三 白峨四年初春―同年晩夏
二日前に謹慎を解かれた
後宮の出入りは禁じられておらず、今まで通り好き勝手出入りさせてもらっている。
謹慎中も呂淳が自ら様子を見に来ることも多かったので、さしたる感慨もなく湲はいつもどおりに椅子に座った。
「軍は居心地悪くないか?」
呂淳がそう問うのに薄く笑って見せる。
「物珍しがられるけど、そうでもないよ」
補佐官という立場上やたら世話焼きで堅物な上官の近くにいるので、直接声をかけられることはほとんどなく好奇の視線がうるさいぐらいだ。
実のところ祖父と母を殺したのはあの盗賊連中ではない。
だが半ば見世物のとして自分を売りつけ、全部自分の懐にしまいこんだあげくに手近な劣情の捌け口にして、機嫌が悪い時は殴ったり蹴ったりしてくれた男どもに抱く罪悪感などこれっぽっちもない。
「そうそう。次の第一騎兵隊の隊長、
尋ねると、呂淳は首を横に振った。
足を痛めていた隊将が引退し、後任に騎兵隊長が就くことになって空いた隊長の席を埋める候補が何人か挙がっている。
そんなことを話しているうちにまだ年若い女官がやってきて茶を置く。その際ちらりと湲を見て、何事もなかったように静かに出て行った。
軍の中よりは品のある反応だと面白がりながら、湲はそろそろと茶に口をつける。しかし熱さにすぐに口を離した。
「出来るだけ冷まして持ってくるよう言っているのだが……」
湲の様子に呂淳が困り顔で湯気の上がる茶瓶を見る。
彼の顔があまりにも真剣味を帯びていて、添えられている砂糖漬けの生姜に手を伸ばしていた湲はくすりと笑った。
「いいよ放っておいたら冷めるから。あの子見ない顔だったし新しい子だろ。これでも冷ましてる範疇だろうしな。茶は熱いうちに飲むものだとか言ってたのは鴻羽か」
冷まして飲んでいると、湯気の立たなくなった茶に不服そうな顔をしていた鴻羽は妙におかしかった。
「……湲はやはり鴻羽の補佐官がいいか?」
問われて少し湲は考える。
鴻羽以外の、と言われても特に理由あるわけでもないが気分が乗らなかった。
さすがに付き合いも長くなったせいだろう。最初は
それにいたってわかりやすく真面目なあの男の隣にいるのは、肩肘を張る必要がないので楽だ。
「……動きやすいし使い勝手もいいからな。けど、謹慎明けでいきなり昇進は通るかな?」
「少し強く言えば通る、と思う」
言葉だけは強気な禁軍の統括官でもある呂淳の声音は弱腰だ。しか最初に会った頃よりは成長したといえるだろう。
三年近くかかってこの程度と言ってしまえばそれまでだが、進まないよりはいい。
出会う前に市井の噂で聞いた王の評判は特に何もなかった。自分がいたのは王都から離れた場所だったので、これだけ目立たないのであれば何もないのは当然だろう。
後宮に迎えられそうな娘を探しに来ていた楽啄からも、これといって特徴のない、しいていうなら陰気とぐらいしかきかなかった。
会ってみればなるほどその通りで落胆した。しかし少しの間のことだった。
話してみれば頭の回転はむしろ早いほうで知識もある。卑屈さの要因に気づいたときには歯噛みし、手首を切ったことを知ってもう少し早く辿りついていればとそんなことをさせなかったのにと悔しくもあった。
「湲は本当に熱いものが苦手だな」
茶をすすり不思議そうにつぶやく呂淳を眺めながら湲はだが、と思う。
いずれ王として全てを取りまとめ背負わねばならないことを考えると、のんびりしてはいられないだろう。
そう遠くないうちに
***
その日の斎家の夕餉の卓には、いつもよりも少しだけ質のいい食材を使った料理が並んでいた。
