五 白峨五年晩夏―同六年初冬



 白峨はくが五年の夏に紫秦ししん李宋いそうの連合軍は、湍茜たんせん攻めを始めた。

 後に秦宗茜しんそうせんの戦い第一次呼ばれるこの戦で、連合軍は近年湍茜が侵略した小国の領土であった平野部で衝突した。湍茜の勢いは甚だしく苦戦を強いられたが、数において連合軍が優勢ではあったのでどうにか勝利を収め、湍茜の領土を削り取ることに成功した。

「あいかわらず綺麗なもんだね」

 自陣に引き上げて来た鴻羽こううの姿にえんは感心する。

 鎧に返り血はあるものの頭から血まみれの者までいる中で見れば、汚れていないほうである。しかし、けして怠けていたわけではない。

 鴻羽はいつも敵隊将へ向かって駆けだす。確かに戦を迅速に終わらせる手立てではあるが、あまりにも考えなしの策であり功に焦りすぎだのと鼻で笑う者もいる。

 湲も最初はそんな者たちと同じで何という単純馬鹿だろうかと思っていた。

 だが、実際その戦いぶりを見れば文句など何一つ出てこなくなる。

 自らの足のように自在に馬を操り、返り血を浴びる間もなく次々と兵を一振りで斬り伏せていく。

 それは彼自身が刃のごとく思えるほどだ。

 次第に敵兵らは恐れ戦き鴻羽から距離を取り始め、隙が出来る。そうしているうちに味方も後れを取るものかと奮闘する。

 そしてあっという間に隊将の首を取ってしまうこともあれば、退かずに群がる敵兵を引き受け味方の通る道をつくることもある。

 戦が終わる頃に骸に囲まれ、返り血をほとんど浴びることなく馬上にいる様はまさしく軍神呼ぶに相応しい姿だった。

 若い兵らが崇拝とすら呼べる眼差しを向けるのも納得できる。

 特に今回は平野戦でその実力を余すことなく発揮していたので、その名は現丞相の嫡子ということも相まって李宋にも大きく伝わるだろう。

「障害がないからな。だが、手こずった」

 言葉の少ない鴻羽は普段の温和さなど嘘のように鋭く、燃える鋼に似ておもわず見惚れてしまう。

 しかし上から下までみつめてきて負傷の度合いを確認し、ひとり納得してうなずくところはいつも通りで湲は自然と口元を緩めてしまった。

「今回は陣営からほとんど出ることがなかったよ。将軍は出たそうにしてたけど。いい年して元気だよなあ。だいたい軍師って出たがらないもんなんだけどね」

 紫秦側の総大将はかく将軍である。今回に限っては右軍左軍関係なく選抜され、本来ならば国に残って王都の護りを務めるはずの、将軍の率いる右軍に属する鴻羽らの隊も選ばれた。

 鴻羽らの第一騎兵隊が選ばれたのは鴻羽の戦力が大きいのもあるが、郭将軍が湲を連れていきたかったというのもある。

「郭将軍は剣の腕もいいからな。一度は手合わせしてみたいな……」

 父親ほどではないが郭将軍からはあまり好かれておらず、まだ一度も剣を合わさせてもらったことのない鴻羽が重苦しく呟く。

「この戦が終わったら頼んでみれば? そこまでお前のこと嫌ってるわけじゃないからさ」

 剣の実力も、父親とは真逆の裏表のない実直すぎる鴻羽の性格も郭将軍は認めている。だがやはり心情はまだ恨みが深く素直に認めきれてはいない。

 彭将軍の死の真相を知らない郭将軍でさえも、渓雁のみならずその息子にまで腹をすえかねているのに、自分はなぜこんなにも鴻羽を受け入れてしまっているのだろう。

 出会う前はあの渓雁けいがんの息子だ。どうせろくなものではないと思っていた。

 だが実際はなんの面白みのない堅物な男で拍子抜けした。

 いろいろと便利そうだと近くに置いておいてみれば、自分のことを嫌っている癖にやたら口うるさく世話焼きで鬱陶しいぐらいだった。

 そして自分が半陰陽であることも、体を売っていたことも知っているのに、なぜか非力な乙女でも庇う態度を示されるとむずがゆくある。

 しかしながら彼の側は居心地がいい。

「なんだ?」

 無言で湲に見つめられて鴻羽が身構える。

「お前ってさ、欠点らしい欠点がないのが欠点だよな」

「どういう意味だ?」

「いろいろ面倒くさいってこと。ほら、あっち知り合いだろ。呼んでるよ」

 訳が分からないといった顔のまま、鴻羽は同輩の呼び掛けに応じて湲から離れていく。

 欠点がなさすぎる人間というのは両極端な好意と敵意を抱かれがちだ。

 自分は、鴻羽が嫌いではない。

 だが、呂淳は彼が大嫌いだ。

 この意見の相違は大きすぎる。呂淳に合わせようとしてみるものの、彼が鴻羽を嫌いな理由は全部自分が鴻羽を嫌いになれない理由で、永遠にこのずれが重なることはなさそうだった。


***

                  

 冬、第二次の戦闘は敗退で終わったことが紫秦に伝えられる。

 郭将軍の事前の忠告も虚しく囮に数隊がかかり、谷合で身動きがとれぬうちに大きく痛手を被って連合軍は退却を余儀なくされた。

 紫秦側は隊将がひとり戦死してその補佐官も重傷、そこに代行として鴻羽と湲があてられるという報告が呂淳りょじゅんの卓の上に広げられている文には書いてあった。

 文の送り主は湲である。

 報告書が来るときに一緒に湲が近況報告とこちらの様子を尋ねる文が、別にして送られてくる。代行については公の報告書にもあったが、湲の文でもう一度その事実を確認すると一層気分が重たいものになってくる。

 あくまで今は代行だが、無事戦を終えられたなら鴻羽はその功績への恩賞としてそのまま隊将となるだろう。自分が許可しなければいいだけの話とはいえ、湲はおそらく鴻羽を昇格させる。

 これ以上鴻羽の地位を押し上げてどうなるというのか。

 渓雁さえ落ちれば斎家そのものが揺らぐはずだったのに、鴻羽はすでに代わりの柱となりかけている。

 ただ自分の父親の成したことを知れば、たやすく地位も何もかも投げ出してしまう性格なので、厄介な相手にはならないだろう。

 しかし政だけでなく軍まで斎家が掌握してしまうのはなんとも不愉快だ。

 呂淳は無意識のうちに自らの腕に爪を食い込ませる。布地にじんわりと血が滲んできてから痛みに気づいた。最近はひとりでいると自分の腕をかきむしっても、なかなか気づかない上に回数も多くなってきた気がする。

