懐かしい脂粉の香りがした。

 鴻羽は柚凛と共に呂淳の見舞いに来ていた。

 帰国して四日目。十日の休暇を与えられ相次ぐ縁談話に辟易していたところ、どうせだから一緒に行こうと柚凛が誘ってきたのだ。

 男子禁制とはいえ、従兄が見舞いに行くぐらいなら問題はない。

 しかし後宮に入るのに鴻羽は抵抗があった。なぜだかは自分でも分からないが、足を踏み入れることに恐れがあった。

 それに湲とのことで呂淳に会うのは後ろめたかった。しかし母が縁談を通り越して孫の話までするのにも疲れていたのもあって、柚凛に強引に押し切られて見舞いぐらいはと渋々うなずいた。

 わずかばかり湲の顔が見られるかもしれないという期待もあった。

 中に進めば香の匂いも混じりこんできて、香りが体中に満ちるにつれてよく遊びに来ていた頃の記憶が鮮明になる。

 右に見える廊下の奥へ進んで呂淳に会いに行っていた。時々柚凛も一緒だった。

 今向かうのはあまり近づいてはいけないと言われた、正妃と王の私室へ繋がる廊下である。

 廊下は網の目のようにあちこちに広がっていて、かくれんぼをしていた時にそちらに迷い込んで女官に叱られたこともあった。そうすると今は亡き第一王子、稜明りょうめいが苦笑しながらやってきて女官の説教から逃がしてくれたりもした。

 稜明の顔を見ることはあまりなかったが、一度会えば脳裏に焼きつくほどの強い印象を残す人だった。早世してしまったことは今でも惜しいことだと思う。

「少しは愛想を振りまいてみたら?」

 記憶の中の廊下を歩いていた鴻羽は柚凛の茶化す言葉に我に返る。

 周りではどこから集まってきたのか、若い女官たちがきゃいきゃいとはしゃぎながらこちらを見ていた。後宮に王以外の若い男ということで物珍しいのだろう。

「……見舞いに来ただけですから」

 もちろん本音であるが、不純な動機もあるので我ながら言い訳がましいと思う。

「失礼します」

 先に柚凛が部屋に入って、後に続いた鴻羽は思わず息を呑んだ。

 小さな卓で向かい合って軍盤をしている湲と呂淳が、かつての叔母と呂淳に重なって見えた。

 呂淳はいつも叔母の側にいて本を読んでいたり、軍盤をしたりしていた。父に叱られた後はぐずぐずと泣きながらその胸に甘えていたものだ。

 しかしながらいつまでもそんなことで大丈夫だろうかと、子供心ながらに心配はしたものの、稜明が亡くなったときには、甘えている姿を見ることが少なくなった。

 王位を継ぐ立場を呂淳なりに呑みこんで、大人になろうとしているのだとあの時はほっとしたものだが。

「珍しいね。お前が来るなんてさ。柚凛も久しぶり」

 柔らかく溶けるよ湲の笑みに、鴻羽は強張っていた表情を緩める。

 わずか四日ぶりだが、とても長く会えなかった気がするのはこの二年近く毎日共にいたせいもあるのだろう。

「具合はどうだ?」

 尋ねると呂淳は大丈夫だとうなずく。実際顔色もよく、体調は本当に回復しているらしい。

 そうして女官が足りない椅子と茶を置きに来た頃、柚凛の提案で湲と柚凛、鴻羽と呂淳の二組に別れて軍盤をすることになった。

「陛下の足を引っ張らないようにね」

 意地悪な笑みを浮かべて柚凛が駒を動かし、鴻羽は無言で慎重に駒を進める。

「戦力的にはこっちが上だな」

 湲の言うとおり、柚凛と湲はお互い上手く策を噛み合わせてどんどん駒を奪っていく。

 一方鴻羽側は鴻羽が運び損じたのを、呂淳がうまく取り戻してという状態で応戦していたが、いかんせん向こうが強く降参する羽目になってしまった。

「……悪い」

「姉上と湲相手だったら仕方ない。ふたりは相性がいいんだろうな」

「そうだな。すごくやりやすかったよ」

「あら、嬉しい。ねえ、次は湲様とふたりだけでやりたいわ。いいでしょう。ふたりともたっぷり湲様をひとり占めしたんだから」

 柚凛の我儘に鴻羽が目配せすると呂淳は別にかまわないと引く。

 そしてふたりで観戦していたのだが、両者一歩も引かない真剣勝負になってその緊張感に疲れて席を外した。

「なんというか、すごいな」

 柚凛の得意なゆっくりと駒を進めながら相手を絡め取っていく戦法は、いつもながらおどろおどろしい。それを上手くかわしじっくり盤を眺める湲の緊張感もただならず、ねっとりとした陰湿な戦いは目をそむけたくなる何かがあった。

