二 白峨三年春―同年冬
春、
今年も
残された湲の付き添いに当然のようにあてがわれた
高楼にいた者たちより幾分質素な衣装をまとった人々は、料理や酒の置かれた円卓を中心にして談笑したりしている。しかし鴻羽と湲が近くを通ると背を伸ばして動きを止めた。
「逃げるの?」
あまり好きな言葉ではないものの、この場合は仕方ない。
鴻羽は人々がそっと開ける道を通り、出来るだけ人気のないほうに歩いて行く。
「こうもひっきりなしだとさすがにこたえる」
今年は父にだけでなく自分のところにも人は集まった。官吏の傍らには年頃の娘がいて彼女達は頬を染め熱心に視線を送ってきていた。
今も物珍しそうにこちらを見ながら娘をせっついている姿が目に入っても、気づかないふりをして鴻羽は通り過ぎる。
「いい子いなかったの?」
「……まだ結婚する気はない」
「まだって、もう十九じゃないか」
たしかにそろそろ伴侶を持ってもおかしくない年だ。実際幼いうちから相手の決まっている同輩には、すでに子が出来ている者もいる。
「呂淳が先だ。後継が生まれるまで俺は結婚しない」
辺りを取り巻く薄紅が途切れ、新緑に変わったところでようやく鴻羽は足を止めた。
「そんなの待ってたら一生結婚できないよ」
「それは」
言いきる湲に鴻羽は声をあげかけて難しい面持ちで口をつぐむ。
呂淳が即位の際に妃になるべく後宮に入った娘やその侍女らは数多くいるが、いまだに誰の寝所に訪れることもなければ自分の寝所に呼ぶこともない。呼び寄せるのは湲のみで、もしや女には関心がないのではと誰もが頭を悩ましている。
さすがに、ないと思うのだが。
だがしかしと、鴻羽は後宮で並び立つ者のいない美しさを持つ湲を視界の隅に映しながら、本人に聞くのもはばかられてひとり悶々する。
「……言っておくけど呂淳とは寝てないよ」
沈黙の意味を察したらしい呆れ混じりのため息と共に湲が答える。あけすけな言葉に頬を熱くしつつも鴻羽は安堵した。
「それはないと思っていたからいいが……呂淳から気に入った娘がいるとかいう話は……」
「ない。男も女も嫌いだよ、呂淳は」
鴻羽が言い終わるのも待たずに答えた湲は瞳を半ば伏せた。長い睫毛が影を落とす目元は憤っているようでいて、どこか哀しさがあった。
湲は呂淳に忠を尽くしていなくとも、彼の脆い感情を気遣う素振りはある。臣下、ではなく友人に近いな関係なのだろうと、かつてその位置にいたと思いこんでいた鴻羽は寂しく思った。
「良さそうな娘を見つけたら場を作って、ゆっくりでいいから話が出来るようにしてやってくれ」
「いたらそうするけど、いつになるかわからないんだからお前は早く決めておいたほうがいいと思うよ。気になる子とかいないの?」
「いない。今はそれどころでもない」
そんな暇があるなら馬を駆り剣術に励むべき時期である。
「今だからこそ、だろ。
紫秦の南部に位置する二国はお互いの国境にある銀鉱山の利権で揉めている。度々諍いを起している両者は、雨による崩落で漢芙側に土砂が積もり漢芙が難癖をつけ戦となり泥仕合を二月半続けている。
「どちらが勝つと思う?」
「さあ。でもどっちが勝っても一緒だろう。お互い意地になってるだけで終わるころには擦り切れてぼろぼろだろうね。でも今、人が流れてくるのはなあ」
隣国から踏み荒らされた土地を捨て逃げてくる者も、ぽつぽつと増え始めている。今は軍も香陽の復興にも人手はあるほうがいいとはいえ、問題はその者らをどう食わせていくかだ。
香陽は土地と水に恵まれている。古い堤などを手直しし、紫秦が培ってきた農耕の技術を用いれば豊かな実りが期待できるとはいえまだ始まったばかり。
これ以上の民が増えるのは考えものだ。