 昔は伯父に詰られたりするたびだったが、この頃は鴻羽の話題が耳に入ったり会話をしたりした後に、どうしようもない苛立ちと不安が募ってくる。

 もう鴻羽の前で彼を嫌っていない素振りを取り繕うのにも疲れてきた。

 大嫌いだと面と向かって言いたいけれどけれど、言えない。

 もはやそれは負け惜しみでしかなく惨めなだけだからだ。

 いっそこのまま戦地で尽きて欲しいと願う一方で、生きて帰ってくるという確信があった。伯父もそう思っているのか戦況に落ち着かない様子ながらも、鴻羽を国へ戻そうとはしていない。

「陛下」

 女官に呼ばれ、なんだと問い返せば柚凛ゆうりんが来ているということだった。

 注意を受けて以来柚凛がここに直接出向いてくることは減ったとはいえ、退屈しのぎに月に一度か二度は訪ねてくる。

 正直昔からこの人も苦手だ。遠慮した口調なのに言葉は容赦ないところが、特に子供心ながらに怖かった。ただ鴻羽が嫌いという共通項だけは少し楽なので、たまに話をきくのはそこまで嫌ではなくなった。

 幾分悩んだうちに呂淳はここに通すよう許可を出した。そして我が物顔で後宮を闊歩してきただろう柚凛は、いつもの貞淑で美しい笑顔だった。その裏は他のどんな女よりも恐ろしいことを知っているので見惚れることはない。

「こんにちは。書物を貸してくださる? 陛下なら変わったものをお持ちで……」

 呂淳の腕に滲んでいるものに気づき柚凛が言葉を止める。そうして広げられたままの湲の文に気づいて、見てもかまわないかと形だけ問うた。

 これは毎回のことでもあるし見られて困るものでもないので許可すると、柚凛は淡々とした表情で読み始めた。

「お父様が機嫌が悪そうにしてらっしゃるから、旗色が悪いだろうとは思ってましたけれど見事に負け戦になりましたのねえ。ああ、でも鴻羽と湲様に特に怪我はありませんのね。まあ、早い出世だこと」

 やはり柚凛も鴻羽の昇格はおもしろくないらしく最後は毒づいた。

「湲様を鴻羽の下に置いておく必要はもうないのではありませんこと? あの人はもう彭軍師の孫としてちゃんと認められているのでしょう」

 確かに湲はもう郭将軍率いる左軍の主要な役職につけても問題はない。これ以上鴻羽に懐柔されてしまうまでに引き離してしまうほうが得策だ。

 だがなんかんのと理由をつけて湲がうなずかないだろうと思うとまた気が滅入った。

「……提案は、してみます」

 自信など微塵もない声に柚凛が心底嫌そうに顔をしてわざとらしいため息をつく。

「よろしいですこと。この国で一番偉いのはあなたですのよ。お父様でも鴻羽でも湲様でもありませんわ。王位はあなただけの絶対的なものでしょう」

 ひとつ、ひとつ諭す柚凛に呂淳は頭を振る。

「私の絶対的なものはそんなものではありません」

 たったひとりの主君。

 誰も知りえない真実と憎しみを共有するそのひとの、唯一の忠実な臣下であることが自分の存在意義でもある。

「……そう。あなたにだって大事なものがありますのね」

 興醒めした様子で柚凛がつぶやいて、書棚に向かい適当に数冊選別し始める。

「それだけはどんな手を使ってでも護らないといけませんわよ。わたくしにも出来ることがあるなら手伝いますわ。では、これを返しに来るときにまたお話しいたしましょう。あと、どうかご自愛くださいね」

 柚凛がいたわる笑みを残して部屋を後にする。

 残された呂淳は湲からの文を丁寧に畳み、小物などを納めている箪笥を開けた。そこにはこれまでの湲の文と共に、それぞれの形見の短刀と腕輪が並んでいる。

 誓いは重いけれど、いまの湲と自分の繋がりはこの紙一枚で酷く頼りなく思えて心細い。

 けれど自分の味方かは分からないが、少なくとも鴻羽を敵視している柚凛が話を聞いてくれるなら少しは不安が和らぐ気がした。


***


 兵の稽古に付き合ったのち、ついさっきまで見物していた湲の姿はどこにも見当たらなくなっていた。それを探しに自分と湲に与えられた天幕に入って、鴻羽の思考は一瞬飛んだ。

