四 白峨五年初春



 白峨はくが五年、雪解けの頃鴻羽こうう呂淳りょじゅんと共に李宋にいた。

 李宋との戦には負けた形となった。しかしながら領土は砂一粒とて奪われてはいない。

 昨年の秋の軍議でえんが領土を差し出して停戦を乞うのでなく、軍事協定を結ぶことを申し出ることを提案した。

 狙うは湍茜たんせん

 李宋の南に位置する湍茜は鉄の国とも呼ばれる。国土は狭いがその大半が鉄鉱山であり、鉄も豊富であると同時に山々がどんな城壁よりも堅牢に国の中枢を守護している。

 この乱世に乗じてすでに小国ふたつを呑みこんだ湍茜が背後に迫る李宋は、食糧確保と慣れぬ戦を覚えるために侵攻してきたというおおよその予想は当たった。すぐに親書の返事はきた。

 そうして、李宋で同盟締結の儀が行われることになった。

 不本意ではあるが、負けた以上はこちらが出向かねばならず向こうの要請通り呂淳自ら赴くことになった。

「少し横になるか?」

 儀も終え宴まで休息をとるために来賓用の部屋に戻った呂淳の足元はふらついていた。

 異国で呂淳が心細くないようにと、近衛隊とともについてこらされた鴻羽は一瞬ひやりとしたものの、彼が倒れてしまうことはなかった。

 王宮から数えるほどしか出たこともない身での初めての長旅もあるのだろうが、見知らぬ人間に囲まれていた疲れが出たのだろう。

「……派手だったな」

 小さく頭を振って長椅子に座る呂淳の足元には、金糸銀糸で飾られた深紅が色鮮やかな絨毯が敷かれている。

 李宋の女王の衣装はこの絨毯に負けぬほどの華美さであった。王宮全体も柱一つにまで細工が施され華やかな国であるが、自然な色と飾り気のなさを美徳とする自分たちには落ち着かない。

 この部屋にある卓と飾り棚は紫秦から買いつけたか、何代か前に贈られたかしただろう黒樫を使ったもので、これだけは目にすると気持ちが安らぐ。

「そうだな。少し目が痛いぐらいだったが、おおらかな方ではあった」

 ぽっちゃりとした顔立ちで柔らかい微笑をたたえ悠然としていた四十近い李宋の女王はいたく呂淳の親書を気に入ったらしい。父いわくほとんど自分で書いていたというから、少し驚いた。

 この頃は湲に関わること以外にも自ら政務をこなそうと、多少は前向きになっているらしい。父はおもしろくなさそうだが、漏れ聞こえる官吏たちの声も悪くないのでこのまま少しずつ自信を持ってくれればいい。

「あの方を見ていると女でも玉座に就くことが不思議に思わないな。官吏にも何人か女がいたが、皆知恵者なのだろうな。わが国でも知恵者は女だろうが男だろうが取ればいいと思うんだ。姉上のように賢くて口の立つ女は探せばいるだろう」

「呂淳なら変えられるだろう。通すのは難しいが提案してみるだけ提案してみればいい。しかし姉上が何人も城にいるのは少し気疲れそうだな」

 鴻羽が苦笑してみせれば、呂淳もつられるように笑顔でそうだなと答えた。

 十日あまりの道程の中で呂淳との会話は相変わらず少ないままながらも、やっと笑顔を見られて鴻羽は安堵する。

 しかしあらかたのことがすんだとはいえまだ帰りもある。湲のこともあるのでまだ気は休まらない。

 この頃はかく将軍をはじめとしてほう軍師の門弟たちも、かつての師と重ねて敬意を見せているが、彼らが常に近くにいるわけでない。父の息のかかったものが軍内にもいるかもしれない。

 それにあの華奢な体で本気になった男に押さえこまれたら逃げられない。

 気がつけば湲に関することばかりが頭を占めていてもたってもいられなくなる。

 早く帰りたい。

 もう何度目かも分からない願望を鴻羽は胸の内で呟くのだった。 


***

 