「上には戦が終わったら両方攻めとればいいと言っている者もいるらしいが」
なんでもかんでも取り込めいいというものではないだろう。しかし一部の隊将らが真面目に議論しているらしいことを聞くと不安になる。
「あのふたつとるなんて綿しょって川をわたるみたいなものだよ。鉱山も五年もたないかもしれないっていうから、将軍達も丞相も許さないだろう。今は無駄に版図を広げることを考えずに地盤を固めることに専念すべき、って郭将軍も言ってたしワタシもそう思う」
そのためにも一刻も早く世継ぎが必要なのだ。
堂々巡りになりそうなので鴻羽は考えを口にすることなく空を仰いだ。
緑の合間に見えるのは澄んだ透明な青。舞い踊る春風に乗ってくる花の香りが緑の匂いを和らげちょうどよい。
「酒持ってくればよかったね。ここならゆっくり飲めるや」
同じく空を見上げていた湲が腰をおろして幹にもたれかかる。
「お酒ならありますわよ」
ふと、背後で群れる緑の木々の合間から姿を見せた女性がいて、鴻羽は目を瞬かせた。
六つ年上の三番目にあたる末の姉の
「姉上! どうされたのですか?」
「自棄酒でもと思って」
父方譲りの美貌に、母譲りの柔らかな印象が溶け込んだ
「はあ。そうですか……お久しぶりです」
自分が九つの時に十五で西の
帰郷するということすらすらなかった鴻羽は、あまりに突然すぎる再会に唖然としながら柚凛に頭を下げた。
「しばらく見ないうちにまた大きくなったわね」
自分から言わせてみれば姉が縮んだように見える。その上婚家で心労が多いときいていたので、やつれて顔色も悪い様子に胸が痛んだ。
「ねえ、自棄酒って何かあったの?」
目の前に姉がいることにばかりり気を取られて、鴻羽が聞き逃していたことを湲が問う。
「離縁しましたの」
無理のない様がことさら痛々しく思える笑顔で言う姉に鴻羽は絶句した。
「ふたりめがもうすぐ産まれるの。だから諦めたの」
亜州長官には息子が一人いる。ただし柚凛の子ではない。
嫁いで一年、二年と過ぎ五年たてど子はできず、八年目にして侍女が柚凛の夫の子を身籠った。相手の侍女は雇われてまだ一年と経たぬ十五の少女だった。珍しいことではなく正妻に子が出来ないのならそうすることは普通だ。しかし、姉には耐えられなかったらしい。
「……父上には?」
「あいかわらず興味がなさそうにしてたわ。先に家に帰った時に母様は少しは慰めてくれたけど。ところでこちらの方は?」
さして寂しそうでもなく言って柚凛が湲を見ながら首をかしげる。
「湲です。私の補佐官です」
鴻羽の紹介にはじめましてと湲が頭だけで会釈した。
「あら、この方が。とても優秀な軍師様と聞いてますわ。噂通りお綺麗な方。あ、ごめんなさい。男の方に綺麗だなんて失礼ですわね」
「いいよ。美人に褒められるのは悪い気しないし。それにしても上のふたりも見たけど斎家はみんな美人だよね。鴻羽も顔はいいし」
「そうですの。顔はいいのよ、鴻羽は。でも戦地での活躍はきいても浮いた話は全くきかないのはやっぱりねえ。湲様も大変でしょう、この子昔から頭が古いから」
「ふうん。呂淳の言ってたとおり昔からこうだったんだ」
言いたい放題の姉と湲に口を挟む気力すらない鴻羽は、ふたりが姉弟に見えた。姉が叔母にも少し似ているせいだろう。
柚凛と並ぶと湲はどちらかと言えば少年に見える。背丈が柚凛よりも高いせいだけでなく、輪郭の線がやはり湲のほうが尖っている印象がある。しかし、男と並ぶと柔らかすぎ、女に見えてしまう。
つくづく不思議な顔立ちだ。
「いけない。杯がひとつしかないわ」
酒を注ごうとしていた柚凛の丸い瞳は鴻羽を映していた。
ひとりであの場に戻りたくはないのだが。