「ふたりとも、強いからな」

 窓辺に立つと会話が途絶えて、呂淳の視線が湲に向いていることに鴻羽は気づく。

 その瞳の切なげな様子は母親への懐古でな、く恋情を思わされ罪悪感が胸に広がっていく。

 また、自分は呂淳から奪ってしまったのだ。

 そう鴻羽は自分の思考に疑念を抱く。なぜまた、なのだろうと。

 そのとき陶器の割れる音がして短い悲鳴が上がり鴻羽の脳裏で何かが閃く。

 黒い、扉。

 開かれ、駆けて。そうして。

 逃げ出した。

「ごめんなさい、割ってしまいましたわ」

 傍らに置いていた茶杯を落とした柚凛の声に鴻羽は我に返るものの、もはや何一つ言葉を発せなかった。

 柚凛と湲が拾い集めようとしたので呂淳が制止し、音を聞きつけた女官らが来て手早く片付けていく。

「……勝負ありだな。柚凛は敵に回すと面倒だねえ」

 盤に向きなおった湲がつぶやく。将は歩兵に追いこまれているらしかった。

「あら、本当。湲様に勝ったのは久しぶりですわね」

 すこし落ち込んだ様子だった柚凛だったが、そのことに笑顔を見せた。傍らで盤を覗く呂淳の顔を鴻羽はまともに見ることができなかった。

 叔母が死んだ時、自分は後宮にいた。

 なぜなら彼女が殺されると知っていたから――。


***


 それはほんの好奇心からだった。

 見慣れない客がやってきて挨拶もそこそこに、書斎へと父とふたりして籠ったことに秘密の匂いを感じとったのだ。

 下働きの者達の目を盗み息を潜めて暗い廊下を歩き、外に聞こえやしないかと思うぐらいうるさく跳ねる心臓を気にしながら扉にそっと耳をあてた。

 やがて漏れ聞こえる言葉を拾い集め繋げていくうちに頭の中が真っ白になった。

 先日亡くなった第一王子の母である清妃せいひを焚きつけ、叔母を毒殺する。五日後には毒は彼女の元にわたり、翌日には実行されるであろう。

 聞いたのは間違いなく、そんな内容だった。

 そのあとすぐに自分の部屋に戻って寝台に潜りこんだが眠れなかった。

「お前から話とは、珍しいな」

 呂淳を見舞ったその日の夕餉の後、鴻羽は渓雁けいがんの書斎を訪ねていた。

 父の口から真相を聞きたかった。

「叔母上を殺したのは第一王子の暗殺の疑いをうやむやにするためですか」

 余計な前置きは煩わしく率直に問うと、渓雁の眉間に皺が寄る。何を馬鹿なことをと否定される前に鴻羽は言葉を重ねる。

「叔母上が亡くなる前にここで父上が密談をしているのを聞きました」

「……いまごろになってなぜそんなことを聞きに来た」

 思い出したから、それだけのことである。

 十一だった自分は正義感だけで動けるほど子供でなく、もし事が広まれば斎家が、ひいては我が身の立場が危ういということにどうすることも出来ずにいた。結局当日いてもたってもいられず後宮へと駆けたが遅かった。

 そして忘れることで自分の罪から逃げた。

 ずっと忠誠心の後ろで引きずっていた罪悪感の正体をやっと知ったのだ。

「思い出した以上は、真実を知りたいと思っただけです。稜明殿下は病死だったのですか?」

 あの当時稜明の病死に関しての暗殺疑惑に王宮は落ち着きをなくしていた。しかし呂淳の母である苑昭えんしょうの毒殺、首謀者の清妃の自死によって王が心を病み官吏らが固く口を閉ざしたことで終息した。