鴻羽の昇進祝いである。
といっても夕食の席は賑わうことなく静かなもので、鴻羽の元に侍女が食後の茶を持ってくる頃には父の渓雁は立ちあがっていた。
「鴻羽、後で私の部屋に来い」
いつも通りの重々しい顔つきの父親に、鴻羽は特に何の疑念も抱かずに返事をした。
「何かあったの?」
部屋から渓雁がいなくなったのを見はからって、隣の
「何もないと思いますが」
言いながら鴻羽は考えてみるが思い当たる節はない。
「そうなの……。ああ、そうだわ、湲様はもう補佐官ではなくなったの?」
残念がりながら首を傾げてくる姉にそれかと鴻羽は苦虫を潰したような顔をする。
今まで上げた功績を思えば湲の昇進は不自然ではないが、ひとつき前に謹慎を終えたばかりだというのはおかしい。呂淳が口添えしたのは間違いない。父の話とは先々の湲の扱い方についてだろう。
「その方の話はおやめなさい」
やんわりと窘める母の
このところの渓雁の不機嫌の元である湲の話は、たとえその場に彼がいなくとも話題にのぼらせるのを花江は嫌がる。鴻羽と柚凛はそんなことをあまり言わない母の態度を珍しがりながらも、出来るだけ口にするのは控えている。
とはいえ柚凛が口を滑らせて重苦しい雰囲気になることは多い。
鴻羽はその場から逃げるように席を立ち、渓雁の部屋に向かった。
「失礼します」
部屋に染みこむ橙の灯りの中心に坐する父の正面に置かれた椅子に促され、鴻羽は行儀よく座った。
「彭湲を殺せ」
なんの前置きもなくそれだけを渓雁が言った。
父の口から出た言葉に我が耳を疑いながら鴻羽はなぜ、と問うた。
「好き勝手が過ぎる。陛下を盾に取って罪を逃れた挙句、こんどの昇進だ。そもそも醜業をしていたものを軍に置くなど規律が乱れるもとだ」
「それならば陛下にじかにご忠告されればよろしいのではないのですか?」
父の言うことは正論だ。しかし、死に値するほどのことではない。
「呂淳は言うことを聞かぬ」
不快そうに震える父の口元に刻まれた皺は灯に陰影を濃くしている。炎が揺らめくとその顔が歪んでひどく醜い面相に見える。
「次の出陣のときに実行しろ。戦死ならば誰も文句は言うまい」
「味方を討つなど私には出来ません。失礼します」
席を立ち一礼して踵を返す。
いつから父はこうなのかと考えてみても節目は思い出せない。自分の最も古い記憶の父は今よりもっと誇らしかった。
「鴻羽」
呼び止められて、迷いながも足を止める。
「お前は彭湲を留め置いて陛下のためになると思っているのか。一度の失敗で逃げるな。のちに陛下を支えるのはお前だ。あのようなものではない」
返事をせずに鴻羽は部屋を出た。
廊下に灯された灯りはもう小さく、先は闇に呑みこまれなにも見えなかった。
***
軍議会を終えた鴻羽は最後に部屋を出て緊張を和らげる。
騎兵隊長に任命されて初めての軍議会だった。挨拶程度でほとんど声を発することはなかったが、多くの視線は浴びていた。
自分と年がひとつふたつしか違わない隊長は数人いるので、若さゆえに注目を浴びたのではなかった。
丞相である父の後ろ盾による出世、あるいは湲の昇進のためなどと好ましくない噂があるからだ。
「斎殿」
前を歩いていた五つ年上の隊将に呼ばれて鴻羽は再び気を引き締める。
「そちらの彭殿はずいぶんと貴殿を気に入っておられるようだが、どうやって気を惹いたのか教えてはくれませんか」
言葉の意図するところを掴み切れず、鴻羽は訝しげに整った上官の顔を見た。