鴻羽は柚凛からそっと目をそらし、賑やかな声の聞こえるほうを敵陣でも睨むかのように見つめる。
「ワタシが行くよ。どうせ鴻羽は呑まないだろ」
一歩も足を進められずにいた鴻羽に湲が助け船を出す。酒も女も苦手な鴻羽はこの時ばかりは素直に感謝した。
「驚いたわ。叔母様そっくりね。呂淳が気に入るのも分かるわ」
湲の背中を見送って柚凛がしみじみとつぶやく。
「姉上、その話はあまりなさらないように」
「いいじゃない、今はふたりきりなんだし。鴻羽が湲様みたいな楽しい方と仲がいいなんて珍しいわね」
別に仲がいいわけではない。
この頃は呂淳のことや戦の話はよくするのは、単に仕事上一緒にいることが増えたのと情報収集のためである。たしかに雑談めいたことを話すこともあるし、剣はあまり得意でないというので教えたり、暇つぶしの軍盤の相手もすることはあるが。
そんなことを言うと姉は不思議そうな顔をした。
「それを仲がいいというんじゃないの?」
客観的にみればそうかもしれないとはいえ、認めるのにはまだ心境は複雑で鴻羽は返事を濁した。
***
山宇と漢芙が半年にわたる戦を終え共倒れしたのは夏の終わりだった。それに伴い西南に位置する
国境で二月もこう着状態が続き、援軍を出すことが決まって総大将が夏将軍となった。鴻羽の小隊も参戦することになり出立が間近に迫っていた。
その戦に備えての訓練の合間、演習場の一角で湲と鴻羽は木剣を合わせていた。実力の差は傍から見ても明らかである。湲が頬を薔薇色に紅潮させ向かう一方で、鴻羽はうっすらと汗をかいている程度でやすやすと湲の向ける切先をかわしている。
剣を受けるにしてもわざと隙をつくって誘い込んでいるのだ。
やがて鴻羽の木剣が薙いで、湲の握る木剣が陽に吸い込まれていくように天高く舞った。
「力、強いよ」
衝撃でしびれているらしい手を振る湲に、鴻羽はやりすぎたかなどと思ってしまう。
いつもの他の兵との訓練ではけして思わないことである。
それもこれもいつまで経っても湲が男に見えないからだ。少し赤くなった手は小さく指は細い。剣を持つより甘い菓子でもつまんでいるほうが似合いだ。汗ばむ白い首筋に幾筋かほつれた髪が乱れ落ちているのも艶めかしすぎる。
「……これぐらいは耐えろ。まったく、お前は前線には向かないな」
鴻羽はこれ以上湲を見つめ続けているのも気まずくなり厳しい顔をつくる。
「まあ、お前みたいに先頭に立って戦うより軍略立てるほうが得意だよ。でも小隊の補佐官ぐらいじゃあんまり後ろには回してもらえないから、もうちょっとは強くなりたいんだけどなあ」
湲が自分の袖をめくり露わになった細い腕を眺めた後に、羨ましげに鴻羽のを見て布越しにも分かる筋肉質な腕に触れる。
「なにをどうやったらこうなるの?」
「日々、鍛錬あるのみだ」
布越しに触れてくる湲の指先に腕の筋肉が強張る。なぜそうなるのかはわからないが、とにかく落ち着かないので鴻羽は静かに答えて、出来るだけさりげなく湲の指先から逃げる。
「結構頑張ってるつもりなんだけどなあ。一年やそこらじゃ無理か」
「呂淳に言えば軍師として扱ってもらいやすくはならないか」
これまでの戦でさして大きい怪我もなく、それなりに器用にくぐりぬけているとはいえ、湲を前線に立たせるのは気が休まらない。あまり褒められたことではないが、呂淳に頼れるならそうしてほしいところだ。
「でも実力で軍師として認められてじゃないと意味ないよ。今でも十分恵まれてる立場だからこれ以上呂淳に口利きしてもらうのもね」
至極真っ当な返答に鴻羽は自分の考えを恥ずかしく思った。
軽薄な言動のせいでつい中身もそうだと思いこんでしまう。人を表面だけで判断するのはよくないとは重々分かっているつもりだが、と鴻羽はあらかじめ用意していた竹の水筒から水を飲む湲の上下する喉に初めて気づく。