 父の意図したことというなら稜明の死因も疑うべきだろう。

「……病死だ。これ以上は蒸し返すな」

 追及を許さぬ渓雁の頑なな態度を鴻羽は肯定と取って顔を歪める。

「そこまでせずとも父上は十分に権力を得たでしょう」

 呂淳が産まれるより前からすでに内政は父に手によって動いていた。なぜ主君を裏切り妹まで殺したのか自分にはまるで理解できなかった。

「お前のためだ。血の繋がりほど確かなものはない。鴻羽、もうこのことは忘れて斎家を盛りたてることだけを考えろ」

 穏やかに諭されながら鴻羽は弱々しく首を横に振る。

「私はそこまでして家を栄えさそうとは思いません」

 小さな頃、父は素晴らしい人と周囲の大人たちから聞かされていた。そしてその父が育てた家名を引き継ぐことが自分の誇りでもあった。

 あの日に裏側を知ってしまうまでは。

 記憶はなくとも父への嫌悪感は残ったままだった。裏を返せば何もできなかった自分への憎悪でもあった。

「……何が己のためかよく考えることだ」

 これ以上渓雁が口を開く気配もなく、鴻羽も出すべき言葉はなかった。


***


 休暇も残り二日となった経った頃、郭将軍を筆頭とした彭門下生らと今回の戦の軍略を見直す会合に参加したのち湲は呂淳の部屋に来訪した。

「呂淳、また熱出すよ」

 湲は雪の欠片が吹き込んでくるのもかまわず、窓を開け放ち外を見ている呂淳の傍らに立つ。

 窓を締めて見上げた顔に表情は薄かった。

「鴻羽は母上が殺されたことを知っていた」

 しっかり自分の顔を見据えて呂淳が言った。どこか幼子に言い聞かすように丁寧に、そして訓戒を込めて。

 すべて聞き終えて湲は戸惑う。驚きはしたが、鴻羽を恨む気持ちはまるで湧いてこなかった。

「お前は、その話を聞いてどうしたの?」

「……何も言えなかった」

 ぽつりと言葉が落ちる。

「訊きたいことも言いたいことも全部言えなかった。母上のことをたくさん思い出してそのことばかり話した。鴻羽はずっと聞いていて、最後にどうしてほしいと訊かれた」

「どう答えたの?」

「なにもいらいない。このまま自分に従ってくれればいいと答えた」

 それでいいだろう、と呂淳に目で問われて湲はぎこちなく首を縦に振る。

「そうだね。まだ、時期じゃない」

 呂淳のほうへと上手く文官らの忠が行かない限りはまだ核心には触れられない。

 そのことに安堵している自分が後ろめたく、湲は呂淳から分厚い玻璃の向こうへと視線をそらす。

 子供の頃は雪が降る日でも家の中でじっとしていなかった。ただ単に家の外に出るのが好きだった。

 外にいると、母が湲と名前で呼んでくれたから。

 家の中では母は自分を殿下と呼んだ。仕方ないことだと分かってはいたが、家でも外でも母上と彼女を呼んでいた自分はとても寂しかった。

 けれど死んだ夫に似ているんだろうかと呂淳に思いを馳せる母は、きっと自分より寂しいのだと思っていたので感情を言葉にはしなかった。

 貴族の婚姻としては珍しく想い合っていた夫の、たったひとつの忘れ形見を手放すことがなければ彼女は幸せだったに違いない。だからいつか王宮に戻る日が来たなら、母を真っ先に呂淳に会わせてあげたいと思った。

 けれど叶わなかった。

 ならばせめて呂淳のために母の代わりに出来ることはしようと決めた。

 自分のために命を散らししたふたりへの、そして偽りの場所に押し込められながらも忠を尽くしてくれる呂淳へのせめてもの償いのつもりだった。

「……少し安心もした」

 穏やかな声に湲は記憶の中から引き上げられる。

「鴻羽は自分とは全然別の完璧なものだったのがたまらなく嫌だった。だから、ずっと斎家も何も関係なく目の前からいなくなって欲しかった」

 さらさらと水が流れるようにこぼれる言葉は、胸にたまる頃にはどろりと淀み粘ついた感情を曝け出してくる。

「でも、湲は私と違って鴻羽に引け目は感じていないし優しい。だから伯父上に恨みは持っていても、何も知らずとも伯父上を間違っていると思っている鴻羽のことは嫌ってないのが分かっていて不安だった」