「どうせなら私の補佐官に、と誘ったのですが、あなたの下がいいと言われまして。実に羨ましいことだ」
含みを持った笑顔に鴻羽は失望を覚えた。
湲の策を自分の考えたことだと吹聴する上官もいれば、その過去が知られてから下卑た値踏みをする上官もいた。若くして隊将につき有能とされた彼も変わりないようだ。
「若輩ゆえ、隊将の補佐をするにはまだ経験が足りないのでお断りしたのだと思います。また時を置いて声をかければよろしいのではないでしょうか」
義務的に口を動かすと、上官が興ざめした顔をする。
「貴重な意見、感謝するよ」
上官が先をいくのに一礼して鴻羽は口を引き結んだ。
待っていたらしき隊長らと合流した隊将の声が漏れ聞こえる。真面目ぶって面白くないだの、生意気だのと言われても他にどういう言い方が出来ただろうか。
もやもやしたものを抱えながら執務室にもどると、問題の補佐官が卓につっぷして寝息を立てていた。あまりにも緊張感のない様子に怒りを通りこして脱力してしまう。
起こそうと近づいて、その傍らにある積み上げられた書物を目にしてためらった。
小隊から中隊を飛ばして騎兵隊のまとめ役となり、やるべきことが急に大がかりになった。任に就いてから一〇日、ふたりで明け方近くまであれこれ必死に覚え込んでいるので、ろくに寝ていないのはよくわかっている。
「起きろ」
とはいえここで寝るのはと鴻羽が声をかけるとすぐに湲は体を起こした。
「どうだった? 初めての軍議会は」
あくび交じりの問いかけに鴻羽の眉根が寄せられる。
「特に変わったことはなかった。それよりここで寝るな。身辺には気をつけろと言っただろう」
父が湲の命を狙っていることを直接は言わず、自分の立場をよく考えるようにとは伝えている。だいたいの状況は察しているらしいが、まだどこか甘く見ている節がある。
「気をつけてる。お前が部屋に入った時には起きてた。そもそもこんな昼間からここで誰に襲われることもないだろうけどね」
「心構えの問題だ」
だらりと椅子の背にもたれかかっている湲の顔は、面倒くさいとでも言いたげである。
こちらとて面倒だと鴻羽はついさっきの上官とのやり取りを思い出す。
「そういう堅物なところなおさないと無駄な苦労するよ」
椅子から立ち上がり書物のおしこまれた壁際の棚へ湲が移動する。
無造作にひとつに束ねただけの漆黒の髪が流れる、無防備な背中に鴻羽は足音を忍ばせて近寄る。
細い首に手を伸ばしてその指先が触れる寸前、湲が振り向いた。
「俺がもし、お前を殺すつもりだったらどうする」
硬い声でいえば湲がさして緊張感のない顔で考え始める。
「うーん、とりあえず悲鳴あげてみるかな。殺人未遂と強姦未遂とどっちがいい?」
どっちも困る。
真剣な顔で考えていると湲が弾けるように笑った。
「だめだ、お前単純すぎて面白い」
棚にすがりながら肩を震わせる湲の言葉は、笑い声が大半でとぎれとぎれだった。
「人が真面目に話しているのを茶化すな!」
怒鳴ったところで恰好はつかない。体を反転させて棚に背をもたれる湲の笑い声はもうないものの、その顔はまだ楽しげである。
「お前はこんなところで馬鹿をやるほど短慮でもないし、呂淳が嫌がることはしないだろう」
それはその通りで嫌々ながら負けを認め目仕事に戻ろうとしたとき、扉が叩かれた。返事をして招き入れ鴻羽は苦い顔をした。
「……姉上、軍舎は女人禁制です」
「開口一番からひどい弟ね。このあいだ後宮に出入りを控えるよう言われたばかりで退屈で死んでしまいそうなのよ」
芝居がかった様子で柚凛が嘆いて見せるのに、この姉にも困ったものだと鴻羽はため息をつく。