 白い、女の背中が無防備にそこにあったのだ。

 肩口から肩甲骨にかけて走る緋色の線に、上半身をはだけている湲だということに気づくと今度はどう反応すべきかうろたえてしまう。

 男とは明らかに違う背は繊細で白百合のようだ。その胸元にあるべきはずの膨らみはなく、途中で成長を止めた少女に見えて裸体を見ることに背徳を覚えた。

「ああ、ちょうどいいや、これ塗って」

 しかし当の本人には恥じらいの欠片もないらしい。

「ひとりで出来ないなら医者を呼べ」

 果たして湲は自分がどれほど美しいのかわかっているのだろうか。

 髪がすべて胸元へと流され、露わになったそのうなじから匂い立つ色香はすべての視線を絡め取り情動を灯す危うい魅力を秘めている。

 自覚がないのでなくただ単に、警戒心を抱く相手ではないと思われているのかもしれない。

 それは喜ぶべきなのか否かと考えながら、鴻羽は表情をこわばらせたまま近づいて差し出された軟膏を手に取る。

「出来るけど近くに人がいたら頼んだほうが早いだろ……っ」

 先の負け戦で退却中の混戦中に斬りつけられた傷に軟膏を塗りつけてやると、湲が肩をすくめる。

 命にかかわるほどではなかったが痕は残るだろう。その他にもいくつか古い傷痕があって、身寄りを失くした後どんな目にあってきたかまざまざと思い起こさせられる。

 出来るだけ傷は増やしたくはないのに、戦地に立つことを湲が選ぶ限りは仕方ない。

 そう思う一方で寒さなのか痛みなのか、微かに背を震わせている様子に異様な高揚感めいたものを覚えてしまう。

「終わったぞ。冷えるから早く着ろ」

 早まる鼓動を抑え込んで鴻羽が言うと、湲は素直に身なりを正して向き直る。

「でもここってあったかいよなあ。状況が状況だし雪が降らないのはありがたいか」

 今駐屯地としているのは初めに勝ちとった湍茜北部の平野である。北部、と言っても大陸全体からみれば南に位置するため雪は滅多に降らない。

 山はそれよりか降ることはあるが積もるほどではなく、雪に道を阻まれることはまったくと言っていいほどない。

 この半年での二戦で両者とも疲弊していて兵を動かすことは難しく、今必要なのは李宋からの食糧などの物資が滞りなく届くことだ。

「しかし分かっていても雪が降らないとはなかなか思えないな」

 鴻羽にとって冬とは白いものである。山が白く染まる頃北から吹き込む風が強くなり、空は灰色に覆われ数日雪が降り続く。そうして世界は一面真っ白に変わる。

 その雪の上に立つ王宮の漆黒の門扉を見上げるのが子供のころから好きだった。

「帰りたくなる?」

「多少はな。母上は風邪をひきやすいから少し心配だ」

「なら文のひとつでも書いてよこしたらいいのに。柚凛には薄情者って言われてるじゃないか」

 報告書を国に送る際兵らは身内への文も一緒に預けることが出来るが、鴻羽はまだ一通も出したことはない。元より文というのは苦手なうえ取りたて書くこともないし、戦況なら丞相である父が報告書でつぶさに知ることが出来る。

「父上や姉上から状況は伝わっているからいいだろう」

 姉はいつものように我儘を言って湲から呂淳にあてた文を盗み見ているらしく、呂淳からの返信には彼女からの一言が添えられていることが多い。今回はたった三文字、薄情者とだけあった。

 湲の負傷を気づかう一言がなくて一瞬首をかしげたものの、湲がわざわざ呂淳を不安にさせることを書くはずがないとすぐに思いいたった。

「字ぐらいでも見せたほうが喜ぶと思うよ」

「そういうものか?」

「そういうものだよ。離れててもさ、母親って自分の子供のことずっと考えてるものなんだ」

 無惨な死を迎えた母を思っているのか湲の表情は寂しげに翳っている。

 それに愛おしさを感じずにはいられず、ふたりきりの空間が居心地悪くなってくる。

「次は、一言でも書くか」

 不自然な間をおいたものの、湲は気づかず微笑んだ。

「そうするといい。いい報告になるよう次は勝たないとな」

「ああ。そのためには気を抜くな。最近ひとりで行動しすぎだぞ」

 この頃、湲が自分の視界にとどまることが少なくなってきた気がする。

「箱入りのお嬢さんじゃないんだから四六時中見張ってくれなくてもいいよ。自分の身の守り方ぐらい分かってる」

 やんわりと、拒絶された気がした。

「呂淳から頼まれている。お前の身辺については俺に責任がある」

 もはや建前でしかなくなったことを口にすると、湲が小さくため息をついて立ち上がった。

「……郭将軍の所行ってくる」

 出ていく湲に他に言えることはなく鴻羽は黙ってひとり取り残されることになった。

 

***


 目の前でふたつになる子供が、大声で泣き叫んでいた。その子の白い頬が真っ赤になり、あどけない唇も切れて血が滲みむごたらしい姿だった。

 その時柚凛は誰がこんなことをと唖然とした。

 そして自分の掌の熱さに、やっと自分が夫の愛妾の子を平手打ちしたことに気付いた。

 その子が何をしたわけでもなかった。漏れ聞こえる侍女たちの憐憫と嘲笑の入り混じった声が耳について仕方なく苛立っていた。ちょうどそこへその子がやってきて、まとわりついて来たのが煩わしくて仕方なかった。

 しかし叩く気などなかった。なかったはずだった。

 泣き声に気づいて慌ててやってきた夫の愛人は、我が子をしかと抱きしめて自分に必死にお許しくださいと謝罪を延べていた。

 まだ幼さを残しているというというのに母親の顔を持った十七の少女と、新たな命を内包して膨らみ始めたその腹が急に恐ろしくなった。

 このままでは自分はもっと取り返しのつかないことをしてしまう。そして気の狂った惨めな女として誰からも蔑まされるのだ。

 そう思って夫に離縁を申し立てた。斎家の後ろ盾をなくすことに躊躇いはしていたが、こちらに非があるので父は何も言わないと伝えるとすぐにうなずいた。

 安心しきった顔でそれが君のためにもなるなどと言って。

 思い出したくもないのに勝手に溢れてくる記憶を踏みつぶすように歩きながら、柚凛は王宮の書庫に向かっていく。

 雪が解け、今年は戦中のこともあって宴は行われないものの、各州の長官が王への新年の挨拶に出向いてきていた。その中に別れた夫も当然いた。

 顔などもう二度と見たくないので、長官らが滞在する場所の反対側をわざわざ遠回りしてきたというのに会ってしまった。

 宮殿を見物でもしていたのか、少し遠くにその姿が見えて思わず足を止め、そのうちに向こうも気づいて一瞬驚いた顔をしてすぐに顔をそらした。

 こんなことなら家にいればよかった。

 鴻羽が戦地に行ってからその身を案ずることばかりの母に嫌気がさして、鴻羽に文のひとつでもよこせと催促してみれば、短いながらもあれから毎回よこすようになった。

 しかし今度はたった二、三行の内容の代わり映えのしない文を毎日眺めて鴻羽のことを語る母に身の置き所がなくなってしまって出て来てしまった。

 書庫の扉を乱暴に開けると椅子が揺れる音がして柚凛はそちらに足を向けた。

 先客がいるなら挨拶ぐらいはしておこうと思ったのだが、そこにいたのが呂淳で柚凛は柳眉を寄せた。

「陛下、こんなところにいらしてよろしいのですか?」

 今まさに忙しく各長官と謁見していなければならないはずである。

「……今日はもう、終わりました」

 歯切れの悪い呂淳の言葉に柚凛は呆れかえった。

 かしずかれる、というのが苦手な彼のことだ。どうせ途中で嫌になって逃げ出したに違いない。そして女官たちのため息の聞こえないここへ逃げ込んだのだろう。

 それで時間を持て余した元夫はあんな所をうろついていたのだ。

「ご自由で羨ましい限りですわ」

 とびきり厭味ったらしく言うと呂淳が決まり悪そうに肩をすくめた。

「申し訳、ありません」

 反射的に口から出てしまったらしい謝罪の言葉に柚凛は苛立ちを増幅させる。

「あまり弱気な調子でいらっしゃるとあなたまで湲様に切られてしまいますわよ」

 鴻羽への文の催促をした後に返ってきた湲の文には、鴻羽に自分の護衛は必要ないと書いてくれとの頼みがあった。

 呂淳は突然のことに引っかかりは覚えているものの安心している。

 だが、けして湲が口うるさい鴻羽が煩わしくなったということでもないだろう。

 以前鴻羽とのことをほんの少し煽った時の反応は悪くなかった。意識し初めてのことならいい傾向である。

 呂淳を操るには湲は邪魔なのだ。

「……湲が帰ってくる頃までにはもう少ししっかりしたいとは思っています」

 まるでしっかりしていない声でそう言う呂淳に柚凛はひとまず怒りをおさめる。

 湲が近くにいるならある程度強気にはなれる彼だが、今はこの通りだ。

 このまま唯一の拠り所である湲が鴻羽に心を寄せれば、孤独も鴻羽への敵意も高まっていくだろう。

 そうすれば主導権を握れる。

 きっと、父よりも上手く――。 

 