 呂淳と目が合って、湲はその澄み切った瞳に息を呑んだ。

「鴻羽は自分のために母上を見殺しにした。罰を受けるのは当然なんだ」

 だからもう躊躇う必要ないと言う呂淳に、そうだねとうなずくことしか出来なかった。

 確かに、鴻羽は実母を見殺しにした。それでもまだ彼に愛されていたいと思ってしまっている。

 憎しみに食まれていつの間にか大きく穿たれていた胸の空洞は、復讐では埋まらないことに気づいてしまったのだ。

 何の肩書もなく一個の人間として名前を呼んでもらって、優しく抱きしめられて、そうして女のなりそこないと笑われた体を綺麗だと言って愛してもらって。

 それでようやく満たされていく。

 主君が敵を恋うなどということを知れば呂淳を失望させるだろう。だからけして知られてはならない。

 湲はそう何度も自分に言い聞かせる。

 だが想いを切り捨ててしまうという選択をしない自分自身に気づくことはなかった。


***


「こっちもそんなに広くないね」

 休暇も明け僅かな私物を新たな軍舎の私室に異動させ終わった鴻羽の部屋に、湲が顔をのぞかせる。

 正式な任命はまだだが、鴻羽には隊将のための軍舎内の小さな邸宅を与えられた。部屋の内訳は応接間、執務室と隊将と補佐官のための私室である。私室はあくまで仮眠をとる場所であって、寝台と小振りの卓がひとつあるぐらいでこれまでの部屋とかわらない。

 そもそも軍舎は王宮内の建物としては質素なのだ。使われている建材は黒樫などの高価なものでない一般的なもの。雨雪を防ぐための雨戸はついているものの、明り窓は玻璃ではなく紙が貼られているだけである。

「軍舎の私室はこんなものだろう。寝台があってひとりで寝られるだけで十分だ」

 十三から十四までの一年の間、二〇人で雑魚寝していた経験のある鴻羽はしみじみと言う。

 限界まで押し込められているものだから必然的に身を寄せ合うことになり、夏場など寝苦しくてたまらなかった。しかしながらその頃の同部屋だった者達とは、いまだに親交があるので悪い思い出だけでもない。

「じゃあ、ワタシはたまにこっちで寝ちゃいけない?」

 湲がどこかあどけない口調で小首をかしげてみせるのに、鴻羽は一瞬呆気にとられた。そしてすぐに鼓動はさっきよりも倍の速さで動きだした。

「……うん、ああ。それは、いい」

 ときおりみせるこういう幼い少女めいた表情かおと、そのことに反する色香を多分に含んだ仕草にはいまだ慣れずにしどろもどろになってしまう。

 そんな鴻羽の隠し切れていない動揺を楽しむかのように、湲はくすくすと笑いながら戸口から彼の側によりその片腕に抱きついて身を寄せる。

「今日は帰る?」

 甘えた声でじゃれつく湲の細い指は、鴻羽の腕の袖口をきつく握っていた。

「なにかあったのか?」

 問いかけながらも鴻羽の頭には呂淳とのことがあった。

 せめて呂淳には真実を伝えるべきだろうと、意を決して再び後宮を訪ねた。呂淳は父が叔母まで毒殺したことは気づいていたらしく、確信が持ててよかったと読み取れぬ表情で言った。

 自分が知っていたことに関しては咎める言葉はなかった。

 しかしとつとつと語られる叔母の思い出話は、自分が奪ってしまったものを目の前に広げられている気がして心苦しかった。

 世継ぎの問題がある上に自己評価が低すぎる呂淳は、湲に想いを告げることすらできないだろう。そこに自分が割り込んでいくことはしてはならないと分かっていた。だがいくら懇切丁寧に説こうとと感情に正論は通じなかった。

 求めて、受け入れられてもはや手放せなくなっている。 

「……郭将軍から来年の夏までには隊将の席が空くだろうから来いって言われたんだ。そうなったらたぶん一緒にいるのは難しくなってくるだろうし、ね」

 心構えていたこととはまるで違うことだったが、遠くない先の終わりを仄めかすもので鴻羽はその影を追い払い湲を抱きすくめた。

「別に全く会えなくなるわけじゃないだろ。会う時間が減ったからと言って俺の気持ちは変わらない」

「そうだね。うん……」

 腕の中で答える湲の言葉は曖昧でどこか悲しげだった。

 鴻羽は求婚の言葉を紡ぎかけてやめ、そのかわり湲の頭を静かに撫でた。

 女人禁制の軍で湲が籍を置いておけるのは表向きは男として通しているためだ。

 実際腕に抱いている体は半陰陽とはいえ男のものと言うには繊細すぎる。出逢った頃から甘くそよいでいた色香も年を重ねるごとに濃くなり、もはや男で通すことは無理があると思えるほどだが。