出戻ってきて早一年、おぼろげだった昔の記憶がはっきりし始めてきて、こういう食えない性格であることをやっと思い出したところだ。
「いいじゃないか、別に」
それを助長する湲の態度もよくない。
「昨日今日決まったことではないんだ。姉上も、知っておいででしょう」
軍舎への女人禁制はもちろん、王族は従姉弟同士での婚姻が認められていないため万一のことを防ぐために、本来ならば柚凛は後宮に出入りすることは許されない。
離縁の理由が理由なのでこれまでは大目にみられていた。しかしただでさえ後宮の女たちに目を向けていない王の側に、世継ぎを産むことのない女がいるというのはまずいと柚凛は先日忠告されたばかりなのだ。
「でも王陛下がいいとおっしゃったならいいでしょう?」
柚凛が先に中に入ると後ろから呂淳が入ってきた。
「そこで姉上とお会いして、どうしても入りたいというから……」
声をすぼませて床に目線を落とす呂淳に何か言えるはずもなく、鴻羽はため息すら飲み込んで用を聞こうとするが湲に先を越される。
「急な用?」
「急ぎ、というわけではないのだが母上の形見を見つけたんだ」
見つけた、という言葉に違和感を覚え鴻羽は聞き返す。
「伯父上が、宝物庫に母上の物も兄上の母上の物もいっしょくたにしてしまって分からなくなっていたんだ。ふたりの遺品は処分されてしまってほとんど残っていなかったけれど、思い出せる分でこれだけは残っていて……」
もたもたと懐から包みを取り出す呂淳を待ちながら、鴻羽は柚凛と顔を見合わせた。
叔母が亡くなってから遺品を売らねばならないほど財政がひっ迫したことはないはずだ。
「お父様もひどいことするのね。何か手元に残してあげてもよかったのに。あら、綺麗。星真珠だわ」
批難するというより訝しげに言って、柚凛が包みから取り出された腕輪に声を弾ませた。
瑠璃色の大粒の真珠ひとつといくつか小粒の黒真珠を銀鎖でつないだものだ。
遥か南の海でしか取れない黒真珠はもちろん高級だが、星真珠は昨年辛勝した
「売り惜しみされるわけだね、これは。万一の時にいい資金になる」
この類のものには興味がないのか湲の感想は素っ気ない。
そんなことにはかまわずに呂淳が恭しく湲の手をとり、その手首に腕輪を巻きつけた。
「これは湲が持っているといい」
満足げに口元をほころばす呂淳に鴻羽は閉口する。
たったひとつの母親の形見を贈るなど、求婚しているも同然にも見える。ただ母親に似せてみたいだけというのあればよいのだが。
「貰うのはいいけど、さすがにこんな高いもの部屋に置いておくのはなあ。とりあえずはお前が持っていればいいよ」
湲が腕輪を外すと呂淳は落胆してまた包み懐に戻した。
その様子に胸をなでおろしていた鴻羽はふと柚凛の視線を感じ、そちらを見るとなぜか笑顔が返ってきた。
「陛下、贈り物ならもっと気軽に身につけられるものの方がよろしいですわよ」
しかし言葉は呂淳に向けられ、姉の笑顔の意味はさっぱり分からなかった。
「これでないと意味がないんだ」
頑なに言いきる呂淳に鴻羽はこれはどうしたものかと考え込む。覗き見るようにして目を向けた湲は、特に変わった反応することもなく装飾品はつけないよと笑っている。
「湲様ほどお綺麗ならは飾る必要もありませんものね。ああそうだわ、わたくし厩舎を見に来ましたの。よろしければ案内してくださいます?」
「あー、そうしたいけど隊長殿がそこでまたしかめっ面してるし、まだやることもあるからなあ。厩舎なら呂淳でも分かるだろ」