***


 花がほころび始めてようやく連合軍側は動くことを決めた。

 軍師らが郭将軍の天幕に集まり頭を突き合わせて考えること三日、湍茜の中央である山の裾野に広がる森の中を、三手に分かれて進軍していくことになった。それが決まってからも、湲は郭将軍の元にとどまり地図を睨んでいた。

「考えても出ぬ時はいったん退け。意固地になるとろくなことがない」

 日も暮れ灯した蝋燭が半分になる頃に、郭将軍に諭された湲は不満げにうなずく。

「……わかった。ああ、もうなんだろうな。なんかひっかかるんだよなあ」

 湍茜が動かないのは護りに入ったとみればいいのだが、ただどうしても誘い込まれている気がしてしまう。しかし広げた地図の湍茜王都を囲む山々に関しては、そこに山があるということしかわからず手がかりにならない。

「じゃあ、おやすみ」

 湲は大人しく天幕を出たものの、やはり気になって考え込んでしまっていた。篝火にぼんやり浮かぶ地面もろくに見ずに歩いていると、近くに人の気配がないことに気づいて眉宇を曇らせる。

 近くにいくつも天幕は張られているが、皆中央あたりで集まっているらしく騒がしい音が少し離れたところでしている。

 戻ってきた酔っ払いにでもからまれでもしたら面倒だと足を速める。

 途中、大きな影が進行方向の天幕の脇から伸びていているのを見つけ、湲は腰につけている短刀の柄を握る。

 だが、そこから現れたのは鴻羽で張り詰めていたものは一気に緩んだ。

「こんなとこで何してるの?」

 訊いても返事はなかった。近づくとくるりと鴻羽は背を翻して、きっかり三歩距離を持って歩き始める。

 どうせ遅いので様子を見に来たのだろう。

「だからさ、ワタシの護衛はもういいって呂淳からの文にもあっただろう」

 文が来てから鴻羽はいつもより無口になった。こっちは態度を崩さないようにしているというのに、これではやりづらくなってしまう。

 何も考えずに呂淳の言うとおりにしてくれればいいのに。

「……命令は関係ない。俺が気になったから来ただけだ」

 投げ捨てるような言葉だったが、それを全部胸の奥で受け止めてしまった湲は足を止めかけた。

「……ちょっと引っかかることがあったから将軍と一緒に考えてた」

 会話をわざとずらして湲は鴻羽の背中を追う。

「答は出たのか?」

 空けた距離はそのままで鴻羽が先ほどの言葉など忘れたように応じる。

「いや、見つからないんだよな、これが」

 それから会話はいつもの調子に戻った。ただ湲の心中は穏やかではなかった。

 鴻羽の気づかいには胸が締めつけられるのは、なんという感情に起因しているのかもう分かってしまっている。

「あ……」

 どうしたものかと空を振り仰ぐと水滴が額に落ちてきた。雨だ。この時期になるとこのあたりは雨が増えるらしくここ数日はまともに青空を見ていない。

 早く戻るぞと鴻羽に急かされて湲は仕方なく歩調を速めて鴻羽と並んだ。


***

                  

 湍茜の麓を流れる川面にはいくつもの死体が浮かんでいた。夕映えに彩られた川に赤褐色の湍茜兵の甲冑が混ざり血の川に見える。ただ実際はほとんどが溺死のため血は流れていないに等しい。

「これは、はまっていたらまずかったな」

 山を下りる途中木々の隙間からからその光景が見えて鴻羽は顔をしかめる。

 行軍し始めてすぐに湲がここ数日の雨の多さのわりに、川の水が少ないことに気づいたことが幸いした。すぐに残りふたつの別部隊に伝令を飛ばし、上流に行けば案の定川の流れが堰きとめられ、そこに少数の敵部隊がいた。

 それから堰を奪い残りの二部隊で、逆に湍茜の兵を川へと両側から囲い追い込んで合図の笛の音と共に堰を切った。

 そうして穏やかに流れていた小川は瞬く間に大河へと変貌した。

 気づかなければこちらが壊滅していたことは一目瞭然である。

 川に浮かぶのが自分だったのかもしれないという恐怖と、勝利の喜びのないまぜになったざわめきが周りの兵らからも上がっている。

「思ってたより凄いな。ここまで一気に片がつくとは思わなかったよ」

 予想を上回る状態に湲も半ば呆けたように言っている。

「そうだな。もうこれ以上の兵力は向こうにもないだろう」

「けど、残り少なくてもやっぱり中央は難所だよ。まあ、これで五行ぐらいは書けるだろ」

 なんのことかすぐに分からなかったが、母への文ということだと気付いて鴻羽はそれはどうだろうと思う。さすがにこんな凄惨な戦場の様子を書くわけにはいかないので、いつもの内容に怪我なく勝利出来たことを書き添えるぐらいしかない気がする。

「……努力してみる」

 重々しく返答すると戦の緊張の残っている湲の口元が緩んだ。

 あの夜以降、自分たちのぎこちない空気は元に戻った。本当に、何事もなかったようである。

 名目を取り上げられて悩んだ挙句に出した答えを、湲がどう受け止めたかは知らない。

 しかし自分が湲のことを護りたいという意思は伝わっているのか、側にいることを拒絶されることはなくなった。

 まだ戦が続く以上はお互いわだかまりがないほうがいい。

 それでいいのだけれど。

 仲間の称賛に得意げに笑って見せる湲の横顔を眺め、鴻羽は満ち足りていない自分の胸の内に苦悶の表情を浮かべるのだった。 


***


 第三次の戦の後、湍茜の鉱夫や鍛冶職人を中心に残った国民の半数近くが山を下り降伏した。彼らは皆、山の意思に従うと口にしていた。

 国では戦が始まる前より王家への不信があったらしい。

 現王は山を下り交易に利便がいい土地に遷都しようと考えていた。それに加え二次の戦の後、山を信仰し山神の花嫁として選抜された巫女が懐妊し、第一王子と恋仲であることが露見して不信感は募っていた。