喉仏がない。ないことに違和感がなさ過ぎてまるで気づかなかった。
「飲む?」
「いや、いい。お前今いくつだ」
「お前と同じ十九だ。爺様の孫だからお前や呂淳と同じ年に決まってるだろ」
瑞々しい濡れた唇が、少女よりは低く声変わり前の少年よりは高い玲瓏な声を紡ぐ。
「あ、もしかしてまだ性別疑ってるの? なんだったらここで上脱いで見せてもいいよ」
「しなくていい!」
服の合わせに手をかける湲を鴻羽は慌てて止める。
一度その胸に触れて確認しているので必要がないと感じたのはもちろん、遠巻きにふたりの様子を見ている他の演習中の兵らの視線が強まったのに気づいたからでもあった。
「疑って悪かった。だが、不用意に人前で脱ごうとするな」
この男所帯で下手に女よりも見栄えがいいとなると、兵たちもつい目が行きがちだ。実際遠征の時、夜に自分の天幕に湲を呼びつけた上官もいる。
無論、間に入ってちくちくと下種な勘ぐりをされつつも所定の場所、つまるところ自分と同じ天幕で休ませた。
「なんで?」
愛らしく小首をかしげてみせる湲の瞳にあどけさはなく、からかいの意図がありありと見えた。遠まわしな言葉を選んでいた鴻羽は、言葉を詰まらせて口をへの字に曲げる。
「わかっているならきくな」
「お前、ワタシが宦官だって忘れてるだろ。普通の男とは違うんだよ」
言われてそのことを失念していたことに気づいて、なるほどとは思った鴻羽だったがまだ納得しきれなかった。
子供のころによく出入りしていた後宮で見た宦官達に、ここまで女に見える者はいなかった。
「心配しないでも軍の中で身売りするような真似はしないさ」
そう付け加える湲の物言い物言いはどことなくひねくれていて、なぜだか腹が立った。
「お前にそのつもりがなくても、そういうことはあるだろう。自分で対処できないと思ったらちゃんと俺に言え。わかったな」
別に湲の身持ちが悪いと思っているわけではないのだ。ただ、なんだろうか。せっかく才もあればそれを伸ばす努力をしているのだから無駄にさせたくない。
鴻羽のくどくどした説教をきく湲の表情は、いつもの煩わしげなものではなくて心底不思議そうなものだった。
「わかった」
珍しく素直にうなずいたのち湲はなにかを思い出したのかそうだと声を上げる。
「柚凛に暇が出来たら軍盤の相手をしてほしいって言われてるんだけどいいよね。休憩時間だし」
「ああ、それはいいが……。いつも付き合わせて悪いな」
柚凛は湲のことをすっかり気に入ったらしく、休憩時間をききだしては禁苑に湲を誘い茶だの軍盤だのと相手をさせていた。
家に戻ってきた頃には位影を残していた柚凛が、この頃はずいぶん明るくなってきてありがたいと思っている。
「あの人結構軍盤強いから面白いんだよね。話も上手いし、離縁だなんてもったいないことするよなあ。あ、でも心配しなくてもお前に義兄上って呼ばれる気はないから」
湲が口元を楽しげに歪ませてそう言い、その場を離れた。
湲の背を見送るうちに先ほどまでの自分の言動が、まるで年頃の少女に説教しているようだと気づいてしまった鴻羽はため息をつく。
頭の片隅にはあれは男だという認識は確かにあるのに、どうしても接し方が少女に対するものになってしまいがちだ。
「隊長、手解きお願いします!」
そこへ湲に比べれば随分逞しい十六の兵が緊張気味に申し出て来て鴻羽はうなずく。
他の見物していた何人かも自分もと手を上げる。その一同を眺めながら彼らと同じに扱うことはできそうにないとまた湲のことを思う鴻羽だった。
***
「退屈ですわねえ。もうひとつきになるかしら」
禁苑の池を臨む東屋で柚凛は軍盤の準備をしながらねえ、と対峙相手の呂淳に同意を求める。