「そう。残念だわ。陛下、お願いしてもよろしいですか?」
いったいこのふたりは主君を何だと思っているのだろうか。
しかしながらあまり後宮から出ない呂淳が、出歩くことも増えたのでそうきつくは窘められない。
「前々から言ってるけど本当に痕になるよ、眉間」
ふたりを見送ったのち湲が深い縦皺の刻まれた眉間を見ながら淡々と言う。
「お前たちが勝手すぎるからだ」
「呂淳も含めて?」
問い返され鴻羽は言葉に詰まる。たしかに言葉を発した時頭に呂淳のことも浮かんでいた。
「とにかく、あの腕輪は受け取るな。面倒なことになる」
「呂淳はそういうつもりじゃないだろうけどね。それより見て欲しいものがあるんだけどさ」
書棚に向かう湲は呂淳との関係は兄弟に近い友人というが、呂淳自身がそう思っているかどうかは確かではないだろうに。
「これなんだけどさ」
書棚から引っ張り出した本を湲が机の上に広げる。地形録のもの見えるが、古いらしくで地名が微妙に違うところがちらほらとみられる。湲によると彭軍師の書き込みが随所にみられるということだ。
軍略について語るときの湲が一番綺麗だと、ひっそり鴻羽は思っている。熱のこもった瞳の煌めきは否応なく魅了されてしまうほど美しい。
湲の左腕にあの腕輪は馴染んでいた。
このままであれば湲があの腕輪を取ることがあるかもしれないと思うと、奇妙な感覚が胸に沸き起こってちりちりとした痛みがあとに残った。
「聞いてる?」
相槌すら打っていなかった鴻羽は聞いていると、動揺を隠すように平坦な声で答えた。それに湲は唇をとがらせる。
「だから、呂淳が子供つくろうとしないのはワタシのせいじゃないって。お前が真剣に考えたって仕方ないことだろう」
何か取りちがえたらしい湲に鴻羽はうなずいて、自分の胸の奥底に垣間見えたものから目をそらした。
***
演習場の隅にある厩舎では、まだ年若い馬番が背中をそりかえりそうなほどまっすぐにし、ぎこちない仕草で呂淳と柚凛を鴻羽の愛馬の前に案内していた、
「ありがとう」
柚凛が微笑むと耳まで赤くした馬番の少年は上ずった声で恐縮しきったのち、自分の持ち場に戻っていった。
「かわいらしいわねえ。そういえば初めて叔母様に会ったときの鴻羽ものぼせてましたのよ」
まだ三つの頃だったか、呂淳の遊び相手として後宮に連れて行かれた鴻羽が家に帰って来た時に叔母がとても綺麗だったと頬を上気させていた。肝心の呂淳に関しては叔母の後ろに隠れてしまって、あまり話せなかったと落ち込んだ様子だったが。
「母上はとてもお綺麗でしたから」
そう言う呂淳はつくづく叔母に似ていない。
女だろうが子供だろうが目を奪われずはいられないほどに叔母は美しかった。人形のように綺麗だと幼心ながらに憧れていた姉ふたりが、叔母を見た後ではすっかりくすんでしまったほどだ。
呂淳はどちらかといえば整っている部類の顔だが、一年も姿を見なければ思い出せないぐらいに印象がうすい。そんなところはもう顔の思い出せない先王そっくりだ。
「叔母様ほどお綺麗な方はいないと思っていたけれど、湲様なら並ぶほどかしら?」
逞しい馬首を慈しむように撫でながら柚凛はつぶやく。昔と変わらず苦手なのか、ぶるりと馬が口を震わせると呂淳が一歩引いた。
「……この子、大人しいですわよ。撫でてみたらいかがですか? 母親そっくりなったわね。目がよく似てるわ」
鴻羽の愛馬は自分が嫁ぐ前に乗っていた馬の仔だ。この仔馬を産んで母馬は力尽きた。嫁ぎ先が決まっていた自分は、婚家へ連れて行こうとしたが叶わなかった。初めから父は鴻羽のものにするつもりだったのだ。