 そして国民の半数が王家を見限る決定打となったのが先の戦での水攻めの失敗だ。

 山は湍茜の王家ではなく連合軍に味方したと受け取り、巫女を穢し山を怒らせた王家に殉じるのを拒んだ者は山を下った。

 残った民は周囲の山間に点在する集落から、中央の谷間にある王都に移り籠っているらしい。連合軍は彼らに降服を求めるが応じず攻め落とすことを決意した。

 ここまででふたつき。

 入り組んだ地形ゆえに連合軍も数が多いとはいえそう安易に近づけない。さすがに木々が群れ、凹凸の激しい地面では馬も入れないので騎兵部隊も歩兵として進軍していく。

 空になった五つの集落に中央を取り囲む形で陣を張り動き出して三日。

 小競り合いをしながらじわじわと推し進めていき、ついには湍茜の残った兵や民が武器を持ち向かってきた。

「斎隊将、湍茜国第一王子討ちとりました!」

 怪我人らと共に陣に残っている湲の元に鴻羽が敵将を破ったことを伝令が伝える。

 他の部隊もおそらく決着がつくころだろうと読んで、湲は強張っていた肩の力をほんの少しだけ抜いた。

 ここまでくればあとは王の首が上がるのを待つだけだろう。

 他の兵らも心なしか陣の緊張は緩んでいる。

 だが。

 吼えるような怒号が背後でしたかと思うと敵兵が雪崩こんでくる。周りの兵が一気に浮足立つのに湲は舌打ちして片手で持てる細身の剣を抜く。

「怯むなっ!! 数はこちらが上だ、勝つことだけを考えて戦え!」

 湲の声が響いて兵らが冷静さを取り戻し始めた。

 向こうはもうどれだけこちらを道連れに出来るかしか考えていないだろう。最期を覚悟した兵というのは手強い。

 少しでも弱気になれば気迫で負ける。

 湲は斬りかかってくる兵の剣を受けそのまま足をかける。剣は得意ではないが喧嘩ならそれなりにこなしてきた。

 男にはとうてい力では勝てないので、空いた手や足で補うしかない。とはひとまずの形はつけてくれている鴻羽の言である。

 ひとり斬り倒し、湲はざっと辺りを見回し状況を確認する。

 手勢は予想通りこちらよりは少ないだろう。ただ怪我人が自軍には多い。幸い自力で立ってどうにかは戦えているが、敵兵の勢いに押され気味だ。

 鴻羽達が戻ってくるまでに片をつけられるかどうかは五分五分だろう。

「彭殿!」

 がむしゃらに向かってくる敵の切っ先に集中しているうちに、湲は自分がもう後退できないことに気づいた。

 比較的平らな地面に家が密集し、その周りは大なり小なり段差があって小さな段差の下は大抵畑になっている。そして湲が追い詰められた足元には、緩やかだが深い傾斜があってその先は森だ。

 味方が湲を追い詰めた敵兵を背後から斬り伏せ、湲はそのまま前へ足を踏み出すが敵兵が最後のあがきとぶつかってくる。

 しまったと思う間もなく湲はそのまま突き落とされ下へと転がり落ちて行った。

 

***

                  

 湍茜の王子を討ち取った鴻羽は顎を伝う血を拭う。

 まだ十七、八だろう王子の、絶える瞬間まで弱ることのなかった強い瞳に一瞬動きを止められた。喉に向けられた切先を交わし損ねることはしなかったものの、耳たぶを浅く裂かれた。

 呼吸をひとつはいて地に落ちていた視線を上げれば、いくつもの死体が自分を取り囲んでいた。

 道を阻むものを切り捨てる決意を。

 そして失う覚悟をしろ。

 初陣で誰もが聞かされる言葉である。そして戦を終えてようやくその言葉を噛みしめる。

 鴻羽は剣を収めると視線を上げ死者に背を向ける。

 死体を踏み越え自軍と共に陣に引き返す途中、伝令が大慌てで駆けてきた。その様子で非常事態ということを察し緊張が走る。

「奇襲です!」

 その言葉と共に疲弊した体を鞭打って全員が駆け出した。

 そこそこの人数はいるが、怪我人が多いことが気がかりだ。少しずつ、音が近づいてくる。

 辿りつくと、戦闘はほとんど終わりかけていた。

 残った敵を斬り伏せ、合流して鴻羽はすぐに湲の姿が見えないことに気づいた。倒れ伏す死体の甲冑は赤褐色で自軍の者は見当たらない。

「彭はどうした」

 負傷者は多いもののどうにか全員生き残っているのを確認したのち、唯一姿の見えない湲について問うとひとりが斜面を指差した。

「あそこから落ちたのですが……」

 鴻羽は斜面に近づき下を見下ろす。よほど下手をしない限り死にはしないだろう。

「落ちたのはいつだ?」

 伝令がきた後すぐとの答にますます鴻羽の表情は険しくなっていく。

 それなりに時間が経っているのに上がってくる気配がまるでないのは妙だ。嫌な予感ばかりがじわじわと足元から這い上がってくる。

「どう、しましょう」

「……少し、待とう」

 どのみちここでいったん休息を取らねば兵は動けない。怪我人の手当ても必要でもあるし、そのうちに自力で戻ってくるだろう。

 そう自分に言い聞かせて鴻羽はずっと斜面を見つめ続ける。

 しかしいつまで経っても上がってくるものはおらず、強い日差しが弱り始めたころに郭将軍が王を破った報せが届いても足音すら聞こえなかった。

「すぐに戻る」

「隊将!」

 本来なら自分のやることではないが、鴻羽は兵の制止の声を聞く前に斜面を降りていた。

 待っていられなかった。

 焦る心に冷静さはすでに揺らいでしまっている。湲を失うかもしれないかと思うと、心の臓は鼓動を速めて冷たい汗がにじむ。

 その時の鴻羽の心に覚悟などというものは微塵もなかった。

 

***


 湲は空を見上げ太陽を頼りに道を進む。

 転がり落ちた場所のすぐ近くには残党がふたりいた。気づかれて剣は持ったままだったので応戦するつもりだったものの、正面からぶつかって勝てそうになく、分散させようと動いているうちに森に入り込んでしまった。