 呂淳らが出立してからは季節も相まって軍議はのんびりしたものだった。

 鴻羽の代理で出席したのち湲はそのまま郭将軍と話し込んでいた。

「山っていうのはやっぱり手強いよなあ。向こうも少数での戦闘は慣れてるだろうし」

 話題は当然のごとく湍茜攻略についてだった。

「やはり先生の血筋だな。あの方も戦の前にはそんな風だった」

 あれやこれやと幼子のように言葉を連ねる湲に郭将軍が目を細める。

「爺様もあれで結構勝負好きだったんだよね」

 自分の知る彭軍師とは真面目で堅物であり、いかなる時も冷静な人だった。だが、郭将軍の昔語りをきけばそれなりに戦に熱を上げる人だったらしい。

「ああ。先生も先々代の王陛下も戦となると生き生きしておられた。先生の智と王陛下の武があればこの国に敵なしとすら思えたものだ」

 そこで沈んだ顔でだが、と郭将軍が言葉を切る。その視線はつい先ほどまで月一軍議会に参加する王の代理である斎渓雁さいけいがんのいた場所へ向いている。

「あの男を殿下のそばに置いたことが唯一の失策だったかもしれぬな」

 先代、すなわち湲の実父である王のことを彭軍師は多く語らなかった。

 まさしく、生涯最大の失策と思っていたのだろう。

 百数十年前、親族間の継承問題で国が傾きかけて以降王家は近親婚によって血を濃くし、他所へ血が漏れ出さばいための対策を徹底し始めた。

 しかし今より四代前の頃には王家は濃すぎる血ゆえに夭折、死産が増え王家は断絶寸前となっていた。それ以来王家は六親等内での婚姻を禁じ血を薄めんとしている。

 だが、まだ血は濃く先々代の王の子はふたりが片手で足る年齢で夭折し、ようやく少々病弱ながらも上の二人よりははるかに健康だった先王は甘やかされ育った。

 神童とすら呼ばれた渓雁は彭軍師に才を買われ、年の近い近侍として取り立てられて先王のわがままぶりを増長させつつも手懐けていた。

 そして先王は口うるさく自分を窘める彭軍師を毛嫌いし、渓雁が昇りつめる一方で彭軍師は閑職へと追いやられた。

「良くも悪くも人を扱うのがうまいよな」

 呂淳はあの通りだが、渓雁が育て上げたと言っても過言でない尚書らは皆有能だ。そして畏敬の念を渓雁に覚えており、王というより丞相に忠を誓っているのではないかと思えるほどである。

 これが思った以上に強固で人脈は地方まで広がっていて厄介なのだ。

 名目上は甥である呂淳に従わせるのは難しくないとはいえ、下手に渓雁を罷免すればそれは敵意に変わりかねない。

 かといって誰かひとりを丞相職に据えたなら内部でいがみ合うだろうしで、ここが一番の悩みどころである。自分が丞相になれればいいが、渓雁と確執がある彭家の者が受け入れられるはずがない。

「お前も、欲を持ちすぎぬよう気をつけることだな」

 予想外の忠告に湲は目を瞬かせる。

 謹慎明けの昇進に関して呂淳が便宜を図ったことに、郭将軍が渋い顔をしたのは知っている。まさか今頃になって言われるとは思わなかった。

「わかってるよ。過ぎた欲はいずれ我が身を焼く、だろ」

 彭軍師の言葉を持ち出せば郭将軍は二度うなずいた。

「分かっておるのならいい。さて、続きはあとで軍盤でも挟んででよいだろ。任を受けた以上は留守をきちんとせねばならんぞ」

 背を軽く叩かれ、補佐官として鴻羽がいない間の隊を任されている湲は生返事をして部屋から出た。

 さすがにこの時期に軍舎で刃傷沙汰を起こす馬鹿はいないと思うが、ひとりになるとどうしても警戒心を強めてしまう。

 別に鴻羽に口を酸っぱくして言われたせいではなく、もとから心がけていることではある。

 だが鴻羽がいないといつも以上に気を張りつめてしまって疲れる。やたら自分とふたりきりになろうとしてくる男もまだいるので鬱陶しい。目ざとい鴻羽がいたならいつも陰であれこれ言われるのもかまわず追い払ってくれるのに。