 それでも湲が軍人でいることをこだわり続ける以上は、求婚などすればたやすくこの腕から逃げていくのは想像できる。

「……本当に、俺はお前を愛してるんだ」

 鴻羽は湲のおとがいを持ち上げ想いを吹き込むように口づける。

「夜には、まだ早いよ」

 花の馨を漂わす首筋に唇をあて、舐めあげると弱々しい抵抗の声が上がる。自分の耳元にかかる吐息は熱く湿っている。

「直に夜になる」

 鴻羽は寝台の上に湲を座らせ、合わせから手を差し込んで肌を愛撫しながら衣を剥いでいく。

 柔らかく掌に吸いつく滑らかな肌は、やはり男のものとは到底呼べはしない。

 背筋を指先でなぞりながら鎖骨のくぼみに口づけを落とすたびに、湲がため息に似た声を漏らしながら敷布を握りしめる。

 鴻羽は顔を上げて湲を組み伏せ、頬を薄紅に染め瞳を潤ます顔をのぞき込む。そして唾液に濡れて艶めく唇を貪った。

 その手はすでに本能の赴くままに腰帯を解き、引き締まった腿を撫でさすりながら深部へと向かっている。

 長年色狂いする者をだらしがないと憤慨していたというのに今の自分はどうだろう。

「ぁ、鴻羽……」

 だが淫靡に甘える声で名を呼ばれるとそんな自己嫌悪は瞬く間にかき消されてしまった。

 

***


 白峨七年。呂淳が即位して七度目の春である。

 戦勝の余韻をまだ残すこの年の春の宴は軍からも多くの者が招かれ、例年よりにぎわっていた。

 その中で尚書や貴族に慣れない愛想をふりまいて呂淳は疲れ果てていた。

 近年の内政への口出しで多少は芽があると思ってくれた幾人かの官吏は、自らやってきて声をかけてくれる。だが他の者に声をかけるというのは思った以上に緊張して、変に体に力が入ってしまう。