 そう長いこといたわけでもないので落ちてきたところは近いだろうが、どこから来たか分からなくなってしまって少し焦った。

 頼るものは動く太陽しかなく不安だが、そう道は外れていないはずだ。

 くたびれた足をせっついて歩きながら、湲は薄暗い森と孤独に気持ちを沈ませていく。

 襲撃を受けて自分を裏手から逃がし、あとで追いかけると言った祖父と母を漆黒の森の中で待っていた。

 言われた通り窪みに身をひそめて三日過ごしたが、誰も迎えには来てくれなかった。

 そして四日目の日に森を出て近くの村に立ち寄った時に、行商人が客と立ち話をしているのに耳を澄ましふたりが殺されたことを知った。

 貯蔵庫を護るようにして果てていて、よほど大事なものを隠し持っていたのだろうと、貯蔵庫の中身を予想する男の言葉を聞きながら声を押し殺して泣いた。

 湲はさらさらと聞こえる水の音に足を止め、ため息をつく。

 来る途中沢など見なかったから道を間違ったのだろう。水を得られる沢まで行ってこれ以上は下手に動かず、救援を待とうと湲は少し歩く。見えた浅い水面に滑落した際捻った片足をつける。

 見下ろした水面に映る自分は心細そうだった。

 ひとりになったあの日、自分はずっとこんな顔をしていたのかもしれない。

 追手がいつ来るかもしれない数日は脅えていたが、十一の子供がひとりで生きていけるはずもないとでも考えたのか追手はかからなかった。それに生き延びたとしても、孤児が王宮に近づけるはずもないのだ。

 たったひとつの後ろ盾を失くした自分はただの子供だった。

 どうあっても生き延びて斎家への報復をせよと祖父は言ったが、今から思っても無茶な話だ。

 兵もない将がひとりで勝つなど無理だということは、名高い彭軍師ならば分かりきっているはずだっただろうに。

 それでもとにかくまずは生きていかねばならないと、商家の奉公人になった。読み書きができる自分はすぐに雇い入れてもらい、一年後、山をひとつ越えた先の都市まちに行く商隊を手伝わされることになった。

 その途中、盗賊に襲われた。

 護衛はついていたがやられてしまい、一緒にいた者たちも殺されここまでかと思ったが殺されはしなかった。

 盗賊たちの話す様子からすると、奴隷として売られるようだった。そして仲間の死体を眺めながら死ぬよりはましだ、どうせなら中央に近い貴族に売られたほうがいいなどとぼんやりと考えていた。

 盗賊らの野営地に連れて行かれる途中、殺された仲間のことを思って涙が滲んだが溢れはしなかった。

 そして野営地につくと男たちはじっくりと自分を見分し始めた。

 男たちの言葉がどんどん下卑たものになっていくのに血の気が引いた。

 その瞬間まで犯されるのはもっと年上の女だけで、自分には関係ないことと思っていたのだ。

 抵抗する間もなく押し倒され、服を剥がれた。

 半端な体を人目にさらすのは屈辱だった。

 それ以上に半陰陽の体を面白がる男たちの言葉や、皮膚に触れる手がたまらなく嫌でこのまま辱めを受けるぐらいなら死んだほうがましだと舌を噛もうとした。

 その瞬間、祖父と母の顔がよぎったのだ。

 ふたりのためにもこのまま何もなさずに死んではならない。

 そう思い、出しかけた舌を引っ込めて歯を食いしばった。

 あれから何度歯を食いしばったことだろう。

 盗賊らに奴隷でなく娼婦として貴族らに体を売らされ、ときに気まぐれにいたぶられながらも屈辱や痛みを全て斎渓雁への憎しみに変えて生きてきた。

「日暮れまでに見つけてもらえるとありがたいんだけどなあ」

 弱っていく陽光に湲は呑気につぶやく。

 ここまでくれば自分の運の強さを信じていた。そうやすやすとは死にはしない。

 でも、夜は嫌なことをたくさん思い出しそうだから、こんなところにひとりでいたくない。

 腰を下ろして膝を抱え少ししたころ、土を踏む音にさて敵か味方かと湲は水面に落としていた視線をあげる。

 そうして、苦笑した。

「隊将殿のやることじゃないな」

 言いながらも誰が迎えに来るかは予想していた。

 鴻羽はいつも自分を探しに来る。初陣のときから、ずっと。

「ざっくりやられてるなあ。そんなに手強かった?」

 無言で近づいてくる鴻羽の耳にある傷は残りそうでもったいないと思った。距離も詰まってきたので立ち止まろうとした湲だが、その前に止められてしまう。

 鴻羽に抱きすくめられたのだ。

 力は強いうえに鎧越しなものだから痛かった。

 だがそれ以上に胸が苦しかった。

 そうだ、真っ暗な森でひとりでいた頃も、こうしてもう一度母に抱きしめてもらえるのを待っていたのだ。

「……お前はどうしていつもひとりで消えるんだ」

 耳元にかかる憔悴した声が胸の奥、ずっと乾いて枯れ果てていた場所に沁み渡っていく。

「今回は好きで消えたんじゃないよ」

 鴻羽の力が緩んでも湲は大きな体押しのけようとはしなかった。

 いや、出来なかった。

 道を阻むものは迷いなく切り捨てろと何度も言われて、そして何度も切り捨ててきた。 自尊心ですら、下層で生きていくのには邪魔で切り捨てて自ら腰帯を解くこともためらわずにここまで生きてきたのに。

 湲はもはや寸分も動けなくなっていた。


***


 一晩を陣で過ごしたのち、湍茜の王都に李宋の兵が残り一部の李宋兵と紫秦の軍は山を下った。

 これから湍茜を支配するのは李宋である。その代わりに軍資金の大半を李宋が持ち、一定量の鉄を破格の値段で譲ることを約束している。そしてこれからも戦あらば両国手を取り合うことになる。

 実際この後いくつも奪い取った領土を李宋と紫秦が分け合い、それぞれ繁栄していきやがては蒼魏そうぎも同盟に加わる。そしてこの三国によって今は百近くの国がひしめく大陸東部はまとめ上げられていくわけだが、ずいぶん先の話である。