 呂淳を任せるのには適任だから仕方ないことだけれど。

 早く帰ってこないだろうか。

 執務室に戻って最初に目にした空席に湲はため息をついた。 


***


 市の人の多さに鴻羽は後悔した。

 高台にある王宮の真下に位置する湖港へと続く大通りは、隙間なく人がひしめいている。最初に王宮へ行くとき通れないので、迂回するよう王都の門前で出迎えた李宋の兵に言われたがまさかここまでとは思わなかった。

「引き返すか?」

 一度李宋の市を見て欲しいという女王の言葉に呂淳が興味を示したので、目立たないために鴻羽ひとりが護衛としてついて来た。

 このぶんだとはぐれずにいるだけでも骨が折れそうだ。

「いや、行く」

 人混みに怖気づくかと思った呂淳は自分の意思で歩き始め、鴻羽は慌てて彼を追う。

 呂淳から目を離さぬように気をつけて、半ば人に押されて歩きながら辺りを見る。

 縦長の国土を持つ李宋の王都は海に面した南部に王都を構え、陸路と海路を通じて様々な品が集まる。武でなく交易で栄えた国のすべてをこの市は象徴している。

 呂淳が珍しい深紅の毛色を持つ鳥の前で止まる。観賞用の鳥を売っているらしく、翡翠色やら虹色の尾をもったものやら派手派手しい色で溢れている。

「欲しいなら持って帰るか?」

「いや、見るだけでいい。この鳥たちは北では生きられないだろう」

 言いながら呂淳は店の背後の壁に目を向ける。壁、といっても民家である。このあたりの家はどれも石造りで二階建てにみえて少し違う。

 こちら側からは見えないが一階部分は、どの家も湖から海に向けて山型の穴が空いている。湖は少し高いところにあるので、李宋の土地は雨が降ると浸水しやすいために家はだいたいこういう造りらしい。

「水はここまで上がるんだな」

 呂淳が住居部分のすぐ真下のあたりに波打つ線を見ながらつぶやく。そこから上と下では壁の色がまったく違う。

「そこまで水が上がるのは十年に一辺ぐらいですよ。普段は半分ぐらいですかね。坊ちゃんこっちは初めてですかい?」

 店の主人に気さくに声をかけられ、呂淳がほんの少し驚いた顔をしてうなずいた。

「ああ。主人、書物を取り扱う店はあるだろうか? 珍しいものがいいのだが」

「ここにないものなんてありやしませんよ。五つ向こうです。二十向こうにもうあるが、初めてなら手前ぐらいにしといたほうがいいですよ」

「ありがとう、助かった。鴻羽、主人に礼を」

 見知らぬ人間と臆することなく会話する呂淳に目を見張っていた鴻羽は、彼に求められて金を出す。

「おや、こんだけのことで貰うのは悪いですよ。そうだ、これどうぞ。抜け落ちたもんですがこれなら持って帰れるでしょう」

 店の主人が足元の籠から紅の羽をひとつ差し出して呂淳は笑顔でありがとう、と返す。

 何もかもが鴻羽にとって新鮮な光景だった。

「誰も私のことを知らないとはいいものだな」

 貰った羽を懐にしまう呂淳の言葉に鴻羽はあることに気づいて表情を沈ませた。

 彼は人でなく、自分を王として見る人が苦手なのだ。そこにある先入観と責任とが重すぎるのだ。

 そうして、自分が受け入れられなかった理由もそれに違いない。

「軍記物はあるか?」

 書物を扱う店に辿りついて呂淳が真っ先にそう問うて、主人がいくつか取り出し熱心にあらすじを語りあれこれと勧め始める。

 主人の語りを聞きながら鴻羽がなんとなしに、湲が好きそうだと思ったものを呂淳が選んだ。

「湲にか?」

 問うと当然のようにうなずく呂淳が、湲に肩入れする理由もようやくわかった気がする。

 あの主君を主君と思わぬ態度であれこれ気づかいをしてくれるのが楽なのだろう。加えて母親に似ているとなれば尚更だ。

「鴻羽は、何か欲しいものはないのか?」  

 鴻羽の意識は一瞬呂淳の手にある書物に向いた。

 湲が女であれば世継ぎの問題からなにからなにまで丸く収まるはずだと思う一方で、その書物は自分が贈りたかったと妬む気持ちがあった。

 自分で自分の心のありように訳がわからなくなる。

 反感を覚えていたころですら目を奪われてしまったほどに湲は美しい。自分に限らず誰しもが感じることだ。

 ただ時を経て予想外の生真面目さに反感が消える頃には、他の兵と比べて頼りない外観が心配で目が離せなくなり、気がつけばずいぶん柔らかくなった表情に愛おしさを覚えてしまっていた。