いい馬になると言われたとおり、毛艶がよくしなやかな四本の脚はどの馬より力強く地を蹴り駆ける姿を思い起こさせる。
「姉上はその馬が欲しいのですか?」
「……もうこの子の主人は鴻羽ですのよ。一年しか一緒にいなかったわたくしのことなんてきっと忘れてしまっているし、わたくしも昨日まで会おうなんて思いませんでしたの」
「ではどうして急に?」
「最近、なんだか子供の頃のことをいろいろ思い出してしまって」
鴻羽には手に入れられて、自分には手に入れられなかったものたち。自分から鴻羽が奪ったものたち。
たとえば、この仔馬、父の膝の上、お気に入りだった書物だとか。
ひとつ思い出しては、淀んだものが胸に一滴落ちる。尽きぬ感情の雨だれは今にも外に溢れてしまいそうだ。
「どうしてあの子の手には何でも手に入るのかしら」
弟の元には望まずとも何でも転がりこんでくる。
この馬のことも欲しいなどは一言も言わず、何度もいいのかと確認してきた。嫌だといっても、父が聞き入れないことは分かっている自分には煩わしいばかりだった。
「鴻羽はこの頃よく湲様を見ているわ。きっとあの子のことだから自分でも気づいていないでしょうけど」
それにほんの少し自分が湲と名前を出せば、いつもより口数が多くなる。
「あの子が手にいられなかったものはありましたか?」
嫁いでいた期間は弟と共に過ごした時間より長い。
その自分が知らない間を共に過ごしてきた呂淳の表情が強張るのを見て、柚凛は薄く笑った。
このまま石女と陰で憐れまれ笑われながら、弟がなにひとつ不自由なく栄誉を手に入れていくのを傍らで眺める退屈で惨めな余生をおくるつもりはない。
そのために必要な従弟は盤の駒として容易く動かせそうだと確信できた柚凛の心は、さっきまでの沈鬱が嘘のように弾んでいた。
***
夏の始まりに戦場に出た湲が戻ってきたのは秋も間近に迫った頃だった。
周辺では倒れる国もあり、国境での小競り合いはあるものの
ただし、あくまで表面上のことである。
北の
「湲、怪我を……」
湲の動きの鈍い左腕に呂淳は表情を曇らせる。
「手こずったからな。矢に毒がなかったのは良かったな。やっぱりワタシって運だけはいいよなあ」
飄々と言ってのける湲に、呂淳は言葉を口の中で迷わせて喉の奥に押し戻した。
本当ならば、戦場には出て欲しくない。この程度の怪我ですめばいいが、今の戦況ではあまりにも危険すぎる。
――あの子のために何かしてあげられるのは、あなただけよ。
昔、母からもらった兄でも、鴻羽でもなくたったひとつの自分だけのもの。
だから湲の望むことは何でも叶えるつもりだが、湲がしたいことを出来るよう道を広げているだけでいいのだろうか。
そう疑念を持っても、湲自身がそれだけやってくれればいいというのだから、大人しく従う他はない。
「退いてくれそうか?」
変わりに戦況を聞くと湲は気難しい顔で首を横に振る。
「……このままいくとまずいな」
李宋は潤沢な資金で傭兵を集め、数に物言わせて兵力を削る攻め方をしている。昨年の侵攻は演習といったところで、今回はまだ進軍を繰り返すつもりらしい。
「この国は滅びてしまうのか?」
一国の王が口にするにはあまりにも軽率な言葉だったが、咎める人間はこの場にいない。
「王があってこその国っていうんならもうとっくに終わってるけどね」
開け放たれた窓の枠に腰掛ける湲の髪が、ぬるい風に光を受ける漆黒の川面のように揺れる。