 紫秦軍は山を下ったのち駐屯地に戻り居残りの兵らと合流した。

 そしてその晩は宴となった。兵らは死者に弔いの杯を掲げ、勝利を呑み干す。

「ほら、呑まぬか。酒が怖くてどうする」

 赤ら顔の郭将軍に杯を進められて鴻羽はたじろいだ。しかし断るような真似もできずに覚悟を決めて一気にあおる。

 舌と喉を焼く感覚に顔をしかめたが、むせるという醜態だけはさらさずにすんだ。

 横ではらはらと見ていた部下が、すかさず水の入った杯を渡してくれたので鴻羽はありがたくそれをいただく。

 酔っている郭将軍は杯の中身が酒だと思ったらしく、いけるじゃないかと上機嫌で笑っていた。

「悪い」

 これ以上は無理だと馴染んだ部下が判断して郭将軍の酌をし、その隙に逃げさせてもらった鴻羽は自分の天幕に戻ることにした。

 何気なく湲の居場所を確認すると、彭門下生の集団で呑み比べをしていた。すでにその周りでは数人潰れている。湲は朝まで呑んでもけろりとしているので、問題ないだろう。

 今日はほとんど湲と言葉を交わしていない。

 無事でいた湲を思わず抱きしめてしまってからは、湲のほうも口数が少なくなりほんのわずかな正常な関係はまたぎこちないものに変わった。

 もう自分の気持ちには気づかれていることには違いない。

 天幕に戻った鴻羽は布地から透ける篝火の光を頼りに寝所に向かう。

 軽い酔いに思考が回らず、深く考えるのはよして寝ようかと敷布に腰を下ろしたところで湲が戻ってきた。

「大丈夫?」

 衝立の向こうから顔をのぞかせる湲は手には水を持っていて、鴻羽にそれを差し出した。

 どうやら呑まされているのに気づいていたらしい。

 気づかってくれるのはありがたいが、今はあまりふたりきりにはなりたくなかった。

「少し酔ったぐらいだ」

「本当に弱いよな。あんなの舐めたぐらいだったのに」

 すぐ側に腰を下ろした湲の口元にかすかに笑みが浮かぶ。

 二十をすぎても湲の笑顔はいつまでも少年のように無邪気に見えて、仄かに甘い香りが漂う。

 これだから困るのだ。

 視線が絡んで、沈黙がおりる。

 居心地悪そうにしながらも動かない湲の姿は、乏しい明りのせいで輪郭が朧げだった。 すでに髪が溶け込んでいる闇にその姿が呑まれていきそうで、鴻羽は思わずその頬に手を伸べた。

 指先に絹糸よりも繊細な黒髪の感触がしてそれを梳いて下へと手を滑らす。やがて瀟洒な線を描く顎がかすめて手を止めた。

 顎を持ち上げてその顔を真正面に見る。

 どうしても失いたくないと思った。森の中で見つけた瞬間、生きていてくれるだけで十分だと思ったのに。

 眼前にある存在の全てが欲しくてたまらない。

「鴻羽……」

 戸惑い自分の名を呼ぶ朱唇を己の唇で塞ぐ。

 交わった呼吸の甘さは僅かな理性をかき消すには十分だった。細い腰に腕を回し引き寄せ唇の奥まで求める。

 湲の手が肩に触れて拒まれるかと思ったが、そのまま細腕が首に絡められた。

 お互い待っていたのかもしれない。

 枷が外れるこの瞬間を。

 幾度も唇を重ね舌を縺れあわすうちにふたりの体が褥に沈んだ。

 舌先を触れ合わせたまま、薄く瞳を開いて見つめ合う。

 求めるものは同じだった。

 宴の喧騒は遥か遠く、耳奥を満たすのは互いの熱を孕んだ吐息と蜜のかかった睦言。

 すべてを飲み込む熱に溺れ、ふたりは引き返せない夜を越えた。


***


 渓雁の叱責は声こそ荒げないが言葉は容赦なく心を引き裂いてきて、呂淳は身をすくめる。

 自分が内政に口出しして他の官吏が褒めると、途端に伯父は機嫌が悪くなる。今日は西部の治水工事についての意見が食い違い少し揉めた。

 普段なら渓雁の眉根が寄り、眼光が鈍い光を湛える頃には怖気づく呂淳は、今日はほんの少し強気だった。湲の帰国が近づいてきているからである。

 一応は渓雁の意見にまとまったが、終わった後はいつものように執務が行われている宮の奥まった小部屋での説教が始まった。

「足らない頭で下らぬことを言って政務の邪魔をするな」

 それを皮切りにいかに呂淳が愚鈍で、浅慮な王であるかをくどくどと渓雁は説いた。

 呂淳は自分の非力さを思い知らされ、ときに鴻羽や死んだ兄のことも引き合いに出されては比べられる。

 そして父王のことに触れられた時に唇をかんだ。

「あの方は自分の向き不向きというものを重々知っておられて、出来ぬことは素直に周りにさせていた。少し褒めそやかされた程度で出来ると思いこむな。お前は血統を守るだけでいい」

 血統、とはなんとも白々しいものだ。

「王家の血筋など、とうに絶えているでしょう」

 震える声で呂淳は言った。

 この十数年、一度たりともこのこと口にしてこなかった。

 けれどもうどうでもいい気がした。

 湲はこの戦で軍での地位を確立する。そして伯父の足元を崩す計略は大きく動き出すだろう。そうすれば自分は王である必要はなくなる。

 湲は自分をそのまま玉座につけるつもりだろうがもうたくさんだった。

 どこか遠くで身分もなく生きていきたい。

 尚書らの顔色をうかがいながら言葉を紡ぎ、失敗すれば後宮で女官たちの嘲るような嘆息を聞く日々は苦しいばかりだ。

 何より湲が期待する人間になれないのが辛い。

 湲はろくに何も出来ていない自分に大丈夫、十分やってくれていると言って責め立てずにいてくれる。

 けれどそれでは駄目なことは自分でもよくわかっているから自分自身に失望する。

「……やはり、あの彭家の者にでも入れ知恵されたか」

 伯父に動じた様子はなかった。これまでの自分と湲との関係を見ていれば、たやすく想像がつくことだろう。

「いいえ、母上です」

 今度は明瞭に呂淳が答えると渓雁の表情が険しくなった。

「お前はただ現状から逃げたいだけだ。下らぬ妄言などやめて大人しく私の言うことに従っていればいい」

 あくまで認めず渓雁がぬけぬけとそう言ってのけるのに呂淳の頭に血がのぼった。

「この現状をつくったのはあなたではないですか! 兄上を殺してまで私を王位につけたのはあなただ。なぜ母上まで殺したのですか、なぜ彭軍師や本当の母上を殺してしまったのですか!!」

 ずっとためていた思いをぶちまけると、頬に激しい痛みが走った。衝撃で切れたらしく鉄錆た味が口内に広がる。

 どやされることは多くあっても、はたかれたのは初めてだった。

「ついに気が触れたか! 次にそんな世迷言を口走ったなら永久に後宮の奥から出られぬもと思えっ!」

 啖呵を切った渓雁の憎々しげな瞳から呂淳は視線を外さなかった。

 無言の睨みあいから数秒の後、部屋の扉が開かれた。

 どちらかが退いたわけではない。

「お父様、もうそのあたりでおよしになったほうがよろしいですわよ」

 何食わぬ顔をして柚凛が入ってきた。

 これには両者とも唖然とした。

「どこから聞いていた」

 父親に睨みつけられても柚凛は穏やかに微笑んだままだった。

「血統を守る、というところかしら。陛下がまた説教部屋に連れて行かれたと聞いたから助けて差し上げようと思ったのですけど、面白そうな話をしていたのでつい聞きいってしまいまって、入るのが遅くなってしまいましたの。まさかお父様が陛下に手を上げる真似をするなんて思いもしませんでしたわ」