 あの不貞腐れたときに尖らす桜色の唇すら可愛らしいなどと思ったときは、自分の頭の正常さを疑いたくなった。

 しかしいくら考えた所で答はひとつで、要は湲のすべてに惹かれているのだ。

「いや、俺はいい。明日には戻るのだからこのぐらいにして体を休めておいたほうがいい」

 しかし何においても優先すべきは呂淳であって、自分の感情など押し殺してしまわねばならない。

 わかっているはずなのに抑えられない。かき消そうともがけばもがくほど深みにはまっていくばかりで、鴻羽は初めての感情に途方に暮れるのだった。

 

***

 

「お嬢さん、こんな時間にひとり歩きなんて危ないよ」

 夕刻、軍舎のすぐ外に柚凛(ゆうりん)を見つけた湲はそう声をかけた。

 葉の生い茂る木に囲まれている辺りは、すでに宵の闇が一足先にやってきているので、近くに丞相らが庶務を行う宮があるとはいえ女のひとり歩きは危なっかしい。そもそも日暮れ時に、こんなところを貴族の令嬢がほっつき歩いているのもおかしいわけだが。

「こんばんは。残念ながらお嬢さんなんて呼ばれる年ではないから大丈夫ですわよ」

「あんまりワタシと年変わらなく見えるけどね」

 花霞のように微笑む二十七の柚凛は、世辞でなく本当に二十歳そこそこに見える。初めて会った時には離縁などの苦労のせいかやつれて年相応といったところだったが、この頃はすっかり若々しくなっている。

「そう? 嬉しいわ。でも本当を言うとこんな時間にこんな場所で斎家の娘に声をかける変わった殿方を探していましたの。けれど駄目ね。みんな挨拶ぐらいしかしてきませんわ」

 さすがにこの発言には湲も面食らった。

 貞淑な顔に似合わず変わった女である。いや、これまでの言動はとてもおとなしいものではなかったが、ここまで奇抜な行動に出る人とは思わなかった。

「あなたほど変わった人はそうそういないと思うよ。街でうちの奴らと呑むんだけどさ、特に用がないなら一緒に来る?」

 たしか弟と違っていける口だったと思いだしながら誘いをかけると、すぐに柚凛は行くと声を弾ませた。

「湲様はよく軍の方達とお酒をお呑みになられますの?」

「たまにだな。今はほら、大戦おおいくさの前だろう。李宋との同盟も気に食わない奴らも多いからある程度吐き出させておいたほうがいいんだ。鴻羽もいないしね」

 多少はそういうことも必要だと鴻羽もわかっているらしいが、あの通りの羽目の外し方など分からない不器用者なので周りも容易に気を緩められない。

 それからふたりは軍のことを主に話しながら歓楽街へと向かった。

 話ながら、といっても柚凛の問いかけに湲が答える形だった。しかし軍がらみの話など興味を持つ女というのは珍しく、質問も面白いものだったので道のりはあっという間だった。

「まるで昼間のようですわね」

 店の軒先に吊られたいくつもの灯篭の光が重なり、浮ついた明るさに包まれた歓楽街の様子に柚凛が感心した声を上げる。

 通りには長卓が道に沿って並べられ、集まる人々の声は昼間以上に賑やかだ。

 貴族の邸宅が集まるのは城の北側でここは南側と真逆なので日が暮れてから家を出ることのない令嬢には珍しい光景なのだろう。

「どうしたの。女連れじゃない。さすがにあんたに見劣りしない……あら、あんた姉さんがいたの?」

 目当ての店に向かう途中、顔見知りの娼婦に声をかけられ湲は苦笑して見せる。

 とりあえず自分の体のことは王宮内でとどめられているので、この娼婦もからかい半分でよく誘ってくる。

「ワタシのじゃなくて、うちの隊長殿のだよ。ほら、前に一回連れてきただろ」

「ああ、あの。じゃあこちらは斎家のお嬢様なんだ。へえ、けど似てるねえ」

 まじまじと娼婦に見られた柚凛が似てるかしらと小首をかしげる。

「似てる似てる。こんな美人連れ立って歩かれちゃこっちは商売あがったりだね。でもお嬢様と並んだらさすがにちょっとは男に見えるか。っと、いけない常連だ。じゃ、一回でいいから買ってよね」