 しかしできるだけ伯父の側近らとの繋がりを太くしていかねばならないので仕方ない。

「上等だよ。そう簡単にはいかないものだから無理はしなくていい」

 露台の隅で一緒に一息ついてそう言う湲はひとつき前に左軍の隊将となり、五年前と違いこの露台に上がるのに誰にも文句をつけられない地位にいる。

 右軍の隊将である鴻羽との関わりも薄くなるので少し気は休まった。だが湲が視線を向ける下には鴻羽がいる。

 彼の周りには多くの人が集まっていて、あまり見ていて楽しい光景ではない。

「あれ、姪、だよね。ああ、子供産まれたって言ってたっけ」

 今鴻羽に挨拶をしているのは確か一番上の姉の娘で一七だったはずだ。一昨年結婚して昨年子供が産まれその挨拶らしい。その傍らの夫が人垣のほうへ向き誰かを呼んでいた。

 そして前に出てきたのは十八程度の娘を連れた夫婦で、どうやら娘と鴻羽を見合わせているらしかった。

「結婚か……。お前の正妃もそろそろ考えないとな。やっぱり世継ぎが出来るのが一番いい」

 すでに官吏らからもそろそろ子のひとりやふたりはと声をかけられているが、その気は起きない。

 それに湲から言われるのは胸が重苦しくことさら気が進まなかった。

 そんな感情が顔に出ていたのか、湲が苦笑する。

「下手なの選ぶと後々厄介だからゆっくり考えるといいよ。柚凛ならいい人選んでくれそうだからなんだったら頼んでもいいかな」

 家柄、容姿、年齢。そんなことをあれこれと話す湲の言葉はあまり耳には残らなかった。

 ぼんやりと目を落としていた湲の漆黒の髪が、柔らかな陽射しに包まれ煌めいていて綺麗だと思った。

 この頃は前にもまして美しくなった気がする。表情の少年めいたものが薄らいで、艶めいたものが色濃くなってきたせいかもしれない。

 湲の花びらと同じ色の唇が黒い盃に触れる。その瞬間、そこから目が離せなくなった。

 飲みほした後に唇に残った酒をねぶる赤い舌を見て、耳のあたりが熱くなり呂淳は思わずうつむく。

 ひどく不躾ことをしてしまったようで恥ずかしかった。

 だがそんな自分の様子に気づくこともなく、湲が露台の下へまた目を向けていて呂淳は今度は消沈してうつむいたのだった。


***


 冬が帰って来たような冷ややかな風の吹く日、初代王の血族の末裔とされている貴族の邸宅がひしめく区画のとある屋敷を湲と郭将軍は訪ねていた。

 彭家の屋敷である。周囲の家々と同じく建国より二百年近くここにある屋敷は、いくつかの棟と花々が甘い芳香を放つ広い中庭を塀の中に抱え込んでおり、管理が行きとどいているらしく整然としていた。

 ただ二十数年分の沈黙に人のぬくもりは埋もれ、胸が凍えるような寂しさがあった。

 雇い入れている管理人に正式な当主としての挨拶を済ませたのち、湲は郭将軍と共にひととおり部屋などを見回り、最後に中庭で咲き零れる杏の花を眺めながら屋敷を後にした。

「住む気にはなったか?」

 幾年も年を重ね艶やかさを増した黒樫の門を出たところで郭将軍に尋ねられ、湲は苦笑する。

「ひとりで住むには大きすぎるよ。軍舎の部屋がちょうどいいや」

 隊将就任にあたって郭将軍が預かっていた彭家の屋敷は、湲へということになり今日見に来たのだ。

 軍舎のものの三倍近くはありそうな寝室が六つに書斎が三つ、他に下働き用の棟など広すぎる屋敷はひとりで暮らすにはあまりにも隙間が多く寂しい。

 それに、自分の帰るべき場所はここではない。そのうち呂淳も一度連れてきたいと思ったが、けして帰れはしない場所へ連れてくるのも酷な気がしてその考えは打ち消した。

「そうだな。そのうち跡目が……いや、すまん」

「いいよ。彭家は私で終いだろうな。遠縁っていうのもいないみたいだし、この屋敷は呂淳が気に入った官吏にでも名前ごと下げ渡せばいい」

 もはやそうするしか彭家が名を残す道はないだろう。

 出来れば呂淳の娘が嫁すときに、その相手に彭家の名を与えることになれば最善だ。

「そうだな……」

 物悲しげにつぶやいて郭将軍が咳き込む。先日風邪をひいたのがまだ治りきっていないらしい。

「大丈夫? 軍舎と屋敷どっちに帰る?」

「少し痰が絡まっただけだ。そこまで弱ってはおらん」

 湲は郭将軍の返事に苦笑して軍舎に足を向ける。そして人通りの少ない往来に柚凛がいて、こちらに近づいてくるのが見えた。

「湲様に郭将軍。ごきげんよう」

「こんにちは。今日も書庫? いい加減読みつくしちゃいそうだね」

 この頃はよく王宮の書庫に通っているという柚凛は、今日も飽きずに書物を読みあさっているらしい。

「そうなってしまってはまた退屈になってしまうけど、書物は増えるものだから心配いりませんわ。湲様は……もしかしてお屋敷に戻られるのですか?」

 期待を秘めた柚凛の眼差しに、湲が郭将軍につい先ほど告げたことを話すと分かりやすく落胆された。

「家も近くて楽しそうですのに残念ですわ。ああ、でもお父様がやっぱりうるさくなりそうですしね。わたくしは湲様と仲良くしたいのにお父様ったら本当に。郭将軍もいつも父がご迷惑おかけして申し訳ありません」

 若い二人の会話を心持ち離れた場所で見ていた郭将軍は、話を向けられ片眉をあげる。そして不愛想にご令嬢が気になさることはないと返した。

 その後いくつか言葉を交わしたのち、柚凛は斜め向かいの斎家の屋敷へと戻っていった。

斜め向かいとはいっても屋敷ひとつひとつが広大なので、目と鼻の先と言うほどでもないがやはり近い。

 斎家と彭家の家のわずかな差は家格の差でもある。

 本来ならば王宮に近い彭家のほうが上のはずだ。

「あのご令嬢も供もつけずひとり歩きはする上に、書物好きとはかわっているな。まあしかし父親よりかはまともか。まったくあの父親で娘も息子もよく分別あるように育ったものだな」