呂淳は子供のころから変わらない無愛想な顔でうなずいた。
鴻羽の小隊が夏将軍に率いられ出兵してひとつきになる。
この頃の暇つぶしの相手である湲がいなくなり、母と共に刺繍をするのにも飽いた柚凛は朝議を終えて後宮に戻る呂淳を捕まえた。手頃な軍盤の相手にと思いついたからだ。
秋も深まり冷えるこの頃だが今日は日差しが暖かい。
ときおりそばで踊る風は涼しく、陽光を跳ねさせる水面には朱や金の葉がたゆたい目に楽しい。陽の力が弱まっているこの時期、室内で呂淳といるにはあまりにも陰気すぎるのでここにしたのは間違いではなかったようだ。
「湲様は戻ってきてほしいけど、鴻羽は帰ってこないほうが嬉しいですわよね」
駒を進める指が一瞬止まったが、呂淳は無言だった。
なにかと頼りにしながらも呂淳が妬む視線を鴻羽に向けていたのは知っている。自分もそんな顔をしてるだろうと思うと心底嫌気がさしたものだ。
五つになる頃にもう男児は諦めて自分に婿を取り後継がせると父が言った矢先、鴻羽が産まれた。以後はどれだけ学問に励もうと父に構われることもなく、先々益になる家に嫁いだ姉二人とは違い適当なところへ嫁がされた。
そして婚家では子が産めない厄介者扱い。
離縁したいと言った時の夫の安堵しきった顔は、今思い出しても歯噛みしたくなる。
「姉上」
昔と変わらず自分を呼ぶ呂淳に、柚凛は自分の手が止まっていることに気づき駒を進めた。
「鴻羽のことをこれからどうされるおつもりですの?」
逃げる呂淳の駒を柚凛は追い落とす。
鴻羽が高位につけばつくほど、呂淳に落ちる影は濃くなっていくことは明白だ。それに耐えられるはずがない。
「湲が決めることです」
てっきりまた沈黙かと思えば意外な答えだった。
そんな判断すら任せてしまうなんて、あの容貌によほど心酔しているらしい。
「それなら、出世するのね。あの子のこと気にいっているようですもの」
とくに確証があるわけではないが確信はあった。
鴻羽に人が向けるのは嫉妬か好意のどちらかである。鴻羽よりも優れたものを持っている湲ならば嫉妬よりも好意を抱くだろう。
しかし駒を動かす呂淳に動揺は見られない。
「あなたはそれでよろしいのですか?」
駒を進めたが呂淳の次の手に逆に取られてしまった。
「湲はけして鴻羽の味方にはなりません」
柚凛は盤に落としていた目を上げる。
駒を見つめたままの呂淳の表情は硬いが、珍しく強気な目をしていた。記憶の中にある呂淳とは違いすぎて違和感を覚える。
「……あら。よけいなお喋りがすぎたわね」
いつの間にか将の眼前に騎兵が迫っていた。
「私の勝ちでよろしいですか?」
柚凛はもちろんと、素直に敗北を認め再度呂淳に勝負を持ちかけた。
***
雨にけぶる紫秦西南に位置する
緩やかに闊歩する馬の上で鴻羽もそんな風に声をかけたりかけられたりしながら、小柄な兵ばかりを目にとめてしまっているのに気づく。
変な癖がついたものだ。
以前注意して分かったと言ったにもかかわらず、湲は自分の側を離れて行動することが多く姿が見えないと気になって仕方ない。
おかげでこの頃は湲を必ず視界の隅に入れるという癖がついてしまっている有様だ。
「鴻羽」
門のすぐ前にいた夏将軍に声をかけられ、鴻羽は馬を降りる。彼の傍らにとくに大きな怪我を負った様子もない湲がいるのを見て、やっと任務を果たし終えた気分になった。
「先駆け苦労様。よくやりましたね」
師の褒め言葉に鴻羽は笑顔でありがとうございますと返した。
湲の案により、実にひとつき近くかけて山の中腹に張られた敵陣周辺の道なき道を探り当て、夜明けを前にそれぞれの道に部隊を配置し四方八方から濁流が押し寄せるかのごとき勢いで敵陣になだれこんだ。