横顔が一番似ていると呂淳は思う。この面立ちだからこそ欲深い官吏が湲を連れてきた時すぐさま人払いをし、ためらいなく跪いた。
「陛下……」
そう口にしたのは湲ではなく呂淳だった。
「何、急に」
初めてそんな呼び方をされた湲が困った風に笑う。
呂淳が母の
王妃が子を産むのは後宮内が通例だが、苑昭は生家の斎家で湲を産んだ。
第一王子の稜明の生母は息子が病を繰り返すうちに、王の寵愛を独占せんと企んだ苑昭が呪詛している、あるいは毒をもったなどと妄言をわめくようになっていた。
そのため渓雁が万一のことを考え苑昭を実家に戻らせたのだ。
同じ頃、近所の
先に出産したのが紅蘭だった。そしてその翌々日、苑昭も出産した。
時に偶然を運命と呼ぶことがある。
まさしく渓雁はそう思ったのだろう。
先代の王の元では側近として信を得ていた吾准だが、当時の王は極端に彼を嫌っていて幼少の頃より渓雁を兄のように慕っていた。
そんな状況に後押しされて渓雁はどうあがいても玉座に座ることのできない妹の産んだ子と、紅蘭の産んだ男児を無理やり奪い取りすりかえた。
すり替えられた苑昭の子は当然殺されかけたが、身を呈して苑昭はその子を庇い彭家に預けた。
「あなたは紛れもなく王だ」
母の死、これもおそらく渓雁の手引きによるものだろう。その直後、彭家の訃報を聞いたときにはまだ自分は必死に湲が生きていることにすがりついていたが、時が過ぎるにつれて諦めていった。
けれど生きていた。いつかあこがれた兄と同じく聡明で、とても愛していた母によく似た美しい容貌をして。
「そうかな。まあ、まだ終わるつもりはないよ。そのためにも早いところ片づけないといけないな」
自分たちの目的は斎渓雁、ひいては斎家への制裁。
本来ならば彭軍師は第一王子が渓雁の手にかかる前に、王都へ湲を連れ戻るつもりだったが一足遅かった。
せめてもの不忠義の斎家への制裁は湲に託された。
自分の立場なら、丞相の席を奪うことも殺すことも難しいことではない。しかしそれでは官吏からの反発も大きく内政は乱れる。王という立場の自分がもっとしっかりしていればそうはならないが、いかんせん出来の悪い自分に官吏らが従うはずもない。
湲には申し訳なく思う。最も頼りにならなければいけないというのに、臆病で愚昧な人間でさぞ落胆したことだろう。
鴻羽のような何もかもが揃っていれば、と羨んで呂淳の心がざわつく。
「鴻羽を、どうするかは……」
斎家の跡目を継ぐ、伯父の一番大事なもの。長女が生まれてから十一年経ち、四人目にしてようやく産まれた待望の男児だ。
だからこそ早々に潰しておくべきだがと呂淳は湲を見やる。
「まだ、放っておけばいい。それに今鴻羽はいないと困るんだよな。あいつが走り出すと兵が勢いづくんだ」
湲の目元が和らいで、胸が軋む。
自分で気づいているのだろうか。この頃湲は鴻羽の話をするときは、いつも楽しげに笑っている。
いつか自分の唯一のものですら鴻羽に奪われてしまいそうで怖い。
しかし、斎家の者を選ぶというのは裏切りである。自分への、母たちの、これまでの歩んできた道への。
湲もそのことは重々分かっているはずだ。だから、恐れることはないと自分に言い聞かせるのだけれど。
「でも、これ以上の戦は無駄かなあ」
自分の思考に半ば入り込んでいる湲の側に呂淳は移動する。
そうして月のない夜空に似た瞳に自分が映るのを認めるが、ぐじゃぐじゃと腹の奥でもつれ絡まりうねるものは静まりはすれど消えることはなかった。
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