「息子も?」

 珍しく鴻羽に好意的な言及に訊き返してみると、郭将軍は不服そうにうなずいた。

「ああ。あの男に息子なのが信じられんほどな。しかしあれは目立ちすぎる。本人に自覚がないのがことさら悪い」

「呂淳を立てるにはやっぱり邪魔、か」

 ひとりごとのように言って湲は視線を落とす。

 鴻羽が呂淳の為、国の為と心血を注げば注ぐほど呂淳は卑屈になる。そして周囲はさすがは斎家のと褒め、それに比べ従弟である王はと陰で囁く。そうなるとますます呂淳が、と悪循環だ。

 軍の要となりかけている鴻羽の扱いは難しい。

 そして自分はそれを出来るだけ鴻羽の近くにいるための口実にしてしまっている。

「……お前もあまり目立ち過ぎぬよう陛下のお支えになるのだぞ」

 郭将軍がそう言って、湲はわかっているとため息混じりに答えた。


***


 すっかり密談場所となった書庫で柚凛は呂淳の前に地図を広げる。

「ここと、ここの領主の娘が新しい鴻羽の花嫁候補ですわ。どっちを選んでも西の主要な穀倉地帯と縁故が結べますわね」

 この頃は呂淳に鴻羽の花嫁候補を教えるのが主だった。鴻羽の縁談はつまるところ父が次にどこを取り込もうとしているかである。さすがにこればかりは湲が知りえない情報だろう。

 これまでの傾向は名家で広い領土、そして中央との結びつきがまだ薄い貴族。

 中央どころか国の全域を取りこもうとしている様は、ひそやかに簒奪でも狙っているのではないかと思えるほどである。

 しかしながら州長官を勤める家は見事に排除されているのが面白くない。州長官は中央より派遣され、地方の領主である貴族を束ねるいわば州の王であるが、やはり土地を持っている領主のほうがなにかと強い。

 自分が州長官の元へ嫁がされたときに適当だと思ったのはそのためだ。元夫は特に領主の意見に右往左往させられてばかりで、まだ若いとはいえあまりにも情けなかった。

「ああ、あと湲様は隊将になられてからも軍舎の鴻羽の部屋へ時々訪ねているようですけど、なんの企み事をしていらっしゃるのかしら」

 道を逸れて嫌な思い出を掘り起こしてしまい、柚凛は眉をひそめながら話題を変える。

 さすがに目立つ二人だけあって下世話な噂も多い。これまでは補佐官とその上官の関係であるのでしがない噂話で終わっていたが、今は違う。

 長いこと共に戦地で戦った朋輩であり、新任の隊将同士でもあるのでお互いろいろ話したいことがある。

 というのが面白半分を装って問い詰めてみたときの鴻羽の言い訳だ。弟の嘘は分かりやす過ぎる。

「……いえ。なにも」

 呂淳に不安の色が見え、柚凛は湲が報復のために鴻羽に取りいっているわけではないらしいと憶測する。

 下手に隠し立てすれば余計な疑いが向くことぐらい湲ならば分かるだろうに。その判断も出来ないということは、よほど後ろめたいのだろう。

「湲様にもなにかお考えがあるのかもしれませんわね。陛下のほうはあまりことを進められていらっしゃらないんでしょう」

 必要以上に不安をかきたてるのをやめてそう問うと、呂淳がうなだれはいと答えた。

「そう気にすることもありませんわ。お父様が何十年とかけてきたものを一朝一夕でどうにかできるなんて湲様も思っていませんでしょうし」

 若い頃は開墾や農地の見直しのため地方をかけずり回り、中央に戻れば王を宥め有能な官吏を見定めて内政を整えと、努力を惜しまぬ有能な人物として父の信奉者は官吏らに多い。

 だがしかし、父の信奉者同士、というのはけして全てが一致団結しているわけではない。

 媚を売ろうと話しかけてきて誰かを落としめながら、自分を持ち上げんとする人間は多い。

 ここ数年王宮で耳をそばだててうろついているうちに、官吏らの派閥やその確執はだいたいは把握出来た。

 そしてその官吏らがひとつだけ共有するのは父へ畏敬であることも強く感じた。

 寄りあわない糸を束ねる父が辞した時はひとしきり揉めたのち、軍内で地位を築く鴻羽が新たな束ね役として担ぎ出されるのが目に見える。

 そうならないために呂淳には入り込みやすそうな派閥の長なども教えているが、あまり上手く進んでいないようだ。

「ですがもう少し目に見える結果があればいいのですが……」

「陛下の努力次第ですわ。やっぱり正妃をお迎えになることをお考えになったらいかが? 相手は鴻羽の相手から選ぶのがいいですわね。わたくしもあなたに合うかどうか見ておきますし」