最初に合図として、崖とも呼べそうな急斜面を馬で駆け下りた部隊の先頭に立ったのが鴻羽だった。
「お前を選んだのは良かったみたいだな」
先頭に鴻羽を指名した湲も満足げにうなずいている。
やれるだろう、と向けられた期待の眼差しを思い出した鴻羽は面映ゆくなり視線を湲から夏将軍に移す。
「ええ。本当に。湲殿の策を見ていると彭軍師を思い出しますね。あの方は地形を利用した奇襲はとても得意でしたから」
湲が彭軍師の孫であることを軍内で知るのは鴻羽のみである。
一度家名を名乗ることはないのかときいたが、証拠もなければ継ぐこともできないからわざわざ名乗ることもないとのことだ。
しかし、幼少のころに刻まれた軍略の基礎は誰が築いたかすぐ分かるものなら、そのうち名乗ったほうが士気もあがってよいだろう。
「郭将軍にもいろいろ習ってるところだし、似るんだろうね」
言った後にくちゅん、と湲がくしゃみをした。そろそろ雨も雪に変わる季節である、戦闘の熱気が落ち着いてくれば、寒さで体に震えがくる。
「早く中に入るぞ」
風邪でも引かれたらたまったものではないと鴻羽は湲の肩を叩いて城門の内へと促した。
***
夜には雨があがり冷えこんだ空気が浸透しているものの、篝火の光に包まれた都市は祭の様相で熱気にあふれていた。州長官の屋敷と役所として機能する建物がおさめられた州館の庭を中心に、近くの官吏の屋敷の庭も解放され酒と料理が振舞われている。
騒がしいなか死に物狂いで勧められる酒を断り、しなだれかかってくる女をひきはがしながら鴻羽は夏将軍の側に逃げこんだ。
「とても、賑やかですね」
疲れ切った鴻羽のつぶやきに、彼に持ち寄られる酒を片っ端から呑みほしている夏将軍が楽しげに笑う。
「長かったですからねえ」
いつ攻めこまれるかと街門を締めきり、不安の中過ごしてきてやっと解放された民と勝利に熱が上がっている兵の歓喜は都市が揺れそうなほどだ。
鴻羽は茶を飲みながら人々の笑顔を眺め、つられるように口元を緩める。
しかし彼の和やかな表情は、酔った地元の兵に絡まれている湲を見つけると同時に消えた。
湲のしらけた顔からして友好的な雰囲気はなく、小柄な湲より一回り大きい男の手は尻に伸びている。
卓に茶杯を置き、鴻羽は一直線にそこへ向かい男の手をとった。
「我が隊のものに品のないことはなさらないようお願いします」
鋭く睨めば、男が酒臭い息を吐きながらしまりのない笑い声をあげる。
「そりゃ悪かったなあ。あんまりにも別嬪だから女かと思ってなあ。でも男にしちゃいい尻してるぞ」
下品な物言いに無表情で鴻羽は男から手を離し、かわりに湲の腕を掴んで元いた場所に歩き始めた。
「ああいう場合はすぐに助けを呼べ」
「酔っ払いなんてあんなもんだしなあ、いちいち生娘みたいな反応してるとつけあがるから頃合い見計らってあしらうのが穏便だよ。ところで、腕」
いつまでも湲の腕を掴んでいたことに気づいて鴻羽は慌てて手をほどいた。
しかしあいも変わらず細い腕だ。これだからああいった手合いに絡まれるのだ。男児たるものもっと逞しくあるべきである。
「もてますねえ」
「まあね。あ、郭将軍に酒持って帰りたいんだけどいいかな」
先ほどの件は気に留めていなさそうな湲と夏将軍に、ひとり腹を立てている自分が虚しくなりながら鴻羽は茶をすする。酒も旨いが、ここは水がよいので多少冷めた茶も旨い。
卓の皿から料理が消え、次第に酔い潰れ眠りにつくものが増えて辺りの騒々しさもおさまった頃、なにやら屋敷の裏手で騒がしい音がした。
賑やかな類のものでなく不穏な空気を孕んでいる。
「将軍」
指示を仰ぐと夏将軍も動き始めた。