 そして柚凛は呂淳の頬の赤みに申し訳ありませんと苦渋の顔を見せる。

「ただの妄言だ。忘れろ」

「妄言、というには湲様は叔母様に似すぎていますわ。大丈夫、わたくし誰にも言いませんから。その代わり陛下の手当てをさせていただけますか?」

 やんわりと問いかけながらも柚凛の口調には有無を言わせぬものがあった。

 好きにしろ、と渓雁が言って呂淳は戸惑った。

 はたして、この人についていってしまっていいものかどうか。しかし今は自分に選択肢はなかった。


***

 

 父と呂淳の話に聞き耳を立て、その内容に混乱した。そして必死に頭の中で整理をつけているうちに嫌な、音がした。

 その瞬間頭の中で子供の泣き声が響いて足がすくんだ。深呼吸ひとつすると頭の中の音はおさまり、目の前の扉を開いて見えた呂淳の姿がどうしようもなく憐れなものに思えた。

 自分が手を上げてしまった子供のように庇ってくれる者は今、誰もいないのだ。

 隙だらけでつけいるにはちょうどいい。

「お父様も本当にひどいことをなさいますわ」

 後宮の奥、呂淳の私室で手当てを終えた柚凛は顔をしかめる。

「姉上……」

 呂淳は脅えた瞳で自分を見ていた。秘密を知られてしまったことがとても恐ろしいらしい。

「わたくし、鴻羽にも言いませんわよ。出来ることならあなたに手を貸したいと思っていますの。お話してくださる?」

 呂淳は最初は戸惑っていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。柚凛はすました顔で聞きながら、やっと見えた真実に内心はひどく驚いていた。

 父の行き過ぎた行為はもちろん、ここまで這い上がってきた湲の強運も驚嘆するしかない。ここまでくれば天の采配とすらよべるだろう。

「湲様は苦労なさったのね。あの方を玉座に戻す気なの?」

 それは無謀と思われた。世継ぎで確実に揉めるだろうし、丞相の犯した罪に王宮は大騒ぎになる。

「彭軍師……、私の祖父は湲が先々代の王陛下の影響の強い軍内において玉座にふさわしいものを見つけ、譲位することを望んでいたそうです」

「そうですの。でも、今軍でその資質があるのは鴻羽でしょう」

 気に食わないことだが、鴻羽が才覚もあれば産まれつき人を惹きつけるようなものを持っているのは認めざるを得ない。

 鴻羽が王位を引き継ぐとなれば尚書らは歓待するであろうし、軍にも角が立たず丸く収まるだろう。

 しかしそうなってしまうと斎家が栄華を極めてしまう。

「湲は、私をそのままに玉座においておくつもりのようです……」

 呂淳がうつむいて膝の上に置いてある拳を握りしめる。王位を得られるというのに何とも不服そうだった。

 確かにこの性格ではただの重荷ではあろうが。

「せっかくだから頂いてしまえばよろしいのよ。玉座なんて欲しくて手に入るものでもありませんし。あとはお父様の周りが厄介だけれど、湲様ならどうにかできるでしょう」

 呂淳の表情は暗いままで、柚凛は苛立たしげに組んだ腕を指でたたく。

「あなたはなにが欲しいのですか?」

 長い、長い沈黙が横たわる。

 開け放たれたままの窓から近づいてくる冬を匂わせる冷えた風が吹き込んできて、時が凍りついていく。

「……湲を失望させない人間になりたいのです」

 そこにそっと呂淳が言葉を吐き出した。緩やかに時を溶かしていく熱を感じ、柚凛は目を細める。

 これは忠心から出た言葉ではないだろう。なんともいじらしいものである。

「あなた次第でどうにでもなりますわ。そうだわ。湲様にはわたくしに秘密が漏れたことを黙っていたほうがいいかもしれませんわね。ほら、あの方は少し鴻羽に甘いでしょう」

 鴻羽に対することは口から出まかせだったが、呂淳の表情を見れば外れていないらしい。

「……姉上は、斎家がどうなってもよろしいのですか?」

 どうでもいいわと柚凛は笑ってみせる。

「だってお父様のことも鴻羽のことが大嫌いなんですもの」

 そう言った瞬間、今までうつむいていた呂淳が顔を上げて確実に自分のほうへと引き込めたと柚凛は確信する。

 予期せぬ真実を手に入れたが、これはむしろ追い風だ。

 新たに手に入れた駒をどう動かすか考えると、とても楽しかった


 ***

 

 なんとなしに見上げた空はどこまでも高く、薄氷に似た冷たさを感じる淡い青色が広がっていた。

「向こうはそろそろ雪降ってるかなあ」

 湲はつぶやいて隣の鴻羽に問うた。

 紫秦軍は湖の最北端辺りで足を休めていた。李宋と紫秦の国境はもう間近で、まだ息が白むほどではないが、肌を撫ぜる風は凍てついていて兵らは郷愁を煽られていた。

「山は降っているかもしれないな。帰りつくまでは積もらないでほしいものだな」

 そうだね、と返事をしながら、いったい自分はなにをしているんだろうと湲は自問する。

 あの夜、鴻羽を拒もうと思えば出来たはずだった。でも、そのつもりはなかった。ひとりになった鴻羽を追いかけたときには、きっと何が起こってもいいと思っていた。多少は酒のせいもあるが。 

「……帰るんだな」

 ぽつりと複雑な色を宿して落とされる鴻羽の言葉に湲は瞳を半ば伏せる。

 鴻羽が気にしているのは呂淳のことだろう。いろいろと勘違いしているようだが、当たらずも遠からずといったところだ。

「全部なかったことにしたっていいよ」

 どうせこのまま続けられる恋ではない。終わらせるなら早いほうがいいだろう。

「できない」

 視線を遠くへ投げたまま、鴻羽が湲の手を取る。

 その大きな手が暖かくてどうしようもなく切なくなって、握り返して湲は鴻羽の肩にもたれかかり寄り添った。

 もう少しだけ。

 あと、もう少しだけ。

 人しれぬ場所で密やかに寄り添いあうふたりの影を映す瑠璃色の水面は、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。

 

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