 縁談の話になるとそれは、と呂淳が口ごもる。

「二十三にもなるのに寵姫のひとりも持たずに、お世継ぎがいないというのはさすがに皆不安に思っておいでですわよ」

 少し口調をきつくしてみると、見ていて情けなくなるほど呂淳は縮こまってしまった。

「まあ、鴻羽もですわね。こちらは下手に後継ぎなんて作られたら面倒だけれど。湲様の目的はそれかしら。でもあの方も情が深いですし、少し心配ね」

 半ばひとりごちるように柚凛は言う。

 少なくとも鴻羽はあの性格では湲を愛したまま、他に妻を迎えるなどということはできない。

「……鴻羽は母上を見殺しにしたのです。だから、裏切ることはありません」

 言葉は強いが、その反面呂淳は母親に置き去りにされてしまった子供のような顔をしていた。

 鴻羽が叔母の死についての顛末を知っていて黙っていたことは、呂淳から聞いて知っている柚凛は形だけ同意する。

 その頭の中ではひとつの駒に指をかけていた。

 邪魔な駒を排除するにはまだ距離があり、駒を持っていく先はまだ見定められなかった。

 

***

                       

 かたん、と扉が閉まる音がして湲は重たい瞼を持ち上げる。ぼんやりしたまま半身を起すと、悪い、と鴻羽の声が聞こえた。

「起こしたか?」

 いつのまにか寝ていたらしいと気づいた湲は寝台を降り、脱ぎ捨てていた服のうち下着に当たる衣だけを身につける。

「どれぐらい寝てた?」

「そんなに長いことじゃないと思うが、飲むか?」

 鴻羽が卓の上に置かれた水差しを示し、湲はまだ半分寝惚けた様子でうなずいて乾いた喉を潤す。多少は頭ははっきりしたものの、体全体を包むうだるさは抜けきらない。

「だるい」

 湲はぼやきながら全体重を預けて鴻羽に抱きつき、彼の胸に顔をうずめる。そうすればうだるさの中にぼんやりとある甘さは強くなり幸福感に変わる。ただ日常の疲労は、まだ底で重たく残っていた。

 隊将に昇格してみつき。

 春ごろから郭将軍の体調が優れず、ここ最近は彭門下生は集まって遅くまで話しこんでいることが多くなった。郭将軍の容体の不安もあって、先々丞相とどう渡り合っていくか軍はどうあるべきか皆真剣に話している。

 その中でやはり祖父のことや呂淳のこともあって、自分への期待は大きく気疲れしてしまう。

 そして気づくのだ。いかに鴻羽の側が安らげる場所かということを。

「泊まっていくか?」

 欠伸をひとつすると口づけを落とそうとしていた鴻羽が、苦笑しながら問いかけてくる。

「さすがに朝までいるのはまずいよ」

 とは言ったものの眠気はまだ留まったままで、自分の部屋に戻るのも億劫だ。なにより鴻羽と離れがたかった。

 隊将になってから自分は別の部屋に移り、鴻羽との逢瀬は今日のように日暮れ時に鴻羽の部屋を訪ね夜更けに戻るという形になっている。お互いの補佐官は家庭持ちなので仕事が終われば帰ることが大半で、会うのに苦労はしないものの人目もあるのでそう頻繁には一緒にいられない。

 共に過ごす時間が減れば多少は鴻羽への気持ちも落ち着くかと思った。しかし職務上顔を合わす機会は多いが言葉を交わすことは少なく、どうしようもなくじれったく切ないばかりだった。

 そして会えば時の流れが緩やかになることを望んでいる。

 それではいけないことは重々分かっている。

 分かってはいるが。

「言い訳は後で考えればいい。俺は日が昇って一番にお前が見たい」

 そんな胸をくすぐる言葉にはつい甘えてしまう。

 疲労感を言い訳にして湲は再び寝台に潜りこむことにした。

 蜀台の火が消え、隣に鴻羽が横たわり抱き寄せられると、胸の奥まで優しい温度に包まれている気分になる。

 このぬくもりが自分の帰るべき場所であればよかったのに。

 穏やかな眠りの波に沈む間際、湲はそう願った。 

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