すわ奇襲かと駆け付けたが、すでに見張り役の兵に風体の悪い小汚い数人の男らが取り押さえられていた。辺りに玉や貨幣が散らばっているところからして宴に乗じた盗賊のようだった。
柄を握っていた手を離し、鴻羽は夏将軍と顔を見合わせて苦笑した。
「戻って報告に行ってくる」
一緒について来ていた湲がなぜか小声で言って背を向ける。だがそれを呼びとめる声があった。
「おい、そこにいんのは湲か?」
そう言ったのは一番年長と思われる盗賊の男だった。
知り合いかと尋ねれば少々間をおいて否定の言葉が返ってきた。
「へえ。今ここで囲われてんのか。
聞き覚えのある名が盗賊の口から出て鴻羽は考え、答はすぐに出た。
湲の遠縁となっている官吏の名だ。
「……話は後で聞く」
向き直った湲の言葉は聞かずに、男はかまわずやたら大きいだみ声で喋り続ける。
「大枚はたいたんだ、相当だろうなあ。しっかし、それだけの買い手がすぐにつくなんて、さすが半陰陽だな」
思考が止まった鴻羽は無意識のうちに振りかえり、舌打ちする湲を見てやっと頭が回りだす。
半陰陽。つまりは男でも女でもない体を持って産まれた者。
すでに騒ぎに集まっていた十数人のざわめきを薙ぎ払うように湲が声を張り上げる。
「そいつらが、爺様と母上を殺した!
一瞬、音が消えた。
しかしすぐに先ほどより大きなどよめきが起こった。
「な、何いってやがる! そんなことは知らねえ!」
男が押さえつけながらも体を前に乗り出そうとする。
どちらが正しいか、みな口々に言い合い始める。頭の中の整理がつかないまま鴻羽は夏将軍にどうするべきか問うた。
「事の真偽については明日にしましょう」
そうしてその場は、夏将軍が湲を連れ用意された部屋に戻り、盗賊らは牢に放り込まれた。
鴻羽は湲に声をかけるにしてもなんと言っていいかわからず、夏将軍の隣でうつむき強張った湲の顔を見つめることしかできなかった
***
「処分が決まったぞ」
軍舎の懲罰房の一室に鴻羽は入り、湲に声をかけた。
寝台がなく硬い石床に敷布と上掛けのみが置かれた小奇麗な部屋で、本をめくっていた湲が少し顔を上げた。
「王宮から追い出されるの?」
さして困った様子もなく尋ねる湲に鴻羽は首を横に振る。
件の盗賊が捕えられ、王宮にまで連行されてひとつきになる。
彭軍師とその娘の殺害に関しては否認し続けたが、首領の持っていた短刀が先々代王が彭軍師に下賜したものであることがわかり余罪も合わせ斬首となった。
そして残った問題は湲だった。
過去に盗賊の手助けをしたことがあること、官吏に取り入り身体のことを隠し後宮に入りこんだことについてどう処分するか半月にわたって話し合われた。
湲の後宮入りに手を貸した楽啄という官吏は、これまでの素行不良もあり北東部の村に左遷が決定している。
湲は直接窃盗に及んだことはないものの、経路や侵入手段の助言をしている。それと同時に三つの州の実に二十近くに及ぶ地方貴族の不正を呂淳に告げていた。
こうなった時のことを見越してのことらしく、湲の正体が知れたと同時に呂淳は監査を命じた。実際貴族ら税をごまかし私財としており、徴収と罰としての追加徴収された財のおかげでここ近年の戦で目減りしていた国庫は多少は潤うことになった。
ただ、その情報を手に入れた理由も問題だった。盗賊らの話によればある金満家に湲を一晩売ったところ、そこから貴族の元に噂が伝ったらしい。
興味本位で買った貴族からまた別の者へと口伝で広がり、通りに立たせているよりよほど儲かると、盗賊らが味を占めて各地の貴族や金満家の元を渡り歩く中で得た情報ということだ。
買い手がない時は湲に助言をしてもらい盗みを働くを繰り返したそうだ。
そして盗みの手段も覚えたところで、楽啄が破格の値段をつけたので売ったということだ。