 勢い任せに喋るだけ喋って娼婦は呼びかける声に駆けていく。

「なんだか楽しそうでいいですわね」

 娼婦の背を見送りながら柚凛が目を細めた。なぜと湲が問い返せば自由そうだからと答が帰ってくる。

「まあ、窮屈そうには見えないけどさ、どこで生きてたってそれぞれ窮屈なもんだよ。食べるものと寝床に困らないだけ幸せなことだと思うけどね」

「そうかもしれませんわね。でも他人の不幸をいくら聞かされても自分の幸せは満たされませんわ」

 そうでしょう、と同意を求められた湲はうなずきながら父親似なんだろうな、と思った。

 下を見て妥協など一切しない。ただ自分が欲しいものだけを貪欲に求めていく。鴻羽よりよほど斎家の後継にはふさわしい人だ。

「どうすれば、あなたは満たされるの?」

 柚凛が首をかしげながらふっと遠い目をする。

「さあ。わからないんです。男に生まれていたら、今よりはきっと満たされる気がしますけど。湲様は男と女、どちらに産まれたかったのですか?」

 どっちか、というのは幼いころ、考えてみた。だがよくよく考えてみればそういう問題ではなくて後継の男児であるべきなのである。

 しかしいつまで経っても膨らむことのない胸に安堵しながらも、がっかりしたのも事実だった。

「難しいね」

 珍しく歯切れの悪い湲に柚凛が目を丸くする。

「湲様が答えられないこともありますのねえ。わたくしは湲様が女だったらよかったと思いますの」

 そう言ってさっきまでの憂い顔をひっこめ柚凛は、少女のような好奇心に満ちた笑顔を見せた。

「だって本当に姉妹になれたかもしれませんのよ。ほら、鴻羽はこの頃よくあなたを見ているでしょう」

 いくつになってもこの手の話というのは女にとって楽しいものであるらしい。

「あれは、ワタシが軍にいるのが気に食わない奴がいるからね。ちょっと神経質になってるだけだよ」

 確かに鴻羽の視線はよく感じる。気づいてその表情を盗み見してみると、大抵しかめっ面だ。謹慎が明けて昇格が決まった辺り、つまりは渓雁から暗殺命令が下されたあたりとなれば何を考えているかは予想がつく。

「そうですの。残念だわ。でもね、鴻羽の初恋の人って叔母様ですのよ。きっとあなたが女だったら一目惚れしてますわ」

 諦め悪く力説する柚凛の様子にだったら面白いなあと茶化しながら、湲は自分の記憶が曖昧であることに気づいて戸惑う。

 視線に気づいたのは昇格より前ではなかっただろうか。そう、謹慎が明けてすぐぐらい。

 いや、そんなことはない。後だ。きっとそう。

 そうでなければ困る。

 そうでないと、目の前に敷いたはずの道が歪んでしまいそうだった。


***


 李宋の王都では花が散り始め、紫秦では盛りを迎えるころの夕刻、鴻羽らは問題なく帰還した。

「……いたのか」

 帰りついてまず執務室に向かった鴻羽と湲は久々に顔を合わせた。

 お互いにもしかしたらいるかもしれない、来るかもしれないと期待半分でいたのだが実際に顔を見ると妙に気まずくなった。

「先に家に帰らなかったの?」

「軍のほうが気になったから、な。問題はなかったか?」

「なかった。ちょっと西側の国境で揉めたけど出向くほどでもなかったし、それだけ。そっちも無事終わったみたいでよかったよ」

 淡々と述べてお互い交す言葉もなくなり、湲が先に呂淳の所に行ってくると部屋を出る。

 どこか違和感を覚える様子にふたりは自分の態度は不自然だっただろうかと思う。

 そうして胸の内にわだかまりを残しながら、時代の流れに急かされていくように前へと、ただ前へと進んでいく。

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