楽啄がそんな値段で買い取ったのは、湲が倍で返してやるから買って宦官として後宮のもぐりこませろと要求してきたからだった。
亡き呂淳の母に瓜二つの容姿から、湲が呂淳から湯水のように金を引き出せるかもしれないと考えて話に乗ったものの、滞る返済についに業を煮やしたのが昨年の暴行である。
そうして処分が決まるまでは一応は懲罰房にということになった。
「二月の謹慎だ。将軍方と呂淳に感謝しておくことだな」
丞相を中心に各尚書らは官位剥奪を訴え、軍側は謹慎処分にとどめ置くことを主張した。丞相と
家に戻っても苛々としたままの
最終的には弱気ながらも呂淳が軍側につき処分は決定した。
鴻羽は冷え切った床に腰を下ろし、あぐらをかく。
「あと、これはお前が持っていてもいいことになった」
鞘に翼を広げる大鷲の意匠が施された短刀を懐から取り出し、鴻羽は湲に渡す。
「とっくに、売り飛ばされてると思ったよ」
つぶやく湲の表情はいつになく柔らかい。
短刀を手に取りまじまじと眺めた後にしっかりと握りしめ、胸にだきしめる姿は母親に抱きつく幼子に見えた。
思い返せばこの三年近くこんなに無防備な表情を見るのは初めてだ。
親の後を懸命に歩いてついていく雛鳥を初めて見たときのように、胸に暖かな熱がこみ上げてくる。
「……ねえ、謹慎っていうことはしばらくここにいろってこと?」
大事そうに短刀を傍らに置いて問う湲にまっすぐ見つめられ、ぼんやり魅入いっていた鴻羽は我に返る。
「いや、ここじゃない。私室に戻っていいらしいが、嫌だというなら別の部屋を用意してもいいということだ」
話し合いの席に着いていた口さがない隊将によって、湲が身売りもさせられていたことは軍内で広まっている。妙な期待を持って話題にしている兵もいるので、軍舎よりどこかほかに部屋を移し替えたほうがいい。
「軍舎のほうでいいよ。どうせこの先とやかく言われるんだ。今から逃げたって仕方ない。ああ、あとは歩きながら話そうよ。ここ寒い」
短刀と本を懐にしまいこんで湲が立ち上がる。
たしかに床石から足に伝わる冬の冷気は芯までしみると鴻羽も腰を上げた。
先に出ていく湲の後ろ姿は少女そのもので、この儚げな身がどう扱われてきたかを考えると言いようのない怒りがこみあげてくる。同時に諸悪の根源が誰であるか思いいたって、胸が痛んだ。
「……すまない」
「何が?」
「いや、父上が彭軍師から受けた恩を忘れなければこんなことにならなかっただろう」
湲が少し歩みを緩めて振り返らずに小さく笑い声を洩らす。
「本当に真面目だねえ。そんなこといまさら言ったってさ、何にも変わらないし、そもそもお前が謝るのは違うよ」
「だが、俺の下につくのはもう嫌だろう。左軍に行けば彭門下生も多くいる。そちらのほうが護ってもらえる」
軍舎にとどまるというなら彭軍師の教えを受けたものたちの中にいたほうが安全だ。それに斎家の人間の下に就くというのは、やはり心情的にもいいものでないだろう。
そう思うのに湲が自分の目の届かないところに行ってしまうことを考えると、苛立ちに似た落ち着かない気分になった。
「それは、いいや。お前のそういう律義なところは嫌いじゃないしさ、嫌じゃなけりゃ補佐官でいさせてよ」
ようやく振り向いた湲は、朝露に濡れる緋色の牡丹のように艶やかな笑みを浮かべる。
やはりこの容貌は軍舎においておくには危うすぎるのではないか。
「あ、ああ。俺に、異存はない」
おもわず鼓動を速めてしまった鴻羽はぎこちなく返し、自分の顔が紅潮していないか気になって仕方なくなった。
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